2018年07月21日

3691話 土用


「今日は」
「はい」
「暑いですなあ」
「どなたでしょうか」
「土用です」
 戸を開けると、ドジョウのような小男が立っている。
「はあ」
「このへんを回っています」
「土用といえば、ウナギを食べる日でしょ」
「いや、土用というのは夏だけに限ったことじゃありませんがね」
「ウナギの蒲焼きのセールスですか」
「いや、私が土用です」
「あなたが土用」
「そうです」
「暑苦しそうですねえ」
「私が来ますと涼しくなります」
「そうなんですか」
「土用が去ればもう夏は終わり」
「いやいや、暑い真っ盛りですよ」
「峠です。あとは下り、涼しくなっていきますよ」
「それはいいのですが、目的は何ですか」
「さあ」
「さぁって、目的もなしに、来たわけですか」
「そうです。それでこの町内を今、回っているところです。挨拶代わりに」
「何かサービスでも」
「サビスしましょうか」
「どんな」
「やめておきましょう。それをすると訪問販売になりますから」
「その方が分かりやすいのですが」
「そうですか。じゃ、麦茶とはったい粉をサビスします」
 土用は背中に大きな風呂敷包みを背負っており、それを下ろした。
「結局、麦茶にはったい粉売りですか」
「売り切らないと親方に叱られますが、まあ、無理にとは言いません」
「麦茶はいいですが、はったい粉は喉が渇きますよ」
「だから麦茶も一緒に売っているのです」
「これがサービスですか」
「値段、少しサビスします」
「分かりました。その方が分かりやすいです」
「おおきに」
「買いますが、はったい粉はどうやって食べるのです」
「砂糖を入れて混ぜてそのまま頂けます。香ばしいですよ。または湯を加えて団子にします」
「はい、有り難う。そうしてみます」
「これで親方に叱られないで済みます」
「ところで」
「はい、何か」
「あなた土用でしょ」
「そうです」
「土用が物売りをやっているのですか」
「土用を知らせに回るのが土用の務めです。それだけでは何なので、ついでに麦茶とはったい粉を売っているだけです。実は冬も土用があるのですよ。そのときはきな粉をまぶした温かい団子を売ります。
「つまり土用とはそういう物売りの総称だったのですか」
「さあ、それは確かなことは分かりません。私らが勝手に言っていることで、気にしないで下さい。
「ところで、土用って何ですか」
「知りません」
「あ、そう」
「お邪魔しました。暑い中、お付き合いいただいて有り難うございました」
 上田は暑くて目が覚めた。昼寝に失敗したようだ。
 
   了



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2018年07月20日

3691話 ナスコン


「ここはナスコンで行くか」
 デザイン室で加賀が呟いた。当然聞こえるように。
「ナスコンですか」
 何かの略だと思い、三村は意味を探った。合コンのようなもの、コミュニケーション系ではないかと真っ先に理解した。
「早速そうしてくれ、ナスコンだ」
 しかし、いきなりそんなことを始められない。用意するにしても、何のための集まりなのかも分からない。メンバーも必要だろう。
「それで決定だ」
 これ以上聞いても誤解した状態で進んでしまうと思い、三村は聞くことにしたのだが、カンの悪い男だと思われたくない。それにこの上司はものを聞くといやな顔をする。しかし、間違った方向で事を進めるよりはいい。
「ナスコンって何ですか」
「色だ」
「あ」
「メインカラーが決まらなかったんだが、ナスコンで行こう。今決めた」
 ナスコンとは茄子紺と書き、紺色。紺色とは赤みの掛かった青。または青味の掛かった赤。だから紫色のこと。その彩度がナスビに近いものを茄子紺と呼んでいる。若いデザイナーの三村には分かるはずがない。色目など色見本のカードやチャートを繰って指定するだけ。しかし、茄子のあの色を再現させるには、絵の具そのものに問題がある。
 それで三村は、丁度今の季節茄子がなっていることを思い出し、写真で写し、その色をスポイドでコピーした。本物の茄子の色なので、ベースとしては悪くない。
「この茄子、ちょっと黒いんじゃないかい」
「本物の茄子の色です」
「光線状態が悪いねえ。それで黒っぽい。まあいい。あとは私が茄子のあの色艶になるよう調整する。ご苦労だった。もういいよ」
「はい」
 茄子紺と言われていた頃の茄子の品種と今のとでは違うのだろうか。
「ところで主任、コンパなんですが」
「コンパ」
「はい」
「それがどうした。そんなことをやるのかね」
「はい。ナスコンを」
「茄子のコンパかい」
「そうです」
「それでナスコンです」
「そんなことしなくても、集まるのは茄子ばかりじゃないか。最初からナスコンだよ」
 そういう視線で見ると、この二人も茄子だった。
 
   了

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2018年07月19日

3690話 ベンチ


「もうこのへんでいいだろう」
 古田は木陰があり、ベンチがある公園を見付けたので、そこで終わることにした。つまり、それ以上先へ進まないと、ここを目的にすると。
 炎天下、散歩などしている人間はいない。一番暑い時間だ。古田はこの時間、いつもなら昼寝をしている。しかし何を思ったのか、散歩に出た。しかも家からもうかなり遠くまで来ている。徒歩距離で行ける近所なのだが、いつもは車で、細い路地などに入り込んだことはない。
 そこを抜けたところから坂になり、緑が多くなる。これはいい感じなったと木陰の下を歩いていたのだが、調子に乗りすぎ、歩きすぎたようだ。行きすぎなのだ。目的地がないので、行きすぎというのはないが、歩きすぎというのはある。離れすぎ。
 海水浴でも戻れることを考えて沖へ向かう。しかし徒歩の場合、進めなくなればそこで止まればいい。その止まる場所が見付かった。先ほど見た公園の木陰とベンチ。ここならさあ座ってくださいと待っているようなもの。他の何処に腰掛けるよりも安定した場所。人が座るためにあるベンチ。
 幹から少しだけ離れているのは根があるため。何の木かは分からないが、電柱のように立っているのではなく、根元に根の枝が露出している。だから少しだけ離したところにベンチがある。それでも充分日影を作っている。
 しばらく座っていると、意識が遠のいてきた。熱中症でやられたわけではなく、思考停止。物事を考えるとき、それをリードしている船頭のようなのがいる。それがいない。
 そんなとき、頭の中は空っぽになるが、今自分が何処で何をしているのかは分かる。意識は確かにあるのだが、それをあまり動かさないようだ。船頭が一服している。
 これはやはり疲れたのだろう。こんなに遠くまで歩くことなど想定していないので、水筒もない。途中自販機があったのを思い出したが、もう遅い。
 さいわい公園なので、水飲み場がある。小さな噴水のようなものだ。手で受けなくてもそのまま飲める。
 それを一口飲みに行く。そこは日影ではない。木陰から出た瞬間、カリッとする光線を頭部に受ける。帽子を被っていないことにそのとき気付く。いつも車なので、日除けの帽子など用はないし、陽射しのあるところをウロウロするような用事など日常的になかった。
 水を飲んでいるとき「私は水飲み老人か」と、妙な独り言を言ってしまう。
 そして、ベンチに戻ろうとしたのだが、目が変になったようで、ベンチがない。
 それがあった木はある。似たような木が数本あるので、見間違えたのかと思い、それぞれの根元を見るが、ベンチなどない。
 ベンチから立ち、そのまま直進した。だから振り返ればあるはず。それがない。
 しかし、暑くて頭がぼんやりしているためか、それ以上深く追わなかった。
 だが、もう少し休憩したいので、公園内を見渡し、ベンチを探すが、やはりない。どのベンチでもいい。すると隅っこの荒れた場所に壊れたベンチがある。
 しかし木陰ではない。
 まあ、いいかと思い、古田は帰ることにした。
 帰り道は下り坂になっているのか楽だが市街地に出て、また暑苦しくなる。行くとき見かけた自販機でスポーツ飲料を飲むとぼんやりとしていた頭はしっかりし始めた。まるで点滴を受けたように。
 そして、本当に大事なことなど忘れていた。もう頭にない。帰ってからの仕事などのことで、頭が満たされためだろう。
 大事なこと。それはどう考えてもおかしなことなのに思い出そうとしない。
 消えたベンチのことだ。頭の中からも消えてしまったのだろうか。
 
   了
 


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2018年07月18日

3689話 劇画時代


 ドンドンとドアを叩く音。所謂ノック音。しかし、ドアにガタがあるのか、ドアそのものが緩んでいるのかドンドンではなく、ドアドアと響きが鈍い。中のベニヤが張りをなくし、高い音が出せなくなっているのだろう。
「はい」
 宮崎は股火鉢ではないが、扇風機を跨いでいるところだった。
「わし」
 声で高岡だと分かった。
「開いてます」
「ああ」
 汗びっしょりの高岡が入ってきた。顔は真っ青、怖いものを見たのでも体調が悪いのでもなく、冬でもそんな顔色。これで誤解されるようだが、宮崎はもう慣れたのでその話題はない。高岡は首にタオルを巻き、麦わら帽。紐を解き、さっと脱ぎ、畳の上に置く。
「暑いのに」
「ああ、急に思い付いてね」
「あ、そう」
 宮崎は冷蔵庫から一リットル入りのコカコーラを取り出し、湯飲み茶碗に注ぐ。
「あ、ありがとう」
「これを」
 と、宮崎は団扇を差し出す。
 そして扇風機は宮崎を向いているので、それを二人とも風が来るように首振りにした。すると急にギィーギィーと音がうるさい。
「暑かったでしょ。駅からここまで田んぼばかりだから日影なかったはず」
「それより、理論誌を出そうと思うんだ」
「え」
「理論武装だよ」
「あ、そう」
「それで、その理論を考えながら、ここまで来たので、暑さなんて関係ないよ」
「何か良いのができましたか」
「いや、まだ構想の段階だよ」
「理論誌というのはどうやって出すの」
「最初は肉筆回覧誌でいい。君も書いてくれ」
「絵は書くけど、文章は」
「駄目だよそれじゃ」
 二人とも漫画同人会のメンバーだ。
「理論誌を出して革命を起こす」
「え」
「いや、同人会の話だ。このままでは駄目だ。筋が通っていない。何のための同人活動かが明快ではないし、何のために漫画を書くのか曖昧だ。そういうのを話し合ったことがないんだね。だから、理論誌が必要なんだ」
「はあ」
「まあいい」
「いいんですか」
「ちょっとそれをここに来るとき思い付いただけ」
「ところで、漫画は書きましたか」
「いや」
「書いてないっ?」
「まあ」
「カットでもいいから提出しないと」
「カットなら書けるけど、わしが書きたいのは劇画だ」
「さいとうたかをのような」
「違う、辰巳ヨシヒロがいい。そちらこそ正統派なんだ」
「はいはい。そういうことを理論誌で書くわけですね」
「そうだ。まずは足元から固めないとね」
「はい」
「その前に、少し横になってもいいかな。暑さにやられたようだ。一眠りすれば治る」
「暑いですよ、この部屋。昼間寝るのは危険です」
「扇風機があるじゃないか。それで充分」
「分かりました。たまに冷蔵庫を開けますから」
「ああ、そうしてくれ」
 高岡は何度も寝返りをうちながら寝ていたが、やはり暑くて寝入れないようだ。
「無理だな」
「そうでしょ」
「じゃ、帰る」
「大丈夫ですか」
「ああ、横になっただけでも、ましになった」
「夕方涼しくなってから」
「いや、戻ってすぐに理論誌を準備をするから」
「あ、はい」
 宮崎は駅まで送るため炎天下の田んぼ道を二人で歩いた。
「辰巳ヨシヒロもいいが、松本正彦もいいよ」
「はあ」
「これからは松本正彦の時代だ」
「はあ」
 バッタが一匹飛び上がったが着地に失敗したのか、よろけて、羽根をばたつかせた。
 
   了


posted by 川崎ゆきお at 10:49| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月17日

3688話 夏の扉


「暑いときはどうされてます」
「うんと暑苦しいことをやったりとか」
「余計に暑いですねえ」
「寒中水泳のようなものですよ」
「やりましたか」
「いや」
「じゃ、夏は何でしょう」
「体も焼けるので、やけくそになる」
「やけくそ」
「栓も緩むのでしょうなあ」
「それで何をされるわけですか」
「新しいことをしたい」
「暑い時期にですか」
「毎日同じことじゃ暑苦しい」
「それで、新しいことをですか」
「理由はそれだけ。新しいことをしたくてやるんじゃない。いつも同じだと暑苦しいためだ」
「新たな試みとか」
「そうだね。ガラッと趣の異なることとかね。まあ、自分にとっては新鮮なことなら何でもいいんだよ。また、しなくてもいいことだ。冬は閉鎖的、夏は開放的。だから開くんだろうねえ、何かの扉が」
「そうですねえ。冬場閉めていた窓も暑いので開けますからね」
「開いているから行ってみる。それだけだ」
「で、何が開いていました」
「今までとは別の方針や、違う方向、またはまだやっていないこと、等々だよ」
「いろいろとあるものですねえ」
「必要だからじゃない。暑いからだ」
「はい」
「それで新しいことを始める。最初は刺激があっていい。これで暑苦しさは少しは忘れる。熱中して体が熱い」
「やはり暑苦しそうですねえ」
「そのときは分からない。汗が出てきて、やっと分かるが、暑さなど忘れている」
「はい、それで新しいことは上手く行きましたか」
「これはただの刺激でいい。別に新しいことをやる必要もないからね」
「じゃ、上手く行かないわけですね。新しいことは」
「そうだね。冬場だとそれが分かっているから挑まない。それだけのこと。夏場は栓が緩むので、やってしまえるだけ。結果はやる前から分かっているようなもの。しかし、目的はそれではない」
「暑いので、やっただけということですか」
「まあ、無駄なことをして大汗をかいて、余計に暑くなったがね。しかし、それでものになった夏もある」
「そうなんですか。いける場合もあるのですね。その新しいことで」
「今、私がやっている仕事。これはそういう夏の日にやったことがスタートだった。しかし、長く今の仕事をやりすぎたようだね。もう新しいことではなくなってから久しい」
「はあ」
「あれは何十年も前の夏の日だった。あの頃も暑くて何ともならんので、暑さしのぎでやり始めたことだった。それが当たった。そして今日に至る」
「はい」
「きっかけなど単純で、生理的なものだけかもしれないねえ」
「あ、はい」
 
   了

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2018年07月16日

3687話 パンを買いに行く


 富田は夕食後、なかば散歩のつもりでパンを買いに行く。近所にはもうパン屋はない。小さな店があったのだが、閉まっている。そのシャッターは開くことはなく、そのままは空き屋になったまま。
 夕食後なので夕食が足りなかったわけではない。翌日の昼に食べるパンだ。パンでなくてもかまわないのだが、昼は仕事中に食べたい。仕事をしながら。パンならそれができる。巻き寿司でもいいのだが、それでは高くつく。
 近所のパン屋、これは駄菓子屋のようなものだが、コンビニも近い距離にあるので、もうそのパン屋がなくなっても問題はない。それでコンビニへパンを買いに行くかというとそうではなく、少し離れたところにある百均。散歩がてらなので、少し距離がある方がいい。自転車なので、あっという間に着いてしまうのだが、夕食後、部屋で過ごすより、外の空気を吸いたい。それに季節はもう夏。食べると汗が出る。
 そして夜道を百均まで行くのだが、その途中、何故パンなのかと考えてしまった。決して深く考察するような問題ではない。しかし、パンでなくてもざる蕎麦でもいい。しかもそれを何故夕食後に買いに行くのか。朝、買ってもいいし、昼前に買ってもいい。それが不思議と前日の夜に買いに行く。
 さらにいつ頃から昼はパンにすると決めたのだろう。ずっとそうではなく、普通のご飯とおかずや、暑いときはお茶漬けなどもあったし、うどんや蕎麦もあったり、冬などお好み焼きを焼いたりした。当然焼きそばも。
 仕事をしながらでも食べられるのでパン、という理屈も合わない。それほど忙しくはないので、食事に専念しても問題はない。
 百均でパンを一つ買う。そのついでに日用品も買う。また文房具、飲み物も買うことがあるし、自転車の前籠カバーを買うこともある。だからパン一つだけ買うことは希。
 店屋というのは、見せ屋で、品物を見せるところ。だから見世物と同じ。そういうのを気楽に見に行く場合、コンビニやスーパーよりもいい。それでついつい余計なのを買ってしまうのだが、これは見学代のようなもの。握りやすそうな太さのボールペンを買って試したり、シャープペンまで付いているコンパスを買ったりと、意外と飽きない。だからおもちゃ屋のようなもの。
「これか」
 と、富田は気付いた。パンが目的ではないのだ。しかし、目的にできる。昼ご飯なのだから、それは遊びで買うようなものではない。真面目な買い物だ。
「付随物、おまけか」
 つまり、パンだけを買うのは楽しくない。それだけのことかもしれない。
 当然カップラーメンなども売っているのだが、やはりパンがいい。湯を沸かしたりが邪魔臭い。
「いつ頃からだろう」
 そう思うのは、結構最近のことのため。一年前はそんなことはしていなかった。昼は特に決まったものはなく、適当。しかし数ヶ月前からパンしか食べなくなっている。
 夜に百均へ行ったのがきっかけかもしれない。そこにパンがある。ついでにパンをそのとき買ったのだろう。そのパンはコンビニでもあるようなパンで、メーカー品。中にはまだ生きていたのかと思うようなメーカーのも混ざっている。
 夏場はいい。秋もいい。しかし冬の寒い頃、夜にパンを買いに行くかどうかは分からない。
 成り行きでそうなってしまった日常パターンというのがある。それだけのことだが、それでも細々とした事情が含まれている。
 夜にパンを買いに行く。それを説明するには日常些事の退屈な話になる。
 
   了



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2018年07月15日

3686話 山姥


 長く山歩きをしている老人から妖怪博士は不思議な話を聞いた。それは一つや二つではない。
「何かいるのは分かるのです」
「何がですか」
「何かです」
「ああなるほど、何かですか」
「そいつは姿を顕わさん」
「しかし、見ないのに分かるのですかな。何かいると」
「はい、笹が妙な揺れ方をしたり、鳥が飛び立ったり」
「しかし、実体はない」
「あるのしょうが、正体を顕わさん」
「そんなとき、どうするのですかな」
「動かないで、じっとしております。そのうち消えますので」
「単純に考えますと、ケモノが近くまで来ていたのでしょ」
「おそらく」
「じゃ、笹でも食べに来たのでしょ」
「そうなんですがね」
「しかし、それとは違うと思うのでしょ」
「そうなんです。あれはケモノじゃない」
「山で異様なものをごらんになったことは?」
「ありません」
「あ、そう」
「しかし気配は確実にあります」
「また、笹ですか」
「いや、何も動いておりませんが、いることが分かります」
「何でしょう、それは」
「さあ」
「感じたわけでしょ」
「はい、いると感じました」
「それが、目や耳や鼻ではなく?」
「そうです。背筋が急にゾクッと」
「風邪でしたか」
「違います」
「じゃ、皮膚で感じられたと」
「いえ、もっと深い骨の髄で」
「ほう」
「これは進んではいけないなと思い。しばらく身構えています」
「はい」
「どうしてもその怖さが治まらないときは、そちらへ行くのはやめます」
「どういうものがいるとお考えですか」
「さあ、見えていませんから」
「じゃ、どんな感じのものか、想像してみましたか」
「はい」
「やはりケモノですか」
「いえ、岩のような硬いものです」
「じゃ、前にあるのは岩」
「いやいや、岩なら見えます。そうじゃなく、大きくて硬い塊です」
「形は」
「そこまで分かりません」
「それらは全て錯覚だとは思いませんか」
「はい、思いますとも」
「やはり」
「しかし、錯覚にしてリアルすぎるのですよ」
「ほう」
「また」
「また?」
「はい、また、何か飛んでいることも。これも見えません」
「鳥のように飛んでいるのですな」
「そうです」
「葉が舞っていたとか」
「それなら分かります」
「じゃ、何が飛んでいたのですかな」
「何かが」
「ううむ」
「すみません、具体性がなくて」
「いいですよ。そんなもの、具体性があれば、バケモノだらけになって大変でしょ」
「そうですねえ」
「感じるところがある。しかし、具体性がない」
「そうです」
「それに目鼻を付ける気はないでしょ」
「ああ、強引に付けられなくもないです。しかし、それを指しているわけじゃありません」
「じゃ、あなたが知っているものではどれに当てはまりますか」
「山姥の妖術」
「はい、結構です。そういう言い方しかできないでしょうから」
「すみません」
「あなたにもし想像力、創造力がもっとあれば、形を与えてしまうでしょうねえ」
「そうなんです。何分絵も下手だし。イメージも貧弱で」
「いえいえ、だからこそいいのです。妖怪を生み出さなくて済みますから」
「やはり妖怪でしょうか」
「妖怪にしようとすれば妖怪になります」
「でも、こっちの世界にいるものとは別の何かを感じます」
「それで、そういったものと遭遇したときは、どうすればいいとお思いです」
「私の経験からいいますと、じっとしていることです。下手に逃げると転びますし」
「じっとですか」
「はい、私は魔除けを持っておりますので、それを握りしめて印を結び、呪文を唱えます」
「意外と原始的なことが効くのですね」
「そうです」
「きゃつらは、そもそも原始的なものかもしれませんからねえ」
「はい」
 
   了


posted by 川崎ゆきお at 09:48| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月14日

3685話 搦め手から


「これでお願いします」
「飾り櫛ですね」
「いいですか」
「そのお召し物も」
「え」
「それでは目立ちます。そちらに幕がありますので、お着替えを。野良着を用意しましたので、それに着替えてください。お召し物はそのまま置いていってください」
「はい、よろしくお願いします」
「もう少し集まれば、道案内します」
「はい」
 落城寸前。落ち行く人が城の裏から出てくる。逃げ出すためだ。城の裏側は山。ここからは攻めにくいので、兵は少ない。しかし囲んでいる兵はいる。それを指揮しているのは、攻め手の武将だが、年寄り。実際に守っているのは足軽。駆り出された百姓。
 城主は籠城策をとるが、兵は逃げ出している。重臣達も搦め手から同じような手で逃げている。囲んでいるのだが、金銭を渡すと通れる。
 攻め手と城側とは恨み怨まれる関係ではない。大人しく従えば領地はそのまま。それを拒む理由はない。
 攻め手も相手が憎いわけではない。そのため、一族皆殺しなどは考えていない。
 搦め手を任された武将は、自ら進んで申し出た。実入りが良いのだ。足軽達も搦め手が美味しいことは知っていた。村への土産になる。しかし人数が決まっているし、その武将の配下でないと無理。そのため、こっそり紛れ込んでいる。だから一番手薄な城の裏側の兵が多いが、目立たないように山中に潜んでいる。仕事は多い。協力費をもらうだけではなく、安全な場所や、さらには特定の場所まで護衛する。そのため、前もって山道に詳しい土地の者を連れてきている。
 落ち行く人の敵は敵兵だけではない。今回はその敵兵が味方になってくれている。怖いのは落ち武者狩り。何処の誰だか分からない。
 この城が落ちれば、領主一族は亡びる。自ら決めたことなのだが、頼みの援軍が来ない。これで目論見が外れのだが、城主は最後まで諦めない。しかし家来はとっくに諦め、大半は逃げた。戦いたくないというよりも、兵糧がない。それが一番の理由。援軍が遅すぎる。
 城主一族は投降を拒み続けたので、もう命乞いはできない。
「今からでも遅くはございません」
 重臣の一人が、自分も命が惜しいので、城主に降参を勧めた。
 しかし攻め手の大将にはその決定権はない。投降するには遅すぎた。既に城主一族の皆殺しが決まっていた。
 城主は覚悟したが、一族が根絶やしになるのを何とかしたい。そこで息子達は無理だが、姫なら見逃してくれるかもしれない。側室の子だが、血は繋がっている。
 城主は密かに姫を落とした。幼子を小者に預けた。これは武士ではない。しかし、その小者、年をとりすぎていたので、その息子に任せた。下男以下の身分だ。岩のような大男で、荒くれ者。
 先ほど搦め手から密かに逃げていった落人の中に、この大岩男に背負われた姫も混ざっていた。
 この幼き姫がいずれお家再興を果たすのだが、話が長すぎるので、ここまでとする。
 
   了



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2018年07月13日

3684話 流罪


「岩田さんはどうしているかな」
「岩田さん?」
「知らないのかい」
「はい」
「うちの幹部だ」
「聞いたことがありませんが」
「事情があってね、遠ざけていた」
「そうですか」
「様子を見てきてくれないかな、戻したいので」
「以前、何かあったのですね」
「もう。ほとぼりが冷めたはず。いつまでも遠ざけるわけにはいかん。重要な働きをした人だからね。恩人でもある」
「はい、分かりました」
 部下は居場所を聞き、迎えに行くことにした。しかし、聞いたことのない町で、結構遠い。
 新幹線で降りたまではよかったが、周囲は何もない。在来線の駅まで行くと、やっと町らしくなるが、古びたところだ。そこから支線に乗る。
 この終点の駅は城下町だったらしく、瓦屋根が多い。旅館と書かれた看板。大きな薬局もあるが、チェーン店ではないようだ。
 バス乗り場があり、そこからさらに山の中へ入っていく。城下町だったところなので、それほど辺鄙な場所ではなく、昔はここがこの地方の中心部だったに違いない。
 バスで終点まで行き、そこで降りると、ここはもう何十年か前の風景。建物はあまり変わっていないのかもしれない。もう町ではなく村。この辺りでは一番大きな村のようだが、市町村単位での村ではなく、農家が集まったただの集落。一応バスでここまでは辿り着けるが、岩田善三郎という人はさらにその奥に住んでおり、バスはない。
 山にかかり出すと、道路も狭くなり、対向車があれば困るだろう。
 やがて舗装された道路が林道になり、轍の隙間に草が生えている。
 その林道は山裾を縫うように続いているのだが、これは林業用だろう。
 ここからは地図を見ないと、場所が分からない。手書きの地図だ。
 林道から細い山道に入る。山を越える道のようで、越える手前を回り込んだところに窪みがあり、集落がある。少しだけ平らな場所で、藁葺き屋根が見える。結構大きな農家。そういうのが数軒あるが、既に屋根はむしり取られたようになり、傾いているものや、ぺしゃんとなっているのもある。
 部下はそれを見ながら、その集落へ降りていくと、野良仕事をしている人がいる。
「岩田さんのお宅はどちらでしょうか」
「ああ、私が岩田だ」
「初めまして、盛岡と申します」
「岩国の使いか」
「はい、そろそろ戻ってきて欲しいと」
「義理堅い奴だなあ、捨てれば良いものを」
「あ、はい」
「帰らないと伝えてくれ」
「あ、はい」
「ここでずっと暮らしていると、気に入ってしまった」
「でも会長が」
 そこへ若い娘が現れた。
「昼飯か」
「はい」
「客だ。酒の用意を頼む」
「はい」
 盛岡がまだ壊れていない農家に入ると、若い娘がもう一人いる。
「あのう、これはどういうことで」
「ああ、里から手伝いに来てくれるんだ」
「そ、そうなのですか」
 盛岡はちょっとだけ違和感を感じた。
 これはどうなっているのかと聞きたかったが、言い出すきっかけがない。
「岩国には元気で暮らしているから心配するなと伝えてくれ」
「あ、はい」
 若い娘が盛岡に酒をついだ。
「帰りは送らせる」
「え」
「だから、帰りは車で送らせる」
「でも道が」
「遠回りになるが、林道まで四駆なら入れる道があるんだ」
「じゃ、車で、ここまで来れるのですね」
「かなり遠回りだけどね」
「はい」
 部下の盛岡はその日には帰らず。三日ほど泊まったようだ。
 
   了


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2018年07月12日

3683話 開かずの踏切


 日常というのはちょっとしたことで変わるが、ほんの僅かならすぐに日常のレールに戻れる。そしてもうそんなことがあったことさえ忘れる。ただ、同じことが二度あると、それが二度目だということを思い出すこともある。一度あったこととして。
 吉岡はいつものように自転車で走っていた。よく晴れた日曜日、それまでの長雨が嘘のよう。雨で涼しかったのだが、急に暑くなった。
 そしていつもの踏切に近付いたとき、キンカンと鳴り出した。よくあることで、十五分に一本のダイヤなので、引っかかりやすい。ここまでは日常のうち。
 幸い踏切手前に木陰があり、そこで待つことにした。踏切まで行ってしまうと、陽射しで暑い。
 電車は左右から来るようで、これは長くなることを覚悟する。そんな決心をするほど大層なことではないが、急いでいるときは線路と並行して走っている道を通り、隣の踏切で渡ることにしている。方角的には寄り道にならないので、問題はない。じっとしているより、先へ進める。
 しかし、その日は待つことに決めた。上手く日影に入り込んだので。
 ところが電車が来ない。それを気付くまで別のことを考えたり、違うところを見ていたため、気にはならなかったのだが、いつもキンカンと鳴り出してから数分で来るはず。だがその間合いが長い。
 その位置からは左右の見晴らしが悪いため、電車が何処にいるのかが見えない。そしてここの踏切が閉まるタイミングは左右の駅に電車が到着したとき。だから結構時間がかかる。乗り降りの時間が長くなっているのだろう。近付いて来ればキンカンと鳴り出すのではない。だから長いときがある。駅で手間取っているのだ。
 おかしいなあ、と思っていたとき、右側から電車が来た。しかし、意外と長かった。だが、左側からの電車がまだ。そのため、余計に待つ時間が増えた。
 これはすぐに通過するだろうと、ペダルを踏む準備をしていたのだが、来ない。
 そうしている間に踏切待ちの人や自転車が並びだした。
 同じように木陰で待っていた老人が踏切の前まで自転車で見に行く。そしてじっと待っている高校生に何やら話しかけている。どうなっているのかと聞いているのだろう。
 やがて老人は線路沿いの道を右側へ走り出した。そちらの踏切は大きい。電車は左から来る。だから、より右側へ行けば遠ざかる。だから開いているかもしれないと睨んだのだろう。
 吉岡も、そこでじっとしているより、待っている時間を少しでも進んだ方が良いと思い、急いでいるときと同じように、線路沿いを進む。いつもの道とは異なるが、何度か通った道なので、まだ日常のうち。
 吉岡は老人のあとを追うように、大きな道に出た。ここも信号待ちのようだ。左から来る電車とまだ近いのだろう。しかし、長々と車列ができている。渋滞だ。踏切待ちが長すぎる。
 老人は遮断機の前まで行き、横の人に話しかけている。吉岡も左からの電車が見える位置まで体を乗り出す。
 かなり遠いが向こう側の駅に止まっているようだ。動いていない。老人はそこで待つようだが、吉岡はもう一つ右にある踏切まで行くことにした。そこは線路沿いの道がないところなので、路地を曲がり込みながら駅を越えたところの踏切まで出る。できるだけ左側から離れた場所の方が良いため。それが当たったようで、踏切は開いていた。
 そこを渡るとき、左側を見ると、豆粒のように小さいが、向こうの駅にまだ止まっているのが見える。
 そして渡りきり、しばらく走ると、いつもの道に出た。
 少しだけ日常から離れたが、日常の中。これも含めて日常のうち。電車が何故止まったままなのかは分からないし、踏切がいつ開いたのかも知らない。ニュースにもならないニュースだが、人身事故があったとしても、分からないままだろう。
 吉岡の日常がちょっとだけ揺れたが、その震源地では非日常なことが起こっていたのかもしれない。
 
   了

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2018年07月11日

3682話 神社跡


「恩田鉄三郎さんという方がおみえです」
「え」
「恩田鉄三郎さんです」
「知らんなあ、で、用件は」
「土地についてです」
「それなら営業の仕事だろ」
「いえ、社長直々でないといけないと言ってます」
「どんな人だ。身なりは」
「普段着です」
「あ、そう」
「日焼けしています」
「名刺は」
「ありません」
「土地のことねえ。何だろう」
「どうされます」
「時間はあるか」
「はい、ございます」
「じゃ、下のロビーでも良いだろ」
「応接室も空いてますが」
「客が来たらどうする」
「空いています」
「じゃ、そこへ通して」
「はい」
 恩田鉄三郎。不気味な老人だ。
「で、御用件とは」
「あの土地はそのままにしておくべきです」
「え、どの土地ですかな」
「深川さんの田んぼです」
「あそこは長く放置しているでしょ。野っ原ですよ」
「そのままに」
「あなた、深川さんとはどういう関係で」
「隣人です」
「お隣さん」
「はい」
「深川さんの土地ですからねえ」
「そこを何とか」
「それはできないでしょ」
「はあ」
「何かあるのですかな」
「あの場所は神社でした」
「聞いたことがないですよ」
「もの凄く昔の話ですから」
「まあ、神社跡に家を建てるとまずいというジンクスはありますが、誰も知らないでしょ。それにそんな大昔にあった神社なら、もう何もないでしょ」
「はい、知っている人は僅かですが」
「深川さんもご存じですかな」
「はい、知ってますが、あまり気にしていないようです。それじゃいけないと思い、参上したのです」
「参上ねえ」
「今は原っぱですが、中央部に石が埋め込まれています。杭のように。先だけ出ていまして、そこだけ耕せないし、また水田のときも、そこだけ植えない」
「何か曰くのある神社だったのですか」
「はい」
「石柱が埋まっているのですかな」
「そうです」
「長さは」
「一メートルほどです」
「じゃ、杭のようなものですね」
「その下が」
「まだ、何か埋まっていますか」
「杭の周りを石が時計のように囲んでいます」
「ああ、聞いたことがありますねえ。本殿の床下にそんな石があるとか」
「はい、神社はなくなりましたが、それをまだ残しているのです。私らにとっては神社と同じです。まだ、お祭りしているのです。歯の根のようなもので、神の根」
「重要な遺跡だと問題ですが、そうではないでしょ」
「しかし、かなり古いです」
「まあ、出てくれば、一応調査してもらいますよ。大事なものなら、私も宅地にはしませんから、ご心配なく」。
「有り難うございます」
「で、その神社、何を祭られていたのですか」
「今も影祭りしております」
「深川さんもですか」
「深川さんは越してきた人なので」
「それで、何を祭られているのですか」
「分かりません」
「え」
「古すぎて、もう伝わっていないのです。しかし大事な神様らしいのです」
「分かりました。考慮しましょう」
「有り難うございます」
「いえいえ」
 不動産屋の社長らしくない人だったので、聞き入れてもらえたのだろう。
 その社長、その野っ原の真ん中へ行き、石柱の先っちょを探したが、そんなものは出てこない。草や土に覆われ、埋まってしまったのだろう。
 そして整地が始まったのだが、一メートルほどの石柱など埋まっていなかった。
 さらに恩田鉄三郎を探したが、そんな人はこの在にはいないらしい。
 あの日、訪ねて来た恩田鉄三郎という人は何だったのかと、社長は今でも不思議でならない。
 
   了

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2018年07月10日

3681話 金平糖


 ちょっとした一歩で、その人の人生が違ったものになることがある。それは振り返ってみて分かること。一本の電車に乗り遅れたため、遅い目に目的地に到着してしまい、別の担当者との面談になったとかだ。しかしこれが幸いし、相性のいい担当者で、気に入ってもらえた。その後、運が開けるきっかけとなっていく。もし電車に普通に乗ることができれば、別の担当者となり、落ちたかもしれない。そしてその後、別のところへ行くこともあるし、またもう諦めて、その世界には行かないことも。
 運命というのがあるのかどうかは分からない。運がいいときもあるが、悪いときもある。だが、悪かったのも運で、ここの不運が次の運を開くこともある。しかし運は運。その人が仕掛けたことではない。偶然の出来事。
 悪い運が良い運に変わることもあれば、良い運が悪い運を生むこともある。運というより、偶然性だろうか。
 この偶然がどうしても付きまとう。一歩早すぎたとか、一歩遅れただけで違う展開になるとすれば、どのように対処したり、構えればいいのかという話になるが、偶然発生することは何ともならない。それも含めて運命のようなものだろう。
「運とはそういうもの」
「うん」
「だから気にせず突き進むが良かろう」
「うん」
「わしからこういう話を聞いたことも、君にとっては運の一つ。これは偶然じゃな。君がそこで哀しそうな顔で座っていたので、つい声を掛けたまで。小遣いを落としたぐらいでくよくよするでない。しかし、いい話が聞けたであろう」
「うん」
「全てが必然で偶然の出来事などない」
「え」
「何故頷かぬ」
「うん」
「それでいい。頷かなければ、わしはそれ以上話を続けないまま、ここで別れるだろう」
「うん」
「しかし、わしの話を活かすかどうかは君次第。それは運ではない。君の判断で決まる。そして運など気にせず、偶然なども気にせず、推し進めるのが良かろう」
「うん」
「そうか、君はまだ子供で、その規模ではないが、しかし既に芽は出ておる。その小遣いで何を買いに行こうとしておったのじゃな」
「おかし」
「駄菓子か」
「うん」
「うーん。もう少しいいものを買いに行きなされ、そうでないと、わしが君にやった銭が活きんかもしれん。食べておわりじゃろ」
「うん」
「まあよい、先ほど申したことをたまに思い出すことじゃ。いつか役に立つ」
「うん」
「ところで、どんな菓子を買いに行こうとしておった」
「金平糖」
「ほう、それは昔なら貴族か大名でしか食べられぬような高価な菓子」
「そうなの」
「金平糖か、それは縁起がいい。君は大物になるかもしれん」
「うん」
 少年は早く買いに行きたかったのだろう。老人が話を終えると、さっと立ち去った。
 それを見送っている老人は少し淋しそうな顔。
 自身の運は開けないままなので。
 
   了
 


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2018年07月09日

3680話 昔の話


 何年か前のことならアクセスしやすいが、何十年も前となると、これは昔のことになる。十年一昔。だからそこから先は昔。うんと古い時代の昔と変わらないことになるが、生まれていない時代ではなく、生まれた頃からの時代だと、同じ昔でも繋がりがある。その時代の空気を吸っていたわけなので直接繋がっている。ただ生まれてすぐなら何も記憶はないだろう。ただ影響は多少ある。
 そこまで古くなくても、たとえば青春時代のことなら、昔のことだとしても記憶にあるはず。むしろ最近の出来事よりも、よく覚えていたりする。
 また同時代を生きた人の話を聞いていると、同じ時代なのに関わらず、別世界の物語、またはもっと遠い昔話のように聞こえることがある。
 それは自分の行動範囲にも入っていたはずなのだが、触れる機会がなかったか、あるいは少なかったのだろう。
 そしてその人の話を聞いていると、かすかながら、思い出すこともある。そうか、そんなこともあった程度だが。
 これがジャンル別の話となると、年表がそれぞれ異なる。もの凄く古い人だと思っていたが年代を見ると意外と古くない。これは自分がその頃何歳だったのかで分かる。
 または昔からいる人だと思っていても、自分より年下だったりする。要するにその人はもの凄く若い頃から活躍していたのだろう。
 また、若い頃は三十以上違う人も、四十以上違う人も、同じように見えた。そこにはっきりとした断層があっても一緒くたになる。その年代の師匠と弟子の関係であったとしても、同じように見えてしまう。
 古くからやっている大ベテランが意外と若かったりした場合、頭の中での年表が狂ってしまう。
 これは知らないジャンル。知らない世界の人の場合に多くある。そのジャンルの年表を知らないためだ。または少しは知っていても、印象だけでの記憶のためだろうか。
 ある有名な人が大活躍し、それが伝説となった場合、年表を見て、自分はその頃何をしていたのかと自分史にアクセすると、時代が分かりやすい。背景とかだ。ああ、あの時代にそんな大活躍をしていたのかと。
 戦前の話となると、もう遠い異国の話を聞くようなものだが、意外と年表的な差はなかったりする。僅か数年の差。
 その人が生きている世界というのは限られた世界のためだろう。そして区切られるためだ。
 
   了


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2018年07月08日

3679話 渡らずの踏切


 田んぼの中を電車が走っている。別に珍しい光景ではない。日本中至る所にあるだろう。鉄道が自動車に変わり、廃線になった路線もあるが、その町というよりも村を突き抜けて走る線路は本数は少ないものの、まだ無事。
 畦道程度でも踏切がある。その数は結構多いが、渡る人は少ない。
 その中の一つの踏切に関して都市伝説がある。場所は田舎の村。都市ではないが、時代が新しい。つまり時代劇ではなく現代劇。
 その伝説とは大袈裟なものではない。一行で終わるような話なので、そんなものは伝説とは呼べないが。
 話は簡単で、渡らずの踏切。踏切待ちが長くて渡れない開かずの踏切ではない。踏切待ちなど希な路線なので、滅多に待つことはない。渡れないのではなく、渡ってはいけない踏切。
 ではどうして渡ってはいけない踏切なのか。この踏切で以前事故があり云々の話はないので、それに乗っかることもできない。
 では何故渡ってはいけないのか。電車さえ来ていなければいつでも渡れる。しかし、土地の人はその小径の踏切を使わないで、その横の踏切を渡る。避けているのだ。そのため、最初からその小径を使わなかったりする。線路沿いの道は踏切を渡った側にある。そのため、渡らないのなら、そこで行き止まり、バックするしかない。そのため、用事があるときは、最初からその小径を避け、別ルートで行く。
 ただ、線路沿いの道がある方角からなら渡ってもいい。逆が駄目なだけ。
 都市伝説は実体がない方がいい。また原因などの中身がないほうがいい。「渡ってはいけない踏切」それだけでいいのだ。
 では渡るとどうなるか。
 別の世界に入ってしまう。
 しかし、トンネル抜けや、ドア開けなら、前方が見えていないので、急に風景が変わるのだが、踏切は見えている。そのため、一つだけ条件がある。
 踏切待ちをしたあと渡ってはならないと。
 その踏切待ち、滅多にない。その滅多にないことと偶然遭遇する。昔は長い長い貨物列車などが通過するときはかなり時間がかかった。そして前方の視界はほぼ消える。
 別の世界。しかし、どん前は見えないが、向こう側の空ぐらいは見えている。
 だから渡っても異界ではない。田園風景がそのまま続いている。しかし、そのあと、少し変化があるようだ。しかも悪い風に。
 場所も人も変わらないので、異界ではない。しかし、渡ってのち、今までの生活世界から比べれば異界となるらしい。
 
   了

 
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2018年07月07日

3678話 猛将


 その指揮官は分かりやすい人で、何をどうするのかは聞かなくても分かるし、命令されなくても既に分かっている。だから部下達は指揮官の考えを知っているのだ。それは単純明快で、ひねりや変わったことを仕掛けない。
 そのためその指揮に違和感がない。当然そうするだろうなということを命じてくる。だから指揮官などいらないほど。では誰が指揮するのか。部下の中で古参のリーダーがするのか。そうではない。指揮官がやはり指揮する。いらないはずの指揮官だが、いなくてもあの指揮官ならこう命じるだろというのがもう分かっているのだが、念のため、直接聞きたい。
 その指揮官の指揮は単純明快。ただただ攻めよと言っているだけの人で、所謂猛将。知恵も何もない。策もない。そのため実戦では「行け」の一声だけで、その後一声も発しない。号令はこれだけ。
 作戦会議でも、行けとか攻めろとしか言わない。
 命令は一つ。これは分かりやすい。それが変わることはないというより、戦いが終わるまで作戦の変更は一切ない。
 攻めろと言われても、攻められているとき、攻め返すのは大変だが、それが方針。当然攻められないときは攻められないので、号令通りは行かないが、命令が変わることはないので、迷いがない。
 また攻めるべきか守るべきかが曖昧な状況でも、攻めることが決まっているので、攻めるしかない。
 結局は部下達の動き次第になり、個々のことは部下達が勝手にやっている。
 つまり部下次第。部下が弱ければ、いくら巧妙な策を編んでも、そんな小細工は通じない。作戦通り行かないのが世の常。
 あるとき、部下の一人が指揮官に「なぜ攻めろとしか言わないのか」と聞いたことがある。
 どうやらこの指揮官、攻めるべきときに攻めなかったり、裏を掻く作戦に出て、失敗したことが過去にあったらしい。余計な小細工をしても、部下はその通りには動けなかったりした。
「攻撃こそ最大の防御ですか」と聞くと、そうでもないらしい。それ以上聞いても、うまく説明できないようだ。
 この指揮官率いる部隊は決して強くはない。実績もさほどないが、部下達は指揮官を無能だとは思っていない。それと怖い人ではないので、それが一番良かったりする。
 
 
   了




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2018年07月06日

3677話 行かなかった場所


 ライターの高梨は頼まれ仕事があるのだが、暑いのでやる気がしない。寒くても暑くても、いつもやる気が起こらないので気候のためではない。確かに穏やかな気候のときは少しは仕事もはかどるが、大した差ではない。
 仕事そのものが嫌仕事で、仕事が嫌なのではなく、仕事内容が嫌なのだ。ただ、それをしないと食べていけないので、嫌々ながらでもやっている。
 会社勤めに比べ、自由度が高いので、それに比べればまし。
 今回もルポの仕事が来ていた。いつもお世話になっている人からの依頼だが、その雑誌の編集者ではなく、中間にいる人。いわゆる編プロ。下請けのようなものだ。だから雑誌の出版社の人と会ったことはない。
 その編プロの関根もいい加減な人で、原稿さえ期限までに上げれば、何も言わない人。間違い箇所があっても、勝手に直してくれる。文章の中身まで云々しない。
 今回の取材先は自由でいいらしい。たまに場所を指定してくることもあるが、関根もネタがないのだろう。それ込みで高梨に言ってくる。
 そのネタというのは曖昧なもので、いわゆるスポットものだが、定番スポットは一通りやってしまったので、自分で探すしかない。スポット情報は行かなくても得ることができる。他のメディアで取り上げているものを真似ればいい。
 それもないときは適当な場所へ行き、そこで見つけること。この場合の方が評判がいいのは誰もまだ取り上げていないためだろ。
 しかし、今回は暑くて外に出る気がしない。ネタを求めて炎天下を歩く気がしない。
 暑くなくても面倒なときがあり、そのときに使う奥の手がある。今回はそれを使うことにした。
 それは行ったことにすること。幸い写真は使わない。だから行った証拠を持ち帰らなくてもいい。この方法で三回ほど書いている。
 だが、その方法でも、場所が問題。嘘のルポだが、そのネタも尽きた。ありそうな話をありそうに書くのも、少し嫌になったこともある。
 それで、暑くてどうかしていたのだろう。存在しない町にした。架空の町。そこで見聞したことを書いた。何も見もせず聞きもしていないので、見聞もクソもないのだが。
 それで原稿を書き上げ、編プロの関根に喫茶店で渡したのだが、見もしない。煙草を一本吸っただけで、すぐに立ち上がった。忙しいのだろ。
 そして雑誌に載ると、そこそこ評判がよかった。読者も読むだけで、その町を訪ねるようなことはしないのだろう。近くまで寄れば見に行くかもしれないが。しかしそんな町は存在しない。
 そういう高梨の外回りの記事を集めてムック本にすることになった。それを企画したのは編プロの関根。ムック本のネタが切れたのだ。しかし、定期的に出し続けないと、間が空くといけないようだ。
 ムック本なので、雑誌のようにすぐに消えるだろうと思っていたが、数年後、今度は文庫版で出すことになった。
 どちらにしても、行っていない町ネタが三本あり、架空の町をその後五本も書いたので、少し冷や冷やした。
 それから十年ほど経過したが、誰もそれを指摘する人はいなかった。大した本ではなかったのだろう。
 その後、出版不況で編プロの関根との仕事はとぎれたが、人伝に聞いた話では、行かないで取材した記事や、存在しない町の取材など、すべて分かっていたとか。
 読者も、そのことは薄々分かっていたのもしれない。
 
   了



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2018年07月05日

3676話 お隣さんの窓


 何か出そうな夏の深夜。真夏の夜の夢のように、この季節、怪しい気持ちになる。本人が一番怪しいのかもしれないが、怪談のシーズン。ただそれらはこの暑い季節向けに多く作られたためだろう。ひんやりとする怖い話を聞いて涼とした。
 上田は暑苦しくて眠れないので、窓を全部開けることにした。最初からそうしておけばいいのだが、明け方涼しくなり、風邪を引いたことがあるため、その用心で全開しないことにしていた。
 カーテンを開けると隣の家から丸見えになるのだが、立ち上がらない限り、目は合わない。
 隣家はいつもカーテンを閉めているのだが、夜になると雨戸を閉める。そのとき目を合わせることがある。
 上田の部屋は窓辺にテーブルがあり、椅子がある。そこに座って過ごすことが多い。窓は左にある。窓というよりガラス戸。下は磨り硝子だが、上は透明。冬場はカーテンを閉めっぱなしにしているため、お隣さんの様子は分からない。
 左側に動くものを感じる。窓側だ。何かが動くとそこに目がいくもので、それが風で揺れる梢だったり、鳥が揺らした後だったりと様々だが、そういう動きではなく、音が加わる。お隣さんが窓の前に立ち、窓を開け、雨戸を閉める動きだ。お隣さんの姿を見る機会はこれだけ。互いに裏側で接している。
 またお隣さんが窓まで来て立つのはこれだけで、普段は窓辺には来ないようだ。朝と夜の雨戸の開け閉めだけ。
 真夏、雨戸を閉める。当然ガラス窓も。だからエアコン入れているのだろう。またこの家は二階があり、寝室は二階かもしれない。そういえば遅い時間に明かりが灯るのは一階ではなく、二階。たまにテレビの音が聞こえてくることもあるが、大きな音ではない。
 その雨戸開けのとき、動くものがあるので、つい顔をお隣さんに向けてしまう。すぐにお隣さんだと分かったときは既に遅く、目を合わせてしまう。上田はすぐに目を逸らし、顔を元に戻すのだが、もう遅い。上田が反応したことをお隣さんに知られたあとだ。窓に上半身の老人。表情はいつも同じ。窓を開けたあと、一瞬、間がある。外を見ているのだが、そこは上田の裏庭。それぐらいしか見えないはず。
 そして朝なら雨戸開け、夜なら閉める。それだけの動き。
 さて、深夜の話の続きだが、上田は暑苦しいのでガラス戸を全開にしようとしたとき、動くものがある。
 お隣さんが窓を開けているのだ。その上半身が見える。
 その夜、お隣さんが雨戸を閉めたかどうかなど確認していないが、おそらく閉めて寝たのだろう。
 庭の向こうのお隣さんの窓に人がいる。しかも薄暗い。そしていつもより窓を開けてから外を見ている時間が長い。
 上田はお隣さんの顔を見てしまうが、暗いので、表情までは分からない。目がどこにあるのかもよく見えないが、顔と顔が合ったことは確か。
 見続けてはいけないと思い、ガラス戸を全開にするとき、できるだけ大きな音が出るようガタンと開け切った。
 話はそれだけ。
 お隣の老人の寝室は二階。一階は遅くなると明かりが消えている。一階に何があるのかは分からないが夜遅くまでやるような用事ができ、それをやっていたのだろうか。エアコンをつければ窓を開ける必要はない。だから故障かもしれない。
 しかし、その深夜、一階の明かりはつかないままだった。
 事情を聞けば何ということもない話だろうが、付き合いがないので、分からないまま。
 その後、変化はない。
 
   了



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2018年07月04日

3675話 蝉捕り少年の頃


「振り返りすぎましてねえ」
「はあ」
「少年時代まで振り返ってしまいました。そんな昔まで遡ることはなかった。ちょっと以前に帰ればよかったんですが、あまり良いものがない」
「何を振り返られたのですか」
「良い事があった頃だよ」
「はい」
「ちょっと昔に戻った方がいいんじゃないかと思いましてね。先のことばかり考えていても、あまり良いものが出てこない。それにもう先は必要ではありませんしね。それで少し後退して、以前の良かった頃に戻そうかと思ったのです。これは趣味の問題ですから、あまり真剣になって考えるようなことじゃありませんがね」
「はい」
「今日のような暑い暑い夏の日、何をして以前過ごしていたんだろうとね。すると、蝉捕りを思い出したのですよ。これが少年時代。ああ、あの頃は良かったなあと思いましてね。何であんなに良かったのかと思いますよ」
「はあ」
「まあ、蝉捕りをしていた頃、これがもの凄く良い時期だとは思ってなんていないわけですよ。あの頃は遠い先を見ていたんでしょうなあ。大人になれば何をやろうとかね」
「じゃ、今も同じですね」
「え」
「もの凄く遠くを見ておられる」
「ああ、遠さでは同じだね。遠い方がいいもののように見えるだけなのかもしれませんねえ」
「きっとそうでしょう」
「それで私はもう先へと進むのをやめました。先の先はもう意外と近いですからね。遠くじゃない」
「それが理由ですか」
「駄目かね」
「まだ仕事をしてもらわないと、周りが困ります」
「私がやめると、みんな失業者になるわけじゃないでしょ」
「なるメンバーもいます」
「困ったねえ」
「では少し方向を変える程度でよろしいのでは」
「方向を変えてかね」
「それなら続けられると思いますが」
「たとえば?」
「その蝉捕り少年の方向とかでも結構です」
「蝉など捕っても仕方がないだろ」
「獣たちは故郷を目指す」
「私はケダモノか」
「その方角も有りかと。だからやめる必要はありません」
「しかし、まあ無理だ。今頃蝉捕りに行っても面白くも何ともない。それはイメージだ。あの頃のね。蝉が問題なんじゃない。蝉が欲しいのじゃない」
「はい、分かっております」
「まあいい。続けますよ。しかし、次からは私は自由にやります。それが条件です」
「はい、やめられるよりはましです。ご自由に」
「暑い最中、ふらっとしながらよく蝉なんて捕っていたねえ。しかし、あのとき木を見上げたときの青空と入道雲、あれは夢の中の風景のようだった」
「いいんじゃないですが、意外と行けますよ」
「そうだろ。しかし、私だけが楽しんでいるようで、悪いねえ」
「いえいえ」
 
   了


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2018年07月03日

3674話 漫画老人会


 タムラ画塾という絵画教室がある。古澤の近所にあり、喫茶店の二階。その喫茶店のオーナーでもある老画家が教えていた。
 古澤が入塾した頃が全盛期だったようで、十人以上いた。それほど広い教室ではないので、それ以上は無理。だから試験のようなものがあった。
 古澤が受かったのは、そこそこ絵が画けたためだろう。小学校や中学校ではその教室内では一番絵が上手かった。
 その頃の同期生で橘という古風な名前の男がいた。
 画家としてその後、世に出たのは古澤と橘だけ。ただ古澤はイラストの仕事で食いつないでいたが、これも若い頃ほどには仕事はなくなり、最近は冊子などのカットを書いている。取扱書のイラストや図解。
「漫画を画こうと思うのだがね、どうだろう」
 久しぶりに合った橘が少年のような目で切り出した。橘は洋画家として少しは活躍したのだが、そんな絵を画く人はいくらでもいる。中年あたりで既に売れなくなっていたので、タムラ塾のような絵画教室を始め、その月謝で食いつないでいる。橘は本格的な油絵が得意で、そのためデッサン力がある。だから、美大の受験生で少しは賑わっていた。絵を教えるというより、デッサン教室だった。
「漫画かい」古澤は、適当に聞いていた。
「そうなんだ。僕は絵じゃなく、漫画を画きたかったんだ」
「でも、馬鹿にしていたじゃないか」
「していないよ」
「プロなのにデッサンが狂ってるって」
「それは馬鹿にしてたんじゃない。そんな絵でもやっていけるんだなあと思っただけ」
「最近はそんなことはないでしょ」
「いや、見ていないから分からないけど。やはり田河水疱だねえ」
「え、のらくろでしょ。そんな昔の漫画を」
「いや、あれが漫画なんだよ。僕が画きたかったのはあれなんだ。その弟子が滝田ゆう。ああいう画風がいい」
「それで漫画家になるつもりかい」
「ああ、デッサン教室も飽きた。それにもう油をやる気がしない。油は、高いからね。金がないしね。アクリルじゃ駄目なんだ」
「そうだね」
「君はどうなんだ。トリショの古澤って言われているじゃないか」
「ああ、取扱説明書ねえ。もうあんな絵を書くのも飽きた」
「そうでしょ、だから漫画を画かないか」
「書きたければ、一人で画けば」
「まあ、そう言うな、同期生じゃないか。同じ塾の釜の飯を食った仲」
「そういえば田村先生が亡くなってから、もう長いねえ。あそこはどうなった」
「奥さんがまだ喫茶店をやってるよ」
「ものすごい年だろ。百を超えてるよ、それじゃ」
「じゃ、息子の嫁か、先生の娘さんかもしれないなあ」
「どちらにしても、あの塾出身で、まだ絵で飯を食っているのが二人もいるってことだ。しかし、恩を返せるほど有名にはなれなかったけど」
「いや、君なんて画家として一応世に出たんだから、先生も喜んでいたよ」
「そうだね。それはいいけど、漫画だよ漫画」
「それは冗談だろ」
「本気だ」
「だから、そういうことは一人でやりなさいよ」
「一緒にやろうよ。同人会を作ろうよ」
「二人だけだろ」
「いや、組織的に動いた方が強いんだ」
「あ、そう」
「まずは同人会の名前から考えよう。何かない」
「そんなの考えたこともないよ」
「じゃ、考えておいて」
「ああ、分かった」
「今、思い出すとねえ。君らと一緒にあのタムラ塾でガタガタやっていた頃が一番楽しかったなあ」
「ああ、そうだねえ」
 
   了



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2018年07月02日

3673話 真夏始め


「暑いですねえ」
「今年もまた夏がやってきました」
「もう何十回もやってきたので、慣れているはずなのですが、こういうものは慣れないようです」
「こう暑いと何もできませんよ」
「え」
「何か?」
「普段から何もされていないはずですが」
「いやいや、何もしていないということを実はやっているのです。しかし暑いとそれもできません」
「何もしていないということさえやれないとなると、何をされているわけですか。まさか一日中寝ているわけじゃないでしょ」
「寝ていても、寝ているということをやっているわけです」
「じゃ、やはり寝ておられる」
「そんなに睡眠時間は長くありません。何処かで起きるでしょ。起きていりゃこそこうしてあなたと話せる」
「じゃ、何もしていないということもしていないというと、何かしているわけでしょ」
「そうなんです。何もできないで、何もしていないときは、何かしています」
「ちょっと分かりにくくなりました」
「要するに、普段、私は何もしていないのですが、暑いとそれもできないので、何かをするのです」
「まだ分かりません」
「簡単に言いますと、仕事をしています」
「え」
「何もしない状態が苦しいほど暑いので、気持ちよく何もしてられません。だから、暑いときに仕事をします」
「それこそ、暑いのに、何かをするわけでしょ。その何かとは仕事だとすれば」
「何をしていても暑いので、こういうときは仕事をします」
「ありましたか」
「結構あるのです。いつもは面倒なのでしませんがね。しかし暑いとゆっくりもできない」
「それは初耳だ。どんな仕事です。だって、あなたずっと遊んでいるじゃありませんか」
「仕事はありません」
「そうでしょ。安心しました」
「しかし、作っています」
「仕事をですか」
「そうです」
「何の」
「だからお金になる仕事です」
「そんなもの、あなた、とうの昔に辞めたはずですよ」
「だから、その準備をしています」
「準備ですか。それはいい。だったら決まった仕事をしていないわけでしょ」
「何を安心されているのですか」
「私も働きたいけど、良い仕事がない。それにやりたい仕事などないですからね。余程お金に困らない限り、仕事はしたくありませんが、遊んでいるよりは働いている方がよかったりします」
「どっちですか。仕事をしたいのか、したくないのか」
「本当はしたくないのですが、良い仕事ならしたい。あなたの場合、そのあたり、どうなってます。暑いのに仕事を始めるわけでしょ。それにより、ぶらぶらしているだけの人じゃなく、仕事を持っている人になる」
「だから、その準備をしているだけですよ」
「それが仕事ですか」
「そうです」
「安心しました」
「よく、安心しますねえ」
「準備中で、まだ仕事に就いていない」
「はい」
「準備だけなら誰にだってできます」
「しかし、準備しているとその気になってきます。ビジネスコースにね」
「ほう」
「だから、今の私はビジネスマンです」
「それでどういう職種なのですか」
「職種?」
「仕事の内容です」
「だからそれを考えている最中です」
「それさえ決まっていない。中学生ですよ」
「中学生でも先のことは考えているでしょ」」
「じゃ、小学生だ」
「そうですねえ。小学生が将来何になろうかと考えているのに近いですねえ」
「安心しました」
「またですか」
「はい、小学生レベルなので」
「年をとりますとねえ。顔が小学生の頃に戻っていくのですよ」
「そうなんですか」
「はい」
「最晩年はおそらく赤ちゃんにまで戻るでしょう」
「それは初耳ですが、まあ、暑いので体を崩さないで、頑張ってお仕事をしてください」
「はい、あなたもお大事に」
「はい、ありがとう」
 
   了


posted by 川崎ゆきお at 10:55| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする