2019年04月18日

3961話 モルス街の悪魔


「十五番街はどちらでしょうか」
「番地で聞かれても、よく分かりません」
「じゃ、モルス街では」
「ああ、猿街ですね。この運河の先です。橋がありますので、そこを渡らず右へ入れば、そこがモルス街です」
「有り難うございます」
「貧民街ですよ。あなたのような紳士が行くような所じゃない」
「少し頼まれものをしたもので」
「気をつけて下さい。治安が悪いので」
「はい、有り難うございます」
 老紳士は運河沿いの道を進んだ。
 橋はあるが朽ちている。途中で骨格だけになり、これでは渡れない。老紳士は渡る必要がないので、問題はないが、橋がなければ不便だろう。見たところ代わりになるような橋は近くにはない。遠くに橋が見えるが、それは鉄橋。老紳士はその橋を列車で渡り、ここに来ている。
 十五番街がある場所は運河を渡ったこのあたりの番地で、そこは港町。
 十五番街、旧名モルス街、通称猿街。
 モルス街はこの港町にある住宅地だが、安っぽいアパートがずらりと並ぶ貧民窟で、猿が人を殺したことで有名になった。
 物騒な街で、殺人事件があってもおかしくないが、その犯人が猿だったことで、世間を驚かせた。
 老紳士はその話とは関係しない。頼まれ仕事は猿ではなく、悪魔。
 壊れている橋を左に、運河道から右へ入ると既にモルス街。五階や六階の高さのアパートが並び、通りがまるで渓谷。木々が生い茂る代わりに、洗濯物がなびいている。
 しかし、港町の景気が悪いらしく、住む人々は年々減っているようだ。
 波止場のすぐ近くまで鉄道が来ている。そこが港町一番街。貨物駅に近い。
 そこから十五番街まではかなり遠く、終点の港まで行くより、運河を渡ったところの駅から歩いた方が早いと教えられたので、老紳士はそれに従っている。
 老紳士は五階建てのアパートの階段を上る。最上階の部屋に悪魔が出るためだ。エレベーターがあるのだが故障しているらしい。それで上の階ほど借りる人が減り、残っているのは悪魔のいる五階の部屋。ここは広いので家賃も高い。
 その部屋のドアを開けるが、これが重い。グワーンと鉄の扉が開き、猿が出てきた。
 猿のような婆さんが、この部屋の主で、依頼者。
 この婆さんが悪魔ではないかと老紳士は最初感じたのだが、そんなはずはない。
 しかし、モルス街の殺人事件の犯人が猿というイメージが付いてまわるのか、悪魔とは猿のことではないかと、既に推理している。
 ただ、この老紳士、エクソシストなので、探偵とは流儀が違う。
 婆さんは色々と怖い話を始めたが、猿がウロウロしていると解釈すれば、全て済むようだ。
 この最上階の部屋には屋根部屋が付くが、そこは物置に近い。
 悪魔がいるとすればそこだろう。
 老紳士は細くて狭い階段を上り、屋根部屋に入るが、意外と明るい。明かり窓から下を見下ろすと、遠くに海が見える。古びた貨物船が浮かんでいる。
 明かり窓はロックもカギもない。猿なら窓を開けて中に入れるだろう。
 婆さんも上がってきたので、そこでお祓いをする。
「これで悪魔は何処かへ行きますやろか」
「はい、大丈夫です。そのかわり、窓のロックを忘れないようにしましょう」
「はい」
 悪魔払いは、それで終わった。
 しかし、その後、また婆さんから手紙が来ており、悪魔の赤ちゃんがいるとの知らせ。
 きっと猿に子が生まれたのだろう。あれだけ言ったのに窓のロックを忘れたようだ。
 
   了

posted by 川崎ゆきお at 11:44| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月17日

3960話 選択


 一つのことを思うと、複数のものも一緒に起ち上がる。最低一つ。場合によっては三つか四つ。密度が高いのは一つ。たとえばライバル。自分以外は全てライバルだとすれば、密度は薄くなる。
 これは事柄によって浮かび上がるものが違う。箸の一つでも太いか細いか軽いか重いか滑り具合はどうか、長さはどうかで箸売り場で複数の箸から選ぶことになる。割り箸ならそう変わらないはずだが、竹を使ったものは滑りやすいが丈夫だとか、色々と選択肢がある。
 選択の自由がなくても、もし自由になれば、違う選択もできたはず。
 選択のやり直しもある。綺麗に洗えていなかったので、洗濯しなおすわけではないが、似ていなくはない。選択を汚してしまったとか、選択眼が曇ったとか、選択そのものに問題があったりする。
 無選択、これが好ましいのは、選択のためにあれやこれやと考えなくてもいいことだろう。だが、選択の過程で出てくる事実関係、よりリアルな現実が浮かび上がったりするので、決して無駄ではない。
 三択と二択は、試験の解答方法ではないが、どれか選べばいい。二択は二つの中から選ぶ。一択は競合はない。選べるものが一つしかないのだから、選択の必要がない。だから一択とは言わないし、そんな言葉もない。
 言葉を選ぶ。これも選択だろう。選べるほど言葉を多く知っていなければいけないが、同じ言葉でも表情が加わると変わってくる。
 二択でどちらを選ぶかは自由で、三択でもどれを選ぶのかが自由な場合、かえって困ることがある。どれを選んでいいのかが分からないときだ。選ぶ前まではただの想像や印象、またそれにまつわる一寸したイメージだろう。実際に選んで、そのあとにならないと、本当のことは出てこない。
 こんなはずはなかったのに、とか、あちらを選んでおけばよかったのではないかと、選択のせいにする。しかし、どちらを選んでいたとしても、同じことを言っていたりする。
 選択ミスは本人の責任だが、はっきりとした根拠もないのに選ぶことがある。責任の取れる行動をしたいのだが、その目安が見えない。
 ただ、その人が今、その人として生きているのは、もの凄い選択肢の中を阿弥陀籤を引くように選択し続けた結果だ。それで少なくても生きているだけでも大当たりだったことになる。阿弥陀様のおかげではないが。
 選択はやり直せることもある。もう一度分岐点が出てきて、そのとき、路線変更ができたりする。以前捨てた路線の先の駅と交差し、そこで乗り換えることもできそうだ。
 紆余曲折。山あり谷ありで、選択の間違いや正解も、関係しないのかもしれない。
 選択に間違うと寄り道になる。途中で気付くのだが、この寄り道が、あとで意味を持つかもしれない。
 何がよかったのかは、月日が過ぎてからでないと実際には分からない。
 
   了



posted by 川崎ゆきお at 12:08| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月16日

3959話 里の春


 市街地の今と今とがせめぎ合うような道路沿いを歩いていると、もう少し穏やかでゆったりとした風景が見たくなる。
 黒田は別に目的もないままバスに乗った。電鉄のバスなので、市内から出て、駅と駅を繋ぐのだろう。鉄道が事故などのとき、その区間をバスが走ったりする。
 だが黒田は駅前から適当なバスに乗った。色々と行き先があるのだが、三つの乗り場のうち、一番奥を選んだ。行き先は書かれているが、見ていない。それよりもバスが既に来ているので、今ならすぐに乗れる。
 乗れば適当なバス停で降りればいい。
 その適当な場所はしばらくして現れた。橋を渡るとき、土手が桜並木になっていた。人も歩いている。花見だろう。それで、橋を渡ったところに、いい具合にバス停がある。黒田は下りることを知らせるボタンを急いで押した。
 そして下りて引き返し、その川沿いを歩いた。何人も歩いており、これは近所の人だろう。服装で分かる。犬の散歩人もいる。
 川がこんなところにあるのは知らなかった。大きな川なら知っているが、それではない。排水溝の大きなものかもしれない。運河だ。
 桜が咲いているのは僅かな距離で、あっという間に終わるのだが、その先は柳が柔らかな色を見せているので、それも悪くないと思い、先へと進んだ。川や池の土手に柳を植えるのは、盛り土が崩れないようにするためだと聞いた覚えがある。
 さらに進むと喧噪な市街地から住宅地になり、建物も低くなっていくが、たまにマンションが聳えている。しかし、それほど高くはない。
 堤防脇にはその前の家の人が育てたような草花が咲いている。これもまた花見だ。
 さらに奥へ進むと、少しだけ古い家が多くなり、土手道に洗濯物が干されている。かなりはみ出している。
 こんなところがあったのかと思うほど、いい感じの散歩道。ただ、もう歩いている人は黒田一人。他の人は桜が切れたところで戻ったようだ。
 さらに進むと運河は狭くなり、浅くなる。その運河へ流れ込んでいる川がある。黒田はそちらの方へ行ってみる。川岸に雑草が伸び放題で、多少は自然を残している。コンクリートで固められても、土砂などが溜まり、そこに草が生えるのだろう。
 さらに進むと川はさらに細くなり、飛び越えられるほど。壊れそうな木の橋が架かっている。
 これも一興と渡ってみる。土手も低くなり、逆に広くなる。
 さらに進むと未舗装となり、自転車のタイヤ跡などがそのまま残っている。この前の雨でついたのだろう。
 周囲が暗くなる。これは大きい目の木が生い茂っているため。川沿いの家の庭木だろうか。結構太くて高い。桜もたまに見かけるが、種類が違うのか、いやに紅い。
 樹木に囲まれてしまったのか、薄暗いが、そのトンネルを抜けると青空が拡がり、田畑が拡がっている。田園風景だ。
「ありえない」
 バスで少し遠くまで来たが、まだ市内だ。こんな場所はありえない。
 だだっ広い場所。遠くに山が見える。もの凄く広い土地。というより、平野。
 その川は畦川になってしまった。しかし春の小川とはこのことで、土筆が頭を出していそう。
 田植えの用意なのか、野菜を育ていた畝を平らにしている。
 農家が見えてきたのだが、その前に巨大な水車が目に入る。当然農家も見えているのだが、藁葺き屋根が多い。丘沿いに幟が揚がっている。赤い鳥居が見える。
「ありえない」
 しかし、黒田はこのありえないようなのどかな風景を見たかったのだろう。
 里の春。春の里。
 しかし、見たかったものがそこにあるのだが、自分が今どういう立場にいるのかが問題。
 運河まではよかった。そこに合流している小川が虚だろう。
 
   了



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2019年04月15日

3958話 楽しみにしていること


 一寸した気がかりがあって田治見は落ち着かない。大したことでなく日常範囲内。それがこじれて大変なことになる可能性は少ないが、どう転ぶかはやってみないと分からない。ほぼ大丈夫なのだが、安心しきれない。それらの多くは人と絡んでいる。一寸した交渉事だが、毎回順調に行っている。しかし、そうではないときもある。そちらの方が珍しいのだが、それでも大したことにはならない。
 だが、思っていることと違う反応が返ってくる可能性は毎回ある。それですんなり行かないわけではないが、少しだけ面倒な手間が加わる。少しなので大きな影響はないが。
 そういうのが済むまで、楽しみごとは休んでいる。これは好きなことで、しなくてもいいことだが、趣味のようなもの。ここでは好きなだけ我が儘が通る。そして楽しい。だが、面倒ごとが起こっていないときに限る。そんなことをしている場合ではないし、そのタイミングでは楽しめない。心ゆくまで。
 さて、その気がかりな用件だが、簡単に済んだ。前回と同じで、すんなりといった。ずっとその状態が続いているので、もう気にする必要はないのだろう。
 これで気がかりがなくなったので、楽しみごとに没頭しようとしたのだが、その気にならない。もう手放しで楽しめるのだが、やりたいという気持ちが静まっている。これは何だろう。
 あれが終われば、これをして楽しもうと、ずっと待っている間の方が、その気満々だった。
 ということは、そんな呑気なことをしている場合かというようなときにやった方がいいのかもしれない。
 楽しいことを早くやりたいと望んでいたときに、さっとやればどうなるか。これは、気がかりがあるので、安心してできないはず。だから、終わるまで待つ。それが今までの田治見のパターン。そして終わってからは急に気が静まるのも同じ。
 結局気がかりが消えただけで、ほっとし。もうそれだけでも満足。そのことが楽しいのだろうか。だから、そのあと楽しいことをしなくても、もう十分楽しいのかもしれない。
 人は気の生き物で、気持ちの問題が大きい。その気になるタイミングも状況次第。
 気持ちは自然に発生する。人格のようなものも、結構曖昧で揺れているものかもしれない。
 
   了
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2019年04月14日

3957話 説明不足


 ある方向へ向かい続け、針の穴に糸を通すような細かいことをしていると、逆方向、反対側へ向かいたくなる。それは狙いとは逆。正反対のもの。
 これは一種の解放になる。拘ってきたことを解き放せ、自由になる。意外とそれが初期の目的にかなっていたりすることもある。あまりにも固執、凝り固まり、一点に向かって進んでいたためだろう。逆に本質を見失う。ただ、それをやっているときは、本質に向かって丁寧にやっているのだろう。
 初期の頃は自由だった。どちらへ向かってもかまわない。本人次第。望む方向があれば、そちらへ向かえる。それが途中で行き止まりになっても、行けるところまで行く。その過程で得られるものも多いだろう。それで初期の頃よりも詳しくなる。
 そして本質に迫るのだが、本質はさらに逃げる。
「じゃ、今までやってきたことを捨てて、元の木阿弥に戻ったのですか」
「あ、はい」
「それはもったいない。今まで積み重ねたことを捨て去ることになるのに」
「その方が軽くてなって気持ちがいいのです」
「しかし、もったいない。振り出しに戻るわけですから、今までのことが全て無駄になりますよ」
「そうですねえ。無駄でした。しかし、それで見えてくる世界があるのです。それが見えたのです」
「何を」
「さあ、何だったのでしょうか。そのときは覚えていたのですが、忘れてしまいました」
「なんと曖昧な」
「ふと気付いたのでしょうねえ」
「ほう」
「何に気付いたのかは分かりませんが」
「分からないはずはないでしょ」
「上手く説明できません。気付いたというより感じたのです。それは一瞬でしたが」
「要するに気が変わったのですね」
「まあ、一般にはそう言われていますが、これがまた気持ちがいい。すっきりしました」
「ほう。何かよく分かりませんが、たまにいますねえ。その道でのエリートの人が、ある日突然転職して、ぜんぜん違うことをやり始めるとか」
「それとはまた違うのです。やっていることは同じです」
「じゃ、他へ行くわけじゃないと」
「はい、この道を進みますが、もっと自由にやりたいのです」
「よく分かりませんが、まあ、落伍したということですね」
「はい」
「期待していたのですが、残念です」
「はい」
 人の気持ちは変わる。しかし、それを説明するのは難しい。
 
   了


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2019年04月13日

3956話 人生散歩論


 今日は雨。時田は散歩を日課にしている。日課が散歩のようなもの。ずっと散歩中かもしれない。しかし、雨の日は外に出にくい。そんなときでも出るには出る。日課のためだ。
 雨で散歩に水を差すのだが、傘を差せばそれなりに凌げる。だが、それでも濡れる。外に出ていないときならいくら降ってもかまわない。だが、出るときは降っていない方がいい。その確率が結構ある。一日中降っているわけではなく、雨も息をつく。俄雨ならすぐにやむので、これは分かりやすい。
 その日は降っているのだが、小雨。これは同じ雨でも助かる。それだけ濡れにくい。それで外に出る時間になったので、出てみる。部屋にいてもやることがない。ここは外に出る時間で、その順番を崩したくない。それに本来なら外にいる時間に部屋にいると落ち着かない。
 幸い雨は小雨で、やみ始めているようだ。自分が外に出ているときだけ雨は降っていない方がいい。これは偶然で決まるので、何ともならないが。
 散歩はいつもの道を歩き、店屋が並んでいる通りを流しながら、公園のあるところまで進み、そこから違う道で戻ってくる。最近はその途中にパン屋があり、そこで菓子パンを買うのが日課。手作りのパン屋で、昼をかなり回った時間帯なので、アンフライパンが切れている可能性もある。それがないときはふわふわのドーナツを買う。昔は硬い目のドーナツが好きだったのだが、今は柔らかい方がいい。パン屋のドーナツは柔らかい。そして砂糖が細かいタイプ。たまにきな粉パンを買う。時田はそれをおはぎパンと呼んでいる。当然、そんなことは口にしない。
 日課だが、同じように見ていても変化がある。アンフライパンが売り切れておれば、同じにならない。ただ、パン屋へ寄るのは同じ。その中での変化は当然ある。
 中年を少し越えた夫婦がやっており、この時間、レジを交代するのか、親父がいるときがある。奥さんとは違い人慣れして愛想がよくない。作るのが役目で売る役目ではないような顔付きで、無愛想。しかし実際はそれに徹しているのだろう。そちらの方が楽なためかもしれない。
 この店の名物は菓子パンではなく、食パン。何の変哲もない食パンだが、そういうパンほど違いが出る。そのまま囓っても美味しい。だから結構離れたところにある高そうな喫茶店が、それを使っているようだ。トーストではなく、サンドイッチで差が出るらしい。こういうのは客の会話から得た情報。
 時田の散歩とは頭の中の散歩。足だけの散歩ではなく、頭の中でも練り歩いている。ストーリーのある世界だ。それは歴史散歩などのような大層なものではなく、町内の話。だが、この近くに正体が分からない石を祭った祠がある。それが歴史上重大な話と関わるわけではないが、寺社にも歴史がある。しかし祠の中の石になると、話が細かくなる。ただの石だ。しかし、長細く三角に近い。置いたとき、しっかりと左右対称の三角になり、収まりがいい。
 これは昔、占い師が言い当てた石らしい。古墳の堀の底に三角様が沈んでおられると予言した。占い師が底に沈めたのだろう。仕込んだのだ。
 村人もそれは分かっているのだが、そういった縁起が欲しかった。その三角様は今も祠の中にある。村の神社までは遠い。だから、何か祠を置きたかったようだ。
 しかし、それは言い伝えで、その話そのものが嘘かもしれないが。
 時田の散歩は、そういった頭の中の散歩が含まれる。
 そして菓子パンを買い、戻るのだが、その部屋そのものも散歩の途中とも言える。
 今のところ偶然が続き、同じ部屋に戻って来るのだが、生まれたときから、そこにいるわけではない。偶然、今は、そこをねぐらにしているだけ。
 人生散歩論。これは時田が書きかけの原稿だ。論文だが余計な道草をするため、論は散漫で、とりとめない。きっちりとした論文より、軽い散文の方が本当は似合っているのだろう。
 寄り道、道草、余計なこと。等々が多すぎる。それらは個人的すぎ、時田だけが思っているような感覚が多すぎる。
 散策には目的がある。散歩にはそれがない。
 
   了

 
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2019年04月12日

3955話 花見


「花見に行きましたか」
「またですか」
「そうですか」
「花見の話はいいので、他のことでお願いします」
「昨日晴れていたので桜が青空で映えましたねえ。補色の関係ですよ。それも逆光の眩しい桜。これはなかなか見られるものじゃないですよ。毎年咲きますがね。いいタイミングで桜を見るのは滅多にない」
「毎日花見に行ってるでしょ」
「昨日の花見と今日の花見とでは違う。当然でしょ。咲き方が違う。今は満開。まだこれから咲こうとしているのもありますが、散り始めているのもあります。満開といっても全部の桜が満開じゃない。一本の桜でも散りかけもあれば、これから今まさに咲こうとしているのもある。決して同じじゃない」
「そういう桜のしつこい話はそれぐらいにして、どうです。釣りはどうなりました」
「釣り堀じゃ駄目だねえ。風情がない。やはり渓流釣り。そこに山桜などが咲いていると最高なんですがね。それは植えたものじゃない。まあ、誰かが苗を植えた可能性もありますがね。花見の名所でもない場所に、わざわざ植える人がいるとは思えませんが」
「また、桜ですか」
「で、あなた、まだ行ってないのですか」
「気が向けば行こうと思っていますが、あの賑わいがいやでしてねえ」
「じゃ、山桜ですなあ。これは遠くから見ているだけでもいい。そこだけ桜色。実際には白っぽいのですがね」
「花見はいいのですが、なかなかその気になれなくてね」
「はいはい、花見にはそういう精神が必要なのです」
「精神?」
「花と接する精神ですよ」
「そうですねえ。気が乗らなければ、行く気なんて起こらないし」
「それとね。花から見られているわけです」
「え」
「桜にとっては人見なのです」
「花見じゃなく、人見」
「そうですよ。多くの桜から見られているのですよ」
「視線が合いますか」
「合いません」
「そうでしょ。眼光の鋭い桜に見詰められたら怖いですよ」
「しかしです。よく見られている。つまり、人から多く見られている桜は、見られ癖が付くのです」
「見られ癖」
「それで、桜も見られていることが分かりますしね。見られ慣れしてくるわけです。よくいえば人に懐いた桜。そういう桜が、逆に人を見る桜です」
「人慣れした桜ですか」
「それは植物一般に言えることですよ。もっと言えば石や岩でも。竹でもね」
「板の節穴が目のようですね」
「それもあるかもしれません。広げれば物にもあります」
「妙な話ですねえ」
「だから、ただの花見ですが、花から見られているので、それなりの服装をして行きます。見下されないようにね」
「じゃ、花に見られに行くわけですか」
「最近はそれです。私が見るのではなく、花が見ている」
「そこまで行きますか」
「はい」
「行き過ぎでしょ」
「まあね」
 
   了



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2019年04月11日

3954話 夢の入学式


「これは昨夜見た夢なので、そのつもりで聞いて下さないな」
「はい」
「入学式に行ってまいりました」
「お孫さんの」
「いや、私です」
「高齢の方が入学したとか、卒業したとかのニュース、たまに見ますね」
「さあ、私は何歳なのかは分かりませんが、おそらく今の年でしょうなあ」
「あなたの入学式ですか」
「そうです」
「何処の」
「それがよく分からないのです。何処かで見たような、見なかったようなと、それは曖昧なのですが、校門に日の丸が出ています。しかし、静か。おそらく入学式だけしかその日はしていないのでしょう。桜も咲いています。これがまた古そうな幹でしてね。姥桜でしょうか」
「はい」
「講堂があります。今でいえば体育館のようなもの。まあ、屋内で全校生徒が集まれる場所はここでしょ。窮屈ですがね。ところが、その講堂、新入生が少ないのか、数人しかいません。壇上に先生らしき人がいますが、一人です。椅子に座っていますが、ピアノの近くでしてね。そこに机がありまして、そこで何か書きものでもしているようです」
「ピアノは」
「ピアノは、ピアノだけで、その横です。ピアノは正面から見ると斜め横を向いています。その並びに机があり、先生らしき人が座っています」
「はい」
「私は先に来ている三人の後ろに座りました。床は板です。これで時代が分かりますねえ」
「はい」
「椅子はありません。だから先の三人は適当に座っています。正座ではないことは確かです。まあ、運動場で座っているのと同じ姿勢でしょうが、一人は足を投げ出しています」
「それは入学式ですか」
「はい、講堂の扉に入学式の飾りがありました。それに日時も合っています」
「はい」
 壇上にいる先生が、何か紙切れを持って下りてきました。小さな階段があるのですが、飛び降りたようです。それで膝が少し痛いのか、足を引き摺りながら、名前を呼びながら紙を配っています。先の三人、そして私も、その紙をもらいました。無言です。読むとクラス名が書かれていました」
「はい」
「私達は教室へ向かいましたが、何せ初めての校舎。ほとんどが教室でしょうが、一年生の教室を探さないといけません。それで、講堂を出て渡り廊下を通り、校舎に入りました。取っ付きの教室は職員室でした。その先にクラス名が書かれたものがぶら下がっているので、そちらへ向かいました。一年と書かれていたので、ここですね。取っ付きにあるので探しやすい。
「はい」
「それで私は三組でした。先の三人のうち一人は一組のようで、そこで消えました。私は一つ置いて三組なので、そこに入りました。あとの二人は四組とか五組でしょう。そのまま進んで行きました」
「はい」
「教室に入ると、誰もいません」
「一クラス一人ですか」
「そうかもしれません。それで、適当なところに座り、じっとしていました。でも誰も来ません。担任の先生が来ると思い、待っていたのですが」
「それでどうされました」
「授業は明日からです。だから今日は帰ってもいいのかもしれません。それに講堂でクラス分けの紙をもらいましたが、それが入学式だったのかもしれません。それで終わりです」
「はあ」
「それで、教室を出ますと、先の三人も出てきたようです。誰も来ないのですからね」
「はい」
「それだけです」
「え」
「これが夢の全てです」
「はあ」
「一言も発していません」
「そうですねえ」
「セルフサービスの学校なのかもしれません」
「夢は本当にそこまでなのですか」
「もう少しあるのですがね。内容に変わりはありません」
「聞かせて下さい」
「教室から出て渡り廊下ではなく、直接運動場を横切って校門へ向かいました。もう講堂には用がありませんからね。そして開け放たれた校門もそのままで、日の丸もそのままです。それを見ながら、外に出ました」
「何処に」
「え」
「校門の外は何処です」
「さあ」
「分からないと」
「そうですなあ。見たこともない場所です」
「その学校。小学校じゃないでしょ。そんなに幼くはない。だから中学校」
「そうだと思います。校舎は木造でした」
「それであなたは中学生」
「いえ、今の年だと思います」
「先の三人は」
「同じ世代の年寄りでした」
「だから、普通の入学式にはならなかったのでしょう」
「はあ」
「そこへ入ってはいけないし、そんな用件もない。しかし来てしまったので、仕方なく、入学式としての最低限のことだけで終わったのです」
「最低限とは」
「クラス分けです」
「ああ。そうだったのですか」
「しかし、それらは全て夢の話でしょ」
「そうです」
「夢は荒唐無稽、しかし、何か意味するところを突き刺しているかもしれませんねえ」
「ああ、はい」
 
   了



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2019年04月10日

3953話 役者が違う


 全てが順調にいっているとき、須崎が姿を消した。原因が分からない。色々と揉めているグループだが、須崎が入ってから、それが解決した。上手く仕切ったのだ。新人だが、年嵩。リーダーとしての目配りがきき、言いたいことは結構言っていた。仲間内では禁句になっていることでも須崎なら言えた。これは何が禁句なのかを知らないため。他のメンバーはそれに期待したのだろう。
 それで文句だけは一人前の主要メンバーを黙らせた。長く居座っているだけで大した能力はなく、それが妨げになっていた。これを退治するのが宿願だった。内紛だ。須崎を盛り立て、リーダー格に持ち上げたのはそのため。
 それで揉めていたグループが普通になった。その瞬間、須崎が消えた。
 そのままなら須崎が完全に親玉になっていただろう。仲間もそれを歓迎していた。しかし追い出した連中の残党がまだ残っている。これがいずれ反撃してくるだろう。それを恐れて須崎が消えたわけではない。
 丸く収まったあとのことをよく知っている。しゃしゃり出て余計なことをしてしまった。要するに激動期にしか用がなく、平和になれば邪魔になるパターン。須崎がそのタイプ。
 英雄は去るもの。手柄を立てたものは去るに限る。引き際を心得ているのだが、消えてしまったのだから、引きすぎだ。
 須崎がいなくなっても平穏は続いたが、やがて須崎がやっつけた残党が反撃しはじめた。
 それは須崎が入ったときと状況は同じ。旧須崎派がのさばりすぎたのだ。既に須崎はいないので、まとめ役もいない。だから、なあなあでやっていたことになる。この、なあなあは暗黙の了解の世界。
 旧須崎派は須崎を探し出し、復帰を願った。しかし残党にはそれほど力はない。ただ、平穏ではなくなっている。
 同じ頃、その残党が須崎を訪ねた。
「復帰して頂きたい」
 しかし、須崎によって潰された連中の残党なのだ。
 これで須崎の取り合いになる。
 須崎としては面白い展開になったので、戻ることにした。
 そして須崎は旧須崎派も残党も追放してしまった。
 本来の仕事をせず、文句ばかり言い合い、それで共同戦線を張り、やり合ってばかりいたためだろう。
 それでメンバーがほとんど変わってしまった。
 須崎はそれが最初からの狙いだったのかどうかは分からない。
 
   了



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2019年04月09日

3952話 春が来た


 春の陽気に誘われて、固くなっていた頭も柔らかくなるのか、頭突きができないという話ではなく、考え方が柔軟になり、閉ざしていた禁じ手のようなものに、また挑戦したくなる。
 春になると心機一転、新たなことにチャレンジしている滝田だが、春の暖かさで次第に熱だれし、暑苦しくなる頃には終わっていた。それは発作のようなもので、長続きはしないのだが、これまでにはないことをやりたがる癖がある。だが、これは春先ならよくあること。
 そして暑くなってきた初夏、そこでバテてしまい、そのあと来る鬱陶しい雨季で気も滅入り、もう何もしたくない状態となり、閉じ籠もっている間に夏が来て、その暑さで頭が朦朧とし、もう何も考えなくなる。
 ということは滝田は季節の影響を諸に受けて動いているようなもの。つまり何処の誰でもない自然現象、季節の移り変わりが最も強い影響を滝田に与えていることになる。
 朦朧とした頭も夏が終わるとクールダウンし、秋の気候の良さから、天高く馬でそこまで駆け上れそうなほどの覇気を受けるのだが、その年はもう残り少ない。涼しさが寒さに変わる頃、最後の散り花のような紅葉を見てしまうと、これで今年も終わると悟り、既にここで終わる。
 では何を悟ったのだろう。
 毎年毎年悟のだが、次の年に活かせない。忘年会で全て忘れてしまうわけではないが、綺麗さっぱり忘れている。そして春先になると、またあらぬ事をやり始める。
 あらぬからあるようにしたいのだろう。やってはいけないことではないが、やってもしくじるので、それを戒めるため、あらぬ事として除外。それが春になると解ける。気温が高い目になるため、雪解けと同じ。
 そして巡り巡って、この春、滝田は懲りずに何かを始めようとしている。この端は何処にあるのだろう。何か理由があるはず。望みがあるため、やるはず。だからその発端が分かればいい。何処から発しているのかと。
 しかし、そんな難しいことではなさそうで、季候がよくなったので、何かしたい程度のようだ。
 だが、そういう気持ちがあるうちは、まだ大丈夫だと滝田は言い聞かす。途中で終わるにしても、そういうことができる状況を逆に愛でるべきだろう。
 
   了



posted by 川崎ゆきお at 11:36| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする