2019年04月30日

3973話 等々力村綺譚


 連休に入り、時間ができたので、高峯は等々力村に行くことにした。これは里帰りではない。遊びに行くのだが、それはただの行楽でも観光でもなく、見学。これは似たようなものだが、特殊なものを見に行くので、ここが違う。一般公開されているのかどうかは分からないが、歓迎されないだろう。なぜなら閉ざされた村のため。
 その情報はネットで見たのだが、一応秘境とされているが、そんな山奥ではない。等々力村の周辺には町があるし、村もある。ただ、等々力村だけぽつりとあり、陸の孤島。しかし辺鄙な場所ではなく、一村だけ離れたところにあるだけ。
 ここは終わった村ではない。住む人がいなくなったとか、不便なので、引っ越したというわけではない。実際にはそのように見えるのだが、実は自主的に出ていったらしい。
 それから十年も経っていない。その近くで廃村になっている村はない。町も近いし、便も悪くない。人は減ったが、人がいなくなるほどではない。また、町から引っ越してくる人もたまにいる。この一帯の村は冬などは行商などを昔やっていたのか人慣れしており、よそ者を寄せ付けないようなことはない。また、近くに一寸した観光の寺があり、外から来る人も結構いる。だから閉鎖的な土地柄ではない。
 では何故、等々力村だけが消えたのか。高峯はこれに興味を持ったが、それなりに理由があるのだろう。しかし、村人が去ってから十年以上経つようで、その間、この村に用事はないためか、人は滅多に立ち入らない。
 近在の子供達も、等々力村は遠いので、そこまで遠出しない。これが通り道にあるのなら別だが。
 JRで、大きな町に降り立ち、そこから支線が出ているのだが、これは廃線になっており、バスが出ている。またこのあたりの人の足はほとんど車だ。支線はなくなったが、元々便が少ないので、乗る人が減り続け、消えただけ。なくてもかまわないような支線で、これは地元の有力者が議員になったときの公約で作った経緯がある。
 高峯は駅前の大きなバスターミナルから等々力村に一番近い町まで行く。車内は観光客が多く、終点近くにあるお寺のある町で下りるのだろう。
 町で下りた高峯は、そこからまたバスに乗り換え、等々力村に一番近い村で下りる。この村も結構大きく、元気そうだ。小学校などは鉄筋コンクリートで、立派なものがある。廃村になる雰囲気はない。そこから少し離れたところにある等々力村が消えたのが不思議なほど。
 等々力村へのバスはない。袋小路の行き止まりのような場所にあるためだろう。
 そして村人に等々力村のことを聞くが、案の定そっぽを向かれるか、途中で顔色が変わる。禁句のようだ。
 その禁句を我慢できないのか、一人のお喋りな婆さんが、怖い顔をしながら、話してくれた。
 お決まり通り「行ってはならぬ」を繰り返す。
 等々力村で十年前、何があったのかと聞くと、知らないという。本当に知らないようだ。近くの村なので、知り合いもいるはず。それについて聞くと、挨拶もなく、引っ越したらしい。
 その後、等々力村へ行ったことがあるかと聞くと、二回行ったが、最初の頃だけで、その後は行っていないとか。
 等々力村を見に行った他の村人も似たようなものらしく、その後は行ってはいけない場所になったらしい。
 村人に等々力村のことを聞くといやな顔をするのは何故かと聞くと、これといった理由はないらしい。だから、誰も話すのを禁じているわけではないし、暗黙の了解ができているわけでもなさそうだ。
 最後の最後、婆さんは小さな声で教えてくれのだが、ややこしいものが棲み着いているとか。それに乗っ取られたのだろうということ。
 婆さんは、ここでの語り口が一番冴え渡った。名優が小さな声で、抑揚を抑えたロートーンで語るような感じ。
 これで、お膳立てができ、盛り上がってきたので、このへんでいいだろうと思い、高峯は等々力村へと向かった。
 婆さんは家に戻り、灯明を付け、ゴニョゴニョお経を唱えだした。
 夕方前、高峯は村に戻ってきた。
 ただ、顔色が出るときとは違っていた。
 
   了
 

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2019年04月29日

3972話 毒将


 弘田天善という名の知れた武将がいるが、隠居している。その息子があとを継ぐことなく、与えられた一ヶ村で一族郎党と静かに暮らしていた。食べることに不自由しないし、仕事もない。だから、武家だが大庄屋のようなもの。農園主に近い。
 この国は天善が作ったようなもの。まだ小さな勢力だった頃から活躍し、近隣を切り取り、数万石を領する大名となっている。
 天善はこのとき、何かを悟り、身を引いた。懸命だ。
 天善は戦奉行のようなもので、戦いのときの司令長官。この国の武力を掌握していた。それで主家が大名になったとき、さっと引いたのは、敵よりも仲間内から恐れられていたためだろう。事が成った後、今度一番危険なのは天善なのだ。
 それは周辺を切り取るときの手腕を見れば分かる。かなりエゲツナイ策略を用い、しかもその用兵は巧みで、つまり権謀術数に長けた武将なのだ。これでは主家など簡単に乗っ取られてしまうだろう。だから、その前にさっと身を引いた。
 ところが数年後、隣国が攻めてきた。大国が背後にあり、容易な相手ではない。
「戻ってこいと」
「はい」
「それはならんだろ」
「大殿様も亡くなられ、若殿様が困っておられます」
 天善は先代に仕えていた。その先代が天善を恐れた。天善もそれを感じていたので、身を引いたのだ。その遺言があるはずだが、若殿はそれを無視して天善を呼び戻した。
 敵国にやられるより前に天善にやられてしまうだろう。しかも軍を任せるのだから、これは猫に魚の番をさすようなもの。しかし、天善はそんな不届き者ではない。本人は律儀なつもりだが、知恵がありすぎた。
 この知恵は特殊なもので、習い覚えたものではない。人の動き、兵の動きが分かるのだ。
 それに対して打つ手が厳しくエゲツナイ。ほとんどが罠を仕掛けてのだまし討ち。
 天善が抱える郎党は数十人。これは特殊機関のようなもので、敵を知るための情報機関のようなもの。
「私はもうただの百姓親父、それに隠居の身。お仕えできるだけの力はございません」
「ではどうじゃ。今度の戦で、ここからも兵を出す義務があるじゃろ」
「あ、はい」
「足軽を出してくれ、それならいいだろう」
「その程度なら」
「ただし、その足軽、天善殿が引き連れて欲しい」
「また、持って回った言い方ですなあ」
「若殿がどんなことがあってお連れするようにとの厳命、私どもの立場もどうかお考えの上……」
 誘いに来た武者は、天善が現役時代の部下でもある。しかも一番懐いていた部下。若殿も困った奴を使いに寄越したものだと苦笑いした。もしかして、若殿は名君かもしれない。だが、名君なら毒蛇を城に招かないだろう。
 城入りした天善は早速主だった武将を集めた。いずれも昔の部下達だ。先代の殿様よりも天善に懐き、誰が殿様なのかが分からないほどになっていたのだから、これはやはり危険な存在だろう。
 天然は敵の様子だけではなく、敵部隊の武将達の名前まで調べ、その性格まで知ろうとした。
 戦いは簡単に終わった。
 天善の策が次々に当たり、敵は混乱し、戦意を失い、遁走した。天善は追わなかった。背後にいる大国が出てくるのを当然警戒してのこと。
「役目も終えましたので、また百姓に戻ります」
 若殿はもう一ヶ村、天善に与えると言ったが、敵の領地を取ったわけではないので、それは受けられないといい、辞退した。
「このまま、以前のように我が家の重臣として残ってもらうわけにはいかぬか」
「それができぬのは若殿が一番よくご存じのはず。大殿から言われているのではありませんか」
「ああ、聞いたが」
「私は猛毒を持っております。それをお察し下され」
「また呼べば来てくれるか」
「はい、喜んで」
 
   了



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2019年04月28日

3971話 お好み


 今日の好みと昨日の好みが違う。日々お好み焼きのようなものなので、それは大して重要な好みの問題ではないのかもしれない。
 十年前と今の好みは違う。これは分かるような気がするが、一日にしか立っていないのに、好みが変わるというのは、少し妙だ。センスのセンサーが狂ったのかもしれない。
 そうなると明日の好みも変わるかもしれない。そしてさらに次の日は、その前の好みにまた戻っていたりする。
 好みのタイプ。そのタイプは大きく分けて二つある。一方と片方という風に。その二つはおそらく対照的なのだろう。強い目とか弱い目とか、甘い目とか辛い目とか。当然その中間もあるし、二つではないかもしれないが。
 また、好き好んで、というのもある。これはわざわざそういうものを選んでということだが、これはやはり好きなためだろう。しかし、あまり選んではいけない好みかもしれない。それを敢えて選ぶ。
 この敢えて選んだものほどコロコロ変わりやすい。なぜなら敢えてという意図が強いため。好みも変わるが、これは感じないと駄目。しかし意図は頭の中だけで決められる。
 だから意図して決めたものは感性的なところを通っていないかもしれない。
 暗い目のしっとりとしたものが好きだと思っていても、明るくカラッとしたものを見ると、やはりこちらの方が元気でいいと感じたりする。そしてまたそれに飽きて、しっくりとしたものに戻ったりするが、いずれも通過しているだけで、ぐるぐる回っているようなものだろう。
 簡単なものが好ましいと思っていても、あまり簡単すぎると退屈してしまい、難しいものへ向かったりする。そして当然また簡単なものに戻る。
 人はどのタイプにも本来なれるのだろう。だが、慣れたものを続けているうちに、それこそ本当に慣れ親しみ、それが本来のものだと思ってしまう。どのタイプや好みが良い悪いかではなく、どちらもいいのだろう。またどちらも悪かったりする。
 極端に走る方が分かりやすいのだが、その中間もある。実際にはこの中間にいるわけだが、どちらかに傾いている。そこを行きつ戻りつしながら、その振り幅を維持したまま進んでいくのだろう。
 好みから外れたものも、何処かでまた復活する。久しぶりだと新鮮なため。
 感性は感じなので、感じることなので、これは具体的。そしていきなり来たりする。ここは独立した世界かもしれない。ただ一瞬で、その感じは過ぎ去ることもある。
 今までいい感じとして感じていたものが感じられなくなることがあるのは、もう驚きがなくなるためだろう。
 感動というのがある。これはかなり激しい感じだ。心が動くのだろう。普通の感じ方ではない。
 感動ばかりしていると、もう感動したくなくなったりしそうだ。
 好みも変われば、感動することも変わっていくのだろうが、結構単純な反応だけの話かもしれない。
 
   了



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2019年04月27日

3970話 花より団子


「花見は終わりましたねえ」
「いやいやこれからですよ」
「でも、この雨と風で、残っていたのも全部散ってますよ」
「桜はね。八重桜も散りましたが、これが最後でしょ。里では」
「そうでしょ。終わりですよ」
「ツツジです。次は」
「はいはい」
「それだけじゃない。これからが本番。咲き乱れていますよ。それで私は忙しい」
「いいですねえ。毎日花見とは」
「花見ができる。これはいいことです」
「暇だからでしょ」
「花を愛でる」
「はい」
「これは花を愛でているのではなく、花を見ている私自身を愛でているのですよ」
「のんびり花など見てられるという状態を愛でているわけですか」
「そうです」
「そういう面もありますねえ」
「面も線も点もあります」
「じゃ、花に詳しくなられたでしょ」
「いいえ」
「ち、違うと」
「名前さえ知りません」
「桜なら分かるでしょ」
「それは分かりますが、やっと八重桜との違いが分かったばかりでしてね。あれも桜なんだ。違う木だと思っていましたよ。でも幹に書いてありました。八重桜と。それで木や草の名を知る程度でしてね。でもすぐに忘れますよ。ややこしい名前だと」
「私は花より団子でしてね」
「僕は花よりうどんです」
「花の方がいいんじゃないのですか」
「目には花がいいが、口にはうどんがいい」
「うどん」
「口というより喉元ですかな。あれが通るとき、気持ちがいい」
「噛まないと駄目ですよ」
「少しは噛みますよ」
「私は花より団子派ですが、団子が特に好きなわけじゃない。実質を取りたいということです」
「なるほど、見ているより、腹の足しになる実利を選ぶと」
「そうでしょ、目よりも胃です。ハナよりハラです」
「それもまた結構。私も実利を得たいのですがね。なかなかそういうわけにはいきませんから」
「しかし、団子を食べる程度では実利とは言えませんがね、まあ、腹の足しにはなる」
「そんなところで間食すると、しっかりとご飯が食べられませんよ」
「仰る通り。だから別に団子が欲しいわけじゃないのです」
「よく分からん人だ。団子が好きなはずなのに。それなら花見団子を食べればいい。まあ、花を見ながら団子を食べるのもいいですよ。でも団子を持ち歩かないといけない。茶店でもあれば、団子があるかもしれませんがね」
「食べるとすれば、みたらし団子です」
「あの指がネチャネチャするあれですか」
「焼きたてをあの蜜壺に浸したのを食べるのです。だから焼きたてじゃないと本当のみたらし団子とは言わない」
「語り始めましたね。流石団子派」
「次に好きなのは吉備団子」
「はいはい」
「しかし、普段から団子のことなど考えているわけじゃありません。団子屋でもない限り、そんな人、希でしょ。今日はどの団子を食べるかどうか朝から思案している人など、聞いたことありますか」
「ありません」
「この話はよしましょ。あなた、これから花を見に行くんでしょ」
「紫陽花を見に行きます」
「まだ早いですよ」
「去年枯れてそのままのがまだ残っているのです」
「枯れた花がそのままですか」
「そうです」
「本当ですか」
「ドライフラワー状態で、花玉が残っているのです」
「それは死に花ですね」
「僕も咲かせたいところです」
「でもそれ、死骸ですよ」
「あ、そう」
 
   了



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2019年04月26日

3969話 木阿弥の再起


 元の木阿弥。スタートラインに戻されることだが、本当は戻されたくはないはず。しかし、敢えて元の木阿弥へ戻ることもある。自分で戻るわけなので、自主的。そのまま進むこともできたし、少し引けばいいだけなのだが、ストーンと最初の頃に戻る。
 まだ木阿弥と呼ばれていた頃の名前に戻る。出世魚のように名が変わっていったのだろう。だから木阿弥は初期値。
 しかし、元に戻ったわけではない。戻るまでの期間があり、色々なことを経験しているはず。だから元の木阿弥とは少し違う。これは認識が変わっているはず。振り出しに戻されたので、直ぐさままた取り戻すために進む、というのもあるが、人には学習能力がある。犬や猫にもあるので、威張れるようなものではなく、むしろ学習能力があるのに、それを使わないで、無視して突っ走る愚を犯す。犬猫よりも劣ったりする。
 さて、その木阿弥、戻されたのだが、戻ってきたと解釈した。一寸した言い方の違いだが、綺麗さっぱり捨て去り、戻った。
 そしてある境地を得た。木阿弥時代は欲に目が眩んでいた。これは悪いことではない。その欲につられて突っ走った。そしていいところまで行ったのだが、それほど運は続かず、滑り落ちた。
 ずり落ちるとき、少し頑張れば何とかなった。まだ落ちたわけではない。落ちつつあるとき、落ちかける寸前。ずるずるっとなったとき。ここでしがみつけば何とかなった。しかし、敢えてそれをしなかった。落ちてもいいかと思ったのだろう。
 それで踏ん張ることなく、ずり落ち、滑り落ちた。
 あと一歩で欲が果たせる寸前。しかし、その欲を果たせたとしても、決していいものではないことが何となく分かりかけていたのだろう。結構苦しいもの。それでしがみついていた手を離す気になったのかどうかは分からないが、抵抗した形跡はなく、そのまま落ちていった。
 そして元の木阿弥となったのだが、以前の木阿弥とは違っていた。
 何かを悟ったわけではなく、虚しさを感じたようだ。世の虚しさか、自身の虚しさか、目的に対しての虚しさなの分からない。これは本人が語っていることなので、本心は分からない。
 木阿弥は一瞬だけいいときがあった。登り切れると分かった寸前。あと一歩で欲が果たせるときだ。このときが絶頂期だった。
 しかし、上り詰めたのではない。だから、欲はまだ果たしていないのに、ずり落ちた。
 元の木阿弥に戻った木阿弥は以前より巧妙になった。賢くなったのだ。しかし悟ったわけではない。
 まだ、欲を果たしていないので、別の方法を考えているようだ。
 
   了



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2019年04月25日

3968話 花の精


 広田は自転車で近所をうろつくのを趣味としていたが、春も進み、暑くなってきたので日陰を選ぶようになる。冬とは別だ。
 日中、既に夏。冬まではもう陽の当たる通りは避けることになる。そのため広田は冬の道と夏の道を作っている。今日はその切り替え時期。夏至はもう少し先だが、夕方も遅くなり、冬場に比べ明らかに長い。まだこんなに明るいのかと思う。
 道沿いの草花、これは玄関先などの鉢植えが多いのだが、春の草花が咲き誇っている。冬場に比べ、町が明るいのは、そのためかもしれない。照明にはならないが、通りに色が付く。種類も多く、それを見ているだけでも飽きない。
「そうか飽きないか」
 と、何処からか声がする。
「こんなことで満足していていいのか」
 誰だろうと思いながら周囲を見渡すが、誰もいない。しかし花が一つ動いた。キク科の花だろう。その中の一輪が揺れている。
 花の精にしては声が濁っており爺臭い。それは広田の思い込みで、花の精なら小さな女の子のイメージがある。実際には爺かもしれない。花咲爺さんも年寄りだ。
「やるべきことが他にあるじゃろう。花など見ておる場合か」
 声の方角も、どうやらその花から来ているようだ。 広田はその花を引き抜こうとしたが、茎がなかなか切れないので、捻って引っ張った。これを自転車の上からやっていたのだが、どう見ても花泥棒。それに気付いた広田はさっと発進し、立ち去った。幸い誰も見ていない。
「い、痛いじゃないか」
 片手に持った一輪の花。まだ動いている。
 気味が悪いので、広田はタバコを捨てるように、すっと力を抜いて花を離した。投げ捨てたのではなく、落とした感じ。
「こらっ、生け花にするため、抜いたのじゃないのか」
 少し進むと、もう声は聞こえなくなった。足も羽根もないのだから、何ともならないのだろう。
 広田は花の精に悪いことをしたと思ったが、可愛くない爺に説教されたのがかんに障ったのだろう。
 それから数日して、またあの花の精がいた場所を通った。抜いた場所には変化はなく、その先に捨てたのだが、その地面を見ると、アスファルトの上にぺしゃんこになった花びらが残っている。押し花だ。
 この押し花、長く残っていたが、梅雨頃には消えていた。流れたのか、剥がれたのかは分からない。
 
   了



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2019年04月24日

3967話 ご都合主義


 流れの中にある偶然性。これはじっとしていても出てこない偶然で、動いてみて生じる偶然。その偶然の意味するところは受け留め方次第。思わぬものと遭遇し、それがよいことだと幸いだろう。それで幸せになれるかどうかは分からないが、何かがそれで解決したり、道標が見付かったりする。その後、動きやすくなる。
 ただ、じっとしていると、偶然も受け身。何もしないこともしていることになるが、流れがない。あるにはあるが、あれからかなり時が立った程度の流れで、自分は動いていないのだから、時だけが動いている。そういう流れも、流れのうちだが、実際に動いてみての流れは、その中で偶然の出来事と多く遭遇しやすい。
 動くことによる流れにはストーリー性、つまり筋がつき、分かりやすい。シーンが変わったり、色々なキャラと遭遇することが、じっとしているよりも多い。
 一つの流れから別の流れが見えてきたり、また色々な偶然が重なり、設定が少し違ってくる。そういった偶然は流れに活気を生む。
 当然流れに飲み込まれてしまい、流されてしまうこともある。本来ではないところへ。
 しかし、本来そこへは行かないので、多様なシーンを体験できる。それはいいシーンもあるし、悪いシーンもあるが、悪いシーンの場合は、その流れから抜け出そうとするだろう。そしてそこでまた出合う偶然の出来事。これは起こるべきして起こるのだろうが、本人がそれに意味を見出せば、偶然と受け留めてしまう。意外なためだろうか。思いもしないものとの遭遇。
 まるで誰かが作ったような筋になり、よりストーリー性の高いエピソードは象徴性も高い。見事な偶然の重なりなどはそれだろう。しかし、これも本当は偶然ではないことが多い。そう受け留めてしまうこともまた流れ。
 流れが多くの偶然を生み出し、偶然がまた多くの流れを生み出す。これは忙しい。
 ストリー性が通り、キャラが立ち出すと、これはもう物語り。その最高峰は神話。これは強い。
 自分の頭の中で世界を作り上げているだけのことだが、これが強い。そして流れに説得力が生まれる。
 偶然の出来事は嘘臭い。偶然の多いストーリーは今一つ説得力に欠けるが、そういう偶然が起こることを期待している。偶然でしか助からないとか、偶然でしか出合えないとか。
 そういった期待される偶然は、説得力が欠けていても、結果オーライとなる。
 ご都合主義。そんな主義主張があるわけではないが、自分に都合がいいように事が運ぶのは万人が望むところ。
 どちらにしても、動きがないと流れも生まれにくく、その流れの中の偶然とも遭遇しにくい。
 
   了

 

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2019年04月23日

3966話 桶狭間


 秋の終わり頃を晩秋というが、春の終わり頃の晩春はあまり使わない。ほとんど初夏で済ませている。その方が景気がいい。勢いがある。
 しかし、晩春には趣がある。少し暗いが、それは終わりがけの儚さのようなもの。だが春の終わりをしみじみと思うようなことはない。だから気温についての話ではない。我が世の春が終わろうとしているという意味だろか。そちらで使う方がピタリと填まる。
 その我が世の春を謳歌していた殿様だが、それに陰りが出てきた。おぼろ月夜の頃だった。
 平家の昔から栄耀栄華を極めてから落ちるのは早い。だがおごりはなかった。
 その兆しが見え始めたのは人が減っていくこと。去る者は追わずで、そのままにしていると、次々と去って行った。遠慮なくどんどん。
 この殿様に先がなく、伸び代も見出せないため、それに従っていても、何ともならないのだろう。野心家なら当然のこと。
「淋しくなりましたなあ」
「そうじゃな。おぬしは去らぬのか」
「もうこの年では」
「そうか」
「しかし、まだまだ従うものがおります」
「そうか」
「ここも落ち着いてきたことですし、他へ行ってみませんか」
「元気じゃのう」
「殿はまだお若い」
「私にはそんな野心はない。ここを引き継ぐだけでいい」
「大殿なら打って出ますぞ」
「何処へ」
「天下へ」
「父上にはその望みはない」
「だから殿に託したのでは」
「しかし、付き従う者が減っておろう」
「それは殿に覇気がないから」
「疲れるので、もうやめよう」
「病弱ではないくせに」
「年寄りはいさめるもの、そそのかしてどうする。それに無謀」
「いや、勢いだけでいいのですよ殿。それで活気づきます」
「京へ上るのか」
「はい。まだまだ東海一の大軍を誇ります」
「寄せ集めじゃ」
「天下一の大軍でございます」
「うむ」
「武田と北条は留守を狙いません」
「母上はご存じか」
「そのようにお育てになり、そのように跡目を継いだのではありませんか」
「催促しておるのか」
「天下は無理でも」
「やはり無理か」
「京へ向かって下され」
「行くだけでいいのか」
「はい、しかも大軍で」
「そちは僧侶のくせに血なまぐさいことを」
「尾張との国境で小競り合いがあります。その援軍に行く必要があろうかと」
「そんなものいちいち私が動くこともなかろう」
「いえ、大軍で駆けつければ、戦になりませんので、それで終わります。そのついでに京へ向かってもらえませぬか」
「援軍が目的なのか、京が目的なのか、どちらじゃ」
「両方でございます。殿自らの出陣、しかも大軍の援軍で、家臣達の忠誠心も強くなり、さらに天下を目指すと吹聴すれば、士気も高くなりましょう。去っていた家臣も戻るかと」
「よし分かった」
 そのようにしたのだが、晩春どころか、果ててしまう。のちにいう桶狭間がそのあと待っていたのだ。
 
   了


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2019年04月22日

3965話 三角山の秘像


 村の聖域がある。正しくはお寺の聖域。境内から少し離れているが、そこに山がある。ピラミッドのように見えるが、そうではない。こういう山は三角山とか呼ばれているのだが、形が分かりやすいので、いい目印になる。また土地の名と富士を絡ませて、何々富士になることもある。
 聖域はこの山。村の寺は神社でもあり、くっついているが、一応横に神社は神社として独立した社を持っている。分離が五月蠅かった時代にできたものだろう。
 どちらも村のもので、余所者が住職になったり神主になったりしない。また何処の村にもあるような規模なので、五月蠅く言う人はいない。
 むしろ誰があとを継ぐかで問題が起こるのだが、それは昔の殿様のように血縁で決まる。跡目争いがないように、最初から長男か長女が継ぐ。
 そういうありふれた村に聖域があるのだが、これは一寸妙な話になる。
 村人でさえ立ち入りが禁じられている場所だが、それには謂われがある。まあ、そういうものがなくても立ち入れない聖域を持つこともある。別に隠し事はない。そして聖域内には何もない。ただの空間。それでも十分機能する。
 しかし、この村の聖域には具がある。具体的なものを保存している。封印というやつだ。
 当然何かが封印されているということを知られるだけでもいけない。だから村でもほんの一握りの人だけが知っている。それは三角山の頂上にある石室。これは作ったものだ。まあ、古墳の石室のようなものが盛り土の上にあるようなもの。
 その石室は山頂まで行かないと見えないが、井戸のようなもの。地上に出ているのはそれぐらいの高さ。
 その中に、秘仏が隠されているという話だが、神像かもしれない。それが寺や神社内ではなく、外に置いている。余程危険なものなのかもしれない。
 三角山はそのためだけにあるようなもので、これは村の山なので、何を建てようと問題はない。
 ただ、建てるのではなく、埋めている。
 代々住職と神主だけに伝わっていることであり、それは秘して語らずだが、跡継ぎにそれを聞かせるとき、盗み聞きされたのだろう。これは病床の住職が臨終前に語ったため、家族も聞いていたのだ。だから盗み聞きしたわけではない。
 そこから漏れ出した。
 秘仏の正体が神像でも仏像でもなく、その弟子。つまり釈迦の弟子か眷族が祭られていることが分かったが、その頭がおかしい。顔ではなく頭部がおかしい。
 人ではないのだ。
 村人は三角山には近付かないが、これは慣わしのため。ただ神山とか、聖域と聞いているだけ。それが徐々に何やら得体の知れないものが封印されているということになり、調べることにした。単なる好奇心だ。怖いものが封印されていたとしても、何が封印されているのかは見ないと分からないし、またそれに纏わる詳しい言い伝えもない。ただ、そういう像を山に祭ったとあるだけ。石室風なので、埋葬したことになるのだが、それが外に出ている。露出した石の棺。
 この石室を作ったときの話はある。要するにメンテナンスが必要ではないため、石組みの祠を建てたことには分かっている。だが形が御霊屋というより、四角い棺桶のようなもの。別の見方をすれば箱。
 それで、村人は聖域の三角山に登り、その頂上にある井戸程度の大きさのものを開けてみた。屋根にあたるところの四角い石が重いので、これは一人では開けられない。それが二枚あり、それを外すと、金具で補強した木箱が出てきた。千両箱のようなものだ。
 それを開けると布でぐるぐる巻きとなった人形のようなものが現れ、木乃伊の包帯を解くように、それを外すと、仏像だった。全身像だが、よく見ると、顔が蛇。しっかりと僧衣をまとっているようだが、頭部がいけない。
 誰がこの村に持ち込んだのかは分からない。
 しかし、この蛇頭の仏像、正しくは釈迦の弟子の像だが、それが何であるかが分かれば、正体が分かる。
 村人の中に博物館に勤めている人がおり、そういうことに詳しい職員に見てもらった。
 三角山から出たのは蛇頭だが、鼠、牛などもいるらしい。つまり十二支。干支だ。それらは時計と同じ。これは方角も表しており、それの守り神、武神のようなものだろう。東西南北の四天王よりも、方角が細かい。
 それがどうしてここにあり、聖域まで作って隠したのだろう。やはり蛇頭が気味が悪かったためかしれない。
 
   了
 


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2019年04月21日

3964話 肉眼鏡


 藤田は眼鏡を拭いた。するとよく見えるようになった。これはよくやることだが、急に視力がよくなったような気持ちになる。
 長く拭いていなくても、実用上困らない。見えないものは綺麗なレンズでも見えない。だから、支障はないが、クリアに見えると、すっきりする。これは美しさだろう。実用上、美は関係しない。別に美しいものを見なくてもかまわないのだが、見ると気持ちがいい。ただ、眼鏡を拭くだけで美が得られるのなら、これはお手軽だ。
 視力がよくなる。ものが綺麗に見える。それだけで美的鑑賞になる。だから美しい絵や写真や花や風景などを見なくても、何でもないテーブル上のものや、本の中の活字でもよい。眼鏡を拭くだけで美的鑑賞ができる。
 ではそれまでどんな眼鏡を掛けていたのだろう。余程汚れて曇っていたのだろうか。そんなあからさまな汚れなら、すぐに分かるので、すぐに拭くだろう。
 だから汚れているのに気付かないで、拭き、結果綺麗に見えたとすれば、やはり曇っていたのだ。拭く前までは、まだそれほどのことではないと思っていたのだが、一寸手持ち無沙汰で、手が空いたとき、拭いてみると、そういう結果になると、これは得した気分。
 ただ美しいものはすぐに落ち着いてきて、普通になる。見慣れたものになり、もう美しいという気持ちは消える。継続時間が短い。
 あ、綺麗だ。と思ったときがピークで、後はそんなことに驚いている場合ではないので、すぐに美は引いていく。
 クリアな眼鏡なら、どんなものでも美しく見えるかどうかは問題。醜いものはより鮮明に見える。あまり細かいところまで見たくないようなものなどは、ぼんやりと見えていた方がいい。見たくないためだ。
 しかし、クリアではない眼鏡でも、ある程度は見えている。ほぼ同じものを見ている。だから、綺麗なものを見るときは眼鏡を拭いた方が効果的だということだろう。
 それとは別に、日常がクリアに見えるというのは美しいとは別に、目の機能が回復した晴れ晴れしさがいいのだろう。いつもの風景でも新鮮に見えると、これは何か元気な感じがする。高精細のモニターに買い換えたようなものだ。
 要するに気分の問題。
 曇った眼鏡よりも、裸眼で見ているほうが明るかったりする。汚れすぎてサングラスになっているわけではないが、裸眼で見るほうがクリアさは眼鏡なしでは補えないが、明るさは別だ。
 裸眼でも見えなくはないが、文字が読めなかったりするし、顔が判別しにくかったりする。
 まあ、人は顔だけを見て判断するのではなく、その人の髪型とか、服装とか、そういうのも助けになるので、顔そのものがぼんやりしていても、何となく分かるもの。当然それを見ている場所とかでも。これでかなり限定されたりする。また相手の顔がよく見えない方が、顔色を窺う必要がない。
 町内の人と、まったく別の場所ですれ違ったとき、目礼しても、挨拶が返って来ないときがある。誰だか分からないのだろう。
 また、かなり近付けば、やっと気付いてくれる人もいる。
 欲に目が眩んだり、曇ったりすることもあるが、視力の変化ではないだろう。眼鏡とは関係はないが、裸眼でもフィルターがかかるもの。何かを通して見ているのだ。これを色眼鏡で見ると言い、いけないこととされているが、どんな人でも色眼鏡でものを見るものだ。表には出さなくても、腹の中で思っている。
 これは肉眼鏡で、生まれたときからずっと掛けていたりする。その肉眼鏡は磨くこともできる。
 この肉眼鏡、たまに剥がれることがある。目からうろこが落ちるように。しかしうろこはもの凄い枚数あるようだ。
 そんなことを思いながら藤田は眼鏡を外した。当然肉眼鏡は外せない。
 
   了

 
 
 
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2019年04月20日

3963話 緩和


「今日は暖かいですねえ」
「やっと春になった感じです。暑いぐらいですよ」
「そうですなあ。気候がいいと、眠くなります。何か緊張感が薄れて」
「何に緊張されていたのですか」
「いや、いろいろとですよ」
「まあ、心配事も緩みますよ」
「なくなりませんがね」
「緩和するだけで十分ですよ」
「そうですね、特に何もしていないのに、緩和とは有り難い」
「季候がよくなれば、よくなるんです」
「しかし、なくならないでしょ」
「まあ、そう緊張しなくてもいいということですよ」
「ほう」
「緊張してもしなくても、事態は変わらないでしょ」
「そうですねえ」
「だから、損です」
「その境地に早く至りたいものです」
「いやいや、事態は何も変わらないので、同じことですよ」
「でも、気持ちが変わると、事態も変化するのでは」
「しません」
「あ、そう」
「気の持ち方で変わるのなら、楽な話ですよ」
「なるほど、リアルですねえ」
「まあ、緊張しないといけないときは、麻痺させればいいのです」
「ほう」
「これが緩和です」
「麻痺ですか」
「今日のような春の暖かい日、頭もぼんやりするでしょ。これが何よりの薬。これでどれだけ楽になるか。だが、事態は変わりませんがね」
「はい」
「さて、そろそろ行きます」
「行かれますか」
「死地です」
「戻ってこられるよう願っています」
「死なないようにしますがね。でも無理ですなあ。心がけでは何ともなりませんから」
「はい、御達者で」
「はい、ごきげんよう」
 
   了



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2019年04月19日

3962話 馬喰饅頭


 人付き合いというのがあり、世話になっている人の頼みは無下には断れない。今もよく面倒を見てくれる親分だ。しかも将来もそれが続くはず。そういう人は大事にしたい。そのため、白川は頼みを聞き入れた。それほど難しい話ではなく、見に行くだけ。
 その組織の長老で、今は引っ込んでいるが、その様子を見てくるだけでいい。本来なら親分が伺うところだが、その代理として白川が行く。注意点は何もない。無事に過ごしているかどうかだけの確認。だから用事はそれだけ。
 辺鄙なところに住んでいるため、親分も行くのが面倒。それで半日潰れるので。
 白川なら半日潰れても問題はない。時間的な余裕は十分ある。ただしこれは仕事ではない。
 恵実氏町という郊外の便の悪いところにあるのだが、ほとんど山際だ。
 この恵実氏町、馬喰饅頭で有名。まあ、馬の糞のような形をした茶色い饅頭で、ゴマ入りの蒸しパンを硬くしたようなもの。どう見ても馬のクソだが、この悪趣味のような土産物が受けたのか、それなりに有名。今も作られ続けているので、需要があるのだろう。
 恵実氏町は昔の街道沿いの宿場町。今は旧街道に民宿が並んでいる。温泉は出ないが、旧街道の名残がある。
 白川は隠居の顔を見に行くだけでは面白味がないので、その宿場町跡の見学や馬喰饅頭を買うのを目的とした。一寸した行楽にすり替えたのだ。これで、ぐっと行きやすくなる。
 業界の隠居が住むのはその旧街道から少し山に入った所で、白川はこれで三度目だ。山荘規模でも別荘規模でもない。空いている農家を借りているだけ。五戸ほど近くに集まっている。この地方はそういう小規模な集落が多い。広い土地がないので、分散するのだろう。
 一人暮らしの隠居だが、お隣さんがいるので、孤立しているわけではない。
 白川は先に旧宿場町へ寄り、馬喰饅頭を土産に、山麓の集落へと向かった。バスはない。
 この隠居、もう業界での力は何もない。しかし白川の上司はこの隠居を大事にしている。上司にとっては親分だったのだろう。義理堅い人だ。しかし、やはり面倒なので、自分では様子伺いには行かないが。
 五戸が集まっているのだが、その一番奥に一戸だけ離れてあるのが隠居の住処。
 三度目なので、小径から農家への低い階段を上り、庭を抜け、玄関口で声を掛ける。
 高い声が戻ってきた。言葉にはなっていない。とりあえず声を発して返事をしたのだろう。
 白川がガラス戸をガラガラッと引くと、黒いものが飛び出してきた。
 馬だ。
 隠居が馬になったわけではない。それならもの凄い話になる。
 まだ子馬のようだ。
 続いて隠居が姿を出した。前回見たときよりも顔が長くなっているのは痩せたためだろうか。しかしもの凄い馬ズラだ。
 聞くと子馬をもらい受け、ペットとして飼っているらしいが、大きくなると飼えなくなるらしいが、子馬は懐いているようだ。
 そして土産物の菓子箱を鼻で突いている。凄い鼻息だ。
 馬喰饅頭。馬が饅頭を好むとは思えないが、食べたいようだ。
「いいものを持ってきてくれましたねえ」
「いえいえ」
「私は無事だから、心配しないように伝えなさい」
「はい」
 子馬は馬喰饅頭をかじっていたが、食べようとはしない。遊んでいるだけ。
「では、これで失礼します」
「ああ、ご苦労さんだね」
 用件はこれで終わり。何事もなくすんだ。
 白川は戻り道、またあの旧宿場町の土産物売り場で馬喰饅頭を買い、そこから観光客に交じり、少しそのあたりを散策して帰路についた。
 
   了
 


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2019年04月18日

3961話 モルス街の悪魔


「十五番街はどちらでしょうか」
「番地で聞かれても、よく分かりません」
「じゃ、モルス街では」
「ああ、猿街ですね。この運河の先です。橋がありますので、そこを渡らず右へ入れば、そこがモルス街です」
「有り難うございます」
「貧民街ですよ。あなたのような紳士が行くような所じゃない」
「少し頼まれものをしたもので」
「気をつけて下さい。治安が悪いので」
「はい、有り難うございます」
 老紳士は運河沿いの道を進んだ。
 橋はあるが朽ちている。途中で骨格だけになり、これでは渡れない。老紳士は渡る必要がないので、問題はないが、橋がなければ不便だろう。見たところ代わりになるような橋は近くにはない。遠くに橋が見えるが、それは鉄橋。老紳士はその橋を列車で渡り、ここに来ている。
 十五番街がある場所は運河を渡ったこのあたりの番地で、そこは港町。
 十五番街、旧名モルス街、通称猿街。
 モルス街はこの港町にある住宅地だが、安っぽいアパートがずらりと並ぶ貧民窟で、猿が人を殺したことで有名になった。
 物騒な街で、殺人事件があってもおかしくないが、その犯人が猿だったことで、世間を驚かせた。
 老紳士はその話とは関係しない。頼まれ仕事は猿ではなく、悪魔。
 壊れている橋を左に、運河道から右へ入ると既にモルス街。五階や六階の高さのアパートが並び、通りがまるで渓谷。木々が生い茂る代わりに、洗濯物がなびいている。
 しかし、港町の景気が悪いらしく、住む人々は年々減っているようだ。
 波止場のすぐ近くまで鉄道が来ている。そこが港町一番街。貨物駅に近い。
 そこから十五番街まではかなり遠く、終点の港まで行くより、運河を渡ったところの駅から歩いた方が早いと教えられたので、老紳士はそれに従っている。
 老紳士は五階建てのアパートの階段を上る。最上階の部屋に悪魔が出るためだ。エレベーターがあるのだが故障しているらしい。それで上の階ほど借りる人が減り、残っているのは悪魔のいる五階の部屋。ここは広いので家賃も高い。
 その部屋のドアを開けるが、これが重い。グワーンと鉄の扉が開き、猿が出てきた。
 猿のような婆さんが、この部屋の主で、依頼者。
 この婆さんが悪魔ではないかと老紳士は最初感じたのだが、そんなはずはない。
 しかし、モルス街の殺人事件の犯人が猿というイメージが付いてまわるのか、悪魔とは猿のことではないかと、既に推理している。
 ただ、この老紳士、エクソシストなので、探偵とは流儀が違う。
 婆さんは色々と怖い話を始めたが、猿がウロウロしていると解釈すれば、全て済むようだ。
 この最上階の部屋には屋根部屋が付くが、そこは物置に近い。
 悪魔がいるとすればそこだろう。
 老紳士は細くて狭い階段を上り、屋根部屋に入るが、意外と明るい。明かり窓から下を見下ろすと、遠くに海が見える。古びた貨物船が浮かんでいる。
 明かり窓はロックもカギもない。猿なら窓を開けて中に入れるだろう。
 婆さんも上がってきたので、そこでお祓いをする。
「これで悪魔は何処かへ行きますやろか」
「はい、大丈夫です。そのかわり、窓のロックを忘れないようにしましょう」
「はい」
 悪魔払いは、それで終わった。
 しかし、その後、また婆さんから手紙が来ており、悪魔の赤ちゃんがいるとの知らせ。
 きっと猿に子が生まれたのだろう。あれだけ言ったのに窓のロックを忘れたようだ。
 
   了

posted by 川崎ゆきお at 11:44| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月17日

3960話 選択


 一つのことを思うと、複数のものも一緒に起ち上がる。最低一つ。場合によっては三つか四つ。密度が高いのは一つ。たとえばライバル。自分以外は全てライバルだとすれば、密度は薄くなる。
 これは事柄によって浮かび上がるものが違う。箸の一つでも太いか細いか軽いか重いか滑り具合はどうか、長さはどうかで箸売り場で複数の箸から選ぶことになる。割り箸ならそう変わらないはずだが、竹を使ったものは滑りやすいが丈夫だとか、色々と選択肢がある。
 選択の自由がなくても、もし自由になれば、違う選択もできたはず。
 選択のやり直しもある。綺麗に洗えていなかったので、洗濯しなおすわけではないが、似ていなくはない。選択を汚してしまったとか、選択眼が曇ったとか、選択そのものに問題があったりする。
 無選択、これが好ましいのは、選択のためにあれやこれやと考えなくてもいいことだろう。だが、選択の過程で出てくる事実関係、よりリアルな現実が浮かび上がったりするので、決して無駄ではない。
 三択と二択は、試験の解答方法ではないが、どれか選べばいい。二択は二つの中から選ぶ。一択は競合はない。選べるものが一つしかないのだから、選択の必要がない。だから一択とは言わないし、そんな言葉もない。
 言葉を選ぶ。これも選択だろう。選べるほど言葉を多く知っていなければいけないが、同じ言葉でも表情が加わると変わってくる。
 二択でどちらを選ぶかは自由で、三択でもどれを選ぶのかが自由な場合、かえって困ることがある。どれを選んでいいのかが分からないときだ。選ぶ前まではただの想像や印象、またそれにまつわる一寸したイメージだろう。実際に選んで、そのあとにならないと、本当のことは出てこない。
 こんなはずはなかったのに、とか、あちらを選んでおけばよかったのではないかと、選択のせいにする。しかし、どちらを選んでいたとしても、同じことを言っていたりする。
 選択ミスは本人の責任だが、はっきりとした根拠もないのに選ぶことがある。責任の取れる行動をしたいのだが、その目安が見えない。
 ただ、その人が今、その人として生きているのは、もの凄い選択肢の中を阿弥陀籤を引くように選択し続けた結果だ。それで少なくても生きているだけでも大当たりだったことになる。阿弥陀様のおかげではないが。
 選択はやり直せることもある。もう一度分岐点が出てきて、そのとき、路線変更ができたりする。以前捨てた路線の先の駅と交差し、そこで乗り換えることもできそうだ。
 紆余曲折。山あり谷ありで、選択の間違いや正解も、関係しないのかもしれない。
 選択に間違うと寄り道になる。途中で気付くのだが、この寄り道が、あとで意味を持つかもしれない。
 何がよかったのかは、月日が過ぎてからでないと実際には分からない。
 
   了



posted by 川崎ゆきお at 12:08| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月16日

3959話 里の春


 市街地の今と今とがせめぎ合うような道路沿いを歩いていると、もう少し穏やかでゆったりとした風景が見たくなる。
 黒田は別に目的もないままバスに乗った。電鉄のバスなので、市内から出て、駅と駅を繋ぐのだろう。鉄道が事故などのとき、その区間をバスが走ったりする。
 だが黒田は駅前から適当なバスに乗った。色々と行き先があるのだが、三つの乗り場のうち、一番奥を選んだ。行き先は書かれているが、見ていない。それよりもバスが既に来ているので、今ならすぐに乗れる。
 乗れば適当なバス停で降りればいい。
 その適当な場所はしばらくして現れた。橋を渡るとき、土手が桜並木になっていた。人も歩いている。花見だろう。それで、橋を渡ったところに、いい具合にバス停がある。黒田は下りることを知らせるボタンを急いで押した。
 そして下りて引き返し、その川沿いを歩いた。何人も歩いており、これは近所の人だろう。服装で分かる。犬の散歩人もいる。
 川がこんなところにあるのは知らなかった。大きな川なら知っているが、それではない。排水溝の大きなものかもしれない。運河だ。
 桜が咲いているのは僅かな距離で、あっという間に終わるのだが、その先は柳が柔らかな色を見せているので、それも悪くないと思い、先へと進んだ。川や池の土手に柳を植えるのは、盛り土が崩れないようにするためだと聞いた覚えがある。
 さらに進むと喧噪な市街地から住宅地になり、建物も低くなっていくが、たまにマンションが聳えている。しかし、それほど高くはない。
 堤防脇にはその前の家の人が育てたような草花が咲いている。これもまた花見だ。
 さらに奥へ進むと、少しだけ古い家が多くなり、土手道に洗濯物が干されている。かなりはみ出している。
 こんなところがあったのかと思うほど、いい感じの散歩道。ただ、もう歩いている人は黒田一人。他の人は桜が切れたところで戻ったようだ。
 さらに進むと運河は狭くなり、浅くなる。その運河へ流れ込んでいる川がある。黒田はそちらの方へ行ってみる。川岸に雑草が伸び放題で、多少は自然を残している。コンクリートで固められても、土砂などが溜まり、そこに草が生えるのだろう。
 さらに進むと川はさらに細くなり、飛び越えられるほど。壊れそうな木の橋が架かっている。
 これも一興と渡ってみる。土手も低くなり、逆に広くなる。
 さらに進むと未舗装となり、自転車のタイヤ跡などがそのまま残っている。この前の雨でついたのだろう。
 周囲が暗くなる。これは大きい目の木が生い茂っているため。川沿いの家の庭木だろうか。結構太くて高い。桜もたまに見かけるが、種類が違うのか、いやに紅い。
 樹木に囲まれてしまったのか、薄暗いが、そのトンネルを抜けると青空が拡がり、田畑が拡がっている。田園風景だ。
「ありえない」
 バスで少し遠くまで来たが、まだ市内だ。こんな場所はありえない。
 だだっ広い場所。遠くに山が見える。もの凄く広い土地。というより、平野。
 その川は畦川になってしまった。しかし春の小川とはこのことで、土筆が頭を出していそう。
 田植えの用意なのか、野菜を育ていた畝を平らにしている。
 農家が見えてきたのだが、その前に巨大な水車が目に入る。当然農家も見えているのだが、藁葺き屋根が多い。丘沿いに幟が揚がっている。赤い鳥居が見える。
「ありえない」
 しかし、黒田はこのありえないようなのどかな風景を見たかったのだろう。
 里の春。春の里。
 しかし、見たかったものがそこにあるのだが、自分が今どういう立場にいるのかが問題。
 運河まではよかった。そこに合流している小川が虚だろう。
 
   了



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2019年04月15日

3958話 楽しみにしていること


 一寸した気がかりがあって田治見は落ち着かない。大したことでなく日常範囲内。それがこじれて大変なことになる可能性は少ないが、どう転ぶかはやってみないと分からない。ほぼ大丈夫なのだが、安心しきれない。それらの多くは人と絡んでいる。一寸した交渉事だが、毎回順調に行っている。しかし、そうではないときもある。そちらの方が珍しいのだが、それでも大したことにはならない。
 だが、思っていることと違う反応が返ってくる可能性は毎回ある。それですんなり行かないわけではないが、少しだけ面倒な手間が加わる。少しなので大きな影響はないが。
 そういうのが済むまで、楽しみごとは休んでいる。これは好きなことで、しなくてもいいことだが、趣味のようなもの。ここでは好きなだけ我が儘が通る。そして楽しい。だが、面倒ごとが起こっていないときに限る。そんなことをしている場合ではないし、そのタイミングでは楽しめない。心ゆくまで。
 さて、その気がかりな用件だが、簡単に済んだ。前回と同じで、すんなりといった。ずっとその状態が続いているので、もう気にする必要はないのだろう。
 これで気がかりがなくなったので、楽しみごとに没頭しようとしたのだが、その気にならない。もう手放しで楽しめるのだが、やりたいという気持ちが静まっている。これは何だろう。
 あれが終われば、これをして楽しもうと、ずっと待っている間の方が、その気満々だった。
 ということは、そんな呑気なことをしている場合かというようなときにやった方がいいのかもしれない。
 楽しいことを早くやりたいと望んでいたときに、さっとやればどうなるか。これは、気がかりがあるので、安心してできないはず。だから、終わるまで待つ。それが今までの田治見のパターン。そして終わってからは急に気が静まるのも同じ。
 結局気がかりが消えただけで、ほっとし。もうそれだけでも満足。そのことが楽しいのだろうか。だから、そのあと楽しいことをしなくても、もう十分楽しいのかもしれない。
 人は気の生き物で、気持ちの問題が大きい。その気になるタイミングも状況次第。
 気持ちは自然に発生する。人格のようなものも、結構曖昧で揺れているものかもしれない。
 
   了
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2019年04月14日

3957話 説明不足


 ある方向へ向かい続け、針の穴に糸を通すような細かいことをしていると、逆方向、反対側へ向かいたくなる。それは狙いとは逆。正反対のもの。
 これは一種の解放になる。拘ってきたことを解き放せ、自由になる。意外とそれが初期の目的にかなっていたりすることもある。あまりにも固執、凝り固まり、一点に向かって進んでいたためだろう。逆に本質を見失う。ただ、それをやっているときは、本質に向かって丁寧にやっているのだろう。
 初期の頃は自由だった。どちらへ向かってもかまわない。本人次第。望む方向があれば、そちらへ向かえる。それが途中で行き止まりになっても、行けるところまで行く。その過程で得られるものも多いだろう。それで初期の頃よりも詳しくなる。
 そして本質に迫るのだが、本質はさらに逃げる。
「じゃ、今までやってきたことを捨てて、元の木阿弥に戻ったのですか」
「あ、はい」
「それはもったいない。今まで積み重ねたことを捨て去ることになるのに」
「その方が軽くてなって気持ちがいいのです」
「しかし、もったいない。振り出しに戻るわけですから、今までのことが全て無駄になりますよ」
「そうですねえ。無駄でした。しかし、それで見えてくる世界があるのです。それが見えたのです」
「何を」
「さあ、何だったのでしょうか。そのときは覚えていたのですが、忘れてしまいました」
「なんと曖昧な」
「ふと気付いたのでしょうねえ」
「ほう」
「何に気付いたのかは分かりませんが」
「分からないはずはないでしょ」
「上手く説明できません。気付いたというより感じたのです。それは一瞬でしたが」
「要するに気が変わったのですね」
「まあ、一般にはそう言われていますが、これがまた気持ちがいい。すっきりしました」
「ほう。何かよく分かりませんが、たまにいますねえ。その道でのエリートの人が、ある日突然転職して、ぜんぜん違うことをやり始めるとか」
「それとはまた違うのです。やっていることは同じです」
「じゃ、他へ行くわけじゃないと」
「はい、この道を進みますが、もっと自由にやりたいのです」
「よく分かりませんが、まあ、落伍したということですね」
「はい」
「期待していたのですが、残念です」
「はい」
 人の気持ちは変わる。しかし、それを説明するのは難しい。
 
   了


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2019年04月13日

3956話 人生散歩論


 今日は雨。時田は散歩を日課にしている。日課が散歩のようなもの。ずっと散歩中かもしれない。しかし、雨の日は外に出にくい。そんなときでも出るには出る。日課のためだ。
 雨で散歩に水を差すのだが、傘を差せばそれなりに凌げる。だが、それでも濡れる。外に出ていないときならいくら降ってもかまわない。だが、出るときは降っていない方がいい。その確率が結構ある。一日中降っているわけではなく、雨も息をつく。俄雨ならすぐにやむので、これは分かりやすい。
 その日は降っているのだが、小雨。これは同じ雨でも助かる。それだけ濡れにくい。それで外に出る時間になったので、出てみる。部屋にいてもやることがない。ここは外に出る時間で、その順番を崩したくない。それに本来なら外にいる時間に部屋にいると落ち着かない。
 幸い雨は小雨で、やみ始めているようだ。自分が外に出ているときだけ雨は降っていない方がいい。これは偶然で決まるので、何ともならないが。
 散歩はいつもの道を歩き、店屋が並んでいる通りを流しながら、公園のあるところまで進み、そこから違う道で戻ってくる。最近はその途中にパン屋があり、そこで菓子パンを買うのが日課。手作りのパン屋で、昼をかなり回った時間帯なので、アンフライパンが切れている可能性もある。それがないときはふわふわのドーナツを買う。昔は硬い目のドーナツが好きだったのだが、今は柔らかい方がいい。パン屋のドーナツは柔らかい。そして砂糖が細かいタイプ。たまにきな粉パンを買う。時田はそれをおはぎパンと呼んでいる。当然、そんなことは口にしない。
 日課だが、同じように見ていても変化がある。アンフライパンが売り切れておれば、同じにならない。ただ、パン屋へ寄るのは同じ。その中での変化は当然ある。
 中年を少し越えた夫婦がやっており、この時間、レジを交代するのか、親父がいるときがある。奥さんとは違い人慣れして愛想がよくない。作るのが役目で売る役目ではないような顔付きで、無愛想。しかし実際はそれに徹しているのだろう。そちらの方が楽なためかもしれない。
 この店の名物は菓子パンではなく、食パン。何の変哲もない食パンだが、そういうパンほど違いが出る。そのまま囓っても美味しい。だから結構離れたところにある高そうな喫茶店が、それを使っているようだ。トーストではなく、サンドイッチで差が出るらしい。こういうのは客の会話から得た情報。
 時田の散歩とは頭の中の散歩。足だけの散歩ではなく、頭の中でも練り歩いている。ストーリーのある世界だ。それは歴史散歩などのような大層なものではなく、町内の話。だが、この近くに正体が分からない石を祭った祠がある。それが歴史上重大な話と関わるわけではないが、寺社にも歴史がある。しかし祠の中の石になると、話が細かくなる。ただの石だ。しかし、長細く三角に近い。置いたとき、しっかりと左右対称の三角になり、収まりがいい。
 これは昔、占い師が言い当てた石らしい。古墳の堀の底に三角様が沈んでおられると予言した。占い師が底に沈めたのだろう。仕込んだのだ。
 村人もそれは分かっているのだが、そういった縁起が欲しかった。その三角様は今も祠の中にある。村の神社までは遠い。だから、何か祠を置きたかったようだ。
 しかし、それは言い伝えで、その話そのものが嘘かもしれないが。
 時田の散歩は、そういった頭の中の散歩が含まれる。
 そして菓子パンを買い、戻るのだが、その部屋そのものも散歩の途中とも言える。
 今のところ偶然が続き、同じ部屋に戻って来るのだが、生まれたときから、そこにいるわけではない。偶然、今は、そこをねぐらにしているだけ。
 人生散歩論。これは時田が書きかけの原稿だ。論文だが余計な道草をするため、論は散漫で、とりとめない。きっちりとした論文より、軽い散文の方が本当は似合っているのだろう。
 寄り道、道草、余計なこと。等々が多すぎる。それらは個人的すぎ、時田だけが思っているような感覚が多すぎる。
 散策には目的がある。散歩にはそれがない。
 
   了

 
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2019年04月12日

3955話 花見


「花見に行きましたか」
「またですか」
「そうですか」
「花見の話はいいので、他のことでお願いします」
「昨日晴れていたので桜が青空で映えましたねえ。補色の関係ですよ。それも逆光の眩しい桜。これはなかなか見られるものじゃないですよ。毎年咲きますがね。いいタイミングで桜を見るのは滅多にない」
「毎日花見に行ってるでしょ」
「昨日の花見と今日の花見とでは違う。当然でしょ。咲き方が違う。今は満開。まだこれから咲こうとしているのもありますが、散り始めているのもあります。満開といっても全部の桜が満開じゃない。一本の桜でも散りかけもあれば、これから今まさに咲こうとしているのもある。決して同じじゃない」
「そういう桜のしつこい話はそれぐらいにして、どうです。釣りはどうなりました」
「釣り堀じゃ駄目だねえ。風情がない。やはり渓流釣り。そこに山桜などが咲いていると最高なんですがね。それは植えたものじゃない。まあ、誰かが苗を植えた可能性もありますがね。花見の名所でもない場所に、わざわざ植える人がいるとは思えませんが」
「また、桜ですか」
「で、あなた、まだ行ってないのですか」
「気が向けば行こうと思っていますが、あの賑わいがいやでしてねえ」
「じゃ、山桜ですなあ。これは遠くから見ているだけでもいい。そこだけ桜色。実際には白っぽいのですがね」
「花見はいいのですが、なかなかその気になれなくてね」
「はいはい、花見にはそういう精神が必要なのです」
「精神?」
「花と接する精神ですよ」
「そうですねえ。気が乗らなければ、行く気なんて起こらないし」
「それとね。花から見られているわけです」
「え」
「桜にとっては人見なのです」
「花見じゃなく、人見」
「そうですよ。多くの桜から見られているのですよ」
「視線が合いますか」
「合いません」
「そうでしょ。眼光の鋭い桜に見詰められたら怖いですよ」
「しかしです。よく見られている。つまり、人から多く見られている桜は、見られ癖が付くのです」
「見られ癖」
「それで、桜も見られていることが分かりますしね。見られ慣れしてくるわけです。よくいえば人に懐いた桜。そういう桜が、逆に人を見る桜です」
「人慣れした桜ですか」
「それは植物一般に言えることですよ。もっと言えば石や岩でも。竹でもね」
「板の節穴が目のようですね」
「それもあるかもしれません。広げれば物にもあります」
「妙な話ですねえ」
「だから、ただの花見ですが、花から見られているので、それなりの服装をして行きます。見下されないようにね」
「じゃ、花に見られに行くわけですか」
「最近はそれです。私が見るのではなく、花が見ている」
「そこまで行きますか」
「はい」
「行き過ぎでしょ」
「まあね」
 
   了



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2019年04月11日

3954話 夢の入学式


「これは昨夜見た夢なので、そのつもりで聞いて下さないな」
「はい」
「入学式に行ってまいりました」
「お孫さんの」
「いや、私です」
「高齢の方が入学したとか、卒業したとかのニュース、たまに見ますね」
「さあ、私は何歳なのかは分かりませんが、おそらく今の年でしょうなあ」
「あなたの入学式ですか」
「そうです」
「何処の」
「それがよく分からないのです。何処かで見たような、見なかったようなと、それは曖昧なのですが、校門に日の丸が出ています。しかし、静か。おそらく入学式だけしかその日はしていないのでしょう。桜も咲いています。これがまた古そうな幹でしてね。姥桜でしょうか」
「はい」
「講堂があります。今でいえば体育館のようなもの。まあ、屋内で全校生徒が集まれる場所はここでしょ。窮屈ですがね。ところが、その講堂、新入生が少ないのか、数人しかいません。壇上に先生らしき人がいますが、一人です。椅子に座っていますが、ピアノの近くでしてね。そこに机がありまして、そこで何か書きものでもしているようです」
「ピアノは」
「ピアノは、ピアノだけで、その横です。ピアノは正面から見ると斜め横を向いています。その並びに机があり、先生らしき人が座っています」
「はい」
「私は先に来ている三人の後ろに座りました。床は板です。これで時代が分かりますねえ」
「はい」
「椅子はありません。だから先の三人は適当に座っています。正座ではないことは確かです。まあ、運動場で座っているのと同じ姿勢でしょうが、一人は足を投げ出しています」
「それは入学式ですか」
「はい、講堂の扉に入学式の飾りがありました。それに日時も合っています」
「はい」
 壇上にいる先生が、何か紙切れを持って下りてきました。小さな階段があるのですが、飛び降りたようです。それで膝が少し痛いのか、足を引き摺りながら、名前を呼びながら紙を配っています。先の三人、そして私も、その紙をもらいました。無言です。読むとクラス名が書かれていました」
「はい」
「私達は教室へ向かいましたが、何せ初めての校舎。ほとんどが教室でしょうが、一年生の教室を探さないといけません。それで、講堂を出て渡り廊下を通り、校舎に入りました。取っ付きの教室は職員室でした。その先にクラス名が書かれたものがぶら下がっているので、そちらへ向かいました。一年と書かれていたので、ここですね。取っ付きにあるので探しやすい。
「はい」
「それで私は三組でした。先の三人のうち一人は一組のようで、そこで消えました。私は一つ置いて三組なので、そこに入りました。あとの二人は四組とか五組でしょう。そのまま進んで行きました」
「はい」
「教室に入ると、誰もいません」
「一クラス一人ですか」
「そうかもしれません。それで、適当なところに座り、じっとしていました。でも誰も来ません。担任の先生が来ると思い、待っていたのですが」
「それでどうされました」
「授業は明日からです。だから今日は帰ってもいいのかもしれません。それに講堂でクラス分けの紙をもらいましたが、それが入学式だったのかもしれません。それで終わりです」
「はあ」
「それで、教室を出ますと、先の三人も出てきたようです。誰も来ないのですからね」
「はい」
「それだけです」
「え」
「これが夢の全てです」
「はあ」
「一言も発していません」
「そうですねえ」
「セルフサービスの学校なのかもしれません」
「夢は本当にそこまでなのですか」
「もう少しあるのですがね。内容に変わりはありません」
「聞かせて下さい」
「教室から出て渡り廊下ではなく、直接運動場を横切って校門へ向かいました。もう講堂には用がありませんからね。そして開け放たれた校門もそのままで、日の丸もそのままです。それを見ながら、外に出ました」
「何処に」
「え」
「校門の外は何処です」
「さあ」
「分からないと」
「そうですなあ。見たこともない場所です」
「その学校。小学校じゃないでしょ。そんなに幼くはない。だから中学校」
「そうだと思います。校舎は木造でした」
「それであなたは中学生」
「いえ、今の年だと思います」
「先の三人は」
「同じ世代の年寄りでした」
「だから、普通の入学式にはならなかったのでしょう」
「はあ」
「そこへ入ってはいけないし、そんな用件もない。しかし来てしまったので、仕方なく、入学式としての最低限のことだけで終わったのです」
「最低限とは」
「クラス分けです」
「ああ。そうだったのですか」
「しかし、それらは全て夢の話でしょ」
「そうです」
「夢は荒唐無稽、しかし、何か意味するところを突き刺しているかもしれませんねえ」
「ああ、はい」
 
   了



posted by 川崎ゆきお at 11:02| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする