2021年03月31日

4070話 妖怪博士の危機


 桜は満開。しかし雨。雨桜を楽しむ人は希。
 桜並木が続く道。そこをこうもり傘を差し、黒いコートに黒い幅広の帽子を被って歩いている人がいる。桜など見ないで。
 男が通る瞬間、桜の花びらがさっと落ちた。男の帽子につきかかったが、背中にきたが猫背に当たりそのまま地面まで落ちた。
 
 その時間、もう一人の男が祭壇で念を送っていた。 
 妖怪博士の足取りは重い。出掛けたくなかったためだろう。桜に興味はないし、それ以前に雨。こんな日でなくても妖怪博士は出不精。しかし、約束がある。
 妖怪博士担当編集者からの命。断ってもいいのだが、是非会って欲しい人がいるとか。編集者が会わせたい人ではなく、ある術者から頼まれたのだ。紹介して欲しいと。そして、できればこちらへ来てくれと。
 その術者の家へ向かって妖怪博士は桜並木の下を歩いている。
 術者の住む最寄り駅を降り、雨の滴を受けながら、老犬が散歩するような足取りで。
 古い屋敷町の奥に、術者の家がある。大きな屋敷だが、住む人がいなくなってから久しく、長く放置されていたのを、術者が買った。
 術者、それは祈祷師や陰陽師のようなものだが、妖しげな術を使う人。鬼道界では有名な人で、弟子も多い。また依頼者も多く、かなり稼いでいる。だから屋敷町の大きな屋敷も買えたのだろう。
 武家屋敷のような大きな門があり、それが開いている。妖怪博士は勝手に入って行く。
 母屋の玄関が正面に見え、左右は椿の生け垣。既に落ちて血のような赤い塊がポツンポツンとある。
 玄関先に立つと、ガラス戸が開き、若い人が出てきた。入るとこを見られていたのだろう。
「妖怪博士ですね。よくいらっしゃいました。師匠は奥です。この廊下を真っ直ぐ行って突き当たりを左です」
 というだけで、若い弟子の丸坊主は引っ込んだ。
 
 奥の座敷に祭壇があり、先ほどからずっと術者は念を送っている。
 
 廊下は古いだけあり黒光りしており、艶がある。よく磨かれているものと思われる。その黒光りを見ているとき、左足がスーと滑りかかった。
 
 術者の眉間はさらにいかめしいものとなる。妖怪博士がすぐそこまで来ているのだ。
「こちらですかな」妖怪博士は板戸の前で、そういいながら、サーと開ける。一度ガクッと引っかかったが、力を入れすぎたのか、勢いがよすぎて、ガタンと大きな音がした。それで、柱にぶつかったのだろう。天井からホコリが落ちてきたのか、それが術者の頭部を白くした。
 術者は背を向けたまま念じ続けている。
「押戸さんとは、あなたですかな」戸とは関係がない。それに妖怪博士がガランと開けたのは引き戸。押戸万然とは術者の名だ。
 術者は念を送り直すため、顔を作り直す。目をかっと鯛のように見開き、鼻を開き、口をねじ曲げ、そして、くるっと妖怪博士に顔を向けた。
「赤いですが、大丈夫ですかな」
 気張りすぎたのか、術者の顔は赤い。
 そして、見開いた大きな目で、妖怪博士の目を射した。妖怪博士はすぐに目を伏せた。これは妖怪博士の癖で、人と会っても相手の目を見ないのだ。
 術者の目は妖怪博士の瞼を射たが、伏し目に当てても効果がない。それに妖怪博士の瞼は分厚い。
 妖怪博士は、ちらっと押戸術士の目を見ながら「目が悪いのですかな。充血しておられるが」というなり、すぐに視線を外した。
 術者は両指を組み、何やら尖った状態にして、上下に動かした。
「手がどうかされましたかな。縺れておりますが」
 術者は指を解いた。
「ところで、何か妖怪が憑かれておるのですかな。それで私を呼ばれたのでしょ。あの編集者、詳しいことを言わんので、困る。私にも準備がある。それ以前に憑き物落としの術など知らんのですがな」
 術者は額に脂汗。力みすぎたようだ。
「まあ、無理をされず、寝ておるのがいいかと思いますよ」
 術者の瞼から落ちた汗が目に入ったのか、さっと拭ったが、痒いようだ。
「残念ながら、憑き物落としは私にはできませんので、お役に立てないので、今日はそういうことで」と、言うなり、妖怪博士はすっと立ち上がり、部屋から出ようとしたが、足が出ない。引きつったのだろう。そのため、ゆっくりと廊下に出た。
 術者は妖怪博士の後ろ姿に念を送り続ける。
 先ほどの黒光りのする廊下で、二度ほどスケートをしたが、そのまま玄関まで戻ると、若い弟子が出ていて、靴を出してきた。
「ああ、有り難う。では、お大事に」
 妖怪博士は、桜並木をまた歩いている。雨は降り続いている。
 桜の花びらが、また妖怪博士の帽子の上に落ちようとしたが、今度もまた無事、通過した。
 
   了

 



posted by 川崎ゆきお at 14:42| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月30日

4069話 抜く


 懸命に、丁寧にやったものよりも、適当に、いい加減にしたものの方がよかったりする。手を抜くというよりも、その手前で既にやり終えていたような。だから抜くもなにもなく、すっとそのままやってしまえたようなこと。
 当然、あとで考えると、簡単にやり過ぎたため、自信はない。そんな簡単なことでいいのだろうかと考える。それでは懸命にやったことにならないし、真面目に真摯に取り組んだわけではないので、少し罪悪感がある。
 上原はそういう感じで仕事を終えた。しばらくして、結果が出た。いい感じだと。
 それで上原はほっとした。だが、それは偶然だろう。いつもいつも簡単な方法で、さっとやれるわけがない。それに自信もない。
 次の仕事は反省し、真面目に丁寧に真摯に取り組んだ。時間も手間暇も掛けた。これだけやればいいものができるはず。そして結果はよかった。充実感に満たされた。やりがいを感じた。
 しかし、それは上原の評価であり、判断にすぎない。
 しばらくして結果が出た。あまり芳しくないらしい。
 上原は愕然とした。努力した結果がそれなのか。それに自信があった。これだけ懸命にやったのだから手抜きどころか手の入れすぎだ。最終結果は当然良いはずなのに、芳しくないとはどういうことだろう。
 次は、そのことがあったので、半ば投げやりで、いやいやながらやった。全て適当。深く考えないで、さっさとやった。それなりに気持ちがよかったのは、早くできたためだろう。それだけだ。
 そして結果が出た。
 かなりいいということだ。
 上原は何故そうなるのか不思議に思った。苦しいが楽を得るか、楽だが苦を得てしまうという図式が当てはまらない。何事もベストを尽くせば何とかなると思っていた。しかし、結果は逆。
 上原はそのことに関して、これはどういうことかと、尊敬する大先輩に聞きにいった。恩師でもある。
「そうねえ、上原君は頑張りすぎなんだ。だから臭いんだ」
「風呂に入っています」
「一寸気を抜いた方がいいんだ。手もね」
「はあ」
「抜く方が実は難しい。そして、少し薄い目の方が口当たりがいい」
「アメリカンですね」
「それは知らないが、君は濃いんだ」
「濃くて臭いのですか」
「そうだ、抜きなさい、その濃いのを。それで丁度なんだ」
「そういうことだったのですか」
「おそらくね」
 
   了
 


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2021年03月29日

4068話 桜山の神


 奥山の桜の花見は一人で行ってはいけないとされている。それ以前に、そんな奥の方の山に桜が咲いていることを知っている人は希。
 その名も桜山。地図では別の名になっているが手付かずの原生林。ただ、ポツンと山があるわけではなく、山間のゴツゴツしたところにある一帯で、斜面と斜面の襞が重なりあい、その狭い中でも複雑な地形をなしている。そこを桜山と呼んでいる。桜渓谷でもいいのだが、里から見れば、このあたり全部がお山。しかも奥山。
 原生林だが、桜は植えられたものらしい。姥桜そのものだが、老いすぎて枯れているのもある。それを埋めるかのように苗木が植えられている。里の人だろう。
 一人では入ってはいけないとされているが、二人ならいい。そして桜が咲いている期間だけ。
 ネット時代、誰かが桜山の写真を写し、それを上げたためか、見に来る人が増えた。里の人でも滅多にここまで花見には来ない。里の中でも花見ができるほど、いい場所があるためだ。それに奥山の桜山は遠い。
 桜山で山の神、山の精と交流する伝説が里に残っている。よくある話。ただ、山の神というだけで、どんな神なのかは分からない。見えないため。
 だから奥山の桜は供花のようなもの。当然山の神に対する。
 遠いので、桜の木を植えたらしい。交換の必要はないが、枯れることもあるし、また寿命もある。
 だから桜の霊とか、桜に纏わる何かではなく、桜山と言われている一帯に何かがいるのだ。実際には何かではなく、神と呼ばれているもので、漠然とはしているが山の神。他に言いようがない。具体的な何かがないので、特徴がないためだろう。
 それが忘れられたわけではないが、供花である桜を恐れられるようになった。そのため、一人で行ってはいけないとなる。
 人数ではなく、神がおわす場所なので、静かな方がいい。人は来ない方がいいためだろうか。
 この山の神は、里の村の神社に降りてくることもあるらしい。
 だから、山の神と接したいのなら、神社へ行けばいいことになる。ただ、それは出張所のようなもの。
 山の神は何処にいるかが分かっているので、かなり具体性がある。先ほどの桜山一帯。広くはない。
 供花代わりの桜だけではなく、その根元に祭壇のような岩がある。人の手が加わっており、台のように平たく削られている。
 しかし、それも苔むし、ツル科の植物が飲み込んでいる。使われていないのだ。
 ここが山の神と直接コンタクトする場所なのだが、本当にここなのかどうかは分からない。ただ、この桜山一帯の渓谷は、いかにもそれらしい雰囲気がある。
 それだけのことかもしれない。
 
   了



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2021年03月28日

4067話 妖怪門


 妖怪博士は依頼を受け、久しぶりに出掛けた。桜が咲く季節。季候がよくなるまで待っていたのだろうか。
 駅までの道で花見を済ませた。歩道とか、駅前の公園で咲いているため、遠くまで行く必要はない。ついでに出来るのだから。
 しかし、歩きながら見ているか、立ち止まって見ているだけでは花見らしくない。ここは弁当を食べたいところ。しっかりと座って。
 また、妖怪博士は花見など似合わないので、実行するにしても一人でこっそり座っている程度だろう。
 そんなことを思いながら、依頼について考えてみた。依頼は二の次で、桜ばかり見ていたのは、大した依頼ではなかったためだろう。
 しかし、そういう簡単な依頼ほど、奥に凄いものが隠されているのかもしれない。それは期待であって、実際にはそんなことは起こらないが。
 依頼とは妖怪を見たという単純なもの。妖怪博士は妖怪ハンターではない。お門違い、筋違いだが、要するにそう言う話ではなく、相談したいのだろう。大袈裟にならないように。
 妖怪博士なら、妖怪が出たと言っても普通の話として聞き流してくれる、と依頼者は考えたのかどうかは分からない。人は何を考え、何を根拠として動いているのか、分からないもの。
「妖怪がウジャウジャ沸くくのです」
 部屋に通された瞬間、もう用件に入っている。前置きなしに喋れる相手のためだろう。だが、妖怪博士も月参りの坊さんのようにいきなりお経をあげる前に、枕をやりたい。一寸した世間話を。
 だが依頼者はそれをさせないで、いきなり本題。
 妖怪ウジャウジャ沸き話。そのウジャウジャさがお経のように聞こえる。
 要するに聞き流しているのだ。意味など考えないで、音だけを聞いているようなもの。
 ひとしきり語り終えたのか、依頼者は、疲れたようで、息を弾ませている。
「どうでしょう」
「沢山沸くきましたなあ」
「はい、仰山出ました」
「座布団ほどの大きさの顔で、桃に似た妖怪なんですが、思い当たるところはありませんか」
「あるとすれば、桃です」
「そのままですなあ」
「はい」
「足が何本も出ている赤毛の市松人形ですが、それらの足が縺れてこけるのでしたか」
「そうです。わしの顔を見て、驚いて逃げ出したのですが、足が多すぎます」
「まあ、ムカデも足が多いので、靴代が大変でしょうなあ」
「ああ、そうですねえ」
「その足が沢山出ている人形に思い当たるもの、ありますかな」
「押し入れから出てきました。母か祖母のものだと思いますが、黒髪で、赤髪ではありませんが」
「じゃ、思い当たるところがあるのですね」
「そうです」
「その他、色々と出てきますが、全て思い当たるところがあるものですかな」
「そういわれれば、そうです」
「じゃ、頭から沸いて出るのでしょ」
「はい、何とかなりませんか」
「その前に」
「はい」
「思い当たらないような妖怪、その中にいましたかな」
「いたかもしれませんが、思い出せないだけかと」
 要するに全部が全部頭の中が発生源。この依頼者にしか見えない妖怪。それは妖怪博士も想像していたこと。しかし、もしや、というのがある。
「何とかなりませんか」
「被害はありますか」
「ありませんが、気味が悪い」
「辛抱すれば何とかなるでしょ」
「でも、妖怪が沸く頭を何とかしてもらいたいのです」
 妖怪博士は妖怪を退治出来ない。しかも発生源は依頼者だ。依頼者に負担を掛けることになる。だが、それ以前にそんな技術は妖怪博士にはない。
 だから、いつもの常套手段で、御札を出すしかないのだが、これはやりたくない。効くかどうかは依頼人次第なので。
「是非妖怪博士の御札を頂きたいのです」
 先回りされた。まさか護符コレクターではあるまいが。
 妖怪博士は、ポケットから小さな紙と筆ペンを取り出し「門」と書いた。
「門ですかな」
「これを門に張りなさい」
「門に門ですか。しかし門はありませんが」
「じゃ、自分の寝床の入口に貼りなさい」
 頭の中で沸く妖怪は、それしかない。上手くいけば、頭の中から出てきた妖怪が、その門にはまるのだ。そこに門があると思い、何だろうと入り込む。そして戻って来られない。妖怪は退治出来ない。だから妖怪流しを使うしかない。流すための妖怪門。
 と、妖怪博士はさも昔からの秘伝のように依頼者に語り、門と書かれた紙を渡した。
 妖怪博士は、それなりの礼金を貰ったので、戻るとき花見弁当を百貨店で買い、帰り道にある公園のベンチでそれを広げ、一人で花見と洒落た。
 その後、「妖怪門」が効いたのかどうかは分からないが、その依頼者からの連絡はなかった。
 花見弁当のご飯の上に焼き鯛の切り身が乗っていた。ご飯から沸くいたわけではない。
 
   了




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2021年03月27日

4066話 火右衛門


 どんなときでも火右衛門と呟くと、ぞっとする。身震いする。合田はそれを知っているので、火右衛門のことは絶対に思わないことにし、封印している。しかし、何かの拍子で、ふっと火右衛門が出てくる。縁起の悪い名だ。
 合田の家に伝わっている言葉で、そういう人物が先祖にいたようだが、触れてはいけない人らしい。
 しかし、合田は子供の頃、何度か聞いたことがある。家族の誰かが口にしてしまったのだろう。
 合田は、火右衛門って何、と聞くと、怖い顔をされた。
 だから火右衛門も怖い存在なのだと子供の頃感じた。
 いいとき、いい場所、楽しいときや、歓談しているときや、大きな祝い事で喜んでいるときなど、すっと火右衛門が頭がよぎる。頭からヒエモンという言葉聞こえるのだ。
 その度に合田は血が引いたようになる。笑顔が消え、すっと表情が落ちる。
 合田の先祖に、合田家のため、何か罪を背負って自害した人がいたようだ。合田家が生き残ったのは、その見返りだったらしい。
 これは合田家の人だけにしか通じない忌み事で、ヒエモンのことは口にしてはいけないとされている。
 合田右衛門という人で、火右衛門ではない。だが、呼ぶときは火右衛門になる。
 今でも合田は火右衛門と呟いただけでもぞっとするらしい。何か忌まわしいものが覆うように。
 逆に、調子の良いときなど、敢えて火右衛門と唱えることがある。これですっと躁状態から落ちるので、いいブレーキだ。浮かれすぎたときの特効薬のようなもの。
 忌まわしい言葉だが、戒めなのだ。
 子供の頃、駄々をこねて無理泣きなどをしていると、火右衛門が来るぞ、と脅されたものだ。それで泣き止んだ。火右衛門の名を口にしたときの親の顔がもの凄く怖かったためだろう。
 また、火右衛門は急に出てくることもある。もの凄く水を刺さる感じで、どうして今なのかが分からないときに出てくる。
 しかし、この火右衛門、合田家を守るために自害した人なので、祟り神ではなく、本当は守り神なのだ。本人はいやだっただろうが。
 火右衛門の墓は郷里にある。合田家の墓とは別に。そしてそれを超える大きな墓は郷里の墓地にはない。
 
   了



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2021年03月26日

4065話 春風の吹く顔


 いつも春風が吹いているような顔の上田だが、春になっても顔色が冴えない。険しい顔をしたまま戻らないように。
 それはどうしたことかと、知り合いの住職が訪ねると、戻らないと言うより、これで普通だと言うし、別に生活が厳しいわけではないし、いかめしいことを考え続けているわけでもないと。
 ではどうしてそんな不機嫌そうな顔になったのかと聞くと、冬の寒いとき、顔をしかめたままフリーズし、戻らないとか。
 では、春風が吹いているような顔はどうしてそうなったのかと聞くと、同じようなもので、春風が吹き、過ごしやすくなったとき、顔がほころび、そのまま固まったと。
 それでは普通の顔、固まっていないときの顔はどんな表情になっていたのかと聞くと、それはもう遠い昔ことで、春風顔が一番長いと。
 では、何故春風顔になったのかと訊ねると、ニコニコしていたためらしい。赤ちゃんの頃からそうなのかと問うと、母親は、そうだったらしいと言っている。
 そのニコニコ顔の春風顔がデフォルトのようだが、成長するにつれ、それが消えていったとか。
 顔は人の履歴書とも言われおり、顔を見れば人柄も分かるらしいが、それなりの行いの結果が顔に表れるのだろうか。
 しかし、上田の場合、精神的なことでも人格的なことでもなく、もっと物理的な顔の筋肉の問題だった。
 その証拠に、春めいてきたため、冬のいかめしい顔が雪解けのように皺が解け始めた。
 住職は山門前に毎朝出て掃除をしている。そのとき、毎朝のように上田に出合う。それを観察していると、穏やかな顔になりつつある。
 人の行いは顔には出ないものなのだと、住職は理解したが、これは言わない方がいいだろう。
 そして桜が咲き、散り始める春爛漫の頃、上田の顔は春風の吹く顔になりつつあった。あと一吹き。春の暖かいもう一吹きで完全に戻るだろう。
 ところが初夏のような暑い日が来た。上田は気温の高さで、少し汗ばみ、暑苦しそうな顔になった。その皺が春風皺を押し返した。
 住職も、それを見て「あと少しだったのにねえ」と同情した。
 しかし上田は春風顔がいやだったらしい。だから、今の一寸いかめしい縦皺が入った顔の方がいいそうだ。
 
   了



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2021年03月25日

4064話 企画書


 木下が出した企画書を見て部長が興味を懐いたようだ。それで、部長室から呼び出しを受けた。
 課長がそれを聞いただけで、別に話を聞こうというわけではない。
 課長は係長にそのことを話した。係長は木下に、部長が呼んでいるという話になってしまう。それでいつ行けばいいのかと考えたが、すぐにだろう。
 それですぐに部長室のドアを叩いた。そこには部長しかいない。
 見晴らしのいい窓を背にした椅子で、部長は何やら読んでいた。書類ではなく、書籍のようで、よく見ると古い文庫本。カバーはない。葡萄のマークが見えるので、新潮文庫だろう。
「お呼びですか」
「誰だった」
「木下です」
「あ、そう。何か用かな」
「呼ばれましたので」
「そうだったか。ああ、思い出した。企画書を出した木下君だね。一度会って話を聞きたいと思っていたんだ。丁度いい。座りなさい」
 中程にテーブルとソファーがある。
 部長は電話を入れ、お茶と一言伝えた。
 すぐに給仕がやってきた。青年で、詰め入りを着ている。学生のように見えるが、そうではなく、社員のようだ。木下よりも遙かに若い。
 給仕君が出ていくと、部長が目と顎で木下を促した。話せとばかりに。
「色目を変えてみるのがいいかと思いまして。これまでは地味です。それを一つでもいいので、明るい色を加えるとことで」
「おかずが多い」
「多くはありません。一つだけでもいいかと思いまして」
「そうなんだ。メインは一つでいいんだ。ところが二つも三つもメインを買いすぎた。どれも美味しいんだがね。しかし多い。こういうのは一つでいい。また、なかってもいいんだ。佃煮の残りがあるしね。あれは長持ちするといっても固くなってくる。買ったときの軟らかさがない。しかし、メインは欲しい」
「メインの色とは」
「色じゃなく、牡蠣フライだ。これがメイン。それで十分じゃないか、そこに海老フライを付ける必要はない。しかし安かったんだ。半額だ。ふと横を見るとカレイの唐揚げ。これはそれほど高くはないが、食べやすい。これでメインが三つ。これは多いよ君、どう思う」
「多いです。ご飯も食べられるのでしょ」
「ああ、酒の肴じゃないからね。しっかりとご飯も食べる。だから、食べきれない。買いすぎたよ君」
「あ、はい」
「じゃ、話はこれまで、いい企画書だったよ」
「あ、はい」
 木下は部長室をあとにした。
 エレベーターに乗っているとき、部長の謎かけについて考えた。どういう意味が含まれているのかと。
 牡蠣フライ、海老フライ、カレイの唐揚げ。違うのはカレイの唐揚げだろう。フライと唐揚げの違いがある。そして佃煮。これは何を意味しているのか。そしてメインは一つでいいっと言っていた。
 部屋に戻ると、部長がすぐに呼びつけた。
「どうだった」
「あ、はい」
 答えられない。どういう話だったのか、まだ理解出来ないためだ。
 次は係長が話しかけてきた。
「どうだった」
「いえ」
「あ、そう。言えないと」
「そういう意味じゃ」
「内密なんだね。特命なんだね」
「いえいえ」
 部長は木下の企画書を褒めただけで、そのあとのおかずの話は、そのまんまの余談だったようだ。
 
   了



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2021年03月24日

4063話 祭りの日


 倉橋は楽しみを早い目に済ませてしまった。しかし、それほどのことではなく、がっかりした。そういった楽しみは間隔を置いて実行している。今回は早すぎた。そのため、次の楽しみまでの期間が長い。
「早まったなあ」
 倉橋は後悔したが、我慢出来なかったのだろう。早く楽しみたいと。
 次の楽しみまで、かなり間が開く。これを早めて、前倒ししてもいいのだが、期間を置かないと、それほど楽しいことにはならない。今回がそうだった。
 倉橋は待つ間を楽しむタイプなのだが、それが崩れた。しかし、次はかなり待たないといけないので、それだけ待つ時間が楽しめるはず。
 待つ時間は苦痛ではない。しかし、魔が差すこともある。衝撃的に。
 倉橋は昔の人の楽しみについて書かれた本を読んだことがある。年に何度もない。恐ろしいほど待ち時間が長い。祭りの日ぐらいだが、今の時代は年中祭り、そのため、毎日祭りが出来る。
「これがいけない」
 と倉橋は気付いており、知っているのだが、歯止めがない。タガは簡単に外れる。
「これは日常の過ごし方を間違っている」
 と、倉橋は反省する。日々というのは地味なものだ。だからこそ祭りが楽しい。
 連日祭りでは、何もない日が貴重だったりする。流石に倉橋は毎日祭りをやっているわけではないが、その頻度は多い方だろう。ただ、大きな祭りではなく、非常に小さい。祭り規模ではないほど小さい。だから回数が多い。
 昔の暮らしぶりの本にも書いてあったが、祭りの準備というのがある。祭りが終わった翌日、また祭りをやるのではなく、準備。
「これだろう」
 準備は祭りではないが、祭りへと向かっている。実際には祭りしないが、気持ちは祭り気分。ただ、準備なので地味。
 そして祭りとは関係のない地味な日々の生活。これが長いほど祭りは楽しい。これは先ほど考えたことだが、待ちきれず実行することもある。
 待つ日が長いほど楽しみも大きいとも言うが、待ちくたびれて、もういいかと、なることもある。もういらないと。
 祭りはハレの場。ハレばかりではハレの中の曇りや雨も生じるだろう。ハレの日は晴れていないといけない。また待てば待つほど晴れるだろう。待ち時間が短いと晴れの日なのに、曇っているかもしれない。
 日々の地味な生活の中でも、小さな祭りがあるのかもしれない。ほんの僅かだが、祭りの日でなくても、小さな楽しみならある。
 人は楽しむために苦しんでいるのだろうか。辛い仕事を果たせば、楽しいことがやってくるように。
 逆に苦しむために楽しんでいることもある。
 
   了
 



posted by 川崎ゆきお at 13:27| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月23日

4062話 北中が出た


 春めいてきたので北中は外に出た。毎年のことで、特にいうほどのことでもないし、語るほどの内容ではない。そのへんの虫が起きだして、蠢いている程度。世間の片隅よりもさらに隅の隅、しゃがんで見ないと分からないし、また葉の下や、ドブ板の下などにいたりする。
 しかし、その虫の僅かな移動距離内でもそれなりの影響を与えている。非常に狭い範囲だが。
 北中もそんな感じで、北中が動いても、それほど影響はない。広い世間から見ればの話だ。
「北中が動いたらしい」
「冬眠から覚めたか」
「こちらに向かって来るようです」
「相手になるな」
「心得ております」
「別に用もないだろう。あの北中はうろついているだけで、シカトした目的などない」
「はい」
「しかし、避けよ。関わりになると面倒だ」
 北中が動くことで、周囲の人は避ける。だからこれも影響で、動きが変わってくる。
 だが、北中と遭遇しても、特に何も起こらない。しかし、何か忌みを感じる。その波長がいやなのだ。それで、届かないところまで離れる。
 北中が出たことは、すぐに知れ渡った。その通り道はがらんとし、猫程度しかいない。
「静かな道だなあ」と北中は、その事情を知らないので、呑気な感想を述べる。
 北中が通り過ぎたあと、草木が枯れ、五年は芽を吹かない、とかはない。また咲き始めの桜の蕾がフリーズするわけでもない。
「行ったようだ」
「よし」
「今年も出たなあ」
「夏はいいが、春先は危ない」
 北中を避けなければいけないのは春先だけで、夏は問題はないようだ。そういう事情があるのだろう。理由は分からないが周囲の人達の経験がそうさせる。
 北中は春を感じながら、呑気にそのあたりをうろついている。行く先々に人はいない。たまに幼児が飛び出すが、すぐに親が連れ戻す。
「人が減ったなあ、まだ春先で寒いかもしれん。もう少し立つと人も出てくる。まあ静かでいいか」
 北中はそのへんを一周し、うろつきを終了した。
「北中が出たので、春ですなあ」
「ああ、出ましたか。じゃ、春でしょ」
「今年も出くわさないでよかったです」
「そうだね」
 
   了



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2021年03月22日

4061話 案配


 谷口は満足を得たのだが、すぐに不満が出てきた。思っていたものと違っていたためだろう。しかもメイン箇所で。
 その他にも不満点はあるが、それ以外はまずまず。そうなると、満足など得られていなかったことになる。
 想像と現実は違う。しかし、想像外、予想外のところでの満足はなかった。すると満足の塊を得たのか不満足の塊を得たのかが分からなくなった。
 何をどう選んでも不満はあるだろう。しかし、満足を得たのは瞬間で、すぐに不満を覚えた。これはいけない。
 谷口は不満を感じないよう注意し、後悔しないものを選んだはず。不満足を味わいたくないため。しかし、そうではなかったようだ。
 不満箇所が最初から分かっておればいいのだが、そうではなく、ここは不満ではなく満足を得られるだろうというところだけに厳しい。
 谷口の眉間の皺が深まった。選択眼がなかったともいえる。それならば不満点が分かっているものの方が始末がいい。そしてその不満はあるものの、満足が得られるものもある。これは確実性が高いので期待外れにはならないだろう。
 しかし、不満な点があるので、それが気になって、そちらを選べなかった。
 谷口は自分の選択肢を疑うのがいやだ。そのため、失敗を認めたくない。
「まあ、慣れればどうと言うことはありませんよ、谷口さん」
「はあ、そうなのですが、それじゃ以前とあまり変わらないのです」
「いいところもあるでしょ」
「いいところといっても、普通です。特に凄いということではありません」
「難儀ですねえ」
「何とかならないものでしょうか」
「見込み違い、見当違いはよくあることですよ。それもいずれ慣れれば何とかなります」
「はあ」
「私と谷口さん、あなたとの関係もそうでしょ」
「いえ」
「分かっております。私に対して不満があるはず。また私も谷口さんに対して不満がある。でも慣れればそんなものだと思い、やっていけるでしょ」
「それとこれとは話が違うのですが、まあ、そうとも言えますねえ」
「悪いところ、不満ばかりを見ないで、いいところを注目すればいいのです。また、良さを見いだすことも大事」
「いい説明ですねえ」
「そうでしょ。世の中、妥協の産物。そのあたりを案配やっていけば、なんてことはない」
「案配ですか」
「そうです」
「じゃ、まだ見えていない良さを発見します」
「それには慣れ親しまないと見えてきませんよ」
「はい分かりました」
 
   了




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2021年03月21日

4060話 市ヶ崎坊の権蔵


「市ヶ崎の権蔵さんはこのあたりか」
「そうです」
「どの屋敷じゃ」
「そこの小橋を渡って、右に入って二つ目のお屋敷です」
「かたじけない」
「いえいえ、それよりも、いいんですか」
「何が」
「そんなお屋敷に行かれて」
「用がある」
「じゃ、仕方ございませんねえ」
「何が仕方ないのじゃ」
「いえいえ」
「気になるのう。何かあるのか」
「何かおわりなので、行かれるわけでしょ」
「まあな」
「では、私はこのへんで」
「うむ、礼を言う」
 市ヶ崎は城下から離れ、また武家屋敷町からも外れたところにある。別邸、別宅、控え屋敷などが並び、大きな宿坊もある。寺のようだが、実際には宿泊所。一寸した陣屋規模だが、造りはお寺風。
 市ヶ崎の権蔵とは、この宿坊に所属する寺侍。宿坊には住まず、空いていた武家屋敷で暮らしている。
 そこへ先ほどの侍がやってきた。
「権蔵殿はおられるか」
 大きな声なので、中まで聞こえたのか、下男が出てきた。
「はい」
「案内を請う」
「はい」
 侍は、この藩の立派な家臣。市ヶ崎の噂は聞いている。まともな藩士は、ここに屋敷を持たない。
 出てきた権蔵は町人と変わらない。どう見ても宿場のならず者。
「市ヶ崎の宿坊を仕切っておるのは、その方か」
「左様でございます」
「一つ頼みがある」
「何なりと」
「女人をかくまって貰いたい」
「おやすい御用で」
 翌日、白狐のような女人が現れた。
 権蔵は女人を籠に乗せ、宿坊へ案内した。既に部屋は準備している。それと下女も。
 女人は籠を降り、宿坊の玄関口から中に入った。当然権蔵の案内で。
 女人に表情はない。
 権蔵は寺男に合図を送ると、三人ほどが女人の後ろから付いてきた。
 部屋は奥まった場所にあり、まるで迷路。
 その奥はもう部屋はなく、ただの廊下。
 女人の目が少し開いた。
 その瞬間寺男三人が女人の自由を奪う。権蔵は小部屋の鍵を開け、そこへ女人を入れる。板の間の奥にもう一つ扉があり、そこは畳の敷かれた座敷。
 要するに座敷牢。
「よし」
 と、権蔵は、そこを去る。
 そこに下女も来たので、権蔵は色々と指図をする。もう何度もやっていることなので、慣れているようだ。
 
   了
 


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2021年03月20日

4059話 この世の花


「桜が咲いています」
「あ、そう」
「ソメイヨシノです」
「あなたが見た桜だけでしょ」
「そうですが、別の場所でも見ました」
「じゃ、二箇所」
「いえ、三箇所か四箇所」
「どの程度咲いた」
「どの木も、一輪ぐらいで」
「一輪」
「はい、一つだけ、ぽつりと、そのあとは、それに続くでしょう。だから今朝は咲き始めです。昨日までは咲いていませんでしたから」
「あ、そう」
「どうですか、花見と洒落ませんか、あ、まだ早いですね。もっと咲かないと」
「そうだね」
「その頃、行きましょう」
「色々と用事があってねえ。それに体調も悪いので、今年は大人しくしているよ」
「花見どころではないと」
「まあ、そうだ」
「私など、暇なので、そんなことばかり考えています」
「結構な身分だ」
「いえいえ」
「でも酒宴を張りたいと思いますので、そのときは一応お誘いします」
「ああ、分かった。用件はそれだけか」
「お忙しいところ、お邪魔しました。控えの間にかなり人がいます。大丈夫ですか」
「ああ、何とかな」
 次に入って来た客は、先客と同じようなことを話した。つまり、桜が咲き始めたと」
 その次の客もそうだ。
 ここに来ている客は全員暇なのかもしれない。その相手をする主人は、それで忙しい。そのため、体調を崩すほど。
「皆様帰られました。もう誰も控えの間にはおられません」
「そうか」
「はい」
「疲れただろ、休みなさい」
「いえいえ、それよりもどうして暇な人ばかり訪れるのでしょうねえ」
「暇だからじゃ」
「ああ、なるほど」
「しかし、限りがある」
 主は控えの間を覗いてみた。
「あの人達は、ここで湧くのか」
「そのようです」
「困ったものだ」
「今日はもう湧きませんが、明日になると、また湧き出すものと思われます」
「ああ、わしも暇なので、相手になろう」
「でもご無理なさらないように。この世の者どもではありませんから」
「そうじゃな」
 
   了



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2021年03月19日

4058話 龍使い


 長く眠っていた龍が竜ヶ森で目覚めた。竜ヶ森と呼ばれているが、龍など見た者はいない。伝説だ。名が残っているのだから、何か謂れがあったのだろう。
 龍を起こしたのは少女。
 ある日、森に迷い込み、崖から滑り落ちそうになったとき、飛び出していた岩にしがみついた。その岩もずるっと動いた。
 龍の封印だったようで、少女がそれを開けたことになるが、そんな意志などなかった。
 そして森に行く用事もなかった。いつかは行ってみようと思っていたのだが、それがその日。
 何故その気になったのかは分からない。見えない何かの意志かもしれないし、ただの気のせいかも。
 ただ、どうしてそんな気になったのかは分からない。
 この少女、里でも変わった女の子として評判があり、里の巫女などは後継者にしたかった。
 それで可愛がった。少女は幼い頃から特殊な能力があったわけではない。その後もない。ただ、何かありそうな雰囲気だけが漂っていた。
 里巫女は、それで十分だと思っている。自分も神秘的な力などないのだ。
 しかし、古い言い伝えで、龍を得ることで、力を発揮するとされている。獣使いだ。聖獣を操れる。
 そう言う話を里巫女のお婆さんは少女に何度か話していた。古い伝説だが、龍のいる森があると。
 それを少女が思い出し、一度行って見よう、と頭の中にはあった。
 当時、この里を支配していた領主がおり、隣国に攻められていた。
 この里からも兵を出したが、何ともならない。大軍なのだ。これは諦めて支配下に入った方がいいと重臣達は勧めたが、領主は頑固で、戦いを選んだ。
 その敵軍が迫っている。
 領主も竜ヶ森の伝説を知っていた。龍軍だ。これは無敵とされているが、人ではない。
 さて、その少女、竜ヶ森での出来事を里巫女に話し、里巫女は里人に話し、いつの間にか領主の耳にも達してた。
 話は簡単だ。龍軍を呼ぶしかない。それを呼べるのはあの少女だけ。
 竜ヶ森の龍は封印を外してくれた少女に懐いた。この龍が、龍軍の親玉だろう。もの凄い数の龍を従えている。
 領主の頼みを少女は断らなかった。
 そして、前線となっているところに龍軍と供に向かった。
 領主は歓迎した。
 少女は龍軍を領主の前に連れてきた。
 しかし、そんな龍などいない。
 だが、よく見ると、小さな虫が飛び回っていた。羽根蟻のように。
 竜は竜だが、竜の落とし子よりも小さかった。
 領主は、下を向き、黙り込んだ。
 そして、少女にお菓子を持たせ、帰らせた。
 しかし前線での戦いは、意外と劣勢な領主の方が逆に押し返した。
 少女が連れてきた龍軍が活躍したわけではない。
 不思議なことがあるものだと、両軍は意外な結果に驚いた。
 そして、これは噂に聞く竜ヶ森の龍が動いたためだと言われるようになった。
 見事に敵の侵攻を食い止めた領主は、改めてあの少女に褒美を与えた。
 
   了
 



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2021年03月18日

4057話 春が来ない人


 春が順調に進んでいる頃、柴田は相変わらずの暮らしぶりを続けている。徐々に暖かくなっていくので、順調だろう。しかし、柴田は不順。これは体調もそうだし、気持ちもそう。
 しかし万年床のようにその状態に慣れると、それで普通。特に気にすることもなく、季節の移り変わりを見ている。
 それが精神作用に大きく関わることはない。気候の良さが気持ちの良さに影響はするが、ただの皮膚だけの反応だったりする。
 その日も柴田は何することなく、ぶらっと外に出ていた。気分が塞いでいるので部屋に籠もりがちになるわけではない。出ても出なくても似たようなもので、皮膚感覚だけで出ている。室内よりも風があり、これが暖かい。風に少し吹かれる程度だが、これが気持ちいい。皮膚が。
 その道の後ろから、さっと追い抜いていった人がいる。柴田が遅いのだ。
 その後ろ姿に見覚えがある。相手も気付いたのか、振り返る。互いに顔を見て、ああ、という感じになる。
 柴田が出合ったのは竹田という同級生。中学時代はいつも連れ立っていたが、卒業してからはその関係は消えた。竹田はいい高校に行ったため。そこでの学友との付き合いで、忙しいのだろう。
 また、竹田は一寸した有名人。これは仲間内だけで有名な人ではなく、世間からも認められている。ただ、世間も広い。だから知る人ぞ知る有名人。
 柴田も竹田の活躍は聞いている。又聞きだが。
 もうかなり離れたところにいる人になっている。しかし、まだこの近所に住んでおり、たまにすれ違うこともあるが、軽く会釈する程度。もうそれ以上の関係はない。
「忙しそうだね」
「ああ、何とかね」
 しかし、振り返って柴田に声をかけるのだから、それほど忙しくはないのだろう。
「一度聞きたいと思ってたんだ」話題は竹田から切り出した。
「何かな」
「最近どうしてる」
「ぶらっと」
「働いてないの」
「今は休み」
「あ、それだけでいいよ。じゃ、失礼」
 竹田はそれだけ聞くと去って行った。本当に失礼だ。
 活躍している人と、していない人。その構図を柴田は真っ先に考えた。
 当然柴田は活躍していない人。部屋を綺麗に掃除するという程度では大活躍とはいえない。もっと世間に対しての事柄でないと駄目。
 竹田にはそれがあるが、柴田にはない。
「うーん」とため息をつき、柴田は散歩を続けた。これも何の目的もない。
 一本道、真っ直ぐな道。竹田の後ろ姿が見える。あっという間にそこまで行ったのだろう。やはり急いでいるようだが、竹田はいつも早歩きをしていた印象があるので、そんなものかもしれない。
 そして駅に向かうのだろう。すっと左側へと消えた。
 柴田もそこまで来たのだが、そのときはもう竹田のことなど頭になかった。左へ行けば駅に出る。柴田は直進した。その先は寂しい場所になる。
 柴田にとり、そちらへ行く方が居心地がいいのだろう。
 
   了
 


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2021年03月17日

4056話 覚醒


「昨夜は春の嵐でしたなあ」
「雷が落ちたでしょ」
「あれは近い、閃光も強烈。電気を消してましたが蛍光灯いらず。それよりも明るい。ストロボだ」
「ああ、フラッシュ」
「音も凄かったですよ。響きました」
「私は地震かと思って起こされましたよ」
「何処に落ちたのでしょうねえ」
「さあ、そこまでは分かりませんが、近いです。このあたりです」
「まあ、嵐も去り、晴れてきました」
「雨も凄かったですねえ。しかし雨量は少ないでしょ。降り続いていませんからね。しかし風が強いので、音が派手」
「まさに春の嵐でした」
「夏の嵐もあるのでしょうかねえ」
「さあ、あまり聞きませんが、あるんでしょうねえ」
「秋の嵐も」
「それは台風でしょ」
「木枯らしも吹きますし、台風じゃなくても」
「もう冬に近い秋ですなあ」
「それで私、シャキッとしたのです」
「え、どの嵐で」
「昨夜の嵐で」
「ほう」
「春先、ぼんやりとしておりましてねえ。そこであの雷でしょ。まさに雷に打たれて正気に戻ったわけじゃありませんが」
「近くに落ちただけでしょ」
「いや、頭にガツンときたので、それで目が覚めました。寝ていて目が覚めたんじゃなく、私自身に」
「何ですか、それは。じゃ、今までは」
「自分が誰だか分からないほど、ぼんやり過ごしていました」
「それはいいことなんですかねえ」
「そこなんです。下手に覚醒すると、ろくなことはない」
「そうでしょ」
「それで、覚醒したままですか」
「いえ、嵐が去った朝、戻ってました。いつものぼんやりとした自分に」
「それはよかった。覚醒なんかすると、私なんかと、こんな無駄話などされなくなるでしょ」
「そうですか」
「そうですよ」
「あなたは雷のショックはありませんでしたか」
「電気ショックのようなものですな」
「そうです」
「ありません」
「ほほう」
「私は既に覚醒していますから」
「そういうふうには見えませんが、私よりもおっとりしておられる」
「ああ、これで一杯一杯なのです」
「ああ、なるほど」
 
   了



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2021年03月16日

4055話 奇妙な民宿


 民宿のようだが、はっきりとした看板はない。見た感じ民宿のように見える。そのあたり、民宿が多い。駅前で老婆から誘われ、それに従った。既に夕方、何処で泊まっても同じ。寝るところさえあればいい。
 駅前からかなり離れているが、商店街はかなり長く、一度途切れて田んぼの中の道になるのだが、また復活したように商店が並んでいる。しかし更地が多い。
 駅からは送迎バスでもなければ、遠すぎるだろう。しかし、バスではないが、普通の車に便乗できた。宿の車だろうが農家でよくあるような軽ワゴン。乗っているのは吉田だけ。運転は老婆の息子だろうか。
 駅前にはビジネスホテルや旅館。それに民宿もある。そちらでもよかったと、吉田はそこを通過するとき、思ったのだが、どうせ寝るだけなので、問題はなかった。
 その民宿は思った通り、農家が集まっているところにあったが、塀とか、小屋とか、倉とかの密度が濃く、路地が迷路のように走っていた。車はその迷路の入口付近で止まった。宿屋のドン前まで乗り付けることも出来るようだが、対向車が来ると厄介らしく、手前で下ろされた。
 息子も一緒に降り、宿まで案内されたが、結構近い。だが右へ回り左へ曲がりと、覚えにくい場所にある。
 民宿に着いたとき、雨が降り出した。寝るだけなので、問題はない。
 狭い通りに観光旅館が一軒と、料理屋もある。民宿の看板もいくつか確認できた。奥まっているので老婆が客引きしていたのだろう。
 民宿か何かよく分からない。ただの二階屋の家にしか見えない。ただ、農家らしさはない。囲炉裏端とかを期待していたのだが、そういうものはない。
 だが、結構広く、大家族が住めそうな間取り。二階が客間のようで、小部屋が廊下を挟んで並んでいた。そこは宿屋らしい。しかし、この二階、増築したような形跡がある。平屋だったのを。
 さらに三階もあるようだ。
 お隣の家々で三方を囲まれているためか、中に埋まり込んだような家。三階は作ったのは、見晴らしを得たかったためだろうか。
 夕食は出るらしい。ただし下に降りて食べる。一人でもいい。時間は適当らしい。
 どう見ても普通の家に客として泊まりに来たような感じ。そういう民宿も当然あるだろう。周囲にも似たようなのがあったので、ここだけではい。
 そこまで観察しなくても、吉田は寝るだけでいい。
 押し入れはなく、畳まれた蒲団が積んであった。三組ある。部屋の広さから考えるとそんなものだろう。
 吉田は風呂に入らず、そのまま寝てしまった。
 それが二日続き、三日続き。やがて一週間になった。宿代は安い、朝夕二食付き。
 これは逗留にはもってこいだと思い、さらに泊まり続けた。
 それで分かったことだが、他の客も長逗留が多いようだ。中には半年ほど泊まっている人もいた。
 吉田に必要なのは寝床。別に病気ではない。
 その間、雨が降り続いている。まだ梅雨ではないので、春の長雨だろう。
 たまに傘を差し、そのへんを散歩する程度。老婆が釣り道具を貸してくれたので、最近は雨の中、釣りばかりしている。川ではなく、池。もう使われていない溜池だろうか。
 ヘビが出たので、驚いた程度で、寝ては食べ、食べては寝て、間に散歩や釣り、そして料理屋があるので、そこで刺身とかを食べ、また駅前までは遠いが、その間、商店街があるので、店屋を覗いたりして暇を潰した。
 そして安いとはいえ、懐が寂しくなった頃、そこを出た。
 駅までは送って貰えた。
 吉田は行方不明となったことになるが、その中味は、以上の通り。
 
   了
 

posted by 川崎ゆきお at 12:28| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月15日

4054話 蕾の豪右衛門


「雨が降っておりますが、大丈夫ですか」
「春の雨、暖かい。大事ない」
「しかし、雨の日にわざわざ出掛けられなくても」
「桜の蕾が気になるのでな。今日あたり、咲いておるやもしれん。昨夜からの雨で」
「まだ早うございます」
「分かっておる。途中が見たいのじゃ。咲く手前の頃が」
「今年に入って、毎日ですよ。見に行かれるのは」
「変化はないのだが、最近は蕾も大きくなり、色も付きだした。これは近い」
「ではお気を付けて」
「もし戻れぬときは、以前話した通りにな」
「縁起でもない」
 村田豪右衛門はその日も桜の蕾を見に行った。雨でも行く。風の強い日でも。雪の日でも。
 新羅峡に一本の桜の木がある。山桜。横の繁みに小屋がある。山仕事のための小屋だろう。
 その日も同志が集まっていた。
「村田様がお見えになりました」
「そうか、お通ししろ」
「はっ」
 村田豪右衛門は上座に座った。
「機は熟しました」
「まだ早かろう」と村田豪右衛門。
「時機を逸しては」
「まだ寒い」
「もう暖かいです」
 一同、揃って決行を村田豪右衛門に促す。
「桜が咲く頃まで待て」
「しかし、もう限界です」
「準備を怠るな。まだまだやるべきことが残っておろう」
「鉄砲が足りません」
「そうだろ」
「火薬も」
「弾があるだけでが駄目だ。準備をしっかりとな」
「鉄砲がなくても決行できます」
「そう焦るでない」
「では桜が咲けば決行ですね」
「うむ、その頃が丁度いい」
「最後の花見になるやもしれませんね」
「そうだな」
「では、また明日」
「うむ」
 豪右衛門は無事に戻ることが出来た。
 そして、桜が咲いた。
 豪右衛門はその横の小屋へ顔を出したが、誰もまだ来ていない。それどころか小屋が荒れている。争った跡が見える。
 そこに政敵の家老が現れた。
「よく分かったね」
「毎日、ここで集まっているんだ。丸見えだ」
「そうだったか」
「ここにいてはまずいでしょ。お引き取りを」
「そうだな」
「同志を集め、何をやろうとしているのかは、もう分かっておる」
「丸見えですかな」
「そうだな。だから、今後、配慮しよう」
「そうして頂くと有り難い」
「だから、無理をなさるでない」
「分かりました」
 
   了




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2021年03月14日

4053話 黄金郷


 今日は何もしないで、ぼんやりと過ごそうと吉岡は思ったのだが、昨日もそうだった。
 何か用件でも済んだ翌日ならのんびりを楽しめばいいのだが、連日、のんびりなら、のんびり漬けで、のんびりとした感じにはならない。さらに、もっとのんびりと過ごせばいいのだが、そうなると逆に退屈。今でもそうなのだから、これ以上のんびりとしたくはない。
 そういう日々を送っていた吉岡だが、ここ最近忙しくなった。用件が多くなり、それが重なる。
 やっと用件を終えても二日後にまた用件がある。のんびり出来るのは一日か二日。用件の前日はのんびり出来ない。それが終わっても、また次の用件が近付いて来る。目覚まし時計で早く起きないといけないとかになると、これは前日からプレッシャーを感じる。
 吉岡は好きな時間に起きてくる。たまに遅くまで寝ているときがあるので、そんな日と重なると、遅れる。それで目覚ましをセットすることになるのだが、電池が切れている。使っていないのだ。
 ひと月程用件がなければ、その間、のんびり出来る。一週間では早い。来週になるため。それはすぐに来る。だからやはり一ヶ月ほど何もない日が続かないと駄目。
 一ヶ月後の用件は大したことはないが、その日に行かないといけないような用事。しかし、慣れているので、一週間前になっても忘れているほど。頭の中にない。
 だからのんびりと出来る大平野がある。
 しかし、それは、あったで、最近はない。
 それで、ひと用事済ませたあと、これでやっとのんびり出来るというわけにはいかなくなった。次の用件が控えているので、それが気になって気になってのんびりなど出来ないのである。
 月に一度の用事は、別に行かなくてもいいことだが、行った方がいいだろうという程度。二ヶ月に一度でもいいほどだが、これは決まり事としてあるので、いわば日常内。だから実質何もない日が数ヶ月ほど続いていた。下手をすると一年ほど。
 それで、のんびり慣れしていたので、それが普通のペースで、その間、別に退屈はしない。
 しかし、最近そんな呑気なことをやってられないほど忙しくなってきた。これは何だろう。どういう変化が来たのだろうか。
 よく考えると、用件が重なる時期に来ていたのだ。纏まって来ていただけ。一つ一つは大したことはなく、難しい用件ではない。
 そういう日が少し続いたとき、吉岡は、何もなかった時期、のんびりの大平野で暮らしていた頃を思い出す。あの頃は、そうは思わなかったが、朝、目覚ましで起きるとき、実感として、それがある。
 あの大平野。あれは黄金郷だった。
 
   了




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2021年03月13日

4052話 舐める話


 表通りではなく、裏通りの商店街、ほぼ路地だが、そういうところを歩くのが前田の趣味。それはコースが決まっており、毎日そこを通っている。裏道の入口に散髪屋があり、料金が安いので客が多い。裏側にタオルが干されており、白い大きな花が咲いているように見える。散髪屋は硝子張りで、店の人が数人おり、顔を覚えるほど。そこの人も、その時間になると毎日通っている人がいるな、程度には見ているだろう。
 そして、路地の向こうからやってくる自転車乗りがおり、同じ時間帯に同じような地点ですれ違う。友達ではないが、挨拶ぐらいはするし、軽い会話もする。そのほとんどは暑い寒いの話。
 その日も前田は路地の中程の麻雀屋の前に来たとき、その自転車とすれ違った。と、思ったのだが、止まったようで、ライターを借りたいらしい。
 前田はライターを貸す。
「いつもよく合いますねえ。いつもこのコースですか」
 前田は適当に答えていたが、今日は寄るところがあるので、それで思い出した。聞かれなければ忘れるところだが、大事な用件。
「いや、今日はちょっと寄るところがありまして」
「あ、そう」
「一寸した手続き物です」
「じゃ、役所へ」
「いえいえ」
 自転車男はライターを前田に返し、礼を言い、さっと立ち去った。
 前田は裏道商店街の突き当たりで、左へ曲がった。いつもは右だ。用事で寄るのだろう。
 手続きというのは嘘で、貰いに行く。
 役所とかの公的機関ではなく、その先にある古びた長屋。
 その取っつきに子供相手の駄菓子屋だった店がある。今は営業していないが、土間に空の棚などがあり、そこは当時のまま。
 前田の顔を見て、老婆が、ああ、という顔をする。
「しばらくお待ちを」
 と言い、奥に入り、小袋を持ってきた。お菓子を入れる昔の菓子袋だろうか。まだ残っていたのだろう。
 前田は万札を出す。
「これでかなり持つでしょ」
「はい、なくなりかけていたので」
「じゃ、御達者でな」
 前田が買ったのは延命丸。
 丸薬だ。しかし、中味は老婆が作ったあめ玉。
 前田はそれを知らない。
 土間から表に出ると、先ほどの自転車男がいる。
「あ」
「あ」
 と、同時に「あ」をハモる。
 結構飲んでいる人が多いようだ。
 実際には飲むのではなく、舐めるのだが。
 
   了





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2021年03月12日

4051話 一週間のご無沙汰


 しばらく行っていないところへ行くと、様子が違う。よくあることだ。
 一週間ぶりなら様子は同じだろう。ほとんど変わっていない。様子が違うと思うのは本人の問題かもしれない。
 それまで毎日通っていた場所。だから慣れている場所のはずだが、日を置くと初めての場所ではないのに、何故かギクシャクする。たったの一週間なのにと思いながら佐沼は違和感を覚えた。そこは日常的な場所、普段の場所。気にも留めないほどあたりまえの場所。
 佐沼は用事が出来て、一週間ほど行っていなかっただけ。たったそれだけなのに、この違和感は何だろう。当然様変わりなどしていない。これまでと同じ場所。
 まさか場所を違えたのではないかと思うほどだが、そんなことはあり得ない。やはり日を置いたためだろう。
 これも翌日から続けて通えば、普段通りの場所になるはず。
 考えられることは、日々ということ。毎日ということ。元の感覚の場所に戻るには日々が必要なのかもしれない。
 初めての場所ならそんな違和感はない。慣れていないことを最初から分かっているため。
 だが、考え方を変えれば、しばらくご無沙汰の場所は新鮮だともいえる。
 大きく違うよりも、少しだけ違う方が違和感としては大きいのかもしれない。ある程度知っているため。
 だからまったく知らない方が受け入れやすい。
 しかし、何故違和感を感じるのかを、もう少し佐沼は考えた。それは暖房だろう。暖房が強いのだ。冬なのでありがたいが、ムッとするほど暑い。一日の中で、ここが一番暖かい場所のようだ。この一週間ほど、こんな暖かい空気の場所はなかった。
 違和感は場所ではなく、空気なのかもしれない。
 様子が違う違和感は、暖房だった。そう佐沼は解釈した。他のことは同じだろう。一週間前に行ったときも、暑かったはず。それを忘れていたのは、いつも暖房が強いわけではないため。
 一週間前までは毎日行っていた場所。慣れている場所なのに、妙に落ち着かない。
 しかし、よくあることで、他の事柄でもよくある。そのうち溶け込んでいくだろう。そして毎日繰り返すことで徐々に違和感も消え、あたりまえの何でもない場所に戻るはず。
 慣れというのは曲者だ。
 
   了
 




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