2016年03月31日

2853話 黄泉路


 筒が峰から黄泉路へ至ると案内版にあるので、竹田はそちらの道へと入った。筒が峰は見えている。猫の背中のような峰だ。そこを越え、山を曲がり込んだところに黄泉路があるらしい。方角的には山は深くなる。
 黄泉路らしい入り口があり、谷に沿って伸びているが、薄暗い。いかにも黄泉の国、根の国へ向かうような山道だ。そこにも「これより黄泉路」と書かれている。その横に、もう一つ木札があり、常世道と書かれている。同じ意味だろうか。
 歩くうちに谷は深くなり、やがて川が見えなくなる。渓谷が深すぎるためか、道が作れなかったのだろう。急に登り坂になっていることから、川底から一旦離れて、中腹あたりに出るようだ。その道が下からでも見える。
 中腹沿いのくねくねした道が続くのは、できるだけ急勾配をなくすためだろう。時間はかかるが、足や息は楽だ。
 やがて山を越えるのか、真っ直ぐに延びた坂がある。ここは一気に登れということだろう。その下に黄泉坂と案内板がある。板でできた粗末なものだ。さらに横の木の幹にも黄泉の坂と刻まれ、その溝にペンキでも流し込んだのか、こちらの方がはっきりと読み取れる。
 黄泉坂は下へ続くのかと思っていたのだが、登り道だ。ここも含めて黄泉路というのだろうが、その先は青い空が拡がっているだけ、峠だ。それでも左右に高い山があることから、一番越えやすい場所を選んだのだろう。
 案の定峠に上がると、黄泉峠と書かれている。山を越えたわけだが、その先は、高い連峰が連なっているが、真下を見ると盆地だ。昔なら国境を越えたようなものだろうか。
 今度は下り坂だが、もう黄泉や、常世の案内板はない。道は真っ直ぐ下界まで続いている。まるで、スキーのジャンプ競技場のように。
 そして来たとときの川と道は合流し、沢伝いに盆地へと出る。相変わらず、そこは樹海のように暗い。こちら側からの案内板は何もないが、ハイカー向けに筒が峰に至とだけある。
 黄泉や常世は、地面の下ではなく、空を向いていた。これが海岸沿いなら、海の彼方を向いていたのだろう。いずれも、遠い場所のことだろうか。
 ちなみに黄泉の、この黄色は、地下を流れる川の水が黄色いため、黄色い泉の湧く国と言うことらしいが、地下が深すぎると、鉱物の関係から、そんな色になるのだろうか。温泉かもしれない。
 山深い場所では、黄泉も常世も空へと抜けるのだろうか。ちなみにその黄泉路、道だけしかないのだが、この世と繋がり、行き来ができるのかもしれない。
 
   了


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2016年03月30日

2852話 玉手山寺旅行記


 ローカル線の車両で前に座ったおかっぱの女学生が蜜柑をくれた。高橋は酸っぱいものは苦手だが、一応受け取った。女学生はたまにちらっと高橋を見る。その視線はすぐに分かる。蜜柑を食べないのかと、催促しているように見えたので、高橋は皮を剥いた。
 女学生は次の駅で降りた。他の乗客も、殆どそこで降りたようだ。乗換駅で別の路線と繋がっているためだろう。箱を見ると乗客は高橋だけ。余程この先へは行く人がいないのだろうか。その場任せの旅行のため、何処で降りてもかまわないが、泊まるところのある町の方がよい。しかし、今はそんな先のことなど考えず、ホームを見ている。するとホームが静かに動き出す。
 列車は山裾を縫うように走り、何度か山を越えたようだ。低い山ばかりで、田圃が続いている。線路がいきなり田圃の中を走っているようなもので、柵もない。踏切を一つ越えるのか、音がする。小さな道が左側から来ている。電柱だけがぽつりぽつりとある。
 この辺りで降りると、宿屋がない。しかし小さな村があるらしく、農家が何軒か見える。
 降りた駅は無人駅で、駅前には何もない。正に土饅頭だけの駅だ。
 高橋は車窓から見えていた道まで戻り、その先へ向かった。水平線の彼方まで続いているような道だ。
 やがて農家が近付いて来た。その中央部にバスの停留所があり、小屋のような建物の中にベンチが並んでいる。村の人は鉄道ではなく、このバスを足にしているのだろう。郵便局や農協、薬局や銀行まである。こんなところにある銀行は珍しいと、中を覗くと無人で機械だけがある。
 リヤカー付きの自転車が急に前に止まった。タクシーのようなものらしい。一体ここは何処の国だろう。案内しますよと、車夫が言うので、乗ってみた。自転車は電動アシストらしく、結構早い。玉手山寺という寺があり、そこが名所だという。何の名所なのかまでは分からないが、この玉手山寺ぐらいしか観光資源はないのかもしれないが、長閑な農村風景がそのまま観光地になりそうだ。
 玉手山寺は山の取っ付きにあり、すぐに分かる朱色の鐘撞き堂が見える。玉手山寺とはどんなところですかと聞くと、車夫は玉手箱があるという。
 高橋はその手の話に詳しいのだが、玉手箱がある寺など聞いたことがない。きっと嘘だろうと思いながら、参道下で降りた。観光リヤカーがもう一台止まっている。
 参道は全て階段で登りだ。それほど段数はないので、すぐに山門まで出た。
 本堂の手前でおみくじなどを売っている建物があり、そこに朱色の衣服を着た女性がいる。そして客引きのように、高橋を誘う。モロに手招きだ。
 玉手箱をやりますか。と言ってきた。そんな習慣はないし、また行事もないはず。好奇心旺盛な高橋は、旅の土産話になると思い、やってみることにした。
 朱色の女性は仏子と言うらしい。巫女のお寺版かもしれないが、聞いたことがない。尼さんでもないようだ。聞くとバイトらしい。
 本堂の扉を横から開け、本尊の玉手観音の前に豪華な玉手箱が並んでいた。手提げ金庫のような形だ。
 どの玉手箱にするかと言われ、左から二番目にした。他の玉手箱は黄色っぽいが、その玉手箱だけは緑が少し入っており、配色が良かったのだろう。
 では、と仏子はその玉手箱を掲げ、歩き出した。そして、こちらでお開けくださいと案内される。
 案内されたのは本堂の横からの登り口で、また階段があり、上にお籠もり堂がある。その前で玉手箱を渡された。あとは中で一人で開けよというコースらしい。
 高橋は恐る恐る紐を解き、玉手箱を開けた。
 何も変化はない。お爺さんにはならなかった。
 以上が高橋の旅行記だが、実際には誰とも会話などしていない。廃村に近い村の駅で途中下車し、少し歩いただけのようだ。
 
   了



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2016年03月29日

2851話 物の怪の正体


 人は結構物に依存している。いろいろな物だ。それらは買った物が多い。自然界の中から取ってきた物もあるが、家を建てるにしても、勝手に山から木を切り出して持ち帰れない。限度がある。木造の家が欲しければ、工務店に頼むことだ。昔は大工に頼めばよかった。大工は木を調達してくる。切りに行くのではなく、材木屋から買ってくるのだ。この材木も何処かから仕入れてきたものだろう。海外かもしれない。
 だから物のほとんどは買っている。物がなくなれば、また買えばいい。ご飯もおかずもそうだ。野菜を自分で栽培するにしても、種や苗を買わないといけないだろうし、庭がなければ鉢や土まで買うことになる。当然肥料も。水をやるだけでも道具がいる。水道代も払わないといけない。
 物にもいろいろあり、衣服のように暑さ寒さから身を守るだけではなく、お気に入りの衣料品がある。靴でも帽子でもセーターでもいい。物がややこしくなるのは、そこからだ。
 そういった物にまつわることで、怪しくなると、それを物の怪と呼ぶ。奇妙な形をした動物や、怪物、化け物を差すのではなく、実は、この物が物の怪の正体。これを妖怪と言ってしまうと、物から離れてしまう。
 物にまつわることで怪しくなる代表は、物欲のようなものだろう。物としての形のないもに対しても、物事としての物がある。求めているのは物なのだ。この物は、者にもなる。
 と、妖怪博士は、今日もそんな言葉尻だけの屁理屈をこねているのだが、これは屁のような理屈なので、屁相当の価値しかない。屁に価値があるかどうかは分からないが、腹が張っているとき、屁が出ることは価値だ。それで、すっきりする。盲腸などの手術後、屁が出るかどうかが非常に大事だ。出れば価値ある一発だ。
 人は物に依存している。その話の続きだが、愛用の、いつもの箸を折ってしまった妖怪博士は、別の箸、これは予備で買っていたものだが、それで食事をとった。味が違う。別に箸をなめながら食べていたわけではないので、箸から出る味が違うわけではないが、多少はあるだろう。
 あの箸でなければ食べた気がしない。あの太さと、あの滑り具合、あの握り具合でないと落ち着かない。これは慣れれば落ち着くのだろうが、それまで如何にあの箸に依存していたのかと感じ、それで物の話を思いついたのだ。何でもかんでも物の怪や妖怪に結びつけるのは職業病にしかすぎないが。
 人は物に依存している。その物がおかしくなると、本人もおかしくなるわけではないが、これが箸ではなく、もっと大事な物だと、大変になる。小変ではなく。
 そして物を求める行為、これは物の怪的とすぐに言うのは早すぎるが、その兆候はある。物の怪となる小さな種だ。
 世の中すべては物にまつわる怪異談ではなかろうかと、早い目に結論を出したようだ。瓢箪から駒が出るのだから、箸から名案が出てもおかしくない。
 
   了


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2016年03月28日

2850話 イタチの怪


 しもた屋の並ぶ通りがある。しもた屋とは、仕舞ったと言う意味だろうか。要するに昔のシャッター街だ。漢字で書くと仕舞た屋となる。こちらの方が字面で想像が付く。商売、その時代なら商いだろうか。商人の店であり、住居でもある。この店も、商品を見せる、見せ屋ということだろうか。
 もう見せるものはない商家、仕舞た屋がずらりと並んでいる。仕舞た屋として営業しているわけではない。中には店は広いが居住空間が狭い仕舞た屋は人はもう住んでいない。これはオフィス的な店だっのだろう。口入れ屋とか。これは、中間に入っての取引や、仕事を斡旋したり紹介する場所なので、見せるようなものは並んでいないが、求人の貼り紙程度は、壁に並んでいたかもしれない。
 その仕舞た屋が並ぶ通りで欺される人が多かった。これは化かされと言っている。
 見るものもない通りなのだが、ぽつんぽつんと人が歩いている。身なりの良い人もおり、遊び人風な人、商人、また農夫もいる。もう買い物などできる場所ではないのだが、普通の家よりも見応えがあるのだろう。ここが寂れたのは、川の流れが変わったため、もう川船が寄り付かない。そのため人や荷が集まる場所ではなくなった。
 そこを歩いていた昭作という農夫が、通りの隅でうずくまっている女性を見た。少し粋な女で、素人ではないようだ。腹を押さえている。これで気付きそうなものだが、昭作も当然それに気付き、これだと喜んだ。
 女は仕舞た屋の一軒に住んでいるらしい。ではそこまで送りましょうと、当然なる。昭作の期待通りの展開で、この話は噂で聞いていた。だから、ここまで来たのだ。
 仕舞た屋の二階でいい思いをしながら寝入ったが、起きると仕舞た屋通りの裏で素っ裸で転がっていた。
 昭作には家族もいるし、村人の手前もある。そこで噂話通りのことを語った。
 それは、この仕舞た屋通り、イタチがよく出るらしく、それに化かされたようだと。
 イタチにはとんだ濡れ衣だが、周囲の人達は昭作の言い分を信じるしかなかったようだ。
 その後、昭作は真面目に働き、また小金を貯めては、イタチに化かされるのだが、これは二度までで、三度目は、もういけないようだ。
 
   了


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2849話 桜が咲く前に


 蔵本が鳥を撮していると二回りは上の老人が声を掛けてきた。
「いいのが写せましたか」
 蔵本はずっとファインダーを覗き込み、鳥の動きに集中していたので、真横に来ている老人に気付かなかった。実際は少し後ろで、ファインダーから目を離しても、視界に入らなかった。
「この距離でも逃げないので、慣れていますよ」
 そこはショッピングセンターの庭のような場所で、バイク置き場。その後ろ側の梅の木に鳥が来ている。毎日来ているためか、そこが安全であることが分かっているらしい。柵があるし、客は通れない。草もなく、苔の絨毯だ。その手入れなど、滅多にしないだろう。梅と椿が植えられている。
「いいカメラをお持ちで」
 これで蔵本は、この老人はカメラには詳しくない人だと分かった。一眼レフに似ているが、ネオ一眼というコンパクトカメラの大きなものだ。知っている人なら、すぐに分かるはず。しかし、持ち物を褒めるのは、この老人の挨拶かもしれない。
「梅は終わりましたが、次は桜ですなあ。二三日先でしょ」
「そうですねえ、もう蕾が大きくなってますから」
 老人は、そこで区切りを入れた。つまり、それ以上会話を続けるかどうか、相手の息を読みながら見極めるのだろうか。強引に会話に持ち込まない人かもしれない。
 蔵本はそのままスーと自転車置き場まで走り出した。後ろを振り返ると、老人はまだ梅を見ている。鳥はもう去ったようだ。
 蔵本は自転車を降り、ショッピングビルの玄関に向かうとき、もう一度老人を見る。すると、梅の木から移動したようで、橋の上から桜をじっと見ている。花などまだ咲いていないが、蕾の膨らみ具合を見ているのだろう。これが少しだけ赤い。そのため、冬枯れの桜の木なのだが、ほんのりと暖色を帯びる。僅かな赤みでも、集まれば木に暖かみが加わるのだろう。老人が言っていたように、あと二三日で咲き出すはず。
 蔵本は鳥や花などを写すのが趣味だが、さっと写し、さっと立ち去る。しかし、あの老人は時間を掛けて、じっくりと鑑賞している。
 年を取ってからは花鳥風月が分かるようになるらしいが、花と鳥は分かりやすい。この老人、その境地に立ったのか、あるいは特に趣味はなくても、散歩に出れば、花を見たり、川の流れを見たり、そんなものかもしれない。これは時の経過を感じているようなもので、年中同じではない。それこそ二日か三日後、桜のある場所を歩けば、景観は一変しているはず。
 その老人、鳥を見、梅を見、椿を見、そして桜の蕾を見ているのだが、それだけではないだろう。
 こういう老人、迂闊に写真で写してはだめだ。なぜなら、写っていないかもしれないので。
 
   了

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2016年03月26日

2848話 パンとコロッケ


 店屋が並ぶ通りの手前で吉田は旧友と出合った。二人共同じような服装をしている。安っぽいジャンパーとスニーカー。同じ衣料スーパーで買ったのか、見覚えがある。色が違うだけで、そっくりだ。靴もスポーツシューズだが、形だけ。一足千円の店で買ったのだろう。これもタイプ違いだが、色目がどちらも派手だ。
「おかずがねえ」
「おかず」
「ああ、夕食のね」
「買いに行く?」
「そうそう、今行くところ」
「私はパンにしたよ」
「ああ、パンか」
「作るのが面倒なとき、パンを買うんだ。ウインナーとか一寸おかずの入っているのを選んでね。一つ百円なんだ。どのパンも。私は必ずサンドイッチを買うねえ。これも百円。あと二つか三つ買う。その中の一つはアンパンやカレーパンだけど、これはまあおやつだ。全部食べきれなかった場合、翌日のおやつにもなるしね」
「僕もパンにしたいんだが、夕食でパンだけでは味気ない。コロッケでもいいから、皿におかずを乗せて、ご飯を食べたい。キャベツは買い置きがあるからコロッケだけを食べるんじゃないよ。トマトもあるし。これを西洋皿に盛り合わせると、洋食なんだ。しかし最近胃の調子が悪くてねえ。生野菜とか揚げ物は実はだめなんだ。しっかりと煮たものでないとね。大根とか椎茸とかフキなんかもいいねえ。そこに高野豆腐か油揚、または厚揚げが一番いい。厚揚げ入りの野菜の煮物。これが一番いい」
「あ、そう」
「胃の調子が悪いとねえ、腸かもしれないけど、調子が悪い。それで食べるものを変えたんだ。さっき言ったような野菜の煮物や魚にね。すると調子が良くなってきた」
「魚は高いでしょ。缶詰かい?」
「いや、あれは出汁がいけない。汁がね。鮭がいい。タラコは魚じゃないけど、魚の子だから、これも食べる。生ワカメと一緒にね。ワカメは刺身用のを食べるんだが、生じゃなく、これも味噌汁に大量に入れて煮る。ワカメ汁って、これは漢方薬のようなものなんだよ」
「あ、そう」
「それで体調はすっかり戻り、胃腸も元気になったんだけど、華やかさがない」
「え」
「だから、おかずに賑わいがない。野菜の煮物、厚揚げ、豆腐じゃねえ。やはりトンカツ、コロッケ、天麩羅、こういうのが欲しくなる。今日はそのときが来た」
「何が来たの」
「だから、極まってしまい、今日はトンカツは高いので無理だが、コロッケを買うと」
「か、買えばいいじゃないか」
「だから、これから買いに行くところだよ」
「そうか。私はパンにしたから、戻ってからテレビでも見ながら囓るだけ。皿も何もいらない。箸もいらないしね」
「パンもいいなあ」
「おっと、長話になった。日が暮れきってしまう」
「ああ、行ってくるよ」
 昔はこの二人、営業畑でしのぎを削り合う仲だったが、今はその面影は何もない。
 
   了


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2016年03月25日

2847話 街道流し


 旧街道の走る町並みは、もう昔の面影など残っておらず、街道跡の石碑が傾きながら立っている程度。
 下村はそんな旧街道が走っていた場所だとは知らないで、散策を続けていた。これは自分の町とは少し違う隣町や、さらにもっと離れた町へワープし、そこでまるで町内の人のように歩くのを趣味にしていた。そのため服装も普段着で、散歩者のそれではない。近所の人がコンビニでも行くような姿だ。
 下村はこの町内に入り込んだとき、おおよその雰囲気、町の様子などを把握した。それはパターンがあるからだ。
 その町は古い街並みではなく、田畑があった場所に住宅が建ち並んでいるのだろう。そのため、すぐに行き止まりになる。その覚悟はできているので、突き当たりに出れば戻ればいい。特にその先に目的地があるわけではないので、問題はない。それでもできるだけ幅広くスキャンしたい。つまり町を効率よく見て回りたいので、同じ道を引き返すのは芸がない。
 そのため、注意深く抜けられる道かどうかを気にしながら枝道に入って行くのだが、何度も失敗し、引き返さないといけない羽目になる。これは阿弥陀籤を引くようなものだ。下村は引き慣れているので、何とか勘で分かるのだが、それでもスカが多い。非常に手強い町だと言わねばならないだろう。
 比較的大きい目の道を選んでいるのがいけないようで、そういう道は車が通れるようになっている。住んでいる人のマイカーだろう。これは道幅が広いようでも、遠くまで続く道ではない。すぐに行き止まりとなるのは、分譲住宅のためだ。これは何度も経験している。
 それで、ずっとスカで、なかなか先へ進めないでウロウロしているとき、幅が一メートルほどの通路を発見した。これは分譲住宅地では有り得ないような小径だ。路地だ。その先に大きな木があることから神社があるようで、前方を見ると古い屋根瓦がある。昔から住んでいる人の家だろうか。農家かもしれないが田圃はもうない。
 意外とこういう道が遠くまで繋がっているはず。しかし、ブロック塀やモータープールに挟まれた、ただの境界線の余地かもしれない。舗装はされていないが、砂利が敷かれている。その先で曲がっているのか、奥まで見えない。
 おそらく旧村時代、神社へと続く道だったはず。なぜなら神社へ至る道というのは結構あり、道が集まっている。
 下村はこれだと思い、入り込む。少しカーブしているところを曲がり込むと、またカーブ。家の裏側や排水溝などと接しながらも続いている。案の定農家跡らしい大きな屋敷の横、これは裏側だろう。そこを抜けた辺りで、風景が一変した。
 下村が見付けた狭い道は、実は旧街道へ続く村道だった。
 あれから新しい時代が書き込まれていない。そんな風景が目の前に拡がっている。街道沿いの田園地帯が拡がっている。人が歩いているとすれば、時代劇のスタイルだろう。
 危ないと思い、下村は後ろを振り返った。そこは断面。つまり現代が書き込まれている住宅地。ぱっさりとそこで切られているのだ。これが見えている間にと、切り口のような穴の空いた細い道に戻った。後ろを振り向くと田園地帯がまだ見える。
 さらに戻ると、道がカーブしているためか、もう見晴らしはきかない。
 街道流し。これは下村がこの話を妖怪博士に語ったとき、そういう妖怪がいて、旧街道の時代へ流すとか。
 実際には大きな工場が更地になり、しばらく放置されている空間にでも出たのだろう。
 
   了


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2016年03月24日

2846話 忘れないで


 今村は色々なことを思い出していると、朝まで寝れなかったりする。実際には、もうこれぐらいでいいだろうと思い、眠ってしまう。これは眠くなったので、過去の思い出など思い出している場合ではないためだ。床についてから思い出を思い出すようにしているのだが、きりがない。
「忘れないでください」「忘れないで」「覚えておいて欲しい」「このことはずっと胸に刻んで貰いたい」等々、数えれば百も二百にもなるだろうか。その中には「忘れないで欲しい」ということを忘れていることもある。
 この「忘れないで」は世話になった人や、または不本意ながら怨まれている場合、恨み言としても残っている。「決して忘れないぞ」「一生覚えておくからな」等々。
 今村は義理堅いので、可能な限りその「忘れないで」を取り出すのだが、忘れないように思い出していると、数が多いだけに朝までかかる。そんなことを朝までやっていたのでは睡眠不足だ。ただ、そこまでいかないのは、途中で寝てしまうためだろう。そして朝から、また「忘れないでシリーズ」をやらないといけないとなると、ただの思い出しマシーンになってしまう。溜め込んだ録画番組を全部見るには一生かかったりするようなもので、生きている暇もない。
「忘れないで」に麻痺すると、その一つ一つが薄くなり、覚えているかどうかだけが問題になり、記憶ゲームになったりする。
 最初の頃は思い出す度に胸に来るもの、つまり実感があったが、何度も何度も思い出していると、もう薄いもにになってしまった。
 逆に思い出すつもりなどないのに、急に思い出したこと、そちらの方が鮮度が高いのか、実感がある。だから、無理に忘れないように思いだしたものは、迫ってくるものがない。
「忘れないで欲しい」と言われたり、「忘れないでおこう」の定番以外に、今村にも普通に忘れられない思い出がある。これも似たようなもので、何度も何度も思い出していると、実感が薄れる。
 それらとは別に、意外といつまでも覚えているものがある。それは実に何でもないようなことで、大事なことではない。例えば海水浴場の海の家で食べたおでんが美味しかった。これは重みも意味合いも何もない。案外こういうのを思い出すのだ。
 これは雪山で遭難した人が、じっと救助を待つ間、思い出していたのは人生ではなく、野辺に咲いていた花だったり、子供の頃買いに行ったたこ焼き屋の屋台だったりする。つまり、たわいもないようなものが、最後の最後に脳裏に浮かんだりする。幸い救助され、あとでその話をしたので、この話は伝わっている。
 今村にもそれがあり、忘れてはいけない大事な記憶の合間合間に、実にたわいない思い出が飛び込んできたりする。また、忘れてはいけない事柄ではなく、それで急に思い出した、別の事柄へ移行する。あのとき着て行った上着は高かったとか、そのあたりだ。
 今村は几帳面に、今夜も蒲団に入るとそういう忘れてはいけない事柄を思い出しているのだが、ふと目を開けると、蒲団の横に何人も何人も順番を待っている人が通夜のように座っていたりする。
 
   了


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2016年03月23日

2845話 菜の花の頃


「菜種梅雨と言いますなあ」
「最近雨が多いです」
「だから、菜種梅雨と言うのですよ」
「菜種」
「菜の花です」
「ああ、菜の花」
「昔は油を取っていましたから、菜種」
「菜種油ですか。じゃ、何か菜種梅雨って、油っこい雨が降っていそうですねえ」
「暖かくなってきましたからね。それに冬の乾燥した日じゃなく、湿っぽくなってます。湿気が多いのでしょ。それで、ねちっとした感じになり、これが油っこい印象を与えたりします」
「春雨とも言いますねえ。鍋物には欠かせません」
「夏と冬は無視して、春雨と秋雨はありますなあ」
「しかし、この雨、いつ止むんでしょうか」
「小糠雨とも言います」
「あ、まだその話ですか」
「糠です。米の皮です。籾殻をさらに粉にしたもの。だから細かい。だから、細い雨です。細雨です」
「言葉の豆知識より、この雨いつ止むんでしょうねえ」
「それは辞書にはない」
 男は先ほどからの豆知識をスマホを見ながら言っていた。
「天気予報はどうなってます」
「先ほども見ましたが、今日は一日雨。朝方止むかもしれませんが、当てにならない。こんなの信じてはだめ」
「結局本当に知りたいことは、スマホでは無理ですか」
「あなた、そんなに雨が気になりますか」
「いえいえ、降っていても止んでいても、それほど関係はありませんが、晴れている方が気分が良いので」
「そうですなあ。菜の花はねえ」
「まだ、その話ですか」
「光るんです」
「はあ」
「明るい花です。薄暗くなってきても、菜の花は電灯のように明るい。あれは照明になりそうです。だから、菜の花畑は夜でも明るかったりしますよ」
「いや、そこまでは」
「私はねえ、この菜の花で充電するのです」
「はあ」
「菜の花畑があればいいのですが、最近少ない。しかし、畑の中にちょとだけある。それをじっと見ていると、どんどん充電され、元気になる。陽の気が入るのでしょうねえ」
「そうなんですか」
「試しにおやりなさい。じっと菜の花を見ているだけでよろしい」
 良い話を聞いたと思い、帰り道、菜の花を探した。一般の畑にはなく、家庭菜園の畑に黄色く輝く眩しいような菜の花をやっと見付けた。
 そして小糠雨の中、男は菜の花の黄色をじっと見続けた。
 その夜、陽ではなく、風邪が入ったようだ。
 
   了



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2016年03月22日

2844話 天の啓示の正体


 竹村は「来たな」と感じた。感じるかどうかは本人の勝手で、個人の判断に委ねられる。国際的な事案を決めるような大層な話ではないが、似たようなものだろう。ただ竹村の事案は個人的なものだ。しかし多少は複数の人間に関わるため、それなりに責任がある。まあ、それは責任を取れば済む話だが、きっと上手く行くと思っている。そうでないと決断できない。
 ところがその決断に対して「来たな」という現象が起こった。この現象はジンクスで、竹村だけが分かる情報だ。例えば雨や風が強く、出鼻をくじくとか。これは進めないわけではないので、ただそのお知らせだ。天気を知らせてくれるわけではなく、その行為に対しての天からのメッセージ、警告だ。これは何度も知らせてくれる。雨でなくても留め男のように、バタリと人と出合い、その日は目的地へ行けなくなったとかだ。この留め男を無視して行けば、進めないわけではない。お知らせとはその程度のもので、物理的に進むのを止めているわけではないが、偶然鉄道事故が起こり、しばらく電車が止まることもある。これも半日も止まるわけではなく、数時間以内に復旧することが多い。また、タクシーを使えば行ける話だ。
 今回は二度三度と、そのお知らせが重なったので、これは余程やってはいけない流れなのだと竹村は受け取った。さすがに四番目は来なかった。仏の顔と同じで三度までらしい。三回続けば気が付く。今回竹村は一回目で気付いた。天が流れを変えようと、前方に何かを置いたのだ。最初は雨だった。
 二回目も物理的な現象で、雨と似ている。そして三度目は故郷の夢を見た。懐かしい時代に戻り、家族や幼馴染みと花見の宴。目が覚めたとき、じーんとくるものがあった。これが警告の夢であることはすぐに分かったが、この分かり方は、少し強引だ。
 つまり、平穏な暮らしぶりはいらないのか、という警告だ。これは警察での取り調べで、お母さんの話とか、故郷の話を合間に入れるようなもの。
 しかし度重なる警告を無視し、竹村は強行突破した。結果的には散々な目に遭った。しかし、この行為により、展望が開けた。新たな平原に出ることができたのだ。新天地がそこに拡がっていた。
 ではこの流れを何度も止めようとした天からのメッセージは何だったのか。それは最後に見た故郷の夢にヒントがある。それは平穏ということだろう。この天の神は平穏な神で、冒険家ではない。
 つまり、竹村にとっての村であり、その村を大事にする神様なのだ。警告が出るのはそういう行為に出ようとしたときだろう。当然これは竹村の心の中から発生していることだ。
 しかし、そういう日に限って雨が降ったり、別の日では鉄道事故が起こったりする。これは心の中での話とは少し違う。個人の気持ちだけの話ではなく。
 雨や鉄道事故は結構起こっているが、それほど気にしていない。これはやはり外部だけで起こっていることだろう。それを内部と結びつけるバイパスがあり、これを天の神と呼んでいるのだろうか。
 結局竹村は今までの殻というか、平和な安全地帯に暮らすだけの発想では何ともならないため、それを突破し、新たな世界に飛び込めた。これはずっと願っていたことでもあるのだ。
 また、何も得られずに終わっても、より現実的な方針が固まるだろう。
 
   了


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2016年03月21日

2843話 無為の人


 住宅地の真ん中に、ポツンと公園がある。近所の人は単に一本松と呼んでいる。昔は田圃の中にある小高い岡のようなもので、それもまたポツンとあった。その公園のベンチにポツンと座っている老人がいる。春先になると出てくる老人で、その滞在時間は一時間ほどだろうか。何もしないで座っている。さすがに辛抱はそこまでで、飽きるのだろう。一時間が限界のようだ。
 古墳は戦中、盛り土が削られ、平らになっていた。何のために平らにしたのかは今も分からない。すぐにでも土が欲しかったのだろうか。
 昔の絵地図や写真では田圃の中に大きな松の木がポツンと一本だけ立っている。その古墳の上にだ。それらも含めて消えてしまったのだが、戦後公園化するため、三分の一ほどの規模で、盛り土された。古墳のレプリカだ。そこは立ち入ってはいけない場所になっているが、子供は平気で柵を越え、滑り台よりも低い小山を駆け上ったりして遊んでいる。
 松の木は消えたが、桜などが植えられ、公園を取り囲んでいる。その端に滑り台などの遊具もあるが、メインは古墳だ。
 老人は桜の木の下のベンチにいる。ぽかぽか陽気の良い日だった。
 老人は何もしないで小一時間いるわけではない。すぐ上を見ると、鳥が来ている。古墳を覆っている芝生にも雀が来ている。
 雀は芝生を食べているのではなく、巣作りの材料を集めているのだろうか。藁や細い枝をくわえて飛び去っていく。そしてまたやって来る。桜を食べに来る鳥も休みなく突いている。歯がないので、クチバシを大きく開け、そのまま飲み込むようだ。
 公園に誰かが入ってくると、それらの鳥は全て飛び立つ。鳩は別だが。
 ところがこの老人、木のすぐ下にいても鳥は逃げない。動かないので人だと思われていないのかもしれない。雀もすぐ近くまで歩いて来る。鳩は老人の近くには来ない。餌をくれる人ではないためだろうか。
 鳥たち始終動いており、忙しげだ。有為なことをやり続けているのだ。人が来れば飛び立ち、去ればまたやって来る。その繰り返し。何処にも遊びがないように思える。やるべきことをやっている。
 老人は羨ましく感じる。自分は何もせず、座っているだけ。正に無為に過ごしているだけ。
 しかしこの老人、それが目的だった。早く無為に過ごしたかったのだ。それを今果たしているのだが、鳥たちの動きを見ていると、無駄なことでもいいから、何かをやっている方が良かったのではないかと、ふと思い直した。
 なぜなら、ここで座っているのは一時間が限度で、暇で暇で仕方がない。望んで無為を得たのだが、あまり良いものではなかったようだ。
 
   了


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2016年03月20日

2842話 小僧の足の裏


 子供の僧侶が池端の土手下にいる。そこは小さな街道が走っており、旅行く人も結構いるが、地元の人が多い。
 子供で僧侶なので、小僧だが、実際には修行僧だ。そんな小さな頃から仏門に入ったのは、実家が食べていけないため。小僧は三男で、その食べ口がない。しかし小僧は大きくなれば僧侶になることを望んでいた。これは俗界を捨てるということだが、それ以上に高僧に憧れた。この高僧とは厳しい修行を積んだ僧侶で、諸国行脚に出たりしている。小僧はそういった高僧に弟子入りしたのだが、旅の途中、はぐれてしまった。こういうときは近くの寺院に聞けば、おおよそのことは分かる。いわば迷子になったことを、各寺と連絡を取ってくれる。
 そこを通りかかった旅人。これは若き武士。こちらも武者修行中。いずれも修行中という名分で、結構遊んで暮らせる。若き武士もその口だが、土手下の小僧は、真面目なようだ。
「どうかしましたか」
「はい、お師匠様からはぐれました」
「はぐれた」
「はい」
「じゃ、そのうちお師匠さんが探しに来るでしょう」
「そうだと思い、ずっとここで待っているのです」
「そうですか」と武士は立ち去ろうとした。
「あの」
「何かな」
「実はこの近くに妙源寺というお寺があるはずなのです。そこへ行ってもらえませんか」
「近いのか」
「はい、あの森のある場所の近くです」
「それは通り道。よろしいでしょう。で、行って何をすればよい」
「宅一はここにいると伝えて下さい」
「誰に」
「お師匠様が先に着いて待っておられるかもしれませんから」
「妙源寺の住職かな」
「いえ、修行僧の宅悦和尚です」
「それなら、行けばいいではないか」
「はい、でも、身体の様子がおかしくて」
「分かった。病んでしまったので、来てくれ、と言えばいいんだな」
「はい」
「しかし、どうして、途中ではぐれたのだ」
「野盗の襲撃を受け、離ればなれになりました。それで、うまく逃げたのですが、お師匠様を見失いました」
「分かった。身体が悪いようだが、それまで、気を確かにな」
「はい」
 若き武士は妙源寺にいるはずの宅悦和尚を訪ねたが、立ち去ったあとだという。ここの住職とは共に修行した竹馬の友だけに、数日は滞在するはずなのに、挨拶だけで、すぐに旅立ったという。
 若き武士は小僧が気になり、すぐに引き返した。
 土手沿いを歩いていると、小僧は土手に上がったのか、池を見ている。
 下から少し近付いたとき、これは……と、武士は気付いた。
 小僧は土手に立っているのだが、足の裏が両方とも見えている。
 土手下で見たときは、気付かなかったのだが、浮いているのだ。
 若き武士は小僧もその師匠も野盗からは逃げ切れなかったことを知った。
 
   了


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2016年03月19日

2841話 裏道の徳三郎


 裏道の徳三郎がいる。裏街道、裏の社会を歩いている男ではなく、車が少ない裏道を歩いているだけの男なので、それほど語ることでもない。これは近道だと誰でも通るだろう。それにそこが裏道だとは思っていないかもしれない。車の多い幹線道路から見てこその裏道、抜け道なのだ。これは近道になったり、大きな道路が渋滞しているとき、裏道を使うことがある。この場合、裏道の徳三郎言うところの裏道には該当しない。逆に車が多いため、幹線道路の歩道を歩いている方が安全だったりする。しかし、徳三郎は、そういう道は滅多に歩かない。これをメジャーな道と呼んでおり、メインストリートと呼んでいるが、郊外によくある幹線道路だ。
 徳三郎は幹線道路沿いの店舗や、ビルなどの裏側に面した通りが好きだ。これは並行して走っていることが多い。その楽しみは裏が見えること。表は綺麗になっていても、裏口は結構ぞんざいで、汚らしいことがある。それを見ると、ほっとするらしい。
 また、住宅地の中の道でも、左右の門や玄関口のある通りではなく、もう一つ裏側の狭い道に入ると家の裏に出る。裏と裏とが背中合わせになった通り、洗濯物を干していたり、庭があれば、庭木や道沿いに鉢植えが並んでいたりする。当然、駐車場は表側の道に面しているので、車の姿は滅多にない。
 表があれば裏がある。さらに横もある。当たり前の話だが、徳三郎の楽しみは、そういった裏道、横道沿いの散策コースを歩くことで、また新規に開拓することだ。こんなもの開拓しても、一円にもならないが、目の楽しみにはなる。
 裏通りは結構ゴチャゴチャしており、表通りよりも隙がある。油断しているのだ。表ではすました顔をしていても、裏で間の抜けた姿を晒していたりする。両方見ても真実など分からないが、何となくその持ち主が想像できる。
 徳三郎が特に好きなのは、人目がないことを幸いに、結構汚いままの塀や裏庭を見ることだ。捨てるに捨てられないような大型ゴミに近いものが積まれていたり、伸び放題の枝や雑草で覆われた庭とかだ。
 裏道の徳治郎は、そうして裏道散策をしているとき、一番見たかったほどのレベルの高い傑作な裏側を見た。期待以上の荒れ方で、雨戸が半分閉まっているが、その雨戸も破れている。長く開け閉めしていないのか、もう動かないのではないかと思えるほど。それと途中で折れた洗濯竿。これは珍しく竹製だろう。えげつない庭が残っているものだと感心しているうちに、何処かで見た覚えがあることに気付いた。その「もしや」は当たった
 裏道の徳三郎の家だった。ぐるぐる回っているうちに戻ってきたのだが、案外自分の家のすぐ近くはじろじろと観察していなかったのだろう。
 傑作は自分の家の裏側。それなら何も裏道伝いに見て回る必要はなかったのかもしれない。
 
   了


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2016年03月18日

2840話 自然な動き


 自然な動きとは、流れだろう。そういううふうに流される。または流れて行く。川の水ならそれが自然な流れ、自然の流れとして分かりやすい。
 自然な動きとは、あまり躊躇せず、すんなりと進めることだろう。これは悪しきことでも善いことでも。そのため自然な流れ、これを動きと考えれば、良いも悪いもない。単純に言えば癖や習慣、性癖のようなものかもしれないが、結構意識的なセンスも関わってくる。
 しかし、この流れ、旬がある。流れに乗っているときと、そうでないときや、他のこととも関係するため、タイミングもあり、常に自然な動きをしているわけではない。何等かの抵抗体があれば、堰ができているようなもので、流れは止まってしまう。
 スポーツなどで、リーグ戦のように短期間の間に何試合もある場合、初戦が大事とされている。ここで勝つとその後の流れが良い。実際最初の躓きが後遺症になり、力を発揮できないまま敗退することもある。
 人の行為は決して自然界のような自然さはないが、いつの間にか乗ってしまう流れがある。流れているということでは同じ。それを押し出している源流や高低差は幻想かもしれないが、意識の流れというのは確かにある。この流れに乗ると、乗らなかった場合よりもすんなり事を運べたりする。これを自然な動きと言っているが、自然には善意も悪意もない。
 流れがいいと調子に乗る。お調子者のことではなく、調子が良いので、どんどん進めるのだ。しかし、調子の良い人とはあまりよい意味では使わなかったりする。絶好調なのはいいが、いつまでも続かないと思われる。しかし、調子に乗っているときは、調子が続くまで乗り続ければいいのだろう。
 しかし、高い調子ばかりではなく、静かな流れもあり、これもまた自然だ。有名な音楽で、源流から海までの川の流れを曲にしたものがある。高低差が少ないと、流れも静かになるし、川幅が広いと、湖のように静かになる。
 自然な動きとは、何かの押し出しで決まるのだろうか。
 個人が持っている、この流れは、本人にしか分からない。非常に不自然に見え、常識から離れているように見えても、本人にとってはごく自然な動きなのだろう。
 
   了



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2016年03月17日

2839話 身の程知ってる


 持田は身に余るものは持たない。だからいつも貧乏臭い格好をしているのだが、最近の衣料品は結構オシャレで、貧乏臭さを売り物にしているものはないだろう。むしろ上等そうなシンプルなデザインで、値段の安いタイプが貧乏臭い。これは見た目で、何となく分かる。一番分かりやすいのは、持田を知っている人が見れば分かる。
 決して持田は生活に困るほどの貧乏ではない。それなりに働いているので、それなりの給料は貰っている。職を何度も変えたため、年のわりには年収は低いが。
 生活が苦しくなるため、高い品物を買わないわけではない。車も持っている。軽ではなく、普通車だ。ただし中古だが。
 身に余り手に余るものとは、その能力がないのに、そんなものを持っていることだ。持田もいいものが欲しい。しかし、それをこなすだけの力がない。それにふさわしい実力がない。こういう場合、背伸びしてできるだけ良いのを使う方が将来を見越した投資にもなるが、持田には見通しがない。
 自分自身を振り返るタイプの人で、内省の人だ。毎晩反省大会をやっており、誰にも見せたことのない日記があるようだ。ここに事細やかに記録されているはずだ。
 そういう力もないのに、そういうものを持っていると誤解される。そして、できる人だと思われる。ところが持田は、それほどできない。ただ物事の輪郭はよく理解している。世の中にはどういうものがあるのかについては人一倍詳しい。しかし知っていることと、できることとは違う。できないが知っている。しかし、できる人だと思われて、結果的には恥をかく。見掛け倒しの人だったと思われる。これが嫌なのだ。そういうことが何度もあり、手に余るものは持たないし、自分のレベル以上のことはしなくなっている。
 これは少し神経質な面があるようで、気にしていることは非常に丁寧に配慮するが、気にならないことでは平気だ。
 あれほど神経質な人が、何でここはお留守になっているのかと、しばらく付き合ううちに分かってしまう。妙なところで抜けているのだ。神経の使い方が丁寧なのか、粗っぽいのかよく分からない。それで変な人として扱われている。実はこれが正解で、早くそう思って欲しいようだ。早く自分の正体、実態を知って貰った方が楽なのだ。
 持田はハッタリを使わないが、もの凄くできる人のように思われる。それは顔立ちや仕草が達人のように見えるし、言葉の使い方も丁寧で、また教養もありそうなためだ。しかし中身はそれほど詰まっていない。皮一枚だ。
 さて、その反省日記、内省記だが、一番多く書かれているフレーズは、身の程知らずではなく、身の程知ってる人であれ、だろうか。
 
   了
 

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2016年03月16日

2838話 夢物語

 君原は夢から覚めた思いになった。まるで悪夢でも見ているような日々だったが、最初はそんな感じではなかった。いい思い付きだったのだが、徐々に崩れていき、あとは修羅場のようになり、やがて、それも終わり、結局夢を果たせずに終わった。
「夢から覚めた思いです」君原は落ち着いた頃、師匠を訪れた。暴れ回っていた頃は師匠のしの字も思い出さなかったが、我に返ると急に師匠のことが気になった。夢中になっていた頃は会いたくても会えなかったのだろう。きっと説教されるに違いないので。
「夢から覚めたと」
「はい」
「悪夢でした。それから覚めました」
「覚めたその状態、なおも夢の中の如し」
「はあ」
「夢から覚めても、この世は夢。同じことさ」
「いや、もう悪い夢は見ないようにします。だから、現実に戻ったのです」
「その現実が夢」
「いやいや、そんなことを言い出せば師匠、ずっと夢の中ですよ」
「人生は夢を見ているようなもの」
「ああ、そうとも言いますが、それはまあ……」
「まあ?」
「一つの感想でしょ」
「うむ、感想か。確かにそうじゃな」
「あれも夢、これも夢なら、ここにいる師匠も、私も夢の中に出てくる人物になりますよ」
「まあ、そう言うな。闇の中、一筋の道がある」
「はい」
「そこで一寸休憩し、一眠りする」
「はい」
「そこで見たものが、その人の一生だ」
「はあ」
「うたかたの夢」
「師匠はそういう常套句が多いので、困ります」
「師匠とは、そういうものじゃ。世間話をしても仕方がなかろう」
「はい」
「それで、これからどうするね」
「また、別の夢を見て、それに向かいます」
「そうか、業の深い」
「夢を見るのが業ですか」
「煩悩じゃのう」
「しかし現実も夢なら、気が楽です」
「そうか」
「夢から覚めれば、その真っ暗なところで覚めるわけでしょ」
「覚めても、見た夢など忘れておる。道だけが続いていておる。それが道かどうかは分からんがな。とりあえず歩いておる。真っ暗なので、そこが何処なのかは分からん。そしてまた途中でうたた寝し、夢を見る。そこは明るい世界。つまり、今ここにいる現実と同じ。この現実、うつしよとも言う」
「現世ですか」
「まあ、そう語るのが坊主の役目なのでな。暗いところは常世にて、根の国。黄泉国とも言う。そこで見る夢の世界が即ち浮き世。浮いておるのじゃ」
「はい」
「さあ、もう飽きたであろう。こんな話は。もう立ち去るがいい。旅立つがいい」
「新たな夢を見付け出し、それに向かいます」
「その方がよかろう。こんな寺に籠もっていても、何ともならんからな」
「はい、また節々で顔を出します」
「ああ、君の夢物語を聞くのを楽しみにしておるぞ」
「はい」
 
   了


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2016年03月15日

2837話 垂井の一族


 垂井の北に古い村落がある。それほどの田畑はないのだが、豪邸が残っている。農家にしては大きすぎる。植え付け面積と屋敷数とが合わない。米だけでこんな家は建たない。それが一軒だけならまだしも、殆どの家が大きいのだ。大きな農家があるとしても、村の全ての家が豪邸なのは珍しい。
 この地は垂井氏の本拠地らしい。垂井というのは地名で、垂井一族は地元民ではない。ここを占拠した一族というより軍団だ。そのとき、垂井と名乗った。
 この垂井は大名にはならなかったが、大きな勢力のまま、大名家の傘下に入った。
 垂井一族が垂井に根ざしたのは神代の時代ほどに古い。鎌倉幕府以前、まだ武家が天下を握っていなかった時代からだ。その系図が残っているが、何と飛鳥時代から続いている。
 元々はこの国の始まりの頃からいた有力者の家来が垂井の祖だ。特に軍事方面で活躍していた。だが中央での勢力争いから内乱が起こり、その鎮圧で都を離れ、地方へ出兵していたのだ。こうして各地に出兵し、反対勢力を押さえに行った一族は結構多いが、中央であっさりと負けてしまい、その有力者は亡びた。しかし、主力軍の殆どは地方に散らばったまま。
 垂井軍は垂井周辺を占拠し、敵側の勢力を押さえ込んだのだが、中央には戻れず、姓も垂井と改めた。
 平家や源氏が出てくる以前の武家なのだ。この垂井家と似たような一族が全国至る所にいる。あのとき出兵して戻れず、その地で根を下ろした。そんな一族の数が二十家とも三十家ともいるとされる。いずれも中央を牛耳っていた大勢力の中枢軍で、それが中央にいなかったので、負けたのだろう。だから、数が多い。
 その中にはただの百姓になったり、大名や、その家来に仕えたりしながら生き延びてきた。一番多いのは豪族や大庄屋になったケースで、垂井家もそれだ。
 歴史の表舞台から早い目に消えてしまった有力者だが、その家来衆は生き延びていた。
 江戸時代になると、その二十家か三十家の中には商人になるものも出てくる。垂井家がそうだ。豪邸が多いのはそのためで、米など作っていない。ここが垂井家の本拠地だったので本家や分家の実家のようなものが固まっている。
 この家来衆、全国に散らばったが、ネットワークは生きており、連絡し合っていた。主家を復興させるために。
 しかし、それは二代三代目までで、その後はその望みも消えたようだ。現在でもこのネットワークは生きており、秘密結社とは行かないまでも、それに近いルートを持っているようだ。
 
   了

 
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2016年03月14日

2836話 目覚め


「目覚めが大事です。目覚めが」
「はい」
「朝、目が覚めたときのね。物事に目覚めたとか、そっちじゃない。もっと具体的だ。従って毎朝目覚めていることになる。昼寝からの目覚めもあるので、目覚めの数は非常に多い。だが、その目覚めが大事なんだ」
「寝起きの問題ですか」
「そうだ。これは肉体的なことだけではない」
「他に何か」
「目が覚め、意識が戻ってくる。まあ、気絶していたようなもので、意識は一時途絶える。考え事をしながら寝ていても寝てしまうと中断し、もう考え事などしていない。あとは夢のお任せだ」
「はい」
「意識が戻ってきた初っぱな、これが大事なんだ」
「すぐにトイレへ行きますが」
「それもあるが、また起きて面倒なことの続きをしないといけないのか、などで目覚めたくなかったりする。また今日は楽しみにしていた物が宅配便で届く日だと、さっと起きる。楽しい日になりそうだからな」
「はい」
「春夏秋冬、目覚めの悪い季節もあるが、調子のいい日々というのは目覚めもよろしい。これは当然体調も良好なときで、いつものような日を過ごす場合も、特にプレッシャーはない。苦しくはない」
「あのう」
「何だ」
「何が言いたいのでしょうか」
「言いたい?」
「はい」
「別に青年の主張をしておるわけじゃない。年寄りが感想を述べておるだけじゃ」
「要約すると、良いペースで生きている人は、朝の目覚めもいいんでしょ」
「そうだ。これは体調とば別のところで、決まる」
「でも朝、目覚められるだけ、いいですよ」
「どういうことだ」
「そのまま永眠ということもありますし」
「それは楽でいいではないか。極楽往生じゃないか」
「そうですねえ」
「私が言いたいのは、この目覚めの良さは日頃の心構えで決まる。日頃の行為で決まる。悪いことをすると目覚めの悪いことになる。だから生きている間はこの目覚めが目的となる。いい目覚めなど大したことではないが、ここで計測できる。日頃の行いがな」
「成果は目覚めに出ると」
「そうそう」
「しかし目覚めが良すぎると朝からテンションが高くて、血管が破れそうですが」
「だから目覚めの良さの、その良さの質が問われる」
「はい」
「仏様のように静かに起きるのがいい」
「今、仏像が布団からムックと出て来る絵が出ました」
「その涅槃の境地は無理としても、当たり前のように起き、一日を始める。決して布団の中でグズグズしない」
「されているのですか」
「たまにな。これはまあ体調が悪いときはそうなるし、また起きる直前に嫌な夢など見て、それこそ夢見が悪い朝もある」
「はい」
「物事の本質よりも、そういった朝の目覚めの良し悪しに結果が出る。ここを見ておけばいい」
「見ているだけですか」
「それを目安にして、心がけや行動を修正するのじゃ」
「面倒臭そうですが」
「まあ、目覚めの悪さは何かの警告。きっと反省すべきことがあるはず。それを知るだけでもよろしい」
「はい、有り難うございました」
「君が素直に聞いてくれたので、私の明日の目覚めはいいだろう」
「あ、はい」
 
   了


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2016年03月13日

2835話 阿弥陀籤


 二歩三歩進んだとき、一寸行き詰まり、嫌な雰囲気になることがある。方針を間違えたのではないかと不安がよぎる。そんなはずはない、道は間違っていないはずだと何度も確認するのだが、あまり説得力がない。これは自分に対して。
 そんなとき、一歩下がることを考えるのだが、一歩程度では今の方がいい。元気になれば、また一歩進むのだから下がるだけ損だ。そうではなく、もっと後退した方がいいように思える。未来への分かれ道は過去、通り過ぎた枝道の中にあったりする。
 では何歩下がればいいのだろうか。下がり過ぎると来た分もったいない。やはり今の道で合っていたのなら余計な足だ。
 しかし前に進もうとしても、なぜか雰囲気が悪い。足取りが重い。この重さは何かが間違っていることを知らせているように思える。ただ、思っているだけかもしれない。そのため、ここを我慢して通過すれば楽になり展望が開ける。と自身を説得するが、それが効かないとなると重症だ。やはり道に迷ったのではないかと考える。
 さて、それで一歩後退ではなく、かなり後戻りすれば逆に新鮮だ。もう忘れていたような場所になる。特に非常に良かった場所だと、何処から悪くなったのかを考えるチャンスとなる。
 これは阿弥陀籤のようなもので、阿弥陀様も殺生なことをなさる。手のひらで迷わせているのだ。手のひらの皺、筋のようなものが道だとすれば、そこを彷徨っているようなもの。手相は一種の地図のようなもので、いろいろな道、街道、枝道、細い道などが書き込まれている。
 阿弥陀籤は阿弥陀への道だが、道順を間違えると、スカとは言わないまでも、そこで終わる。より深いところまで行けば、さらに良いものが得られるだろう。
 脳の皺の中にも、その阿弥陀籤があり、これは選択という分かれ道で、籤を引いているようなものだ。
 隣の阿弥陀道が見えていても、バイパスが見つからない。かなり引き返さないとその道へは出られないが、出たとしても、その先は大したことはなく、それなら以前の道の方が伸び代があるのではと考えたりする。
 さて、何処まで戻るかだろう。戻ると決心した限り、思い切った遡り方をした方が威勢がいい。二歩以前とか、三歩以前とか言わず、十歩も百歩も遡る方が良かったりするのだが、何処まで戻ればいいのか、そのポイント地点が問題になる。
 これは勘やイメージで、適当にあたりをつけている程度だろうか。確信があるわけではない。
 また、結局元の道に戻ってしまったとしても、二度目通るときは、また趣が違い、新たな枝道を発見するかもしれない。前へ向かうだけが能ではない。
 
   了
 

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2016年03月12日

2834話 毒男と薬男


 何でも無いものから何かを見出すというのは、余程ネタが無いのだろう。大人しくしている何でも無いものを波立て、荒立ててしまう。そのままではきっと何でもないままで、平和なものだったに違いない。
 しかし、世の中には何でもないものなどない。何等かの因果関係や、繋がり、色々な事情で、それがある。ただ、今は大したものではなく、何でもないものとして、大人しくしている。
 だが、弄くれば、色々と物騒なものが出てくる。
 重箱の箱田と言われている嫌な男がいる。重箱の隅を突く悪意のある男だ。当然誰からも嫌われている。下手なことを言おうものなら、色々と詮索されるため、迂闊に話もできない。職場では毒男とも呼ばれている。非常に細かいことにこだわるため、仕事をさせればきめ細かく丁寧なので、上からは評価されている。
 箱田は最初は小さなことでイヤミを言ったりする程度だったが、徐々に調子づき、毒舌となり、つまり毒を吐く毒男にレベルアップした。
 しかし、世の中よくしたもので、自然界のように天敵がいる。毒男の天敵は薬男だ。これは薬を飲み過ぎた男ではない。人の心の病を治してくれる男で、所謂癒やし系。そのためこの薬男は別名癒やし男とも言う。卑しい男とではないが、その面が少しはある。この職場には女性はいないので、他では毒女、薬女もいるだろう。
 箱田は薬男の富山を苦手とした。毒づいても効かないのだ。箱田が何を言っても、富山は優しく包み込む。この包み方が赤ちゃんをあやすような感じのため、箱田はついつい心を許してしまいそうになる。だから、張っていた気が緩みそうになるので、苦手とした。吐き出そうとしてた毒を飲み込むようなもので、ダメージが自分に来る。
 しかし、上司は毒男を評価していた。それは部下に対して言いたいことを、この毒男が変わって言ってくれるためだ。しかもえげつなく鋭利に。そしてダメージを与えるほどの強烈さで。ただし、この箱田、上司にも毒づく。
 一方薬男だが、上司は評価していない。職場がやわらぐが、コミュニケーションばかり良くなり、馴れ合いになる。そしてミスが多くなる。
 だから上司は本当に害をもたらす毒は、この癒やし男、薬男だと暗に分かっている。
 しかし毒男を擁護すると、それこそやり放題になるため、その押さえとして薬男も大事にしている。
 毒は薬にもなるし、薬は毒にもなるという単純な話だが、世の中そこまで分かりやすくはできていない。
 
   了


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