2019年11月22日

3579話 指導者


 今日はもう何でもいいから適当にやってしまうという日がある。何をやるにも面倒で、特に何もないような日だ。
 何かに熱中しているときは、暇を惜しんで突き進むのだが、これはそのことよりも、この熱中で突き進むことの方が美味しいのかもしれない。一種の刺激であり、前へ前へ、次へ次への誘い水があるため。結果を知りたいので、面倒なことでも、シャキシャキとやる。
 これは先に楽しみのようなものがあるためだろう。日常の中にそういうネタがある日とない日とでは違う。その内容ではなく、あるなし。
 内容は二の次で、退屈しないで過ごせる方を取る。ただ、この場合、行き当たりばったりで、やっていることに統合性がなく、統一感もなく、メインとなる道が何処にあるのかさえ分からないような散漫なもの。
 高梨をそれを散漫路と呼んでいる。まあ、散歩道のようなもので、何処へ寄ろうと勝手で、むしろ目的を散らせる方がよかったりする。
「行き当たりばったりでは困るじゃないですか、高梨君」
「はい、でも癖で、気が散るもので」
「散らさないようにしなさい」
「はい」
「もっとひとつのことに集中し、より深く追求していってこそが良いのです」
「でも余所見したくなりまして」
「一箇所に留まり、そこで懸命に生きる。これが研究者としては大事なのです。それでこそ専門家となり、世の中に何人もいない中の一人になれるのです」
「先生もそうですか」
「私は違います。指の数じゃ足りない。そこらにゴロゴロ転がっている中の一人です」
「でも、専門家でしょ」
「だから、その道は険しいのです。まあ、それは私の力が足りないのでしょう」
「じゃ、懸命に励んでも、仕方がありませんねえ」
「しかし、君のように散漫ではものにならん。私の研究は浅いが、それでも世の中に役立っておる。こうして後進の指導を任されておるのだからね」
「でもそれは研究とは関係ないでしょ」
「そうだがね。まあ、研究のやり方を教えているようなもの。その中身じゃなくね」
「教育ですね」
「そうだ」
「はい」
「だから、君のやっていることを見ていると、心配でならん。もっとひとつのことに集中し、そこを掘り下げて行きなさい。これは地味な作業になりますが、先々役立ちます。それだけ経験も知識も増えるのでね」
「いや、僕は研究に熱中できるだけで十分です」
「困ったものだ。私の指導が悪かったのかもしれん」
「いえ、それは関係ないです。僕が勝手にやっていることなので」
「じゃ、いいがな」
「気にしないで下さい」
「まあ、良いが、私もこんな指導、邪魔臭くなってきた。もう好きなようにしなさい」
「先生も、また指導が必要ですねえ」
「それを言うな」
「はい」
 
   了


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2019年11月21日

3578話 調子が良くなる鳥


「この頃になると飛んでくる鳥がおりましてね。それを見るといい年末になり、いい年明けになります」
「渡り鳥ですね」
「そうです。年に一度見られるかどうか、微妙なところです」
「縁起のいい鳥なのですね」
「そうです。昔からこの鳥を見ると良い年末年始になります」
「どんな鳥ですか」
「結構派手な極彩色。雀ぐらいの大きさですが、嘴が長い。まあ、見慣れた雀に比べると、鳥の格が違うように感じますなあ。貴人を見るようなね」
「貴種ですか」
「さあ、よく分かりません」
「はあ」
「それで、最近思いましたね」
「え、何をですか」
「鳥を見る機会です」
「年に一度見られるか見られないほどなんでしょ」
「見ない年は調子が悪い」
「それは聞きました」
「よく考えると、この鳥は山際にいます。里には滅多に下りてこない。まあ、里で見たことは一度もありません。ほとんど山中です」
「それが何か」
「山中で見かけるのは、山中へよく行っているときです」
「はい」
「この時期、毎日行っておれば、先ず見ることができる。ところが三日おきとか、四日おきにしか行かないと見ることは希」
「確率の問題ですか」
「そうです。山にいる時間が長いほど見る機会が多くなる。それだけのことでした」
「何だ」
「しかしです。因果関係はあるのです。調子が悪いときは山へは行かない」
「なるほど」
「確率がそれだけ落ちるわけです。だから既に調子が良い年なんでしょうなあ」
「つまり、調子の悪いときは山に行かないし鳥も見ない。そして調子の良い年末にも年明けにもならない。ということですね」
「そうです。縁を作らないからです」
「でも体調の悪いときは山へ行かないのでしょ」
「いや、たまには行きますが、頻度が低くなります。行かない日が結構出てくる」
「分かりました。単純な話でした」
「いえいえ、お粗末様」
 
   了




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2019年11月20日

3577話 精霊たちの森


「木々の生い茂る場所。まあ、山に入れば大体そんなところばかりですがね。高い山なら違いますが」
「樹霊について教えてください」
「木霊のことですな」
「そうです」
「これはあなた、山に一人で入り、そこでじっとしておると出てきますよ」
「そんな簡単に」
「特に夜に山の中にいると、もっと出てきます」
「そんな簡単に」
「これは木に囲まれた神社の境内でもいいし、手入れしないで放置している庭木の密生しているところでもよろしい。ある程度の空間が必要ですからな。まあ、歩道の並木程度では浅いですが、一寸した公園の茂みなどでは出ます」
「樹霊ですよ」
「木霊です」
「いずれにしても精霊でしょ」
「森がまるで息をしておるかのように、微妙に動いているのですが、これは風です。台風のときなど庭木の梢が悲鳴のような音を出すでしょ。風が全くなくても、木々には色々な生き物がいます。鳥が分かりやすいでしょ。羽ばたくし、梢をゆらす。虫でもそうです。昆虫でもね。耳を澄ますと色々な音が聞こえてきますよ。これが正体です。そのほとんどは音ですなあ。だから夜などもっとよく聞こえますので、色々なものがウジャウジャ出ているように思えたりしますなあ」
「じゃ、木霊は幻聴だと」
「幻聴じゃありませんよ。風の音や鳥の羽ばたきや鳴き声は幻聴じゃないでしょ」
「木霊、木の精、森の精に詳しいと訊いたのですが」
「私ですかな」
「そうです」
「しかし、私が体験したわけではありませんが、山住まいの人達から不思議な話は聞いてます。先ほど私が言ったのとは別種のね」
「それそれ、それについて教えてください」
「錯覚が重なり合ったとき、具として出ることがあるとか」
「はあっ?」
「風の音とは何でしょう」
「はあ」
「何かと触れて音が出るわけでしょ。楽器のように。それが海なら波の音。大時化の海なら海鳴り。森なら梢を震わす音。幹が弓のようにしなるときの音。葉が震動を受けすぎて、これも鳴る。草笛や葉笛のようにな」
「そういうのが偶然重なるとき、本物が出るのですか」
「本物は出ませんが、リクエストにお応えして姿を現すこともあるのです。共振です」
「それが精霊ですね」
「音は分かりやすい響きでしょ。いずれも振動、波動。このレベルのものがいるのですよ。ただ聞こえない波長、見えない波長もあるわけです」
「つまり、電波系と言うことですか」
「静電気のようなものかもしれませんなあ。私はサイエンスには詳しくないので、よく分かりませんが」
「それで樹霊ですが」
「木霊ですな」
「あ、はい」
「だから、こだまですよ」
「ヤッホーの」
「反響ですなあ。しかし誰も発していないのにヤッホーと聞こえるとまずいでしょ」
「もう少しはっきりと言ってください」
「木というのは大人しい奴ですよ。静かな人です。背は恐竜よりも高いやつがいます。生物の中での体重はかなりのものでしょ。これが大人しくただ立っているだけとは思われません」
「はあ」
「一寸の虫にも五分の魂。虫も樹木も生物。魂が入っていてもおかしくないでしょ。巨木の魂など、かなり大きいはず」
「余計に分かりにくくなりました。羽の生えた妖精を期待したのですが」
「木から羽根蟻が飛ぶ立つようにですな」
「そうです」
「まあ、動物の感覚では植物の感覚分からない。私にも分かりませんがね」
「錯覚が重なって具が出るとはどういうことでしょうか」
「もはや錯覚とは思えないものが出るのでしょうなあ」
「じゃ、それが木霊」
「木の精かどうかは分からない。他のものと重なり合い、偶然奏で飛び出るもの」
「それはもうポエムの世界ですねえ」
「ただ、この境地、危険なので、やめた方がよろしいかと」
「どうしてですか」
「存在そのものの怖さ、根本的な怖さを体験することになりますからな」
「それはいったい」
「私達が見ているのは色眼鏡を通してです。それを外すとナマを見てしまう。修行者も、たまにそれでやられます。おかしくなります。だから、そういうものには近付かない方がよろしい。精霊を探しに森に入るとかは、おすすめできません」
「でも、妖精や木霊や精霊を見た人もいるのでしょ」
「本当に見た人は語らないでしょ。そして忘れるようにします。それを認めると生きにくくなります。だから、錯覚で済ませておくのが賢明なのですよ」
「分かりました」
「木霊にしても、それは触れてはいけないもの。触れたものは気が触れるかもしれませんからな」
「でも木に触れてもいいわけでしょ」
「それは、ご自由に」
 
   了



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2019年11月19日

3576話 四方への散歩


 寒くなってきたためか、村瀬は散歩に出るのが億劫になってきた。散歩は村瀬のメインの日課で、一日三回か四回、多い日には五回も六回も出ている。戻ってきて、またすぐに出る。一日中散歩しているので、家には休憩で戻ってくるようなものかもしれない。
 当然家の近くを歩いている。東西南北、これだけで四コースできる。北へ向かうコースと西へ向かうコースが隣り合わせになることもあるが、それは余程近い場所。遠くまで行くと、末広がりに拡がるため、多少左右に道を変えても、重なることはない。
 北へ行くと淋しくなり、南へ行くと賑やかなところに行く。東西はそれほど変化はないが、さらに行くと川にぶつかる。東西どちらへ進んでも川がある。別の川だ。そのため、村瀬の住む場所は、川と川とに挟まれた場所にある。それなりに大きな河川で、ここまで行くと、かなり遠くまで来た感じになるので、土手の下で引き返す。それよりも直進ではなく、左右に振る方が多い。それでより細かく見て回れる。散歩は道を行くため、これは線に沿っていくようなもので、前や左右には進むが、後ろへは行かない。これは戻るときだ。ただ、同じ道を戻らないので、左左と二回曲がれば、戻ることになる。
 この三回か四回の散歩は朝から夕方にかけてだが、最終の散歩は夜になる。この最終便、最近寒くなり、億劫になり出した。コースは日替わりで、東西南北の中の一本を選ぶ。
 ただ、暗くて寒いので、それほど遠出はしない。
 この東西南北のコース沿いに喫茶店や食堂やファスト系の店があるので、朝食は喫茶店などのモーニングサービスで済ませたりする。昼も喫茶店のランチとか、ファミレスとか、牛丼屋やうどん屋などに入ったりするが、コンビニで弁当を買い、戻ってから食べることもあるし、スーパーで買った食材を調理して食べることもある。色々とバラエティーだ。
 その四方の道沿いにスーパーもあるし、南側は駅前も含まれるので、買い物などは、そこで済ませる。また西側に大きなショッピングモールがあり、百貨店のように何でもあるので、重宝している。
 郊外の何処にでもあるような町だが、そこに住んでいるだけではなく、かなり広い行動範囲なので、それらを含めると大きな町に住んでいるようなものだ。広いだけだが。
 北へ行くと田畑が多くなり、山が迫ってくる。このコースは季節の移り変わりがよく分かる。田植えや稲刈りなどは毎年見ている。キュウリやナス、トマトなども畑ではよく見るし、白菜やキャベツもよく見る。
 東側に大きい目の公園があり、そのコースを取ったときの拠点となっている。ここは春はサクラ、秋はモミジ。また花を付ける木が結構植わっている。これで花見も紅葉狩りも済んでしまう。
 さて、問題は寒くなってからの夜のコースだ。真冬でも村瀬は出ることにしているが、少し厳しい。だから防寒具に身を固めて南極越冬隊員にでもなったつもりで、出掛ける。
 さらに寒くなってくると、本当に行くのが大層になり、休むことになるのだが、やはり部屋でいるよりも、寒くても外に出たいという気が湧くのか、結果的には出ている。
 部屋でじっとしていることもあるが、出て戻ってから寛いだ方が寛ぎやすいようだ。
 こういう出たり入ったりの散歩ができている間は平穏無事ということだ。
 
   了



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2019年11月18日

3575話 夢は枯れ野を


「寒くなりましたなあ」
「何ともなりませんが、私は冬野が好きです」
「冬野」
「冬の野っ原ですが、秋の終わり冬の始まり頃がよろしい」
「晩秋ですなあ」
「モミジ狩りよりも、冬野の方が趣があります」
「そんな野原、滅多にないんじゃないですか。何処かの高原でも行かないと。牧草が生えているような場所でしょ。木々がない、草だけの野原」
「秋の終わり、草も紅葉しますが、実際には枯れ出すのです。このときの色がいい。葉は萎れ、痩せてしまい、茎や枝だけになります。そして野が茶色くなり、その色もあせはじめ、白っぽい。まあ枯れ草野になります」
「草の冬枯れですなあ」
「そうです。残った枝や茎が、ポツンポツンと残り、それも風を受けて傾いています。まさに荒涼とした荒野のように。木の葉の紅葉のような鮮やかさはありません。そこが地味でいい」
「それを見に行かれるのですか。遠いでしょ」
「いや、近くに放置した田んぼがありましてね。かなり広いですよ。そこがその状態になります」
「ああ、そういえば更地なんかでも、そんな感じになっているところがありましたよ」
「スポットです。でも誰も見に行かない」
「そうでしょ。その土地を買うのなら別ですがね」
「まあ、それを考慮して更地の草なども手入れされていますよ。それよりも放置した田んぼの方が草の育ちもいい。しかし、冬が近付くと、それらの草も枯れていく」
「夢は枯れ野をなんとやらという詩がありますなあ」
「私はそういうスポットを何カ所か知っています。今度ご一緒しましょうか、自転車でくるっと回れますよ」
「おお、それはいい。是非お願いします」
「はいはい」
 
   了




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2019年11月17日

3574話 枝葉に拘る


 日々の細々としたことも人生の一部だが、枝を見て木を見ずもあるし、木を見て森を見ずもある。また、より狭く、葉を見て枝を見ずもありそうだ。
 しかし、いきなり葉を見るわけではない。葉を探すため全体を見ている。そうでないと葉など見付からない。何処にあるのかを先ず探すだろう。そのときは全体を見ている。森を見ているし、木も見ているし、枝も見ている。そして葉へとズームインする。葉を見終えると、ズームアウトし、全体をそれとなく見ている。
 そのため、枝葉に拘ることは戒められているが、案外全体を見ているものだ。
 これは全体と部分の話だが、部分の中にも全体が含まれている。全体の影響が部分に出る場合もあるからだ。当然出ない場合もある。
 全体を見ている人は、何を見ているのだろう。その全体とは何処を指しているのだろう。それも含めて全体を見ているのだが、実際にはその中の一部を特に見ているのだろう。全体を見渡すときも、何かを見ているはず。果たしてそれが全体なのか、全体の中の一部なのかは分かりにくい。
 しかし全体を見ることはいいことだ。色々なものとの絡み合いなどが見える。だから、意味として見ていることが多い。目玉で見るのではなく、頭で見ているようなもの。
 全体の動きを知ることは大事だが、普段やっていることはもっと細かい部分的なところで暮らしている。常に高みから見ているのでは、用事ができない。
 結局、部分的なローカルな箇所に降り立ち、そこでゴソゴソすることになる。そうでないと具体的なことができないので。
 しかし、その全体だが、何処まで広げればいいのだろう。うんと広い世界となると、宇宙まで行ってしまう。また宇宙も宇宙の外側まで行かないと宇宙全体は見えない。その規模は必要ないだろう。
 さて、日々の暮らしの細々とした動きは人生の一部だが、その一部が集まって一生となる。一日のことを考えているとき、一生のことなど考えないが、それも含まれているのだ。一生の一部をやっているのだから、当然どういう人生なのかが何となく分かる。それは突きつけられるようなものでもあり、また可能性を含んだものとしても見えてくる。
 一時間もそうだ。一日にとっては一時間は僅かな時間。一日の中での部分だ。しかし、この一時間は一日規模で考えた上での一時間になっているはず。
 短い時間は葉や枝や木や森とは少し違うが、スケール的には同じ。
 その日、やっている非常にローカルなこと。何処で何をしているのかを、そこだけ切り取ってみると、それは小さなエピソードだろう。しかし、その中に人生が詰まっているのだ。今、何故これをやっているのかを考えただけでもう十分人生のレールが分かるというもの。
 だから、葉を見て森を見ていないのではない。実際には葉を見ながら森も見ている。いきなり葉だけを見るというのはもの凄く難しい。そしてどの葉を見ているかで、その葉を探すことが全体を見ていたことになる。
 そして、その葉を注目して見るということも、何故その葉なのかという背景を考えれば、ただ単に葉だけを見ているわけではないことは確かなのだ。
 枝葉に拘った人生、それも悪くない。意外ともの凄く広いものが逆に見えたりする。
 言葉というのも葉だ。ひとつの言葉の中に含まれている意味は非常に大きかったりする。
 
   了
 

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2019年11月16日

3573話 正木の六蔵


「正木村の六蔵さんですか」
「はい、そうです。ここは正木村で、私が六蔵です」
「留守が多いと聞いたので、助かりました。合えて」
「ああ、そうですか、何しろ禄潰しですからな。ろくでなしとも言われております。名は六蔵で、六つの倉が建つほどにと名付けられたのですがね。何せ小作人の三男坊。何ともなりませんよ」
「お頼みしたいことがあるのですが」
「そうですか、まあ、聞きましょう」
「娘が拐かされて山賊の巣窟へ」
「とんでもない話ですが、よく聞くような話でもありますなあ」
「はい」
「城方に言えば済むことでしょ。そういった山賊相手なら」
「お城はそれどころではないようで、戦が長引いておりまして、兵を出す余裕はないとか」
「あなたの村は」
「吉川村です」
「じゃ、そこから人を出せば」
「相手が山賊だし、それに足軽として、引っ張り出されたので若い者がいません」
「何処の山賊ですかな」
「大平の」
「大平は広いですぞ。山賊の住処は何カ所かあります。どのあたりの大平ですかな」
「南側です」
「じゃ、岩手岳の山賊だな」
「そうだと思われます」
「少し遠いなあ」
「何とかなりませんか。お礼は弾みます。わが娘ですので」」
「身代金とかは」
「人買いに売るつもりです。それに私の娘だとは知らない。娘も黙っているのか、親の名を言えば、山賊も売り飛ばすよりも大金が入るはずなのに」
「じゃ、人を集めましょうか」
「お願いします」
 六蔵と似たようなぶらぶらしている百姓が同村や他村にもおり、ほとんどごろつきの厄介者なのだが、六蔵はその連中との付き合いがあり、彼らを動員することにした。
 依頼者が豪農で、礼金も多いためか、そういった私兵のようなものを雇えるのだろう。その頭目が六蔵だった。
 しかし、その正体は山賊と変わらない。山住はしていないので里賊だろう。
 大平山地岩手岳麓近くの村に六蔵たちは集合した。武装している。本来なら、城の足軽として出ていかないといけないのだが、それを無視しているし、その武装は騎馬武者並み。立派な侍だ。
 二十騎ほどで岩手岳へ向かった。山賊の巣窟である砦までは馬で行けるはず。
 山の取っ付きに、柵や物見櫓が見えるので、丸出しの隠れ家だ。だから隠していない。城の兵でも難儀しそうな地形で、これは攻めるのは難しい。
 砦の大門まで着いたとき、中から山賊の頭領が出てきた。
 六蔵の顔を見て、分かった分かったと合図を送った。
 娘は簡単に取り返せた。
 山賊は六蔵と戦う気がないのだ。それだけのこと。
 六蔵たちは礼金をたんまりともらった。
 最初から仕込み台本があったのではないかと思えるほど、できすぎた話だ。
 
   了
 



posted by 川崎ゆきお at 12:28| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月15日

3572話 風邪で休んだ日


 風邪でも引いたのか岸和田はその日に大事を取って仕事を休んだ。軽い風邪程度で休めるのだから、いい仕事だが、仕事は出来高なので、休めるだけ休めるが、月末の収入にもろに響く。ご飯はいいが、おかずが貧弱になる。海老の天麩羅がちくわの天麩羅になり、トンカツがコロッケになる。しかし肉は僅かながら入っている。しかも牛肉だ。実際にそれが肉であるかどうかは舌先では分からない。ミンチ状なので、歯応えはないが、歯の隙間にかろうじて挟まったとき、肉を感じる。
 しかし、一日休んだぐらいでは、それほど収入に響かないものの、月々の収入ではいつも不足気味。
 風邪の引き始め、無理をしてこじらせると長引く。そうなると、さらに仕事ができない。だから、ここで一日休むのは理にかなっている。それ以前に一日のんびりと過ごしたかったのだろう。
 額に手を当てると、少し熱がある。体温計の数値は平熱。しかし、額はいつもよりも熱い。熱っぽいということだろう。
 それで午前中はテレビを見たり、音楽を聴いたりして過ごした。
 昼は軽くうどんを作る。具は何もない。休んだ分、収入が減るので、既にそれを計算しているのだ。それに食欲がない。熱っぽいためだろう。だからうどんで十分。残すほどだ。
 うどんの食べ残しほど始末の悪いものはない。ご飯なら電気炊飯器に戻せば済むが、うどんは何ともならない。それにあとでまた食べたいと思うほどのものではない。
 熱いものを食べたのか、鼻水が出てきた。これも風邪の諸症状かもしれない。いつもより量が多い。
 そのあと昼寝をし、起きると額も熱くはなく、身体も軽くなっていた。
 これで、治ったのかもしれない思い、外に出た。油断大敵だが、大丈夫な気がした。気持ちが回復したのは身体が回復したためだろう。身体が先で、気持ちはあと。だから、無理な動きではないので、散歩に出た。
 部屋の中に籠もっていると閉塞感があるため、外に出ることにしている。少し家から離れると不特定多数の人達を見かけることになる。自分以外にも生きている人がいるというようなゾンビで占領された町ではないが、見知らぬ人達を見るのが好きなのだ。家の近くだと顔見知りが多いので、少しだけ足を伸ばす。
 さて、こういうときに妙な人と遭遇したり、妙なことに出合ったりするものだが、その日は平穏無事で、何事も起こることなく部屋に戻れた。
 だが、ドアを開けて一歩中に入ったところまでは戻れたのだが、その先だ。
 何かいる。
 
   了



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2019年11月14日

3571話 一枚の紅葉


「陰ってきましたねえ」
「秋晴れが続いていたので、まあ、このあたりで雨が来てもいいでしょ」
「紅葉も始まりました」
「来週の今頃は見所でしょ」
「私はこの時期の紅葉が好きでしてね。まだ青葉の方が多くて、色付いている葉は探さないと分からない。しかし、目立つので探すまでもないのですがね。一本の大きな木で最初に色付く葉があります。桜の花もそうです。ひとつだけポツンと咲く。だから桜の紅葉も、まずは一枚の葉からです。その葉を見付けるのが好きでしてね」
「見えますか」
「遠目が効きます。近くは老眼で見えにくいのですが、まあ、色目ぐらいなら何とか分かりますよ。文字は読めなくてもね」
「変わった趣味をお持ちで」
「いえいえ、これは趣味にはあたりません。それに紅葉狩りに出掛けるのではなく、通り道で発見する程度です」
「日々の中に風流を」
「風流というほどじゃありませんよ。歩くついでに見ているだけですから」
「そういう精神状態はどうやったら培われるのでしょうか」
「ああ、それは暇だからですよ。ただ単に歩いているだけじゃ退屈でしょ」
「風流は退屈から生まれるわけですな」
「そうかもしれません」
「僕は精神がいつも平和ではないのか、そんなところに目は行きません。いつも心の闇ばかり見ています。自分自身のことで一杯一杯で、そんな色付いた葉など探そうなんて思いも付きません」
「さあ、これは精神状態とは関係がないように思いますよ。別枠です。だから趣味の世界なのです」
「趣味ねえ」
「自分とはもう離れた世界です。世間ともね。こういった四季のうつろいは」
「いやあ、勉強になりました」
「そうですか、役に立ちませんよ。だからいいのですがね」
「役立たないことをやる。それは余裕ですねえ」
「いやいや、気を逸らし、そして怠けているだけですよ」
「僕も風流を入れてみます」
「いかにもの風流人は風流人じゃないのですよ。風流を装うのは風流じゃない」
「あ、了解しました」
 
   了



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2019年11月13日

3570話 登り切れなかった山

登り切れなかった山
 調子が良すぎて登れないような山に登り、途中で引き返し、一日が無駄になることがある。途中まで登ったのだから、それが成果だが、頂上まで行かないと記録に残らない。これは失敗だ。
 その山は普段は登らない。まだその力が無いため。しかし登ってみなければ分からない。これは未知への挑戦。だが、いつも失敗しているので、やはり身の丈に合わない高さなのだ。
 その日は余程調子が良かったのか、登れるような気がした。多少の無理なら何とか凌げるような。
 だが、結果は同じで、釣りで言えば坊主。成果なし。それどころかマイナスになった。その日は何もしていなかったのと同じ。
「そうなんですよ。調子の良いときほど危ないのです。無謀なことをしでかす」
「まったく仰る通りで」
「しかし、登れたかもしれない。そうなると大きな白星。金星と言ってもいい」
「いえ、金星など、普段から取り続けられるものではありませんから、それは期待していません。あの山を普通に登れるようになりたかっただけです」
「でも、調子が良かったのに、登り切れなかった」
「あと一メートルでした」
「それなら這ってでも登れたでしょ。たった一メートルでしょ。四つ足でなら行けたでしょ。または腹ばいになっても一メートルなら」
「そうなんですが、それじゃ普通の姿勢で登ったことにはならない」
「それで、引き返したのかね。少し休憩すれば登れたでしょ。それに動けなくなったわけじゃなく、降りてこられたのでしょ」
「そうです。しかし這ってまで登っても仕方がありません。次もまた這わないといけない。そうすると、普通に歩いて登れない山のままですから」
「妙なところに拘るねえ。あと一メートルなら、もう頂上でしょ」
「そうです。もうほぼ平らでした」
「じゃ、頂上を極めたのと同じでしょ。そこまでは這ったわけじゃないし」
「しかし、十センチほど高いと思います」
「何がかね」
「頂上前一メートルのところと、頂上との標高差がです。だからそこは頂上じゃない」
「細かい話だ。それよりも君にはその山を登る力があったんだよ。登れたも同然だし」
「しっかりと詰められなかった。最後の一メートルが。それと、調子が良いときにしか、それはできなかったこと。だから、特別なときでしか果たせません。僕が考えているのは、普通にすっと登れることなのです。それが合格ライン」
「何でもいいけど、細かいねえ」
「いえいえ」
「まあ、無理はしない方がいいから、力が付いてからまた挑戦しなさい」
「はい、そうします」
 
   了



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