2020年07月10日

3807話 元気


「天気がよくないですなあ」
「雨ですからね」
「これは何か水を差します」
「調子の良いときに、水を差される感じですか」
「そうです。晴れて欲しいです。あなたもそう思いませんか」
「いや、私は常に天気が悪い」
「あなたの天気?」
「元気がありません」
「それはいけない。しかし、元気ばかりだと疲れて、元気でなくなりますからね。それにそんなに元気でやるようなことも多くはないでしょ」
「そういわれると、嬉しいです。何か元気でないといけなそうな風潮がありましてね」
「いつですか」
「ずっと前でした。忘れました。まあ、私の中ではずっと雨が降っています。なかなか晴れない」
「たまに、気晴らしすればいいのです」
「気晴らしねえ」
「一瞬でも気が晴れれば、すっきりしますよ。それこそ元気になります。本当は事態は何も変わっていなくてもね」
「そういうコツのようなもの、何度かやりましたが、元気がいけない」
「いけませんか」
「元気というものがいけない」
「はあ」
「私は元気にこだわりすぎた。元気でないといけないと思い込んでいたのです」
「それはいけない。元気なんて、そうそう続くものじゃないですからね」
「そうなんです。そこが落とし穴。それに最近気付いて」
「遅いですねえ」
「いえいえ」
「それで、気付いてどうされたのですか」
「元気でないほうがいい」
「それもまた、無理に元気をなくす必要はないでしょ。自然な流れで、元気になったり、ならなかったりする程度でしょ」
「おお、私より、元気に詳しい」
「誰でも知っていることでしょ」
「そうでしたか」
「まあ、元気にもレベルがありましてね。まずまず暮らしているのなら、それも元気のうちです。元気がないとは言い切れない程度」
「普通の状態はどうなんです」
「まあ、元気でしょ。元々のものが元気」
「不元気じゃなければ元気だということですね」
「普通に普段通りやってられれば、これで元気だと言えるのです」
「そのレベル、いいですねえ。私はどうなんでしょう。元気ではありません。ずっと頭の中は雨が降っています」
「どんな」
「ああ、湿気ていて、ジメジメしていて、鬱陶しくて」
「悪くないじゃありませんか」
「そうなんですか」
「一種の風情でしょ」
「そう来ますか」
「また、それが日常ですよ。そんな毎日毎日晴れ晴れしい日々は続きませんよ。たまに晴れる程度」
「私もたまに晴れます」
「そうでしょ、適当に気晴らしをやってるでしょ」
「無茶苦茶寝ます。全て無視して。起きたとき、気持ちがいいです。晴れ晴れします。寝てやったりと」
「してやったりという感じですね」
「そうです」
「元気なときに、長く寝てしまうと、これはもったいないでしょ。不覚を取った感じでしょ。長寝を後悔したりとかね」
「あなたはいいことをいう」
「ものはいいよう。何とでもなりますよ」
「そうなんですね」
 
   了







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2020年07月09日

3806話 魔夏


 理性というのは意識しないと出せないようだ。出せない、出ない。あまり理性的な言い方ではないが出物腫れ物ところかまわず。知恵も出すし、悪知恵も出す。
 しかし、意識しなくても、習慣化すると、常に理性的な態度が前面に出る。これは盾だ。前衛だ。まあ、それは常識的判断で、決して悪くはない。それどころか好ましい。そこに理性があるのかどうかよりも理性的な人だと思われるが、そんな概略まで思う人は少ないだろう。理性的な性格という程度で、性格の一部のように受け取ってもいい。
 理性的態度は習慣で、意識しなくてもやっていることもあるが、習慣とは日常範囲内。いつもの暮らしや、いつもの仕事や、ある程度習慣や社会的慣習となっていることで、分かっていることが多い。だから日常外というか、普段にはないことに遭遇すると、理性的習慣の埒外、圏外に出てしまうのだろうか。そこで改めて理性を使うことになるが、そんなものを使っている間にやれてしまったりしそうだ。
 たとえば一刻も早く逃げないといけないのに、冷静に判断するため、情報をもっと集めるとかだ。より知的に、より優れた理性的判断ということになるが、考えている場合ではなかったりする。ここは理性云々よりも動物的な危機感で、躊躇なく逃げるのがいい。理性よりも動物的何かの方が、早く正確だったりする。当然事柄にもよる。
 さて、夏。急に話が変わるが、杉並という男がいる。そんな名の人間ならいくらでもいるだろう。女性でもいい。
 その杉並、梅雨が明けるのを恐れている。
 しかし、杉並は常識的で、理性的な人間なのに、梅雨明けを何故恐れるのか。何かの事情があるはずで、それは梅雨時の雨が好きなわけではない。しかし、晴れた日が嫌いなわけでもない。寒い時期の小春日和など、日向ぼっこをするほどで、太陽が怖い種族でもない。
 実は夏の陽射しが怖い。そのため、梅雨が明けてからの夏が怖いのだ。その兆しは既に見えており、杉並は、それを見ると、ドキッとし、さっと目を逸らす。
 何を見たのか。
 雲の隙間から見える真夏の青空。
 それを杉並は魔夏と呼んでいる。
 暑いからいやなのではない。先ほどからいっている理性が効かなくなるためだ。真夏の暑さでぼんやりとすることはあるが、それは毎年あること。よくあること。しかし、杉並にとり、理性が狂うらしい。年中理性的な杉並だが、この真夏だけは違う。だから、できるだけこの時期は大人しくしている。
 理性は暑さに弱い。特に杉並は弱いタイプ。しかし冬場の理性度は非常に高いが。
 梅雨が明けそうな時期、雲の隙間から見え隠れしている魔夏。
 今年もまた夏がやってくる。魔夏がやってくると杉並は呟いた。
 
   了

 

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2020年07月08日

3805話 箱抜け


「今日も雨ですねえ」
「梅雨なのでね」
「鬱陶しいですねえ」
「こういう日は適当に済ませよう」
「そうですね。簡単に」
「テンションが上がらんのでね」
「同感です」
「できれば、早く終えて、今日はそれぐらいで、終わりにしよう」
「できるだけ、簡単にやってしまいます」
「適当に片付けてくれ」
「はい」
「しかし田村君だがねえ、あの男は簡単にはいかん、適当にはいかん」
「真面目ですからねえ」
「早くやってしまわないよう言ってきてくれないかな」
「そうですねえ」
 その田村はマイペースな人で、仕事もマイペース。そのペースは安定しており、雨で鬱陶しいから息を抜こうというようなことはない。
「落とすのですか。ペースを」
「上田さんが言ってる」
「先輩が」
「じゃ、ゆっくり目でね」
「しかし、それじゃ遅れますよ」
「遅れてもいいの。そんなに問題になるようなことじゃない。本当はもっと余裕があるんだ。だから急ぐ必要はないとか」
「でも、ペースが狂いますので、いつも通りやります」
「あ、そう」
 田村が言うことを聞かないということを聞いた先輩の上田は「さもありなん」と言っただけで、それ以上強要しなかった。何度もそういうことがあったのだろう。テコでも動くようなやつではないと分かっていたためだ。試しただけだろう。
 ところが、田村の姿が消えている。
 マイペースで、仕事をしているはずなのだが、どこを探してもいない。
 休みの時間以外は外出しないはず。
 田村は仕切りの中でいつもポツンといた。足は見えているし、立てば部屋を見通せる程度の仕切り。その中に田村がいない。
 トイレへ行ったにしては長い。
 そして一時間ほど経過した。
 だが、田村は戻ってこない。
 仕切り内のデスクを覗くと、仕事は終わっていないようで、途中だ。
「先輩、これはいったいどういうことでしょうねえ」
 上田にも当然分からない。無断で退社するような人間ではない。
 上田の先輩に玄米パン男がいる。昼はいつも玄米パンを食べている。
 隅だが窓際にデスクがあり、仙人部屋と言われている。こういう人は決まって丸っこい眼鏡をかけている。そしてこの人もマイペーで、田村と同類だ。
 上田は彼に聞いてみた。
「箱抜けだよ」
「あの仕切り部屋のことですか」
 そういう仕切り部屋は複数あり、一人でコツコツやる仕事に向いているらしい。それと、入れるのは優秀な者に限られている。だが、そこを使うかどうかは本人次第。
「箱抜けとはいったい」
「魔術だよ」
「それじゃタネがあるのですね」
「ない」
「じゃ、魔法ですか」
「成功したようだ」
「はあ」
「赤飯を炊こう」
「しかし、いったいどうやって」
「細かい話はいい。田村が箱抜けに成功した。分かっているのはそれだけじゃ。素直に祝福しよう」
「そういう話でいいのですか」
「まあな」
 
   了





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2020年07月07日

3804話 その人


 マイペースを保っていた久保田なのだが、最近少しだけ様子が違う。だが、普段と同じように見えなくもない。だから見る側からすると気のせいではないかと勘違い説も浮上する。どちらにしても、もの凄いことが起こっているわけではなく、また誰もその影響を受けない。ただの好奇心。何か久保田の身に起こり、それが影響しているのではないかと。
 そういった微妙なこと、一寸した仕草は態度の違いなどの方が大事件よりも興味深ったりする。当然どちらでもよいことなので、気にする必要はない。
「どこがどう変わったのかね」
「はあ、雰囲気が」
「弱いねえ、それだけでは。それに何か影響が出てるの」
「別に」
「じゃ、そんな細かいことなど、いちいち私に話さなくてもいいよ。君の方が変なんじゃない」
「いえいえ、変なのは久保田君です」
「では、どう変なのか、言ってみなさい」
「これ、というようなことはないのです」
「だから弱い。まあ、そんな些細事で時間を潰すのも何だ。君は余程暇なんだな。私まで巻き込まないでくれ」
「しかし、何となく様子がおかしくて、変なのです。はっきりとしたものはないのですが、何かありそうな」
「はいはい、分かりました。君は神経を使いすぎる。疲れるだろ」
「はい、多少は。でも好きですので」
「そんな人の噂など、流すもんじゃない」
「はい、気をつけます」
 この人が部長に久保田の話をしたことが噂になった。そして久保田は最近変だと。
 すると、久保田を見る目が全員変わってきた。そういうふうに見えてしまうのだ。普段と同じようにドアを開けても、廊下を歩いていても、仕事をしていても、何となく様子がおかしい、となる。
 しかし、人の好奇心は長くは続かない。それに、大したネタではないし、大きな刺激もない。
 そのうち、久保田の様子が最近変だという噂は流れなくなり、もうそのネタは終わった。
 それからしばらくして、またあの人が部長へ報告に来た。業務上の報告なのだが、そのついでに久保田のことをまた話した。
「完全に別人です。もうあれは久保田ではありません」
 部長は、きょとんとした。もう誰も久保田の噂などしていない。
「もう別人格です。表情がありません。以前から顔に出さないやつでしたが、最近はまったく表情がありません」
「まあ、そういう時期もあるだろう。いちいちそんなことを言いに来るな」
「でも態度も変わりましたし」
「気のせいだ」
 その後、どうしたことか、その人の姿が消えた。問題有りとされたのだ。久保田ではなく、その人が。
 そして、しばらくするうち、他の人達も表情が徐々に消えだした。あの部長までが無表情になっている。
 久保田は笑みを浮かべた。
 
   了
 




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2020年07月06日

3803話 見知らぬ下車客


 通りかかった古本屋の店頭に斜めになっている本があった。誰かが手にしたあと、元の場所に置かなかったのだろう。しかしそこは一番安い本が平積みされており、その下には段ボールがあり、そちらは文庫本が詰まっている。地べたに展示だ。
 それに比べると斜めに置かれているのは単行本で、しかもハードカバー。見知らぬ下車客がタイトルで、作者は知らない人。そんな作家がいたのだろう。当然タイトルからするとフィクションもの。つまり小説だと思われる。そういう装丁にもなっているので、これは間違いない。
 これだけのこと。武田の頭の中では一瞬で、手ににしていない。
 ただ、斜めだったのが目立っただけ。問題は斜めであり、本のタイトルではなかった。斜めは目立つ。
 この古本屋の前はたまに通るが、中に入ったことはない。探すほど読みたいと思うものはなく、また、何か読むものはないかと、棚を覗くこともしない。おそらく適当な本を見付けて、適当に読めばいいのだろうが、そんなことで時間を潰す時間がない。
 これが閉鎖空間の船内にある古書店なら、読めるようなものを探し、買うかもしれない。長い船旅なら、暇で仕方がないためだろう。
 しかし、船内や機内、車内に古本屋があるとは思えないが。
 武田は古本屋で一瞬立ち止まっただけで、そのまま目的地を探した。このあたりに画廊があるはずで、できたばかり。案内のハガキが入っていたので、どんな感じだろうかと、少しだけ興味がいった。武田は画家なのだ。
 だから先ほどの本もタイトルではなく、装丁の方が気になる。当然斜めに置かれていたのも気になった。そのあたりに敏感なのだ。中身よりも表面、皮一枚で、印象がどれだけ違うか。
 画廊はクリーニング屋跡だった。その前は何かもう忘れたが、古臭そうの商品を売っている店。たとえば呉服屋とか、そんな感じだ。消えるべきして消えているのだが、クリーニング屋に変わったが、それも潰れたのだろう。受付だけのあるよく見かけるチェーン店だった。今でも看板だけが残っているクリーニング屋がある。朝出して夕方バッチリとかの幟がよれたまま傾いていたりする。
 クリーニング屋の受付程度の敷地だと、画廊としては狭すぎるはずだが、母屋側まで使っているようだ。呉服屋か何かだった普通の店だったので、それぐらいの広さがある。
 外装はほとんどそのままではないかと思える。画廊ではなく弁当屋でもいけそうだ。
 中をちらっと見ると、絵がかかっている。既に誰かが借りているのか、オープニング用のものなのかは分からないが、抽象画だ。それをちらっと見た瞬間、武田は興味を失った。
 そんな抽象画を見るのなら、先ほどの斜めに置いてあった見知らぬ下車客の姿の方が上等だ。
 武田は戻るとき、その古本屋へ寄り、本当に買おうかと思った。
 そして、店頭に立ったとき、その斜めがない。
 その近くを探したが、見知らぬ下車客は見当たらなかった。
 見知らぬ客が買っていったのだろう。
 
   了




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2020年07月05日

3802話 続けることの大事さ


「何か続けていることはありますか」
「毎日繰り返し続けていますよ。しかし、寝るとか、起きるとかは、続くものでしょ。しかし、眠りが続きすぎると問題ですがね。当然寝ないで起きたままが続くのも問題でしょ」
「そういう話じゃなく、毎日決めてやっていることで、続いているものはありますか」
「決め事ですか。それはあります。でも大したことはありませんよ。履く靴を決めるとか、行く店を決めるとかで、これも長く履き続けると飽きてくるし、店屋も違ったところへ行きたくなる。また違う品物やサービスなどがありますからねえ」
「習い事などはどうですか」
「毎日習っていますよ」
「おお、それはいですねえ、自分で決めて?」
「そうです。学習しないと、つまり、覚えたりマスターしないとジャガイモの皮一つ剥けない。従って肉じゃがやカレーは作れない。ハヤシもありますがね」
「だから、そういった日常的なものではなく」
「本を読んでいます」
「ああ、それはいい。非常によろしい。読書を続けているのですね」
「毎日読んでます」
「感心感心。それは続いているわけですね」
「はい、私は読書家でもないし、本が好きなわけじゃありませんが、毎日読んでます」
「それはどういう意味で続けられているのですか」
「色々と学ぼうと」
「ほう、じゃ、知識を身に付けるための読書ですね」
「そうです。苦手なのですが、続けています」
「それそれ、そういう知的生産の話をしたかったのです」
「でも普通でしょ。本を読むぐらいで、それが続いているとか、続いていないとかは」
「いや、読書離れで、読まなくなった人もいますからね」
「でも読書人なんて、いくらでもいるでしょ。それに、そんなもの無理に続けなくても、習慣になっているので、欠かせなくなっているんじゃないですか」
「いや、あなたのような人が本を読むとは珍しいと思ったからです。読まない人だと」
「そういうふうに見えますか」
「いえいえ」
「あまり、知的に見えないのでしょ」
「いえいえ、本を読む人が全員知的だとは限りませんが、続けているかどうかを知りたかったのです」
「続けているというより、続いていますよ」
「それは結構なことで、何かコツでもあるのですか」
「こんなもの、コツも何も、本を開けば済む話でしょ。まさかページをめくる手つきとか、めくり方の話じゃないでしょうねえ」
「違います。で、それで、どんなペースですか」
「さあ、日によって違いますが、五分か十分です」
「はあ」
「調子の悪いとき、もう少し粘るかもしれません」
「そ、それは」
「便所で読むからです」
「また臭いところに落とされましたなあ」
 
   了





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2020年07月04日

3801話 緑池の怪物


「緑池の怪物なんだがね」
 池の縁を散歩中の高峯は、そう話しかけられた。嗄れた老人の声。発音がよく分からない。だから何を言っているのか、聞き取れなかった。しかし何か発していることは分かっていたので、老人を見た。
「緑池の怪物なんだがね」
 今度もよく聞き取れない。ミがどうかした。つまり身体のことを言っているのだろう。そのあとカイと聞き取れたが、これは何だろう。
 高峯はもう少し近付いてみた。
「緑池の怪物なんだがね」
 しかし、聞き取れない。こういう場合、フレーズというのがあり、少し聞いただけで、どういう方面のことを話しているのかは大凡分かる。しかし、何にも引っかからない。
 ただ、イケという言葉がやっと聞き取れた。三回目なので、当然だろう。イケとくれば、この池のこと。しかし高峯はここが緑池であることなど知らない。もし知っておれば最初の言葉で、緑池と聞き取れただろう。そして池に関する話だと。
 高橋は既に至近距離まで老人に近付いている。近付きすぎだ。そして身振りと目の動きで、もう一度、というように促した。もう一回言ってくれと。
「もうええ」
 これは聞き取れた。だがエエが分かりにくい。良いという意味だろう。だからもういいということで、これは分かった。もうよろしい。つまり断りだ。良いのではない。
 高峯は老人の機嫌を損ねたようだが、聞き取れないのだから仕方がない。すっと立ち去ろうとしたとき、「緑池の怪物がねえ」と、また声をかけてきた。今度はしっかりと聞き取れた。そのままの意味で、おそらく誤解はないだろう。
「怪物ですか」
「そうじゃ」
「そんなのがこの池にいるんですか。ネッシーのように」
「いるわけない」
 老人は、満足そうな顔で、微笑んだが、これは時代劇に出てくる悪人の非常に分かりやすい笑い方にに近かった。悪の靨も出ていた。
 高峯はからかわれたのだと思い、全て無視し、池の淵を回ることにした。始めて来た池なので、それなりに新鮮で、怪物などいなくても十分間が持つ。
 そして、岬のような出っ張た先端に、別の老人が立っている。釣り竿を持っていれば分かりやすいのだが、手にそれはない。それにここは魚釣り禁止のパネルがあちらこちらに貼られている。
 老人の手がおかしい。腕だろうか。
 さっと動かし、さっと前へ突きだした。何か体操でもしているのだろうか。しかし、運動はそこまでで、そのあとはじっとしている。
 エアー釣りだ。
 さらに先へ進むと鳥のような人がいる。しかも池の中に足は既に入っている。鵜飼いの衣装に近い。だから、この人はウショウだろうか、いやそんなプロがここにいるわけがないので、コスプレに近い。これで、怪しまれないで、魚を捕るのだろうか。魚釣り禁止だが、釣りは禁じられているだけ。
 鳥のような衣装の男は、網を放った。手づかみではなかったのだ。
 その前を通っても、鳥男は網を投げたり手繰ったりを繰り返しているだけで、高峯のことなど眼中にない。プロが仕事をしているという感じだろう。見世物ではない。家業を黙々とやっているように見える。しかも素朴に。衣装は大事だ。これで誰も口が出せない。
 そして池を一周したとき、またあの老人と遭遇した。
「緑池の怪物なんだがね」
 高峯は今度ははっきりと聞こえたし、納得できた。
 
   了





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2020年07月03日

3800話 王道


 時代によりセンスが違ってくる。これは感覚のようなものだが、感覚が感覚として独立してあるのではない。時代感覚というのは流れがあってこそ生まれる。時代の風潮もそうだ。風の流れ、潮の流れ、いきなり発生するわけではない。
 過去の何かがあったから今がある。いきなり今があるわけではなく、その今の中に過去が凝縮され、それが分かった意味での含蓄のようなものから次の感覚が流れ出す。
 昔のセンスで作られたものに共鳴し、素晴らしいと思う場合も、その今から見ての話だろう。見る時代により、それは退屈なものにしか見えなかったりする。
 それは未来のセンス、先を行く感覚というのが、何か逸れてしまい、または、もうそれほどの旨味がなくなったためかもしれない。王道一直線が果てるようなもので、先が見てきたときだろうか。
 行く着くところまで行くと終わってしまう。だから行き着かないようにすればいいのだろう。先へ行く気がしないとかの問題もある。これももう美味しい感覚ではなくなっているため。
 たとえば刺激物が流行っていた時代なら、どこまでもエスカレートするが、これにも限界がある。すると、今度は刺激の少ないものが良かったりしそうだ。
「今度は何を言い出しているのですかな」
「退屈なもの、刺激の少ないものがよかれと思うのですが、如何でしょうか」
「刺激物ばかり追いかけすぎたためですかな」
「そういうわけではありませんが、大人しいのが良いかと」
「退屈でしょ」
「ゆったりできます」
「ほう」
「あまり際々しないで、リラックスできるようなものがいいのではと」
「まあ、そういう時代もあったでしょ」
「そう真剣にならないで、気楽にとか」
「何を目論んでおるのかは分かりませんが、時代の気分がそちらへ向かうのかもしれません。これは個人にぶつかってからの反応で、誰もが同じ向きになるとは限りませんがな」
「そうなんです。個々バラバラ、それでは王道が成立しません。一本の太い道ですから」
「まあ、王道を懐かしむこともあるでしょ」
「最近、本物に飽きまして」
「本物、それは王道でしょ」
「はい、王道は窮屈です。もっとだらだらしたいです」
「ずっとしているじゃないか」
「そうでした」
 
   了



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2020年07月02日

3799話 面を取れ


 守り役というのがある。子守だが、それが嫡子であった場合、付け家老となる。
 戦国末期、既に勢力は固まり、隣国同士の領土の奪い合いなどが私戦とみなされた頃。だから大きな戦いがその後起こるのだが、その手前の時代。
 それなりの勢力を誇るが天下を動かすほどではない領国がある。その殿様はまだ若いが、次の時代を考え、第一子には懐刀、右腕と頼りにしている家来を付けることにした。何よりも重臣中の重臣で、先代から仕えている宿老なので、他の家臣にも押さえが効く。
 領地が丸く収まり、侵略も跳ね返してきたのもこの家老がいてのこと。だから次の世代も、この人に任せたい。それで、息子にやってしまった。
 この家老、田宮兵衛という単純な名だが、何せ何代にもわたって仕えているためか、高齢。
 まだ幼い若君に対し、まさに爺そのもの。当然、子守も上手い。
 若君はすっかり懐いてしまい、それを見ていた殿様は安心した。
 その間にも二大勢力が最後の決戦でもやろうとかする時期になっており、この田宮兵衛も子守ばかりはしてられない。どちらに付けば安泰かなどを調べる必要がある。田村は既に腹づもりができている。そのためには身内の政敵を何とかしないといけない。
 そんなことを考えながらも、若君に仕えていた。まだ幼いのでただの子守だが。
 ある日、いつもご機嫌な若君なのだが、泣き止まない。それで、泣くと鬼が来るぞと言って、鬼の顔をした。
 すると、若君は泣き止んだ。子守が上手いので、簡単なものだ。そして、また鬼の顔をすると、若君は大喜び。
 そういうことを繰り返していたのだが、諸国の様子がおかしいので、すぐに来るようにと殿様から呼び出しを受けた。当然だ。
 殿様との密談。呼ばれたのは庭にある茶室。これは密談であることはすぐに分かる。
 茶室の低い戸を開け、下を見ながら、田宮が入ってきた。既に殿様は座っている。
「おお、田宮の爺か、近う、近う」
「ははあ」
 田宮は殿様の斜め左に座った。
「面を取れ」
「はあ」
「面を取れ」
「何も付けておりませんが」
「鬼の面」
「ああ、はて」
 どうも、幼君に鬼の顔をしたのが戻っていないようだ。
 田宮は膠着した顔を両手でゴシゴシ擦った。
「まだ被っておる」
 そういう鬼ズラの話ではなく、二大勢力の件で本筋に入った。
 田宮の鬼のような忠言を、殿様は聞き入れ、家臣団をまとめるため、ちょと手荒い掃除をした。
 鬼退治ではなく、鬼が家中の鬼を退治したのだろう。
 その後、二大勢力の戦いは、田宮が言う通りの結果になり、お家は安泰。
 のち、鬼の田宮と呼ばれるようになったが、しばらくのことで、そんな人がいたことなど、もう今では知る人は少ない。
 田宮家は今も続き、その子孫は、それを知っており、床の間には鬼の面が飾ってある。
 
   了





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2020年07月01日

3798話 不熱中時代


 熊本が自転車で町内を散歩していると、見覚えのあるシルエットがある。ミニサイクル、つまりタイヤ径の小さな折りたためる自転車に乗った男。自転車が珍しいのではなく、乗っている男。背が高く猫背。そして非常に痩せている。
 これだけのシルエットで、誰だか分かるはずはない。似たような自転車と見かけの人なら、いくらでもいる。もしそれだけでも分かるのなら、匂いのようなものを発しているためだろうか。決して鼻で嗅ぐ匂いではない。
「上田君じゃないか」
 熊本はほぼ確信できたので、そう呼びかけたのだが、まだ遠いようだ。だから独り言のようなものになった。
 男は近付いて来るので、距離はいずれ近付く。そのときもう一度声をかければいい。
 熊本もペダルを強く踏む。すると、顔が分かるところまで来た。やはり上田。しかし、下を見て進んでいる。何も見ていないのか視点は地面にある。
「やあ」
 と熊本が声をかけた。
「あ」
 上田も気付いたようだ。
 道路の左と右、立ち話はできないので、横にある駐車場へ鼻を入れる。
 二人は旧友。今は付き合いはないが、たまに出合ったときは二言三言話す程度。
 四言五言とならないのは、上田の反応が徐々になくなるため。だから話が弾まないので、二言三言まで。
 今回もそうだと思い、適当に生存確認程度の言葉のやり取りをしただけで、別れようとしたが上田に反応がある。つまり、生体反応が今までより活発。何か話したいようだと上田は気付き、四言目を加えた。
「実はやることがなくてねえ。退屈なんだ」
 と、上田が語り出した。愚痴のようなもの。だから深刻な話ではなさそう。しかし、上田の方から話してくるのは珍しい。余程往生しているのだろう。退屈状態で立ち往生。あることだ。
「熱中できるものでも作ったら」と熊本はすぐに解答を与える。そうでないと、いつ上田が話し終えて、去るか分からないので、先に言っておいた。
「熱中できるものがないから、退屈なんだ」
「何でもいいから作ればいいんだ」
「熱中するには意味がいる。何のためにやるのかの理由がいる」
「だから、熱中するためじゃないか」
「熱中のための熱中か」
「熱中してしまえば、何でもいいんだ。それで生き生きするから」
「あるか?」
「さあ、それを探すことが大事」
「探したけど、ない」
「範囲を狭めたり、禁じていたりしているだろ」
「それを広げると怖い」
「あるんだ。熱中できるものが。しないだけで」
「やはり、意味がいる。王道じゃないと」
「王道も邪道もない」
 そういうラリーになると、旧友時代を思い出す。そういうことで、よく語り合った。ミーティングというより、雑談だが、それが楽しかった。
「有益でないとねえ」上田は、それにこだわっている。
「熱中が有益なんだ」と熊本が反論する。
 二人は途中で、気が付いた。
 昔もそんな会話を長々とやっていたことを。
 
   了
 


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