2016年07月31日

2975話 領主のいない土地


 戸数五戸、山間の更に山間、襞の更に襞にある村。村という規模ではないが、地名がある。酒井。この地に暮らしている人達は同じ家系ではない。この奥になると、もう畑も作れない。
 この酒井村落、赤城村の小字。この山間部、田畑があちらこちらに散らばっており、大きな集落、つまり農家が集まっているような場所は少ない。少し下流に盆地があり、そこは普通の村里だ。当然領主がいる。家々も固まってある。
 ところが酒井村落は長年年貢を収めていない。領主は遙か遠方の守護大名の家系で、手柄を立て、その褒美で貰った土地だ。戸数五戸の土地、しかも遠い。そんなところまで年貢の米俵を運べないだろう。また取りにも来ない。その旅費で数倍の赤字になる。それで、最初の頃は委託していた。そういう小さな飛び地から年貢を集金に回るような業者がいた。これは運送関係の集団だ。当然物騒な時代なので、護衛が付く。砂漠を行くキャラバンのようなものだ。または、近くの大きな村に任せたり、代官がいれば、一緒に貰う。
 別に年貢は米でなくてもいい。この時代、今で言う小切手や手形に似たようなものもあったが、換金できるかどうかは分からない。だから銭の方が強い。
 ところがその領主、守護職の家系だが、没落し、その後、この飛び地も忘れられた。しかし、鎌倉幕府から頂いた領地なので、その土地はまだその領主のものだ。
 酒井というのは、酒井の方という人の名から来ている。側室の一人だ。その化粧領。本当に化粧代にしかならない程度の領地。幕府から頂戴した領地を、側室に与えたのだが、その領主も側室も、そんな領地など行ったことも見たこともない。
 酒井の地は、当然大きな村にも所属しているので、そこにも年貢を払っているが、これは年貢ではない。一応大きな村の中にある村なので、生活共同体なのだ。だから、町会費を払う程度のもの。
 その酒井村落、三世代目、孫の代になっても年貢を払っていないので、裕福と言うことでもない。
 五家の家族が住んでいるのだが、村長はいないが、何となく五家で寄り合い、揉め事があれば、そこで話し合っているが、それで解決できないときは、領主は遠いので無理なので、大きな村に持ち込む。
 今までそんなことはあまりなかったのだが、そこに旅の侍が現れた。こんなところまで来るような用事がないはずなのだが、これが酒井の方の縁者だった。殿様から貰った紙切れを持っている。鎌倉幕府お墨付きの権利書のようなものだ。
 その侍、側室の酒井の方の実家の人で、今は牢人だ。酒井の方はもうお婆さんになったが、遠い山国に領地があることを、聞き、酒井家の当主になったこの侍が、そこを訪れたのだ。
 つまり溜まりに溜まった年貢があるはずだと。それよりも自分の領地があることが嬉しい。領地とは、年貢を取ってもかまない程度のもので、領主の私有地ではない。
 まあ、それを請求しに来たわけではないが、行くところがないし、仕官先もないので、ここで暮らしたいようだ。温和で知的な印象があり、村人も、悪くは感じなかった。それに始めて見る御領主様だし。
 結局酒井家の当主は、この村の殿様になった。実際には村長だが、その規模ではない。
 しかし、この侍、諸国を遍歴してきたのか、色々なことを知っている。さらに武芸と言うより、兵法学者でもあった。これは単に本を読んだ程度のことだが、その弟子が集まりだした。
 領主のいない村ではなく、後には領主の血筋の人達で溢れる、武人の村になり、大きな村にも進出し、豪族となった。
 この豪族の守り神として尼僧の木像が祭られている。化粧領の持ち主だった酒井の方を忍んで、あの侍が掘らせたものだ。その侍、老いた尼さんの顔しか知らないが、若い側室時代に似せて彫らせた。
 
   了
 
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2016年07月30日

2974話 諸行無常


 日常生活と諸行無常は馬が合わない。そりが合わない。日常というのはずっと続くような状態だ。諸行無常の無常とは、常がないこと。常の状態、いつもの状態はないという意味だ。祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きありで、この言葉は有名だ。
 時は流れ、時代も流れる。そのため風景も違ってくる。ただ、昨日と今日とではあまり変わらない。十年ほど同じような風景もある。また、変化していても僅かな部分なので、気付かなかったりする。
 故郷の山は変わらないが、高圧線や電波塔が立っていたりする。当然そんな山並みも、近くに高い建物ができると、もういつものように眺められなくなる。
 諸行無常の世の中だからこそ、変わらぬものが貴重になる。しかし、ものによりけりだ。
 世の中が変わるのは人が変わるため。同じ人が千年も二千年も住み暮らしているわけではない。町の人もところてん式に入れ替わる。また、いきなり町ができれば、そこからがスタートだ。
 普遍的なものも変わったりするので、やはり諸行無常なのだろう。鐘が鳴り響いている。
 動植物も進化するが、虫などが生きている間に、その虫自身が、その世代中に大きな変化を見せることはないだろう。それに自然界の生物は、世の中の移り変わりなど、あまり興味がないのか、本能にはないのか、食べて生き抜き、種を残すことで始終している。しかし、多少の遊びはある。ただ、腕組みしながら、昔はああだった、こうだったとは思わないだろう。腕が組めなかったりするし、腕か足かよく分からない。
 ゴキブリなどは昔の殺虫剤では効かないことがある。これも生きるために必死で、強くなったのだろう。このペースは結構早いかもしれない。何世代かかるのか分からないが。結局それは人と関わるためだろう。
 だから、人の手が付いていないところは、結構昔のままが残っていたりする。
 万物は常に変化する。だから、変化する方が実は日常的なのかもしれない。
 
   了

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2016年07月29日

2973話 見ているもの


 鞄が気になるとき、町に出たとき、鞄ばかり見ている。他のものも見ているのだが、特に鞄を注目して見ている。靴ではなく鞄を。靴が気になるときは、靴を見ている。鞄ではなく。自転車が気になるときは、いつもよりも自転車を多く見ている。それで、神が気になる人は神ばかり見ているわけではない。普段見えないためだ。悪魔が気になる人も同じ。妖怪が気になる人は妖怪ばかり見ている。ただし、これも見ることはできないので、実際には見ていないが。
 では靴も鞄も自転車も神も見ていないときは、何を見ているのだろう。ごく一般的な町並みや人や、服装や、車や景色を見ているのだろう。心のわだかまりがなく、ありのままの物を普通に見ているのだろうか。ただ、神が気になるのはわだかまりとは言わないが。
 こういう注目して見ているものは、ここ最近気になることで、それが靴や鞄なら平和な話だ。ただの買い物の話、スタイルの話だろう。ただ、そこまで注目するのは、自身の中の少しだけ深いところ、機関部に触れるためかもしれない。ファッションなどはそうだろう。持ち物に何かを投影させている。
「最近の注目ポイントは何ですか」
「昨日までは視力だった」
「はあ」
「今日は遠くの方までよく見える。それが見えないときがある。中間距離もね。見えているのだが、もっと鮮明に見えている日がある。これは何かと考えた」
「それが最近気になることですか」
「外に出たとき、気になるのはそれだね。しかしこれは普通に見えるようになれば、もう気にならない」
「はい」
「天気にもよる。曇っている日は鮮明度が落ちる。また、空気が違うのか、遠くが難しい。そういう日は見えにくいのだが、いつもよりさらに見えにくい場合がある。これは目のせいだ」
「目医者や行かれては」
「そこまで悪くはない。寝起き、本を読む。活字がぼやけている。起きてすぐなら、そんなものだろう。それに近い問題だ」
「はい」
「外の景色以前に先ず自分の目を見ている。これは基本だろ」
「まあ、そうですが」
「これは昨日までで、今日は花を見ている」
「はい」
「花の色だ」
「はい」
「あの色は誰が見ているのだろう」
「虫じゃないですか。蝶々とか」
「ほう」
「人は」
「人に見られても、花にとってあまり役に立たないでしょ。千切られたりしますので、逆に敵です。だから虫の足を期待しているのでしょ。蜜や色で誘っているのですよ」
「虫は色が分かるのかね」
「それは知りません」
「じゃ、深山で誰にも見られることなく咲いている花というのは嘘だね」
「そうです。鳥や虫が見てますよ」
「人が見ていないだけか」
「そうです」
「じゃ、奥ゆかしくも何ともないのか」
「そうですねえ」
「それで、君は何を最近注目しておる」
「ああ、外に出たときですか」
「そうだ」
「特にありませんよ」
「そうだろうねえ。それで普通だ」
「はい。でも、気になるものは少しはありますよ」
「ほう」
「いつ取り壊されるか分からないような古い家とか」
「あるじゃないか」
「もの凄く気になるわけじゃありませんよ。他人事ですからねえ」
「うむ」
「それとか、店屋ができていたりすると、何屋かと、気になります。その程度です。一般的でしょ」
「神は気にならんか」
「見えているものでないと」
「神社は」
「あれは神そのものじゃないですから」
「そうか。じゃ、悪魔は」
「そういう映画を見たあとなら、気になりますねえ。悪魔に取り憑かれた少女の話など見たあとは」
「ほう」
「暗い通りをエクソシストが退治しに行くのです」
「それはいいねえ」
「でもいつもじゃないですよ」
「うむ」
 人は何を見ているのか分からない。聞いてみないと。
 
   了

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2016年07月28日

2972話 神と妖怪


 神や仏になり損なって妖怪になったのではなく、妖怪が先にあり、それが神になったと妖怪博士は最近考えている。西洋では妖怪のことを妖精とか精霊と呼んでいるが、妖怪博士が勝手な想像をするように、人種により、想像に違いがある。これは環境に依存しているのだろう。
 日本の神様は何処にでもいる。山には山の神、海には海の神、木には木の神。万物に神が宿る。これが妖怪に近いのではないかと考えるのは当然だろう。数が多いと品質が落ちるわけではないが。
 インドの神様、これも数に限りがある。それほど多くはいない。仏もそうだ。名の知れた仏など限られている。
 ただ、もっと素朴な動植物に対しての信仰がある。動物、これは数が多い。これも妖怪に近くなる。
 要するにアニミズムだ。自然信仰というもので、これはそのものがあるのではなく、あくまでも信仰で、想像上のもの。自然界には精霊が宿っているというやつだ。これも数が多い。妖精の数より多いだろう。
 アニミズムは自然が対象だが、机や茶碗が変化して妖怪になると、これは物になり、物怪と言われる。自然界からは離れるが、万物の範囲内に入る。森羅万象となると、最大に拡がる。何でもよくなる。物だけではなく、物事まで含まれる。あらゆる現象が。
 西洋の妖精は見ることができない。また、妖精は人とは関わらない。ただ、何かの拍子で関わったり、姿が見えてしまったため、妖精がいることが分かる。滅多にないだろう。これは日本の修験者が似たような体験をするようだ。自然界の中にじっといると妖精や妖怪が見えるのではなく、感じるのだろう。それには当然形はない。
 神社の御神木に両手を当ててもたれかかっている人がいる。セミではない。何かを吸収しているのか、または抜いているのかは分からない。もし体内の悪い物を抜いているのだとすれば、御神木が枯れたりする。ガス抜き攻撃をモロに受けて。
 注入しているのだとすれば、これは何だろう。何が入ってくるのか。
 これは大木を見たときに感じるものと関係してくる。あまり細い木では、そのオーラーのようなものは感じないだろう。これは一種の畏怖感ではないかと思える。本当は怖いものなのだ。人間の寿命を遙かに超えても生きているのだから。また深い森に一晩座っていれば、どれだけ怖いか。
 この畏怖感、怖さ、恐れをうまく取り込めなかったものが妖怪変化のように、モロのまま存在していることになる。
 だから神になれなかったのが妖怪ではなく、うまく神として作れなかったので、出来損ないのような形になったのだろう。 神様は拝んでいる限りは神様のままだが、放置すると、妖怪に戻ったりする。だから下手に神は弄らない方がいい。
 妖怪博士がそう思うのは、神社などへ行ったときだ。もっと色々な神様がいたはずなのだが、祭られなかった神、つまり祭ろわれなかった神が多くいるはずだと。祭られている神などほんの僅かで、そして本当の神様は、祭る必要はないのかもしれない。数が多すぎるので、実際には不可能なのだが。
 尾が二つに分かれた猫又などはどう考えても存在しない。妖怪画に出てくる妖怪など、誰も見た人はいない。この世はそういう風にはできていないのだが、そのようにできているというのも、一種の幻覚かもしれない。あくまでも人間の五感では感知できないのだろう。
 だから、見える人には猫又が見えるわけではない。尾が二つに分かれているというのは人の想像内でのことで、動物の持つ何か得体の知れないものを形にしただけのことだろう。
 と、夏の暑い盛り、妖怪博士は汗を流しながら、そういうことを考えていたのだが、この話の聞き役の担当編集者が夏風邪でダウンしたのか、最近来ないようだ。
 
   了

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2016年07月27日

2971話 縁起が良い


 縁起がある。験が悪いとか、ゲンクソ悪いとか言う。縁起が悪いのは縁が悪いのだろう。縁の起こりやなれそめが悪いとかもあるが、「こいつは春から縁起がいいや」という縁起の良いものもある。
 験が悪い、ゲンクソ悪いは、何かをやっていて、途中で焦臭いことになり、縁起が悪かったのかと思うときにも使うようだ。最初は縁起が良かったのに、その縁の効き目があまりよくなくなったとか。縁が良いのだから、その後も上手く行くはずなのに、その効能が切れてきたのだろうか。それでゲンクソ悪いとまで言ってしまう。きっと最初はゲンクソ良かったのだろう。
 まあ、物事は途中で賞味期限ではないが、験が切れることがある。金の切れ目が縁の切れ目などもそうだ。
 当然白紙の状態で、どれを選んでも似たようなとき、縁起の良いものを選んだりする。しかし、そのときはまだ縁はできていない。見ているだけ、眺めているだけ。そこに縁を感じるかどうかは本人次第。本人の中にある何かとコンタクトがあるのだろう。繋がりのようなもの。これは抽象的だ。
 この縁とは馴染みのようなものかもしれないが、今まで馴染んでいたものではもうだめで、もっと別の縁が欲しいとき、違う縁を選ぶこともある。だから馴染みとか親しみとは関係がないのかもしれない。
 まあ、そういうことは何とでも言えることで、縁起が良いとか悪いとかも実はその部類だろう。他に説得力のある情報がないので、情報の「情」だけで判断するような。
 また縁がありすぎると臭くなる。おおよそ正体が分かってしまっているため、新たな展開が期待できなかったりする。
 ある国に、異人がやってきて、その異人が神になったりする。その異人は単なる異人種で、その世界では平凡な人でも、別のところではもの凄く珍しいもののように見える。自分達とは違う何かを持っているような。これは今でも顔立ちや体型が全く違う他国の人を見れば、その感じは残っているだろう。
 スペックや仕様では決まらない神秘的なオマケが欲しいのだろう。ただそれらも慣れ親しむと臭くなる。
 
   了

 
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2016年07月26日

2970話 川上の村


 見るべきものがない、と言いながらも何かを見ている。目が開いている限り、何かが目に入るだろう。また目を閉じていても、何らかの映像がある。目を閉じた瞬間、まだ目の前のものを見ている。それは瞼だ。しかしこれはそれほど分厚くないのか、明るさが分かる。そしてそんなものこそ見るべきものではないので、すぐにやめるが、今度は模様のようなものが現れる。これは眼病ではなく、直前の光がまだ残っているのだろう。しかし、起きているときはそこまでで、やはり目の前のものを目玉で見ている。ところが寝る前とか、静かにしているとき、思い出の映像などが出てくる。つまり思い浮かべるということだ。映像を浮かべているのだ。このときは目玉で直には見ていないが。
 さて、見るべきものはないと思うのは、見慣れてしまったり、特に興味を引くようなものがないときだろうか。当然目で視覚的に見ているとは限らない。
 高島は散歩が好きだが、見るべきものがないような場所でも出かける。散歩なので、それほど遠い距離ではない。軽装で手ぶら。煙草やケータイ程度はポケットに入る。財布も。
 そして散歩のメインは目ではなく「歩」だ。「歩く」だ。歩くことが目的、移動することが目的のようなものなので、目の楽しみは二の次。
 ある日、何がきっかけなのか分からないが、子供の頃遊んだ小さな川を思い出した。幅は一メートルもないだろう。子供だったので飛び越えるのに勇気がいった。高島は生まれたときからこの町に住んでおり、昔は田んぼが多かった。だからその川だろう。メダカがいたし、カエルや虫がいた。ザリガニも蛇もいた。
 それを思い出したのは他の場所で、子供達が排水溝で遊んでいるのを見たためだろうか。あんなところに生き物などいるのだろうかと不思議だったが、小さな水槽に小さな虫が入っていた。それを思い出したのかもしれない。
 あの川はどうなったのか、などとはもう長い間思い出さない。用事がないためだろう。
 これはいいことを思いついたと、見るべきものを得た。すぐに出かけ、その川があった場所まで行く。もう田んぼはないので、住宅地の中を流れていたが、蓋の付いた暗渠にはなっていなかった。道にするほどのものではない。車が入れないほど細いためだ。その川は整備され、その横を細い道が続いている。車も通れないし、また人が通るにしてもすれ違えないほど狭い。川には柵がなく、しかもカーブとなっている。危ない場所だ。
 一般道路からその川沿いの小道に入り、しばらく歩くと記憶がよみがえってきた。確か農家が川沿いにあった。もう農家ではなくなっているが、今風な屋敷になっている。しかしそこに植わっていた木はまだ残っていた。この一本の柿の木だけで土地勘が戻った。場所が分かるのだ。この先を行けば、川は広くなる。つまり少し上流で二つに分かれているのだ。これは農水路のためだろう。だから、遡るほど幅が広くなる。そこにはフナやモロコがいた。当然今はいないだろうが。さらにその先はお隣の町になり、子供にとっては他国。見知らぬ異国になる。
 高島は分岐点まで行き、さらにその先へ向かった。
 しかし川沿いの道は狭いまま。これはあり得ない。分水点の向こう側は一般道路で、道は広い。それが細いままになっている。
 高島は勇気を出して、そのまま川沿いの道を遡った。
 そして道幅が細いまま町へ入ったようだが、そこは昔のままの農家があり、萬屋があり、その横で牛が休憩している。
 あり得ない。見るべきものがないので、高島は適当に映像化しただけのことだろう。
 
   了


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2016年07月25日

2969話 三度の食事


「朝昼晩と全部ご飯」
「そうです」
「それは用意が大変でしょう」
「そうなんですか」
「ご飯だけじゃないでしょ。おかずがいる」
「あ、はい」
「一日三食分のね」
「はい」
「味噌汁を一日三杯飲むと飽きる。しかも中の具が同じだとね。豆腐を入れたり、ワカメにしたり、ネギだけだったり、麩だけとか、油揚げだけとかでもいいけど、それはどうしてるの」
「あるものを入れてます」
「しかし、飽きませんか」
「いえ」
「それよりもメインのおかずはどうするの」
「はい」
「朝は鮭か、タラコだけでもいいけど、昼はどうするか、夜は肉でも食べますか。肉だけじゃだめなので、野菜もいる。問題は昼です。だから、昼はうどんとかパンとかでいいんじゃないですか。三食とも違うおかずは難しいですぞ」
「はい」
「はいじゃないですよ。それをあなた、毎日作るのですよ」
「いや、三度のご飯を食べられると言うことを果たせたので、そう思っただけです」
「三食ともご飯はやめなさい」
「同じおかずでもいいです。鍋物を作り、それを三回に分けて食べるとか」
「やってみなさい。飽きるから。夜だけ鍋物や煮物でもよろしい」
「鍋物を夜に作って、朝はその残りに卵を入れ、昼はご飯を入れて雑炊にします」
「それもいいけど、味は同じでしょ。それに夏場、そんなもの喉に通りますかねえ」
「はあ」
「それで飽きる。だからコロッケでも買ってきて、それをおかずに一食とかをおすすめします」
「コロッケだけでは栄養バランスが、結局ジャガイモでしょ」
「ビーフコロッケなら肉も入っています」
「欠片でしょ。あれじゃ肉を食べた気になりません」
「じゃ、トンカツでも、ミンチカツでも買って食べればいい」
「はあ」
「うどんかそばかパン、つまり麺類を間に入れるのです。これで残りの二食が生きる」
「でも、パンやうどんでは物足りなくて」
「食欲があるのはなによりですが、それならパンの個数を増やすなり、うどんに餅を入れるなりすれば、腹も大きくなります。面倒なら牛丼屋で牛丼を食べた方がよろしいかと、自分で作るより安かったりしますからねえ。それに楽です。洗い物をしなくてもいいし」
「じゃ、弁当とかも」
「そうです。おかずに困ったとき、また米を洗うのが面倒なとき、弁当を買ってきて食べる。三食とも毎日作り続けられるものじゃありませんよ」
「はあ」
「まあ、そういう決心をされたのなら、仕方ありませんがね」
「食べることに苦労してきましたので、三度の食事を精一杯食べたいのです。白いめしを日に三回。いやおやつの時間におむすびを入れてもいい」
「あなた、どこからで来たのですか」
「はあ」
「今まで食べてきたから、生きておられるのでしょ。なんやかんやと言いながらも食べているはずですよ」
「そうでしたねえ」
「それより、どちらからお越しですか」
「少し遠いところから」
「まあ、それ以上詮索はしませんが」
「はい、よろしくお願いします」
 
   了


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2016年07月24日

2968話 無策の策


「無策の策というのがある」
「何処に」
「ここに」
「どんな策ですか」
「だから、策がない」
「策というのは作戦とか、対策とか言う意味ですね」
「その策がない」
「じゃ、普通でしょ」
「そうなの」
「そんなものなしで、やっている人もいますよ。自然な流れというか、定番のようなな決まり事をそのままやれば、特に策など必要じゃないでしょ」
「そうなのか、しかし、私が言う無策の策とは」
「だから、そのままでしょ」
「しかし、これには深い意味がある。そのものにはないが、その過程にあったんだ。つまり、万策考えた。しかし良い案が思い浮かばなかった。最初から無策じゃない。何もしないで、最初から無策なのではない。ここが違う」
「はい」
「策、作戦だね。これを作りすぎて、いざ実行になると、面倒になる。その策通りやれば必ず成功するとは限らないからね。それに練りに練った策は、考え落ちになる。また実行するとき大作の策だと大層になり、やる気が失せる。策の通り、これが気に入らない。私じゃなく策がメインになり、策の言いなりになる。策に従うわけだ。これが気に入らん」
「でも、自分で立てた策でしょ。作戦でしょ。方針でしょ。対策でしょ」
「それが臭い」
「え」
「自分で作ったものはどれも臭い。それにそんな策を弄するタイミングがなかったりする。なぜあのとき、シナリオ通りの行動をしなかったのかと後悔するがね。また策を発動させる雰囲気じゃなかったとかもある」
「そうなんですか」
「それはまあ、別の問題だが、策を講じすぎると、妙なことになったりする。策の副作用。弊害だね」
「策士策に溺れるというやつですか」
「それに近いね。策と現実とは違う。その場で柔軟に対応できなくなる。そこまで考えた策は、複雑すぎて、間違いやすい。だから策はシンプルな方がいい。頭に留め置く程度のね」
「はい」
「それで私が考えた無策の策とは人より多く策を考え、考え倒し、その後、それを忘れる。使わない。そして、白紙のフリースタイルで望む。策は使わない。だから無策だが、ただの無策ではない。策を練り倒した後での無策のためだ」
「それでうまくいきますか」
「いかない」
「はあ」
「現実など読めるものではない。起こってみないと実際は分からない。それに策通り行動できないこともある。そこが機械と違うところだね」
「じゃ、最後の決め手は何になりますか」
「まあ失敗してもいいか、と思える状態で臨むのがよろしい」
「はい」
「参考になりましたか」
「なりません」
 
   了



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2016年07月23日

2967話 大和が沈んだ場所


 その場所が何処だか分からなくなっている。吉田が子供の頃、そこは田んぼの中にある巨大なグランドだった。一般の人は立ち入れない大企業の総合スポーツセンターのようなもので、学校の運動場の数倍はある。その向こうに大きな病院があり、この辺りでは一番高い建物だった。その病院はまだ残っており、グランドは超高層マンション群になっている。
 その場所、それは池だ。ため池だったのか、防火用水だったのかは分からない。グランドの端にあり、古くからある農道があるためか、そこだけは通れた。ただし、左右は金網などで仕切られている。池には金網がなく、そこには入れた。吉田はこの池を探しているのだ。
 これは子供時代を懐かしむ感傷散策に近いが、池がまだ残っているのではないかと、少しは期待している。ほんの少しなので、一割ほどの確率だ。なくて当然、埋められて当然。
 まずはグランドの周りを調べる。以前あったグランドよりも敷地が広くなっている。これは子供の頃見たものを大人になって見ると小さくなっているのとは逆だ。
 理由はグランドの周囲にあった農地もマンションの敷地にしたためだろう。全部の敷地がマンションになったわけではなく、グランド時代の広さのある公園ができている。昔のグランドは滅多に入ることはできなかったが、町対抗の野球や、幼稚園の遠足で入ることができた。場所的には重なるので、少しは懐かしめた。
 さて、池はそれとは反対側にある。そこは高層マンションが建ち並んでおり、その端の境界線が臭い。場所的にはその辺りだが、位置的にはマンション敷地内だろう。だから外に出てしまうと、ただの田んぼだった場所で、今は宅地だが、そこではない。すると埋められてマンションの下にあるのだろう。
 池までは田んぼの中を通り、グランドの端近くに達し、そこからグランド内の小道を行く。これが農道だった可能性が高い。右にメインのグランドや建物があった。左は池だけがあり、他の建物は思い出せない。駐車場だったのかもしれない。しかし敷地内であることは確かだ。
 吉田が境界線がどぶ川になっているのを発見する。これは農水路だろう。グランドの縁を堀のようにあったように記憶している。だから、その川沿いのグランド側に池があった。その農水路には入れない。道がないためだ。川だけが流れている。マンションと住宅地の間だ。どちらも裏側だろう。それで、池のあった場所を何となく推定できた。高層マンションの真下ということで。
 さて、その池が埋められたすれば、大和がまだ沈んでいる可能性がある。水を抜き、土で埋めたとすれば、その下に戦艦大和が。ただし地下室がないことが前提だが。
 戦艦大和。当然これは当時のプラモデルだが結構高かった。スクリューがあり、マブチのモーターで回った。プラスチックなので、火をつければ黒いススを出しながら燃える。最後の出撃というより、水に浮かべるのは最初で最後だが。
 水平に浮くように底に錘が付いていた。そのままでは倒れるためだ。そして、火を付け、燃やす。モーターを動かし、池の沖へと向かわせた。まっすぐ進まないのは言うまでもない。その後、石を投げるのだが、これは当たらないように投げた。しかし波ができ、大和は傾いた。火は水で消え、そのまま沈没した。
 その池で潜水艦も沈めた。これは残念ながら潜水しているとこを見ることはできなかった。イ号何とかという潜水艦だ。池の水が濁っており、よく見えないのだ。こちらはゴムを巻いて動いた。風呂屋で試したのだが、浮かび上がらなかった。錘が重すぎるのだ。
 他の子供も、戦艦長門を沈めたりしたので、この池には連合艦隊が眠っている。
 その上で寝ているマンション住人たちは夢にも思わないだろう。
 
   了
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2967話 大和が沈んだ場所


 その場所が何処だか分からなくなっている。吉田が子供の頃、そこは田んぼの中にある巨大なグランドだった。一般の人は立ち入れない大企業の総合スポーツセンターのようなもので、学校の運動場の数倍はある。その向こうに大きな病院があり、この辺りでは一番高い建物だった。その病院はまだ残っており、グランドは超高層マンション群になっている。
 その場所、それは池だ。ため池だったのか、防火用水だったのかは分からない。グランドの端にあり、古くからある農道があるためか、そこだけは通れた。ただし、左右は金網などで仕切られている。池には金網がなく、そこには入れた。吉田はこの池を探しているのだ。
 これは子供時代を懐かしむ感傷散策に近いが、池がまだ残っているのではないかと、少しは期待している。ほんの少しなので、一割ほどの確率だ。なくて当然、埋められて当然。
 まずはグランドの周りを調べる。以前あったグランドよりも敷地が広くなっている。これは子供の頃見たものを大人になって見ると小さくなっているのとは逆だ。
 理由はグランドの周囲にあった農地もマンションの敷地にしたためだろう。全部の敷地がマンションになったわけではなく、グランド時代の広さのある公園ができている。昔のグランドは滅多に入ることはできなかったが、町対抗の野球や、幼稚園の遠足で入ることができた。場所的には重なるので、少しは懐かしめた。
 さて、池はそれとは反対側にある。そこは高層マンションが建ち並んでおり、その端の境界線が臭い。場所的にはその辺りだが、位置的にはマンション敷地内だろう。だから外に出てしまうと、ただの田んぼだった場所で、今は宅地だが、そこではない。すると埋められてマンションの下にあるのだろう。
 池までは田んぼの中を通り、グランドの端近くに達し、そこからグランド内の小道を行く。これが農道だった可能性が高い。右にメインのグランドや建物があった。左は池だけがあり、他の建物は思い出せない。駐車場だったのかもしれない。しかし敷地内であることは確かだ。
 吉田が境界線がどぶ川になっているのを発見する。これは農水路だろう。グランドの縁を堀のようにあったように記憶している。だから、その川沿いのグランド側に池があった。その農水路には入れない。道がないためだ。川だけが流れている。マンションと住宅地の間だ。どちらも裏側だろう。それで、池のあった場所を何となく推定できた。高層マンションの真下ということで。
 さて、その池が埋められたすれば、大和がまだ沈んでいる可能性がある。水を抜き、土で埋めたとすれば、その下に戦艦大和が。ただし地下室がないことが前提だが。
 戦艦大和。当然これは当時のプラモデルだが結構高かった。スクリューがあり、マブチのモーターで回った。プラスチックなので、火をつければ黒いススを出しながら燃える。最後の出撃というより、水に浮かべるのは最初で最後だが。
 水平に浮くように底に錘が付いていた。そのままでは倒れるためだ。そして、火を付け、燃やす。モーターを動かし、池の沖へと向かわせた。まっすぐ進まないのは言うまでもない。その後、石を投げるのだが、これは当たらないように投げた。しかし波ができ、大和は傾いた。火は水で消え、そのまま沈没した。
 その池で潜水艦も沈めた。これは残念ながら潜水しているとこを見ることはできなかった。イ号何とかという潜水艦だ。池の水が濁っており、よく見えないのだ。こちらはゴムを巻いて動いた。風呂屋で試したのだが、浮かび上がらなかった。錘が重すぎるのだ。
 他の子供も、戦艦長門を沈めたりしたので、この池には連合艦隊が眠っている。
 その上で寝ているマンション住人たちは夢にも思わないだろう。
 
   了

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2016年07月22日

2966話 あ


「台風が来ているようだが」
「来ていませんよ」
「そうだったか」
「来ていましたが先週です」
「じゃ、去ったのか。まだ近付いて来ているのかと思っていた。その後どうなったのか音沙汰なし。心配していたが、楽しみにもしていた」
「台風が楽しいのですか」
「子供の頃からね」
「はあ」
「学校が休みになる」
「それはかなり接近しているとか、大きな台風か、雨が凄いとかでないと、滅多に休校になりませんよ」
「いや、昔はすぐに電車が止まった」
「はい」
「それとストも楽しみだった」
「私鉄のストですか」
「そうそう。これも休みなる」
「電車通学の子もいたんですか」
「小学校では、そんな生徒はいなかったが、先生が来られない」
「あ、はい」
「しかし、最近の台風は弱いねえ。家が丈夫になったのかもしれない。電柱もしっかりしているしね。昔からある建物も、倒れるものは既に倒れているからね」
「はい」
「梅雨はどうなった。明けたのかね」
「まだです」
「あ、そう。グズグズしているから台風に追い越されるんだ」
「春台風もありますよ」
「そうか、台風は秋だと思っていたよ」
「ところで、山田さんはどうなった。最近なかなか来ないが」
「この前、亡くなられましたよ」
「そうだったねえ。先週見かけたから、元気なら、来ればいいのにと思っていたんだ」
「亡くなられたのは半年前ですよ」
「そうか、じゃ、似た人を見ただけか」
「そうだと思います」
「ところで」
「はい」
「君は誰だった」
「あ」
 
   了

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2016年07月21日

2965話 老婆の喫茶店


 無国籍料理店。ただの大衆食堂のようなものだが、表の看板や飾りが原色系で派手だ。象の彫像なども飾られている。布を垂らし、それも密度の濃い柄で、初めての人は寄りつきにくい。
 真夏、ドアが開け放たれ、中がよく見えるようになっている。普通の店ですからどうぞお気楽にお入りくださいと言いたいのだろう。しかしそれでは冷房が効きにくくなる。そういうときは客が一人もいないときだ。主人もそのときは奥でくつろいでいたりする。開店してからしばらく立つが、それほど流行っているわけではない。土日でもっているようなものだ。
 平日の昼過ぎ、かなり回っているので、ランチタイムも終わった時間。飲食店が一番暇な時間だろうか。そこへ小腹を空かせた男が、焼きめしのようなものでも食べようと、この店に入った。インド風でもベトナム風でも、何でもいい。どうせ食材は近くのスーパーで仕入れたものだろう。外国のタマネギとか野菜が入っているわけではない。青梗菜だったりする。
 ドアが開いているので、男はすっと入り、入り口近くのテーブルに着いた。するとすぐに老婆が注文を聞きに来た。
「焼きめしのようなもの」と客は注文すると「はい」としわがれた声で老婆が答える。そして奥へ。
 しかし、焼きめしが出てこない。遅すぎるというより、作っている気配がない。音がしないためだ。厨房は見えている。誰もいないのだ。さらにその奥で作っているのだろうか。男はそう考え、少し待つが、やはり遅すぎるので、奥に声をかける。
 今度は中年男が出てきた。店の主人らしいがスカートのようなものを履いている。
「焼きめし、頼んだのですが」
「ああ、出ましたか」
「え」
「焼きめしですね。分かりました」
「あのう、出たって」
「ああ、お婆さんが注文を聞きに来たでしょ。あれは気にしなくてもいいのです」
 きっとこの主人の母親かもしれない。と、男はそれ以上興味を示さなかった。
 以前、ここは老婆の喫茶店と呼ばれ、年取ってからも長い間一人で切り盛りしていた。魔女ではないかと噂があったが、ある日突然店が閉まり、その後開くことはなかった。何かの都合で閉店したのだろう。その後に無国籍料理店が入った。
 喫茶店時代の常連客は、誰一人、この無国籍料理店には来ない。もし来ていれば、懐かしい老婆に会えるだろう。ただし、客が一人もいないこと、店に主人がいないときに限られるようだ。
 また喫茶店時代の常連客が来ている場合もある。かなり高齢の人で、この人も、客が誰もいないとき、静かに座っているらしい。
 
   了

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2016年07月20日

2964話 散歩者達が消えた


 怪談とは幽霊が出る話だけではない。幽霊は出なくても怪しい話がある。まるで幽霊のように正体がよく分からなかったり、存在しない話とかだ。幽霊会社の幽霊がそうだろう。幽霊が出る会社ではなく、会社そのものが幽霊なのだ。
 そういったビジネス街ではなく、普通の住宅地にある散歩コースに幽霊が出るという怪談が発生していた。吉村はそれを知らないで、そのコースを歩いてみた。夜に限られる。真っ昼間から幽霊が出ても、それが幽霊だとは思わなかったりする。幽霊にとってはガッカリだろうが。
 吉村は以前からそのコースを歩いていたのだが、どうも歩く方が健康には良くないと考え、ここひと月ほどは歩いていない。その根拠は、魂胆のようなもので、歩くのが面倒なのだ。それに体調の悪いときに歩き、脂汗が出たことがある。戻ってからも息がなかなか静まらなかった。だから元気なときに歩くことにしたのだが、そんな日は永遠に来ない。いつも何処かが悪い。どこも悪くない日でも元気がない。
 しかし、一ヶ月ほど散歩をやめると、体調の変化はないが、足腰が弱ったようになる。たまに出掛けたとき、歩くことがあるが、そのとき足が重い。これは僅かな距離でもいいから毎日歩いていると、やはり違うのだ。それで再開することにした。
 さて怪談だが、そのコース、周遊コースで住宅地を一周する。半周で戻ってもいい。そんな円を描いたような道があるわけでなく、井の字型に囲まれた場所だ。そのため、都合四つの道を通ることになる。角々で曲がるためだ。丁度吉村の住む町内を取り囲んでいるようなもので、顔見知りも多いが、昔からある町ではない。しかし二世代三世代目になると、すっかり馴染みができ、地元の人間になるようだ。吉村もこの町で産まれている。そして怪談は、いないと言うことだ。他の散歩人が。
 吉村がこのコースを歩いていると五人ほどとすれ違ったり、前後している。それらの人が掻き消えていた。一ヶ月留守にしている間に何かが起こったのだ。他の人も散歩に出なくなったのだ。そんなことは何年もない。雨の降る日は人は少ないが、それでもまったくいないわけではない。当然台風の日は吉村も出ないので、様子は分からないが。
 コースを間違えたのではないと思うほど吉村はボケていない。それで近所の人に聞くと、やはり出るらしい。散歩に出るのではなく、何かが出るらしい。
 これは吉村にもピンときた。たまに思うことがあるからだ。よくこのコースを歩いていた人が亡くなり、そのあと、その人が歩いていたりする。実際にはそんなものを見たことはないが、想像では、ある。もしそうなら怖いだろうなあと。
 吉村は、たまにすれ違う近所に人にも聞いてみた。するとやはり出るらしく、目撃したとか。それで、あの時間は散歩には出なくなったらしい。何を見たのかと聞くと黙して語らない。言わないのだ。しつこく聞いても、口を閉ざした。
 いつもの時間に歩いている散歩人達は時間を変えていた。吉村もその時間に歩くことにしたが、どうも気になる。あの時間帯に何が出るのか、見てみたい。
 ある夜、その時間に一周したが、何も出なかった。
 それを散歩仲間に言うと、そういうものかもしれないと答えた。
 あとは吉村の想像だがが、幽霊ではなく、人だろう。生きている人で、町内の誰かではないか。ただ名を出したくないし、言いたくないのかもしれない。
 最初はその時間、不審者というか、面倒そうな人が歩いているので、それを避けているのかと思った。
 一月後、その時間の散歩人は元に戻った。もうアレは出なくなったためだろう。
 
   了

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2016年07月19日

2963話 学僧のいる村


 明かりがすっと消えた。村人はほっとしたような顔で上を見ている。今夜は早くお休みかと。
 この明かり、山の取っ付きにあり、下からもよく見える。ただの庵の明かりだが、灯台の役目も果たしているのだろうか。夜中村内を歩くことは希だが、冬など日が暮れるのが早い。そんなとき、この明かりが目印になったりする。
 昔、そこは砦か城があった場所、そのため見晴らしが良い。上からも下からも。
 今は盛り土跡が少し残っている程度、炭焼き小屋や山入りのための小屋などもあった。そのあとに都の学僧が庵を結んだ。粗末ながらもそれなりの家だ。これは村人が建てた。年老いたため、都での仕事も面倒になり、山里で庵を結んだようなものだ。これは当然村人の協力がないとできない。歓迎されたのはいうまでもない。
 この学僧、公家の三男坊らしく、都育ちのためか垢抜けている。血筋もあるのだろう。
 しかし、年々老いが深くなったためか、最近では女衆が交代で世話をしている。学僧はそれを断ったのだが、村人は許さない。都の学僧が村にいるだけでも大したことだったのかもしれないが、別の意味もあったのだろう。
 昼間は村の子が遊びに来る。これは寺子屋のようなものだ。しかし寺子屋の師匠ではない。都の大寺院で学問を教えていたのだから、今で言えば一流大学の教授レベル。それが町内の学習塾で教えているようなものだろうか。
 夜は遅くまで明かりが灯っている。本を読んでいるのだろう。今夜は早くその明かりが消えた。先ほどからそれを見ていた村人は手を合わせ、何やら拝んでいる。
 その後も明かりが早く消える日が何度もあった。もう本を読む元気が失せてきたのかもしれないと心配する村人もいたが、実はそうではない。消えた方がいいのだ。
 しかし、暗くなっても行灯の灯らない夜は、流石に心配になり、女衆だけではなく男衆も走らせたりした。本当に寝込んでいる日もあったのだが、そうでない夜もあるのだ。そのあたりの判断が難しい。
 一人の村人が手を合わせて見ていた頃からしばらくして完全に明かりが灯らなくなった。それほど長寿ではなかった。
 しかし、その村人の願いは叶ったようだ。他でも似たようなことがあったのだろう。
 学僧と似たような顔立ちの村人が増えた。その中から非常に賢い青年が何人も現れ、村のリーダーとなった。
 学僧の晩年が短かったのは、やり過ぎたためだ。
 
   了
 
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2016年07月18日

2962話 出船入船


 ピンチはチャンスと言うが、引き込みの法則がそこにあるのかもしれない。そんなものは偶然だろうが、そうとは言い難い神秘事もある。
 高田はそれを感じているが、決して信じているわけではない。引き込みの殆どは因果関係がある。偶然臭くても、それが起こる自然さがあったりもする。そのため高田が感知していないだけで、しっかりと因果関係がある。というようなことを百も承知した上で、不思議な偶然を感じることがある。
 ただ、それ以上詮索しないのは、例え因果関係で成立していても、神秘事として受け止めた方が奥深いためだろう。この奥とは計り知れないという意味で、所謂人知では計り知れないことが世の中にあると思う方が、便利なときがあるためだ。絶体絶命でも助かる可能性がそこにある。実際には助からなくても何かの偶然が作用し、などと希望や期待を抱ける。
 さて、高田が感じている引き込みとは、少し話が違うかもしれないが、ものを失うと、ものが帰ってくる。出した分戻ってくる。
 失敗すれば、次は成功というわけではない。失敗のあと、また失敗がくるかもしれない。一度負けると負けが重なるようなもので、これは因果関係がはっきりとしている。
 良いことをしていると良いことが起こる。悪いことをしていると悪いことが起こる。しかしこの因果関係は壊れることが多い。悪いことばかりしている奴がずっと良い目ばかり見ていることもあるだろう。また、善人の善さんのように良いことばかりしている人なのに、いつもひどい目に遭っているとかも。
 神も仏も神罰も仏罰も、天罰もないようなものだ。
 高田が考えているのはそういうことではなく、出したら入るという程度だ。これにも法則があるのだろう。
 出船入船の法則と、高田は呼んでいる。あなた乗せない帰り船と続けると、歌謡曲になるが。
 神秘事は外ではなく、内で発生するのだろう。神秘事だと捉えたとき、それが神秘事になる。神秘事の扱いが厄介なのは、それが起こったあとで分かることで、前もって分からないことだろう。
 高田の出船入船の法則は、ただのオマケのようなものかもしれない。出船すれば入船で良いのが当たることがたまにあるからだ。
 
   了


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2016年07月17日

2961話 自主的行為


 さて、何をやろうかと三村は考えた。本当にやるべきことはあるのだが、そちら方面ではない。これは嫌でもやるだろう。そうではなく、自主的にやる方面だ。この自主的とは好きなことをやればいいのだが、これはこれでネタが続かない。面白いテレビドラマをまとめて見ても、見終わると、もう続きはない。似たようなドラマや映画を探し、それも見てしまうと、もうネタがない。これは果たして自主的かどうかは分からないが、好きな時間に好きなことをするということで、テレビドラマを選ぶことが自主的なのだ。他の人に選んで貰ったのではなく、自主的に。
 しかし、そのテレビドラマ、宣伝でよく見ていたし、評判になっているのを知っていた。自分で探し出したわけではない。そしてあまり評判になっていないものは三村は見ない。失敗するかもしれないからだ。
 この場合、何等かの情報を得て、それが導引となっている。まあ、人が作ったものを見ているだけなので、本当は自主的も糞もないのだろう。それにそんなものを見ている場合ではなかったりするし、また、ただの娯楽の過ごし方になるため、見なくてもいいのだ。
 大概のことは人の真似をしておれば、何とかなる。しかも多くの人がやっているような。
 さて、自主的とは、もう少し生産的なことだと三村は考えているので困っている。建設的と言ってもいい。これは何を作るのだろうか。または何を建てるのだろうか。きっと自分のためになることに違いないとは思うものの、いつもそれで失敗している。あまり結果が良くなく、徒労に終わるため。
 また、そのためにどれだけお金を突っ込んだのか分からない。随分と無駄な出費をしたものだと後悔しているが、そのときは役立つことだから、自分のためになると思っていたのだろう。それに何等かの行為をすることが好きだ。何かに向かっていることが。
 これはエネルギーの使い方の一種だろう。ガス抜きとは少し違い、何かを構築するための前向きな行為だ。
 しかし、何度もそう言うトライ、アタックを繰り返し、残念な結果になると、これは詐欺ではないかと思い出す。自分自身で自分を欺いていたのではないかと。
 さて自主性だが、自主性のない人間ほど自主性に拘るのかもしれない。三村がそうだ。本当は自主的なことが苦手なのだ。考えるのが面倒だし、本当に自主的なことは、何も考えなくても、既にやり始めたりしている。
 三村は薄いノートを閉じた。このノートは小学生が使うようなノートで、何かを始めるとき、そのノートに書き出す。まあ、イベントのようなものだ。一つのイベントに限ってのノートで、一冊ずつ割り当ててある。そのタイプのノートが何十冊も本立てに挟まっている。これは失敗の記録のようなものだ。
 計画を立てる。それを三村はノートを立てるという。白紙のノートから始めるという意味だ。本立てに立てるのではない。それは終わったときだ。
 しかし本当に自主的なことは、こんなノートの前でぐつぐつ煮詰めなくても、既に行動しているものだ。そのことに最近気付いた。思い付いたとき、既にやっているのだ。それを自主的云々とかも考えないで。
 それで三村は今回はノートを閉じた。幸い何もまだ書いていないので、メモ帳として使えるだろう。落書き帳でもいい。
 しかし、さっとやってしまえることは、あまり有為なことではない場合が多いのが、気になるようだ。
 
   了
 
posted by 川崎ゆきお at 08:56| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月16日

2960話 野趣の家


 高橋は怪しいものはないか、不思議なものはないか、神秘的な何かないかと街中をうろうろしているが、そんなものゴロゴロ転がっているものではない。下手をすると高橋が一番怪しいとなる。それで不審者と間違えられ、追いかけられるようなことはないが、遠くから遠巻きに見ている人がいる。これは明らかに失敗で、身のこなしが悪かったのだろう。
 塀に囲まれた細い路地で、そこへ入ろうとしていたのだが、監視の目がこれだけ集まると、流石にそれはできない。その路地の先に何があるのかは分からないが、おそらく何もないだろう。それよりも、そんなところをうろついている高橋の方が問題で、何かあると思われるだけ。
 それで日を改めて出直すことにした。地図でも調べたので、何処へ抜ける路地なのかはおおよそ分かるが、流石にこの路地は地図にはない。道ではないためだろう。隙間だ。
 こういう隙間は隣家との境界線で、少し間を開けているだけで、実際には人の家の裏庭の一部なのだ。当然一つの塀だけで区切ることもできるが、下水が流れている。これは家から出る水道などの水ではなく、雨樋からの水だろう。
 ドブと言うほどの幅はなく、十センチほど、深さも十センチ。だから樋と変わらない。
 さて地図だが、その樋のような排水路など当然載っていない。ただ、航空写真ではかなり続いているように思えるが、何せその路地の幅も1メートルほど。また、入り口から見た限りでは使わなくなった三輪車や竿竹や、桶や、石臼などが置かれている。人が通るようにはできていないのだ。樋のように雨水が通ればいいのだろう。
 そして地図ではその先はかなり続いているようだが、普通の住宅道路に達し、そこで終わっている。
 ただ、航空写真では緑の濃そうな家が一軒だけドブ沿いにある。廃屋だろうか、または放置された家なのか、庭木が伸び放題。そしてツタが建物を覆っているように思われる。これは通りからは見えない。
 その繁みのようになってしまった家は表側の道とも接していない。長屋の路地の奥にあり、ここは車は入れないだろう。ここも私有地だ。そのため表通りからも近付きにくい家だ。
 こういうのは鳥なら好きなように飛んでいけるだろう。おそらく鳥やコウモリの巣にでもなっているのかもしれない。
 数日後、高橋は服装を変え、今度は徒歩ではなく、自転車で突っ込むことにした。裏の余地からではなく、長屋の路地のようなところから。
 その長屋は長屋だけあって結構長いが、繁みの家はしっかりと見える。幸い長屋は空き屋が多いためか、人が出ていない。
 表通りから見られても長屋の誰かを訪ねて来た人に化けられる。幸い今回は町内の目はなく、誰も遠くからは見ていない。
 そして高橋は一気に長屋の路地を突っ切り、繁みの家に到着することができた。門があり、開いている。その先に母屋があるのだろうが、繁みの中だ。庭木も雑草も凄まじい。
 流石に門内に入ると、不法侵入。門に入ると、これは家に入ったことになる。通行人ではなくなる。
 後ろで気配がする。町内の人が大勢向こうから見ているのではないかと、高橋は恐る恐る振り返ると、長屋の子供だ。三輪車に乗っている。
「ここはどこ」と聞くと。「大家さん」と答えた。
 放置された家ではなく、これは大家というかこの長屋の家主だろう、その人の家らしい。だから中に人がいるのだ。
 その大家が出てくる恐れがあるので、高橋はすぐに引き返した。もう謎は解けたのだから。
 庭木の手入れをしないというのも、一種の風流かもしれない。原生林ではないものの、それに近い野趣を感じた。
 
   了


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2016年07月15日

2959話 通夜の宿


 梅雨時の雨、旅先での雨はかなわない。少し山奥にある村のためか、夏の雨にしては冷たい。昼間はいいのだが、日が沈んでからは寒いほど。その雨に遭った武者が岩室のようなところでしゃがみ込んでいる。体調が悪いようだ。
 そこを通りかかった旅の針売りが様子を聞くと、夏風邪をこじらせたようだ。薬売りなら、それなりの薬はあるのだが、縫い針では仕方がない。あくまでも針売りで、針治療の技は身に付けていない。
 武者はここで野宿するつもりだったらしいが、それでは身体に悪い。それで針売りが泊まる宿へ一緒に行くことにした。この針売りが定宿にしている農家だ。村では離れ家と呼ばれている。ぽつりとある一軒家のためだ。嫌われ者が住んでいる。
 武者は蓑を被り、針売りは合羽を羽織り、定宿の離れ家へ向かう。日は暮れかかっているように見えるが、雨で空が暗いだけ。
 離れ家は普通の農家で、雨戸の向こうに土間があり、廊下があり、そして障子が開いている。人がかなりいる。これは先客が多いので、針売りは相部屋を覚悟した。屋根のあるところで泊まれるのなら、問題はないが、ここで他の客を見たのは初めてだ。宿を貸す程度の農家のためだろうか。
 座敷に棺桶が置かれ大勢の人達が座っている。殆どが老人だ。座るところがないほどだ。
 廊下に出てきたのはいつもの家の人ではないが、取り込み中でもよろしければ、ということだ。
 つまり、通夜をしているらしい。この離れ家の主が亡くなったようだ。
 二人は別室に通され、すぐに結構な膳が出た。通夜のための料理だろうか。酒も飲み放題だった。
 武者はそれを飲むと身体が温まったのか、生き返ったように顔に赤みが差した。
 そしてたらふく食い、適当に蒲団を出して、寝た。針売りにとり、勝手知った場所なのだ。
 針売りは厠が近いのか、寝入ってすぐに催したのか、目を覚ますと、まだ障子に人影が映っている。大勢だ。朝まで通夜が続くのだろうか。結構賑やかで、笑い声も聞こえる。
 武者はぐっすりと朝まで眠り、少しは回復した。針売りはまだ寝ている。
 武者は厠が何処にあるのか分からないので、入ってきたときの障子を開ける。そちらは通夜をやっている座敷だ。この家で一番広い。もう誰もいないが、棺桶だけがぽつりと置かれている。
 針売りも起きて、家の者を呼ぶ。しかし、誰も出てこない。
 家中の部屋を見て回るが鼠の一匹も出ない。寝起きそうそう宿を立つ、つまり早立ちが針谷の習慣なので、宿賃を棺桶の横に置き、旅立つことにした。
 少し坂を下ったところで、村人と出合う。山仕事にでも出るのだろう。
 昨夜の通夜のことを話すと、離れ家の主人は村の鼻つまみ者だったので、淋しい通夜だったでしょうという。
 いや、大勢の年寄りが座るところもないほど来てましたと針売りが答えると、村人は不思議な顔をした。
 お二人とも見られましたかと聞く。武者も見たと答えた。
 村人は首を少しだけ横に振りながら、そのまま山へ向かった。
 
   了

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2016年07月14日

2958話 出る杭は打たれる


 杭が並んでいる。畑の淵だ。棒と棒の間に針金が張ってある。軽い策だ。その杭は農夫が打ち込んだもので、先を尖らせ、ゴツンゴツンと叩いて立てている。そのため、その気になれば簡単に抜ける。同じ杭が畑の中に何本か並んでいる。蔓を巻かせるためだろうか。
 その杭の中で一本だけ高い杭がある。最初から長いのだ。どの杭も長さは僅かに違うが、その一本だけは特別長い。農夫はある程度高さを揃える美学を持っており、その長い杭も可能な限り叩いたのだが、それ以上打ち込めない。
 つまり一本だけ頭を出している杭は何か目障りで、所謂出る杭は打ちたくなる。
 この出る杭は打たれる、の杭とは何だろう。これが釘なら分かる。しっかりと打ち込まれてなく、浮いている釘なら打ち込むだろう。これは釘を打つのを途中でやめたのか、または固くてそれ以上打ち込めないのか、あるいは貫通してしまい、釘の先が出てしまうためだろうか。
 目立ったことをしたり、余計なことをした場合、出る杭は打たれるの例え通りになることがある。出てはいけない。出しゃばってはいけないのだろう。しかし打たれない杭もある。それを打つと、あとが面倒になる杭の場合だ。出る杭を打った者があとで悔いが残るような。
 出る杭の人の場合、それは単独が多い。または少数。だから潰しやすい。ただ、繰り返しになるが、その杭の背後に面倒なものがあると、単純には潰せない。叩いた側がひどい目に遭う可能性があるためだ。
 また、出ている杭だが、打って低くしないのは、しばらく泳がせるためもある。出る杭も使いようで、その出る杭に集まる連中が溜まるまで待ち、一網打尽にしてしまうとかだ。
 では、なぜ出る杭は打たれるのか。出ていると、つい打ってみたくなるためかもしれない。
 
   了

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2016年07月13日

2957話 良い時代


「どの頃が良かったですか」
「はあ」
「いつの頃が良かったですか」
「今は悪いねえ」
「そうなのです。悪い時代なのです」
「それは知らないが、今は悪い」
「どんどん悪くなってきています」
「そうなんだ。その心配がある」
「いつの頃が良かったですか」
「あれは三ヶ月前だろうか」
「え」
「仕事が悪くなり、体調も悪くなる前までね。三ヶ月前がそうだった。あの頃が一番良かったねえ」
「はあ」
「何も考えていなかったわけじゃないけど、つまらんことをいろいろと考えていた。昔の映画などを続けて何本も見たりね。読んでなかった本を読んだりしていた。仕事は順調というより、今のように急激に悪くなることはなかった。平和だったねえ。呑気だったねえ。だから、好きなことをして暮らしていたよ」
「景気の悪化ですか」
「いや、景気とは関係ない。判断ミスというか、メンテナンス不足だ。放置していたのがいけなかった。それである権限を失った。それで悪化だ」
「それが三ヶ月前ですか」
「そうだね、あの頃に戻りたいよ」
「三ヶ月前なら最近というより、ついこの前ですよ」
「ああ、だから春のことだ」
「もっと以前のことで、どの頃が良かったですか。良い時代でしたか」
「さあ、昔の話は結果を見たからねえ。今よりも良い頃もあったけど、そのあとの破局を見たからね。だから長く続かなかったので、良い頃だとは思わないねえ」
「時代はどんどん悪くなっていると思うのですが」
「そうなの。いつの時代なの」
「だから、最近です」
「あ、そう。しかし私は三ヶ月前の状態に戻れれば、それで満足ですよ。好きなことでうつつを抜かしていた頃にね」
「それには」
「それにはね、まあ体調の回復を待つしかない。これ以上悪くなると困るがね。仕事はまあ、諦めて、別方面でやりますよ。そして順調に行けば、心置きなく、何の心配もなく昔の映画を見たり、ドラマを見たり、本を読んだりの生活に戻れます。これは体調が戻らなければ無理ですがね」
「ああ、はい」
「あの頃はのんびりしてましたよ。三ヶ月前ですが、その半年前は災難に遭いましてねえ。このときは悪かった。しかし半年後、何とか平穏になれました。だから、良い時は長くは続かないものですよ」
「良い時代を築きましょう」
「そんな大層な話じゃないですよ、あなた」
「あ、はい」
 
   了


posted by 川崎ゆきお at 09:08| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする