2023年03月31日
4809話 ある花見
春本番、満開の桜。昨日まで雨だったのが、それが上がり、花見日和。
その明るさとは裏腹に、坂上は暗かった。悪いことが重なり、花見どころではない。その悪いことは先々続く。こういうのを坂上は常に待っている。
その心配事が終わったとき、心配するようなことではなかったと、取り越し苦労だったことが分かるのだが、それが続いている間は、そうは思わない。
悪いことが続くと、良い事が一つポツンと入るはず。そんな期待はしていないし、どういう良い事なのかも想像していない。
そのポツンとが来た。これがおそらくそうだろうというもので、滅多にないこと。一度か二度はあったのだが、もう来ないと思っていたのが来た。
すると、悪いことが重なるのもいいことだと思ってしまう。良い事が起こる前触れなのだ。しかし、それとは関係のないものが来ているので、まだ続いている悪いことの解決にはならないが。
しかし、その悪いこと。思っているほど大したことではないような気がしてきた。それは青空に映える桜を見たためだろうか。そしてそれを眺めている人々の陽気をもらったのか、坂上にもそれが移ったようになり、まさに気が晴れてきた。悪いことは確かに続いているのだが、それが薄まった。
その後は陽気に振る舞うようになったわけではなく、陰気が静まった程度。つまりニュートラルだろう。陰と陽のどちらにも傾いていないわけではないが、極端な振り方をしていない程度。
だから、良いことがあったのだが、その盛り上がりも小さい。静かな盛り上がり。
それらは坂上が勝手に思っているだけの世界で、全てが坂上の解釈次第。しかし、大きく外れているわけではない。
良いことが起こったとき、坂上はそれについて考えてみた。これは予定にはないし、ずっと望んでいたことではない。その予兆もなかった。いきなり来た。だから、坂上の知らないところで、静かに進行していたのだろう。
悪いこともそうだ。水面下で進行しているのだろう。気付かない方がいいのかもしれない。
坂上は予定に反して云々というのを意外と多く体験している。坂上が勝手に思っている世界とは違うことが起こる。
それで今年の桜、ただ、何となく眺めているだけの花見になった。バランスがいいのか悪いのか、よく分からない。
了
2023年03月30日
4808話 桜の道
満開の桜並木。上田はその下を歩いている、桜には興味はない。いつも通る歩道なので、通っているだけ。
しかし、見事な桜並木なので、それを目当てに歩いている散歩者がいる。複数だ。普段は見かけない。
その分、歩道に人が多い。いつもなら歩道に誰もいないときがあるほど。それほど車も人も、そこをあまり通っていない場所なのだ。
高架が走っており、その左右に車道と歩道。高架が出来てから出来た道。当然、上の高架がメインで、下の道はおまけ。そのため、必要性の少ない道。近所の人にとっては便利だが、始終外に出ているわけではない。
上田が毎日、そこを通るのは仕事場への近道のため。
しかし、今日はまるで花見の人のように思われたりする。カジュアルな服装のためだ。
そして満開の桜。嫌でも目に入る。まるで花道。舞台としては春そのもの。上田も満更悪い気はしないが、この派手さが嫌なのだ。なぜか賑々しい。それにこれから嫌な仕事場で嫌な仕事をしないといけない。だから途中の道は地味な方がいい。
実際には普段は地味だ。しかし、桜が咲く頃だけは派手。
紅葉シーズンになると再び桜の葉が色付き、派手に見えるが、花ほどではない。これは消えゆく葉、亡び行くものを見る思いなので。
しかし、今は満開、一番派手な頃。こういう舞台、花の道で思わぬ人と遭遇するもの。まるで取って付けたように。そして無いような偶然。まるでそういう筋書きが最初からあったかのように。
実際、それが起こった。絵に描いたような風景、そして作ったこと丸出しの人との遭遇話。出来すぎているので、不自然。
しかし、向こうから来る人はそれに該当する。これが来たか、という感じだ。
桜の精霊の悪戯だろうか。演出だろうか。そのシナリオを上田は受け取りたくない。既に書き出しを見てしまったが。
上田は次の枝道に入ろうとした。そこに近付くに従い、その人との距離が近くなる。上田は気付いているが、その人は気付いていない。今なら逃げられる。
しかし、もう少し進まないと枝道には入れない。
そこで上田は少し早歩きする。これで気付かれる時間が短くなる。
そして、無事、枝道に入り、難を避けた。
そして住宅地の入り組んだ道をくぐり抜け、桜並木が途切れたあたりへ出た。回り道をし、元と道に戻ったのだ。
桜の精、とんでもない悪戯をする。あの人とここで会えば百年目。そんな感じの人だ。
しかし、良く考えると、それに該当する人のはずだが、そんな人がいたのだろうかと疑問に思った。再会すると気まずい人はいるが、逃げるほどのことではない。だからそのクラスの人間はいないのだ。
桜の精がそういうキャラを無理とに拵えて、ポンと前に出したのかもしれない。悪い奴だ。
上田は少し遅れたが、無事に仕事場に着いた。しかし、なぜか、あのまま真っ直ぐに歩き、あの人と遭遇していた方がよかったのではないかと思った。
了
2023年03月29日
4807話 赤布の戦い
狙うと失敗する。特に二匹目のドジョウは。
島原はしまったと思った。やはり柳の下には二匹目のドジョウはいない。最初はいたのだが、次はいなかった。
それからしばらくして行くと、いる。他の川縁にはいないが、柳の木の下にいる。
柳の枝は垂れている。その先が川面に接している。そういう柳でないとドジョウはいない。しかし、毎回いるわけではない。だが、他の場所よりもいることは確か。
だから柳の下にいる確率が他よりも高いので、そこが狙い目になる。
しかし、狙っていてもいないときが多くなり、もう狙い目にはならなくなる。違う場所や違うポイントを探す必要がある。
島原はドジョウ捕りではない。物事を見抜き、狙いを外さない人間。的確さがある。的を外さない。それは狙い所を知っているため。だが、たまにはズレることがある。だから狙い目を変えないといけなくなる。
いつもいつも願った通りにはならないのだ。狙いが狂ったのか、逸れたか、流れが変わったのか、それは実際に当たってみないと分からない。
外れれば失敗。しかし、踏んでみてやっと分かる情報だろう。観察しているだけでは分からない。
狙うことはいいのだが、狙いすぎると、当たる物でも当たらなかったりする。先読みしすぎるのだ。
一番いいのは偶然当たること。偶然なので、読めないし、失敗することの方が多い。それに偶然に頼るのは無策。やはり狙う方が、確率が高い。外れてもその近くのものを得られたりする。
その戦国大名の側近や旗本衆の中に島原一坊がいる。武士ではない。僧侶ではない。山伏を上品にした感じの祈祷師のようなもの。しかし役職は軍師。ただ、作戦を練ったり決めたりするわけではない。
それはしなくてもいい。占い師でもあるのだが、出陣前に仕事がある。今回の戦い、吉と出るか凶と出るかを占うのだ。答えは最初から決まっている。吉だ。
儀式のようなもので、これは占いではない。吉と出たのだから勝ち戦、縁起がいい。それで鼓舞する程度。
また島原一坊は楽隊のようなものの指揮者でもある。笛や太鼓や鉦で鼓舞する。そのままだ。
戦いが始まり、そして膠着した。殿様は焦り、重臣達の意見を聞く。しかし、誰もこれといった方針がない。策がない。そのための軍師がいることなど誰も気付いていない。島原一坊が軍師なのだが、誰もそうだとは思っていない。
重臣達が答えられないので、殿様は軍師を呼んだ。一番先に呼ぶべきだろう。しかし、ただの占い師で、しかも決まったことしか言わないのだから、占いでも何でもない。
ただ、もう一つの面があり、それは祈祷師の面。これは願うだけで、念力でもなければ具体性はないだろう。これも鼓舞の一種だ。
しかし島原一坊の職務は軍師。これは名だけのこと。軍略家でも何でもないし、そんな知識はない。
それで殿様に聞かれ、島原一坊は困ってしまった。自分がそんなことが出来る人間ではないことなど分かっているはずなのに、なぜ命じるのかと。
しかし、島原一坊は分かりました、しばらく猶予をといって引き受けてしまった。
そして戦場での夜明け頃、本陣の前に柵ができていた。馬除けの柵だ。一晩で作ったらしい。
その柵ではないと、重臣達は呆れた。
その木の杭の先に、赤い布が結びつけられており、それが横に何本も並び、赤い色が靡いている。敵陣からもよく見える。
柵違いの策だったが、敵は気味悪がり、撤退した。
殿様は喜び、さらに島原一坊に次の策を聞いた。
島原は、また柵を作るのでございますか、と答えた。
了
2023年03月28日
4806話 博士達
有馬博士宅に白浜博士が来ている。山沿いに近い郊外。周りは田畑や雑木林。通勤圏から少し離れている。
最寄りの駅はかなり遠い。僻地ではないが、不便な場所。そんなところにある雑木林の中に有馬博士宅がある。以前は桑畑で、その前は桃畑。さらにその前は綿花を栽培していた。それなりに広い土地。
そこにぽつりと屋敷があるのだが、場所と不似合い。そんなところに大きな庄屋屋敷のようなのがある。家屋が集まっている村のど真ん中なら分かる。
有馬博士と白浜博士が雑談しているとき、遠方から道後博士がやってきた。これは三人で会うためなので、揃ったところで本題に入った。
これらの博士、博士号を取ったとかではなく、隠語なのだ。有馬も隠語であり、博士も隠語。
一番年を取っているのは道後博士。滅多に姿を見せない人で、遠方で隠遁している。しかし、いざとなると出てくる。
大概の場合は有馬博士だけで済むのだが、それでは済まないときは白浜博士が協力する。それでも駄目なときは道後博士が来る。これがベストメンバーだ。
今回は非常事態に近いらしい。それで道後博士を加えることになったのだが、寄る年波で、どっぷりと波を被ったのか、ややもうろく気味。それでも遠方からやって来られるのだから、まだまだ健在。
「どうも我々は蚊帳の外に置かれておるようです」
「統制はわしらが取っておるはず」
「わしらへの相談がない」
「じゃ、誰が決めておるのか」
「わしら以外には、そんな奥から声を出す者などおらん」
「では、もう必要とされておらんのかもな」
有馬博士と白浜博士は道後博士の顔を見る。何か、思い当たるところがあるはずだと。
ところが道後博士、そういうことに疎くなっているし、最近の情報も入ってこない。たまに有馬博士からの知らせがある程度。だから、聞いても知っているはずがない。
「わしらよりも上位の者がおるのではありませんか。つまり道後博士よりも上の人」
「死んでおらんがな」
「そうですな。では、わしら三人衆に匹敵する者はおりませんか」
「昔はおったが、もう絶えた」
「海の向こうから来た連中かもしれません」
「それなら、わしには分からん。昔のことなら知っておるがな」
その業界の最長老三人、何処かで見捨てられたようだ。
了
2023年03月27日
4805話 プレッシャーのあとで
白河は一仕事終えると、ほっとする。これはプレッシャーがかかっていることもあるし、また時間の制約も受ける。いつもなら気儘に過ごしていた時間が取られる。
自由にならない。だが、仕事が終わると、いつもの自由な時間に戻れる。そこで大したことはやっていないのだが、気儘で気紛れなことをやってもいい時間が続く。それが大事だとは思っていないが、出来ないとなると、束縛感を感じる。手足を縛られているわけではないが。
今回の仕事。それは難しくはなく、やっていて楽しく、充実感もあったのだから、自由な時間を楽しむよりも良かったことになる。そして何かを成しえたことにもなる。これは社会的に。
ところが自由時間で遊んでいることは白河だけに関わることで、他に影響を与えない。白河の世界だけの話。そして人からはそれは見えない。
これは、遊びも入っているが、ちょっとした用事も入っている。しなくても良い事が多いのだが、日課と化している。当然暮らし向きの日常事もやっているが。外での仕事があると、それもサボりがち。
ペースを乱されるのが嫌なのだ。仕事とはいえ。
しかし、それが終わった瞬間、気楽な気分になれる。やっと自分のペースに戻れるため。
その翌朝は気持ちがいい。プレッシャーが取れたためだろう。しかし、外での仕事が嫌いなわけではなく、そちらをやっている方が実は楽しい。だが、自由に気儘に気紛れを起こすようなことは出来ない。仕事なので、目的がある。そこから逸れることは出来ない。
それで、白河はある仕事を終え。その翌朝を迎えたのだが、何かスッキリとしない。いつもならやっと自分のペースに戻れた、いつもの日常に戻れた解放感が来るのだが、それほど来ない。
自由時間と言っても凄いことをしているわけではなく、淡々としたもの。結構静かなのだ。この静けさを白河は好む。
外部からの刺激は嫌だが、内部からの刺激ならいい。その刺激は気紛れなもので、適当。だからベースが静かでないと、これは成立しない。
外での仕事を終えたので、当分は白河のペースで日々過ごせるのだが、この時のホッとした感じが小さくなっている。あることはあるが。
そしてそれがおかしいと思うよりも、あまり自由がどうのとか、好き勝手に出来るとかの気分が薄らいでいるので、すっきりとした気分も出ない。
白河はそれを考えながら、どのポイントのことをいっているのだろうと、自問した。
それによると、特に何も思うことのない日と言うことだった。
今回はそういう時期もあるのだろうと、消えたすっきり感のことなど忘れていた頃。じわっとそれが出てきた。プレッシャーが取れるまで日数がかかったようだ。
しかし、白河は、いったい何処を見て、何に拘っているのかと考えると、どうでもいいことに近かった。ただの気分の変化。それだけの話なので。
白河には白河の関がある。
了
2023年03月26日
4805話
日々の過程
日々、同じようなことの繰り返しのように見えても、日により、色々と違いがある。
竹田はそれを感じた。しかし、改めていうほどのことではない。これは観察しなくても分かるのだが、一寸それなりに観察を強くすると、かなりの差が日々の中であることが分かる。
分かっても仕方がないことなのだが、この変化は何処から来るのだろうかと、そちらを考えてみた。暇なのだ。
些細な日常、何の変哲もない日々の連続。その日の中でやっていることは前日と殆ど変わらない。だから、その意味での変化には乏しいが、細かく見ていくと、同じにならないのだから、不思議。
ただ、これを不思議と感じる方が不思議かもしれない。大きな変化がないのだから、変わり映えしないことの連続なので。
先ずは天気が違う。昨日と同じような天気でも、今度は気分が違う。天気だけで気分が変わるわけではないし、また天気が違っていても気分は同じだったりすることもある。
ここまで細かく見ていくと入り込みすぎだろう。当然気分は体調によっても違う。
やっていることは昨日と同じ。しかし、いつも通る道が工事中で回り道をしないといけないとなると、これは変化だ。外部から変化。
竹田が変化したわけではない。変化させられた。それで、普段あまり通らない道筋を行く。これだけでも風景の変化。風景が変化しているわけではなく、いつものと違うものが見える。
だから、変化を期待して、敢えて道順を変えなくてもいいのだ。また、竹田はいつも通る道順の変化などは望んでいない。ここはいつもと同じ風景でいい。といっても、昨日と同じ風景になるとは限らない。
一寸考え事をしながらの移動では、風景など見ていなかったりする。
その日はいつもの駐輪場が工事中で入れない。他にも駐輪場があるので、そちらから入ったのだが、知らないところではないし、たまにそこを利用していたこともある。行きつけの店屋がそこ駐輪場から近いためだ。そこへ行かなくなったのは、その店屋がなくなったから。
それで、久しぶりに、よく止めていた駐輪場へ行ったのだが、勝手が違う。止めるところが変わっているし、駐輪スペースでなくても適当なところに自転車を止めることが出来た。そういういい加減な止め方が出来ないようになっていた。
それで、用事のあるところまで行ったのだが、途中の景色が違う。その頃あった建物や店などががらりと変わっていたり、残っていてもシャッターが下りていたりする。いつもの駐輪場から百メートルも離れていない場所。入り込まなかったので、分からなかった。
さらに歩道に人工芝が敷かれていたりと、以前の印象とは違う。その先に、いつも店屋があるのだが、裏側から回り込むことになる。だが、良く考えると、正面からだ。いつもは裏側から来ていたのだ。
その店屋、同じ店屋だ。しかし入り方が違うと見えている角度も違う。いつもなら、そんな位置からは見ないため。いつもの店屋が別の店屋だったという話ではない。
竹田は変化を求めて、そんなことをしたわけではない。
やっていることは同じで、結果も同じになるのだが、過程が少し違うようだ。
了
日々、同じようなことの繰り返しのように見えても、日により、色々と違いがある。
竹田はそれを感じた。しかし、改めていうほどのことではない。これは観察しなくても分かるのだが、一寸それなりに観察を強くすると、かなりの差が日々の中であることが分かる。
分かっても仕方がないことなのだが、この変化は何処から来るのだろうかと、そちらを考えてみた。暇なのだ。
些細な日常、何の変哲もない日々の連続。その日の中でやっていることは前日と殆ど変わらない。だから、その意味での変化には乏しいが、細かく見ていくと、同じにならないのだから、不思議。
ただ、これを不思議と感じる方が不思議かもしれない。大きな変化がないのだから、変わり映えしないことの連続なので。
先ずは天気が違う。昨日と同じような天気でも、今度は気分が違う。天気だけで気分が変わるわけではないし、また天気が違っていても気分は同じだったりすることもある。
ここまで細かく見ていくと入り込みすぎだろう。当然気分は体調によっても違う。
やっていることは昨日と同じ。しかし、いつも通る道が工事中で回り道をしないといけないとなると、これは変化だ。外部から変化。
竹田が変化したわけではない。変化させられた。それで、普段あまり通らない道筋を行く。これだけでも風景の変化。風景が変化しているわけではなく、いつものと違うものが見える。
だから、変化を期待して、敢えて道順を変えなくてもいいのだ。また、竹田はいつも通る道順の変化などは望んでいない。ここはいつもと同じ風景でいい。といっても、昨日と同じ風景になるとは限らない。
一寸考え事をしながらの移動では、風景など見ていなかったりする。
その日はいつもの駐輪場が工事中で入れない。他にも駐輪場があるので、そちらから入ったのだが、知らないところではないし、たまにそこを利用していたこともある。行きつけの店屋がそこ駐輪場から近いためだ。そこへ行かなくなったのは、その店屋がなくなったから。
それで、久しぶりに、よく止めていた駐輪場へ行ったのだが、勝手が違う。止めるところが変わっているし、駐輪スペースでなくても適当なところに自転車を止めることが出来た。そういういい加減な止め方が出来ないようになっていた。
それで、用事のあるところまで行ったのだが、途中の景色が違う。その頃あった建物や店などががらりと変わっていたり、残っていてもシャッターが下りていたりする。いつもの駐輪場から百メートルも離れていない場所。入り込まなかったので、分からなかった。
さらに歩道に人工芝が敷かれていたりと、以前の印象とは違う。その先に、いつも店屋があるのだが、裏側から回り込むことになる。だが、良く考えると、正面からだ。いつもは裏側から来ていたのだ。
その店屋、同じ店屋だ。しかし入り方が違うと見えている角度も違う。いつもなら、そんな位置からは見ないため。いつもの店屋が別の店屋だったという話ではない。
竹田は変化を求めて、そんなことをしたわけではない。
やっていることは同じで、結果も同じになるのだが、過程が少し違うようだ。
了
2023年03月25日
4804話 雨桜見
桜が咲き出し、ますます春めく。しかし、その日は雨で花見などしている人はいない。それに蕾の方が多く、咲いている花びらはまばら。
だから、ちらほら咲きだろう。淡い桜色の塊は、そのボリュームがなく、枝や幹は雨に濡れ、黒っぽく露出しており、花よりも幹や枝を見るような感じ。
木下は出先で桜が咲いているところを通った。花見の名所ではないが、下にベンチがあり、休憩できる。花見客で賑わう頃は、そのベンチ、取り合いだろう。しかし、そのベンチも雨で濡れている。
桜は小さな川沿いに咲いており、当然植えたもの。規模は小さく、近所の人しか見に来ないだろう。木下は偶然そのエリアに入り、そんな隠れ花見のスポットがあることを知る。
一寸入り込んだところなので、用がなければ入り込まないような道。幹線道路はそこからはかなり離れており、裏道らしきものもない。
そのエリアに木下は用事があるので、そこを通ったのだが、誰も見ていない桜が気になる。木下がいる場所には人はいない。たまに見かけるが、その先に用事がある人は希だろう。
一寸した研究所がある。木下はそこに書類を届けに行く。それと言付けもあるし、また書類の説明も必要。
その通路、一寸高いところにある。二階スペースと二階スペースを渡る橋。下は川。そのため見晴らしがいい。咲いている桜よりも高いところにいる。
珍しい眺めなので、少しの間、立ち止まっていた。
ベンチに座っている人は濡れるので、当然いないが、ビニール傘が大輪のように咲いている。
桜の木の下でその傘は咲いており、じっとしている。動かない。
ああ、これが噂に聞く雨桜かと、木下はすぐに分かった。そういう人がいることは知っているが、今、下にいる人がその人なのか、それを真似ている人なのか。
雨の中、傘を差し、じっと桜の花見。立っているだけ。そして立ち禅に近い。同じ姿勢で、じっと桜を見ている。
これは一種の行だろうと言われており、その流派があるらしい。滝行ではなく、桜行。しかしやっていることは花見。それにしては静か。動きがない。
瞑想か妄想中かもしれない。これが落ち着くようだ。
その家元がいたのだが、雨桜見をやる人が増え、雨梅見に変えたりしたが、最近、その人の噂は聞かない。引退したのではないかと言われている。
このエリアでは、まだ雨桜の行をやっている人は少ないのか、または知られていないのか、ただ一人での花見が可能。初代の家元が理想としていた行場だが、流行りすぎて人が多くなりすぎたのだ。
しかし、ここは知られていないのか、静か。
木下は雨桜見をしている人をさらに上から見る。桜ではなく、その行者を見る。
了
2023年03月24日
4803話 如月冬塊
「如月冬塊と申す者」
「名前負けだな。呪術師か」
「はい、表に来ております」
「呼んだ覚えはないが」
「いずれ呼ぶだろうと、申しております」
「では、呼ぶまで待たせておけ」
「門前にですか」
「いや、長く待たせては気の毒だ。今はいいから、この先、用があれば呼ぼう」
「しかし、どこに住んでいる人でしょうなあ。呼ぶといっても、一寸」
「如月冬と申したな」
「如月冬塊です」
「有名な人なら、聞けば居場所ぐらい知れよう。それより、呪術師に用などないのだがな」
「いずれあるので、早い目にとか」
「如月。それが姓か」
「はい」
「自分でそう付けたのだろう。冬塊だったか」
「はい、寒そうな名です」
「悪い名ではないが、名前負けだな」
「それも呪術の内かと」
「何でもいいから、先ほどのこと、伝えてこい」
用人が戻ってきた。
「旅の最中とかで、それに年中旅の空で」
「家がないのか」
「この屋敷前を通りがかると、妙な気配がしたとか。それで一声掛けたくて、とかいっています」
「では、その一声、聞いてこい」
「はい」
用人は戻ってきた。
「どうだった。一声とは、どういうことだった」
「怪しい気配が漂っていると」
「それは先ほど聞いた。それで」
「それでといわれても、それだけとか。だからご用心をということでしょう」
「分かった。用心する。だから礼を申して、帰ってもらえ。それで、どんな身形だ」
「派手な色の袴を履き、髪は総髪」
「駄目だ駄目だ。そんなものが屋敷前におると、変に思われるぞ。すぐに行ってもらえ」
「何処に」
「だから、旅を続ければいい」
「はい、そう申して来ます」
用人はそれを伝え、戻ってきた。
「どうじゃ、帰ったか」
「幸い私は呪術師。怪しい気配を祓ってから立ち去ります。と申しております」
「何が幸いだ」
「そう申しております」
「瓦屋根が傷んでいるので、修善しましょうと言っておるようなものか」
「そのようで」
「しかし、怪しい気配などないがな」
「私が思いますに。その呪術師が一番の怪しい気配かと」
「それは分かっておる。金銭か」
「さあ、しかしお祓いのようなものをして、その代価を得たいのではありませんか」
「面倒じゃのう」
「やってもらいますか。そして礼を払えば退散するでしょう」
「施餓鬼のようなものか」
「ちと違いますが、功徳になりましょう」
「分かった。そのようにせよ」
用人はそのことを伝えに行ったが、既に門前に姿はなかった。
用人が戻ってきて、それを伝えた。
「おお帰ったか」
「もう少し待てば、仕事にありつけましたのになあ、あの呪術師」
「塩をまいておけ」
「そう計らいまする」
了
2023年03月23日
4802話 もののけ博士
「もののけ博士はこちらでしょうか」
妖怪博士宅の玄関で、そういう声が聞こえる。チャイムはあるのだが、電池が切れているようだ。
「もののけ博士宅はこちらでしょうか。ここでよろしいのでしょうか」
何度も声がするので、近所で不審がられると思い、妖怪博士は玄関戸を開けた。
「もののけ博士ですか」
「私は妖怪博士だが、まあ、どちらでもいい」
「はい、失礼します」
その青年、妖怪博士が訪問を受け入れると最初から思っているようだ。
「まあ、どうぞ中へ」
玄関先でもののけ博士やら妖怪博士やらの声を立てさせたくないのだろう。しかし両隣も向かいも空き家。長屋が二棟並んでいる。
青年には物騒なところがない。それで博士は奥の六畳の間へ入れた。
「もののけ博士とお会いできて、光栄です。僕は下田という研究家です。あ、もののけの」
「私は妖怪博士と呼ばれているのじゃが、もののけ博士という人もいるのかね」
「え、妖怪博士がもののけ博士でしょ」
「もののけとは物の怪と漢字で書くが、間違いはないか」
「漢字は使いません。もののけです」
「では、君はもののけに詳しいのかね」
「はい、妖怪博士の本を読んでいますから」
「しかし、そこにはもののけ博士の名前はないだろ」
「もののけ博士のことを妖怪博士というのです。僕はもののけ博士で統一しています」
「じゃ、同一人物なのだな」
「そうです。妖怪博士はいらっしゃるので、僕はもののけ博士になります」
「で、御用件は」
「お会いしただけで、もう十分です。もののけ博士は実在していた。存在していた。これだけで用事は終わりです」
「本当に君が思っているもののけ博士は私のことなのか」
「はい、お写真と同じですから」
「それはもののけ博士の写真かね。それとも私の写真かね」
「もののけ博士の写真です」
「それは雑誌に載った写真かな。本もあるが、写真は載っておらん」
「はい、本というのは雑誌のことです」
「本と雑誌は違う。妖怪博士ともののけ博士も違う」
「同じものです」
「そうか」
「はい、僕の中では」
「それで、君も妖怪研究をやっておるのか」
「はい、まだ初心者ですが」
「しかし、妖怪研究じゃなく、君の場合はもののけ研究ではないのか」
「そうです。同じことです」
「しかし、なぜわざわざもののけという言葉を使うのかね」
「そちらの呼び方の方が好きだからです」
「漢字ではなく」
「はい、平仮名でもののけがいいのです」
「実は私も妖怪ではなく、もののけの方の方が好きなのだがね。これは人が付けてくれた呼び名なので、私が決めたわけじゃない。君の場合、自称だね」
「はい、まだ研究家としての活動はしていませんから」
「それもいいが、この春先、季候も良くなってきて、妙なものも出始める頃」
「はい、僕がそれかと」
「まあよろしい。私も君のような若い後継者が出てきて嬉しいよ。といってもわしもこれといったことはしておらんがな」
「もののけ博士のもののけ談はいつも興味深く読んでいます」
「あれはいい加減な話だよ。化かされんようにな」
「はい、心得ています。僕も、あんな嘘を普通に書けるようになりたいです」
妖怪博士は、少し戸惑ったが、褒められていると解釈した。
この青年はもののけ博士、そして、もののけと妖怪は同じものだという。では妖怪博士はもののけ博士でもあるとすれば、目の前にいるもののけ博士は一体だろう。妖怪博士ではないか。
この青年の訪問。夢なのかもしれないと思い、妖怪博士は頬をつねる。すると痛い。目も覚めない。
しかし、これも夢の中のことかもしれない。
ただ、そのあと小一時間ほど雑談。そして青年のもののけ博士は消えた。玄関から、普通に出ていったのだが。
夢にしては長い。そして、担当編集者からの電話が鳴る。
妖怪の目撃談が届いたので、取材に行きたいので、一緒にどうぞ、というものだった。
ここまでが、まだ夢の中だとすると、長すぎる。そして、気になるので、妖怪博士は蒲団を敷いて寝ることにした。これは夢の中で寝ることになるのかどうかは分からない。
そして目が覚めたときは、昼寝程度の睡眠時間で、朝ではない。夕方前。
ホームゴタツの上にコップが二つ置いてある。彼が来たとき、出したもので、片付けないで、寝たのだろう。
これもまだ夢の中のことだとすると、いつ覚めるのだろう。
了
2023年03月22日
4801話 島流し
梅が終わり、桜が咲き始めている。
「来週あたり、もう花見ができるかと」
「梅か桜か桃か椿か薔薇かよう分からん奴だ」
「私ですか」
「君はすぐに分かる。君ではなく、芝垣だ」
「芝垣さんですか。そういえば百面相のように顔が合う度に違っていますね」
「そこまで変化せん。それじゃ化け物だ。しかし、得体の知れんころがあってな。わしとしてもどう判断すればいいのかが分からん。掴めぬのじゃ」
「百面相ではなく、八方美人ですね」
「美人じゃないが、相手により、人柄が変わる。合わせておるんだ。受けのいいように、相性がいいようにな」
「それで掴み所がないと」
「いったい何者だろう。あの芝垣は」
「普通の人じゃないですか。特にややこしい人間じゃありませんし、結構常識人ですよ」
「桜と思っておれば、梅だったことがある」
「分かりにくいのもありますからねえ。枝振りとか葉っぱを見れば分かるのですが、桜は咲くとき、まだ葉はなかったりしますが、幹で何となく分かりますよ。それに桜が多い場所で咲いていますし」
「桜並木の中に似たようなのが一本混ざっておるような感じだ」
「芝垣さんがですか」
「桜の話じゃないぞ」
「はい、分かっています」
「どうも得体が知れんので、信用ならん」
「先輩は分かりやすい人がいいのですね」
「そうだ」
「芝垣さんは分かりやすすぎるんじゃないのですか。私は芝垣さんは分かりやすいと思っています。芝垣さんが私に合わせて、私が思っている芝垣さんになってくれるからです」
「だから、そんな面妖なことをするから、信用ならんのだ」
「愛想がいいだけですよ。馴染みやすくしてくれます」
「しかし会議では無口だ。殆ど口を開かん」
「合わすターゲットが多すぎるからでしょ」
「だから、そのあたりがややこしいと言っておるんだ」
「それで、芝垣さんを移動させるわけですか」
「気に入らんからな」
「そんなことをすると、先輩は芝垣さんが苦手で、弱いということになりませんか。それに芝垣さん、大きなミスもないし、普通ですよ。そういう人を移動させていいのですか。ただの性格でしょ」
「いや、島流しだ」
「これで、何人目ですか。この前も薔薇だと思っていたら椿だと言って島村さんを島流しにしたばかりですよ」
「紛らわしい奴だったのでな」
「しかし、優秀な人は離島に集まっており、そちらの方が成績がいいのですが」
「ここには優秀な人間が残っておる」
「先輩も気をつけて下さいよ」
「何をだ。彼らから仕返しがあるとでも言うのか」
「いえ、先輩も流されないように」
「え」
了
2023年03月21日
4800話 意識病
「自分は何処にいるんでしょうねえ。朝、起きたときなんですが」
「寝床のある部屋だろ」
「その場所じゃなく、意識の中の自分です」
「君は意識の中に自分がいるのか」
「そうです。意識しないと、自分はいませんから」
「その時の君は誰だ」
「僕のはずです。考えなくても。でもわざわざ自分を確認するほどのことじゃないでしょ。そこにいるだけなら。たまに自分の名前を書くとき、漢字を忘れてしまいます。意識しながら書くと、こんな字だったかなあと疑ったりします。さっと書けば簡単に書けますが」
「じゃ、意識しなくても君の名前は書けるんだ」
「何度も書いていますからね。もう文字か何か分からないですよ。でもゆっくりと丁寧に書くと、一寸違いますがね」
「それで、何が問題なんだ」
「自分は何処にいるんでしょうねえ。部屋の中じゃなく、今日はあれをするとか、また今日は何日か、曜日は何だったのかと。それと自分の置かれている状態があるでしょ。正座しているとかじゃなく、社会的に。世間的に。まあ、ポジションのようなものです」
「自分探しかね」
「探さなくても、ここにいますので、その必要はありませんが、一体今の自分はどのあたりにいるんだろうかと考えることがあるんです。そんな大層なことじゃなく、今日は今日でやることがあるわけです。まあ、同じことの繰り返しですが、それに乗っている、その乗り方が自分なのかと」
「やはり自分探しじゃないか」
「探していません。しかし、どうやら、自分の存在というのが何となく見えているのです」
「意識とか、存在とか、あまり使わないがね」
「はい、そのレベルの話じゃないのですが、時々、また自分をやっていると思うことがあるのです」
「役者か」
「いえ、リアルです」
「何かよく分からんが、職場にそう言う話を持ち出すな。関係ないだろ」
「他者との関係がですねえ」
「今度は他者か。私のことか」
「いえ、僕以外の人間のことです」
「それで何が言いたいのだ」
「あ、忘れました」
「頼りないなあ。君はそんなことを言い出す人間だったか。少し変わったんじゃないのか」
「意識しすぎて、そうなったのかもしれません」
「意識病だな」
「先輩は、そんなことはありませんか」
「あったとしても、恥ずかしくて、そんな話などできるか」
「あ、僕が繊細すぎました」
「じゃ、私は鈍いのか」
「いえいえ」
了
2023年03月20日
4799話 無意識する
「石田が怪しい」
「石田部長ですか。次期社長と噂されています」
「まだ、部長になったばかり、まだまだ先」
「しかし石田部長に匹敵するような人はいないと思います」
「そんな器量はいらん」
「社長にですか」
「今の社長もそうだ。凡庸そのもの」
「しかし、石田部長が怪しいとはどういうことですか」
「ずっと彼を見ていた。残念ながら私より年下。それに私はまだ課長。これが長い。部長の椅子は遠いのに」
「御自身の話ですか」
「いや、違う。社のためだ、石田部長が怪しいのだ。このまま社長になると、大変なことが起こりそうな気がする」
「上に上がってはいけない人物なのですか」
「既に上がっておる。何度も言わすな。私よりも上だ」
「どうして怪しいのですか。そんな感じはしません。嫉まれる存在ですが、そういう噂は聞きません。石田部長の人柄でしょう。僕よりも年は下ですが、僕も何とも思いません。それだけの実力があるのですから。当然でしょ。出世しても」
「そうじゃないんだ」
「どういうことですか」
「私には何となくだが、分かるんだ」
「何が」
「だから、何となく、そう感じるのだ」
「どこで」
「私の無意識がそう感じておる」
「無意識って感じないものでしょ。感じられる無意識なら、それは意識ですよ」
「私の中のデータが、それを示しておるんだ」
「どんなデータですか」
「だから、感じなのだ。雰囲気なんだ。匂いなんだ。無意識から湧き出るデータでな。これは頭で考えたことより凄いんだ」
「つまり、無意識がそう思っていると意識されているのですね」
「ややこしい言い方だな。よう分からん」
「無意識のデータを意識できたわけでしょ」
「データというか、そう思えるような集まりだ」
「つまり課長が感じたのは課長が無意識だと意識したものを意識したわけで、全部意識の内なのですよ」
「いや無意識的だ」
「意識できないので、無意識ですよ。それが意識出来るのなら、もう無意識じゃありません」
「そういうややこしい話じゃない。君が課長補佐のままなのは、そう言うことを言うからだ。いちいち突っ込むな」
「あ、はい」
「どちらにしても石田部長は怪しい」
「怪しいのはあなたですよ」
了
2023年03月19日
4798話 闇の夢
闇の中でまどろんでいた。うたた寝だろうか。そこで浅い夢を見ていたのか、意識はある。これは夢だという。
闇の中。だから暗い。真っ黒な夢。スクリーンいっぱい、端から端まで単色の黒。しかし塗った色ではない。漆喰の暗さではなく。なぜか空間があるように感じられた。つまり奥行きが。
これは星のない夜空を見ているようなものだろう。
ただ、暗いので何も見えないし、動きもない。そんな闇だけが見える夢。
草加は、何だこの夢はと、突っ込んでみた。意識があるのだ。これは黒坊主ではないか。
だが、目をこらして見ていると、何かが浮かび上がる。闇だと思っていたのだが、何かがある。
ああ、これは夢ではなく、勝手に浮かび上がる何かだろう。目をつぶれば真っ暗になる。そのうち何かが浮かぶ。それだろう。すると、これは夢ではない。
そこで草加は起きた。うたた寝だったので、半分起きていたので、すっと闇が消え、すぐに目を開いたため、室内が見えた。いつもの部屋だ。起きたとき、必ず見る部屋の一部。
そしてさっと体を起こし、蒲団の上で座った。足は伸ばしている。両手で上体を支え、くるっと左へ半回転して、立ち上がる。
変わったところはない。いつ寝たのかも覚えている。ほんの数分だったように気がするが、三十分ほど過ぎていた。寝る前に時計を見ている。
起きたときの自分の部屋。その様子が変わっていたとすれば、それはまだ起きていないのだ。夢の中。
変わったところは見付からないが、何となく疑う。これは余計なことで、しなくてもいい。いつもの部屋ではない場合を想定している。これが余計。
違う部屋で目が覚めるわけがない。しかし、似ているが本当に寝る前と同じ部屋だろうかと敢えて疑う。どうせそんなことは起こらないので、安心して疑ったのだが、少しだけ不安がある。思い当たることが。
それは先ほど見た真っ暗な夢。そんな夢など見たことは過去一度もない。あったとしても忘れている。
夢がまだ始まる前の映像だったのかもしれない。真っ暗な映画館でも非常口とかの表示の明かりぐらいはあるだろう。
それに照明を全部落ちてから映画が始まるまではすぐだろう。ずっと真っ暗なままではない。すぐにスクリーンが明るくなり、上映される。
先ほど見た夢は、その僅かな暗闇の時間だったのかもしれない。
これはうたた寝だったが、そのうち本当に寝入ってしまうはず。だから、うたた寝の手前だ。意識がまだあったのだ。
そして、改めて部屋の中や家の中をチェックするが、変わったところはない。
そして玄関先にある鏡。小さな丸い鏡だが、外出の時、一度だけ自分を見る。髪の毛が気になるためだ。
その鏡を覗くと、草加が映っていなかったり、草加ではない別の人が映っていた、などということは当然ない。
了
2023年03月18日
4797話 架空の現実
この現実とは違うフィクション世界に浸ることが竹中にはある。これは作り事の世界だが、世界として竹中の中では存在している。
ただ、手で掴んだり出来ないし、そのフィクション世界にある街や道などへも行けないが。
ただ、現実世界の中にも、そのタイプに近いものがあり、それは架空世界の欠片のように思われる。実際には繋がっていないのだが。
そのフィクション世界も現実をモデルにしており、現実世界にあるものを作り替えたり、組み合わせたり、延長したりしたもの。だから、現実の世界にあるかもしれないと思わせる。
竹中はそういう世界に浸っていたことがあり、何を見ても、それと絡ませたりしていた。そのフィクション世界はミステリー的で、また神秘的な嘘の話が展開されるのだが、道具立ては現実のもの。だから近いのだ。この現実と。
竹中は当然普段は普通の現実におり、普通の現実的な暮らしをしている。ただ、頭の中では、そのフィクション世界がポッカリと開き、よくそこへ入り込む。そこはひんやりとしており、謎に満ち、怪しげな人が徘徊している。
誰かが書いた小説の世界や、映画の世界なのだが、それが竹中の中では生き続けている。本や映画は読めば終わり、見れば終わるが、その中にまだ竹中はいる。だから浸っている。
ところがそれは過去のことで、最近はそんな浸り方が出来なくなった。別世界の扉が閉まったわけではないが、それほど浸れなくなっている。
そこへ入り込むときのわくわく感のようなものが消えている。
フィクション世界が消えたわけではない。ただそれを感じにくくなったのだ。
これは感受性が鈍ったのかもしれない。それで、竹中は何度も試みたが、どうも以前のようには浸れない。
どっぷりと浸かれないのだ。こういうのは現実逃避にはぴったりだが、それ以上に、架空世界と重ね合わせながらはまり込むということができない。
しかし、わくわくする小説や映画などを見ると、しばらくの間は、それが頭の中に常駐し、その世界と現実とが重なることもある。しかし、すぐに切れる。
以前はもっと長い間、それが続いた。そのため、長さの問題だったのかもしれない。今も竹中は架空世界にすっと入り込むことが出来る。本や映画を見なくても、頭の中で回っているので。
それではまだできているのではないかと、竹中は喜んだ。では、今は何だろうか。
歴史上の人が乗り移ることもある。それを真似ているだけで、憑依ではない。
英雄談ではなく、神秘的な世界。魔法ではなく、現実の中に潜む妙な世界。以前はそんな世界に浸れていた。
また、それに近いものと遭遇するはずだと、竹中は楽しみにしている。
了
2023年03月17日
4796話 気掛かり
気になるものや、気にしているものがある。良い事なら楽しみになるが、悪いことなら苦しみになる。
気になるのは普段とは違うとか、勝手が違うとかの変化だろうか。
その場限りのものと、その先がまだありそうな事柄がある。一寸した未来予測。先々のことを想像する。いいことなら良いが、悪いことなら、そうなってしまうのかと心配になる。
また気になることが昨日も今日も続き、明日もそんな感じで続いているのなら、これは厄介な未来になるが、良い事なら、歓迎だ。そこまで良い事は続かないが。
良いことよりも悪いことの方が続くような気がするし、気になることの多くは悪いことかもしれない。良い事は別段あってもなくても困らないが、悪いことはあっては困る。ちょとした危機。こちらの方が大事なので、目立つのだろう。
ただ良いことも悪いことも、先々の予想がつくこともある。前回経験したものを覚えているため。しかし、その通りに行くとは限らない。
先読みする。これは現実にはまだ起こっていないのだが、この調子ではそうなるだろうという感じがある。
悪いことなら外れると御の字で、良い事だとがっくりするかもしれない。しかし、がっかりしても大した問題は起こらない。なかってもいいことだったりする。
不安というのは、どうなるかが分からないために起こるのかもしれないが、分からないが予想は出来る。その想像通りになることもある。
悪い予感は外れる方がいい。取り越し苦労であって欲しいのだが、現実はどう出るかは分からない。
良いことはちょとした楽しみであり、喜びでもあるのだが、これはなくてもかまわない。ただ、期待に胸を膨らませているときは、いい感じだ。一寸元気になる。まだ、起こっていなくても。実はその頃の方がよかったりする。
苦しみに慣れた人を苦労人と呼ぶのかどうかは分からないが、歴戦の勇士だ。しかし、敢えて苦しいことを望んでまではやらないだろう。その先に良いことがあるのなら別だが。
了
2023年03月16日
4795話 岸部の仮説
このまま春になるのかと岸部は思っていたのだが、急に寒くなった。雨が降ったあとだ。ひと雨ごとに暖かくなる雨ではなかったらしい。
それで気温がガタッと下がり、冬に戻された。岸部はそれで調子を崩した。忘れていた寒さ。もう来ないと思っていた寒さ。その風に当たったためだろう。
それで春へ向かう調子の良さから踏み外したのか、気持ちも沈みがち。しかし、暖かいところにいると、それほどでもない。勝手なものだ。
春に何か良いことがあるわけではないが、気分的な盛り上がりがあった。それが下がった。
しかし、何を期待していたのだろう。ただ温度が上がるので過ごしやすくなるだけではないだろう。何か有為なことが待っていないと。
岸部にはそれがなかったが、可能性はある。一寸下調べをしており、それがいい具合に進んでいる。これが進めれば、長年考えていたことが解決するような。
そうでなくても、可能性が高い。つまり、上手く纏まるのだ。そういう研究を岸部はやっているのだが、もう現場から離れ、ただの暇潰しになっているが、一応ライフワークとしてやり続けている。
寒の戻りで調子を崩し、その影響が出ているのかもしれない。そんなことが研究に影響するのなら、大したことはしていないことになる。やはりこれは暇潰しの可能性が大。
ただ、それをやめると、芯がなくなる。メインがなくなる。だから、芯、柱が欲しい。
ただ、その界隈では岸部の仮説は相手にされていない。妄想に近いためだろう。子供が考えるような説だ。
その仮説、実は岸部が子供の頃に考えたもので、大人になると、当然そこから離れた。何も知らない子供だからそんなことを思い付いたのだろう。
それで長い間、その仮説はお蔵入りしていた。というよりも蔵にさえ入れていなかった。
ところが退職する寸前、その説を唱えだした。大した研究成果もないまま退職するよりも、何か一つでもいいから岸部らしい論文を書きたかったのだろう。どうせ、すぐにおさらばする世界だし。
そして、退職後、フリーになり、その仮説をライフワークにし、暇な時、コツコツと周辺を詰めていった。それは殆ど隠居仕事で、それほど熱心にはやっていない。
その仮説、無理があることは最初から分かっていたので、その完成が目的ではなく、やることがあるのが目的。そのため、仮説の進展はどうでもよかったのだ。
ところが最近、俄に神妙性が出てきた。他の分野からの影響も大きい。
ところが、寒の戻りで、調子が狂う。冷たい風に吹かれ、冷静になったのだろうか。または一人で盛り上がっていたことなので、ひとりでに熱も下がったりしそうだ。
しかし、寒の戻りは二日ほどで、そのあと、春の進み具合が早くなった。それで調子も戻った。
岸部の仮説。実は、そう言うことに近い説だった。
まったく無関係なものがスイッチになっているとかだ。
了
2023年03月15日
4794話 その時
「今はその時ではない」
「またですか。ではいつなのです」
「まだ、その時ではない」
「準備は既に出来ております。いつでも決行出来ます」
「それはご苦労」
「しかし、準備ばかりなので、痺れを切らす者もおります」
「その痺れを直すために決行するのではあるまい」
「その痺れではありません。按摩を呼んで治る痺れではありません」
「分かっておることをくどくど説明するでない」
「じゃ、いつなのですか」
「時節がある」
「既に過ぎているのでは」
「まだじゃ」
「今度で何度目ですか。いつもいつもその時ではないばかりですが」
「その時ではないので、仕方あるまい。急いては事をし損じる」
「もう遅くて取り返しがつかないのではありませんか。この前の時が、それだったのかもしれません。過ぎたのかも」
「まだ、来ておらん。その時はな」
「ではどういう状態がその時なのですか。何が揃えばいいのですか」
「説明させる気か」
「その時の時を知りたいのです」
「その時が来れば分かる」
「何を目安にそうおっしゃるのでしょうか」
「自ずと分かる」
「誰が」
「え」
「誰がですか」
「わしには分かる」
「私どもには分からないことですか」
「あなたは急ぎすぎる。よって早い目になる」
「早い目どころか、時既に遅しではありませんか」
「そのようなことはない。まだ来ておらん。まだ、時節到来ではない」
「それはいつまで待てばいいのですか」
「分からん」
「ずっと待ち続けないといけませんか」
「時が来るまではな」
「その時が来なかった場合、いかが為されます」
「待つしかない」
「本当にそんな時が来るのですか。来なければ、永遠に待ち続けることになります」
「そうじゃな、その時は世も変わっておるやもしれん」
「悠長な」
「その時が来れば知らせる。待つがよい」
「本当はそんな時などないのではありませんか」
「さあな」
了
2023年03月14日
4793話 春野
春めいてきたのか、野が明るい。野といっても田畑。野っ原が拡がっているわけではない。
住宅地の中に空いた空間。元々この空間の方が広かった。そこに家が建ち出しので、狭いように見えるが。
野谷は月に一度、その道を通る。一ヶ月前とは少し違う。低い草から小さな赤い花が出ているのだが、それほど目立たない。ただその前の月は殺風景で、冬の暗い野。
まだ寒いので野谷も風景を見ている余裕はなかったのだろう。野っ原と同じで吹きさらし。そのため、そこは早く通り過ぎたかった。
今月はゆるりと景色を見渡せる。畑の余地に椿や梅があり、どちらも花を付けている。これだけでも明るい。
春の草花が咲き誇るとまでは行かないが、もう少し立てば野菜ではなく花が畑で咲いている。野菜を作って売る農家だが、そこに花を植える。これは余裕だろう。また農作業中、そういう花々がある方が目にはいいのだろう。
野谷は毎年、それを見ているのだが、いつも似たような花。植えた人の好みの問題。
そして育てている野菜は、売ることよりも、見映えのあるものが多い。トウモロコシが数本とか、小麦がいく株かとか。まるで観賞用の穀物や野菜。当然瓜なども。
収穫しないで、真っ黄色になった瓜が残っていたりする。この黄色を見て欲しいのだろう。
また、毎年春になると、出てくる草花がある。それなりにボリュームがある。葵だろうか。虫が良く飛んでくる花。
これが雨の日や曇っている日はどうだろう。野谷はあまり見ないと思う。晴れているので見ている。
また、月に一度の用事だが、時間的に遅れているときは、見ない。だから余裕がなければ見ないし、天気がよくなければ見ない。映えないので、目立たないから。
野谷は、それを見ているだけではなく、自身のことも見ている。月に一度のチェックのようなもの。
野谷と野が一体になるわけではないが、どちらも生きている。
了
2023年03月13日
4792話 寒桜
「季節を掛け急ぎましたなあ」
「寒いと思っておりましたが、急にこのところ暖かい。少し早すぎます」
「穏やかに進めばいいものを、これではお返しがあるじゃろう」
「寒くなると」
「既にその兆しは出ておる」
「何事も起こってはおりませんが」
「平穏に見えても、色々なことが起こっておる」
「はあ」
「岩下殿が行へ不明」
「はあ」
「榊原氏は乱心されたとか」
「それと急ぎすぎたこととは関係があるのですか」
「いずれも今回、関わりのあった御仁」
「しかし、目立った争い事はなく、平穏ですが」
「裏で、大乱闘」
「まだ若い木村殿は駆け落ちしたとか」
「そういえば、逐電した者がそれなりにいますねえ」
「そうではなく追放されたのじゃ」
「城下の空き家が増えております。これも関係があるのでしょうか」
「他にも色々とおかしなことが起こっておる。いずれも小さなこと。問題にするようなことではないが、あの影響じゃ」
「急ぎすぎたと」
「春をな」
「しかし、何事も起こっておりませんが」
「表向きはな。そしてずっと平穏なまま通過していくだろう」
「柴田様が急ぎすぎたのでしょうか」
「わしは、まだ早いと言ったのじゃがなあ」
「はあ」
「次は柴田様に何かが起こるじゃろう」
「政変ですか」
「いや、御病気になり、伏せておられるとかじゃな」
「はあ」
「そのうち、お役目が果たせぬので、身を引くと言い出すじゃろう」
「はあ」
「急がせたのは柴田様。その柴田様が引くことで、足が止まる。それだけのこと」
「私達はどうなるのでしょうか。別に何事も起こっておりませんが」
「加担しなかった。だから心配はいらぬ」
「しかし、いずれは柴田様が言っておられた春を迎えなければなりませんよ」
「春は勝手に来る。いずれな」
「柴田様は早咲きの桜なのでしょうか」
「寒くても先に咲く寒桜じゃろう」
了
2023年03月12日
4791話 桶屋が儲かる
まるで最初からそうなるように決まっていたような結果になることがある。これは心配していたことが上手く行ったとかならいいが、上手く行くと思っていたことが失敗に終わることもある。
最初からそういう話が出来ているのなら、そこで何を思おうと同じことだが、そこで思い直して、別の行動を取ることも出来る。それも含めての筋書きだったりすると、一寸妙な感じになるが。
ではその筋書きを書いている人がいるとすると、それは誰だろう。本人一人だけの世界ならいいが、相手がいたりすると、全体の筋書きを書いている人がいるはず。それは人かどうかは分からないが。
三浦はたまにそれを考える。これに対して、誰かがそのことを言っていたはずなので、それを思い出すと、成るように成るというのが近かったりする。
つまり、成り行きなのだ。そういう流れで、そうなると。
では弄れないのだろうか。しかし弄ることも流れの中に入っていたりすると、何とも言えなくなる。
そのあたりは、あまり気にならないが、出来すぎた展開になることがある。偶然だが、偶然とは思えないような。
しかし、それなりに因果関係はある。それを言い出すと、こじつけも多い。風が吹くと桶屋が儲かるというたとえがそうだ。
順番の一つ一つは可能性としてある。風が吹くと目にゴミが入る人がいて、目が悪くなり、見えなくなる。
ここから始まる。それが三味線弾きになり、猫に行き、猫が減り、鼠が増える。鼠が桶を囓り不足する。
自然現象の風や物理的なものや、動物まで含まれる。それらは確率としてあるのだが、その並びは奇跡に近い。
桶は別のことで傷んだりするだろう。桶が壊れ、桶が足りなくなれば、桶屋が桶を多い目に作ることになるが、鼠が多いと、他の需要も出てくるだろう。そちらも儲かるはず。また、損をする人も出てくる。
最初の原因は風が吹いただけ。バタフライ効果のようなもの。
これはとんでもないところに回り回って、そうなるという頓知話なので、奇抜な方がいい。
桶屋が怪我をするでもいい。急いで作りすぎて、手が滑ったとか。
これはよくできた話ではなく、できすぎた話なので、三浦の考えているものとは一寸違う。
こじつけではなく、もっと自然な成り行き。
また、成るようにはなると言っても、どうなるのかまでは分からない。成ってみないと。しかし、そのあとの展開もあり、そこで終わるわけではない。
この筋書き、あとで三浦が書いているのかもしれない。
了