2019年12月31日

3617話 年の瀬に乗る


 年の瀬、佐々木は別にやることがない。忙しくしている人もいるが、佐々木にはそれがない。ただ座して年明けを待つわけにもいかない。ずっと座ってられないだろう。
 世間のリズム、流れ、調子のようなものがあり、人々の流れに合わせてしまいそうになるが、急ぎ足になる程度。これは寒いので、早足になるのだろう。早く暖かい場所へ入りたいと。
 それと急いでいる方が足腰をきつい目に動かすので、体温も上がるためかもしれない。しかし、鼻水は何ともならない。
 世間に合わせた歩調。しかし、急ぐことはない。それにふさわしい用事があればいいのだが、それがない。忙しい人にとっては羨ましいかもしれないが、何もすることがない人にとっては用のない人間のように思われるので、用なし者は外に出ない方がいいのだ。
 しかし佐々木にも日課がある。散歩とかだ。さらに買い物にも出掛ける。そうでないと外食ばかりになり、そういうものを食べ続けていると、身体によくない。フライものやしつこいものが多いし、それに野菜や果物が少ない。
 それで、スーパーに行ったとき、焼き鯛を見た。竹の舟に乗った正月用の鯛だ。焼き魚だが、まだ正月まで数日ある。それまで持つのだろうかと心配になり、手を出さなかった。大晦日に買ってもいいのだ。
 一人でこの大鯛を食べる。いいではないか。元旦のメインになりそうだ。おせちも売っているが、高いので手が出せないので、安い単品を集めて、盛ればいい。重箱にさえ入れれば、豪華に見えるだろう。ただ、蒲鉾には手を出さない。数倍の値段がしている正月用蒲鉾など買う気がしない。
 しかし棒鱈は買う。これは高くても買う。普段でも棒鱈は高い。
 そういうのを買っていると、テンションが上がりだした。年の瀬の流れに乗ったのだろうか。自分が食べるおかずを買うだけの話なのだが、年末年始の流れに加わったような気がした。
 正月飾りは佐々木は買わない。しかし、餅はどうしても買いたい。飾り持ちではなく、食べるための餅。当然これは元旦に食べる。雑煮だ。そして鯛とおせちの重箱があれば完璧だ。
 鯛も腐らないだろうと思い、それもレジ籠に入れる。焼いてあるのだから日にちが経っても干物になる程度だと思い、決断した。どうしても鯛も一緒に持ち帰りたい。今年最大の獲物のように。
 そしてレジが駅の改札のようにずらりと並んでいるところへ行き、並んでいないレジを探したが、どのレジにも行列ができている。あとはレジ籠の中が少ない人の割合を見る。人よりもレジ籠の量で速さが決まる。そしてレジの人の敏捷さ。だからベテランの人がいるレジが好ましい。そういうことを総合的に判断しているとき、誰も並んでいないレジがあった。休止中だろうと思い、それは無視する気だったが、近付いて覗き込むと、そういう標示物はない。休止中とか書かれたものが見えない。
 きっと今開けたばかりのレジかもしれない。そして、まだ誰も気付いていないのだ。レジ係は真っ赤な口紅を塗ったおかっぱ髪の少女。
 佐々木はレジ行列を横断し、そのレジへと進む。競争者はいない。佐々木だけ。
 レジ台に籠を置くと、いらっしゃいませ、カードお持ちですか、ときた。いつも通りだ。佐々木は手をセンスのように扇いで、ないことを示す。
 そして勘定を済ませ、レジ袋をもらい、レジから出た。少女の赤い唇が一瞬ほころんだ。
 出たことは出たのだが出た場所がおかしい。同じスーパー内で、同じ空間のはず。形式が変わっているわけではない。その証拠に籠からレジ袋に入れるための台もあるし、他の人もそこで詰め込んでいる。
 複数のレジから押し出されてきた客がその台で、それぞれ詰め込んでいる。
 何も変わったところはないのだが、本当にレジから出てきた人だろうかと、妙なことを思った。
 詰め終えた佐々木はレジ袋をぶら下げながら、通路に出た。
 ここがまた何か違う。
 そしてスーパーの自動ドアを抜け、外に出とき、また何かが違う。
 そこから家に向かったのだが、いつもの道なのに、なぜか様子が違う。風景が違うわけではない。冬の緩やかな陽射しで、長い影を作っている。夕方が近いのだろう。
 さらに進むと、その変化はもっと妙になる。取り壊され、更地になったはずなのに、小汚いアパートが残っている。
 そのとき佐々木は気付いた。年越しではなく、年戻りに遭ったのではないかと。
 もしそうなら、用もなく年の瀬を呑気に過ごす人間ではなく、異界に紛れ込んだ冒険者になるではないか。
 年の瀬の流れではなく、別の瀬に乗ったようだ。漂流ではないか。
 佐々木はずんずんとその先、その先へと足を踏み込んでいった。
 
   了




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2019年12月30日

3616話 調子の悪い話


「どうですか、調子は」
「まだ本調子じゃないよ。気怠い」
「まだ風邪が残っているのですね」
「長引くねえ、しかし、調子は悪いが悪くはない」
「じゃ、いいのですか」
「悪いが、この調子も捨てたものじゃない。悪いがいいところもある。テンションが上がらないのでね。気持ちがゆったりする」
「薬を飲まれたからでは」
「飲んでいない。眠くなるしね」
「はい」
「こじらせるといけませんから、安静に」
「安らかに静かにかね」
「よく言うじゃありませんか、安静にしておくようにって」
「まあ、動き回らなければいいんだろ。要するに寝てりゃ」
「そうですねえ」
「しかし、気怠いので、ずっと安静状態だよ」
「ところで」
「そうだ、用件だった。何かあったか」
「安静を崩すようなので」
「いいから言いなさい」
「こちらで何とかします」
「じゃ、わざわざ来ることはない」
「かなり深刻なのです」
「だから来たのだろ」
「はい」
「話してみなさい。寝込んでいるわけじゃないので」
「広田が出てきました」
「あのバケモノめ、生きていたのか、よし、今度こそ退治してやる」
「手強いです。昔の広田じゃありません」
「あれだけ私が昔やっつけたのに」
「かなり昔ですから」
「バックは」
「大物が付いています」
「まずいな」
「広田はこちらの内実に通じています。まずいです」
「じゃ、私が出るしかないだろ。そのつもりで、来たんだろ」
「はい、お察しの通り」
「体調は悪いので無茶はせん」
「よろしくお願いします」
 しかし、散々な目に遭って戻ってきた。
「無事で戻れただけでもよしとしよう」
「はい」
「しかし、広田は手強くなりましたねえ」
「復讐しにやってきたんだ」
「復讐の鬼と化したんでしょうねえ」
「こりゃ、勝てんわな」
「それより、体調は」
「ああ、治ってた」
「それはよかったですねえ」
「ま、まあな」
 
   了




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2019年12月29日

3615話 足場


 人は二本足だが、腕を加えれば四つ足になるが、この場合は四つん這い、歩くというより這うことになる。幼児のハイハイ、四文字だ。
 二本足で立っているが、一本では長く立っていられない。地に足を付けるとは、片足ではなく、両足。
 これは肉体的な話だが、足場とか、立場とかもある。立ち位置とかも。実際にそこに立つ場合もあるが、序列があり、席がある。座る場所が身分や上下関係で決まっている場合もあり、そのときは足場ではなく座り場になる。これは具体的な尻の置き場所だろう。
 しかし、多足の虫がいる。ムカデなどがそうだ。二本よりも多く、四本よりも多い。足を着ける場、足場は多いが、本体から離れたところではない。本体とくっついているため同じ場所。
 ところが人は複数の場に足場を持っている。属しているところが複数ある。
 色々な場に足を運び、色々な場所に足場を持っている。所属とか、帰属とか、その足場での位置は違うが、足を伸ばし、手を伸ばし、舌も伸ばしている。当然触角も。そういうものは人には出ていないが、触手というやつがあり、手のようなものを伸ばしたり、引っ込めたり、また角度を変えたり、探したりする。
 しかし、メインとする足場があり、これは職種とかに多いが、プロフィールとして、ざっくりと書かれているものだ。それが肩書きになっているのもある。何もなければ、誰某の子とか、誰某の兄とか、弟とか、妹とか、伯父とか叔母とか、そういった係累も立派な足場だ。実際にはこれはずっと続く足場でもある。要するに家族や親戚のこと。
 ただ、そういう足場から出て、別のところで、色々と足場を拵える。世間に出て仕事をすれば、それなりの足場ができる。
 建物を建てるための足場組みだけではなく、仕事をするための足場作りもある。
 こういうのを見ていると、身体が出てくる。足がそうだし、肩書きの肩がそうだ。
 肩を貸すと言っても、本当に肩を貸すわけではない。まあ、負傷した人に肩を貸すことはあるだろうが。
 肩入れをする。肩を組む。いずれも肩を使って何かをするわけではない。本当に肩を組み合ってもいいのだが、そういう肉体的なことではないところで使われる。
 簡単には上がれないところでは、足場が必要だ。足をかける場所。岩場などを登るときは、そうだろう。足だけではなく、手を引っかけたり、掴めるようなところも大事だが、この例では足場は次々に変わる。
 逆に進めない原因として足枷というのもある。それが邪魔をして足が出ない。
 住むところが変わると、足場も変わるだろう。もの凄く具体的に。
 仕事や何らかの活動のための足場に拠点というのもある。場所がいいのだろう。動きやすいような。また、人も集めやすいような、または関係する人が見付けやすいようなとか、色々と理由がある。
 しかし、それらは軍事用語だったりしそうだ。実際にドンパチやるわけではないが、別の戦争や戦いをやっているのだろう。
 悪い奴ほどよく走る、と言った人がいたが、これも足だ。
 悪い奴ほどよく眠る。こちらの方が有名だろう。そやつの足場はどうなっているのだろう。
 
   了
 



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2019年12月27日

3614話 妖怪変化


 木枯らしが吹いたのかどうか、今年は分からない。妖怪博士は奥の六畳にあるコタツに入り、ガラス戸の向こうに見える庭の柿の木を見ながら考えていた。柿の葉は落ち、実は鳥が片付けたのだがヘタだけが残っていたりする。
 寒いのでカーテンを閉めればいいのだが、外の一角が見えている方がいい。空は見えないが。
 木枯らしが吹いたとしても、気付かなかったのかもしれない。だから、今年は確認できないまま終わるようだ。しかし木枯らし二号や三号があるはずなので、別に木枯らし一号だけに注目する必要もない。
 そんなことを思っているとき、妖怪博士の担当編集者がやってきた。年末で忙しいはずなのだが、きっとサボりに来たのだろう。
 しかし、今日は真面目な顔で妖怪変化について聞いてきた。仕事顔だ。この押し迫ったとき、仕事でも持ってきたのではないかと、妖怪博士は恐れた。
「へんげです」
「それが何か」
「妖怪変化って、何故言うのでしょうねえ」
「それだけのことですかな」
「そうです」
「まずは妖怪。これは実際には見えない」
「はい」
「それが何らかの形に変化して、やっと見えるようになる」
「じゃ、妖怪だけじゃ、まったく見えないわけですか」
「見えないし、感じられない。いることも」
「はい」
「それが何らかの変化をして、形、あるいは音でもよろしい。また風でもよろしい。木枯らしのようにな。この変化あってこそ妖怪が出たと言っておる。既に出っぱなしでも、それは分からん」
「なるほど」
「だから妖怪は変化しないと見えん」
「変化とへんげは似てますねえ。同じ漢字だし」
「へんげとは形が変わること。かなり変わる。大きく変わる。もう別のものになったようにな」
「はい」
「神仏もへんげする」
「え」
「この場合は人に変化するのが多い」
「それは聞きますねえ」
「だから妖怪変化のように、神変化、仏変化と言ってもいいが、急激な変化はあまりよろしくない。いずれ変わるだろうが、ゆっくりがいい。一瞬にして変わるのは異常だ。そのため変わり身はよくないじゃろ。神仏の場合は別で権化とか化身と言っておる」
「尊いものが何かに姿を変え、登場するわけですね」
「そうじゃな」
「だから、妖怪の変化は汚い。神仏の変化は人々を救うための権化、化身。それに比べ、驚かしたり、悪さをするための変化は、今一つ稚拙」
「妖怪は何かに化けるわけですね。話を戻しますと」
「そうじゃ」
「その化けるというのをへんげという。あまり良い変化ではないがな。悪い意味での変化と言ってもいい。そして人ではなく、とんでもないものに変化して出てくる。ここが神仏の変化と違う所じゃ」
「はい、分かりました」
「しかし、やっていることは同じようなことなので神仏と妖怪とはよく比べられる。どちらが先かは分からぬが神仏と妖怪は関係しておる。これだけは言える。ただ神仏は上等だが、妖怪は下等扱い。ある説では神仏になり損なったのが妖怪だとされておる」
「人に進化しなかった猿のようなものですか」
「猿は猿で立派なものじゃ。人より立派だったりするぞ」
「そうですねえ、犬畜生にも劣る奴もいますからねえ」
「人もへんげするということじゃ」
「はい」
「それがモデルかもしれんなあ」
「これで、答えられます」
「何を」
「小学生からの質問で、何故妖怪変化って続けて言うのですかと聞かれたので」
「私はケペル博士か」
「当然妖怪博士なら、即答できると思いまして」
「そういうのは形而上学の問題でな。何とでも話を繰れるのじゃ。正解など、誰も知らん。本質は想像でしか分からんのでな」
「はい」
「しかし、寒い。君は木枯らしを吹いたのを覚えておるか」
「さあ、強い風なら始終吹いている日がありますよ」
「今なら強い風が吹いても普通か」
「そうです」
「うむ、分かった」
 天気も変化する。ましてやその空の下にいるものが変化しないはずがない。
 変化がきついと化けるとなり、オバケ、バケモノとなる。
 
   了




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2019年12月26日

3613話 口うるさい男


 岩崎惣右衛門という五月蠅い男がいる。ハエ並というわけではないが、親族の中に、一人、こういうのがいるものだ。色々と口うるさい。年長者でもあるので、その立場からでも言えるのだが、若いときならそんな口の利き方はしなかったはず。だから惣右衛門、今が旬だ。
 一族の中では年長者だが、もっと上の人もいる。また同年配も何人かいるが、口うるさい役はやっていない。聞かれればそれなりのことを言うだろうが、先に文句を言い出したり、口を出すのはこの惣右衛門だけ。
 これは冠婚葬祭だけではなく、日頃から一族のことについて、色々と口出しをしている。
 身分もそれほど高くはなく、本家との血縁も薄い。それなのに偉そうにしている。そのため、何をするにも惣右衛門に聞いたり、顔色を窺ったりする。五月蠅いからだ。
 惣右衛門を黙らせるためには、その顔を立ててやればいい。しかし大した顔ではない。
 だが、本家当主以上の力を持っている。これはただの力で、単に力んでいるだけ、勢いがあるのだが、鼻息が荒いだけ。
 五月蠅くて仕方がないのだが、この惣右衛門さえ黙らせれば静かなものだ。惣右衛門が了解すれば他の者で口を挟んだり、反対意見を言う者はいない。そのため五月蠅い男だが、ここさえ押さえておけば意外と簡単。
 しかし、それでますます惣右衛門は図に乗り、本家をしのぐほどになった。本家よりも惣右衛門のことを先に気するためだ。
 本家の当主は若く、大人しい人。その父親、つまり先代は若くして隠居した。風流に逃げたのだ。
 本家を仕切っているのは家老だが、これは老いぼれており、あまりさえない人なので、御用人と呼ばれる人に任せている。家老も用人も本家との血縁関係はない。代々使える家来だ。この本家だけに仕えている。そこが頼りないので、惣右衛門のやりたい放題になっている。
 惣右衛門の家柄は分家の中でも低い方で、羽振りもよくない。しかし口だけは達者。
 この惣右衛門のやりたい放題を止める者はいない。一族のほとんどの者は止めたいが、言い出せない。
 若い当主は病弱で、医者が始終来ている。これは漢方医だ。
 若い当主は、それとなくこの医者に愚痴った。
「気の病でしょ」
「私がか」
「いえ、そのお方です」
「惣右衛門が」
「はい。血が走りすぎるようです」
「何とかならんか。私には押さえる気力がない」
「何とかしましょう」
 惣右衛門は最近では我が家のように本家に来て、家人と世間話をしたり、色々とお節介を焼いている。実際には迷惑な話なのだが、ある日、若き当主は薬草を惣右衛門に渡した。
 気力の付く薬で、毎晩煎じて飲めば、気が充満し、いい感じになると。当然漢方医が処方したものだ。
 惣右衛門はその後、静かになり、あまり家から出なくなり、その後、惣右衛門は口うるさく言わなくなった。薬で押さえ込んだのではなく、普通に戻ったのだろう。
 よく考えると、一族の中でも低い身分なのに、よくそこまで出しゃばっていたものだ。
 実際には薬が効いたからではなく、若き当主の本心が分かったためだ。当主に睨まれては、流石の惣右衛門でも控えるようになったものと思われる。
 煎じ薬の束をもらったのだが、実際には飲んでいない。意味が分かったので。
 また漢方医が与えた薬草は、ただの馬が食べる草だった。
 
   了
 



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2019年12月25日

3612話 常春の夢


 下田は色々とやってきたが、落ち着き先が何となく分かってきた。そういうものは最初は分からない。これは落ち着きを求めてやっているわけではないためだろう。むしろ刺激を求めてやっていた。
 最先端の尖ったもの。これは最新のもので、時代の先端。旬だが、まだ正体は分からない。これが定着するのかどうかさえ。
 新しいものとはそんなものだろう。色々と新しいものが出てくるが、その中で生き残るのはほんの僅か。これは下田にとっての話だ。
 尖った先っぽ。これは不安定だろう。居心地がいいわけはないが、刺激がある。
 そのため、ありふれたものでは刺激がない。また、より上があるのなら、それは途上で、途中。上へと行くだろう。そういう流れになっているのだが、その頂上が意外とまずかったりする。これは登ってみないと分からない。
 下田は下の田と書くが、上田を目指していた。上の方にあるので、上等。
 どうも下田という名が気に入らない。姓名判断を信じるわけではないが、そういうイメージがある。下田より上田の方が偉いように思える。だが名字と本人との因果関係はない。もの凄く珍しい名前なら、少しは影響がある。初めて聞いた人なら印象に残るだろう。
 さて、これまで色々とやってきた結果、先の尖った最先端に疲れてきた。それにそれらは次々と古くなっていく。だから最初から骨董品を扱っているようなもの。
 新しいはずなのに古い。そのときは新しいが、すぐに古くなる。だから先取りすれば最初から古いことをやっている方がよかったりする。どうせ新しいことが古くなるのなら、それは新しいことではないのかもしれない。
 このあたりに下田は気付きだした。新しいものは古くなるが、古くなってからでもまだ存在し続けるものがある。これは定着した新しいものだろう。既に古いのだが、安定している。
 そういうものはないものかと下田は探した。今までやってきたことの中にあるはず。
 そして発見した。既に鋭利なとんがりは丸くなっており、滑らか。触っても痛くない。今では平凡でありふれているが。
 下田はそれをやっていたことがあるのだが、もっと良いものがあったので、すぐに乗り換えた。
 しかし、最近思い出したのは、結構よかったためだろう。乗り換え先のものは先端を走っていたが転んだようで、その先はもうない。
 乗り換えた理由は、それほど素晴らしいものではなかったことや、上にもっと良いのがあることを知っていたためだろう。レベルが違う。だからレベルアップも兼ねて、乗り換えた。しかし、先はなかった。
 やはり下田は上田ではなく、下田なのだ。
 そして下田は下田に降りてきた。まるで住み慣れた故郷の春のように暖かい。要するに暑い寒いがない。
 ここが落ち着き先だったのかと、長い旅を終えた。
 目の前が黄色い。菜の花だ。
 目が覚めたとき、これはもの凄く良い情報ではないかと、夢のお告げを感じた。
 そして、そういう故郷の春の風景のようなものとは何かと探し出したのだが、ピタリと填まるものなど見つからない。
 しかし、下田は今まで無視していたのだが、その中にそっと隠されているのではないかと思い、その後も探し続けた。
 
   了





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2019年12月24日

3611話 恩師は飛ぶ


 わが師である山田先生は年末だが走っていない。年寄りなので走ることは希だろう。それに走ることなどないのではないかと思われる。信号がもうすぐ変わるとき、今なら走れば間に合う。だが急ぎ足では間に合わない。普通に歩いていてならさらに遅い。もう手前で赤になっているだろう。
 滝村は山田先生のことが気になったので、忙しい年末の中、時間を作って、行ってみた。
 家の前に来ると、走っている山田先生を思い浮かべようとしたが、絵が出てこない。走っている山田先生など見たことがないためだ。
 恩師、それはもう今は縁が切れた先生に当てはまりやすい。現役の師では、それが恩となるか仇となるかの判断は、まだ。
 この先生さえいなければ、気がくじけて先へ進めなくならなかったのにとか、後々まで悪いくさびを突き刺したまま縁が切れた先生もいる。
 恩師とは、あとでいい先生だったと思えるタイプだろう。そういう先生は最初からいい感じだ。
 恩師山田先生の宅を訪ねるのは久しぶりだが、先生の手から離れても、その後もお世話になっている。この先生から習ったのは古典だ。国語は嫌いだったが古典は好きになった。この先生のためだろうか。
 山田先生は一人暮らしだが、達者なようで、通された応接間は今では書斎のようになっており、あまり客が来ないのが、これで丸わかりだ。以前はそんなことはなかった。
「玄米パンは食べていますかな」
「いえ、最近は忘れていました」
「くこ茶は」
「それも忘れていました」
「どちらも霊感にはいいのですよ。続けましょうね」
「はい」
「ところで、霊界は見えましたか」
「まだです」
「まあ、長くかかりますがね。霊界が見えるようになるには」
「素質がないようです」
「それもありますなあ」
「先生は、相変わらず見えているのですね」
「そうですねえ。最近はあえて見ようとはしませんがね」
「そうなんですか」
「さて、今日は、何でした」
「年の末なので、挨拶に」
「ああ、それはそれは。私は元気ですから、ご心配なく」
「これはお歳暮代わりにと思いまして、四次元世界の神秘を持ってきました」
「ああ、そうですか」
「古本屋で見付けたので」
「それは私も未読だ。いいものを有り難う」
「じゃ、これで」
「もう帰りますか」
「年末で、慌ただしくて」
「そうですか」
 滝村にとって、この先生は古典の先生ではなく、霊の先生だった。霊に関して、色々と話してくれた。それが楽しくて、楽しくて仕方がなかった。
 この先生、師走でも走らないが、空は飛べるようで、北極の真ん中まで行き、穴が空いているのを見たとか。
 とんでもない師だ。
 
   了
 



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2019年12月23日

3610話 幻の太郎峰


 次郎峰があるのなら太郎峰があるはずだとハイカーは考えた。それらしい山が近くにあるのだが、地図で確認すると、別の名。
 次郎峰は馬の背のような頂を持ち、樹木が生い茂っているので、見晴らしが悪い。その隙間から立花は探しているのだが、地図にないのだから、ないのだろう。
 そこへ同じような年代のハイカーが来たので、聞いてみた。
「太郎峰ですか」
「そうです。ここが次郎峰でしょ。だから兄の峰としてより高いか大きな峰があるはずです。それが太郎峰だと思うのですよ」
「聞いたことありませんよ。この隣に長く延びている山は塩佐尾山でしょ」
「塩佐尾山の別名が太郎峰じゃないのですか」
「でも兄にしては小さい」
「ああ、なるほど」
「じゃ、お先に」
「はい」
 立花もそのあとを追うように歩きだそうとすると、後ろから声をかけられた。
「太郎峰をお探しで」
 真っ白な顔の老人だ。顔中髭が生えており、それが白いので、顔まで白く見える。
「ご存じですか」
「そこに見えておるのが太郎峰だよ」
「やはり、塩佐尾山のことだったのですね」
「そうじゃよ。もう誰も太郎峰なんて呼ばないがね」
「どうしてなんでしょう」
「持ち主が変わったんだよ」
「ああ、なるほど。じゃ、随分昔の話ですよね。僕が持っている地図は相当古いのですが、太郎峰とはなっていません」
「そんな売っている地図にはないと思いますよ」
「じゃ、印刷ものが出る前ですか」
「そうじゃな」
「里に太郎と次郎という兄弟がいたとか」
「いや、大きな峰と小さな峰が並んで見えるので、太郎次郎と名付けただけでしょ」
「じゃ、新しい持ち主はなぜ太郎峰のままにしておかなかったのですか」
「ああ、それが塩佐尾山に変わったのが妙だと言いたいんだろ」
「そうです」
「江戸時代の話だ」
「太郎峰を手放したのも、今の塩佐尾山を手放したのも根は同じ」
「え、塩佐尾山も持ち主がまた変わったのですか」
「そうだよ」
「根は同じとは、原因は同じだと言うことですね。理由は」
「佐尾太夫」
「太夫」
「遊郭の女じゃよ」
「ああ、つぎ込んだのですか」
「田んぼも山もね」
「では遊女の名前なんですね。あの山は」
「まあ、そういうことさ」
「有り難うございました」
 真っ白な老人は、意外と健脚らしく、さっさとその場を去った。
 この老人の話が嘘であるのは、その後分かった。
 次郎峰の由来は、ただの語呂で、太郎次郎の兄弟関係ではなかったようだ。太郎と付けたかったところだが、それほど大きな峰ではないので、次郎峰としたらしい。
 
   了



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2019年12月22日

3609話 最後の紅葉狩り


「曇っていては何ともなりませんねえ」
「曇天です。夕方のように暗い」
「しかし、風がないので助かります」
「あれば寒いですからねえ」
「今でも寒々しいので、元気が湧きません」
「誰かに分けてもらいますか」
「元気など貰えるものじゃありませんよ」
「そうなんですか」
「むしろ与える方が元気になったり」
「はあ」
「しかし、元気のないときもいいものです。こういった冬の曇天、鬱陶しくて、滅入りそうになる。しかし、これは冷静になりますよ。色々とね。落ち着きを得られます」
「どうします。予報では晴れと出ていたのですがね。紅葉、今日が見納めですよ。来週じゃ、もう落ちてます。落ち葉狩りもいいですが、やはり青い空をバックにした映えた紅い葉が見たいものです」
「そうですねえ。この天気じゃ無理か」
「どうします」
「まあ、折角待ち合わせたのですから。でも、映画を見に行くわけにもいかないでしょ」
「映画はごめんです」
「どうしてです」
「意のままにならない」
「まあ、そうですが」
「自分ならこうするとか、そういうことができない」
「まあ、シナリオがありますからねえ」
「話がもう最初から決まっている。助けたい人がいても助けられない。危ない場所があっても引き返せない」
「はい」
「それが気に入りません」
「私は目が回ります。目眩がします」
「ほう」
「久しぶりに大きなスクリーンのある劇場で前の方で見たのですが、目が眩んで映画どころじゃない」
「そうなんですか」
「それで、映画館では映画を見られなくなりました。それに周囲が暗いし、煙草も吸えない」
「はい」
「さて、どうしますかねえ、雨天の紅葉。これはまあ今年最後なので、行きますか。モミジの天麩羅でも買って帰りましょう」
「そうしましょう。折角待ち合わせたのですから、行くべきでしょ」
「はいはい、そうしましょう」
 
   了





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2019年12月21日

3608話 貴霊寺高僧龍を見る


 貴霊寺の住職が発狂した。麓に本寺があり、貴霊寺はその奥の院のさらに奥に入った渓谷にある寺。高僧が住職になっているが、もう俗界とは縁を切っている。麓の本寺は何かと俗界と繋がっている。そうでないと寺を運営できない。
 しかし、この寺、寺領があり、一寸した豪族並みの規模がある。叡山の山法師のような僧兵もいる。ただ、彼らは仏門とは関係のない雇兵が多い。
 そういったこととかけ離れたところにあるのが貴霊寺。尊い霊のことで、これは死んだ人の霊ではなく、心程度。まあ、清らかな心という程度か、あるいは貴重な心持ちだろうか。
 貴霊寺の住職は当然高僧で、もう年なので隠居寺のようなもの。ここで本来の修行をするわけだが、この宗派は悟るのが目的ではない。それが目的なら寺領にこだわり、さらに広げようとまでしない。
 しかし貴霊寺での目的は貴霊と接すること。この場合、精霊、聖獣のようなものかもしれない。
 発狂した高僧は貴霊と交わったのだろうか。または見たのだろうか。様子がおかしくなった。しかし、大人しい狂い方で、呆けてしまったように見える。だから狂って暴れ回るわけではない。人柄もそれほど違わないが、反応がおかしい。年が年なのでボケたのかもしれない。ただ、ボケるような人ではない。
 貴霊寺にはこの高僧しかいないが、稚児が身の回りの世話をしている。三人ほどいるだろうか。
 その一人に本寺の住職が様子を尋ねた。高僧はこの住職の祖父にあたる人。その父は新しく建つ末寺に行っている。
「悟られたのではございませんか」
「他に何か言ってなかったかい。何かを見たはずだが」
「さあ、それは申されておられません」
「そうか」
「今はどうしておられる」
「惚けておられます。じっと座ったまま」
「御身体は」
「元気そうです」
「食べておられるか」
「はい」
「では狂ってはおられぬ」
「時々、妙なことをおっしゃるので」
「たとえば」
「龍が空を泳いでいるとか」
「おお、おお」
「でしょ」
「そうだなあ。それはおかしいのう」
「狂ったとしか思われません」
「分かった。あまり人に言うでないぞ」
「はい」
 そのとき、伝令が来て、異変を伝えた。貴霊寺のことではない。この近くにある神社が動き出したようだ。
 この寺と隣接する神社があり、そこと争っていた。
「分かった、馬引けい。迎え撃つぞ」
「和尚様、ご隠居様はどういたしましょう」
「それどころではない。放っておけ」
「はい」
 
   了





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2019年12月20日

3607話 利休鼠


 夜中ゴソゴソ音がする。台所らしいので、大村は見に行った。まだ眠ってはいない。パソコンの前でネットを見ながら、ぼんやりと過ごしているときだ。
 寝るにしては、まだ眠くない。起きていてもやる気が何も起こらないので、寛いでいるしかない。
 しかし、妙な音にはしっかりと反応し、しっかりと対応する気は満々。今まで見ていた「世界の奇習」とかの動画よりも、よりリアルな現実のためだろうか。見ているだけではなく、それと接することができる。本物の出来事なのだから。
 大凡の正体は分かっていた。ゴキブリがゴミ袋の中に入り込み、ガサコソいわしている音だ。音はプラスチック容器から出ているのだろう。ゴキブリそのものの音ではない。
 だが、もう冬。生き残っているゴキブリは数日前に見たが、弱っており、近付いても逃げる元気がなかった。
 世界の秘境ではないが、台所に何かがいる。これを探し出すという台本がすぐにでき、大村はやれることができたので、すぐに台所へ行き、電気を付けた。ぱっと明るくなった瞬間、動くものがある。すぐに動いたのではなく、目が合ったのだ。ゴキブリではない。鼠。
 これは珍しい。滅多に見ない。それで意外だったので、驚いたのだが、それだけではない。光線の具合からか、色が変なのだ。
 子供の頃、色々な色が付いたカラーひよこが売られていたが、それを思い出した。
 鼠なので、鼠色なのだが、緑色かかっている。それが気持ちが悪い。鼠を見ただけなら半歩下がる程度だが一歩下がった。
 鼠は当然さっと逃げた。流し台の下に戸がある。物置になっているのだが、いつも少しだけ開けていた。その奥はガラクタを詰め込んでいる。もらい物の瀬戸物とか、セットもののコーヒーカップとかだ。酢の大きな瓶もある。長く掃除などしていないので、奥がどうなっているのかは分からない。壁に穴でも空いているのだろうか。
 しかし、目的は果たしたので、深追いはしなかった。鼠退治などする気はない。もう寝る前だ。
 後日、そのことを友人に話すと、それは縁起の良いものを見たねと教えてくれた。利休鼠というらしい。
 抹茶色の鼠だから、利休の名を付けたのかもしれない。
 何故縁起が良いのかと聞くと、鼠の国から来たためだと、お伽噺丸出しのことをいう。
 つまり、鼠の穴は鼠の国、根の国に繋がっており、そこは鼠の浄土。
 古い家だが、壁に穴が空いているとは思えない。入り込んだとすれば天井からだろう。床下からの可能性もある。
 そういえば猫が天井裏に入り込み、出られなくなってニャーニャーと助けを求めていたことを思い出した。野良猫だ。
 緑がかった灰色の鼠。縁起を担ぐわけではないが、悪いものではないのだろう。
 大村は百均でねずみ取りを買いに行こうと思っていたが、やめた。
 
   了



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2019年12月19日

3606話 出掛けた翌日


 遠方へ用事で出掛けた翌日、羽田はのんびりしている。疲れもあるが、日常に戻ったためだろうか。そして、気怠さというのがいい。既に用件は済んだので、山を越えた。その充実感もあるし、懸案をやり終えたので、それまでのプレッシャーも消えた。
 そして一日のんびりと過ごしている。これがいい。外出先での用件よりも、その翌日が目的なのだ。
 終わった後の安堵感があるためだろう。
 この翌日の一日が良いので、羽田は出掛けているようなもの。
 遠出だと疲れるのか、すぐに眠れるし、熟睡し、朝まで起きてこない。そして目が覚めたとき、今日はもう出掛けなくてもいいので、ほっとする。平穏な日々に戻ったと。
 それで、むりとに用事を拵えて、出掛けることも多い。あえて疲れるようなことをしに行くのだ。これは大事な用件ではないし、いつかは果たさないといけないような懸案でもない。行っても行かなくてもいいようなことで、また行くだけが目的の場合もある。そのため何処へ行くのかは定まっていない。とりあえず家を出て遠くへ行くこと。遠ければそれでいい。
 羽田は古美術の研究をしているのだが、普段は自宅に籠もっている。たまに展示会や、一般公開などがあり、それで出掛ける程度。
 また、鑑定も頼まれるが、プロではないので、大まかなことしか分からない。そして価値があるかないかは羽田の美意識で決まる。だから好みだ。美術的に優れていれば、偽物でもなんでもかまわない。だから値段だけを弾き出す鑑定はできない。
 羽田にとって大事なのはアート性。それを見て、あっと思うかどうかだ。
 その形や色彩、質感。手触りなどが決め手になる。
 古美術を専門にしているが、本来は画家なのだ。
 それで遠くまで出掛けるのだが本当の目的は、その翌日。これは古美術とはまったく関係しない私用でもいい。何でもいい。出掛けさえすれば翌日のいい感じを味わえる。実際には疲れているのだが、この疲労感がいい。
 身体も精神も鈍化したようになり、この鈍さがいい。
 羽田は体感を大事にする。能書きよりも、まずは体感で、そこからあらゆるものが引き出される。そのほとんどはパターン化しているのだが、その組み合わせに妙味がある。
 だから古美術の評論家としての才があったのだろう。独自の見え方をするので、話も膨らむ。
 だが、最近はそちらよりも、出掛けたあとの翌日の体感を最も好むようだ。
 休みたいから身体を動かす。それだけのことかもしれない。
 
   了
 



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2019年12月18日

3605話 伝統や正統


 正統の系譜というのがある。正統派と呼ばれたりするが、以前は異端扱いされていたのだが正統派に勝ったのだろうか。そして異端派が正統派になるのだが、それもまた、いつの間にか薄まってきて、別のものに取って代わられたりする。
 伝統というのもそうだが、正統も伝統も繋がっている。しかし、伝統あるものが必ずしも正統派ではない。その道のメインではないが、長く続いておれば、それが伝統となる。
 要するに、それらのものは長くあったり、いたり、また使われたりしているもので、より多くの人から馴染まれているものだろうか。当然それは一面だが、古くなりすぎた伝統は、当然使いにくくなる。または扱いにくくなる。それで、新種が現れる。これは改造型だろう。または他のものを取り入れたミックス型だったりする。それが上手く機能し、扱いやすく、不便がないとなると、長く続き、やがて正統派となる。何が正しいのかは分からないが、まずまずの線をいっているためだろう。他に候補がないとか、変わるものが一寸見当たりにくいとかで、まあ、妥当なところとして、正統派となる。だが、その中身は、それ以前からあった古い伝統なども引き継いでいるはず。それが少し今風に変化した程度だが、根はかなり前からあったもので、定番中の定番だったりする。
 ただ、正統や伝統が途切れたままのもある。後継者がいないようなものもあるし、またもうあまり使わなくなったとか、用がない世の中になったとかで、途切れてしまう。需要がないためだ。
 しかし少数の一部の人がそれにまだ関わっており、細々と昔の伝統を守っていたりする。守るために守るわけではないが、存続しているだけでも意味があり、なくなれば、他に影響を与えるような要石のようなタイプもある。必要なことがあるためだろう。
 伝統という限り、長く続いていないと駄目だし、また、機能を果たしていないと駄目。保存のためだけにあるようなものは、かなり弱いが、そのものになくても、別のところで活かされていたりする。
 結構新しいものでも、意外とそこに流れているのは古臭い伝統から来ていたりする。姿を変えて化けているので分からないのだ。
 そういうのが入っている場合、正統派の系譜を残しているということになるのだろうか。つまり、筋目だ。
 まあ、人が作ったものには、あるパターンがあり、型がある。その型はそれほど多くはないので、結局は同じような型を使うことになるのだろう。型は番が違うだけで、元は同じ型番だったりする。
 型は固定しているようだが、実際にはある傾向程度。このある傾向は大まかで、他の傾向と分けるため程度のものなので、しっかりとした決まり事ではなさそうだ。
 型があるとはある傾向がある程度で、その傾向だけでは窮屈になると、型破りが起こる。型を壊したり、破ったりするのだが、被害に遭った型も、それなりに残り、復活を企んでいるかもしれない。
 今あるものは以前にもあったことで、形を変えているので、分かりにくい。人がやるようなことなので、限りがある。まあ、人でなしのやることもあるので、それを入れると、型番も多くなるが使う人は希だろう。
 伝統ある正統派の系譜。これは安定感がありそうだ。何故なら、多くの人が昔からそれを選んでいたためだろう。それが形式的になりすぎたり、時流に合わなくなり、骨董品になっている場合もあるが、昔から続いているものは、それだけで価値がある。価値がなければ消えてなくなるだろう。やはりいいので残る。良いことでも悪いことでも。
 骨董趣味というのもある。これは今風なものの中にその系譜を読み取るとき、必要なのかもしれない。新しいものの中に骨董品を見出す。つまり、系譜を見ているのだ。
 ものや事柄には原型があり、それがしっかりとした形となり、長く用いられたりすると、伝統になり、また他の類似するものよりも優れていれば、正統派となる。いずれも人が作り、人が選びだしたものだが、時流が変わればものも変わってしまうが、決して消えてなくなるわけではない。
 当然昔の正統派が今では異端だったりすることも起こる。ある傾向が時流により、評価が変わるためだろう。
 目新しいもの、今の正統派、よく見ると、昔の古臭いものを結構取り込んでいたりする。伝統が途切れたものも、別のところでどっかりと座っていたりしそうだ。
 そのため、古い新しいはないのかもしれない。
 
   了
 



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2019年12月17日

3604話 人面猿


 中島は古い屋敷に一人で住んでいる。借家だが、借り手がなかなか見付からなかった。今までにも借り手など一人もいなかったのではないだろうか。持ち主は都心部のマンションに越したが、取り壊すのも嫌なので、貸家にした。その祖祖父時代、妾を囲っていた家らしい。
 その後、家族の誰かが住んでいたようだが、近所づきあいはなく、人の出入りも少なかったようだ。
 IT系の仕事をしている中島が、その物件を見付け、そこを仕事場兼住居とした。隣接する家との距離が遠いのは、どの家も敷地が広いためだろう。
 中島が越してからしばらくしたある夜。枕元に何かいる。夢でも見ているのかと思いながら、目を擦り、それを見ると、動物。犬か猫かもしれないが、野良犬などいないので、野良猫だろうか。何処からでも入り込めるので、それに違いない。
 次の夜も、またそれが出た。今度は手を伸ばし、触ろうとすると、すっと身をかわした。そのとき、猫ではないと分かった。猿だ。
 猿はそのまま姿を消した。
 それから数日後の夜。その猿が出た。中島はじっくりと猿を見詰めると、猿は身体をくねらせながら後ろに下がり、こちらを見た。
 人の顔をしていた。しかも女だ。
 
 ざくざくと小気味いい音が快く足の裏に伝わるのか、妖怪博士はわざと落ち葉の上を選んで踏んでいる。その先にあるのは椿屋敷。近所でそう呼ばれている屋敷は昔は万とあったに違いない。椿を生け垣にした家が目の前に迫ってきた。全て赤い。これは目立つだろう。しかし、ここの椿は陰気で暗く、どす黒い赤は、血痕に似ている。
 立派な木造の屋根付きの門があり、インターフォンがあるので、押した。
 出てきたのは、この屋敷を借りている中島。
 話はすぐに始まった。
「猿が枕元に来て正座しているだけでも大変ですなあ」
「そうなんです」
「それが女性の顔をしているとなると、もっと凄い」
「はい、これはもう妖怪変化ではないかと思いました」
「どんな顔ですかな」
「美人です」
「年は」
「妙齢です」
「その猿。メスですか」
「そうです。しかし動きは猿らしくありません。なよっとして、滑らかです」
「顔だけが人で、身体は猿ですかな」
「そうです」
「バケモノですなあ」
「だから、妖怪だと思いまして、博士に連絡しました」
「はいはい」
「どうなんでしょう」
「何が」
「ですから、その正体です」
「お嫌いですか」
「いえ、それほどでもありません」
「その女人猿に見覚えはありませんか」
「見たような気もしますが、特定の女性には該当者はいません」
「猿は人の顔に似ていますし、人も猿の顔に似ています」
「口が出ていませんし、鼻も、すっとしていますし、目も切れ長で、眉はきりっとした円弧を描いています。唇も人そのもので、薄いです」
「あなたはどう思われますかな」
「この屋敷に棲み着いている物怪だと思います」
「それが猿の姿で出たと」
「そうです」
「ここは誰が住んでいたのですかな」
「建ったときは、お妾さんだったとか」
「その人はどうなりました」
「さあ、そこまでは分かりません」
「そのオーナーに聞けば分かるでしょ」
「それとは関係がないと思います」
「そうなんですか」
「僕にまとわりついている何かだと」
「ほう」
「その顔を見たとき、何か懐かしいものを感じました」
「お嫌いですか」
「悪くないです」
「じゃ、どうしましょう」
「どうしたら良いと思いますか、博士」
「おまじないでもしましょうか」
「それで、出てこなくなりますか」
「さあ、一応、そういう護符があります」
「はい」
「貼りますか」
「ちょっと待って下さい」
「じゃ、よしましょう」
「はい」
「それじゃ、私はもう用なしですなあ」
「一つ聞きたかったことがあるのです」
「何ですか」
「このタイプの妖怪、いますか」
「人の数だけいるでしょ」
「人猿じゃありません」
「大人しいようですしね」
「そうです」
「じゃ、私はお暇しますよ」
「はい、今日はどうも有り難うございました。これはお車代です」
「はい、頂戴します」
 玄関から門までは飛び石が続き、左右には手入れされていない庭木が密林状態になっている。
 見るからに何が出てもおかしくないような屋敷だ。
 中島は門のところで、軽く頭を下げ、妖怪博士を見送った。
 赤い椿の生け垣脇の道は上から落ちてきた葉で相変わらずいい音が鳴った。
 中島の内に潜むアニマがアニマルになって出てきたのかもしれない。
 
   了
 



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2019年12月16日

3603話 大太刀の重蔵


 余市村と千寿村の間に山が立ちはだかっている。その山をのけてしまえば、二つの村が一つになる。どちらも小さな村なので、大きな村になるわけではない。このあたりの家は一箇所に集まっている。そのためまとまりがいい。
 その壁のような山を越えるのは大変で、斜面がきついためか、道が付いていない。
 そのため、その山ではなく、二つの村にまたがるもっと大きな山の中腹から行くことになる。そこはしっかりとした山道。
 遠回りになるが、坂が緩いので、そちらの方が楽。
 壁のように立ちはだかっている境界の山は、大きな山から付き出している。だから、その首根っこを超えるわけだ。そこに峠の小屋がある。それほどの高さはないが、互いの村へ出るときは下りになる。そして見晴らしがいい。立ちはだかっている山の根本で越えることになる。
 その峠の小屋は休憩所のようなもの。村と村とを行き来するだけではなく、まだ奥の山岳地へと続いているので、その登り口になるため、山仕事の人などが立ち寄る。屋根があるし、寝泊まりもできる。だから山小屋のようなものだが、村からそれほど離れておらず、少し登ったところだ。それに村の屋根が見ているほど近いので、山小屋というほどではない。
 この峠の小屋に番人がいる。小峰重蔵という浪人者だ。小峰は偽名だろう。
 そこへ身なりのいい藩士がやってきた。
 これはよくあることで、重蔵は慣れている。仕官の話ではない。人殺しだ。
 藩士にも使い手はいるが、こういう仕事は余所者にやらせる。手を汚したくない。
 話を聞くと乱心した藩士らしいが、本当は正気だろう。この乱心者を斬れということだが、切腹しないためだ。それに乱心者では切腹は無理なので、上意討ち。
 この乱心者も藩士なので、同僚、仲間だ。手をかけたくない。
 乱心者は余市村にいる。そこに逃げ込んだらしい。
 ここを西へ下れば余市村はすぐだ。
 結局は刺客の仕事。何度か頼まれたことがあるので、そういうときは峠の小屋にいる重蔵の役目になるのだろう。
 重蔵は長い目の太刀を重そうに持ち、村と村とを隔てている山の根っこの峠を下った。太刀同士だと、長い方が有利なのだが、重いので肩に担いで坂を下った。
 結局は派閥争いの犠牲者だろう。乱心者に仕立て上げらたようだ。二人の家老が争っている。殿様は関わっていない。養子のためだろう。
 その男は空き家に立て籠もっていた。重蔵は何度かそういう場を踏んだので、よくある話だ。
 廃屋に近い屋敷の雨戸を開け、重蔵は乗り込んだ。刺客が来ることを知っていたのか、乱心者は槍を手にした。
 重蔵はまずいと思った。いくら長刀でも槍相手では不利。しかし家屋内。振り回せないはず。だが、そんなことは槍使いなら心得ている。
 重蔵は説得した。このまま斬り合えば、二人共大怪我をすると。
 重蔵は蓄電を進めた。逃げろと。
 乱心者は家族がいるし、それに武士として、それはできない。養子の主君とはいえ、それに使える身なのだ。数少ない殿様派だった。
 幸い家族にまでは手は回っていない。謀反を起こしたわけではない。ただ、狂っただけ。それが見苦しいと言うことで、お手討ちのようなもの。責任を取って自害せよという程度。本人だけの問題のためだろう。いずれも敵対勢力が強引に殿様に出させた主命なのだ。
 いずれにしてもこの男さえ始末すれば、一見落着になる。
 重蔵は逃げることを進めた。そうなると、脱藩。これはこれでまずいのだが、藩も消えていなくなれば喜ぶはず。だから心配するなと説得する。
 重蔵は家族の住む城下の屋敷を聞き、逃げる手はずを付けてやった。
 男はこの藩を立て直すため立ち上がったらしいが、頼りにしていた派閥が動いてくれなかったようだ。
 そんないい加減な藩など見捨てよと重蔵は我が身のことを思いながら説き伏せた。世間は広い。ここだけが世の中ではないと。
 乱心者は折れた。最初から乱心などしていないのだから、話せば分かるのだ。
 そして村を出て、すぐ目の前にある二つの村を隔てている山に向かった。村人さえ、急斜面過ぎて、上までいくことは滅多にない。その上の方に重蔵のもう一つ隠れ家を持っていた。
 その険しい道なき斜面を上がっているとき、その男は槍を杖代わりにしている。
 槍の達人かと聞くと、この槍はあの屋敷にあったもので、自分のものではないし、槍の稽古はしたことがないとか。
 そういう重蔵も、長い目の太刀を持っているが、大した腕ではないと白状した。
 二つの村を分けているその山の頂からは、城下の盆地が見える。三層の木造の天守。狭苦しい城下だ。
 しばらくして、例の藩士が峠の小屋を訪れた。重蔵は取り逃がしたとだけ伝えた。
 前金として半分もらっていたのだが、それは返す必要ないだろうと、大太刀に触れながらすごんでみせた。
 
   了
 




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2019年12月15日

3602話 個人の祭り


 祭りのあとの寂しさというのがあるが、あとの祭りというのもある。次の祭りではなく、行ってみると、既に祭りが終わっていた。これは淋しいかもしれないが、祭りのあとの寂しさとは少し違う。一方は祭りを楽しんだが、片方は体験していない。
 だからあとの祭りの方は、残念だろう。
 祭りを満喫し、そして終えたあとの虚脱感のようなものと、もう終わってしまったのかという寂しさもあるが、満足後の余韻もある。
 どちらも次の祭りを期待するのだが、あとの祭りの方は次の祭りまでの期間が長い。一回欠席したようなものなので。
 そういう年に一度の村祭りのようなものでなくても、色々なイベントがあるし、祭り騒ぎがある。イチゴ祭りや紅葉祭りは、そういう神事ではないが、年に一度だろう。別にイチゴの神様や紅葉の神様がいて、お参りするわけではないが。そこへ行くことを参るともいう。参拝は拝むが、鑑賞で行く。参観料が取られそうだが。
 そういった定期的な団体による祭りだけではなく、個人の祭りもある。当然その前に家族の祭りとかも。親が子供のためにやる祭りだろう。雛祭りとか。
 そして、今では個人規模の祭りが結構ある。これは一人で勝手に作った祭りのようなもの。
 祭りは特別な日。一般的な祭りに興味がなく、またさほど楽しいと思えない人は、この個人的な祭りに走るのかもしれない。
 自分だけが知っている神様。自分だけが持っている神様がいるのかもしれない。これは仏でもいいのだが、仏の種類には限りがある。しかし神となると、いくらでもいる。誰も知らない自分だけの神など、人の数ほどいるだろう。
 個人にも聖なる領域がある。公的な聖なる場所などがもう飽きられたり、ありふれていて聖ならざる場所になっていたりするためだろうか。まあ、そういうのに便乗するのも悪くはない。初詣とかがそうだ。人が集まればそれで祭りなのだ。
 さて、祭りのあとの寂しさか、あとの祭りの残念さ、どちらがいいだろうか。当然祭りのあとの寂しさの方がいいだろう。あとの祭りの人は次の祭りへと向かう。祭りを終えた人は、しばらくはじっとしているだろう。ある程度満たされたので。
 あとの祭りの人は、取り戻そうと、祭りを探したりする。まだ、祭りをやっていないので、すぐにでも。
 満たされた人と、未だ満たされていない人との違い。
 祭りは聖なる行事というより、賑やかさだろう。だから祭り騒ぎという。要するに騒ぎたいだけなのかもしれない。またはハレの場をできるだけ多く作りたいとか。
 村人が大騒ぎし、楽しいそうにしているのを神様は歓迎するはず。神様はそれを見て楽しむのだ。
 しかし、そうそう祭り騒ぎばかりが続くと飽きてくるもの。たまにだからいい。
 祭ろわぬ人もいる。祭りは集まることでもあるとすれば、参加しない人。祭りに加わらない人。または加えてもらえない人もいるだろう。
 個人の祭りは何を祭っているのかは分からない。ここでも祭りのあとの寂しさや、あとの祭りの残念さがあるのだろう。だが、誰とも共有しなかったりする。
 しかし、一人だけで祭りをするというのは最初から矛盾しているように思われる。
 
   了



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2019年12月14日

3601話 最初の勢い


 出だしはいいのだが、途中で息切れし、早い目に終わってしまうことがある。当然見事なまでの尻切れ蜻蛉。トンボはどこからが尻なのか分かりにくい。胴体がずーんと端まで行っている。尻というのは端と言うことだろう。どん尻とか。端っこの切れたトンボを作田は見たことはないが、想像はできる。飛びにくいだろう。それに、生きていないかもしれない。
 それで作田は出だしを工夫した。スローなスタートだとどうだろうかと。昔の長距離特急列車の走り出しのように。最初は動いていることが分からないほどスロー。先が長いのだから、急ぐ必要はない。途中でいくらでも取り戻せる。短距離ならその暇もない。あっという間なので、スタート勝負。
 やり始めの勢いが強いほど長持ちしないのではないかと思い、作田はゆっくりとやることにした。しかし最初は気負っているし、興奮しているので、ゲートが開く前の馬のような状態になる。速く走りたくて仕方がない。散歩待ちの犬がやっと連れて行ってもらえたとき、もの凄い力で前へ前へ出ようとする。老犬は別だが。
 この最初の興奮、これを抑えること、我慢することを作田は考えた。やり始めの一番美味しいところかもしれない。そこをガツガツしないで、静かに静かに進めていく。これは何か大人になったような気になる。作田は十分大人なのだが、こういうときは子供のようになる。
 それよりも長期戦になるようなことは、急がない方がいい。最初の頃にエネルギーを使い切ってしまい、ダレたり、バテたりし、徐々にやる気が失せてくるためだ。ここでまだ元気なら続けられるはず。だから最初から飛ばさない。
 そう決心したのだが、気持ちも身体も勝手に動いてしまう。だから我慢なのだ。ここを押さえれば、長持ちする、と自分に言い聞かせた。
 これは良いことに限られるようで、嫌なことなら、できるだけ手を付けたくないので、後回しになる。それどころか放置しているので、スタートさえ切っていない。
 この場合も、ゆっくりと、少しずつやれば何とかなりそうだ。良いことでも悪いことでも最初はゆっくりとやる。急がない。それがコツではないかと作田は感じたのだが、これは意識していないとできない。意識は思い出さないと出てこないので、いつまでこのことを覚えているのかは不明。だがら、しばらくすると素に戻っていたりする。
 心がけ次第でなんとでもコンロールできるのだが、それをそのとき思い出して、そのようにできるかどうかは分からない。
 これは身体で覚え、頭でも、その癖が付いてしまわないと、なかなかそのコツも活かせないようだ。
 だが、急がないといけないときに、ゆっくりでは困る。下手に癖が付いてしまい、なんでもかんでもゆっくりでは不自然だろう。
 それと、その日、そのときの気分というのがある。これが一番行為に関与する。
 では、その気分は何処からやって来るのか。
 そこまで考えたとき、作田は面倒くさくなってきた。それならいつものようにやっている方が楽。途中で息が切れて尻切れ蜻蛉になっても、それはそれでよし。縁がなかったのだ。
 それと小細工や、心がけとかは、できるようでできない。これは性癖を変えないと何ともならないように思える。それを変えると、今度は自分が自分ではないようなところに持って行かれる。自分の感情ではなく、操られた感情。
 それで作田は、この件に関し、何もしないということに決めた。これは決めなくてもそうなるのだが。
 
   了




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2019年12月13日

3600話 小春日和を待つ男


 塩見は待ちに待った小春日和が来た。世の人は色々なものを待っているのだが、小春日和を待つなどは一寸したものだ。他にもっと待つべきものがあるだろう。ただ、何も待つものなどない人もいるが。
 待つというのは能動的。こちらからは仕掛けない。また、待つ以外には何ともならないこともある。小春日和などがその例だろう。努力しても励んでも願っても何ともならない。
 逆に何もしていなくても小春日和は得られる。無料だ。
 塩見は小春日和を心待ちにしていたのは、冬なので、当然寒いため。それが凌ぎやすくなることが最大の理由だが、ものすごいものが得られるわけではない。
 出不精な塩見にとり、季節が寒くなるに従い出る回数が減る。今ではほとんど外へ遊びに行こうという気がない。そんなとき、望まれるのが小春日和。だから待ちわびていたのだ。この日が来れば出やすいと。
 それで出て、何か大事な用事をするのかというとそうではなく、ただ単に町をうろつくだけ。散策のようなもので、これはしてもしなくてもどちらでもかまわない。これをしないと生活が成り立たないわけでもない。
 だから、趣味の問題だろう。これはこれで役立つ。趣味があることで楽しみが増える。趣味は潤滑油であり、これはあるほうがいいだろう。それなりに役立っている。それに街中をウロウロするのなら、交通費か食事代かお茶代程度で済む。だから、金のかかる趣味ではない。
 町をぶらつく。それは誰にでもできる。技術はいらない。歩けさえすればいい。または何らかの乗り物に乗ることができればいい。
 ところが折角の小春日和なのに、秋の夜長の続きの冬の夜なべをやっており、遅く起きてきてしまった。そのため、出遅れた。
 流石に起き抜けで散策に出るわけにはいかない。
 朝が遅い程度だが、塩見の朝は昼を過ぎているのだ。そこから朝の支度。出る頃になると日はそれほど残っていない。
 それと、寝不足ではないが、体調がよくない。病気ではないが、元気がない。
 それで折角の小春日和を逸してしまった。
 冬の初めの小春日和、気温的にはちょうど。これがもっと冬が深まれば、いくら晴れて気温が高くても、それほど暖かいわけではない。
 こういう日は二日ほど続くかもしれない。天気予報を見ると、明日いっぱいは晴れているようで、夜半から雨になるとか。これなら行ける。
 それで早寝し、早起きした。ところが、陽射しがない。天気予報が外れたようだ。
 それで今回は逸したが、次回の小春日和を待つことにする。
 そういう日は誰にでも訪れる。しかし折角の日を生かすも殺すも本人次第だろう。
 
   了




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2019年12月12日

3599話 御三家のいる村


 郊外の町ならいいが、そこからさらに奥に入りすぎたような町がある。ここまで来ると通勤圏内から外れるが土地は安い。週に一度街に出る程度なら何とかなりそうだ。当然毎朝出勤する普通の会社員には無理だが。
 芝垣は普通の会社員だが、自宅で仕事をしている。出勤するのは週に一度あるかないか。だからネットでやっている。最近そういう働き方が増えてきた。そのため、会社からかなり離れていても、何とかなる。
 それなりの広い土地と大きな家を芝垣は手に入れた。中古物件だが、まだ新しい。以前は農家だったようだが、それを建て替えてしばらくしてから引っ越してしまった。不動産屋から聞いた話なので、よく分からないが、確かに家は新しく、今風だ。古い農家だと修善などが大変そうだが、これなら何とかなる。
 引っ越し後、近所の人、これはほとんど地元の人だが先に来たので、挨拶が遅れた。
 近所の人は小さな人で、気さくそうな丸顔。そして「どの家に行きますか」と聞いてきた。
 この村には御三家があり、村人はその一つに入っている。御三家の上はない。本家があったのだが、途絶えた。御三家のひとつが本家を継げばいいのだが、揉めた。それで今でも御三家のままで、三つの家が並び立っている。昔なら本家に挨拶に行けばいいのだが、今は三軒もある。その中の一つを選ぶ必要があるらしい。
 御三家は隣り合っており、ここからここまではこのグループというような感じではなく、バラバラに散っている。
 小さな丸顔の人は、志村さんがいいと教えてくれた。これは勧誘なのだ。
 芝垣はそれに従えばいいものを、即答しなかった。その日なら、その丸顔が志村家まで連れて行ってくれたのに。
 しばらくして、背の高い老人が来て、同じようなことを言いだした。高岡さんのところへ行きましょうと。
 そしてそのあと北沢さんのところへ一緒に行きましょうと、来た。
 芝垣はこの御三家の実態を知りたいので、しばらく様子を見ることにしたのだ。しかし、そんなことはネットには載っていない。
 芝垣は選びようがないので、決めかねていたが、一応引っ越しの挨拶で、近所を回った。
 特に変化はない。
 先ず困ったのはゴミ出しだ。近くに収集所があるのだが、これが三家の土地にあるのだが、出しに行くと、ここではないと言われた。
 家から一番近いのはそこで、もう一つあるが、かなり離れている山の中だ。
 ゴミ収集は町営。芝垣は町民、市民なのだが、村民ではない。この場合、村人だろう。
 三家の何処かに挨拶に行くように、近所の小さな人が親切で言ってくれたのだが、すぐに従わなかったためだろうか。その後も二人も来ている。
 要するに、三家の何処かに挨拶に行けば、村人になれるということだ。そうでないと色々と不便が生じる。村を走っている道は町道だが、実際には村の人達の共同の道。私道に近い。
 そんなとき、また近所の小さな人が来て、どうですか、決まりましたか、と聞いてきた。
 芝垣は了解し、一緒に挨拶に行った。その志村屋敷を訪ねたのだが、当主は留守。野良に出ているらしい。
 それで、その畑へ行ったのだが、畦道にボロボロの自転車が止めてあり、ヨレヨレの老人が草むしりをしている。
 この年寄りが御三家の一人らしい。
 芝垣が挨拶すると、
「はいはい、よろしゅうな」
 これで、挨拶は終わった。
 これで、システムが通ったのか、ゴミが出せるようになった。
 今まで村人とすれ違っても無視されていたのだが、挨拶を受けるようになった。
 最初、誘いに来た親切な小さな人のいう通りにしていれば、別に何の問題もなかったのだ。
 
   了

 


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2019年12月11日

3598話 黙して語らず


 黙して語らぬことがある。それは都合の悪いことだろう。そういうことを色々と持っているのは杢下だけのことではないが。黙して語らないのだから、他人のことは分かりようはないが、それに関して知っていることもある。つまり、周知の事実。だが、本人が黙して語らずに徹しているので、そのことには触れない。禁句、タブーになっているが、それほど大袈裟なことでなくても、仲良くしたいのなら、相手の都合の悪いことをあえて言い立てないだろう。
 さて、杢下の場合もそういうのをいくつか持っているが、それらは後悔事のためか、思い出したくない。しかし忘れたわけではないので、ふっと思い出す。
 特に失敗したときなど、これは取り戻すため、色々とやるだろう。それで挽回したときは、その失敗はもう黙して語らずではなくなるかもしれないし、あえて苦労話として語るかもしれない。今がよければ後悔はないはず。
 だが、失敗したことが気になり、失敗をあえて話すことはないようにも思われる。失敗をよくする間抜けな人間に見られるためだけではなく、自分自身も許せないためだろう。失敗はあくまでも失敗で、挽回できても、やはり失敗は失敗。
 また、苦労したことを黙して語らずの場合もある。何故なら、苦労しないとできなかったのかと思われるためだ。これは苦労を売り物にしたくない人に多い。当然苦労をかっこ悪いと思う人もいる。
 杢下の場合、どうするのかというと、そっと夜中に埋めに行くようなもので、隠してしまう。さらに、そんなことなどなかったかのようにする。できれば忘れるようにする。
 そして、失敗を取り戻すため、次へと向かう。ここの切り替えが早い。失敗の気配が見えたとき、既に切り替えていたりする。それ以上粘らない。気配だけで、まだ失敗だと決まったわけではないし、たとえ失敗だったとしても、何とかなるのではないかと粘るようなことはしない。失敗にそれ以上付き合いたくないのだろう。
 そして、その失敗は黙して語らずのまま。
 だが成功談しかないのも嘘臭い。リアリティーがない。そのため、笑い話となるような失敗談は語る。深い失敗ではなく、後悔も軽かったものに限られるが。
 本当に語りたくない場合は、語る前から既に不快の沼になるだろう。
 なかったことにする、というのはゲームなどではできる。最後に保存したところに戻ればいい。しかし実人生は取り消せない。消し去ることもできない。殺せないのだ。だからその記憶も死なない。そういう場合は封印だろう。
 杢田は失敗を恐れているわけではない。むしろ失敗しそうなことをやっている。だから、失敗しても当然かもしれない。これは失敗してこそ分かることが多いためだろう。だが、意外と同じ失敗を何度も続けている。学習能力はあるのだが、失敗し続けたことでも、そうではない例がいくらでもあるためだ。同じ轍を踏み続けることも悪くない。何らかの偶然や運などで、成功することもあるためだ。確率は低いが、ないわけではない。
 杢田はそういう失敗を人知れず起こしている。だから黙して語らずの数が多い。
 黙さず語れることも多いが、それを語り出すと、自慢話になる。そして大したことなどやっていないので、自慢するほどのことではなかったりするので、やはり黙してしまう。当然自慢することがかっこ悪いと思う人もいる。
 杢下に限らず、人は内面でゴソゴソしている。そしてその内奥は本人にしか分からない。当然といえば当然だ。
 
   了

 

posted by 川崎ゆきお at 11:26| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする