2024年03月31日

5172話 語り部


 宿場で泊まるところがないのだが、相部屋になる。大部屋で雑魚寝もできるのだが村田は一人相手の方が楽なので、少し高いが、その宿屋に入った。
 その部屋にいたのは老人で、この人なら良さそうだと感じたが、一対一なので、相手を選べない。別に囲碁の相手になってもらうわけではないが、やや窮屈。
 これが大部屋なら他の者を全て無視できるだろう。どちらがよかったのか、村田は分からない。ただ、この老人、いい感じの人なので、それで助かった。
「雨なのでな、この宿場で泊まる人が多いようです。次の宿場までもう少しなので、ここは素通りするのですが、この雨で夕方を迎えるのは難儀、だからここで泊まる人が多くなった。そういうわけです」
「よろしくお願いします」村田はまずは挨拶から始めた。その前に老人が宿屋事情を既に語り始めていたのだが。
「わしは語り部でな。あなたは」
 と問うて、じきに「いや、聞きますまい」と取り消した。
 村田に聞く耳があるのかどうかを知りたいのだろうか。あまりしゃべりたくない人なら、挨拶だけで済まそうと老人は思ったようだ」
「さるお屋敷の使い走りのような者です」
「お侍様ですか」
「私はそうではありません」
 老人はそれで納得したようだ。身元ぐらい知りたいと思ったのだ。まさか寝首をかかれるわけではないが。
「語り部なのですか」村田から聞いてきた。これは会話になりそうだ。
「口だけで、鳴り物はありません」
「芸人ですか」
「いえ、お話にするのが商売です」
「戯作家」
「芝居ではありません」
「何でしょう」
「その家に伝わる話をまとめ上げたりします」
「はあ」
「それを一巻物として記します。私が語ればこうなるというのを文字で残すのです」
「そんな商売があるのですね」
「まあ、それでお代をいただきますので、商売と言えば商売」
「じゃ、語り部じゃなく、その中身を作る稼業なのですね」
「ひとつの話としてまとまるようにね。しかも分かりやすく」
「語りって何でしょう」
「物語ですなあ」
「はい」
「物は物のままでは物のまま、それに語りが入るのが物語り。これを騙りとも言いますなあ」
「ええ、騙すような」
「色を付けますし、関係も少し変えます。だからそのものをそのものとして伝えてはおらんのですよ」
「はあ」
「物は勝手にペラペラと話し出さないですからね。そのものに変わって私がしゃべるのですよ。まあ、実際には記するのですがね」
「家伝のようなものですか」
「そうです。口伝ではなく、書にして残します」
「よく分かりました。そういう生業もあることを」
「おっと、しゃべりすぎたようです」
「もう少し聞きたいです」
「そうですか、じゃ、酒を用意させましょう」
 外は雨。この二人、長く話し込んだようだ。さすがに相手は語り部。話が上手い。
 
   了
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2024年03月30日

5171話 探し物


「探しているものが見つかったよ。苦労して探さなくても簡単なところにあった。あっけなくね」
「それはよかったねえ」
「ずっと見張っていたんだ。チェックしてた。しかしいつ見ても同じようなもので、あまり変化がないんだ。しかし、それがある確率は高いんだ」
「それで見つかったのかい」
「そうなんだ。今回はあまり待たなかった。もっと遅いと思っていたんだが、それが早かった。まさかすぐに出るとはね」
「じゃ、もう待たなくてもいいんだ」
「いや、それを待つのが楽しかったんだ」
「あ、そう」
「だから早い目に出てしまうと、待つべきものがなくなってしまう。探さなくてもいいけどね」
「どうしてそんなに早く出たんだろう」
「さあ、それは知らない。しかも立て続けに出た。まだ出ていないものもあるのだが、それよりも先に出ているんだ」
「あ、そう」
「興味なさそうだね」
「探しているものは人によって違うからさ」
「そうだね。僕は興味津々だけど、君はは無関心」
「関心はあるけど、それじゃない」
「そういうことだね。だから探し物が見つかったんだけど、喜んだのは僕だけかもしれないなあ」
「固有すぎるんだよ」
「いや、探している人は結構多いと思うけど、その絶対数は少ない方だね。一般的じゃない」
「でも、見つかってよかったねえ」
「ここで運を使いすぎた。偶然か必然かは知らないけど、続きすぎた。ほぼ同時期に来たからね。こんなことは滅多に起こらないから、もう次は当分ないよ」
「それでもまだ探すのかい」
「まだ、見つかっていないのもあるしね。これはいつか出るが、出ないかもしれない。ずっと待ってるけど」
「待つのが楽しみなんだからいいじゃない」
「ある日突然出たというのもあるしね。予想できないからいい」
「僕も待っているのはあるけど、探しにまで行かないなあ。来たときでいい」
「待ち人来たらずのままってこともあるねえ」
「待っていないから、落胆もないさ」
「でも密かに待っている」
「探さないけどね」
「どっちがいいんだろう」
「さあ、本人の性分次第でしょ」
「僕は待っているのになかなか来ないときは、どうなっているのか、少しは調べたりする。まあ、調べようがないものもあるがね」
「でも発見したときは嬉しいでしょ」
「懸命に探したんだから、その成果を味わえる」
「でも落胆の方が多いんでしょ。やはりまだかと」
「慣れてくると、来ていなくて当たり前となるんで落胆とまではいかない。それで普通という感じ」
「僕も君のようにこまめに探しに行こうかな」
「それなりに楽しいよ」
「そうだね」
 
   了

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2024年03月29日

5170話 何でもない


 何でもないものは、やはり何でもないので興味も起こらないし、注意して見るようなこともなく、また好ましいとも悪いとも思わなかったりする。そのため何でもないものは無視して通る。
 池田は、この何でもないものの中に何かあるのではないかと思うタイプ。何かありそうなものは他にもいろいろあるのだが、あえて何でもないものに注意を向ける。
 これは無理に向けないと開かない。しかし何でもないものの扉が開いても、中は相変わらず何でもなさだけがある。
 しかし、池田は粘る。何でもないもの自体には意味はないのだが、見出すことはできる。しかし何のとっかかりも引っかかりもないので、捉えようがない。また意味を構成しにくい。
 ただ、そのものにはないが、他のものと比べての話。だから何かありげなものにはないものがある。それが何でもないという意味だ。だから何でもないものが生きるのはそこしかない。中身ではない。
 そして池田はそれでくつろいだりできることを見出す。何でもないものなので、見ているだけでいい。しかも注意深くではなく、ぼんやりしながらでもいい。これこそ何でもないものの良さだろう。
 何かありそうなものならぼんやりできない。その気になって調べたり考えたりするだろう。しかし、何でもないものはそんな手間はいらない。
 するとそれは刺激の問題かと池田は考えた。刺激の少ない穏やかなもの。だが穏やかなものがいいのではなく、そんな特徴もないためだ。
 凄いところに池田は入り込んだ。誰も見向きもしない何でもないものの探求。これは最初から無理なのだ。探求する必要もないことなので。
 では、残るのは何か。それは何もないものなので何もしなくてもいいという程度。それなら最初から何もしない方がいい。
 だが、何かしてしまうだろう。だからこそ何でもないものが必要。取り合えずそれと接せられるので、何かやっていることになる。実際には何もやっていない。やることがないため。
 しかし、池田は何もないと思っているが、実は少しは何かがあるのだろう。何もないというようなものは最初からないので、見ることも触ることもできない。やはり何もないという状態で実際にあるのだろう。池田にとっては無関係なものだが、他の人にとっては何かあるものになるはず。
 だから池田にとってだけ何でもない存在と言うことになる。それが池田にとりオアシスになるとすれば、何かあることだ。この場合ならオアシス。
 何でもないものを見ていると安らぐ。これは池田から出ている。平穏な気持ちでいられる。そうなると、何でもなさが逆に生きてくる。だから決して何でもないものではない。
 さて、池田の結論。それもまた何でもないようなことだ。
 
   了
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2024年03月28日

5169話 漏れる


 その予定ではなかったが、ここでその予定と同じものが得られる、果たせるのなら、予定地まで行かなくもいい。
 しかし目的を果たせると予定していた場所ではないので、ここでは無理だろうと思われていた。またその期待もない。
 ところが予定していたものに近いものがその場にもあるような気がしてきた。しかし、ここは早く立ち去るべきだろう。次に控えている予定地があるので、だからここではないという頭もある。
 しかし、ここでもいいのではないという頭もある。この頭は同時には来ない。交互だ。そして、ここでもいいのではないと思われる展開になってくると、ここにいてもいいのではないかと、交互が消え、腰を据える気になる。
 その前に、ここにもう少しとどまりたいと言うのが先に気分としてくる。頭ではなく、計画ではなく。
 木村はそんなことを思いながら作業を続けていた。本来ここでは目的を果たせないはず。それは分かっているのだが、予定地に行っても、ここよりもいいだろうかと思われた。それに移動が邪魔くさいし、流れも変わってくる。
 そして、なんやかんやと思いながらも、予定地ではないところに居続け、結果、目的が果たせた。ここでもよかったのだ。これはあとで思うことで、そのときは半信半疑。
 木村は得をした気分になった。しっかりと誂えた予定地でなくても目的が果たせたので。
 結果の種類は違うが、気持ちは同じようなもの。目的地であろうとそうでなかろうと気分の上では同じだった。
 また目的地として定めていても、結果が出ない場合もある。これは誤算だ。計画の。それよりも、今ありありと目的が果たせそうな未予定地の方が確実。
 しかし、そのものと初めて接したときは、予定になかった。また同じようなものがあっても予定には入れないだろう。条件が違うためだ。揃うものが揃っていない。
 しかしそれは木村の勝手な思い込み。思い込みやすいので判断が簡単なため。
 頭で考えるのはいいし、整理もしやすいし、方針も立てやすい。しかし実際は別だ。思わぬ伏兵のようなものと遭遇する。予定外のものと。
 結局今回はそれで結果が出せたのだから、これも履歴に残り、経験に残り、既成の事実になる。しかし、やってみなければ分からないものは、やはり予定候補には入れにくい。
 木村の個人的な話だが、他のことでも当てはまるだろう。漏れがあるのだ。
 
   了
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2024年03月27日

5168話 復活


 壊れていると思っていたものが、簡単なことで直ることがある。失ったものが突然戻ってきたりする。
 これは諦めていたことほど得した気分になる。何かを得た、増えたではなく、元通りになっただけで増えてはいない。
 しかし動かなくなっていた箇所が動くと、動くことがひとつ増えたような気がして、これは喜ばしい。元々のものに戻っただけなのだが、もう壊れたままずっとそのまま行くのだと諦め、それが普通になっていたとすると、やはり増えたと感じてしまう。
 島内はそういう復活ものが好きで、目新しいものが加わるわけではないが、以前のように戻っただけでも満足。
 少し欠陥のある、欠けのある。足りないところがあるものが復活した場合、新たに増やそうかと思うこともある。
 これは新たなスタートとなり、その先の展開が可能なため。壊れたままだと現状維持で、それ以上の展開は諦める。動いているだけ、稼働しているだけでも十分で、それ以上は期待しない。
 そのものが持っている可能性。それは万全な状態だからできることで、その気になる。何処か不都合がある場合、安心して次の展開へと進めない。
 しかし欠陥とか、不都合は簡単なことで修復できたりする。ただのボタンの掛け違い程度のこともあり、あっという間に解決してしまう。
不都合の原因が何処にあるのか分からなかったのだろう。
 探しても見つからなかったので、故障扱い。しかし、ものすごく初歩的なところでのスイッチの入れ違いだったりする。
 本当に崩れて、故障になり、元には戻らないものもあるが、そちらは現状維持だけなら、また何とかなる。新展開はないが。
 また、壊れたと思ったのはただの勘違いのこともある。よく知らないものでは起こりやすい。知っている人にとっては何でもない初歩的な問題だったりする。
 何かよく分からない機械を渡され、それを適当に操作しているようなもの。ただよく知っているものでも、初歩的な間違いをやっていることもある。
 今回島内は不都合があると思っていたのだが、勘違いだったことが分かり、見落としていただけなので、簡単に回復し、元に戻った。
 もう諦めていただけに、これは喜ばしいが、元々故障や不都合などなかったのだから、島内がドタバタやっていただけ。
 しかし、一寸した不都合があっただけで放置したり、捨てたりすることもある。最初から気に入らないものだったのだろう。
 
   了
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2024年03月26日

5167話 一周回って元の位置


 どうしても戻ってしまうことがある。元に戻って元の位置。父帰るではないが。
 やはりそこへ戻ってしまうのは、それが好ましいためかもしれない。そこから脱しようとしているわけではないが、他へ目移りがし、少しやってみようと思う。それは事柄と物とでは少し違うが、物の場合、あまり動かない。そのものが固定し、変化しにくい。劣化はするが。
 事柄の場合、タイミングや相手が変わることがある。物のように以前とは同じではなかったりする。急に態度が違うとかだ。
 物に対する場合、自分の変化が大きい。物は変わりにくいのだから、その接し方、受け取り方だ。
 そして物なら次々に好きなように変えてもいい。物と自分とだけの関係のため。だから自分だけが変えたり変わったりしているので、ただの自作自演かもしれない。そしてうろうろした末、元に戻るというのはよくある。
 一周回って元に位置となるのだが、ぐるぐる回っていた期間があり、同じところにまた戻ってきたのだが少しだけ意味合いが違ってくる。
 これは見直したとか、やはりこれがいいとかの得心の仕方が違い、接し方や受け止め方も変わる。だからうろうろしていたのは無駄ではない。ただ、無駄は無駄なのだが、そのおかげで目移りしなくなったりしやすい。つまり、もうあまりうろうろしなくなる。その動機が少し消えるためだ。
 元に戻ってしまう物や事柄はひとつではなく複数ある。そして戻らず、そのまま放置し、もう顧みなくなる物事もある。戻りがなかったので、行きっぱなし。それはそれで仕方のないことと言うよりも成り行きでそうなる。
 この成り行きが曲者で、かなりのものが凝縮され詰め込まれている。いろいろな要素が。
 その成り行きに走らせるのは何となくかもしれない。いいように思えるとか、そう感じるとか、やってみたい、体験してみたいという要素も加わっているので、結構曖昧なのだが。
 成り行きでそうなったのだから仕方なしとも言えるし、妥当なところだとも言える。妥当の方が聞こえはいいだろう。よい加減、よい案配という程度で、まずまずの落とし所。しかし、これも変化するので、ずっとそのままというわけにはいかない。
 元に戻ると言っても、その元も変わってしまうこともある。元を正せば侍育ちのように変わることはないものもあるが、それで何をしたのかという生まれてからその後のことが元になる。実体験したことなので、身体が知っているというか、体感も加わっている。
 つまり、自分で企てたことが元としてふさわしい。元々をたどれば切りがないので、ここ最近のことでもいいだろう。
 しかし、元々は、というのはいいわけで使いやすい。元々を重ねるのではなく、最近の傾向程度でいい。手が届く範囲の。
 そしてうろうろして元に戻ったとしても、それがやはり一等だということではなく、今のところ、それが一番近い程度に押さえ、固守することはない。
 だからいつでもまたうろうろしてもいい。そしてまた戻ってしまうのなら、かなりの強度だろう。そのものに引力がある。
 
   了
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2024年03月25日

5166話 今村の今


 今村は日々同じことを繰り返している。時間が来ればそれをし、あれをする。だから時計を見れば、今、今村が何をやっている最中かが分かるだろう。
 ただ、そこまで今村の日常を知っている人はいない。一人暮らしなので、何処へ行ったとか、家の中で何をしていたのかなどが。
 ただ近所の人は少しは知っている。物音とか窓明かりでそれとなく分かるのだろう。この時間は今村はいるとか。
 また外に出るとき、その姿を見られることもある。戻ってくるときもだ。別に見張られているわけではないが、出るときと戻ってくる姿を同じ人が見たなら、何時間ぐらいの外出だったのか分かる。
 また袋でもぶら下げておれば、買いものに出ていたのかとなる。
 その時間がいつも同じなら、今村はその時間、家にいないことが分かる。ただ、近所の人なので、だからどうと言うことにはならない。重大な意味も発生しないだろう。情報としては薄いもの。
 そして今村は今日も昨日と同じようなことを繰り返し繰り返しやっているのだが、これは必要なことが多い。そうでない場合もあるが、やはり似たようなことを日々繰り返している。
 どちらにしても同じことをまたやっているので、飽きないものかと思われるのだが、案外そうではなく、毎回違いが出てくる。
 やっている意味は同じなのだが、感じ方が違う。ここでもうはっきりと同じことから外れる。やっていることは同じだが、その過程が違うし、気持ちも違う。
 また今日は疲れやすいとか、今日は思うようにどんどん進むとかの調子も毎回違う。ほぼ同じであっても、それをやっているときに思うことが違う。そのことを思うだけではなく、別のことも思う。その思いが毎回違う。
 一日前の今村と今日の今村も一寸違う。だから違う人がやっているわけではなく、状態はほぼ同じだが。
 体調の違いとか、その日の雰囲気。これは他のことからの影響で変わることが多い。当然それをやっているときの天気とかで変化する。
 同じ作業をしていても乾燥しているときと湿気ているときでは違うだろう。当然気温の違いで暑いとか寒いとか、丁度とか、これも日替わりだ。
 だから同じことを繰り返しているわけではなく、実は繰り返せないのだ。ただ意味としてみた場合、同じことをやっているのだが。
 その毎日の繰り返し事項。十年前とはがらりと変わっていたりする。やり続けていることもあるが新たに加わったものもある。それぞれその事情なり意味が変わったりしているのだが、そうなるようになったと言うことだ。
 その変わり目があるはずなのだが、今村はそんなことよりも、今を見ているのだろう。今やっていることにそれらが凝縮されている。
 
   了
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2024年03月24日

5165話 迷子ストリート


 思わぬところに思わぬものがある。
 思わぬところだがずっと思っていたものがあるといい感じだ。そこにあったのかと、それだけでも驚く。思わぬものがあった場合でも、何処かで思っていたのだろう。
 以前思っていたとかで、最近は忘れていたもの。思わぬ発見というのは、そうなるかもしれないと密かに思っているのかもしれない。
 しかし、あまり思っていないものと遭遇しても何とも思わない。そういうのがあるのだなと思う程度で、それ以下でも以上でもないので、チラッと見ただけですぐにスルーし、もうそれとの遭遇などはサッと忘れている。
 気に留めるようなことでも踏み込んでみようとは思わない方があっさりしていていい。そして気楽だ。
 何も思うことがないので、素直に見ているだけ。しかし、引っかかりがないので、あまり意味はないし、価値も感じない。だからスルー。
 だが、たまには興味のないものと付き合うのもいい。何が良くてそういうものが存在しているのかは、本人次第。
 きっと他の人や、何らかの関係で、それはあるのだろう。本人にとっては何でもないものだが、関わりのある人なら引っかかりがある。
 興味のないものは体重を乗せないで見ることができる。接することができる。それに興味も関係もないので、他のことを思いながら、見ていたりする。ただの目の置き場になってしまうが。
 しかし、本人ではないが、それに興味を持ちそうな人や関連性をそれなりに想像できる。きっとある人にとっては大事なことだとか、忌み嫌うものだとか、飯の種に関係するとか。
 探索というのは興味深い。何かを探しているのだが、探している最中がよかったりする。当然探し当てればもっといいが、思っていた探し物がこの程度かというのもあり、探し当てなかった方がよい場合もある。
 そういう探し物の経路とは別に、思わぬところでの遭遇の方が嬉しい。これは意外な場所にあったりするとなおさらだ。
 ただ、その場所へもう一度行くとなると道が分からない。探しているとき、道に迷い込み、そこへ出てしまったようなもので、もう一度同じところを通れといってもできなかったりする。
 偶然の遭遇で、探しているものに引っ張られたのかもしれない。それは神秘ごとだが、そうとしか言えないほどの偶発性もある。偶然なので再現できない。
 人もいろいろと計画を練って動いているのだが、案外行き当たりばったりな面もある。予定から離れてしまい、迷子になったようなものだが、その迷子状態でしか遭遇できないこともある。
 メインは本道にはなく、迷子道にあったりする。ここの繋がりはつぎはぎだらけになりそうだが。
 
   了
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2024年03月23日

5164話 釣り落とした魚


 狙っていたもの、欲しかったものがすぐそこまで来ているのだが、一寸した手違いで、ややこしいことになった。面倒なことに。
 上原はその手続きのようなものをすぐにやろうとしたが、待てば来るかもしれないと思い。少し待った。これは前回にもあったことで、いつもなら、一寸待たされるが、すぐに来た。
 それでしばらく待ったのだが、来ない。もうそのつもりで準備していたし、気持ちも手に入ったときのことをいろいろと想像していた。
 これはやはり一寸した手はずや手続きを加えないと何ともならないような気がしたが、その決心が邪魔くさい。すんなりといかなかったことが気に食わない。いつもなら、そんなことは起こらないのに。
 それで、もういいかと思うようになる。欲しかったものがあまり欲しくないものに見えてきたため。冷静に考えるといらなかったのかもしれないと。
 それに、欲しいものだが、それだけのことで、役に立つかどうかは分からない。どちらかというと、一寸不便になる。しかし良い物だ。
 だから不便を承知の上で選んだことになる。あえて不便なことをしてもいいだけの見返りがあると思ったので。
 しかし、もういいか、となる発想はどこから来ているのだろう。それほど欲しくなかったのかもしれない。それで、何となく邪魔者扱いになっていった。これは手に入れなくても別段困らないので、もういいかと。
 しかし、もう少し待てば、いずれ手に入るかもしれない。しかし、もうなくてもいい。いらないものではないが、それほどのものではなくなっている。
 あと一歩で手に入るものなので、少し手間がかかるが本当に必要なら、それをやるだろう。絶対に。
 その絶対がない。まあどちらでもいいか程度に落ちていた。
 上原はいったい何をしているのだろう。簡単なことで価値が上がったり下がったりする。そのものは変わらないのだが。
 それは一連の流れが悪かったのだろう。それが気に入らない。ここでケチがついた。評価基準の中に、そこまで入っていない。上原の気持ちの上だけの話。
 そして手に入ってもいいし、入らなくてもいい。どちらでもいいという中途半端な状態になる。
 手に入れば喜ばしいが、入らなくても、余計なものが加わらなかったので、これも喜ばしい。良い物だけに全体が狂ってしまうことになる可能性もあるので。
 上原はごちゃごちゃとそんなことを思っていたのだが、相反するものが並行してあることに気付く。そしてどちらもいい。どちらに決まってもいいという曖昧な感じ。
 一寸邪魔くさいことをすれば、手に入るのだが、それをしない。放置すればそのまま消滅し、何もなかったかのようになる。だから何もしない方が楽。
 しかし、何もしなくても、待てば来る可能性もまだある。完全に手の届かないところにいってしまうまで間があるので。そして、その後は消滅する。
 だから、それを手に入れるという案も消えるようなもの。そして消してもいいと上原は思うようになる。そちらの方が楽なため。
 問題は、そのあと、釣り落とした魚の心境にならないかだろう。それはなかったような気がする。惜しいというのが不思議とない。だからその程度のものだった。
 
   了
 
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2024年03月22日

5163話 楽しみ


「上岡さんは何を楽しみに生きていますか」
「楽しみが生きがいかね。人生を生きるとは、楽しむためかね」
「その中で、楽しみがあるはずなので、それを一つ」
「人生の中に楽しみはある。確かにな」
「たとえば最近は」
「夕食のおかずが楽しみだ」
「それはいいですねえ」
「それは人生そのものではないがね」
「人生を絡めてくるのが上岡さんらしいです」
「人生と言うより、一生だな。どう生きてきたかだ。その中には楽しみも当然ある。苦しみがあるようにな。それは歓迎しないので、楽しいことを望むだろう。これは人により楽しみ方は様々。また楽しむことを控える人もいるだろう」
「上岡さんの場合、どうなんですか。夕食のおかず以外に、何かありますか」
「いろいろある。夕食のおかずと似たようなものだがな。これはどっちでもいいのだ。だから楽だ。苦労もいらん。外食するときは好きなものを選べる。選んでいるときは楽しいかどうかは分からんし、食べているときも楽しいとは限らんが、だから楽しみにはしておるがそうでもないときもある」
「他に何かありますか」
「新製品」
「ああ、それはあるでしょうねえ」
「ずっと使っていたものの新製品などが出ると楽しいねえ。しかし使ってみないと分からないがね。これも新製品が出たというのを聞いたとき、楽しいねえ。その先は知らんが、満足がいきそうだと楽しい」
「お仕事や人間関係ではどうでしょうか」
「これは普通だね。楽しいこともあるし、苦しいこともある。上手く行けば楽しい。行かなければ苦しい。だから普通だ。それに楽しさを狙う余裕はないしね」
「楽しいことについてどう思われていますか」
「いいじゃないか」
「じゃ、楽しみを求めるタイプですか」
「そんなものにタイプがあるのかね。楽しそうだと思えば行くだろう。追うだろう。そこまでしなくても静かな楽しみ方もあるしね」
「楽しみは大事ですか」
「そうだね。これがないと味気ない。楽しさは喜びだからね。ずっと喜んだままだといいんだが、そうはいかない。たまに喜んでもいい状態がある。だからいい。多くなくても」
「ごく一般的ですねえ」
「ああ、普通だね。私らしさはあまりないか」
「そうですねえ」
「じゃ、その辺の人のコメントと同じか。じゃ、役立たずで悪いねえ」
「いえいえ。参考になります。上岡さんがどういうお考えなのかが」
「それを聞いて、楽しいかね」
「意外と普通だったので、一寸楽しいです」
「じゃ、楽しませたわけだ。いいことをしたんだ」
「いえいえ」
「今後どのような楽しみ方をしたいですか。夕食のおかずではなく」
「楽しもうと思うと外れる。逃がす。逃げていく。だから狙わない方がいい」
「でも、想像するでしょ。こういう状態なら楽しいとか、こういうのがあると楽しいとか」
「大いにあるがね。あまり強く念じない方がいいようだ」
「そうなんですか」
「意外なものが楽しかったというのがいいねえ」
「でも、楽しみがあるだけで、いいですねえ」
「そうだね。ないよりもね」
「あ、はい」
 
   了
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2024年03月21日

5162話 ピタリと填まる


 ピタッと填まることがある。これとこれがピタッと当てはまるとか。予定通り、思っていた通りに行くとか。
 これはピタッと填まるだろうと思っていることでも填まらないことがあるので、上手く填まったときは当然のことだが、無事に填まったことで喜ばしく思う。当たり前のことだとはいえないので。
 その填まり方だが、関係のなさそうなものとピタッと填まったりする。これは関連があるのだろう。知らないだけで。このときは驚く。
 こんなものとくっつくのか、こんなものと共通点、互換性があったのかと。無縁のはずが親戚になったりする。縁者に。
 条件が揃うとピタッと来ることがある。一つ欠けていると填まらなかったりするので、それだけのことかもしれない。
 これは準備や用意がよかったのだろう。それでもピタッと来ないときもあるので、完璧ではない。いくらいい条件や状況やタイミングでも。
 ピタッと填まらないかもしれないが、その近くまで寄せることはできる。これは結果が楽しみだ。
 そういった仕掛けものではなく、事柄の流れの中で最後には上手く行くこともある。まるで最初から予定されていたかのように。
 本人は仕掛けていないし、作為的にはなっていない。その順番などに関して。
 そういうタイプで、ピタッと填まったときは、ああ来たか程度で、それほどの驚きはない。そういうものかと思う程度。
 これは仕掛けたり狙ったりしていないためだろうか。自然とそうなった。自ずとそうなった程度。勝手にそうなったのだから、これは何だろうとは思うものの、それなりに自然なのだ。感情の起伏はあまりなかったりする。
 まるで最初からそうなるように決まっていたわけではないが、そこに文字通り填まるのだろう。悪いことなら落とし穴に填まるようなもの。いい場合は物事がピタリと填まる。いいところに到着する。
 しかし、誰かが仕掛けたわけではない。本人が何処かで仕掛けていたのだろう。気付かないだけで。だからシナリオを書いたのは本人だったりする。そして書いたことを忘れていると言うより、書いた覚えがない。しかし書いていたのだ。
 そしてあとで思い出すと、あれをやっていたからかな、とかになる。
 一度ピタリと填まると味を知る。同じことがまた起こるようにとか、填まりそうなものを探したり。
 そして強引に繋げたり、強引に仕掛けたりしそうだが、そういうときほどピタリは来ないで、外れたりする。
 こう言うのは勝手に決まると思い、任せておいた方がいいのかもしれない。下手に弄らないで。
 
   了
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2024年03月20日

5161話 何かある


 何かあるのだがよく分からない。
 それで島崎はこれではないかと覗いてみた。確かにそれなのだが、しばらくすると、それではないような気がする。
 では、こっちのこれかもしれないと思い、そちらも覗いてみた。確かにそれだ。間違いない。何かとはこれだったのだ。
 そして、またしばらくすると、それではないような気がしてきた。では何だろう。
 探せば見つかるのだが、やはりそれではなかったというパターンになる。確かにそれもそれなのだが、何だろうというのがいつまでも残る。
 島崎は気味が悪くなってきた。何かあると思う思いは何処までも続いているため。
 探せば見つかる。しかし、それもそれなのだが、それではない。ではそれは何処にあるのか。
 これはないような気がしてきた。その何かとはもっと深い箇所にあるのかもしれないが、気持ちの底などないような気がする。出てきたものが全てだ。その奥には何もない。
 島崎はいつそんな考え方になったのか、思い当たらないが、そこに埋まっているのは忘れていたようもので、これは必要がないので、忘れたのだろう。無理に思い出せば出てくるが、結構粗い。
 記憶の中から消えているものの方が多い。それらは何処へ行ったのか。全部覚えていたとすれば頭がパンクするだろう。だからそれは外部に外付けとしてならいけるかもしれないが、そこまで行って探し出す用事などないだろう。
 一年前に食べた夕食のおかず。こんなものは忘れている。しかし、覚えている人がいたなら、その人に聞けば分かる。だが、大したことではないし、参考程度。
 また食事日記などを書いていたとすれば、それを見ると思い出すだろうが、それが役に立つのだろうか。必死で一年前に食べたものを思い出す作業などいらないだろう。
 しかし、先ほどの島崎が感じた、何かあるというのはタイプが違うのかもしれない。これは記憶ではなく、まだ体験していないことだろう。起こりそうなこと。起こしたいようなことかもしれない。ただの予定とか希望だったりする。しかし、過去から来ている可能性もあるが。
 思い当たることはあるのだが、それではないが続くので、やはり最初からそんなものなどなかったのかもしれない。
 何かあると思い続けるわけではないが、一寸気になるモヤッとしたものがある。これは本当は何もないのだろう。
 
   了
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2024年03月19日

5160話 見え方


 いつもの見え方、見方というのがある。これは慣れてくると、それが一番よくなり、違う視点とかでは逆に分かりにくくなったりする。
 本当は逆で視点を変えれば見えるものも変わってくるはず。しかし、そのものが違うものではない。同じものだ。だから捉え方が違う。
 ただ、どう捉えても同じもの。そのものには変化はない。見る側に変化があっただけで、これもいつもの見方でも実際にはできること。一歩踏み込んで覗けばいいだけ。
 それと、いつもの見方だと、変化に気付きやすい。いつもの見え方の中での一寸した変化は気付きやすい。
 見方を変えると、最初は新鮮で、同じものでも違ったように見えたりする。これも慣れてくると、変える前と似たようなものだが、全体が見渡せたりすると分かりやすい。
 ファイルの並べ方を変えると、順番が変わり。また逆さにもできる。中のファイルは同じだが、切り取り方というか、都合のいい並び方になっている方が探しやすい。そして一覧性もいい。新しい順とか、ファイル名順とか。
 人もそういう切り替えをやって見ているのかもしれない。ただ機械と違い別のソフトに変えるわけにはいかない。全く違う仕掛けのソフトで、かなり便利なソフト。
 これは本人を変えるようなものに近いので、そこは変えられない。見え方を少し工夫する程度。
 見方や捉え方を変えると、新鮮に見え、新たな展開とかが生まれたり、違う発想が生まれるかもしれないが、あるところが快適になると、あるところが不便になる。
 今までの見え方よりもよくなったが、今までできていた機能が、乗り換えると使いにくいか、使えなかったりする。
 いいところだけを取るわけにはいかないのだろう。悪いものも付いてくる。
 しかし、見方なりを変えたくなることもあり、その場合、リスクもあるが、やってみたくなる。リスクというか不便になるかもしれないが何とか工夫してリスクを減らせる。
 それなら今まで通りの見方でもいいのではないか。同じようなことができるのなら。ただ少し不便だが。
 それよりも刷新された新鮮さで、今まで気付かなかった発見もある。こちらの方が本来だろう。
 一寸これまでとイメージが違う。同じものを今までも見ていたのだが、そこに発見のようなもの、見逃していたものを見つけたりできる。
 これは環境が変わると、見え方や接し方も違うようなもの。そういう立ち位置から見ると、違う展望になる。
 高いところからも低いものは何とか見えるし、低いところからでも高いところも何となく見えている。どちらから見ても同じようなものだが、切り替えると新鮮に感じられる。そこがいいのだろう。
 
   了
posted by 川崎ゆきお at 13:27| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月18日

5159話 落城の時


 城内の動きが慌ただしいが、そっと歩いている兵もいる。
 大天守の脇にある門を守っている坂田は思案げ。
「居残るつもりか」
 同輩に聞く、身分も同じような倉橋に。
 家来は伴っていない。彼ら自身が足軽なので、足軽に下僕はいるが、連れてきていない。この城を守るとき、これは無理だと考えたからだ。下僕も知っている。
「殿様はどこにいる」坂田が聞く。
「要手の倉の中だ」
「じゃ、この天守を守っても仕方あるまい」
 そこを、もう一人の足軽が静かに歩いている。そっと。
「出るのか」
「ああ」
 逃げ出しているのだ。
 坂田は同輩の倉橋にそのことを聞いていた。
「この天守が落ちると不味い。だから残る」
「しかし本丸まで来られては、もう落とされたのも同じ。天守など守っても仕方あるまい」
「じゃ、もっと前に出るか」
「勝手なことはできない」
「そうだな。ここが受け持ちだからな」
 それでは話が進まない。坂田はもう一度聞く。知りたいからではなく、それは何度も聞いた。その先を聞きたい。
「残るのか」
「駄目か」倉橋が少し崩れた。
「しかし、他の奴らに悪い」
「組頭は先に逃げたぞ。残っているのは我らだけ。勝手にしてもいいだろう」
「そうなんだがな」
「今なら落ちられる。このままじゃ城を枕に討ち死に。どっちを選ぶ」
「落ち武者か。しかし、まだ勝敗は決まっておらん。援軍が来るとの噂もある」
「それは嘘だ」
「分かっている」
「今なら敵の本隊は城をまだ囲んでいない。今その際中だ」
「木槌の音が聞こえる。それなんだな」
「陣地を作っているんだ。囲むためにな。今なら手薄。落ち武者狩りもない。まだ落ちていないのだからな」
「しかし、敵さん、いきなり来たのう。いきなり城攻めか」
「降参してくれればありがたいのだが、そのつもりはないらしい」
「困ったのう」
「だから、相談だ。逃げよう。落ちよう」
「しかし、あとでえらい目に遭うぞ。裏切り者として」
「叱る相手は滅んでもうこの世にいないだろう。そこまで付き合えん」
 そこをもう一人の足軽が静かに前を通り、門から出た。
「沖田殿も逃げたようだ。もう決まりだろ」
「組頭が来ると不味い」
「だから、先に逃げたんだ。姿を現さない」
「じゃ、一寸城を出るだけなら」
「そうそう、それでいい。行こう。行こう」
「危なかったら引き返すぞ」
「いや、戻る方が危険だ」
「そうだな」
「敵将の知り合いを知っている。矢口村の庄屋だ。そこで今後のことを相談しよう」
「要するに、敵に寝返るわけだ」
「嫌か」
「いいや。行く」
「よし、決まった。ただし急ぐな。静かに動け。そっとな」
「ああ、そのつもりだ」
 
   了
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2024年03月17日

5158話 目的達成せず


 目的は達成できないがその手前まで、あと一歩のところまで行けることを上田は確認した。
 この確認は、残念だったが何とかあと一工夫とかではなく、そこまで行ければもうそれだけで十分ではないかという確認。
 不満だが、これは使えると思った。失敗は失敗のもとで、失敗を繰り返すパターンだが、本当は失敗は成功のもと。しかし、達せなくても悪い感じではない。この感覚を上田は得た。
 いつも同じところで失敗し、あと一歩、あと一手が出ない。これは頑張れば解決するのだが、そうまでして必死でやりたくはないし、それで達成したとしても次回もあのしんどい目をまたやるのかと思うと、次回がしんどくなる。やる気が失せるわけではないが、しんどいことをしに行くようなもの。
 その途中まではしんどくない。山で言えば九合目あたり、最後の詰めのようなところがしんどい。だが手前までならそれほど苦労はいらない。逆に楽しいほど。だからその楽しいところだけを味わえば良いのではないかと上田は考えた。
 それに高い山はそこだけではない。いろいろな山がある。それらにチェレンジしやすくなる。なぜなら登り切らないため。登頂失敗で、登頂成功ではない。目的を果たしていない。
 しかしその手前までなら無理しなくても登れる。この方がいろいろな山に挑めるので楽しいではないか。というような発想だ。これは負け惜しみのようなもの。
 しかし、実際には少し無理をすれば登り切れるのだ。だから余裕で降りるようなもの。そこで終えるようなもの。
 これでもそれなりの達成感があることに気付いた。これでいいのではないかと。
 ただ、無理だろうと思っている山に、楽なままサッと登ってしまえる場合もある。それは偶然だろう。これはこれで本物の達成感、目的を果たして大成功と言うことになるのだが、途中でやめたときとの差はそれほどなかったりする。
 最初の頃は失敗すると悔やまれ、残念さ、無念さが残ったが、それを繰り返すうちに、どうせ失敗するだろうと気楽なった。頑張れば達成できる率が増えるが、いくら頑張っても無理なときはよりダメージが来る。
 これは失敗の楽しさを得ようとしているわけではない。成功の手前ぐらいにとどめた方が良い場合もある。それは無理をしていないと言うことだろうか。
 だから無理なく目的を達成できればそれに超したことはない。ただ、その目的、似た達成感なら手前までいいという目的に変えれば達成したことになる。屁理屈だ。
 これは敷居を下げることで、上田自身が納得すれば済む話。
 そのおかげでプレッシャーが減り、気楽さが出てきた。こちらの方が良いような気さえしてくる。
 決して本来の目的を捨てたわけではなく、そのつもりで挑むが半ばで降りてもいいし、頂上近くまで行き、あと一歩のところでもいい。登り切れるかどうかよりも、そういうことをしていることだけでもいいのだろう。
 自己満足の線は、ただの線引きだったりする。
 
   了
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2024年03月16日

5157話 密学


 村井三郎太は下級武士の三男。小さい頃から祖父の蔵書を読んでいた。そういう書があるだけでも大したものだが祖父が集めたもの。それほどの余裕があったとは思えないので、これが祖父の贅沢であり、楽しみだったようだ。
 村井三郎太はその中に密学を見つけた。何のことか分からない。どの方面の話なのかも見当が付かないが、何やらあやしげなことが記されている。
 それは半ば漢文だが、ただの当て字だったりするので、読めなくはない。それに三郎太は漢文を読めるので、密学の書も容易く読めるのだが、内容までは理解できない。似たような書は蔵書にはないので、何について語られているのかを知りたい。ただ、お経に近いのではないかと思われた。
 それで領内で物知りだとされている角井戸の隠居を尋ねた。角井村にいる庄屋の分家だ。
 角井戸とは、その村の外れにある呼び名。村内が広いので、別の地名がある。
「密学ですかな」
「分かりますか」
「弘法さん関係です」
「空海ですか」
「密という字が、それらしいですなあ」
「真言密教でしょうか」
「いや、密学はそれとは別枠でしてな。しかし、そんな書がありましたねえ。噂には聞いており、少しぐらいなら知識がありますが。教えましょうか」
「はい、よろしくお願いします」
「でも、よくそんな書を持っていましたねえ」
「祖父が残したものです」
「おやおや、それは好事家。物好きなお爺様だったのですね」
「私がまだ子供の頃に亡くなりましたので記憶はあまりありません」
「何か覚えておられますかな」
「静かな人でした」
「遊んでもらったことは」
「ありません。それより密学について教えてください」
「密学はあとで誰かが付けた名でしょう。そんな学問も経典もありません。ただ、空海が持ち帰ったとされている書の一つだという噂」
「はい」
「密学とは細かく分けていき、さらにそれ以上分けられないほど小さな単位の話です」
「密度が濃いのですね」
「いや、中身はスカスカ。小さいのに大きいのです」
「何かが詰まっていそうですが、スカスカですか」
「それはこの書を読めば分かるでしょ。スカスカですが、その広い間、空間のようなものですが、これを場と呼んでいるはず。この間の方が実は大切なのです」
「はい、何となく分かりますが、何のことを何のために書かれているのかが分からなくて」
「この世の素が書かれています。だから何かについて記されているのではなく、森羅万象全てのことが書かれていいると言ってもいいでしょうなあ」
「それは大日如来と関係しますか」
「知りません。別枠でしょ。おそらく」
「役に立ちますか」
「さあ、物好きなら別ですが」
「この密学は空海が書かれたものですか」
「持ち帰った経典なのか、空海独自の考えなのかは分かりません。どちらかというと密学の解釈本でしょうなあ。しかし弟子が書いたのではないでしょうか」
「これを読んでいると、算術が必要なように思われます」
「私もおおよそのことしか知りませんし、理解するのは難しいかと思いますよ。あなたはやるおつもりですかな」
「いえ、何の本なのかが知りたかっただけです」
「密学という学問はありませんし、経典もありません。もし空海が持ち帰っていたとしても、世に出さなかったでしょう」
「それこそ密教ではありませんか」
「そうですなあ。秘密の教えですからな」
「興味深いです」
「学びますか」
「いえ、遠慮しておきます。祖父が何を読んでいたのかが知りたかっただけですので。それに私は足軽ですから、そんな学は本当は役に立たないので」
「あなたは三男坊だ。何処かの学者の養子になる道もありますよ」
「いえ、そこまで賢くはありませんので」
「あ、そう」
 
   了
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2024年03月15日

5156話 作文教室


 島田は作文教室に通っている。講師は小説家だが、聞いたことがない名。本は一冊だけ出ているが自主出版らしい。電書版はない。
 この人に何かあるのではないかと穴場狙いのように島田は思い、通うようになった。本職は作文教室で、自宅でやっている。そのほかにも講師や綴り方の先生として方々で活躍している。しかし、ただの時間給で雇われた講師。
 人柄が良く柔軟で、人当たりも良いので、雇いやすいのだろう。それと文豪の風格があり、写真写りも良い。
 その日は他の生徒がいないので、サシで教えてもらうことになる。自宅の教室なので、これは内弟子のようなもので、数は多くない。そして月謝も安い。
「言葉にならないものを言い表す。これが極意なのですが、結局のところ言葉から外には出られない。分かりますか、このジレンマが」
 作文教室にしては難しそうな話だ。島田が思っていた通り、穴だ。これはもしかすると凄い先生で、島田はその直伝を受けているのではないかと錯覚した。
 それは先生のものの言い方が良いためだ。非常に穏やかな声で、さらさらと語っている。何度も何度も語っていたことなので、磨きがかかっているのだろう。それよりもオーラーのようなものを感じる。身体の輪郭から光るものが出ているわけではなく、暖かな風を感じる。
「言葉を重ねなさい。すると出てくるかもしれませんが、無駄打ちに注意すること」
「言葉と言葉の間というのがありますねえ」
「はい、あります。何々と何々の間ぐらいの言葉でしょ」
「はい。その場合はどうするのでしょうか」
「どっかから連れてきなさい」
「あ、はい」
「またはその言葉の前後を飾りなさい。何かを付け足し、軽さ重さなどを伝えるためです。そして間を次々と詰めていくのです」
 これはやはり凄いことを聞いていると、島田は感じたが、まあ、その程度のことなら、島田も知っていた。だから、この先生の言っていることがよく分かる。それだけでも聞きやすい。思い当たることがあるためだ。
「言葉では結局言い表せない。それを承知の上で投げを打ちなさい。上手く行けば相手を倒せます」
 武道か。
「言外の言というのもありますねえ」
「それそれ。そのタイプが全てです。言っていることは大したことじゃない。しかし、何を言おうとしているのを感じなさい」
 これも島田は知っていたが、読む側の協力がいる。「優れた文とは、その文では何も言っていない。ただ聞いた人、読んだ人は何かを誘発する。それを引き出す文が良い文章なのです」
 島田は感心した。やはり凄い先生だったと。
 それで、戻ってからその先生が一冊だけ出している小説本が競売に出ていたので、高値だが、買う。
 読んでみると、何を言っているのかさっぱり分からない。数ページで挫折した。
 結果はこれかいと、もう二度と作文教室には行かなかった。
 
   了
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2024年03月14日

5155話 草庵の高僧


 既に寺僧として引退したような高僧が草庵入りしていた。野に下り野僧となったので、野にふさわしい住処として、その草庵にいる。
 草で編んだ家ではない。しかし、野に下ったと言っても野原に住処があるわけではなく、村の外れ程度。
 その村は結構大きく、町家などもある。この地方では賑やかな村。
 宿場町でもないし、何かが集まっている村ではなく、田んぼが続く普通の村。活気があるのはその高僧がいるからではない。
 近郊の村々の丁度間にあり、この村がハブのようになっている。それだけのことだ。
 高僧もそれを知った上で庵を建てた。実際には最初からある建物で、田んぼの中の土蔵のようなもの。持ち主は高僧を歓迎し、改築し、住めるようにした。
 何せ名僧だと言われている人なので。
 ただ、学僧と言ってもよく、大学教授のようなものだ。だからお経や座禅三昧の僧ではない。
 村に余裕があるので、そんな学僧も住みやすいのだろう。それ以外にもいろいろな人が住んでいる。
 そのためか、人の出入りが結構あり、近郊の村から買い物に来る人も多い、だから市が立つし、商家も軒を連ね、宿屋もある。
 そこへ若き僧侶が尋ねてきた。草庵の高僧から見ると若僧。「この若僧めい」という意味ではない。まだ若いお坊さん。しかし寺の勤めもしないで、そんなところに遊びに来ているのだから、一寸変わった若者だ。
「悟りへの道を教えてください」
「わしは悟っておらんので、よう分からん」
「私は悟った人を見たいと思い、尋ね歩いております。寺の勤めもあるのに、勝手なことをしていますが、住職は父親なので、そこは何とかなるのです。嫌々ながら坊主になったのですから」
「いたかな」
「いません」
「よう探したか」
「噂に聞く限り」
「わしも悟っておらんから、相手を間違えたな」
「一応、念のため」
「そういうことを言ってくる御仁が最近多い。悟りが流行っておるのかのう」
「では、悟りとは何だと思いますか。それだけでもお教えください」
「よう言われておることで、書物にもある」
「どんな内容でしょうか」
「人は既に悟っておると言うことらしい」
「聞いたような」
「だから、悟っておるのに、さらに悟ろうとするのは不自然」
「そういう説ですか」
「そうじゃな」
「でもいろいろと波風が心に中で立ち、悟れば静まると聞きましたが」
「波風あって正常。それが悟りそのもの」
「ああ、でもそれじゃ何もしていませんし、気づきもありません。そのままですから」
「それら気持ちのざわめき、感情の波立ち。これがなくなればどうなる」
「面白くありませんねえ」
「悲しくもないし、楽しくもない。それでいいのかな」
「一寸不満です」
「それにそんな状態は人である限りできんように思える」
「私のやっていることは悟り遊びでしょうか」
「ああ、遊びでやるならよろしい」
「その程度のものですか」
「だから最初から悟っておるのに、それ以上悟る必要はあるまい」
「いろいろな煩悩とかがあってもですか」
「あるだけいいじゃろ」
「はあ」
 若僧は納得できないので、立ち去った。
 高僧はちと冗談が過ぎたと反省した。
 
   了
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2024年03月13日

5154話 高家


 益田城は領地規模に比べ大きな城。といっても何層もからなる大天守などはない。城主のいる城で、持ち城。主君から任された城ではない。
 だが益田城の領地は一か村あまり、飛び地もあるが、それにしては領主だが城主という規模ではない。庄屋屋敷程度が妥当だろう。
 しかし、一か村の領主にしては家来が多い。いずれも立派な武者達。一寸した兵力だ。ただ、それを養うだけの年貢はない。
 その武者達は田畑を耕さない。だから郷氏とか国人とは少し違う。その土地に根ざしていないのだ。外から来たお武家。
 そして益田城主に主君はいるが衰退している。だから無視してもいい。だから主君なしと同じ。
 ただ官位はあり、近くの大名よりも少しだけ高い。しかし朝廷に仕えているわけではない。形の上ではそうだが。
 家格が高い家で、一か村しかないのに何処の大名家にも仕えていない。そして他家は益田家を奪おうとはもうしない。
 一家村ぐらい取っても仕方がないのではなく、義理が悪いし、体裁も悪いため。つまり、今でこそ一か村だが、村が集まった群ではなく、一カ国を超える領主だった。周辺の大名家も一カ国を取っていない。その一部だ。つまり益田家はこの地方の守護だった。
 だから隣国の大名家と言っても元々は益田家の家来。または家来の家来が奪ったことになる。
 最後に残った一家村ぐらい、どうでもよかったのだ。それに益田家を滅ぼすのは、気が引ける。主家だった益田家を滅ぼす真似は、さすがにできなかったようだ。
 益田家は当時の幕府の重臣でもあった。しかし幕府の勢いがなくなり、世は乱れていた。
 益田家の当主は代々都に住んでいた。だから領地は家来任せ。守護、地頭の地頭が取ってしまったようなもの。
 そして零落した益田家は、都落ちし、領地に引っ越した。しかし、そこも次々と奪われ、一家村にまで減った。益田家に仕えている家来達も多くは散ったが、まだ付いてくるものがいた。
 村の庄屋規模の屋敷なのに、それなりに立派で広いのはそのため。
 それだけの一族郎党を食わせていくだけの米は村にはない。それにいろいろと金がかかる。といってで稼ぎに行ったり、特産品を売ったり、鉱山があり云々もない。
 それを支えていたのは益田家の領土を奪った元家臣からの支援だった。さすがに悪いと思ったのだろう。
 何せ名門。地位だけは高く、また都にいただけに朝廷との関係を残している。
 また、大大名家との関係も深いので、利用価値がある。
 益田家は戦国時代を生き抜き、平和な世の中になった頃は万石近い領地を与えられ、由緒正しい家系の末裔に与えられる高家となった。
 
   了
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2024年03月12日

5153話 心配のタネ


 ある日、突然、ふっと何かが起こる。これは悪いこととか、一寸心配になるタネ程度でも、気になるものだ。その後、どんな展開をするのかと。
 そのタネのネタ、以前にもあったことだと、そのときの経験が生きるが、同じタイプだとは限らない。前回はその後ひどい目に遭ったが、今回は事なきを得たとか。それはバラバラ。何がその先、起こるのかは先へ行ってみないと分からない。
 気がかりのタネというやつで、気にならなければタネにならないが、気になってしまうと気になる。今、直ちに変化はないが、そのあとだ。
 タネなので、芽が出て葉が出るまで時間が一寸かかる。良いタネなら待ち遠しいし、楽しみだが。
 そういう心配のタネ。取り越し苦労であることを望むが、そうはいかない。そういう例があるためだ。大したことはないと思っていること程、大事になったり長引いたりする。
 逆に心配で心配でたまらないと思っていることは、その後、何も起こらなかったりするのだから、ここは何とも言えない。
 どういう態度で気構えでいようと起こることは起こり、起こらないことは起こらないというのでは取り扱い方がない。
 そんな悪いことを思ってしまうのは、自己防衛や防御の本能らしいという説もある。それで用心するため。
 だから心配になると言うことも必要なのだ。しかし過剰になると自己防御機能が高すぎて、神経質になり、逆効果だが。
 それに平穏な日々ではなくなるだろう。まだ別に何も起こっていないうちから。
 しかし、何もそういう心配のタネが突然現れなくても常駐しているものもある。心配ネタが欲しければいくらでも取り出せたりする。そして、そういうものは際限がない。いくらでも掘り起こせるだろう。
 心配ネタが消えるのは、その兆候や気配がしなくなったり、よく考えると大したことではないと分かったときだろう。
 突然ふっと起こった心配な出来事。そのうち消えてなくなることもある。ただのタネで芽が出ないまま終わる良性タイプ。それにはこれは大丈夫という証拠のようなものが欲しい。それを得ると安心する。

 タネのうちはまだ本当に起こっていない。起こったときは起こったときの話にするのが一番良いが、少しは心配することも必要だ。
 
   了
posted by 川崎ゆきお at 12:52| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする