2024年01月31日
5113話 緩衝地帯
二つの勢力の間に小さな勢力がある。どちらにも属していないが、悪い関係ではない。行き来があるし縁者もいる。
二つの勢力はこの小さな勢力を欲しがったが、どちらかが手を出すと、どちらかが救援に来る。そうすると、二つの勢力同士の戦いになるので、それは避けたい。この二つの勢力、仲はよくない。行き来もないが、裏側ではある。
また大きな勢力が小さな勢力を攻めたいと思っても、縁者がいるのだ。これはどちらの大きな勢力も事情は同じ。
どちらにしても攻め落とし、自領にはできない。さらにどちらかの勢力が奪ったとしても、勢力同士が隣り合うことになり、いざこざが絶えないだろう。小さな小競り合いが全面戦争になりかねない。
そのため、その中間にある小勢力は緩衝地帯として丁度良いのだ。
この二つの勢力、大きさは似ており、強さも似ている。戦えば互角なので、勝負が付かない。お互い勝つには苦労する相手。
ただ、中間にある小勢力を取れば、取った側の勢力が大きくなり、戦えば勝てる。だから、それを二つの勢力は考えているのだが、そうならないのが現状。
こういうとき、小さな勢力の中に凄い人物がおれば、二つの勢力を戦わせ、漁夫の利を取りに行くかもしれないが、そんな人はいない。
小さな勢力は戦らしい戦などしたことがない。戦い慣れていないし、戦などいらないと思っている。これまでもいろいろとあったが、戦わずに守り切っている。
それを仕切っていた人がいたわけではなく、そういう土地柄で、そういう人柄なのだ。領土は狭いが肥えており、結構豊か。だから領土を広げる必要はなかったし、戦う兵士も多くはない。城もなく庄屋程度の規模。堀や石垣もない。
ただ、市場は賑やかで、先ほどの二つの勢力の人たちも来ているし、さらに遠い他国からも。また街道が走っているので、旅人も多い。
二つの勢力がにらみ合うような関係になり、すわ戦かと思われたときにも、両者がこの小さな勢力のあるお寺で話し合ったことがある。どちらも行きがかり上、戦いになるのを恐れて、ここで和解したのだ。戦えばこの小さな勢力の地が戦場になるだろう。
この小勢力の殿様、さぞや凄い人かと思われるが、それほどの人物ではない。欲がないわけではないが、この領地だけでも豊かなので、満たされているのだろう。
戦国の世、二つの大きな勢力はその後消えている。小さな勢力は相変わらず小さな天地でそのまま残っている。
江戸時代には一家村だけの庄屋。帰農していた。数か村を領していたが、それぞれの庄屋は全て縁者だった。だから領土を失っていないのと同じ。
了
2024年01月30日
5112話 八百屋と感情
違ったものが見たい。違った感じ方をしたい。竹田はよく考えてみるとそういうことだったのかと気付く。
これまでいろいろと研究テーマを変え続け、室長から呆れられたこともあるが、それ以上の指導はなかった。だから安心して変えていたのだが、実は不安。コロコロと目先を変えるのはよくないことだと。
しかし別のものが見たい。これまでのことはこれまでのこととしてそれも良いのだが、どうも気移りする。これは悪癖だと考えていたが、そうではなく、そういう風にできているのだと、何となく思うようになる。
気分を変えたときの方が新鮮で、はつらつとしている。当然のことだが、これが良いのだろう。
これは一つの研究とは矛盾する。何でも売っている八百屋になってしまう。しかし専門店よりもいろいろなものが扱えるので楽しいはず。今まで扱ったことのない品や、また八百屋らしくないような服とかも売っていたりとか。割烹着ではなく。
これは八百屋と言うよりも万屋、そして今はコンビニや百均だろう。近所の専門店ができても関係のないものなら関係しないが、コンビニならそれなりに役立つので、立ち寄る。
しかし研究は八百屋でもコンビニでもない。
トランプで同じ数字を集めるゲームがある。絵柄違いで。それで勝負のとき、揃っている数字のカードが一枚もない。全部バラバラ。これを八百屋と呼んでいた。
「八百屋の研究ですかな竹田君」
「違います」
「八百屋史というのは研究テーマになりますよ。次はそれをやってみますか」
「いえ、今は感情論をやっていますので」
「飽きてきたのでしょ」
「いえ、頑張っています」
「頑張るのはよくない。楽しくないでしょ」
「でも八百屋の研究をする気はありません」
「じゃ、感情論を続けますか」
「これは奥が深いですし、幅も広いです。一寸僕には難しすぎました」
「やはり、やめたいのですね」
「すすめないでください。頑張っているのですから」
「それは失礼。今回はなかなかケツを割りませんなあ。珍しい」
「感情の研究をしていると、それもまた感情の問題と分かってきました」
「尻を割りたいという感情ですか」
「その感情、押さえています」
「何で」
「感情で」
「ほう、その解釈、良いじゃないですか。続けなさい」
「我慢してやります」
「ほう、それも感情ですか」
「はい。感情です」
「何でもかんでも感情で勘定しては駄目ですよ、竹田君」
「あ、はい」
了
2024年01月29日
5111話 家神の庭
吉田家は旧家で、家の仕来りがある。あったと言うべきか。その儀式、時代劇を見ているようなもので、それをやっている家など少ないだろう。
ただ非公開なので見せるものではないので、どれぐらい残っているのかは分からない。
儀式めいたものだが、お盆に提灯を出すようなもの。お供え物をしたりとか。そういうのは旧家でなくてもやっている。ただし仏壇がないとできないが、それに代わるものがあればできるだろう。
吉田家当主はまだ若い。家屋も古くはなく、今風に建て替えられている。ただ庭に普通の家では見かけないものがある。家神様だ。
お稲荷さんやお地蔵さんや石饅頭ではない。その家の神様らしい。だから世界で一つしかない神様。これは先祖が勝手にしつらえたもので、由緒も何もない。そこは適当。そういう家神様があってもいいだろうという程度。そういうのが流行っていた時代があった。
吉田家は世間一般の行事のようなものもするが、年々減り続けるが家神様は残っていた。その父親も、もうやめようか言っているほどで、実際にやめている。
さすがに時代から外れすぎた余計ごとになり、毎朝家神様に水を供えるようなことはしなくなった。それはその先代からも、そんな感じで、吉田家ではそれが習慣だったので、それに従っていただけ。それも廃れた。
だから、今の若い当主になると、もう放置状態。取り壊さないだけましな方。その建物は祠程度の小さなものだが、庭の良い位置にあり、邪魔。
しかし、さすがに吉田家の家神様、屋敷神だけに、それはできない。ややこしいものだとは分かっているので、触らぬ神に祟りなしを決め込んでいる。
しかし、たまに神頼みをしたくなるときがあり、それは神社に行くよりも、吉田家専用の吉田家だけの吉田家のための神様なので、こちらの方が効くはず。
屋根瓦が痛んできて中が心配なので、修繕もやっているし、蔓草などが絡んでくることもあるので、一応抜いている。これは最低限のことだが、祠ではなく、庭掃除、庭の手入れと同レベルで、家神様を意識してのことではない。
しかし、どう見ても庭の中心部にあり、その庭は家神様の境内のようなもの。
吉田家の言い伝えでは中を開けてはいけないとなっている。
しかし、見た人がおり、それは修理のため、中を点検したのだ。祠の中は石の三段のひな壇があるだけで、何も置いていなかったとか。その空間が家神様のおわす場所なので、何も置かないのは、家神様がいるので、置く必要がないとか。
当然中を見た人、これは少し前の先祖だが、何もなかったとか。神様なので見えないので当然だと。
しかし、妙な気に襲われ、気がおかしくなりかけた。
今の当主もそれを聞いているので、余計なことはしないでそのままにしている。
吉田家を守る神様なので、その神様が祟り、吉田家に災いをもたらすわけがないと考えているが、神様の性格にもよるだろう。
先祖はこの神をどこから持ってきたのだろう。その言い伝えはない。適当な汎用神だったようだ。
だから特定の神様ではないので、性格や由来なども分からない。だから家神一般としてあったのだろう。それが流行っていた時代、吉田家も買って祭った。
だから吉田家に古くから伝わる氏神様、先祖神のようなものではない。そして吉田家のさらに先祖をたどった先にある氏神様は分からないとか。作らなかったのだろう。
旧家だが、名家ではない。家紋もあるが、これも似たようなもの。
吉田家の庭。そこは庭ではなく、聖域。これは庭としては珍しい。
了
2024年01月28日
5110話 使えない技
凄いものは突然やってくることがある。
それは突然なのでそうなのかもしれない。凄さにも良い凄さと悪い凄さがある。災難は忘れた頃にやってくると言うが、これはいつか来るかもしれないが、今ではないだろうというタイプ。全く予想していないわけではない。
そのため、全く予想していなかったものとの遭遇は珍しい。初めてのことで、どの程度の凄さなのかは分からなくても、おおよそ見当は付く。以前あった似たようなものとして。
田村が凄いと思ったのは、その凄さは知っていたことなので、タイミング的な凄さだろう。今、これが来たかと。
このタイミングは予測していなかった。最初、それに遭遇したとき、何かよく分からなかった。こんなものがあったのかと記憶をたどった。すると、すぐに思い出した。見覚えがあるので。
しかし、それは今ではなく、もう少し間をおいてから接したいと思っていた。だが、何かの都合で、急に来た。そのことで凄さを感じた。
そのものの凄さは知っているので、タイミングなのだ。そして、その凄いものは最初よく分からなかったことも効いている。身構えていなかった。
どうせありふれたもの、よくあるものだと思っていたのも効いている。さらにそのものの正体が分かったとき、これは凄いものだというのを知っていたので、さらに動揺した。凄いものなのでその気で接する必要がある。田村はとっさに構え直した。剣豪の強い刃を受けるように。
そして一度接したときよりも、凄いことになっていた。これも効果としては大きい。凄いものだとは知っていたが、それは並みの凄さ。しかし、今回再会したのはそれを越えていた。だから超凄いと言うことになる。凄いものは珍しい。さらにそれよりも凄いものとなるとめったにない。
田村はその例を知っているが、極めて少ない。それほど珍しいのだ。
しかし、それよりもさらに凄いものはあるにはあるが、タイミングの問題だろう。これは、やはりいきなり来たときの方が効果は大きい。そのものがそれほど凄いものでなくても、絶妙のタイミングで来れば、そのことが凄いのだ。
こういう演出のようなものは作れない。ほとんどが偶然。希にとか、時々そういうことが起こるのだが、この時期にこれが来るのかという不思議さもある。
もう少し先だろうと思っていた未来が、目の前にサッと現れたようなもの。誰もそれを仕込んでいない。田村も仕込んでいない。
その凄いものが突然現れたときの田村のその手前での状態が参考になる。その手前の田村の心境だ。気持ちだ。どんな気持ちでいたのか。その凄いものが来る手前の心情のようなもの。
田村はそれを思い出すと、一寸退屈していた。もう少し何とかならないものかと思っていた。そういう気持ちが凄いものを呼び込んだわけではない。そしてそんな凄いものなど期待していないし、退屈なままでもいいと思っていた。
しかし、何処かで目が覚めるような凄いものを期待していたのかもしれない。しっかりとは望んでいなかったが。
この凄いもの。時期が悪いと、それほど凄いとは思えなかったりするもの。
ジャストタイミングで決まる。それだろうと田村は学んだ。しかし学んでもそんなものは使えない技だが。
了
2024年01月27日
5109話 不調音
白根には何となくやる気のない日がある。日々のことはできるのだが、一歩進めてというのができない。その気が沸かない。
これは何となくではなく、原因や理由はある。気を削ぐような出来事が白根に起こった。しかし大した問題ではなく、白根自身だけに関係すること。
人に言ってもああそうと言われる程度。しかし白根自身にとっては重大。だが、日々の生活や仕事に支障が出るものではない。
いつものことをいつも通りできるのだが、そこからあと一歩進んでという展開がない。このあと一歩の踏み込みは日常的にあるが、別になくても支障はない。
単純なことならできるが、何か志気が低い。そんな志など本当はいらないのだが、ある方が元気。その元気さをある出来事で、少し削がれた。
これは損をしたようなものだが、下手に元気だとやり過ぎて平常が崩れる場合もあるので、元気もほどほど。それほど良いものではないが、気分が違う。
その出来事、一日ぐらいで忘れるようなことだが、なぜか気になる。削がれた元気をそちらで消費しているようなもの。
この元気、そのうち回復するが、それほど元気でなくてもかまわない。ただし自然に湧き上がる元気さはいい。これは空元気ではなく、無理に鼓舞したものではないので。
少し元気のないときは、空回りしていた元気さに気付くこともある。あの元気さはいらなかったのではないかと。
しかしいつもの白根の状態というのも曖昧で、波がある。その中間あたりが白根らしいのだが、そこにずっととどまるようなことはない。
それなりに落ち着きなさが始終ある。その方が変化があっていいのだろう。大人しくしていると、その反動で元気なことをやり出したりする。振り子のようなもの。
そして一寸のことで波風が立つ。これは立たせておけばいい。いずれ静まる。その繰り返しだ。ただ周期の長い短いはあるが。
同じことをしていても、その日の調子で乗りが違う。今日の白根は乗りが悪い。だから調子はよくないが、不調の調べも悪くはない。
元気なときにはできないようなことができたりする。白根はそう思うことにした。
了
2024年01月26日
5108話 聞く側の事情
同じようなことを話していても、話す人により違ってくる。その意味までも。
それでは同じ話ではないのだが、聞く側にとり、かなり違った印象を持つもので、片方の意見は聞かないが、片方では聞くとなる。
似たような話なのに何処が違うのだろう。これは音声なら声が違う。その響きにより好感が持てたり、嫌な感じがしたりとか。いずれも聞く側の好みであり、これまでの経験からの好感度だろう。
これは話の中身とは関係がない。ただ、こういう話し方でこういう声の人なら聞く耳を持ちやすい。嫌だと感じる印象の相手だと聞く耳を持たないどころか、耳が痛くなる。
ただ、それは大事な話などでは別だ。それを聞かないと絶対にいけないようなことなら。
また言葉の使い方も、難しい言い方や単語を多用する人は、馴染みが遠のくし、何か気高さを感じ、その高さについていけない。敷居を下げてくれないのは、下世話な言葉を使いたくないのだろう。かなり崇高で大層な単語を使うので、中身も凄そうだが、言っていることは似たようなもの。
それなら聞く側の好みと合った言葉の方がしっくりとくる。そちらの方が分かりやすい。ベタなので、飾っていないので、その飾りでごかまされるようなことはない。
いずれもその語り手の問題ではなく、聞く側の問題だろう。聞く気があるのなら、何でもかまわない。どんな言い方で、どんな感じでも。ただ、聞きにくいとか、聞きやすいとかがあり、できれば聞きやすい方を選ぶだろう。その方が理解も深まる。知らない単語を並べられるよりも。
それだけのことなのだが、中身も実は違っていたりする。攻め口が違うためだろうか。
その語り手側との相性がいいと、表だって語っているもの以外の、暗に何となく言っているものが見え隠れしているようなことがある。
これは相性がいいので、微妙なところが聞こえてくる。決してその言葉など入っていないのだが、暗に入っている。
実はこれこれしかじかと、前者は言い。後者はそこまでは言わず、高尚な言葉で締めくくらない。その高尚な言葉、実はありふれているのだ。だから陳腐になっている。だからそれを避けて別の言葉や言い回し方に変えているのだろうか。
というよりも、その語り手はその語り手の言葉で話している。だから音色がいい。そして自然なのだ。
いずれも聞く側の都合だろう。だから同じようなことを語っている人は多くいるので、その中で心地よく聞こえるのを選べばいい。
これは少し触れたけで、すぐに分かるので、選ぶ必要はない。そしてこの話し手が語るから聞くようになる。話し言葉はその発声の中に微妙な意味合いを含んでいる。
ただ、中身ではなく、その話し方、語り方、喋りり方の方に注目し、中身に対する理解度はそれほど得られなかったりするのだが、その雰囲気は十分入ってくる。その中に、中身の核が入っているのだろう。
了
2024年01月25日
5107話 黒森地帯
「面白味のない男だね、黒森君は」
「そうですねえ、全然面白くありません」
「それでやっていけるのかね、黒森君は」
「いけてますよ。いけていないことでいけているんです」
「面白い言い方だね、君は。そういうのを黒森君に期待しているのだが」
「今、面白かったですか」
「言い方がね」
「黒森君はだからいいんです」
「どういうことだね。面白味がないのがいいのかね」
「疲れません」
「ほう」
「一緒にいると楽なんです。芸をしませんからね、受けるのも疲れるんです」
「面白い芸ならいいじゃないか」
「その面白さに疲れるんですよ。芸をする」
「黒森君は芸人じゃない」
「分かっています。でも僕らは芸をそれなりにしているでしょ。面白くなるような」
「リアクションかね」
「それもありますが、一寸しゃれたことを言ったり、こざかしいことを言ったり、当然笑えるようにしたりとか」
「君は語りもいい。面白いことを言うしね。それが黒森君にはない。そういうことだ」
「だからいいんですよ。相手の笑い話や冗談にいちいち受けるのは疲れますよ。面白くもない冗談でもね。黒森君にはそれがない。だからいいんです。気楽です。テンションを上げなくてもいいので」
「そんなものかね」
「だから黒森君と組んだとき、休めます。他の人もそう言ってます」
「そういうことか」
「はい」
「黒森君には友達はいるのかね」
「当然いません」
「面白味がないからねえ」
「そうです。でも誰とでも親しくしていますよ。僕よりも接している人は多いはずです」
「そうなのか、意外だな」
「これを黒森地帯と呼んでいます」
「面白いねえ。その呼び名」
「恐れ入ります」
「しかし、分かるような気がする。面白い話ばかりじゃ疲れるってことだね」
「あ、お疲れ様でしたか」
「もう行くか」
「はい、芸をやり倒したので、僕も疲れました」
「わしもだ」
了
2024年01月24日
5106話 自動筋書き
ある一連の出来事が終わったとき、振り返ってみると、そういう形になるのか、そういう筋書きになるのかと人ごとのように思うことがある。
とっかかりはさほどではなく、これでは駄目かもしれないと思いながら進めていくと、それなりに興味深い展開となっていく。
しかし、これで目的が叶うとは思えないが、山あり谷ありで、ストレートに上手くいくはずはない。それに駄目なら元々。それほど期待していない。
この一連の流れ、作田が作ったわけではない。作田なので田を作るわけではなく、自動的な選択の流れに近い。順番は決まっておらず、適当に並べたものを実行しているだけ。
しかし、まるでストーリーがあるように筋書きができているように感じてしまう。これはあとで分かったことで、そのときは気付いていない。順番にやっているだけで、選んでいない。変更もしていない。
また、あえて中止するようなこともなく、なぜこれが挟まれているのかも不明なまま。これも繋がりのないようなカードだが。導火線になっていることが分かる。これがあるので。
誰が並べたのだろう。作田ではない。そしてその筋書き、作田が作ったよりも巧みで、作田には作れないような筋書き。
そういうものに筋書きなどあるのかどうかは分かりにくいが、上手くできているように思えた。脈略も何もないものから選んだわけではなく、それなりのものをぶち込んだ箱のようなものから、くじを引くように一枚引き、あとは自動的に並ぶ。そういう仕掛けだ。たとえば日付順とか、名前順とか、長い順とか短い順とかで。
だから関連性があるので、完全にランダムではない。その秘密は、その箱にある。
そこに入れるかどうかを決めるのは作田。だから作田はそこで決めているのだ。ただ箱は大きく、何を入れたのかが分からないものもあり、こんなものも入れていたのかと思うものとか、古すぎて忘れているものもある。
だからブラックボックスに近い。ただその全ては何処かで作田がチェックし、入れているので、場違いなものはないが。
だから作田にも把握しきれない作田の世界が、その箱の中にある。
問題はその並び方なのだ。または順番。これはシナリオ的に作ろうと思うと難しい。だからブラックボックス、ランダム性に頼ることになる。これなら分け隔てなく飛び出してくる。下手に選ぶよりも。
そしてたまに筋書きがあったような順番になっていたりする。これは偶然だろうが、作れない筋だ。また、そういう筋を作りたかったというものに近い。
ただその方法、毎回上手くいくとは限らない。上手くいかない時は、そういうのを挟むことで、退屈なシーンをあえてやっているようなもの。
だが、偶然生まれた筋書き。それは本当の筋書きだろうか。上手くできた物語なのだが、作田がそう見出しているだけかもしれない。
了
2024年01月23日
5105話 引く
引いていく。と言うのがある。物事に興味をなくしているとか、このあたりでやめようと思う際のことだが、これはさらに広い意味や状態がある。
引き際が肝心とも言うが、気持ちが引いている場合、引き際も何もなく、既に引いている。際は過ぎている。
そのため引きたくないとか、まだ未練が残っている場合、強引に引くことになるのだが、これは自主的ではない面がある。
肩を叩かれるとかもそうだ。それでそろそろ引くときだと教えてくれているのだが、強制でなければ、頑張ることもできる。しかし、肩を叩かれた時点で、もう終わったのだ。
長年頑張ってきたので肩もこっているだろうと肩を叩いてくれたのかもしれないが、実際に肩をマッサージしてくれるわけではない。分かりきったことだが。
そういう引き際、潮時もあるが、勝手に引いていくことも多くある。別に自主的ではなく、いつの間にかやめていることで、決心したわけではなく自然に。
興味をなくしたと言えばそれまでだが、これにもいろいろと具体的な原因があるのだろう。
そのものが持っていた魅力が薄まったとか、引きつけるものが弱まったとか、飽きたとか、それはいろいろだが、別のものに引きつけられたりすることもある。
一度引くと、引いたところから遠目で見るので、その最中からは離れるので、渦も渦中ではなく、離れることで騒がしさが減る。
引いていく、遠ざかっていくという感じ。これが勝手にそうなった場合は自然だろう。理由や原因が具体的にあったとしても、その気になりにくくなっているのは確か。気が引いてしまうと、もうやろうという気持ちも起こりにくいので、別にやらなくてもいいかとなる。
気が引けるなども、気が起動しにくいのだろう。その感情にならないと。
感情はエンジンなので、ここが発火しないと回らない。
引いてしまうと言うのは悪いことではない。引くことで助かることも多い。
了
2024年01月22日
5104話 丸い盛り土
たどり着けない祠がある。以前は丸見えで珍しいものでもなく、得体も知れていた。得体が知れないと、悪いものかもしれないと思うが、その得体、どちらに転ぶのかは人により違う。良いものだと思う人とそうではない人と。
それに祠なので何かを祭っているのだが、良いものであっても、馴染みがなければ、避けるかもしれない。
その祠、小高いところにあるが、数メールの高さしかない。まん丸い岡のようなもので大きなお椀を伏せた程度で、面積的にも広くはない。裾野はない。
以前は畑がその周囲にあり、これは農家の庭のようなもので、売り物ではなかった。
その農家、かなり昔から住んでいるが、越してきた人。他村からの移住のようなもの。その盛り土のある農家の跡を継いでいる。
ここはずっと空き家だったので。そして村人とも馴染み、何世代か後は普通の村人になっていた。盛り土の上に祠のある家として、別に珍しくはなく、他の村人たちも見慣れた風景。
その農家の庭先に村道が通っているが、枝道のようなもの。そこから簡単に祠へ行ける。私有地だがその境界線は曖昧。農家の敷地内だが垣根がないので、あやふやなのだ。
そして最近になると、宅地になった。
それ以前から城下に近いためか、商家などが増え、さらにそんな町家もわずかに残る程度で、ただの住宅地になっている。
そのため建物が多くなり、昔の農家の土地も分割されて、所謂分譲住宅がごちゃごちゃと取り囲んでいる。農家と農家を繋いでいた余地のような隙間も閉ざされた。
祠のある農家も同じように住宅地に取り囲まれ、昔の村道からスッとあの岡に入り込めなくなった。
ただその農家、建て替えただけで、敷地はそのまま残っており、祠もまだあるし、その岡もまだある。
しかしこの家の庭なので、入り込めるものではない。それに垣根がなかった時代とは違い、今は敷地をきっちりと塀で囲んでいる。だから勝手に入り込めないし、そんなことをする人もいない。周囲の家からの目もあるし。
さて、その丸い岡。盛り土で、これは円憤。祠の中はお稲荷さんん。何でもよかったのだろう。お稲荷さんなら無難というわけではないが。
古墳と祠は関係がない。ただの盛り土、岡のようなものではありませんよという程度の祠。
古墳らしいとは分かっているが、調査は入っていない。灌漑用の水路を掘ったときの土の捨て場だったと言われているが、その農家が引っ越してくる前の大昔の話。
だから古墳だと断定できないし、小さな円墳だし、調べにくい場所にあるので、無視されていたのだろう。それにその周辺に古墳はない。古墳は古墳群のように固まってあることが多い。
しかし自然にできた岡ではなく、こんなにまん丸な形は人が盛ったとしか思えない。
その農家や敷地は今もあり、そこの人がその気になれば掘り返すことはできるが、それを止めているのが例の祠。要するに聖域扱いの場なので、家の人もそのままにしているようだ。
了
2024年01月21日
5103話 初物食い
新鮮なもの、一寸違うものが見たい。中身は同じでも新しいものが見たい、見たことがないものを見たい。
それは以前から見ているものでも、大枠は同じでも新たなものは初めて見るので、この初めてというのが良い。ここが違う。
それもいずれは見慣れたものになるはずなのだが、また新たなものが出てくることで、そちらに興味が行くはず。そのパターンの繰り返しのように思われる。
だから初めてのものというのはポイントが高い。従来のものとは違った趣があるためだろう。
こう言うのを初物食いというのだろうが、初物だけでも値打ちがあり、食べたい気になる。食べてみるとそれほど良いものではない場合でも、少しは新鮮さを味わえる。旬のものなので。
その旬とは今と言うことだが、このリアルタイム性がいい。昔のものを見直すよりも、現代進行形で、その先はまだ分かっていないし、決まっていないため。
それに価値があるのかどうかは、終わってからの話で、その時点ではまだ決まっていない。
ただ、その時点でも、これは凄いかもしれないと思えるものがある。
全ての新しいものが良いわけではなく、頭二つ以上出ているようなはっきりとした違い。登場してきたときから分かるような。
ただ、最初は平凡だったりしても、そのあと、本性を発揮するような進み方をする場合もある。これは化けると言っている。あるところで急激に。
新たなものに期待するのは従来のものが駄目なわけではない。これは従来の良いものを引き継ぐ後継者のような存在なので、途切れないようにするためにも新たなものが次々と出てきてもいい。ただ生き残るのはわずかだが。
それは外に対してではなく、自分自身に関してもそうだろう。対象が退屈なのではなく、自分が退屈なのだ。新鮮さもそうだ。
また新たなものに注目するのも、自身の中にもそれがあるためかもしれない。だからその人の変化で見いだし方や受け取り方が違う。つまり思い当たるところがあるため、外の何かを注目する。
しかし、普段はそんなことなど考えてはいない。自分を反映したり投影しているという感じではないだろう。実際はそうであっとするならば、面白味のないことになる。
単に飽きたので、目先を変えたい程度なら、そんな洞察は邪魔かもしれない。
了
2024年01月20日
5102話 寝起き占い
さて、今日は何だろう。引田は朝、目覚めるたびにそれを思う。しかし、その問いかけの前に浮かんでくる。
これが今日のハイライト。トップかもしれない。真っ先に出てくるので、思い出して出てきたことではない。最初に感じたことだろうか。
これはパソコン起動後最初に常駐したり、勝手に立ち上がってくるプログラムのようなもの。最初から仕込まれているのだが、ここが違うところ。
何が仕込まれているのかは分からない。今日は何だったのかと思い出すわけではなく、勝手に浮かび上がる。
それは何処で仕掛けられたのだろうか。起きたとき、すぐではない。まずは体が起動する。動くかどうかを試すわけではないが。
そして意識がはっきりとしたところで、それが浮かんでくる。朝の用事とかの目先のことではなく。また布団からの出方とか、立ち上がり方とかではなく。そんなものはよほど身体がおかしくなったとき、気にする程度。
多いのは今日の予定。だから昨日に仕込んだものだろう。用事にもよるが、それも含めて何か気になることが浮かび上がる。これは日替わりだ。
ただ、今朝は晴れているようだとかなら平和なもの。特に何も浮かばないので。
大した用事もなく、気がかりもないような感じ。この状態を引田は好む。分かりやすいし、感想を述べているだけで、それほど影響のあることではないが、雨だと、一寸影響は出るが深刻な話ではない。
この寝起き早々浮かんでくるもの。これは昨日からの引き継ぎかもしれない。当然引田自身の引き継ぎも。
寝ている間は中断し、引田も引田を忘れている。ただ夢の中で違った引田が活躍しているかもしれないが。しかし、それは夢の中の引田なので、起きたときのいつもの引田とは別物。夢の中では自分だと思っているが。
さて、朝一番に思い浮かんでくるもの。それはすぐに溶けてしまうほど、何でもないことだったりすることがある。重大事ではなく。
そんなことを思っていたのかと、可愛らしく思えるほどつまらないことだったりとか。
しかし、ずっと用事が続いており、それが圧になっているとき、それが浮かびやすい。当然だろう。寝ても覚めても思い出すようなこと。これはあるだろう。
これは夢占いではない。夢から覚め、起き時、最初に立ち現れるものなので、起動占いかもしれない。寝起き占いでもいい。
寝起きのすがすがしさとは、ほとんど何も浮かんでこないときだろう。それこそ白紙。何もないところから一日が始まるような。しかし起きたときから白紙というのはないが。
最初に思い浮かぶものが終わったあと、今度は作為的に思い出そうとする番だ。ああ、今日は一寸面倒なことがあるとか、良いことがあるとか。
主に悪いことの方を思いつきやすい。楽しいことはそのままでもいいので。
しかし、寝起き浮かんだり、思ったりするようなことは、しばらくすると整頓される。より現実的にこなせるように。すると、消えてしまうことが多い。
了
2024年01月19日
5101話 禁じ手
時代が進むとこれまでのことができなくなることがある。それまで一寸ずつ進めていたことが、何処かで止まってしまう。やろうと思えばできるのだが、それではまずいことがあるのだろう。そのものではなく、その周辺で。
それで最先端で突っ走っていたものが大人しくなり、肝心要の所を避けて通るようになる。ということは実質的にできなくなっている。
そういうことはしてはいけないという規約があるわけではない。
それで大人しくなったのだが、肝心要を変えてきた。だから決して大人しくなったわけではない。違うところを攻めてきたのだ。
攻め箇所は複数あるのだが、それほど大したことはない。今までの攻め口に比べて。
しかし、その攻め口だけが攻め口ではなく、その一つに過ぎない。
その後、別の所を攻めるようになり、そこはまだ伸びしろはあるのだが、ほとんどのことはやり尽くされている。そうなると、また違うアタック方法となる。同じ攻め口でも一寸違うような。
肝心要の一番の攻め口も、そこばかりだと、またかとなる。そして飽きはしないものの、その攻め口にも限界があり、それ以上進めない。
だから肝心要を変えることで目先を変えられるが、以前と比べると弱まった感じになる。
そうなると、また別のやり方で、その弱さを生かしたものが出てくる。そのため強烈なインパクトはないのだが、強い切り口でなくても、弱い切り口や変形タイプでも、それなりに成立する。質は違うが目的にかなうような。
ただ、それに同調できるかどうかは人にもより、以前のインパクトの強かったものでなければ駄目だという人にとっては不満だろう。
しかし、インパクトの強かったものと同等の満足感が得られるのなら、それでもいいと思うようになるはずで、また時代、風潮がそうなっているのなら、以前には戻れないのだから、その畑を耕すしかない。
だから時代的にできないと言って、そこでやめるのではなく、生き延びる道を模索する方がいいのだろう。
インパクトは何処で発生するのかは分からない。偶然かもしれない。以前に感じていたインパクトも、それを現れるまでは、なかったようなものだ。
だから別の所でインパクトをおぼたのだろう。さらにそれ以前となると、そこには全くインパクトなどなかったかもしれない。
時代と共にインパクトも変わる。逆に同じインパクトばかりだと飽きてくる。
以前の肝心要が違うものに切り替わったのか、時代的に、それ以上続けられないので、禁じ手にしたのだろうか。逆にそのことにより、新たな手が生まれればいい。
了
2024年01月18日
5100話 心地よさ
テキパキと、いい流れで、スッとスムーズに行っているときは気持ちがいい。その最中が。
これはギクシャクすることが多いとき、それに比べての話かもしれないが、その最中はやっていることではなく、そのリズムのようなものが快い。実はギクシャクも気持ちの良いときもあるのだが。
何をやっているかではなく。調子がいいというのは、そういうことかもしれないが、コンディションがいいわけではなく、奏でている響きのようなものが心地よいのだ。
だから何でもいいのだ。その調子、その調べが来ていると。
そのため、面倒くさいことをしていても、それがあると助かる。嫌なことでもそうだ。
事柄が問題なのではなく、テキパキとか、滑らかで、とかスムーズに行っている流れの最中が良いものなら、何でもかまわないような感じ。
感じを感じとしてだけ抜き出して食べているようなもの。
足が痛くて歩きにくいときスムーズさはなくギクシャクしている。一寸無理をすると痛くなる。しかし、その中でもましなときがある。一瞬かもしれないが、調子がいい。全体的には良くなく、調子がいいとは言えないのだが。
忙しいときは、その流れがスムーズで、それこそテキパキと処理している最中は気持ちがいい。いやいやながらダラーとやっいると重いが、さっさとできているときは軽い。
これは逆ではないかと思われるのだが、状況とは関係なく、そういう体感は所変わらずあるものだ。
ただ、その気持ちよさのようなものを意識すると、すっと消えてなくなったりする。
上原はそういう話を先輩の熟練者から聞いた。秘伝だと言っているし、奥義だと大げさに言っているが、誰でも体験した覚えのあることなので、大した奥義ではないが、それは技ではないらしい。
それを意識した瞬間効かなくなるので、気付かないように振る舞うことが奥義らしい。だから奥が深い。
気付かないふりをすればいいのだと教えてもらったので、心がけることにした。
だから少しは気付いているのだ。そしてそっとその状態を覗いているだけだといい調子がしばらくは続くが、長くはないらしい。
だが、気持ちの良さを感じるだけの十分な間はあると。
上原はさらに教えてもらおうとしたが、これは個人差があるので、話しても当てはまらないので、あとは自分で整えるしかないと。
そして、この仕事をやっていると、そんな瞬間があるので、奥義など身につけなくてもいいというのが、また奥義らしい。元に戻っているようなものだが、滑らかさとかは動きの中での話なので、止めて観察するとややこしくなるとか。
上原はバイトで適当にやっている仕事で、誰にでもできる単純なものだが、その熟練者になると、それなりの気持ちよさがじんわりとにじみ出るので、これはいいものだと思うらしい。
達人、名人と言われる人の作ったものではなく、誰でも作れるものでも、そういうことがあるのだなと上原は思った。思っただけだが、一寸気持ちよさもそのとき感じた。
了
2024年01月17日
5099話 それは気の精
これは期待できると思いながらも避けていたものがある。その期待で疲れるわけではないが、もし違っていたときのショックがある。
期待は予測。おそらくそうだろうと以前に思っていたようなことで、今とは期待のあり方が違うかもしれない。
だから今の期待とは一寸違う。だから外れても仕方がない。ずれがあるため。しかし大枠は合っている。ある範囲内にあるだろう。
そして竹中が期待しているのに避けようと思っているのは、普通のものと違うため。だから楽さが違う。期待しているのだからより楽しいわけではない。向かい方が苦しいから楽かの違い。
期待しているものほど苦しいのはそのため。これは竹中がプレッシャーに弱いためもある。
その期待しているもの。一応その機会があれば実行するようにはしている。そして、そのタイミングが来た。
しかし、時期はいいのだが、今は一寸まずい。今これをやるタイミングではない。タイミングにもいろいろとある。タイミングとしては今日だが、今日のその時間帯では不都合。
それで竹中は今はできないと思い、キャンセルした。これはできる。やめることは。
しかし、やはり避けたいというのがあったのだろう。サッとやめている。できればずっと実行したくないように。
しかし、いつかはそれを実行したい。今回は惜しくもできなかったが。
だが、その後、またそれが来た。二回目だ。これは続くことがおかしい。誰かが、これをせよと導いているようなもの。何が来るのかは偶然で決まるので、竹中には選べない。勝手に来る。しかしやめることはできる。
続けて来たので、これは「やれ」と誰かが命じているのだろう。その誰かとは竹中自身なのだが、それで実行することにした。
すると期待以上のものだった。これには驚きすぎて唖然としたほど。やはり自分の予感は当たっていたのだ。
かなり以前に期待していただけに、今はそう感じるかどうかが疑問だったが、その期待、生きていた。しかもよりよく。
それよりも長く実行しなかった難物を果たした喜びも大きい。期待しているのにそれを避けようとする竹中にとっての話だが、その一つをクリアーした充実感や満足感。
その実行したものよりも、竹中に対する満足感だろう。そして誰かが命じたのではないかというその誰かとも関係するのかもしれない。誰だか知らないし、それは出てこないが、何となくそう感じるところの感じでしかないが。
これは直感のようなものかもしれない。
しかし、誰も竹中を導いたりはしないし、竹中がやりやすいように設定してくれているわけではない。そんなものが竹中の中にいたら怖いだろう。割れているので。
しかし、たまにそういうよくできた話がある。これも後で考えると出来レースに見えるが、それほど神秘的なことではなく、ただの気のせいだろう。
これを気の精と言ってしまうと、ややこしくなるし、それを意識してもいいが、それはお伽噺。
だが世の中、全てがお伽話かもしれない。
了
2024年01月16日
5098話 空気入れ
下田は出かける前に自転車の空気を入れる時期だと気がついた。これは戻るときに、そう思うのだが、自転車から降りると忘れている。
そんなことなど思いも付かない。その先のことを考えるため。戻ってきたので、次にやることを。
そして自転車の空気はそのあともう一度外出するので、そのときに入れることにしている。それ以外は入れない。
そう決めているだけで、いつ入れてもいいのだ。しかし、空気入れのことなど気付かない。ネタとしては小さいためと、緊急ごとでもなく、急ぐことでもないため。
ではタイヤの空気圧を何処で気付くのか。それは弾みが悪いことで、スピードが出ない。ペダルも重いものを引きずっているような感じ。
そしてタイヤを見ると、体重などでへこんで見える。そのとき、空気を入れないと、と思うのだが、すぐに忘れる。
ある日、出かけるとき、自転車の空気入れのことに気付いた。これは良いことだ。いつも忘れるので。
それは雨が降ったのかサドルが濡れているとき、雑巾で拭いていたのだが、タイヤに目がいった。それで気付いたのだろう。傘も持って出ないといけないが、タイヤが先。せっかく気付いたのだから、いいチャンス。
それで無事に空気入れが終わり、得心した。長年の目的を果たしたようなもの。チューブが痛んでいるのか、空気がすぐに減る。そろそろ交換しないといけないが、タイヤごと交換も考えている。
そういう自転車に関わることを思いながら、通りに出た。
すると傘を忘れているのに気付く。戻るのも面倒なので、そのまま走る。空を見ると、青空が広がっているので、先ほどのは通り雨で、もう来ないだろうという感じ。
一つのことで熱中していると、他のことを忘れてしまう。空気入れと傘が今回来た。
集中している状態はそれほど多くはない。常にいろいろなことが頭をよぎったり、見ているものも散漫。あれを見たり、これを見たりと。
雑念と言うよりも周囲に目配せしている。別に何にも集中していないが、いろいろなことを思っている状態。
先ほど自転車の空気入れに気付いたのはその状態だったのかもしれないが、やはりサドルを拭くとき自転車を見たため、それで気付いたのだろう。
では自転車に空気を入れているときはどうだろう。その動作だけに集中しているわけではない。このときも他のことが頭をよぎったり、当然自転車に関することを思い浮かべたりするので、空気入れだけに専念していない。
だから。それほどの熱中ではない。何もかも忘れて、それだけ、というのはめったにない。
それで下田は思いついた。習慣化すると勝手にやるかもしれないと。気付かなくても癖のようになっているので。
しかし毎回乗るたびに自転車に空気を入れなくてもいい。一寸弾みが悪いな、とか引きずるようだとかを感じてからになる。これは毎日のことではないので習慣化しにくい。
気付くというのはいいことだ。だからその日は空気を入れることができた。しかし、傘は忘れたが。
そして何か忘れていないかと思える状態にあったのだろう。これは何にも集中していなかったためかもしれない。
だが、空気入れに気付き、思い出すときもある。しかし、今はいいかと、面倒がってやらない。せっかく気付いたのに、惜しい話だ。
了
2024年01月15日
5097話 心の奥底
「己を突き動かしているものがあるじゃろう」
「突かれていません」
「心の奥底からの動き、衝動のようなものがあるじゃろう」
「さあ、あまり感じませんが」
「そんなはずはない。己の動きをよく見よ」
「見てますが」
「その己を動かしているものがあるはず」
「それは私でしょうねえ。しかし、命じられれば動きますので、これは私ではありません。私がやるのですが、私が命じているわけじゃありませんので」
「わしの話を聞くか」
「はい、何でもお命じください。今は聞けばいいのですね」
「申すことを聞けと言っておる」
「耳で聞くだけではなく?」
「そうじゃ、わしの言うことを聞けと言っておる。わしの命に従えと申しておる」
「いつも従っていますが。まさに滅私奉公」
「いや、おぬしは聞いておらん」
「逆らってなんていませんが」
「仕方なく従っておる」
「それ以外に道はありませんし、それに家来なので、当然です」
「しかし異論はあるじゃろう」
「ありません」
「本音が聞きたい。何を考えておるのかがな」
「何も考えておりません」
「内から沸き起こる何かがあるはず」
「何でしょう、それは」
「わしに逆らいたいという衝動じゃ」
「そんな馬鹿なことは思いもしません。ありえません」
「しかし、心の奥底にそれがあるはず」
「どうやって探すのですか」
「ん」
「奥もありませんし、そのさらに奥の底など想像もできません。手が届かないです」
「袋からものを出すのではない」
「はい」
「おぬしは大人しい。だから怖い」
「そうなんですか。そんな怖いことなど思いつきもしません」
「本当だな」
「疑い深いですよ。いくらなんでも」
「そうか」
「何処かお体でも悪いのではありませんか」
「そうかな」
「はい、そうだと思いいます」
「うむ」
了
2024年01月14日
5096話 古木参り
富田は月に一度行く所がある。大した用件ではないし行かなくても支障はないが、いつも月の決まった日、決まった時間に行く。その日でないといけないわけではなく、時間帯も同じ。だから一ヶ月ぶりと言うこと。
そこは場所。建物でもないし、人と会うわけでもないし、買い物をするわけでもない。住宅地にある老木。
公園の端にあり、切り倒されないで残っている。ただ太いが短い。枯れ木ではないので時期が来れば青葉も出る。枝も伸びる。それに勢いがないので、多少伸びても邪魔にはならない。既に何度か切られているので、人の背丈の倍ほど。上や周囲には何もないので、枝が邪魔になるようなことはない。
公園ができる前から生えていたようだ。神木にしてもいいほどだがそんな跡はない。当然しめ縄も巻かれた様子はないが、富田が見るようになってからの話なので、以前は神木扱いだった可能性もある。
その近くには神社はない。かなり離れており、昔で言えば、田んぼの外れ、村の外れだった場所。今でも町の境目。隣村との境だったようだ。
村も分割され、別々の町名になっているが、その木があるところは昔の村との境目あたりだろうか。
富田は月に一度、その古木に立ち寄り、ベンチが空いていればそこに座る。丁度前方右に古木が見えるのでここが特等席。
誰かが使っているときは古木の前で立っている。視線が問題で、何をしている人なのかと不審がられるので、古木を珍しそうに見ているふりをしている。しかし、その内面は別。
別に古木信仰をしているわけではない。月に一度立ち止まるため。その古木と富田との関係は何もない。ここで何かあったとかもない。
その古木までの道は古木を見ようとして出かけないと通らないような道筋。そのため道筋も月に一度通る場所と言うことになる。
この一連の動作をここ何年か続けている。十年は経つだろう。富田の歳から考えると最近のことに近い。暇になったので、そんなことができるようになったと思われる。
ここへ行くとき、その一ヶ月間のことを思い出す。体調の悪い時期に行ったとか、こういう心配事があったときだったとか。
月に一度、一度も欠かさず行っている。行けるだけでも十分だろう。
古木を見たり、その前のベンチで座りながら、古木に話しかけたりなどは当然しない。また願い事とか、心配事を話すようなこともしない。いいことが今月はあったとしても、それを報告などしない。
そういうことも思うが、思っているだけ。田中自身に対し田中が報告を受ける程度。古木などなくてもできることだ。
しかし形があったり、場があった方が分かりやすい。それだけのこと。
その月の古木参りは寒いがよく晴れ、気持ちのいい日だった。そして富田は、この一ヶ月間、特に思うようなことはなかった。古木参り中の状態は良好だった。今はこうだという程度が確認できる。
古木に限らず、たまに立ち寄るところでも、似たようなことができるだろう。だから古木でなくてもかまわない。
了
2024年01月13日
5095話 できないはずのもの
これなら絶対にできると思っているものではできず、これはできないだろうとやったものが意外とできたりする。できやすいと思っていたものではなく、できにくいと思ったもので。
だからできすぎた話ではなく、できない話に近いものが実際にはできたりする。当然できる可能性が高いものほどよくできる確率は高いのだが、できるはずのものができないこともあるのは確か。
できる、できないの結果は実際にやってみないと分からない。これはものにもよるし時期にもよるし、そのときの調子にもよるし、認識のようなものや、意気込みなどにも左右される。
だからできるはずのものは純粋にその状態だけを抜き出しているのだろう。タイミングが入っていない。しかし、できやすいものはできやすいのには変わりはない。
意外とできたというものは、その意外性がプラスとなっている。できるできないのきっかけ、ポイントとなるところに意外性があったのだろう。思っても見なかった状態が効いている。それで一気にできてしまったのだから。
案外予想通り行かないのは、予想できているためだろう。できなくて当然は受け入れやすいし、分かりやすい。だが、できるはずのものができないと一寸困る。
できると次へ進めるが、できないと止まったまま、または次回と言うことになる。できるはずのものだと進めるはずなのに進めないというのが起こる。できないと思っているものは現状維持で、できないと思っているだけにそれほど気にならない。ただの過程程度に思っている。
そこでは、できなくてもいいという頭が最初からある。だから、できなくてもいいことをやっているので、気が楽だ。
しかし、できないと頭から思っているものができると、これは嬉しい。できると思っていたものができた時よりも。
できる、できないを分けているのは本人。その基準は正しいとしても、リアルは別。何が起こるのかが分からないのがリアル世界、現実世界だ。
まあ、それほど違うことにはならないが、たまに違ったりする。
できると思っているもの、それは以前に決めたこと。また以前に思っていたことだろう。その以前と、今とでは多少違っているはず。
だからできるはずのものの基準も変えないといけないが、これはフィールドバック式に勝手にやっているのかもしれない。
これはできないだろうと思っていたこと、それは上等なものではなく、少し弱いものが多いのだが、それができたとすれば、範囲が広がる。だから今まで無視していたようなものの中にもそういう可能性はある。ただかなり低いが。
想像と実際。ギャップがある。当然のことだが、体験しないと分からない。
了
2024年01月12日
5094話 よくできたリアルでの話
あとで思うと、それはよくできたストーリーのようなもの。誰かが書いたような。田中はそう思ったのだが、それは自分で繋げたのかもしれない。
大枠はそういう話になるのだが、そのストーリーと関係のないことは省いている。確かにその間、間に違うことも入っているのだが、ストーリーと関係しないので触れていない。しかし記憶の中にはある。こういう記憶、すぐに忘れてしまうだろうが、そのときは覚えている。
よくできた話として、田中があとでこしらえたのかもしれない。エピソードの一つ一つは無関係で、それを田中が結びつけた。
だから田中の勝手な思いで勝手なストーリーをあとでこしらえたのかもしれない。しかし、そうではなくても上手くできたストーリーだった。これは作ろうと思っても思いつかない話で、そんな展開は思いつきもしない。その筋道も。
では誰が作ったのだろう。だが、そのストーリーは丸一日分ある長編だ。しかし要約すると短い。その一日分の中に先ほど触れた無関係なエピソードも入っている。
現実なので、仕方がない。そのストーリーに特化した背景や出来事以外は描写しないもの。朝、顔を洗うときの水の冷たさなどは伏線にならなければ省略。だが現実にはそういうものが入り込んでいる。
それでも田中は印象としての大枠ができすぎるほどできすぎたストーリーのようにリアルに感じられた。決してそれは現実ではなく、リアルではないのだが、田中の中ではそう見える。
すると、そのストーリーの途中とか、今まさに進行中の時、その一秒先は誰が書いているのだろう。そのときはまだよくできたストーリーとは思っていないが、何となく感じている。
しかし、それを感じながら見ているわけではなく、単に体験中という最中。ストーリーがどうの、よくできた物語的展開になっていると引い見ていなかったりする。
ただ、これはもしかすると、できすぎの現実になるかも、とは感じている。以前にもあったので。
ただ、出来損ないで割れてしまった話もある。いいところまで行ったのに、途中で話が止まってしまったとか。
当然田中は先々のストーリーも書いている。これは描いている程度で細部はない。ビジョンを描くというやつだ。こうなれば、ああなればの想像で、時としては妄想に近い楽しみ方もある。
だが、途中が粗っぽいとか、展開が急激とか、またはいきなりクライマックスとか、いきなりラストシーンが来たりする。
だから順を踏んでのストーリー性がない。起承転結とまでいかなくても、段階や過程があるだろう。
その過程、あとで思い出すと、あれが過程だったのかと繋がったりするのだが、これはねつ造に近い勝手さがある。強引さが。
当然同じ出来事、同じエピソードでも、別の見方をすると、ジャンルが違ってくる。喜劇映画にも怪談映画にもなり得る。捉え方、思い方の違いで。
そして怪談なのに喜劇的に見えたりするし、喜劇なのに怪談に見えたりするもの。受け止め方の違いで、どうとでもなったりする。
そんなよくできたストーリーのような現実だけではなく、普通の現実。単発的な現実も、受ける側によって違って見えるのだろう。
現実を見ているのではなく、田中自身を見ていたりしそうだが。
了