2023年01月31日

4752話 指魔物語


 村寺におかしな坊主がいる。坊主がおかしいのではなく、おかしな人が坊主になった。
 村寺としては結構大きい。そのため、何人もの僧侶がいる。おかしな坊主はその中の一人。実は大檀家、大檀那の縁者で、おかしなことをよく言うので、寺に預けられた。そして、そのまま僧侶になった。
 山門内にいる限り、世間に出るよりも、ましだろうという配慮。つまり、ややこしい人でもお寺の中で暮らす限り、それほど目立たない。
 それに、このおかしな坊主、人当たりもよく、暴れたりしない。ただ、言っていることが妙なので、世間では通じにくいだろう。
 このおかしな坊主、まるで悟ったようなことも言うし、また怪しげなものを見たとか、知っているとか、さらに世の中は実はこういう感じで存在しているのだとか、一寸浮き世離れしている。
 普通に暮らしている人にとり、あまり関係のない話。たまにそういう世界に触れる程度だが、これは祭りのようなもの。
 死後の世界がどうのとかは、それはあるものとして寺では扱っている。だから、色々と行事もあるのだろう。高い戒名代とかも。
 この寺は村寺なので、良心的。型通り弔う程度で、これをしないと、亡くなった人の縁者などが落ち着かない。
 この坊主、そういった実用的なことではなく、この世の始まりとかを言い出す。スケールが大きい。
 また死者と話したとか見たなら分かるが、化け物を見ている。ここが一寸妙なので、おかしなことを言う坊主とされる。
 これは坊主だから言うのではなく、幼い頃からそんな言動が多い。また本当に体験したと言っている。こういう子供は仏におすがりすれば、治るのではないかと親は思ったのだが、寺に入れても一向に治らない。
 そのうち、そういう冗談を言うお坊さんだと思われるようになり、それなりに認められた。要するに僧侶の中には変な人もいる程度に。
 言っていることは逸脱しているが、本人は僧侶の務めを一応やっており、支障はない。お勤めで問題を起こすようなことはない。
 人差し指と中指を一寸開いたときの隙間。そこを見るともなく見ると、向こう側のものが見えるのではなく、違うものが見えるらしい。
 その指の形で、人の顔を見ると、その人の実態が浮かび上がるらしい。それは獣だったりするということではない。
 そして実際には像は結んでいない。頭の中で見ているようなもの。幻覚といえばそれまでだが、それらしきものが見えるらしい。さらに人差し指と中指を隙間を狭めると、拡大するらしい。
 しかし、そういうものが見えるだけで、世間との繋がりはない。だから、見ているだけ。
 そういった話を集めたのが、指間物語。後に指魔物語として世に出たのだが、殆ど売れなかったようだ。
 
   了
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2023年01月30日

4751話 ややこしい話


 今、何処を走っているのだろう。
 歩いている、でもかまわない。それを三村はちょと引いて考えてみた。
 これは順調に進んでいるときでも、そうでないときでも、たまにそれを確認することがある。チェック項目の一つではないが、急にそう感じるのだ。
 三村はマラソンランナーではない。走っているのはいいが、歩いていると駄目だろう。健康のために走っている人なら問題はない。
 無理に走らなくてもいいし、途中で休憩してもいい。レースではないのだから。
 しかし、まるでレースでもしているかのように走っていることもある。一人芝居だ。
 また、解説が入ったりする。自分で入れているのだ。
 そういう歩くとか走るとかはどうでもよいことで、今、三村は何処にいて、何をしているのかが問題。これは実際に足で走っているわけでも、歩いているわけではない。物事に関しての話だ。
 そういえば昨日の今頃も、これをしていたなあと三村は思い出す。しかし十年前はしていなかったことも多い。
 そして、方向。これは昨日と同じ方向だが、十年前とは一寸違う。それは当然のことだろう。状況が変わったので、それに合わせる。その状況の中に三村の状況もある。外ではなく、内側の変化。
 それがミックスされ、なし崩し的に押しやられた方角へ向かっているようだと気付いた。
 気付きは大切だが、気付いただけで終わることも多い。それに、そういうことを思うのは良いときなのか悪いときなのかもよく分からない。何かの都合で、すっと引いてしまったときに感じる。
 そのとき、今の状態でいいのかとなることもあるし、この状態がやはりいいとなることもある。
 前方や左右を見ながら走っている。進んでいる。しかし、走っている自分の後ろ姿も見えていたりする。そんなところに目はない。自分越しに自分を見ているようなもの。しかも一寸高いところから。
 これは幽体離脱ではない。そして、実際にはそういう姿は見えないのだが、三村がいる情景を三村込みで後ろから見ている感じ。
 ややこしい話だ。
 これは過去を見ているわけではない。前方の展望を見ている。十年前には見ていなかった風景。
 しかし、もっと古くからあったものが、まだ、そこに残っており、今でも見えていたりする。
 過去も今も前方にあるように。
 ややこしい話だ。
 たまに三村はそんな状態になるのだが、それで特に変化はない。何も起こらないし、それが指針にもならない。ただのイメージのようなもの。
 たまには拡がりのあるところから、自分を見るような感じで、見るだけ。
 見て損はないが、それほど得もしない。
 ややこしい話だ。
 
   了
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2023年01月29日

4750話 知らんがな


 梅が峰に老師がいる、年を取った先生だ。色々なことを知っており、見識も高く、知恵もある。
 しかし、今は年をとりすぎたのか、梅が峰の庵から殆ど出ない。季候の良い土地で、陽当たりのいい山際という感じ。
 そのため、庵周辺を軽く散策する程度。ここも世間の内だが、人が行き交う場所ではない。花が咲き虫や鳥を見ている程度。当然遠くの山や空は見え方が変わるので、それだけでも飽きないようだ。
 城下からたまに人が訪ねて来る。老師から教えを請うため。しかし、そういう会のようなものがあるわけではなく、また弟子などもいない。
「先生は何が楽しみで生きていますか」
 この青年。人生とは楽しむものだと思っているのか、または、楽しみを見出すにはどうすればいいのかを聞きたいのだろう。気楽だ。
「苦しくなければそれでよろしい。ただ、痛いのは困るのう」
「何処が痛いところでも」
「年をとるとあちこち痛くなる。激痛でなければ何とかなるがな」
「先生は諸国をめぐり、色々なことを経験されたと聞きます。そういうものは役立つものですか」
「今は立たんが懐かしい。思い出としてな」
「私はこれから諸国行脚に出るのですが、何か助言はありますか」
「何もないよ」
「はい。世間をよく見て参ります」
「そうじゃな。若いうちはそれがよろしい」
「先生はずっとここに籠もりっきりですか」
「そうじゃな」
「また、旅に出たいとはお思いにならないのですか」
「もう充分すぎるほど旅をした。今はそれを思い出しているだけでいい」
「そうなのですか」
「ここでじっとしておるようでも、旅に出ておるようなもの。ただ、思い出しているだけじゃがな」
「お城の方々は塾を開いて欲しいと言ってます。殿様も聞きたいと言っておられるとか」
「話すようなことは何もない」
「でも、教えを請いたいのです」
「誰でも知っておることを言うだけなので、聞く必要もなかろう」
「しかし老師と呼ばれているのですから」
「そういう風貌だからさ」
「はあ」
「中は何も詰まっておらん。世間でよくある話しか入っておらんでな」
「隠しておられる。この世が何であるか、人とは何であるか、生きるとはどういうことかを」
「知らんがな」
「がな?」
 
   了
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2023年01月28日

4749話 喜怒哀楽


 快と不快がある。不快でなければ普通。快適だと快に近い。快寄りだ。気持ちがいい。
 快も不快もそれほど感じないのがいいだろう。今、気持ちが良いか悪いかなど考えていない状態。また感じていない状態。普通の状態。
 幸せと不幸せがある。これも不幸せでなければ幸せかとなるが、そうではなく、幸せも不幸も感じていないとき。こういうものはいちいち確認していない。
 快に走り過ぎると、不快側に出てしまったりしそうだが、その走り始めは快適だろう。まだ走りすぎではなく、行きすぎではなく、まだ過剰な気持ちよさではないので。
 それよりも、気持ちのいいことは良いことだ。それに対しての戒めもあるが、気持ちの悪いことに走る人は希だろう。
 これは他人から見れば気持ちが悪いことでも、本人は気持ちがいいのかもしれない。
 快には引力のようなものあり、そちらへ行きやすい。楽とかもそうだ。
 しかし、しんどいこと、不快なことでも、そこを通らなければ気持ちのいいところへは出られないとなると、これは不快なことでもやるだろう。快に繋がっているのなら。
 だから快という餌があるので、やる。この方がやりやすい。同じ嫌なことを嫌々ながらやるよりも。
 また快というのは欲の一つ。一つだから、欲にはもっと色々とある。
 快と同じで、欲も大きすぎたり、過剰すぎると、欲張りになり、その末路はよく知られている。
 また、欲張らないことも欲であり、欲を捨てることもまた欲。
 だから、ほどほどのところが良いのだが、これは欲だとは思っていないような状態。先ほどの快不快と同じで、快だとも思っていないし、不快だとも思っていないような状態。そういう意識が浮かんで来ない、気付かない状態。
 その人にとって、バランスが良いのだろう。欲張りではないし、我慢しているわけではない状態。決してそれは中間の状態ではなく、それさえも考えていない状態。
 しかし、欲とか快とかが一寸目立つとき、気が付いたりする。一寸押さえようかとか。
 幸不幸が交互に来たり、快不快も交互に来たりすると、その中間でじっとしている方が良いと思えなくもない、その中間は実は存在しない。
 両端があるので、中間が出来るだけ。これは人では到達できない境地だろう。悟りのようなものだ。
 大笑いし、大泣きする人の方が下手に感情をコントロールするよりも明快でいい。この明快も快なのだが。
 喜怒哀楽。それがないと生きている実感もないだろう。人間は感情の生き物でもあるらしいので。
 
   了

 
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2023年01月27日

4748話 龍足


 強い風が吹いている。これで雨なら傘は差せない。しかし、黒雲が動いている。その下は俄雨かもしれない。黒い靄の塊で、その輪郭はぼやけている。雲の中程から白くなっている。黒い部分はまるで影。
 その雲が流れていく。上空の風も強い。しかし太陽はさんさんと照っている。黒い雲は空のほんの一部。しかし、それが頭の上に来れば、逆転するだろう。
 しばらくすると、風が収まり、黒い雲も消えた。流れたのではなく、掻き消えたかのように急になくなった。
 坂田はそこまでじっと観察していたわけでなく、少し用事を済ませて空を見たとき、青空になっているのに気付く。
 雲が風を呼んだのか、風が雲を呼んだのか、それは分からない。龍がいて、それが黒雲を湧かせたのかもしれない。風も龍が呼んだのだろうか。それがただの青空になった時、もう龍はいない。
 この龍、何処から出てきたのだろう。しかし、そんなものが空にいると航空機は飛びにくいだろう。鳥と違い、大きいので。
 坂田は、こういう日は部屋に籠もり、大人しくしている方が良いと思っているのだが、用があるので仕方なしの外出。
 お陰で空のショーを見せて貰った。龍は出なかったが。昔の人は、こういうのを見て、何かを感じ、話を作ったのかもしれない。モデルとしてはいい。
 また、空で起こること、人は良く見ている。多数の人が。だから、ベースが出来ているのだ。珍しいものではなく、天気の変わり目などではよく見かける空の様子。
 どうも寒波が来ているようで、その第一波の風だろうか。気温は低くはないが、これから寒くなるはず。
 しかし、よく晴れた空になり、陽射しも眩しく、そして暖かい。
 坂田は寒波など来ないのではないかと思ったが予報では確実に来るし、既に寒波の影響で大雪が降っている地方もある。それが徐々に近付いて来ているのは確か。
 それよりも、先ほど、風が強かったときの上空。妙な雲が流れて行ったのだが、そこに龍の形を見たような気になった。そのときは龍などいないし、またそんな形のものなど見ていない。
 しかし、それを思い出したとき、そこに龍が加わった。
 蛇足ではなく、龍足だ。
 
   了
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2023年01月26日

4747話 曇天


 朝から雨が降りそうで降らない妙な天気。
 下田はこういう日はこういう日に起こりがちなことを感じる。何が起こるのかを感じたわけではない。ただ、起こりやすいことなら何となく分かる。頼りない話だ。
 曇天。町も暗い。目覚めたときの室内も晴れている日に比べて暗い。当然気持ちも暗いとなるわけではなく、そこは特に変化はない。
 逆にすんなりとした気分で、決してスッキリとはしていないが、意外とクリアー。これは拘るものが少ないのだろう。すっと起きて、すっと支度をし、出掛けた。
 だが、先ほどのこういう日に起こりがちな事が気になる。気分は悪くはないが、どこか重い。
 気が重いのではなく、気圧が重いのだろうか。これは気持ちではなく先に体に来るはずだが、低気圧の影響を下田は過敏に受けるタイプではない。ちょっと重いかな、程度。
 普通なのだが、一寸違う。微妙なところ。だから何か異変のようなものが起こるかもしれない。この異変も、一寸異なる程度の変化で、異変と呼べるほど大袈裟なものではない。ここも微妙だ。ほんの僅かなため。この程度は無視していい程度。
 下田は繊細な人間ではない。人が持っている繊細さ程度は持っているが、過敏ではない。
 しかし、こういう日にありがちな判断というのがある。その行動も。
 ただ逸脱するほどの判断にはならない。その範囲内。これも一寸判断がいつもとは違う程度。決して変わった判断や、間違った判断をするわけではない。
 病んでいるようで病んでなく、病んでいないようでいて病んでいるようなはっきりとしない状態。
 いつも妙なことをやる人なら、こんな日は標準的なものなり、いつもは普通のことしかしない人が、こんな日は一寸違うことをやってしまうような気が、こういう曇天の日に起こるのだろうか。
 しかし、その日の下田は意外とクールで、冷静。いつもはもう少しだけ張り切っている。特に朝は元気がいいので。
 天気ごときで気持ちまで変わってたまるものかとは思うものの、それに引っ張られるのは、空気だろう。そういう雰囲気の中にいるため。
 そういう経験からか、下田は、こういう日は大人しくしておこうと思うようにした。
 
   了

 
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2023年01月25日

4746話 そうですなあ


「急にまた寒くなりましたなあ」
「これは寒波ですよ」
「ああ、予報でありましたねえ」
「それが来ているんでしょ」
「道理で、寒いはずじゃ」
「でも、冬ならよくあることですよ」
「そうですなあ」
「ただでさえ寒い。だから、こういう寒波、たまに来ますが、おまけの寒さです」
「歓迎しないおまけですなあ」
「来てくれるなといっても来ますからね」
「願っても駄目ですな」
「願っても願わなくても、来るものは来ますよ」
「難儀だ」
「でも一寸寒いだけでしょ。それぐらいなら、取り立てて問題にするほどのことじゃない」
「そうですなあ」
「自然の摂理には逆らえぬ」
「そうですなあ」
「まあ、そのうち、寒さも引くでしょ。このままずっとこんな寒さが続くわけじゃない。数ヶ月後には初夏で、暑さが来るほどですから」
「そうですなあ」
「冬の寒さに耐える。これでしょ。しかし、我慢出来ないほどのことじゃない。暖かくしているか、寒いところに出掛けなければ、それほどのことではない。これは日常内ですよ。よくあること」
「そうですなあ」
「そのうち春がやってくる。暑い盛りの時は、そのうち涼しくなるって、思うのと同じですよ」
「そうですなあ」
「そればかりですねえ。あなた。私の独演会になってしまう。少しラリーを」
「そうですなあ」
「またですか。会話をしましょう。何か返して下さい」
「そうですなあ」
「故障しましたか」
「そうですなあ」
「じゃ、お大事に」
「そうですなあ」
 
   了
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2023年01月24日

4745話 なほとか村


 なほとか村。そんな村は存在しない。村木の頭の中だけにあるのか、または何処かで聞いたことがあり、忘れているだけなのか、それは分からないまま。
 しかし、なぜ「なほとか」なのか。そして、それは村。実在しない村だが、あるかもしれない。何処かで聞いたのなら。
 そして「なほとか」という言葉をどうして知ったのだろう。しかも村であることも。
「なほとか村」は忌み地で、行ってはならない村。古い因習が今も残っており、他の村とは明らかに違う。
 そして暗い。ここに住む人がいるのだが、自立した自給自足の村ではなく、他村や町との交流もある。そして、他村や町での評判はよくない。暗いのだ。そこに住んでいる村人が。
 ただ、一見して普通の村。かなり僻地にあり、その村から向こう側はもう何もない。山深い田舎の村で、その先はもう人は住んでいない。
 村木は子供の頃から「なほとか村」を知っている。それさえも遠い思い出のようなもので、今もそんな村があるとは言えない。それを何処で聞いたのは分からないが、遠い昔にあった村なのかもしれない。
 今、そんな僻地の村など、あったとしても、とうの昔に廃村になっているかもしれない。
 つまり村木の知っている「なほとか村」は、いつの時代の村なのかが特定出来ない。
 その村をたまに思い出すことがある。村での出来事とかではなく、村の名前だ。そして、その村で何があったのか、そんなことは知らない。
 分かっているのは村名と、村の全体像ぐらいで、いずれもそのへんにある村と、それほど変わらないだろう。しかし「なほとか」という村名が変わっている。
 そこからのただの連想なのかもしれない。いかがわしく妖しい。
 ただの言葉の語呂だけのことだったとしても、なぜ「なほとか」なのか。その意味よりも、どうして村木が知っているのか、しかも子供の頃から。
 そして、その情報源が分からない。
 まだ、物心が付くか付かないかの時期、誰かから聞いたのかもしれない。何かのお伽噺に出てくる村の可能性もある。
 または村木が言葉を覚えた頃に、言葉遊びで、色々と組み合わせて「なほとか」と並べた可能性もある。それに村を付け加えて「なほとか村」になったとか。
 しかし、たまに「なほとか村」を思い出したとき、ぞっとするようなものが走る。
 その全てが村木の想像上の村であったとしても、それは現実と変わらず存在している。ないのに存在している。ある可能性があるとしても。
 村木は生まれたところも育ったところも、普通の町。村とは関係がない。両親の先祖なら別だが、「なほとか村」のような村ではない。
 その「なほとか村」、村瀬に影響を与えているわけではない。ただ、思い出したとき、ぞっとする。闇の中からおぞましいものが出てきたように。
 
   了

  
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2023年01月23日

4744話 異世界の妖怪


 異世界に飛び、色々な体験をし、戻って来た。しかし、夢を見ていたのだと言われた。
 その異世界の石でもいいので、何かを持ち帰っておれば、何とかなったかもしれない。動かぬ証拠。
 ただ、その石、調べると何処にでもあるような石で、年代などを調べても、よくある石だった。ただ、何処の石なのかは分からない。これもいくらでも落ちていそうな場所があるためだろう。
 または何処から運ばれて来た石かもしれない。工事用に。
 箕田が異世界に行ったのは寝床中。これがいけない。即、夢だと思われてしまう。もっと別の場所、妙な世界にワープ出来そうな場所とか、何らかのパニック状態になり、現実世界から異世界へ突き抜けてしまったとか、そういうのが好ましいのだが、寝床の中では、寝ていたんだろ。夢を見ていたんだろと言われるのは当然だろう。
 そして夢の中からでも石は持って帰れない。夢の中で宝物を発見しても、持ち帰られない。
 しかし、夢の世界の中に異世界の入口があり、そこへ行ったのかもしれない。その手の話は物語の中ではよくある。
「夢と現実とが曖昧なのではなく、夢と異世界とかが曖昧なのですかな」
 相談を受けた妖怪博士は、箕田から様子を聞く。なぜ妖怪博士のところへ来たのだろう。異世界と妖怪とは満更無関係ではないが、来るところを間違えたのかもしれない。
「それで、その異世界で妖怪を見たと」
「はい」
 それなら、妖怪博士のところに来てもおかしくはない。ただ、この人、異世界についての話をあまりしない。その詳細を。だからどんな場所で、何があったのかも。
「どんな妖怪でしたかな」
「妖怪のような妖怪でした」
 これも答えていない。
「なぜ、異世界だと思われたのですか」
「いつもの夢とは違うからです」
「それは何処で気付かれました」
「夢から変なとこへ移行したと、すぐに分かりました」
「どんなところです」
「変なところです」
 これも答えていない。
「そこは何処だと思われますか」
「異世界だと」
 答えていない。
「それで、私にどうして欲しいのですかな」
「話を聞いて欲しいのです。そして異世界があることを知らせたいのです」
「どんな世界でしたかな」
「異世界でした」
 また、答えていない。
「それで、あなたはそこから戻って来られたのですね」
「はい」
「異世界へ行ったことで、何か変わりましたか」
「いいえ、でも」
「でも?」
「異世界体験です」
「え」
「異世界を体験したことがこれまでとは違います」
「どのようにですかな」
「異世界があったのだ認識するようになったことが変わった点です」
「で、その影響は」
「ありません」
「あ、そう」
「異世界があるのです」
「では、一つだけ、一寸したことでいいので、教えてくれませんか」
「何をですか」
「どんなところだったのか、チラッとでもいいので」
「はい」
「では続けて下さい」
「そこは」
「はい、そこは?」
「異世界でした」
 
   了
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2023年01月22日

4743話 猟奇に走る


 岩村はこのあと何もないことが分かった。特に用事がない。気になるような用事がない程度だが、それも気にしだすと気になるものだ。しかし、特に、というのがないので普段通りでいい。
 これは予定のようなもので、向こうからやってくる用事は、避けられるのなら、避けたいが、避けるだけのことではない程度なら、それに乗るだろう。
 また乗らないと、何度も何度もやって来るかもしれないので、それが面倒なため、片付けた方がいい。
 日々、色々な用事があり、それには期限や、約束の日時とかもあると、出かけないといけないし、向こうからやって来る場合は待機しないといけない。それだけでも時間を束縛されそうだが、数が多いと、それほど目立たない。数ある用件の中で特に目立つもの以外は。
 そんなことを岩村が考えていたのは、当分、そういう用事がないため。少なくても一週間ほど。
 場合によっては二週間か三週間は目立った用事はない。
 だが、目立たないが気になる用事はいくつかあるので、そんなときは、そちらをやるだろう。
 つまり、用事や用件をいくら果たしても、いくらでも出てくる。きりがない。
 しかし、そういうものがなければ間が持たない。ずっと座り続けたり、寝転がっているのは逆に苦痛になる。何かをやっている方がいい。これは楽なものを適当にこなす方がいい。
 しかし、下手に弄ると、パンドラの箱。時限爆弾のスイッチを押してしまい兼ねない。日常の中にもそういうものが含まおれている。それで家が吹っ飛ぶわけではないが。
 禁断のもの、開けてはいけないもの。そういうのがそれなりにある。暇だと開けたくなる。だから、つまらないことでもいいので、それなりの用事をこなしている方がいい。
 退屈だとか、刺激が欲しいと思うのは危険な気がする。刺激物なので、刺激があっていいのだが、刺激だけを求めるための行為は控えるべきだろう。
 これは岩村の教訓になっている。それで痛い目に何度かあっている。余計なことをやったばかりに、とでもない結果を招いた。
 あることをするため避けられなことなので、仕方なくひどい目に合うのなら、話は少しは分かる。
 しかし、刺激目的だけでは成果はない。刺激を得たことが成果だが、その刺激、気持ちの問題だけで終わればいいのだが、現実を変えてしまう。
 日常が如何に退屈であろうと、猟奇に走ってはならない。というのを何かの本で岩村は読んだことがある。
 
   了
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2023年01月21日

4742話 枯れ葉


 枯れ葉溜まり、寄せ集まり茶色く濁った落ち葉。風が寄せたのだろう。吹き溜まりと言うには直線上。路肩の段が堤防になるのか、その下が一番重なり合っている。古い順に奥に溜まる。
 桜庭は自転車のタイヤから僅かに聞き取れるカサカサさという音を聞く。スナック菓子を連想した。スカスカの駄菓子、その記憶の中の音と、枯れ葉をタイヤが踏む音とが重なり、音だけではなく、感触まで伝わってくる。
 上を見ると桜並木。既に枝だけ。しかし、落ち切れないのか、引っかかっているのか、強情な葉がまだ残っている。下で枯れきらないで、上で枯れきろうとしている。
 落ちなくても落ちた葉と同じような色になる。萎れすぎ、形は葉桜の頃のみずみずしさはなく、形も歪んでいる。
 桜が咲いたのは、ついこの前のことだと思えるほど、一気に時が流れた感はあるが、それなりの中味はある。一気でも一瞬でもない。まだ冬だが、花見の頃から連続した時の流れを感じているが、それは記憶にあるため。
 だが、桜を基点にした時間軸ではなく、それ以外の思い出の方が圧倒的に多い。ただ、思い出というには一年弱では近すぎる。
 桜庭は昨日もこの道路の路肩を自転車で走っていた。そのときはただ単に落ち葉が多いことは気付いていたが、それをタイヤで踏む感触などは無視していた。状態はきっと今日と同じだったのだが。
 桜並木近くの家の前で落ち葉を掃除している光景を見かけたが、最近は見ない。きりがないためか、もう落ちなくなったのか。
 公道の路肩までは管轄外なので、そこは自然に任せてある。
 この桜、取って付けたような自然だが、桜は桜の自然に従い、紅葉し、やがて葉は落ちる。春なら桜の花びらを落とす。これは最初は綺麗だ。上にある桜もいいが、下にある桜もいい。ただ、形は既になく、バラバラの花びら。そうでないと桜吹雪にはならない。
 その日、桜庭はなぜそんなことを思ったのだろう。昨日もその前の日も、そしてほぼ毎日のようにそこを通っているし、路肩の落ち葉など飽きるほど見ているのに。
 だから偶然だろう。しかし、そのきっかけがない。注目する何かがないまま、落ち葉を意識した。これはきっと桜の枯れ葉からではなく、桜庭側にあるのだろう。
 何かが一段落し、一寸息をついても良い日だった。それで、そんな余計なことを思うゆとりができたのかもしれない。
 当然のことながら、桜庭はその道を次の日も通ったが、もうそんな感慨は消えていた。
 
   了

  
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2023年01月20日

4741話 達成感


 岸本は一寸したことを達成した。そのため、その翌日は、それなりにいい気分で、一日が始まった。
 別に何もしなくても真っ白な一日が始まるのだが、決して白紙ではない。起きたときはそうかもしれないが、すぐに白紙に色々なものが現れる。
 これが出なければ自分という連続性のようなものがなくなり、大変だろう。記憶喪失のように。
 だから、色々な含みが連続している。そう感じるだけだが、それを抜くことはできない。名前さえ分からないのなら不便だろう。
 それで達成感を昨日得たのだが、これは達成出来るかどうかは不安だった。これは失敗するかもしれないと感じていたが、何とか果たせた。
 もしそれが失敗に終わっておれば、今朝の清々しさはない。成し遂げたという安堵感も。そして余裕も。
 だが、もし達成していなかったとすれば、どうなるのか。確かに残念さが翌日も残るのだが、そんなものかと思うだろう。
 何でもかんでも上手く行くわけではなく、残念な結果に終わることの方が多いと。
 それで、そんなとき、岸本はまたチャレンジするチャンスができるので、挑む気持ちの方を出す。
 出すというよりも、出るのだろう。やることがまた出来たとばかりに。
 なかなか果たせないでいることを果たせたときほど達成感は大きい。してやったりとなる。だから、未達成も悪くはない。
 簡単にできることなら、達成感そのものがそもそも小さくなるし、ないかもしれない。日常業務のようなもので、できて当たり前になる。そこでもそれなりの達成感はあるにはあるが、言うほどのことではない。
 しかし、岸本の今回の達成感は、やや不満。達成出来たことだけで由とすべきなのだが、達成感にも程度があり、レベルがある。
 いずれも未達成よりは遙かにいい。そのため、やや不満でも、いい朝を迎えている。これだけで、充分なはず。それ以上は欲というもので、翌日の気持ちよさだけなら、それほど差はない。
 そして、昨日は一度失敗したものに挑み、何とかクリア出来たので、これは満足度が高いはず。思い出すと、何度か失敗していた。だから達成率は低い。それを達成出来たのだから満更ではないはず。
 過去、達成出来なかったものを色々と考えると、あまり共通点はないようだ。ただ、向かい方、姿勢などが影響している。今、その時期としては早すぎるとか、そんなことが原因になっていたりするし、またこれなら絶対に上手くいくと頭から思っていたことほどこけやすい。なめてかかっているわけではないが。
 さらに岸本は分析すると、偶然が多い。真の原因は偶然の成せる技だったりする。タイミングもいいのだろう。
 前回大成功で、達成感も並以上の場合、次回もそうだろうと思うと、そうではなかったりする。これは期待しすぎるためだろう。
 これも、そのものに何かを追加しているためで、白紙の状態ではない。
 岸本はここで、受け止め方が大事だと思うようになる。達成しなくても、それをどう受け止めるかだ。達成しても、そのあとの受け止め方。ここを調整出来るようになれば、大したものだろう。
 しかし、達成出来れば、素直に喜び、未達成なら素直に残念がるのも悪くはない。その方が分かりやすい。
 
   了

 
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2023年01月19日

4740話 惰性


 前日の続き。昨日の続きをやる。これは安定している。ただし、昨日、それなりにうまくいった場合だ。
 昨日、厳しければ、今日は違う方法を考えたりするだろう。しかし、我慢してやればやれないことはない。
 ダメージの程合いが分かっているので、その程度で済めば、まあいいかとなる。しかし、できれば違うことがしたい。それは一寸した冒険。
 だが、冒険ではなく、かなり安易なことに落とせば、昨日よりは楽。しかし、成果はあまり期待出来ないし、以前よくやっていたことなら、それ以上の伸び代がないことも分かっている。
 さて、どうするか。
 木下は考えた。昨日はしんどかった。しかし、これをやり遂げないと、先へは進めない。だから、今日もそれをやり、少しでも先へと進みたい。
 では、その先に何があるのか。実はそれも冒険で、期待はしているが、どういう結果になるのかは分からない。だから過程にしか過ぎないが、その過程の方が実は多い。
 それで、過程を楽しむようにしたのだが、昨日は楽しめなかった。悪路だ。
 楽な道もあるのだが、過程は楽で楽しめるが、なぜか物足りなさもある。越える山が低すぎて、頼りない。少しは歯応えではないが、足応えが欲しい。一寸足が重く、痛くなる程度の。
 実は、それを昨日やっていたのだ。歯応えがあった。これは一寸苦しいので、歯ではなく、足に来た。
 昨日はしんどかったが、今日はそのしんどさにも少しは慣れているだろう。そして明日になれば、少しはましになる。
 だから、続けた方がいい。分かっている苦しさなので、これは安定している。未知ではない。昨日やっていたのだから。
 しかし、たまには気晴らしも必要で、昨日とは違うことを少しはやってみたいと思う。思っているだけで、なかなか実行出来ないのは、いつものことをやる方がやりやすいため。惰性のようなもの。だから惰力がある。
 これは後ろから押してくれるようなもの。あまり考えなくてもいい。惰性とは癖のようなもの。慣れてくると、そればかりやるようなもの。やり癖ができる。
 それは木下の事情も反映している。なし崩し的にそうなったような。これは過去からの積み重ねで、そちらへ進むのが自然な感じになる。
 頭でしっかりと考えたわけではなく、体がそのように動いてしまうとか、気分的にそちらへと傾くとかで、基本ベースから押し出されている感じ。
 だから、昨日はしんどかったので、同じことを今日はしたくないが、やはり引っ張られてしまう。つまり昨日の続きへと。
 これはしんどいことが分かっているので、避けたいはずだが、慣れたしんどさなので、何とかなるのだろう。そのうちよくなると。
 この木下の惰性。いつの間にかベースになっている。
 惰性は本性ではない。生まれながらの性格のようなものもあるが、それは傾向。その後、その生まれつきのものの上に経験とかが付け加えられるのだろう。
 ただの惰性、ただの癖なのだが、これが本流かもしれないと、木下は勝手に解釈し、昨日と同じことを今日もやることにした。
 しかし、この癖、それなりに修正されたり、改良が加えられるようだ。
 
   了
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2023年01月18日

4739話 助太刀


 富田村は大きな村で、その一角に町家がある。
 その長屋に棲み着いた浪人の作田に便りが届いた。知り合いの若い武士からで浪人ではない。
 作田は文面を見たときは既に遅い。便りが届くのが一日遅かった。もし、一日前に来ておれば、駆けつけられた。
 仇討ち。
 富田村からは半日で行ける城下の外れの森。作田も知っている場所だ。
 その武士、まだ若い。作田が剣術道場にいた頃、可愛がった青年だ。しかし、彼が仇討ちをするわけではなく、助太刀。
 相手は数が多い。そこで青年は先生でもある作田にも手伝って欲しいといってきたのだ。助太刀の助太刀。
 作田は道場にいた頃は、居候のようなもので、師範代よりは弱い。
 道場破りなどが来たとき、作田がよく起用された。門弟に怪我をさせたくなかったのだろう。
 ただ、作田は道場破りと戦って負けたことはない。しかし、師範代よりも弱い。これは試したことがある。作田の負け。
 だが、青年は知っていた。作田は無理に負けているのだと。そうでないと、この道場に居られなくなる恐れがあるため。
 師範代としての面目がある。それを立て続けたが、何処かでバレたのだろう。それで、居心地が悪くなり、旅に出た。そしてやっと落ち着いたのが富田村。
 町家だが、歓楽施設もあり、その用心棒のようなもの。
「先生、お頼みします」とか「先生を呼んでこい」とかで、作田の登場となる。相手は武士の場合もあるが、作田は大柄で、顔も厳つい。それに長い目の太刀を差しており、これを見ただけでも手強そうなので、斬り合いにはならない。
 さて、先ほどの手紙。もう今頃は仇討ちも終わっているはず。だから行っても、何ともならないのだが、その青年が上手く助太刀を果たしたのかどうかも気になる。
 それで、すぐに城下外れの森へ行く。まだ、何か残っているかもしれないし、城下でも話題になっているはず。青年の安否も分かるだろう。
 城下外れの森。一本の銀杏の大木があり、その下でおこわなれたはず。
 先ずは、銀杏の下。作田は、噂話よりも、まずは現場を見た。
 木の下は草が生えているが、地面も見える。ここで争ったのなら、草が曲がっていたり、土にその痕跡ぐらいは残っているはず。もし斬り合ったのなら血の跡も見付かるかもしれない。
 だが、それらしきものはない。
 城下に戻り、店先などで仇討ちの話を聞くが、そんなことがあったことは誰も知らないよう。
 その城下に、その青年の一家が住む屋敷があるので、怖々、そこを訪ねた。悪い状態なら面倒なことになる。それに見るからに浪人者。それなりの挨拶もしずらい。
 そして屋敷前。小さな橋が疎水に架かっている。葬式にはなっていないようだ。
 人の出入りも確認したが、静か。
 これぐらいでいいだろうと、作田は引き上げることにした。城下で聞いた通り、仇討ちなどなかったのだ。
 富田村に戻ったとき、長屋の者が手紙を持ってきた。留守の間に来ていたのだろう。
 あの青年のものからで、仇討ちは中止になったと書かれていた。
 作田はほっとした。
 
   了
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2023年01月17日

4738話 イノシシの妖怪


 妖怪博士が、たまに行く御札貼りの仕事がある。その日は石川氏宅。一人暮らしの隠居さんで家族は近くのマンションに住んでいる。このマンション、石川氏の物件。
 石川邸は古い。平屋の日本家屋。敷地も広く、部屋数も多い。
 石川氏は産まれたときから、その屋敷に住んでおり、若い頃に出て、その後も何度か引っ越したが、仕事も終え、もう引き籠もってもいいので、実家に戻ったわけだ。
 古いので、取り壊しは時間の問題だが、石川氏が生きている間は、大丈夫だろう。造りがしっかりしており、それなりに修理はしてあるのだが、それ以上弄ることはもうない。これはきりがないため。
 そのため、壁の一部が落ちている箇所もある。これは物入れとして使っている部屋なので、覗き込まないと見えないほど。軽く板を張り付けてある。これは石川氏が張ったもの。
 妖怪博士はそこに御札を貼りに来る。ここから妖怪が湧き出すため、石川氏が張った板の上にその御札を貼る。
 それだけの仕事なので、楽といえば楽で、すぐに済んでしまう。
 家族が多かった時代の茶の間がそのまま残っており、そこが今は客間となっている。石川氏は庭に面した部屋を使っており、寝起きもその部屋。何間もあるが下手に使うと掃除が面倒なため。
 その茶の間で雑談が始まる。月参りの坊さんと一寸話すような感じだが、石川氏は妖怪博士と話すのが好きなようで、上等な茶菓子が用意されている。このあたりで有名な井の頭最中。
 しかし、二つも三つも食べられるわけではない。それに一つが大きい。
「やはり妖怪は内にいるものなのですか、博士」
「そうとも言えますなあ」
「じゃ、この屋敷に出る妖怪は私が沸かしているのでしょうなあ」
「さあ、それはどちらとも言えませんが、最近はどうですかな」
「あの御札を貼ってから減りました。しかし出るには出るのです」
「イノシシのような化け物ですね」
「そうです。よく見れば可愛い」
「可愛いタイプの妖怪でよかったですよ」
「そうですな。しかし、気味が悪い。そんなものが座敷でウロウロするんですから。ある日など、座敷の端にいる妖怪が私に向かって突っ込んできましたよ。体当たりですよ。しかし、何も感じなかった。私が透明なのか、妖怪が透明なのか、そこのところはよく分かりません。これも私の頭の中だけで起こったことなんでしょうねえ」
「はいはい、そうとは限りませんが、他に見た人はいないのでしょ」
「祖父が見ております」
「古い家ですからねえ」
「私も子供の頃に一度だけ見ました。そのあと、ここを出て、戻ってきたのは最近です」
「その間、この屋敷は」
「伯父が住んでいましたが、亡くなりました。そんな妖怪の話など、聞きません」
「はいはい、そのお話、以前にも聞きましたね」
「やはり私の頭の中だけにいるバケモノでしょうか」
「それを言えば、皆さん、私も含めて頭の中の世界で生きているようなものですがね」
「でも、同じものを見ている」
「そうですね。ただ、同じようには見えないか、またはまったく見えないか、その人にしか見えないものもあるのでしょうねえ」
「困った話ですねえ」
「石川さんには妖怪として見える。それだけですよ」
「特殊な能力でしょうか」
「いえいえ、そういうものがいるわけではありませんから。見えるも見えないもないのですよ」
「はあ」
「毎回ややこしい話ばかりで恐縮です」
「いえいえ、興味深い話です。私は好きです」
「まあ、妖怪でよかったですよ。別のものじゃなく」
「博士の御札で、出る回数が減りました」
「いえいえ」
「どうぞ、井の頭最中、もう一つ」
「いいい、いえ、あ、はい頂戴します」
 妖怪博士は二つは無理なので、持ち帰ることにした。
 
   了

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2023年01月16日

4737話 楽しみ


 先々の楽しみは向こうからやって来ることもあるが、自分で探さないとやって来ないこともある。
 そのため、何らかのアンテナを立て、楽しみとなるものを待ち受けることになる。
 これは自然にやっているだろう。しかし、疎かにすると、もうその先々の楽しみも見えて来ないし、やって来ない。
 しかし、予定していた楽しみが来ているときも、すぐに実行するのをためらう場合がある。今、その時ではないとか、その気分にはならないとかで。
 それで放置している楽しみネタもある。そのうち、とうが立ち、賞味期限が切れるかもしれない。
 そして実行しやすい楽しみは、ほどほどのもので、一寸した楽しみだろうか。これなら気楽に楽しめる。大作ではなく。
 大作は実行しにくい。岸和田はそれに気付いた。これは楽しいことであり、楽しみなので、是が非でもやらないといけないことではない。
 またそれはおまけのような行為で、しなくても誰も困らない。岸和田自身も。しかし、そこに楽しいことがあるのは確かで、それを実行しないのは惜しい。
 また、大作だけに、それをやってしまうと、当分もう大作は来ないだろう。だから大作の扱いは慎重になる。
 辛いことを実行するのもしんどいが、楽しいことを実行するのもそれなりにしんどい面がある。
 また、確実に楽しいものであるかどうかは微妙なところ。タイミングが悪ければ、なぜか虚しい。
 先々の楽しみになると思っていた頃がピークだったのかもしれない。それが来ると、待ってましたとなる。
 すぐに実行すればピークはまだ去っていない。後回しにしたり、放置すると、ピークが去ることもある。逆に忘れた頃に実行すると、思っていた以上によかったりすることもあるが。
 また、楽しいことは祭りのようなもので、祭りの後の虚しさというのがある。祭りをしなければ、そんな心境にはならない。これはリスクではない。
 また、祭りの後、虚しさではなく楽しさだけが尾を引き、また似たような祭りをやろうと次のを探すが、待つことになる。いい余韻だ。
 しかし、連日の祭りは過剰。たまにだからいい。その、たまの間隔は決まっていない。そろそろかなという程度だろうか。
 岸和田はさらに考える。それは楽しむことに対する罪悪感のようなもの。時期的にもそんなことをして楽しんでいる場合かとなることもある。
 ただ、手放しで楽しめる状況というのはそれほど多くはない。受け皿の方に問題があり、楽しめない場合だ。そういうとき、無理に楽しんでも、結構虚しいもの。
 楽しむのも難しいものだと、岸和田は感じた。
 
   了

 
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2023年01月15日

4736話 流れ


 そうなるような流れがある。一寸した流れの変化で、その後、出て来ないものと遭遇するのだが、これは出合うべきして出合ったような感もある。
 そのような流れを作った覚えはないのだが、その流れに押し出され、展開が変わり、思わぬところに出てしまう。最初からそこへ行こうとしていたわけではなく、実は避けていた。
 しかし、その手前の流れがあり、それに乗ってしまったのだ。その、さらに前の流れがあり、そのあたりから、そっちへ行くことがまるで決まっていたかのように。
「運命論ですか、竹田君。君にしては珍しい。そういうのは研究対象にはなりません。だから、考えるのをやめなさい」
「主任にそう言われるのも、もう最初から決まっていたような話ですねえ」
「まだ、運命論を言っているのですか」
「そういうことも、決まっているのです。二回、そういう注意を受けるのも」
「ほう、では君がそう答えるというのも決まっているですか」
「そうです」
「そりゃ重症だ」
「その重症という言葉を聞くことも、決まっているのです」
「冗談はそれぐらいにしておきなさい」
「はい。でも、たまには、そういうこともあるでしょ」
「そうですねえ。偶然の流れと言ってしまえばはそれまでの話ですが、これはできすぎていると思われることも確かにありますねえ」
「ほら、主任も」
「しかし、そういうものを扱っても、何ともならないと思いますよ」
「何かの導きですか」
「いやいや、誰もそうなるように仕込んでいるわけじゃありません。最初から決まっているのですよ。あ、妙なことを言ってしまった。竹田君よりも重症だ」
「じゃ、あるんだ」
「しかしねえ、竹田君。全部が全部そうだと思い、その流れに任せておくと、とんでもないことになりますよ。間違った流れだったりしますし、大事な意味での流れではない場合もね」
「その間違った流れも最初からそれに乗るように決まっているんじゃないのですか。そこを経ないと、次の流れに乗れないとか」
「きりがないねえ」
「そうですねえ」
「さあ、そんな余計なことを考えないで、今の研究を続けなさい」
「あ、はい。それも流れなんですね」
「またまた」
 
   了
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2023年01月14日

4735話 ハプニング


 冬の青い空。少しグラデーションがかかり、濃淡が滑らかに引き延ばされている。青墨を刷毛で撫でたように。
 冬の寒空の印象がないのは陽射しが来ており、しかも西日の斜光。これが塀にいい角度で当たり、より輝きを見せている。ただの反射なのだが、塀にそんな明るい色が付いていたのかと思うほど。
 寒いはずだが、西日が暖かい。西田はそれを背に受けている。そんなことを思うのは余裕があるためか、または元気なためかもしれない。
 この元気さは勢い。気に勢いがあり、積極的に何かをやりたい気になる程度。要するにやる気が出ている。気力満々とまでは行かないが、いい案配だ。
 西田は一寸したイベントのようなものをこなしたあと。
 これが少しだけプレッシャーがあったのだが、それが抜けた。そのせいもある。西日だけではなく。それが重なったのだろう。
 もし、そのイベントのようなものからの帰り道、西日ではなく、雨が降っていたとすれば、また違っていたはず。やはり揃わないと。
 そのイベントのようなもの。少しだけハプニングがあった。予定にない事が起こった。
 しかし、その可能性は分かっていた。だから驚くほどのことではないが、できれば避けたかったこと。
 そのハプニングのようなものも悪い結果ではなく、良い結果に終わったので、難なきを得たどころか、いい案配で終わった。そのハプニングのようなものが起こらなかったときよりも。
 しかし、ハプニングなので、結果が分かりにくい。とんでもないことが起こる可能性もある。だから安全地帯ではない。
 敢えて虎の尾を踏むかもしれないのだ。しかし、結果的には人懐っこい猫だった。
 それで、戻り道の青空を見たとき、先ほどのことも重なり、いい感じになっていた。
 この感覚は長くは続かないのだが、それなりに覚えているはず。今回はよかったが、悪かった場合も覚えている。
 そういうことが過去にあるので、プレッシャーがかかる。そして、今後もそれはあり続ける。
 イベントのようなもの。それは何か芸をするわけではない。日常の中のワンシーンとして定期的に発生するような行事のようなもの。
 決まり切った動きなら問題はないが、たまにハプニングが起こる。だから同じ日常事だが、一寸扱いが面倒。
 しかし、いつもの日常事の中で起こる本当のハプニングもあり、こちらの方が意外性があり、驚きも大きいだろう。
 ハプニングが予想されるイベント。これはある程度分かっているので、その心づもりで臨むので、意外性は少ないかもしれない。
 西田は、そんなことを思いながら、後方の西の空を見ると、眩しかった太陽も、そうではなくなりかけていた。
 
   了
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2023年01月13日

4734話 初詣


「寒くなりましたなあ」
「今日は寒いです。昨日よりも」
「明日はもっと寒くなりそうですねえ」
「まだ、真冬は越えていませんから、もっともっと寒くなりますよ」
「冬越えですなあ」
「そうですね。年越ししたばかりなのに」
「夏越えもありましたなあ」
「暑くて大変でした」
「春越えとか秋越えはありませんなあ」
「あるんじゃないですか。でも、分かりにくい。それに越すと言うほどではなく、過ごしている程度です」
「寒くて、ここに来るだけで精一杯です。初詣も近所の神社で済ませました。それでも寒かったです。でも焚き火をやってましてねえ。これは憩えた。焚き火にあたるなんて、年に一回ぐらい。私が子供の頃は、よくやってましたよ。ついでに芋を投げ込んで焼き芋。皮が焦げて硬くてねえ」
「でもここは暖房が効いているので、暖かいでしょ」
「そうですなあ。コートを脱がないと焼き芋です。でも外に出ると、コートを着ていても寒い」
「ここはいいですねえ。常春です」
「やはり春が過ごしやすいのでしょうなあ」
「そうですね」
「でも春は眠くなります。季候が良いとね。春の入口あたりが程良いです。それほど寒くありませんからね。頭もしっかりとしています。暑いと頭もダレます。まあ、その方がいいのですがね」
「このあと、どうされます。そのまま出掛けますか」
「いやいや、ここまで来るだけで一杯一杯なので」
「そうですか。私は初詣に行きます」
「正月なんて、もうかなりすぎていますよ」
「今年、初めて参るので、初詣です」
「ああ、でもまだ一月。これは正月の月ですから、まあ、遅くはありませんな」
「正月三が日は混雑していますしね。四日目でもまだ人が多い。今日あたりが丁度です。しかし、誰もいない神社なので、本当は関係はないのですがね」
「誰も来ないのですか」
「そうです」
「神社でしょ。いくら小さくても、近所の人ぐらいはお参りに来るでしょ」
「いや、神社とは分からない。そんな建物はありません。祠もありません」
「でも、どうしてそれが神社だと分かったのですか」
「注連縄ですよ」
「あの藁の紐ですか」
「木の切り株に回してあるんです」
「じゃ、神社ではなく、神木ですなあ」
「そうです。神社の境内なんかにもありますが、そこの神木、それしかないのです」
「切り株ですか」
「相当な太さです。だから巨木だったのでしょうねえ」
「でも注連縄を巻く人がいるのですから、それなりに知られているんじゃないですか」
「そうですねえ。でも初詣としてはねえ」
「あなた、そんなものを信仰しているのですか」
「いやいや、素朴でいいので」
「願い事をすれば、すいているので、効きそうですねえ。神様も暇そうにしてそうですし」
「いや、願い事はしません」
「お賽銭は」
「賽銭箱がありません。でも根本に一円玉が落ちていたりしますから、お参りする人もいるんでしょう」
「それを見に行くだけの初詣ですか」
「そうです。凝ったことはしません。ちらっと見ただけで、戻ります」
「そんなところで初詣、これって、かなり凝ってますよ」
「そうですねえ」
 
   了
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2023年01月12日

4733話 落ち着く


 何もしないで、じっと座っていると、落ち着くはずだが、逆に落ち着かない。何かをやっている時の方が落ちが付く。この何かが「落ち」なのだ。だからそのやっていることで落ち着く。
 もっと言えば落ち着く方が難しく、落ち着けるはずなのだが、落ち着けない。これはやることがないため。
 だから、ここでのやることとは落ち着くこと。これは落ち着くことを狙っている。狙って落ち着こうとしている。
 それでもパニックになりそうな時、まずは落ち着いて、となるはず。だが、緊急の場合は、落ち着いている場合ではないだろう。
 ただ、物事を考える時、落ち着いて考えた方がいい。先ずは落ち着くこと。これは緊急事ではない。
 それに実行までに間があり、考える時間があるとか。または実行を伴わない、何かの思案ごとの場合なども。
 それよりも何かをやっている時の方が落ち着いたりする。また、何かをやりながら考えた方がよかったりする。
 落ち着きのない人は、色々と目まぐるしく変えたり、一箇所にいなかったりと、その振る舞いを言っているのだろう。しかし、それをやっている人は、それなりに理由があり、バタバタしているように見えても理にかなっていたりする。ただし、本人だけだが。
 逆にバタバタし、落ち着きのない人が止まった時、凄い落ち着き方になるかもしれない。
 落ち着く場所。落ち着ける場所。それは場所や行為ではないのかもしれない。
 落ち着いて何かをやっている。これだろう。一番いいのは。
 だから、何をやっている時が一番落ち着けますかなどの質問もある。やっているのだ。何かを。
 じっと座っているのも、落ち着けるが、そう長くは続かない。
 さらに凄いのは、何をやっていても全部落ち着いた態度でやっていることだろう。これが最高ランクかもしれない。
 あまり自分が前面に出てきて、あれやこれやと指令しない時かもしれない。だからとっさの場合でも考える前に反応していたりしそうだ。これを冷静というのかどうかは分からないが。
 当然、今までバタバタしすぎて、落ち着きのないことばかりが続くと、一寸落ち着いた時、本当に落ち着けたりしそうだ。落ち着きを取り置いていたのだ。滅多に使わないで。
 平常に戻れたので、落ち着けたというのもある。
 
   了

 
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