2018年07月31日

3701話 焼き物


「同じようなことをしているのだがね、そっくりそのまま同じようなことをするのは難しい。意外とね」
「師匠のやっておられることはどれも同じように見えますが」
「そう見せるように調整してるだけでね。やっている本人にしてみれば、違っていることがすぐに分かる。だからさっと誤魔化す」
「だからですか。同じように見えるのは」
「誤魔化しきれないで、違うことになっている場合もありますよ」
「いや、それでもどれも毎回同じように見えます。よほど小さな違いなのでしょうねえ」
「そうだね。しかし年々その違いが多く出る。だからもう同じようなものではなくなっているのかもしれませんよ」
「その変化させ気付きません」
「徐々の変化なので、気付かないのでしょう」
「違うものをやってみたいとは思いませんか」
「現にやってますよ」
「気付きません。新しいことが入っているのですか」
「新しいとか古いとかの方向じゃなく、そうなっていくのですよ」
「しかし、全く変化などしていないように見えますが」
「いつの間にか中身は入れ替わっているのですよ」
「古くさいことをずっと古くさい方法でやっているのだとばかり」
「古くさいですか」
「あ、失言です。伝統芸ですからね」
「そんな伝統もありませんよ。だから守る必要もないのですがね」
「つまりやられていることは同じでも心境の変化で、違うように感じられるわけですか」
「私の心境かね」
「そうです」
「さあ、どうでしょうな」
「違うのですか」
「自然とそうなっていくのでしょう。同じことを繰り返そう繰り返そうとは努めていますよ。それでも繰り返しきれない、真似しきれないのでしょうねえ」
「師匠の焼き方は名人というよりほか言い様がありません。焼き具合がすべて同じ。色艶も。これは人間国宝ものですよ」
「だが、たこ焼きだからねえ」
「そうでしたねえ」
「紅ショウガと青ネギは表面からほんのりと赤と青の色が滲み出ていないとだめなのです。それと全部同じ色で焼かない。白いところから焼けて茶色いとこへと至る階調が大事。毎回だから本当は違うのですよ」
「はい」
 
   了

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2018年07月30日

3700話 猛暑日のモサ


「この暑いのにお出かけですか」
「はい」
「暑いのに、じっとしておればよろしいのに」「日課ですので」
「何の」
「日々の」
「日々」
「はい、毎日やることです」
「それでどこへお出かけなのですか」
「はあ」
「行き先が決まっていないのですか」
「はい」
「じゃ、用がないのなら、この暑いのに外に出る必要はないでしょ」
「日課ですので」
「何の日課ですか」
「ちょっとした」
「散歩ですか」
「はい、そのようなものです」
「ところであなたは」
「私のことを知らないと」
「引っ越して間もないもので」
「あ、そう。私はボランティアです」
「はあ」
「猛暑日は不用不急の外出は控えるべきです」
「急ぎの用ではありませんが、日課なので」
「どこへ行かれるのかは知りませんが、お気をつけて」
「はい、ありがとうございます」
「この炎天下、不審者さえ出ていません。暑いので、控えているのでしょ」
 老人は炎天下立ち話をしていたためか、少しよろけた。立ち止まっている方が暑いのだ。
「大丈夫ですか。救急車呼びましょうか」
「大丈夫です」
 老人は元気なところを見せるためか、少し早足で立ち去った。
 ボランティアの男は町内を見回るため歩き出したが、どうも尻のありがスカスカする。軽いのだ。
 ズボンの後ろポケットに入れていた長財布が抜かれたことに気付いたのは、家に戻ってから。
 あのとき、よろけた老人はボランティアに軽く抱き付いた。そのとき腰に手を回したのだろう。
 暑いとき、うろうろするものではない。
 あの老人、猛暑日のモサと言われ、猛暑働きを得意としていた。
 
   了


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2018年07月29日

3699話 夜のもの


 夜な夜な現れる夜のもの。そういうものと遭遇しないため、夜中出掛ける人は少ない。夜逃げでもするのならその時間帯だが、夜中に用事のある人は極めて少なかった。ただ現代では夜でも働いている人はいる。
 夜のものが出るのは暗いため。明るいよりも暗い方がよく、人通りが絶えた夜中が都合がいい職種。これは夜盗だろうか。しかしこれは職とは言えない。履歴書に書けないし、キャリアも誇れない。
 その夜のものとしての夜盗の源九郎は一人働きで、道行く人からものを盗む取る。強盗だ。人家から少し離れたところで仕事をする。叫ばれても、すぐには助けは来ないだろうし、聞こえにくい。しかし、町から離れすぎると、人も来ない。
 夜中、何用があって歩いているのかは様々だが、遅くまで寄り合いがあり、その帰り道、というのもある。しかし、用心のため、一人では戻らないだろう。
 源九郎はその夜も遠くまで見える道の脇で待機していた。暗いが提灯ぐらいは付けているので、それで分かる。月夜なら意外と明るいのだが、逆に提灯なしでは怪しまれる。
 その提灯が近付いて来た。しかし近付いて来るのは提灯だけ。
 これは本当に夜ものが出たのではと思い、源九郎はやり過ごすことにした。
 しかし近付いて来ると正体が分かった。黒っぽい着物で子供ぐらいの背丈しかない小男。
 紋のない提灯を前に突き出しているのだが黒頭巾。腰の刀はない。
 一か八かやってみようと、源九郎は横から飛び出す。
「夜のものか」
 小男が低い声で聞いてくる。聞かなくも分かりそうなものだが。
 源九郎は懐から匕首を取り出し、鞘のまま相手に突きつける。小男なので、簡単に押し倒せるのだが手荒なまねはしたくない。匕首で脅せば済むのならそちらの方が楽。
 小男は丸腰。武家ではなさそうだが、頭巾が気になる。武家がお忍びで町に出たときなど、そんな感じの頭巾を被っている。口と鼻は隠れているが、そこだけ開く。マスクのようなものだ。
 それが気になったので、源九郎はさっと頭巾をひっぱなした。取られないように小男は抵抗したとき提灯が落ちた。それが燃え出すと同時に頭巾が取れた。
 源九郎は後先見ないで、駆けだしていた。
 頭巾で隠されているはずの鼻と口がなかったのだ。
 源九郎は本物の夜のものを見たと勘違いした。
 小男は鼻と口に布を巻いていた。どうも風邪っぽかったらしい。
 この黒ずくめの小男。明るいところで見ると、小さなお坊さんだった。
 夜中人が亡くなったので、枕経をあげに行くところだったようだ。
 
   了

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2018年07月28日

3698話 飛び出した猛将


 大きな戦いがあり、その火蓋が切られた。戦場は中央部で始まったため、真っ向勝負となったが、まだ最前線でに数は少なく、全軍入り乱れての戦いではない。
「始まりましたなあ」
 左翼を任されていた武将は前方から騎馬武者が来るのを発見する。
「あれは」
「さあ」
 一騎武者。抜け駆けで突撃してくるかもしれない。手柄目当ての猪武者。
「それにしてはゆっくりです。しかも手勢も連れず」
 いくら猪武者でも供ぐらいは連れている。
 さらに近付いて来た。
「何者でしょう」
「猪武者にしては立派な大鎧。あれは一手の大将」
「それにしては単騎です」
「物見にしてはおかしいですなあ」
 左翼の侍大将は数騎引き連れ、謎の武者へ向かった。
 その武者、きょとんとしている。
「上田清十郎殿ではありませんか」
 敵の重臣だ。一手の大将を任されたり、主力部隊の指揮したこともある侍大将なので、敵も名と顔を知っていた。
「確かにわしは上田清十郎じゃが」
「どうかされましたか。戦闘は中央部ですぞ」
「分かっとる。だから敵の左翼を突くつもりで、ここまで来た」
「わしらに奇襲を掛けるつもりでか」
「そうじゃ。ところが」
「如何なされた」
「誰もついてこん」
「すると大将だけが飛び出したわけですな」
 上田清十郎が兵を率いてやってくるのなら中途半端な小勢ではない。ところが、後方に兵の姿はない。
「おかしい」
「戻られよ」
「そうじゃな」
 上田清十郎は実際の戦いでは、後方にいる。常に大軍の総指揮をとるため、首をなくすと総崩れになるので。
 猛将と言われているが、本人は痩せた小男。本人が強いわけではない。猛烈な攻めを得意とするだけ。
「出直すことにする」
「そうなされ」
「しかし、兵は何故ついてこんのじゃ」
「それは知りません」
「そうじゃな、後ろを見なんだのがいけなかったようじゃ。ついてくるものと思うていたのでな」
「こんなところに飛び出しておられると、討たれますぞ。はよう戻りなされ」
「おぬし、前田殿ではないか」
「おお、よくご存じで、わしのような武将の名をよく覚えておられましたなあ」
「いやいや」
「いずれ戦場でお目に掛かりましょう」
「ここも戦場なのじゃがなあ」
「しかし、指揮官一人ではお相手できません」
「そうか」
「それに単騎の大将をよってたかって討ち取ったとなると、これは手柄にもなりませぬ」
「ああ、なるほど。では、戻るとする」
「ご無事で」
「うむ」
 猛将上田清十郎はとぼとぼと戻っていった。
「何があったのでしょうなあ」
「さあ、あの大将、一人でさっと陣から飛び出すので、誰も気付かなかったのかもしれません」
 そのとき伝令が入った。
 中央部で小競り合いがあっただけで、引き上げることになったらしい。
 勝負がつきそうにないほど双方の力が近いためだ。両軍とも勝算が見えないので、引いたようだ。
 
   了

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2018年07月27日

3697話 草団子


 鎌倉幕府が揺らぎだした時代、これまでの秩序も同時にぐらつきだしていた。下克上、戦国時代は、このあたりから既に始まっている。
 山間部にある草加郷。そこの豪族が兵を挙げ、京の都を目指した。草深い村里でもそれなりに都の情報は届く。
 動乱のどさくさで一旗一旗揚げようという感じだ。文字通り旗を揚げた。誰に味方し、どの陣営につくのかも決めないまま。
 草加郷の兵は五百。田畑などもう放置しての出兵。別に誰からも頼まれたわけではない。そういう密使が届くほど都に近くなく、また名も知られていないためもある。
 僅か数百の兵がいつの間にか万を数えるほど増えるというのは、こういった小さな勢力が馳せ参じるためだろう。
 勝ち組に乗っかれば、今よりも良くなる。それだけの話。
 草加郷でお館様と呼ばれている草加庄源。兵を引き連れているのだが、実際には山賊の首領程度の規模。それにそんな立派な館などもない。鎌倉時代なので、守護大名や地頭はいるのだが、それらとは別枠。
 都までの兵糧はない。挙兵の目的、実はそこにあった。一山当てることが目的だが、食べるものがないのだ。山賊には田畑はない。しかし、草加郷に棲み着いた彼らには幕府黙認の土地がある。そこが山賊とは違う。
 草加庄源が目を付けたのは、兵糧が尽きるあたりでの戦い。ここで二つの勢力が争っている。どちらかが宮方でどちらかが鎌倉方。そこに参陣すれば、兵糧の心配はなくなる。
 草加軍は、鎌倉方が有利なので、鎌倉方についた方が安全なので、そちら側へついた。しかし、数が多いのか、無理なようだ。鎌倉方にも充分な米はないのだ。凶作が続いていた。
 鎌倉方に加えてもらえないので、草加軍は宮方についた。こちらは草加軍のような連中が多くいた。そして無事食べることができた。このまま宮方の一団と行動を共にすればご飯の心配はない。
 しかし、数が少ないためか、押されに押され、敗走した。
 草加軍はそのために米を積めるだけ荷駄に積み、逃げ出していた。そして徐々に都に近付くと、何処の村にも米はない。先客が持ち去っている。
 米が村にない。戦場にある。そう踏んだ草加軍は都へ接近した。
 京の都を巡っての攻防戦。草加軍はご飯を求めて奔走した。
 しかし、どの軍にも米がない。都へ近付くほど米がない。当然都の中が一番米のない場所。
 要するに草加軍は今日食べるご飯のため、敵味方を無視して陣替えした。
 そして、敵の陣を打ち破っても手柄にならないことが分かった。すぐに奪い返されたりする。手柄のご褒美をもらえるのは戦いが終わってからの話で、動乱が収まってから。それがいつ収まるのかが分からない。ここ一番の大勝負に出るにしても五百の兵では何ともならない。
 最後は都へ肉薄していた赤松勢に加わるが、被害が大きく。五百の兵が減っていく。これでは草加郷に残した家族達に申し訳が立たないと思い、夜逃げした。
 押していた赤松軍が押され出したとき、米を真っ先に奪い、逃げた。
 一旗揚げるにはものすごい犠牲を出さないといけないことを知り、もう戻ることにしたのだ。
 しかし草加軍はこのとき赤松軍や足利軍と一緒にしっかりと戦っておれば、少しは世に出たかもしれない。
 戻り道、具足で武装はしていたが、荷駄が増えている。まるで荷駄の護送隊のように。その道中、商いを覚えた。また行商人の護衛も引き受け、ちょっとした大商団になった。キャラバン隊だ。
 凶作はまだ続き、米は相変わらず手に入りにくいが、鳥や獣の肉なら何とかなった。五百の完全武装の兵で狩りをした。また戦いがあった場所では拾い矢をし、売り物にした。干し肉や干し芋も作り、草団子なども作った。それらを売りながら故郷へ向かった。
 草加郷に戻ってから、この草団子が受けたのか、のちに草加団子として有名になる。
 戦乱はその後も続き、干し肉や草加団子は携帯食料としてそれなりに人気を得たようだ。
 
   了
 
 
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2018年07月26日

3696話 水


 暑いのか喉が渇く。上田は水道の水を飲もうとしたが熱湯が出る。ガス湯沸器がいらない季節。ただ最初だけ。コップ数杯分で、そのあと冷たいとは言えないものの、この時期の水温になる。
 ここに氷を入れればお冷やになるが、逆に喉が渇く。それに冷たいものは避けたい。胃腸が悪いわけではないが、暑いのではなく、喉が渇いているだけなので喉が潤えばそれで充分。水なのでそれ以上飲みたいと思わない。味気ないため多くは飲まない。これもまたいいことだ。
 熱湯は二段階で来るようで、水道管の都合だろう。日の当たっているところが二カ所あるはず。そのため、すぐに熱湯は収まるが、そのあとまた熱いのが来る。そちらの方が長い。その間に洗い物などをすれば汚れが落ちやすい。また食器だけではなく、衣類も洗えそうだ。熱い湯で洗うと落ちがいいはず。
 そんなことを思いながら上田は生暖かい程度の水が出るまで待ち、コップに水を満たし、さっと飲むのだが、半分も飲めない。薬を飲むとき使う水程度だろうか。これで十分かもしれない。それ以上飲むと生暖かい水だけに気持ちが悪くなる。
 コップに水を足してから仕事場に戻る。仕事中に飲むのは水だけ。それも一口程度でいい。水なら飲み残しても問題はない。それに安い。
「水が一番美味しいと?」
「いや、美味しいとかの次元を越えた飲み物です」
「ほう」
「まずは癖がない。昔の水道水は消毒臭くていけなかったが、最近のはよくなっています。癖がない。味もないが」
「味気ないでしょ」
「だから、水なのです」
「水くさいというやつですね」
「臭くはないですよ」
「それで水ばかり飲んでいると?」
「喉が乾いたときはね」
「いつからですか」
「胃腸を壊したことがありましてねえ。薬の副作用でしょ。胃が荒れました。そのとき一日三度薬を飲んでいたのですが、当然水で飲んでいました。ただの水道水」
「はい」
「まあ、普通に水は飲んでいるでしょ。だから、珍しいことはありませんが、一日三度コップの水を飲んでますとね」
「どうなります」
「薬よりも効くんですよ」
「え」
「調子が悪いときでしてね。だから医者からもらった薬を飲んでいたほど。しかし、飲んだ瞬間効くのです」
「薬はそんなにすぐには効かないでしょ」
「だから、水なのです。水を飲んだ瞬間、楽になるのです」
「ほう」
「それからですよ。もう医者からの薬をやめて、薬抜きで水を飲みました。すると、悪かった体調が徐々に治りました」
「水が効くと分かっていたからですか」
「知りません」
「ほう」
「それからは水が一番だと思うようになりました。ただしガブガブとは飲みませんが」
「なるほど」
「水は冷やしても温めても駄目です」
「生水は身体に悪いと聞きましたが」
「ガブガブ飲むからですよ」
「しかし、安上がりですねえ。水が一番とは」
「いえいえ」
 
   了

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2018年07月25日

3695話 墓穴


「夏がゆくのう」
「はい、ゆきます」
「ゆかぬうちに何とかしたいものだが、どうであろう」
「この暑い盛りに決着を付けると」
「そうじゃ、どうせ暑い。だから暑苦しいことは暑いうちにさっとやってしまうに限る」
「しかし、坂上佐渡を追い落とす方法はありませんが」
「坂上が災いの元。元凶。根こそぎ抜くべし」
「しかし、方法がありません」
「配下に集合を掛けよ」
「はい、まずは作戦からですね」
 屋敷に配下が集まり、その中の一人の家来が呼び出された。倉橋という。
「坂上の動きが怪しい」
 倉橋はしばらく考えている。
「坂上の動きが怪しい」
「どのように」
「なに?」
「どのように怪しいのでしょうか」
「どのようにか」
「はい」
「坂上の動きが怪しい。これで分かるだろ」
「ですから、どのように怪しいのですか」
「怪しいといえば、分かるじゃろ」
「はあ」
「どのように怪しいかを探って参れ。気のきかん奴だなあ」
「あ、はい。早速」
 配下は五人ほど集まっていたのだが、集められただけで解散した。だから会議もなかった。
「帰しましたが、それでよかったのですか」
「うむ。追い出す名分が先。まずは倉橋の働きを待つことにする」
「しかし倉橋は頼りない男ですよ。いいんですか」
「そうか。それは知らなんだが、涼しげな顔立ちで賢そうじゃないか」
「それは見かけです」
 その後、倉橋が報告に来た。
「坂上佐渡殿を探りましたが、怪しい点はありません」
「何を聞いておった」
「はあ」
「坂上の動きが怪しいと言っただろ」
「ど、どのように」
「どのようにもクソもあるか、それを作るのが役目だろ」
「ああ」
「ああじゃない」
「気が付きませんでした。作るのですね。怪しい点を」
「怪しいだけではなく、動かぬ証拠を作れ」
「ど、どのようにして」
「それぐらい自分で考えろ」
「はい、早速怪しい証拠を作ります」
「大きい声で言うな」
「はい」
 数日後、倉橋が涼しげな顔で屋敷を訪れた。
「動かぬ証拠、見付けました」
「そうか」
「謀反です」
「おお。それそれ、それが一番」
「坂上屋敷に私兵が集まっています。これは挙兵です」
「本当か」
「はい」
「訓練ではないのか」
「挙兵です」
「誰を狙っておる」
「あのう」
「はっきり申せ」
「それが」
「わしか」
「左様で」
「それもおぬしが作ったのか」
「はい」
「わしでは駄目だろ」
「はい」
「下手な奴だなあ。それに訓練だと言い張るはず。動かぬ証拠を作れと言っただろ」
「なかなかそうは参りません」
「しかし、私兵が集まっているのは事実じゃな」
「はい」
「おぬしが勝手に言っておるだけではないのじゃな」
「そうです」
「おそらく訓練か、狩りにでも行くのだろう」
「はい、そう思います」
「それを謀反に仕立てるのがおぬしの役目」
「ど、どのようにして」
「それがないから困っておるのじゃ」
「それがしにも思い付きません」
「駄目だなあ」
「はい」
「もういい。帰れ」
「はい」
 そこへ側近が現れた。
「駄目なようですなあ」
「坂上の動きが怪しいとわしが言えば、それなりの動きをしてくれると思ったが、そうはいかん」
「倉橋殿だから良かったのですよ」
「どうして」
「そんな芸当ができる男ではありません」
「それは知らなんだ」
「その方が良かったのです。下手な小細工ではどうせ失敗したでしょう」
「しかし、坂上の動きが最近どうも怪しい。それは事実なんじゃ」
「はいはい」
 坂上佐渡はその後も怪しい動きなどは一切していない。
 坂上を陥れようとしていた桜庭家だが、逆に最近の桜庭家の動きが怪しいという噂が立ちだした。
 これで主家の信任が薄くなり、役職から遠ざけられた。
 所謂墓穴を掘ったという話。
 
   了



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2018年07月24日

3694話 夏慰寄年


「夏休みの宿題をやろうとしておるのだが、何かないかね」
「宿題なので、決まったものがあるでしょ」
「それが決まっておらん」
「宿題でしょ」
「そうだ。宿したもの」
「宿命のようなものでしょ」
「そんな大袈裟なものじゃない。学校から出ている夏休みの宿題のようなもの。しなくても死にはせんし、生きてはいける。そのレベルの宿題をやりたいのだが、何かないかね」
「さあ」
「本当にやらなければいけない宿題は結構溜まっているのだがね。やる気がしないし、もはや手遅れかもしれん。今からでも間に合うにしても、そんなことで手間を掛けたくない。もっと単純で分かりやすいことがしたい」
「うちの子が学校からもらってきた夏休みの友をやりますか」
「夏休みの友。おお、それは懐かしいねえ。課題が書かれた宿題帳のようなものだろ」
「そうです。朝顔の観察日記とか」
「それよりも、友というのがいい。宿題を友として夏を過ごす。これだね」
「じゃ、やりますか。朝顔の観察日記」
「それはしないが、友がいい」
「人間の友達じゃありませんよ」
「分かっておる。主婦の友のようなものだろ」
「そうです」
「そういうネタで何かないかね」
「夏、何を友にして過ごすかですね」
「ああ。友達はいないがね。それに代わる友」
「考えておきましょう」
「それが君に与えた宿題だ。よろしくね」
「すぐには思い付きませんよ」
「だから宿題だ」
「あなたもなされては」
「何を」
「だから、何が夏の友にふさわしいかを。御自身のことでしょ」
「いや、一方的に与えられたい」
「じゃ、僕は学校の先生のような」
「何でもいい。与えてくれ。夏休みの宿題を」
「分かりました」
 しばらくして、漢文の本を持ってきた。
「これか」
「はい」
「漢文なんて学校で囓っただけで、その後興味はないよ」
「日本語を漢文に直すのはきついですが、漢詩なら書けますよ」
「漢詩。それは少しレベルが高い」
「いや、単漢字を四つ並べて一句。それを五つか七つ並べればいいのです。
「意味は」
「意味はなくてもいいのです。思い付いた単漢字を綴ればいいのです。順番も適当でいいかと」
「それならできる」
 それからしばらくして。
「できましたか」
「ああ」
「何かお経のようですねえ」
「意味は分からんが、字面の並びで何となく何を言いたいのかが分かるはず」
「極めましたね。コツを」
「まあね」
「静心空海ですか」
「何か、はと、まめ、とかで始める小学校の国語の教科書のようだがね」
「空海についての詩ではないわけですね」
「偶然、その並びになっただけ。これは楽だね。俳句や短歌より簡単だし」
「これはボールペンで書かれたのですね」
「そうだ」
「今度は半紙を二つ折りにして筆で書いて下さい」
「習字だね」
「筆ペンで結構です」
「ほう、いいねえ」
「それを綴じて完成です」
「それが提出用の夏休みの宿題か」
「そうです」
「やってみよう」
 夏の友が完成した。
 何が書かれているのかは本人にも分からないような漢詩だった。しかし、いかようにも読み解きできるため、話題になった。
 それほど売れたわけではないが、電書としてそこそこダウンのロードされたようだ。
 予言集ではないかと、誤解する人も出た。
 年寄りのほんの夏の日の手慰み。
 夏慰寄年。
 
   了


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2018年07月23日

3693話 麻利央沢


「麻利央沢へ行きなさるのか」
「はい」
「この暑いのに」
「はい」
「麻利央沢はこの上流にあるのじゃが、川は流れておらん。押尾山にできた亀裂のようなものでな。右と左に泣き別れ」
「地質学的に、凄いところですね」
「神話では山の取り合いをして両方の麓の村から引っ張り合いをしたので割けたんだ」
「それでどちらの村のものになったのですか」
「西押尾山と、東押尾山。だから半分こした」
「押したのではなく、引いたのですね」
「そうじゃなあ、引尾山の方がふさわしいが、ずっと前から押尾山と名が付いておったので、それを変えるわけにはいかん」
「はい」
「それを見に行きなさるのか」
「麻利央沢は深い渓谷だと聞いたので、見学を」
「それはやめたがいい」
「はあ」
「割けたところが麻利央沢」
「そのようです」
「あそこへは行かん方がいい。病になる」
「はあ」
「水なし沢じゃが、雨が降ると悪い水が出る。今は晴れておるから、水はないが、あそこに入り込むと体に良くない」
「渓谷病ですか」
「そんなのがあるのか」
「はい」
「あそこは通るだけならいいが、しばらくいると、体がおかしくなる」
「悪い菌が多い場所があるようです」
「君の方が詳しいじゃないか。それならなおさら行かぬこと」
「下まで下りません。亀裂を見るだけです」
「見て何とする」
「見たいだけです」
「それだけか」
「はい」
「そんなことで体を壊してはつまらんだろ」
「秘境の一つですから」
「山は神様の住むところ。その押尾山を取り合いして割けたのが麻利央沢。だからそこは神域の懐。神域の体内と同じ。だから誰も行かん」
「面白い伝説ですね」
「まあ、止めては無駄なので、行きなされ、この川を遡ったところに、台形をした押尾山がある。こちらからなら西押尾山じゃな。山頂からは深い崖なので降りられんから、見るなら、そこから見なさい。西押尾山を登らないで、回り込むと、麻利央沢へ直接入れるが、山道はない。そんな沢へ行く用事などないからのう」
「はい、有り難うございました」
「見るだけにしておきなされよ」
「はい」
「婆さんや」
「なんですかいのう」
「また馬鹿が麻利央沢へ行きよる」
「そうですなあ」
「御灯明を灯しなされ」
「はいな」
「それと聖水を麻利央様に」
「はい。成仏されるといいのですがな」
 仏間にマリア像があり、婆さんは拝んだ。しかし男のマリア像。
 何故麻利央沢と名付けられたのかは、敢えて冒険者には言わなかった。
 
   了
 
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2018年07月22日

3692話 懐かしい人


「誰か来ていなかったかい」
 老夫婦だけが住む古く大きな家。掃除だけでも大変で、何枚もある雨戸の開け閉めも大変。面倒なので閉めたままにしたり、開けたままにしていると、近所の人が心配して見に来る
「誰も来ていませんでしたよ」
「そうか、さっきそこに誰かが座っているように見えたんだが、客じゃなかったのかい」
「いいえ、お客さんなんて滅多に来ませんよ。それに来るんなら言いますよ」
「急に訪ねて来る客もあるだろ」
「さあ、滅多にありませんよ。それにここまで通しませんよ」
「そうだな」
 所謂仏間だが、普段は間の抜けたような薄暗い八畳ほどの部屋、家具は一切ない。昔はここで法事などをやったもので、そのときは襖を全部開ける。すると都合三間が一間の大広間になる。そんなことがあったのは、この老人の子供の頃まで。
「いやですよ、仏間に人が来てたなんて、お盆にはまだ早いですよ」
「じゃ、勘違いか」
「どんな人でした」
「着物を着た人で、仏壇の前に座っていた」
「どんな人でした」
「さあ、まだ若い」
「着物姿の娘さんですか。そんな客なんて、いませんよ」
「そうだな」
「誰だか分かりませんか」
「見たことがあるんだが、思い出せない」
「悪いものが出たんじゃないですか」
「思い当たることでもあるのか」
「ありませんよ」
「そうか」
「お医者さんにみてもらったら」
「そうだな。そんなものが見え出すとまずい」
「ああ、そうだ。いい先生がいますよ」
 翌日、その先生が来た。
「たまにあるのですよ」
「やはり心の病ですか」
「さあ、それは分かりませんが、そういうものは昔から出ています」
「若い女性の客ですか」
「そうです」
「少し安心しましたが、誰なのです」
「思い出して下さい」
「知らない人ですが、妙に懐かしいような」
「そうでしょ」
「誰なのですか」
「あなたのお母さんでしょ」
「え」
「若い頃の」
「ああ」
 老人は引き戸を開け、古いアルバムを探し出した。
「こいつだ」
 それは娘時代の母親の写真だった。
「何故そんなことが先生、分かるのですか。もしかして、あなたがあの妖怪博士では」
「いえ、私はそんなものではありません」
 
   了


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2018年07月21日

3691話 土用


「今日は」
「はい」
「暑いですなあ」
「どなたでしょうか」
「土用です」
 戸を開けると、ドジョウのような小男が立っている。
「はあ」
「このへんを回っています」
「土用といえば、ウナギを食べる日でしょ」
「いや、土用というのは夏だけに限ったことじゃありませんがね」
「ウナギの蒲焼きのセールスですか」
「いや、私が土用です」
「あなたが土用」
「そうです」
「暑苦しそうですねえ」
「私が来ますと涼しくなります」
「そうなんですか」
「土用が去ればもう夏は終わり」
「いやいや、暑い真っ盛りですよ」
「峠です。あとは下り、涼しくなっていきますよ」
「それはいいのですが、目的は何ですか」
「さあ」
「さぁって、目的もなしに、来たわけですか」
「そうです。それでこの町内を今、回っているところです。挨拶代わりに」
「何かサービスでも」
「サビスしましょうか」
「どんな」
「やめておきましょう。それをすると訪問販売になりますから」
「その方が分かりやすいのですが」
「そうですか。じゃ、麦茶とはったい粉をサビスします」
 土用は背中に大きな風呂敷包みを背負っており、それを下ろした。
「結局、麦茶にはったい粉売りですか」
「売り切らないと親方に叱られますが、まあ、無理にとは言いません」
「麦茶はいいですが、はったい粉は喉が渇きますよ」
「だから麦茶も一緒に売っているのです」
「これがサービスですか」
「値段、少しサビスします」
「分かりました。その方が分かりやすいです」
「おおきに」
「買いますが、はったい粉はどうやって食べるのです」
「砂糖を入れて混ぜてそのまま頂けます。香ばしいですよ。または湯を加えて団子にします」
「はい、有り難う。そうしてみます」
「これで親方に叱られないで済みます」
「ところで」
「はい、何か」
「あなた土用でしょ」
「そうです」
「土用が物売りをやっているのですか」
「土用を知らせに回るのが土用の務めです。それだけでは何なので、ついでに麦茶とはったい粉を売っているだけです。実は冬も土用があるのですよ。そのときはきな粉をまぶした温かい団子を売ります。
「つまり土用とはそういう物売りの総称だったのですか」
「さあ、それは確かなことは分かりません。私らが勝手に言っていることで、気にしないで下さい。
「ところで、土用って何ですか」
「知りません」
「あ、そう」
「お邪魔しました。暑い中、お付き合いいただいて有り難うございました」
 上田は暑くて目が覚めた。昼寝に失敗したようだ。
 
   了



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2018年07月20日

3691話 ナスコン


「ここはナスコンで行くか」
 デザイン室で加賀が呟いた。当然聞こえるように。
「ナスコンですか」
 何かの略だと思い、三村は意味を探った。合コンのようなもの、コミュニケーション系ではないかと真っ先に理解した。
「早速そうしてくれ、ナスコンだ」
 しかし、いきなりそんなことを始められない。用意するにしても、何のための集まりなのかも分からない。メンバーも必要だろう。
「それで決定だ」
 これ以上聞いても誤解した状態で進んでしまうと思い、三村は聞くことにしたのだが、カンの悪い男だと思われたくない。それにこの上司はものを聞くといやな顔をする。しかし、間違った方向で事を進めるよりはいい。
「ナスコンって何ですか」
「色だ」
「あ」
「メインカラーが決まらなかったんだが、ナスコンで行こう。今決めた」
 ナスコンとは茄子紺と書き、紺色。紺色とは赤みの掛かった青。または青味の掛かった赤。だから紫色のこと。その彩度がナスビに近いものを茄子紺と呼んでいる。若いデザイナーの三村には分かるはずがない。色目など色見本のカードやチャートを繰って指定するだけ。しかし、茄子のあの色を再現させるには、絵の具そのものに問題がある。
 それで三村は、丁度今の季節茄子がなっていることを思い出し、写真で写し、その色をスポイドでコピーした。本物の茄子の色なので、ベースとしては悪くない。
「この茄子、ちょっと黒いんじゃないかい」
「本物の茄子の色です」
「光線状態が悪いねえ。それで黒っぽい。まあいい。あとは私が茄子のあの色艶になるよう調整する。ご苦労だった。もういいよ」
「はい」
 茄子紺と言われていた頃の茄子の品種と今のとでは違うのだろうか。
「ところで主任、コンパなんですが」
「コンパ」
「はい」
「それがどうした。そんなことをやるのかね」
「はい。ナスコンを」
「茄子のコンパかい」
「そうです」
「それでナスコンです」
「そんなことしなくても、集まるのは茄子ばかりじゃないか。最初からナスコンだよ」
 そういう視線で見ると、この二人も茄子だった。
 
   了

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2018年07月19日

3690話 ベンチ


「もうこのへんでいいだろう」
 古田は木陰があり、ベンチがある公園を見付けたので、そこで終わることにした。つまり、それ以上先へ進まないと、ここを目的にすると。
 炎天下、散歩などしている人間はいない。一番暑い時間だ。古田はこの時間、いつもなら昼寝をしている。しかし何を思ったのか、散歩に出た。しかも家からもうかなり遠くまで来ている。徒歩距離で行ける近所なのだが、いつもは車で、細い路地などに入り込んだことはない。
 そこを抜けたところから坂になり、緑が多くなる。これはいい感じなったと木陰の下を歩いていたのだが、調子に乗りすぎ、歩きすぎたようだ。行きすぎなのだ。目的地がないので、行きすぎというのはないが、歩きすぎというのはある。離れすぎ。
 海水浴でも戻れることを考えて沖へ向かう。しかし徒歩の場合、進めなくなればそこで止まればいい。その止まる場所が見付かった。先ほど見た公園の木陰とベンチ。ここならさあ座ってくださいと待っているようなもの。他の何処に腰掛けるよりも安定した場所。人が座るためにあるベンチ。
 幹から少しだけ離れているのは根があるため。何の木かは分からないが、電柱のように立っているのではなく、根元に根の枝が露出している。だから少しだけ離したところにベンチがある。それでも充分日影を作っている。
 しばらく座っていると、意識が遠のいてきた。熱中症でやられたわけではなく、思考停止。物事を考えるとき、それをリードしている船頭のようなのがいる。それがいない。
 そんなとき、頭の中は空っぽになるが、今自分が何処で何をしているのかは分かる。意識は確かにあるのだが、それをあまり動かさないようだ。船頭が一服している。
 これはやはり疲れたのだろう。こんなに遠くまで歩くことなど想定していないので、水筒もない。途中自販機があったのを思い出したが、もう遅い。
 さいわい公園なので、水飲み場がある。小さな噴水のようなものだ。手で受けなくてもそのまま飲める。
 それを一口飲みに行く。そこは日影ではない。木陰から出た瞬間、カリッとする光線を頭部に受ける。帽子を被っていないことにそのとき気付く。いつも車なので、日除けの帽子など用はないし、陽射しのあるところをウロウロするような用事など日常的になかった。
 水を飲んでいるとき「私は水飲み老人か」と、妙な独り言を言ってしまう。
 そして、ベンチに戻ろうとしたのだが、目が変になったようで、ベンチがない。
 それがあった木はある。似たような木が数本あるので、見間違えたのかと思い、それぞれの根元を見るが、ベンチなどない。
 ベンチから立ち、そのまま直進した。だから振り返ればあるはず。それがない。
 しかし、暑くて頭がぼんやりしているためか、それ以上深く追わなかった。
 だが、もう少し休憩したいので、公園内を見渡し、ベンチを探すが、やはりない。どのベンチでもいい。すると隅っこの荒れた場所に壊れたベンチがある。
 しかし木陰ではない。
 まあ、いいかと思い、古田は帰ることにした。
 帰り道は下り坂になっているのか楽だが市街地に出て、また暑苦しくなる。行くとき見かけた自販機でスポーツ飲料を飲むとぼんやりとしていた頭はしっかりし始めた。まるで点滴を受けたように。
 そして、本当に大事なことなど忘れていた。もう頭にない。帰ってからの仕事などのことで、頭が満たされためだろう。
 大事なこと。それはどう考えてもおかしなことなのに思い出そうとしない。
 消えたベンチのことだ。頭の中からも消えてしまったのだろうか。
 
   了
 


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2018年07月18日

3689話 劇画時代


 ドンドンとドアを叩く音。所謂ノック音。しかし、ドアにガタがあるのか、ドアそのものが緩んでいるのかドンドンではなく、ドアドアと響きが鈍い。中のベニヤが張りをなくし、高い音が出せなくなっているのだろう。
「はい」
 宮崎は股火鉢ではないが、扇風機を跨いでいるところだった。
「わし」
 声で高岡だと分かった。
「開いてます」
「ああ」
 汗びっしょりの高岡が入ってきた。顔は真っ青、怖いものを見たのでも体調が悪いのでもなく、冬でもそんな顔色。これで誤解されるようだが、宮崎はもう慣れたのでその話題はない。高岡は首にタオルを巻き、麦わら帽。紐を解き、さっと脱ぎ、畳の上に置く。
「暑いのに」
「ああ、急に思い付いてね」
「あ、そう」
 宮崎は冷蔵庫から一リットル入りのコカコーラを取り出し、湯飲み茶碗に注ぐ。
「あ、ありがとう」
「これを」
 と、宮崎は団扇を差し出す。
 そして扇風機は宮崎を向いているので、それを二人とも風が来るように首振りにした。すると急にギィーギィーと音がうるさい。
「暑かったでしょ。駅からここまで田んぼばかりだから日影なかったはず」
「それより、理論誌を出そうと思うんだ」
「え」
「理論武装だよ」
「あ、そう」
「それで、その理論を考えながら、ここまで来たので、暑さなんて関係ないよ」
「何か良いのができましたか」
「いや、まだ構想の段階だよ」
「理論誌というのはどうやって出すの」
「最初は肉筆回覧誌でいい。君も書いてくれ」
「絵は書くけど、文章は」
「駄目だよそれじゃ」
 二人とも漫画同人会のメンバーだ。
「理論誌を出して革命を起こす」
「え」
「いや、同人会の話だ。このままでは駄目だ。筋が通っていない。何のための同人活動かが明快ではないし、何のために漫画を書くのか曖昧だ。そういうのを話し合ったことがないんだね。だから、理論誌が必要なんだ」
「はあ」
「まあいい」
「いいんですか」
「ちょっとそれをここに来るとき思い付いただけ」
「ところで、漫画は書きましたか」
「いや」
「書いてないっ?」
「まあ」
「カットでもいいから提出しないと」
「カットなら書けるけど、わしが書きたいのは劇画だ」
「さいとうたかをのような」
「違う、辰巳ヨシヒロがいい。そちらこそ正統派なんだ」
「はいはい。そういうことを理論誌で書くわけですね」
「そうだ。まずは足元から固めないとね」
「はい」
「その前に、少し横になってもいいかな。暑さにやられたようだ。一眠りすれば治る」
「暑いですよ、この部屋。昼間寝るのは危険です」
「扇風機があるじゃないか。それで充分」
「分かりました。たまに冷蔵庫を開けますから」
「ああ、そうしてくれ」
 高岡は何度も寝返りをうちながら寝ていたが、やはり暑くて寝入れないようだ。
「無理だな」
「そうでしょ」
「じゃ、帰る」
「大丈夫ですか」
「ああ、横になっただけでも、ましになった」
「夕方涼しくなってから」
「いや、戻ってすぐに理論誌を準備をするから」
「あ、はい」
 宮崎は駅まで送るため炎天下の田んぼ道を二人で歩いた。
「辰巳ヨシヒロもいいが、松本正彦もいいよ」
「はあ」
「これからは松本正彦の時代だ」
「はあ」
 バッタが一匹飛び上がったが着地に失敗したのか、よろけて、羽根をばたつかせた。
 
   了


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2018年07月17日

3688話 夏の扉


「暑いときはどうされてます」
「うんと暑苦しいことをやったりとか」
「余計に暑いですねえ」
「寒中水泳のようなものですよ」
「やりましたか」
「いや」
「じゃ、夏は何でしょう」
「体も焼けるので、やけくそになる」
「やけくそ」
「栓も緩むのでしょうなあ」
「それで何をされるわけですか」
「新しいことをしたい」
「暑い時期にですか」
「毎日同じことじゃ暑苦しい」
「それで、新しいことをですか」
「理由はそれだけ。新しいことをしたくてやるんじゃない。いつも同じだと暑苦しいためだ」
「新たな試みとか」
「そうだね。ガラッと趣の異なることとかね。まあ、自分にとっては新鮮なことなら何でもいいんだよ。また、しなくてもいいことだ。冬は閉鎖的、夏は開放的。だから開くんだろうねえ、何かの扉が」
「そうですねえ。冬場閉めていた窓も暑いので開けますからね」
「開いているから行ってみる。それだけだ」
「で、何が開いていました」
「今までとは別の方針や、違う方向、またはまだやっていないこと、等々だよ」
「いろいろとあるものですねえ」
「必要だからじゃない。暑いからだ」
「はい」
「それで新しいことを始める。最初は刺激があっていい。これで暑苦しさは少しは忘れる。熱中して体が熱い」
「やはり暑苦しそうですねえ」
「そのときは分からない。汗が出てきて、やっと分かるが、暑さなど忘れている」
「はい、それで新しいことは上手く行きましたか」
「これはただの刺激でいい。別に新しいことをやる必要もないからね」
「じゃ、上手く行かないわけですね。新しいことは」
「そうだね。冬場だとそれが分かっているから挑まない。それだけのこと。夏場は栓が緩むので、やってしまえるだけ。結果はやる前から分かっているようなもの。しかし、目的はそれではない」
「暑いので、やっただけということですか」
「まあ、無駄なことをして大汗をかいて、余計に暑くなったがね。しかし、それでものになった夏もある」
「そうなんですか。いける場合もあるのですね。その新しいことで」
「今、私がやっている仕事。これはそういう夏の日にやったことがスタートだった。しかし、長く今の仕事をやりすぎたようだね。もう新しいことではなくなってから久しい」
「はあ」
「あれは何十年も前の夏の日だった。あの頃も暑くて何ともならんので、暑さしのぎでやり始めたことだった。それが当たった。そして今日に至る」
「はい」
「きっかけなど単純で、生理的なものだけかもしれないねえ」
「あ、はい」
 
   了

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2018年07月16日

3687話 パンを買いに行く


 富田は夕食後、なかば散歩のつもりでパンを買いに行く。近所にはもうパン屋はない。小さな店があったのだが、閉まっている。そのシャッターは開くことはなく、そのままは空き屋になったまま。
 夕食後なので夕食が足りなかったわけではない。翌日の昼に食べるパンだ。パンでなくてもかまわないのだが、昼は仕事中に食べたい。仕事をしながら。パンならそれができる。巻き寿司でもいいのだが、それでは高くつく。
 近所のパン屋、これは駄菓子屋のようなものだが、コンビニも近い距離にあるので、もうそのパン屋がなくなっても問題はない。それでコンビニへパンを買いに行くかというとそうではなく、少し離れたところにある百均。散歩がてらなので、少し距離がある方がいい。自転車なので、あっという間に着いてしまうのだが、夕食後、部屋で過ごすより、外の空気を吸いたい。それに季節はもう夏。食べると汗が出る。
 そして夜道を百均まで行くのだが、その途中、何故パンなのかと考えてしまった。決して深く考察するような問題ではない。しかし、パンでなくてもざる蕎麦でもいい。しかもそれを何故夕食後に買いに行くのか。朝、買ってもいいし、昼前に買ってもいい。それが不思議と前日の夜に買いに行く。
 さらにいつ頃から昼はパンにすると決めたのだろう。ずっとそうではなく、普通のご飯とおかずや、暑いときはお茶漬けなどもあったし、うどんや蕎麦もあったり、冬などお好み焼きを焼いたりした。当然焼きそばも。
 仕事をしながらでも食べられるのでパン、という理屈も合わない。それほど忙しくはないので、食事に専念しても問題はない。
 百均でパンを一つ買う。そのついでに日用品も買う。また文房具、飲み物も買うことがあるし、自転車の前籠カバーを買うこともある。だからパン一つだけ買うことは希。
 店屋というのは、見せ屋で、品物を見せるところ。だから見世物と同じ。そういうのを気楽に見に行く場合、コンビニやスーパーよりもいい。それでついつい余計なのを買ってしまうのだが、これは見学代のようなもの。握りやすそうな太さのボールペンを買って試したり、シャープペンまで付いているコンパスを買ったりと、意外と飽きない。だからおもちゃ屋のようなもの。
「これか」
 と、富田は気付いた。パンが目的ではないのだ。しかし、目的にできる。昼ご飯なのだから、それは遊びで買うようなものではない。真面目な買い物だ。
「付随物、おまけか」
 つまり、パンだけを買うのは楽しくない。それだけのことかもしれない。
 当然カップラーメンなども売っているのだが、やはりパンがいい。湯を沸かしたりが邪魔臭い。
「いつ頃からだろう」
 そう思うのは、結構最近のことのため。一年前はそんなことはしていなかった。昼は特に決まったものはなく、適当。しかし数ヶ月前からパンしか食べなくなっている。
 夜に百均へ行ったのがきっかけかもしれない。そこにパンがある。ついでにパンをそのとき買ったのだろう。そのパンはコンビニでもあるようなパンで、メーカー品。中にはまだ生きていたのかと思うようなメーカーのも混ざっている。
 夏場はいい。秋もいい。しかし冬の寒い頃、夜にパンを買いに行くかどうかは分からない。
 成り行きでそうなってしまった日常パターンというのがある。それだけのことだが、それでも細々とした事情が含まれている。
 夜にパンを買いに行く。それを説明するには日常些事の退屈な話になる。
 
   了



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2018年07月15日

3686話 山姥


 長く山歩きをしている老人から妖怪博士は不思議な話を聞いた。それは一つや二つではない。
「何かいるのは分かるのです」
「何がですか」
「何かです」
「ああなるほど、何かですか」
「そいつは姿を顕わさん」
「しかし、見ないのに分かるのですかな。何かいると」
「はい、笹が妙な揺れ方をしたり、鳥が飛び立ったり」
「しかし、実体はない」
「あるのしょうが、正体を顕わさん」
「そんなとき、どうするのですかな」
「動かないで、じっとしております。そのうち消えますので」
「単純に考えますと、ケモノが近くまで来ていたのでしょ」
「おそらく」
「じゃ、笹でも食べに来たのでしょ」
「そうなんですがね」
「しかし、それとは違うと思うのでしょ」
「そうなんです。あれはケモノじゃない」
「山で異様なものをごらんになったことは?」
「ありません」
「あ、そう」
「しかし気配は確実にあります」
「また、笹ですか」
「いや、何も動いておりませんが、いることが分かります」
「何でしょう、それは」
「さあ」
「感じたわけでしょ」
「はい、いると感じました」
「それが、目や耳や鼻ではなく?」
「そうです。背筋が急にゾクッと」
「風邪でしたか」
「違います」
「じゃ、皮膚で感じられたと」
「いえ、もっと深い骨の髄で」
「ほう」
「これは進んではいけないなと思い。しばらく身構えています」
「はい」
「どうしてもその怖さが治まらないときは、そちらへ行くのはやめます」
「どういうものがいるとお考えですか」
「さあ、見えていませんから」
「じゃ、どんな感じのものか、想像してみましたか」
「はい」
「やはりケモノですか」
「いえ、岩のような硬いものです」
「じゃ、前にあるのは岩」
「いやいや、岩なら見えます。そうじゃなく、大きくて硬い塊です」
「形は」
「そこまで分かりません」
「それらは全て錯覚だとは思いませんか」
「はい、思いますとも」
「やはり」
「しかし、錯覚にしてリアルすぎるのですよ」
「ほう」
「また」
「また?」
「はい、また、何か飛んでいることも。これも見えません」
「鳥のように飛んでいるのですな」
「そうです」
「葉が舞っていたとか」
「それなら分かります」
「じゃ、何が飛んでいたのですかな」
「何かが」
「ううむ」
「すみません、具体性がなくて」
「いいですよ。そんなもの、具体性があれば、バケモノだらけになって大変でしょ」
「そうですねえ」
「感じるところがある。しかし、具体性がない」
「そうです」
「それに目鼻を付ける気はないでしょ」
「ああ、強引に付けられなくもないです。しかし、それを指しているわけじゃありません」
「じゃ、あなたが知っているものではどれに当てはまりますか」
「山姥の妖術」
「はい、結構です。そういう言い方しかできないでしょうから」
「すみません」
「あなたにもし想像力、創造力がもっとあれば、形を与えてしまうでしょうねえ」
「そうなんです。何分絵も下手だし。イメージも貧弱で」
「いえいえ、だからこそいいのです。妖怪を生み出さなくて済みますから」
「やはり妖怪でしょうか」
「妖怪にしようとすれば妖怪になります」
「でも、こっちの世界にいるものとは別の何かを感じます」
「それで、そういったものと遭遇したときは、どうすればいいとお思いです」
「私の経験からいいますと、じっとしていることです。下手に逃げると転びますし」
「じっとですか」
「はい、私は魔除けを持っておりますので、それを握りしめて印を結び、呪文を唱えます」
「意外と原始的なことが効くのですね」
「そうです」
「きゃつらは、そもそも原始的なものかもしれませんからねえ」
「はい」
 
   了


posted by 川崎ゆきお at 09:48| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月14日

3685話 搦め手から


「これでお願いします」
「飾り櫛ですね」
「いいですか」
「そのお召し物も」
「え」
「それでは目立ちます。そちらに幕がありますので、お着替えを。野良着を用意しましたので、それに着替えてください。お召し物はそのまま置いていってください」
「はい、よろしくお願いします」
「もう少し集まれば、道案内します」
「はい」
 落城寸前。落ち行く人が城の裏から出てくる。逃げ出すためだ。城の裏側は山。ここからは攻めにくいので、兵は少ない。しかし囲んでいる兵はいる。それを指揮しているのは、攻め手の武将だが、年寄り。実際に守っているのは足軽。駆り出された百姓。
 城主は籠城策をとるが、兵は逃げ出している。重臣達も搦め手から同じような手で逃げている。囲んでいるのだが、金銭を渡すと通れる。
 攻め手と城側とは恨み怨まれる関係ではない。大人しく従えば領地はそのまま。それを拒む理由はない。
 攻め手も相手が憎いわけではない。そのため、一族皆殺しなどは考えていない。
 搦め手を任された武将は、自ら進んで申し出た。実入りが良いのだ。足軽達も搦め手が美味しいことは知っていた。村への土産になる。しかし人数が決まっているし、その武将の配下でないと無理。そのため、こっそり紛れ込んでいる。だから一番手薄な城の裏側の兵が多いが、目立たないように山中に潜んでいる。仕事は多い。協力費をもらうだけではなく、安全な場所や、さらには特定の場所まで護衛する。そのため、前もって山道に詳しい土地の者を連れてきている。
 落ち行く人の敵は敵兵だけではない。今回はその敵兵が味方になってくれている。怖いのは落ち武者狩り。何処の誰だか分からない。
 この城が落ちれば、領主一族は亡びる。自ら決めたことなのだが、頼みの援軍が来ない。これで目論見が外れのだが、城主は最後まで諦めない。しかし家来はとっくに諦め、大半は逃げた。戦いたくないというよりも、兵糧がない。それが一番の理由。援軍が遅すぎる。
 城主一族は投降を拒み続けたので、もう命乞いはできない。
「今からでも遅くはございません」
 重臣の一人が、自分も命が惜しいので、城主に降参を勧めた。
 しかし攻め手の大将にはその決定権はない。投降するには遅すぎた。既に城主一族の皆殺しが決まっていた。
 城主は覚悟したが、一族が根絶やしになるのを何とかしたい。そこで息子達は無理だが、姫なら見逃してくれるかもしれない。側室の子だが、血は繋がっている。
 城主は密かに姫を落とした。幼子を小者に預けた。これは武士ではない。しかし、その小者、年をとりすぎていたので、その息子に任せた。下男以下の身分だ。岩のような大男で、荒くれ者。
 先ほど搦め手から密かに逃げていった落人の中に、この大岩男に背負われた姫も混ざっていた。
 この幼き姫がいずれお家再興を果たすのだが、話が長すぎるので、ここまでとする。
 
   了



posted by 川崎ゆきお at 11:11| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月13日

3684話 流罪


「岩田さんはどうしているかな」
「岩田さん?」
「知らないのかい」
「はい」
「うちの幹部だ」
「聞いたことがありませんが」
「事情があってね、遠ざけていた」
「そうですか」
「様子を見てきてくれないかな、戻したいので」
「以前、何かあったのですね」
「もう。ほとぼりが冷めたはず。いつまでも遠ざけるわけにはいかん。重要な働きをした人だからね。恩人でもある」
「はい、分かりました」
 部下は居場所を聞き、迎えに行くことにした。しかし、聞いたことのない町で、結構遠い。
 新幹線で降りたまではよかったが、周囲は何もない。在来線の駅まで行くと、やっと町らしくなるが、古びたところだ。そこから支線に乗る。
 この終点の駅は城下町だったらしく、瓦屋根が多い。旅館と書かれた看板。大きな薬局もあるが、チェーン店ではないようだ。
 バス乗り場があり、そこからさらに山の中へ入っていく。城下町だったところなので、それほど辺鄙な場所ではなく、昔はここがこの地方の中心部だったに違いない。
 バスで終点まで行き、そこで降りると、ここはもう何十年か前の風景。建物はあまり変わっていないのかもしれない。もう町ではなく村。この辺りでは一番大きな村のようだが、市町村単位での村ではなく、農家が集まったただの集落。一応バスでここまでは辿り着けるが、岩田善三郎という人はさらにその奥に住んでおり、バスはない。
 山にかかり出すと、道路も狭くなり、対向車があれば困るだろう。
 やがて舗装された道路が林道になり、轍の隙間に草が生えている。
 その林道は山裾を縫うように続いているのだが、これは林業用だろう。
 ここからは地図を見ないと、場所が分からない。手書きの地図だ。
 林道から細い山道に入る。山を越える道のようで、越える手前を回り込んだところに窪みがあり、集落がある。少しだけ平らな場所で、藁葺き屋根が見える。結構大きな農家。そういうのが数軒あるが、既に屋根はむしり取られたようになり、傾いているものや、ぺしゃんとなっているのもある。
 部下はそれを見ながら、その集落へ降りていくと、野良仕事をしている人がいる。
「岩田さんのお宅はどちらでしょうか」
「ああ、私が岩田だ」
「初めまして、盛岡と申します」
「岩国の使いか」
「はい、そろそろ戻ってきて欲しいと」
「義理堅い奴だなあ、捨てれば良いものを」
「あ、はい」
「帰らないと伝えてくれ」
「あ、はい」
「ここでずっと暮らしていると、気に入ってしまった」
「でも会長が」
 そこへ若い娘が現れた。
「昼飯か」
「はい」
「客だ。酒の用意を頼む」
「はい」
 盛岡がまだ壊れていない農家に入ると、若い娘がもう一人いる。
「あのう、これはどういうことで」
「ああ、里から手伝いに来てくれるんだ」
「そ、そうなのですか」
 盛岡はちょっとだけ違和感を感じた。
 これはどうなっているのかと聞きたかったが、言い出すきっかけがない。
「岩国には元気で暮らしているから心配するなと伝えてくれ」
「あ、はい」
 若い娘が盛岡に酒をついだ。
「帰りは送らせる」
「え」
「だから、帰りは車で送らせる」
「でも道が」
「遠回りになるが、林道まで四駆なら入れる道があるんだ」
「じゃ、車で、ここまで来れるのですね」
「かなり遠回りだけどね」
「はい」
 部下の盛岡はその日には帰らず。三日ほど泊まったようだ。
 
   了


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2018年07月12日

3683話 開かずの踏切


 日常というのはちょっとしたことで変わるが、ほんの僅かならすぐに日常のレールに戻れる。そしてもうそんなことがあったことさえ忘れる。ただ、同じことが二度あると、それが二度目だということを思い出すこともある。一度あったこととして。
 吉岡はいつものように自転車で走っていた。よく晴れた日曜日、それまでの長雨が嘘のよう。雨で涼しかったのだが、急に暑くなった。
 そしていつもの踏切に近付いたとき、キンカンと鳴り出した。よくあることで、十五分に一本のダイヤなので、引っかかりやすい。ここまでは日常のうち。
 幸い踏切手前に木陰があり、そこで待つことにした。踏切まで行ってしまうと、陽射しで暑い。
 電車は左右から来るようで、これは長くなることを覚悟する。そんな決心をするほど大層なことではないが、急いでいるときは線路と並行して走っている道を通り、隣の踏切で渡ることにしている。方角的には寄り道にならないので、問題はない。じっとしているより、先へ進める。
 しかし、その日は待つことに決めた。上手く日影に入り込んだので。
 ところが電車が来ない。それを気付くまで別のことを考えたり、違うところを見ていたため、気にはならなかったのだが、いつもキンカンと鳴り出してから数分で来るはず。だがその間合いが長い。
 その位置からは左右の見晴らしが悪いため、電車が何処にいるのかが見えない。そしてここの踏切が閉まるタイミングは左右の駅に電車が到着したとき。だから結構時間がかかる。乗り降りの時間が長くなっているのだろう。近付いて来ればキンカンと鳴り出すのではない。だから長いときがある。駅で手間取っているのだ。
 おかしいなあ、と思っていたとき、右側から電車が来た。しかし、意外と長かった。だが、左側からの電車がまだ。そのため、余計に待つ時間が増えた。
 これはすぐに通過するだろうと、ペダルを踏む準備をしていたのだが、来ない。
 そうしている間に踏切待ちの人や自転車が並びだした。
 同じように木陰で待っていた老人が踏切の前まで自転車で見に行く。そしてじっと待っている高校生に何やら話しかけている。どうなっているのかと聞いているのだろう。
 やがて老人は線路沿いの道を右側へ走り出した。そちらの踏切は大きい。電車は左から来る。だから、より右側へ行けば遠ざかる。だから開いているかもしれないと睨んだのだろう。
 吉岡も、そこでじっとしているより、待っている時間を少しでも進んだ方が良いと思い、急いでいるときと同じように、線路沿いを進む。いつもの道とは異なるが、何度か通った道なので、まだ日常のうち。
 吉岡は老人のあとを追うように、大きな道に出た。ここも信号待ちのようだ。左から来る電車とまだ近いのだろう。しかし、長々と車列ができている。渋滞だ。踏切待ちが長すぎる。
 老人は遮断機の前まで行き、横の人に話しかけている。吉岡も左からの電車が見える位置まで体を乗り出す。
 かなり遠いが向こう側の駅に止まっているようだ。動いていない。老人はそこで待つようだが、吉岡はもう一つ右にある踏切まで行くことにした。そこは線路沿いの道がないところなので、路地を曲がり込みながら駅を越えたところの踏切まで出る。できるだけ左側から離れた場所の方が良いため。それが当たったようで、踏切は開いていた。
 そこを渡るとき、左側を見ると、豆粒のように小さいが、向こうの駅にまだ止まっているのが見える。
 そして渡りきり、しばらく走ると、いつもの道に出た。
 少しだけ日常から離れたが、日常の中。これも含めて日常のうち。電車が何故止まったままなのかは分からないし、踏切がいつ開いたのかも知らない。ニュースにもならないニュースだが、人身事故があったとしても、分からないままだろう。
 吉岡の日常がちょっとだけ揺れたが、その震源地では非日常なことが起こっていたのかもしれない。
 
   了

posted by 川崎ゆきお at 10:48| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする