2024年05月31日
5223 直感
いつも通り行かないときは、それなりの変化を楽しめる。それはいつもの順番と違っていたりするのだが、やっていることは同じ。
しかし順序が変わると雰囲気も変わる。いつもの繋がりで来ているわけではないので、一寸新鮮。逆に順番が狂うとぎこちなくなり、スムースに流れないこともある。
いずれにしても変化は変化。そういうのは日常の中では至る所にある。前後を入れ替えるとか、少し飛んだものを先にするとか。
それはそれなりの事情なりがあるためで、自発的ではない場合の方が多い。そのため、仕方なくやることもあるのだが、それでもやや新味がある。改めてやっていることを見たりするため。普段なら自動的に処理する程度のものでも。
では自発的なこととは何だろう。これは気まぐれのようなもので、ふとやってみたいと思うこと。これには保証はない。
軌道から逸れていたり、予定にはなかったりする。しかし、その場でふと思いついた気まぐれのようなものは、どこから来ているのだろう。
ずっと退屈なものばかりやっていると、飽きてきて別のものをやりたくなる。これは気まぐれも入るが、そういう押し出しがある。退屈という。
だから違うことをやりたいというのは自発的な軌道修正にも取れるが、そういうふっと思いついたものには理屈はなかったりする。気分的なものだ。
この気分が自発に近い。気分が勝手に沸いたのだから、理由は問わず、そのことは直接感じとして来たのだろう。気持ち程度のものだが。
これにさしたる理由がなければ、気まぐれとなるのだが、そのときほど自発性が高い。ダイレクトに来ているので。
あとで思うと、あれが原因だったということもあるかもしれないが、それはあとで作ったお話かもしれない。辻褄が合うように。
これをインスピレーション、直感と思うと、ゴミまでインスピレーションになり、何でもかんでも気の向くままやり放題になるが、すぐに違うことが分かるだろう。出鱈目だったと。
本当の直感と偽物の直感があるはずで、本当の直感は何となく分かるものだ。頭で考えた直感ではなく。
直感で決めるのは良いのだが、本当にそれが直感だろうか。直感だと思いたいためで、直感だからその選択に持ち込むといった手の込んだ芸かもしれない。
まあ、分からなければ直感で選ぶというのもあるが、その直感も意外と妥当なものを選んでいたりする。安全な方を。
だから経験とかから来たものではない閃きのようなものも、やはり経験や体質などが発生源のような気がする。ただ、プロセスが見えにくいだけなので、直感のように感じるだけ。
しかし、直感や閃き、インスピレーションはやはりその人から発しているので、その人らしいものになるだろう。ただ、その人が経験していないか、または可能性としてある程度のものも含まれるので、そこがおいしいかもしれない。
だが、直感には錯覚が付きもの。しかし錯覚かどうかは本人が判定することで、真意は分からない。
または、真意など、なかったりしそうだが。
了
2024年05月30日
5222 不気味な何でもなさ
滝川にとり、その日は何とも言えない日だった。良い日であるわけではなし、そうかといって悪い日でもない。
だから普通の平凡な日で、その他一般のよくある日に該当するが、そうとも言えない。普通の平凡さとは違う。
普通の日はそれなりに良いこともあるし、悪いこともある。それらは普通にあることで、少しは起伏がある。変化もある。だから何もないような日ではなく、何かがある日。
その規模は小さく、刺激的なことも低いので、大したことではなく、ほぼその日のうちで終わるような話。一寸出遅れたので、急ぎ目にやると、遅れを取り戻せるような程度。
しかし、その日は違う。何かぽかんと空いた穴のような日。何も起こっていないし、起こる気配もないので、平坦な日なのだが、その平らさが逆に妙なのだ。しかし、そんなことはどうでもいいことで、ただの気の問題かもしれない。
心が空っぽになり、真空状態になったわけではなく、何か妙だという感じがあるので、無心ではない。むしろいつもよりも深く勘ぐる。何だろう、これはと。
滝川は変な世界に入り込んだのではないかと、一寸心配する。
変な世界。どんな世界だ。何か回路が違い、いつも繋がっている回路ではないような。
この回路、繋がりのようなもので、たとえば昨日からの繋がりとか、滝川自身の過去からの繋がりや、先への繋がりのようなもの。その線が外れていたり、妙な線が混ざっているような感じ。
目の前のことは普段と変わらない。だから妙な世界ではないことは分かっているのだが、徐々に違和感を覚え出す。
ありふれた日であり、よくある日なのだが、一寸質が違う。だから、いつもの感じではないと言うことだけは分かる。
滝川自身もいつもと変わらず、その周囲もいつもと変わらない。そしていつもあるようなことが日常的に起こっている。それらは妙なことではない。正常だ。普通の日々の中の一コマ。
そういう何とも言えないような日、実はいくらでもあったのかもしれない。気付かなかっただけで、実際には常に起こっていたのではないかと。
しかし、その何でもなさは、何でもないだけに、特に支障が出るようなことではなく、日常が変わるわけでも滝川が変わるわけでもない。
ただ、そう感じただけの話。
了
2024年05月29日
5221 失敗に成功
作田は昨日も失敗した。しかし難題を二つ続けて果たした。これはチャレンジしただけで、失敗に終わったのだが、そのことに関し、言い訳ではないが、それだけの理由があった。
その理由で失敗したが、チャレンジしたことは大きい。これは成果だ。しかも二つも果たしたのだ。
実際には失敗に終わっているが、それを差し置いても、難題に挑んだだけでもいいだろう。
失敗なので満足は得ていない。しかも二つ続けての失敗なのでダメージがあるはず。二つのうち、一つは何とかなったかもしれない。しかし、理由を付けるわけではないが、何か足りなさがあり、難題のわりには大したことはなかった。あまり良いものでは。これは良いはずのものだが、それほどでもなかったと言うことか。
作田は失敗だと途中で分かったとき、その失敗を続けようとした。最後まで。
もう成功の可能性は低いことは分かっており、作田もその気がなかった。
ただ、万が一もあるので、一応続けた。それで二つとも最後もまでやり終えた。負けいくさだったが、マラソンで完走したレベル。完走が目的なら大成功だろう。
失敗した理由はいろいろ考えられる。しかし、それを反省したり検討しても仕方がない。もう終わったことなので。
作田には作戦があった。それは失敗すると最初から思うことだ。これは逆かもしれない。成功イメージではなく失敗イメージを抱いて望む。
そしてやはり失敗する。すると、やはりそうだ。やはり合っていた。間違っていなかったと、予想は果たせる。あたる。
しかも大当たりで見事な失敗。惜しいところまで進めても、どうせ最後は失敗すると、せっかくいい感じで流れていても水を差すようなことを考える。実際にそれで失敗の水に乗ってしまう。
作田が考えているのは、失敗すると思っていてもできるものはできる。なるものはなると言うこと。気合いを入れても入れなくても成し遂げられる。
気合いを入れると頑張る必要があり、そのため成功するには頑張らないといけないという条件がつく。これが面倒。
成功のイメージ、成し遂げたときや、成す前や成している途中を上手く行っているように思い浮かべながらでは失敗したときのショックがきつい。
そのあたりの作田の発想。実は失敗しても成功してもどちらもいいというレベルになる。成功すればいい感じになるが、一瞬かしばらくの間だろう。いつまでもそれを味わい続けられないで、次へ行くだろう。
失敗すると、再挑戦できる。より難題に向かうのではないので、やりやすい。それに何度も挑戦して失敗していると、分かりやすい。確かに難題だが、慣れた難題なので、くみしやすい。
いずれにしてもチャレンジがいいのだろう。勝った方がいいが、結果にはそれほどこだわらない。勝ったときの気持ちよさは負けたときにはないが、いつか勝てば味わえる。
しかし作田は普段は難題ではなく、スッとできることをしている。これはそれほど見返りはない。勝ち負けもほとんどない。
それで、たまに難題に挑む。こちらはやりがいがあるし、本来の目的は、この難題の中にある。だから難題がメイン。
しかし、それだけでは疲れるので、適当なものをやっている。楽にこなせるようなものを。ただ、それでは頼りない。物足りない。
足ろうとすると難題に挑むしかない。これは挑みたいので好き好んでやっている。
そういうタイプは、成功と失敗がある。成功があるのなら失敗も同時についてくる。
そして失敗を恐れるあまり、作田は失敗することを目標にするというひねくれたことを考えたのだ。これは緩和策だろう。
了
2024年05月28日
5220 懐かしい夢
島根は夢を見た。もう昔のことで、その頃の平凡な日常が再現されていた。よくある普段の生活の一シーンのようなもの。
特に変わったところはなく、結構リアルで、荒唐無稽に走ることもなく、そのまま再現されているような感じ。その何もなさが逆に気になる。
ふっと差し込まれたような挿話。しかし話と言うほどのことではなく、日常での淡々としたやりとり程度。夢が何かを見せるとしても、何が言いたいのかが分からないが、妙に懐かしい。
昔、そういうこともあったと思うが、そのときは何でもないエピソードなので、何とも思っていなかったはず。
だが、夢でそれが再現されたとき、かけがえのなさというのを感じた。それは二度と再び繰り返されることのない日常だったため。今はそんな条件ではない。当然だろう。昔と今とでは様変わりしており、人も変わっていく。
その夢を見たあと、島根はあの時代はあの時代でよかったと、しみじみと思う。それは失われたことで、その続きは今も続いているわけではないため。
だからそれを今、再現させようとしても役者が揃わない。人もそうだが、島根自身もその時代の島根には戻れない。
そして今の当たり前のような日常も、かなり経つと、もう別世界のように昔話になるのだろうか。それで次々と全体が動いているので、古ければ古いほど世界が違ってくる。
ただ、夢の中の島根は、昔の島根ではなく、何となく今の島根に近かった。ただ、これは夢だと思いながら見ていた夢ではないが。
それは夢だったが、夢ではなくリアルに思い出すこともできる。これは記憶の中にある。あの夢の時代はどんな状態だったのかを少しは思い出せる。
それを思い出すと、ぐっと昔が近くなる。引き寄せられるように。そして、再現はできないが、何かくっついているように感じられる。もう現実としてはないが、所謂島根の中では生きている。
そういった昔の思いを常に抱きながら、今を生きているわけではないが、くっついているのだ。
その昔の記憶にあったシーンは、そこにある。過去にある。それはずっとそのままあるような気がする。今と並行しながら。
ただ、過去へ行くことはできないし、過去を呼び出すこともできない。そうなると今が狂ってしまうだろう。だからこの世界軸とは別のところだろう。
そして夢で見た昔のワンシーン。ただの何でもない日常シーン。何も起こっていない。だが、なぜか懐かしい。
この懐かしさは少し深いところから湧き出ている。ただの懐かしさではなく。
了
2024年05月27日
5229 屁の突っ張り
田沢家は兵が足りない。三方で戦があり、もう一カ所火種になっている砦があり、その兵が敵に回る気配がある。援軍に来るように頼んでも来ないのだ。さらに書状を出すが、返事はない。
そのため、方々で戦いがあるため兵が足りない。
それで敵に回ったかもしれない安永砦を見張る兵が必要になり、宇治笠郷に援軍を依頼した。
安永砦の兵と言っても郷氏のようなもので国衆とも呼ばれている。半ば従属しているが家臣ではない。
その見張り役の宇治笠郷も似たようなもの。一様味方。
「宇治笠郷ですか」
「手が足りぬ、下手に動けぬように見張るだけでいい」
「宇治笠六人衆がおります」
「頭が六人おったのう」
「その六人衆はそれぞれ勢力を持っています。それはやや複雑で」
「ひとまとめではないのか」
「六人衆も交代制でして」
「何でもいい。その六人衆の今の代表に救援をお願いしろ」
「書状では何ですので、私が馬を飛ばし、行って参ります」
「頼むぞ。今、安永砦に動かれると対処できん」
「本城の兵を出せば」
「城がからになる。既に留守番兵しか残っておらん」
田沢家の家老は宇治笠郷に向かった。
代表に話すと、六人衆を集めると言うが、急ぐので、すぐに集まって欲しいと家老は頼んだ。
代表はそのように計らった。
集まった六人衆は、村に持ち帰って検討すると返答。
村で決まらなければ、兵は出せないらしい。その決定権は代表にはない。各村の代表が六人衆。
家老は急ぐので、至急に兵を出すように頼んだ。六人衆はそれに従った。
安永郷の兵は五百と多い。それが砦に入り、臨戦態勢。日和見をしているのだ。田沢家に一応所属していたが、兵を出さないどころか、寝返られると事。その手当の兵がいない。それで至急宇治笠六人衆に来てもらった。
だが、兵が集まらなかったようで総勢二十人ほど。
横一列で薄く陣を張る。
せっかく来てくれたのだが、屁の突っ張りにもならない。
しかし、安永砦ではそれを見て、ますます動かなくなった。二十ほどの敵だが宇治笠六人衆が来ているのだ。それと戦いたくなかったのだろう。
おそらく砦から打って出れば宇治笠衆は全滅。しかし、それをやると裏切ったことになる。だが、どちらにつくかはまだ決めかねていた。だから動かない。
田沢家の家老が安永砦の前で陣を張っている宇治笠兵を見に来た。家老の護衛でついてきた兵の方が多い。
これでは何ともならないと思いながら引き上げた。
しかし、田沢家は四方の敵と戦っていたのだが、その一角が収まり、田沢家が有利になった。
少ない兵士しか出せなかったが屁の突っ張りにはなったようだ。一寸した牽制が効いた。
了
2024年05月26日
5228 冴える法螺貝
「どうですか、最近」
「冴えない日々ですよ」
「毎日ですか」
「多いですねえ」
「続けてですか。連日」
「そういうわけではありませんが」
「じゃ、ずっと冴えないわけじゃない」
「冷やかしもあります」
「日の冷やかし」
「朝から、これは良いことがあるかもしれないと期待していたのに、何もなかった。間違いだった。思い違いだったこともあります。結果的には冴えない日になりました」
「でも朝からしばらくの間は冴えていたのでしょ」
「はいはい」
「じゃ、その日は冴えない日じゃなく、冴えた日だったんだ」
「だから、昼頃、正体が判明し、そうではなかったので、余計に冴えない日になりましたよ。いつもの冴えない日に比べても」
「冴えた日がいいのですね」
「元気溌剌な」
「それじゃ、勝手に元気になればいいじゃないですか」
「いいことがないと元気になれませんよ」
「そうですねえ。でも自家発電で勝手に元気になればいいんですよ」
「やはり何かないと」
「その何かが大事なんですね。タネや薪のようなもの。燃料になるようなもの」
「そうです。それがやってくるのを待っているのですが、滅多に来ません」
「たまには来るんでしょ」
「かなり間隔が開いてなので普段は冴えない日ばかりです」
「でも冴えないときの方が静かで良くはないですか」
「欲ばかり浮かび上がります」
「それを浮かべている間は、いい感じでしょ。冴えないといいながらも、多少は冴える」
「しかし、思っているだけで、そんなことは起こりませんし」
「待機して待てタイプなんですね」
「あなたは」
「私も冴えないときは往生しますが、まあ、支障が出ることはないので、放置しています」
「じゃ、待機して待てですね」
「いや、いいことが起こるよう準備して過ごします」
「元気ですねえ」
「待ってる間、退屈でしょ」
「はい」
「冴えない日でも準備していると調子が出てきて冴え冴えしてきます」
「いいことを聞いた。僕も準備します」
「そうですよ。その準備が冴えた日へと繋がりますので」
「ほほう、上手いことを言う」
「言ってるだけでも調子が出てきます」
「ホラも吹きようですね」
「呼吸が整います」
「あ、そう」
了
2024年05月25日
5227 黄泉の平坂
「黄泉の平坂」
「はい、そういう別名があります。詠坂という風雅な名があるのですが」
「どちらにしても坂道じゃろ」
「いえ、坂はありません」
「ではどうして詠坂と」
「歌詠みの小道です」
「それと坂とは関係するのか」
「語呂かと」
「どこにある」
「本街道から枝道が出ておりますが、入山禁止となっています」
「山間の道か」
「そのようです。その枝道、城から街道に出てすぐのところにありますので、かなり近場です」
「歌人が散策でもしておったのかのう。しかし、立ち入り禁止の道になっておるのはどうしたのじゃ」
「だから、元々は黄泉の平坂でございますから、その先は黄泉の国。この世ではありませぬから、そんな物騒な道、閉じた方がよかったのでしょ」
「歌人達は知っておるのか」
「はい」
「それで詠坂と名付けたのか」
「坂はございません。多少はありますが、渓流に沿った谷道」
「ではどうして坂の名を付けた」
「黄泉の平坂が坂となっておりますので」
「その枝道、何処へ繋がっておる」
「今はもう廃村になっておりますが、少し開けたところに出ます。そこを黄泉平村と呼んでおりました」
「城下からも近い。へんぴな場所ではない」
「だから黄泉がいけないのでしょう」
「いけないか」
「行くのですか」
「いや、黄泉がどうしていけないのじゃ。ただの村名だろ」
「黄泉平は村ができる前からあります」
「では、どうしてそんな名がついた」
「祭りが行われていたとか」
「祭り? 村ができるまでの話じゃろ」
「山中の広場で祭り」
「それが黄泉祭りか」
「円陣になり踊り明かします」
「近在の人たちが、そこに来てか」
「人ではありません」
「この世の人ではないと」
「あの世の人であったとしても、それもまだ人でしょ。そういう人ではなく、人外の者」
「そこを開墾して村を作ったのじゃな」
「長く居着く人はいなく、何度も廃村になりました」
「そんな怪しげな場所が近くにあるとは驚きだ」
「行きますか」
「いや、どうせ作り話。それには乗らんわ」
「嘘だと思われる方がよろしいかと」
「信じると駄目か」
「はい」
了
2024年05月24日
5226 九一
「この札は必要なものでしょうか。あまりいい札ではありません。こんなものがいいのですか」
「よくない」
「では外しておきます」
「いや、入れておけ」
「気に入った札なのですか」
「違うが、悪くはない」
「こちらにあるのがいい札ですね」
「その中に挟んでおけ。いや、むしろどうでもいい札の方を多くせよ」
「でも使わない札なんでしょ」
「いや、よく使う」
「じゃ、どうでもよくない」
「そうだ。いい札よりもかえって大事なのじゃ」
「それはどうしてなんでしょう」
「いい札ばかりじゃ駄目だ。そればかりだとな」
「それだけのことですか」
「それといい札ばかりを集めると、まずい」
「はあ」
「見当を付けられる」
「見当?」
「わしの正体だ」
「そうですねえ。御大尽がいい札と呼んでいるものは似てますねえ」
「これでわしのことが分かってしまう。それを隠すため、どうでもいい札を混ぜるのじゃ」
「頭らしい配慮」
「敵に知られては拙い」
「それでどうでもいいような札を捨てないで、残しておられたのですね」
「擬装用にな」
「また、手の込んだ」
「わしの正体がばれるのは拙い」
「どのぐらいの割合でよろしいでしょうか」
「七三」
「いい札が七ですか」
「逆だ。どうでもいい札が七。これでも少ない。あとの三はばれてはいかん札。八二でもいい。いや用心して九一でもいい」
「でも余計な札を抱え込むことになりませんか」
「余計ではない。それなりにいい札もある。悪い札ではない。本当にいけない札は最初から入れない」
「そうまでして隠さないといけないものとは何でしょ」
「ここにあるいい札をみよ」
「はい、見ました。これが何か」
「似たような札ばかりじゃろ」
「そうですねえ。どうでもいいような札は、バラバラですねえ。でもいい札には統一感があります。同じ種類です」
「それで正体がばれるのじゃ」
「何ですか。その正体とは」
「よく見ろ」
「ああ、このことですか。これがいいのですね。ああ、なるほどなるほど。御大尽様がこういうのがいいのでしたか。分かりました分かりました。じゃ、やはり隠さないと駄目ですねえ」
「だから、余計な札の中に隠すんじゃ。九一でな」
「その一、大事なんですね」
「うむ」
了
2024年05月23日
5225 画僧
芳念は画僧。絵を描く坊さんだが、出家したわけではない。だから僧侶ではなく、ただの絵師。しかし、僧衣をまとっている。だから私僧。
私立と公立があるようなものだが、見てくれは分からない。それに芳念が立ち寄る界隈では、僧だと思われている。
何処の寺にも所属しておらず、また寺に立ち寄ることもない。
絵師なのにどうして坊主のなりをしているのか。これは僧兵に近いかもしれない。その辺のならず者が僧兵になっていることもあるだろう。
坊主の格好の方が何かと都合がいいらしく、名も芳念と自称。実は僧衣が好きなのだ。
僧衣の絵師なら寺で絵でも描いているのかと思われるが、そういうふすま絵ではなく、簡単な絵。俳画のようなものだ。句に一寸絵を添える程度の。
主な仕事は俳諧。歌の会、連歌など。そのとき、書いた短冊のような紙の隅に、一寸絵を添える。だから書くのは早い。ほとんど一筆書き。文字だけよりも華やか。色がつく感じだ。
歌の会は身分の高い人たちもいるし、そこへ出入りするには坊さんのなりがいいようだ。ただの技術職のようなもので、職人に近い。茶人ではない。絵を描くだけなので。
しかし、その挿絵のような絵、趣があり、下手な歌よりもよかったりする。絵からしたたり落ちる趣。一寸した挿絵に近くなると、そこに独自の世界が生まれたりする。
絵なので読まなくてもいい。見れば一瞬で分かる。その第一印象が全てだ。
添え物の俳画なのだが、絵だけを描いて欲しいと頼む俳人もいる。
また似顔絵も得意で、集まった人たちから頼まれる。
いずれも座興のようなものだが、僧侶姿の絵師というのが洒落っぽく、坊さんが絵を描いている姿と言うのもいいらしい。
道で本物の僧侶とすれ違うこともあるが、軽く会釈する程度。会話が続くと困る。
またお寺近くには寄りつかない。遠回りでも避けて通る。
困ったのはお寺で連歌の会があったときだ。旅の私僧として通すしかない。頭を丸めて勝手に坊さんになっている人もいたので。
芳念は絵は巧みだが、文字は上手くない。そこが不思議。
了
2024年05月22日
5224 体験談
「体験外のことを語れるかどうかというお話ですが」
「あ、そう」
「語れますか?」
「常に想像で語っているでしょ」
「でも本人の実体験ではない」
「実体験したことも想像だったりして」
「それじゃ話がかみ合いません。全てが想像になります。想像はまだ起こっていない事で、また起こっていてもそれがまだ何かまでは分かっていない状態」
「しかし、何ですかな。そういう問いかけは」
「体験していない人と体験している人とでは違いがあるかと」
「何の?」
「その神妙性にです。リアリティーが違うと思います。実体験なら、それが担保」
「空手形かもしれませんよ。体験したときに受けた感じも違うでしょ。とんでもない受け止め方をしていたこともあるでしょ」
「しかし、体験者が語るというのは重みがあります。想像ではなく」
「何かそれで問題でも」
「経験のないことを語るのは控えるべきかと」
「ないのなら、語らないでしょ」
「いえ、想像で語る人がいますので」
「実体験をした人の話を聞いて、それを信じて、それを実行したとき、ぜんぜん違うことだったりもしますよ」
「それも一つの事実なので、リアルです。やはりそれも現実」
「しかし、間違ったり、曲げている。だから当てにならないこと多々あり」
「想像の方がよほどとんでもないことになっていたりしそうですが」
「そうですな」
「やはり経験者は語るの方がよろしいかと」
「それを聞いた人は、いろいろと想像しますね。それはいいのですか」
「その体験談に多少の色は付けるでしょう。または省いたりも」
「場合によっては語られていないことを付け加えたり」
「しかし、貴重な体験は貴重です」
「そのままですなあ」
「体験を疑っておられるのですか」
「そう体験し、そう思ったのなら、仕方がないこと。そういう体験だったのでしょう。その人にとってはね。しかし別の人が同じ体験をして、別の印象を受け、体験談も変わるでしょ。場合によっては悪い体験がいい体験になっていたりとか」
「何か押さえ込めませんか」
「何を」
「曖昧なので。ここは動かないというような」
「まあ、人が受ける印象など様々。それでも似てますがね。そして想像と変わらなかったりします。よくできた想像はバランスがよく、なるほどと思えるような話に仕上がっていることもありますよ」
「じゃ、想像でもいいと」
「それは想像にお任せします」
「あ、はい」
了
2024年05月21日
5223 メインとサブ
上岡は最近メインよりもサブの方が上手く行くことを知った。それは何度もそういうことがあるため。
そしてメインが意外と上手く行かない。思っていた通りのものなのだが、予定通りのものが予定通り過ぎていく感じで、当然それは良いのだが、その範囲内、思惑の範囲内。
ところが最近はノーマークのものとか、メインに準じる手前のものの方が上手く行っている。
この違いは何だろうかと上岡は考えた。期待外のものが期待以上のものだったと言うことか。
メインのものは最初から期待している。期待できるものなので、それは当然。だから当然のことが当然のように起こっているので、当然のこととして終わってしまう。
そしてメインのものは敷居が高くなっている。上岡が大事にしていることもあるが、緊張して接することが多い。
これは凄いもので、良いものだという頭が先にあるためだろう。それに比べ、サブというか、それに近いが今ひとつのものとかの方が気が楽。これは入って行き方が楽なのだ。
どうせありふれたもので、大したことはないという頭が、動きを軽くしてくれる。だから上岡はメインを避けるようなところがあり、気楽なサブを選ぶことが多い。
しかし、ここ連続してサブや、ノーマークのもので上手く行っている。結果的にはメイン同等。
それならメインやサブなどと分ける必要がないような気がしてきた。
メインとして大事にしているものは、逆に飾ってあるあるだけで、置物のようになっている。だから、メインをさっさとやればいいのだが、どうも気後れする。これは良いものだという期待があるだけに外したときが怖いのだ。だから期待のないサブをやるようになったのだろう。
そのおかげで、メインを越えるようなサブとも遭遇した。むしろ何かよく分からないものの方がいろいろと発見がある。得体が知れて行く快感も。
しかし同時に正体が分かるとがっかりするが。それでも最初から期待していないので、ダメージもない。ただ、ゴミばかりが続くとうんざりするが。
上岡はそれよりも、自身の変移のようなものを感じる。平たく言えば好みが変わるようなもの。
そのものは同じでも上岡が動く感じで、そちらを見ている方が興味深かったりする。
了
2024年05月20日
5222 神秘法師
謎の法師が現れた。一重の白衣で入道頭。全部剃っていないので、これは禿げているだけ。
それよりも入道のような巨体。白衣は太い黒帯でピタリと締めている。腹も太く、まるで相撲取りの回しのよう。この帯で組み合ったとき握れないほど幅が広い。そして硬い。
白衣の着流し、それでよく旅ができるものかと思われるが、それほど汚れていない。こまめに洗っているのだろう。
そして所持品はなし、帯の下に何か挟んでいるようだが、大きなものではない。小銭入れ程度かもしれない。旅の途中、路銀もいるだろう。
ただ、この入道、長くは歩かないようで、途中で滞在していることが多い。
謎の法師と呼ばれているが、僧侶ではない。この入道が村に現れると、決まってお呼びがかかる。貧しそうな農家や、豪農の屋敷まで、それは様々。
入道法師は神秘術に長けているので、街道筋や村々を回っているとき、必ず呼ばれる。そして場合によっては長逗留。
この神秘術、よくあるお祓いとか、憑きもの落としとか、その辺のことだが、効くという噂が広まっていた。
村に滞在中、その家だけではなく、ついでに村内の面倒も見るようで、まるで何かの修繕屋が来ているので、ついでに直してもらおうと言うことだろう。
この法師、法力などない。そんな術を知らないし、また使えないようだが、言葉が上手い。ほとんど言葉で解決してしまう。だから派手な霊落としとか、憑依している化け物との対決はない。
静かに諭したり、説明する程度。要するに説得に長けている。そして憑きものにお願いして、出て行ってもらうように丁寧に話す。
話せば分かるというわけではないが、この法師から出ている雰囲気というのがあり、調べがあり、それに飲み込まれるようだ。
だから普通の人なら法師の目など直視できないほど。これは怖い目とかそういうことではなく、身体全体から来ている。特に目から。
法師がよくする動作があり、それは腕や手をいろいろな角度に曲げたり、引いたり、伸ばしたり、また掴んだり離したりする。いずれも何かに触れるわけではなく、空中での動作。空振りのようなもの。
この空振りで空気が変わるのか、そこへ手を伸ばしたり、指でこじ開けている仕草もある。
そして手のひらに、何かを掴んだように、また抱き上げたような仕草をし、そこでいろいろと語り出す。何かをお願いしているようだ。
ただ、その言葉、はっきりとは聞き取れない。何やらもごもごと言っているだけで、意味のあることは聞き取れない。
これも空振りと同じで、空言葉。喋っているように聞こえるが、異国の言葉のようだが実はそれでもない。
ただ、喋り方に抑揚があり、滑らかで優しい節回し。これを聞いた人は、丁寧に何かをお願いしているように思ってしまう。
本人は神秘術を使うと言っているが、その法師そのものが神秘的で、得体が知れない。
了
2024年05月19日
5221 釣瓶渓谷
時代劇に出てくるような街道の中にも、旧街道がある。今なら昔の街道はほぼ旧街道。並行して走っている場合も多いが、街道を拡張して道幅を広げたものもある。しかし、元々細い街道なので、拡張しきれない場合もあるだろう。
旧街道はその時代はメインの道だが、その当時廃道になったような道もある。今から考えると旧街道のさらなる旧街道。
その廃道に一人の旅人が歩いている。既に整備はされておらず。草が生い茂り、倒れた木が遮り、踏切のよう。
当然地元の人や旅人は、そこは通らない。知っているからだ。入り口に立て札があり、入道禁止となっている。入れないわけではなく、あえて入るような旅人はいないだろう。ただでさえ旅は危険を伴う。
しかし、以前は本街道だった道で、新しくできた新街道は遠回りになる。
それで旅を急ぐ者は、街道を行くよりも、旧街道の方が早い。昔は大勢の人たちが普通に通っていたのだから。
その旅人、急ぎ旅ではない。その旧道の入り口を見て、引きつけられたようにスーと入ってしまった。
旅人は行商人で、普通の人。そして旅慣れている。普通なら、そんな廃道は選ばない。行き来する人もいないだろうから、物寂しい道。山賊や獣が出そう。
しかし、引きつけられた。魔が差したのではなく、魔に差されたように、魔に引き込まれた。
地元の人によると、たまにそういうことがあるらしい。しかし、その前で見張っているわけではないので、勝手に入っていった人がそれなりにいても分からない。
ただ、同じ村人が、そこに入り、戻ってこなくなったという話は残っている。魔道なのだ。
その魔道は、以前は本街道。ただしややこしいのは釣瓶渓谷だけ。そこの封印が外れたらしい。
だから新道はそこを避けるように別の山間を通っている。そして釣瓶渓谷が終わるところで本街道と合流する。
だから旧街道、廃道となったのは一部の区間だけ。
当然釣瓶渓谷が怪しさの根本なので、そこは忌み地としている。だから土地の人は立ち入らない。
それでも、その入り口にフーと吸い込まれるように入ることがある。途中で引き返せば大事はない。
先ほどの旅人は引き返さないで、そのまま分け入ってしまったのだが、道らしい痕跡がよく分からなくなり、結局釣瓶渓谷に出る前に迷子になり、適当に歩いているうちに里に出たようだ。
その里、旧街道の入り口よりも遙か後方で、かなり戻ってしまったことになる。
運良く迷子になったのが、幸いしたようだ。
了
2024年05月18日
5220 禿げイタチ
こういう昔話が伝わっている。どう言うのかというと神様の話。
旅の修験者がいる。この人は人が見えないものが見えるらしい。
その修験者、森の中に入り込んだ。何かいそうな気がしたためだろう。深い森ではなく、里の近く。森は横に広く奥がない。奥はすぐに山になる。つまり山際のなだらかな場所が森となり、田畑はない。聖域ではなく、それに近い場所。
神社も寺も、このあたりにある方がいいのだが、ここにはない。ただ、一番奥まったところに祠がある。石造りだ。その石組み、積み方があまりこの辺では見かけない様式。誰が何のために作ったものかは分かっている。中に神様が祭ってあるのだ。しかし、何の神様なのかは分からない。
そのため、村の神社とかち合うわけではないが、そちらは森ではなく、田んぼの中にぽつりとある。見た感じ古墳のように見えるが、盛り土はなく、境内を樹木で囲んでいるだけ。
さて、森の中の祠。修験者、これかと、すぐに分かった。ここから妙なものが発していたのだろう。犬の臭覚に近い。
祠の前に人がいる。年寄りだ。後ろからだと神様のように見えた。修験者がたまにそんな錯覚を起こす。誰が見ても百姓家の爺さんだ。
祠に参りに来ているのだろう。丁度そこに出くわしただけ。
神様なら祠の外で立っていないだろう。
「どなた様かは知らねども、何かがおわすありがたいことなり」とか、そういう言葉を老人はつぶやいている。独り言ではなく、修験者が来たので、この祠のことを語っているのだ。
「分からないのですな。ここの神様は」
「はい」
修験者は得意の眼力で、祠の中を見た。扉があるので、見えるわけがないが、そういう能力があるらしい。
「いかがでございましょう」
修験者は答えなかった。
見たのは頭の禿げたイタチだった。神様ではない。
「何をしておる」
修験者はイタチに聞く。
「ここに住み着いただけじゃ」
「お前は神ではない。分かるな」
「ああ」
「しかし、悪さはしておらぬようじゃな」
「神様だと思われているので、できんのだ」
「イタチらしく悪さをすればいいではないか」
「そこに来ている爺さんを見ていると、そうはいかん。爺さんだけではなく里の衆が丁寧に扱ってくれるし」
「神だと思えばイタチがおわしたか」
「ここは居心地がいい。退治しないでくれ」
「祭られて気持ちがいいのだな」
「神らしくなってきておる。見逃してくれ」
修験者は、この祠にはものすごい神様がおわす。よく祭ることだな。と横の爺さんに伝えた。
爺さんは、やっぱり凄い神様がいたんだと得心した。
了
2024年05月17日
5219 お膳立て
用意周到。順番もこれがよかろうと並べている。お膳立てはできている。順番にやればいいだけ。整っているのだから、それ以上のことはしなくてもいい。それが一番いい方法なので。
これは三船が作ったもの。しかし、三船のオリジナルではなく、よくある順序、順番。これは定番に近い。
しかし、三船がいざやろうとすると、一寸ためらいがある。そうならないように順序を決め、易しいところから入るようにしている。だからためらいにくいところからのスタート。
しかし、三船はためらう。これをやればあれ、あれをやればこれとなるのだが、その決まったレールが気に食わない。困らないように自分で作ったレールなのに。
決まり事が気に入らないのだ。それだけではなく、今、それをやるのかとなると、それは今ではないような気もする。気が乗らない。
その気があれば、そのレールに乗れば楽々いける。しかし、それ以前の問題で躊躇する。この線ではなく、別の線がいいと。
そういう別の線も作ってあるのだが、予定していたものをパスすることになる。これも一寸気に食わない。やはり決め事、ルールに従う方がいい。
そんなとき、クジを引くように、適当なものの中から選ぶ。その中に意外なのも入っている。未整理状態でごっちゃ混ぜ。ただし、これと言ったものは入っていないはず。
ところが、適当に選んだものが意外といけると言うより、アタリだった。そして躊躇なく実行できた。きっちりと準備していたもの以上に。
スタート時、目論見はない。これをやろう、あれをやろうと考えないで、偶然来たものをやる。だから何が飛び出すか分からない。気に入らないものが飛び出せばパスすればいい。
さらに、これもパス、あれもパスと、無視できる。こちらの方が楽しかったりする。
何を実行するのかは決まっていない。お膳立てをやっていない。そこに三船は自由さを感じた。
しっかりとしたシナリオ。そこには自由はない。踏み外しすぎると、シナリオの意味がなくなる。作り直さないといけなくなる。しかし、シナリオ通り進めるのは何か無機的、そして窮屈。
しかし、踏み外すと別の展開になり。別の話になる。そしてラストまでは考えていないので、何処かで行き詰まるだろう。そのためのシナリオなのだ。
しかし、その都度シナリオを書いていくのもいい。だが、それは危険で、無茶苦茶になり、遊びで終わったりする。
しかし、よくできたお膳立てほど無視したくなる。避けたくなる。また、お膳立てを作っているとき、それで結構満足し、実践はもういいかとなる。
実践のためのお膳立てなのだが、立てすぎるのだろう。
了
2024年05月16日
5218 本来
「もう他にないものか」
城島はまた物色を始めた。探し出すのが楽しいようで、目的が探すことになっている。探し出したものをデータ化する。それで城島のものになったわけではないが。
それで集めるだけ集めたので、集めるものが減った。これぞというものは既に知っており、そして集めた。
それで集めるものが減ったのだが、まだまだ城島の知らないものが世の中にはある。ただ、興味がなければないのと同じ。そういうのは集めようとはしない。集めても仕方がないためだ。城島にとり値打ちがないので。
ただ、今まで集めたものの中には、もう興味外のものも出てきている。なぜそんなものを集めたのかと不思議なほど。きっとその当時は値打ちがあったのだろう。
そういうのをいくら見直しても、やはり値はつかない。だからそれらは除外。
城島は集めたものを見ていると、好みのようなものがあり、その傾向や、その流れのようなものが分かるようになる。
興味の変移だ。どのあたりに行くつくのかが分かっていくが、それは自然に決まる。ほとんど成り行きで。
それで興味のあるものはほとんど網羅したつもりでいた。大まかにはそうだが、好ましいものは多い方がいい。下手に増やすと水増しになるので、それも危険。
城島が望んでいる状態は、新たな展開だ。それが少しでも見えてくれば新天地が開ける。ただ、それはずっとそこにあるのだが、城島の興味が行かなかっただけ。
また誤解したり、フィルター越しに見ていて気付かなかったのかもしれない。
つまり、新たな展開とは見出すこと、気付くことから始まるのではないか。しかし、これは強引すぎる。無理にそんなことをやっているようなもの。
発想の転換も考えたこともあるが、これも無理攻めのようなもので、強引。
しかし世の中は狭いようで広く、広いようでも狭い。ただ見落としているものがまだまだ多いような気がするので、探す楽しさは残っている。
ほとんど従来と同じもので、ありふれたものだが、一寸違うタイプもある。ほぼ同じだが、微妙に違う。その違うところがツボで、ここをこじ開けていけば、新天地に出られるような気がする。
しかし、それほど簡単ではなく、既に新天地のものも知っているのだ。
しかし、他に何かあるのではないかという期待は捨てないでいる。そしてたまに見つかる。そこから先の展開はない場合も多いが。
そういう探索は、外のものではなく、内なる探索なのかもしれない。内にあるのが根で、外で花開いている。
外を見ながら、内を見ているとも言える。
だから内が変われば外も変わるのは理屈としてはあっているかもしれない。ただ、内側の気持ちというのは具体性がなかったりする。ただの感じだったり。
しかし、これもよくある話だ。それよりも、偶発的な場で接することが多い。それはなぜか懐かしい気持ちになるような感じで、これを城島にとっての本来というのだろう。
了
2024年05月15日
5217 個体差
「岩城先生の話はどうですか。最新の科学とか学問上でのあれこれをかなりツボを押さえていると思うのですが」
「しかし、人気がない」
「どうしてでしょうか」
「英語が多い」
「学術論文などは英語でしょうから、そこからの影響でしょう。日本語に直すと変になると言いますか、変な意味がつきますし」
「何を言っているのか分かりにくくなります。聞いたことのない英単語とかでは」
「そうですねえ。よく知られた英単語ならいいのですが、聞いたことのない専門用語では。しかし最先端の研究論文などが、岩城先生によって知ることができます」
「しかし、早口で聞き取りにくくてねえ。頭に入りません。何を言っているのか程度は分かるのですが、微妙な振れと言いますか、ニャンスが分からない。だから結論だけを知りたいと思うようになるのですが、結論など出ていなかったりします」
「岩城先生の教室。がらんとしてますねえ。有名な先生なのに、どうしてでしょう」
「一方的に自分の話をやるだけなのでね。だから聞く側のことを考えていない」
「それだけですか」
「興味深い話が多いのですが、だからどうなんだというあたりが弱いのです」
「だって、結論が出ていないことに、答えなど示せないでしょ」
「学術的なところに寄り添いすぎです。そこから離れない。だから岩城先生もその中での話。私たちが期待しているのは、そんな説や解釈などあるのかと思えるような切り口です。そうでないと、今までの研究のおさらいのようになり、それで退屈なのです」
「でも、それはできないでしょ」
「分かっています。しかし、やり方はあります」
「分かります。岸和田先生でしょ。はっきりとは言わないけど、暗に言っている。あれでしょ」
「そうです。岸和田先生は人気がある。教室もいっぱいで立っている人もいるほど」
「その違いは何でしょう」
「学生が聞きたがっていることを知ってるからでしょ」
「はあ」
「それと聞きたくないことは喋らない」
「それはなんでしょう」
「空気で分かるんでしょ。受けているか受けていないかが」
「まるで芸人じゃないですか」
「喋り方も芸ですよ。中身ではなく」
「でも、中身は岩城先生の方が広いし深い」
「広すぎ、深すぎて、ついて行けないのです。だから教室はガラガラ」
「では、どちらがいいのでしょう」
「岩城先生の師匠筋が岸和田先生。だから岸和田先生の弟子が岩城先生。同じ事ですがね。岩城先生は岸和田先生のような芸ができない。たとえ話も言葉の言い換えも下手。しかし、言っていることは似たようなものですよ」
「どうしてそんな違いが」
「ただの個性の差ですよ」
「それだけですか」
「はい個体差です」
了
2024年05月14日
5216 早い目遅い目
おかしい。今日はいつもよりも早い。何か省略し、忘れているのかもしれない。富田は時計をもう一度確認した。
いつもと同じスケジュールをこなしている。しかも今朝は遅い目にスタートしたのに、いつもよりも早いのだ。
早く終わっていることになる。ではどの箇所が早かったのか。それを思い出しても、特に急いだ記憶はない。つい先ほどのことなので、忘れるわけがない。
逆に早い目のスタートの日なのに、遅くなってしまうことがある。何処で時間を食ったのか、または他のことが加わったのかと思い出しても、それもない。
この両パターンとも不思議だ。
しかし、早く進んでいる日は、一つ一つを早く済ませているのだろう。急いでいるわけではなく、いつも通りでも。
しかし、一つ一つのスケジュールを時計で計って確認しながらやっているわけではなく、大きな区切りがつき、場所も大きく変わったとき、チラッと確認する。それはいつも同じ場所。しかし同じ時間にはならない。
早い目のスタートなのに時間を食ってしまうのは、集中しすぎて時の経つのも忘れるため、長引いていることに気付かないのかもしれない。しかし、それも、一寸手間取っているとか、これは時間がかかっているなあと、それぐらいは分かる。いくら集中していても。
では何処で時間が違うのか。一つ分かっている事、思い当たることがある。それは遅い目にスタートしたときの方が早いということ。そして早い目にスタートしたときは遅くなっていること。逆なので、目立つため覚えている。
だが、遅い目のスタートなら、いつものチェック場所では遅い目になっているはず。それなら分かる。
すると、遅い目にスタートした方が効率がいいのかもしれない。それは逆だと思うのだが、その傾向が強い。
やはり富田が気付いていないところで、時間を食ったり、さっさとやったりしているのだろう。急ぐ気はなくても、さっさとやる。時間があるときはのんびりする気はなくても、一寸スロー気味。または余計なことも一寸加えたりする。
だが、遅い目の時、これをやるともっと遅くなると思えることを加えることがある。その場合もまだ早かったりするので、不思議だ。
これは気のせいではなく、時計の針が具体的に示しているので、事実だろう。時間の概念ではなく時計の概念上。世の中はそれに従っている。
だから富田が気付かず、意識していないところで伸び縮みがあるようだ。
ボーとしていると、かなり時間が経っていたとか。意外と短時間だったとか、そのボーの状態はしばしの間時計を気にしていない。ボーとなので。
まあ、それで支障が出るわけではないが、遅いスタートの日ほど早いというのは得した気分になる。
了
2024年05月13日
5215 物見櫓
城は山の取っつきのコブのようなところにある山城。城よりも地形的な力の方が大きい。城は大したことはなく、平城なら一撃で落とされそう。
しかし狭い急坂から登らないと、大手門にはたどりつけない。大軍で攻めても通れる道が狭いので、同じこと。かなりの犠牲を払わないと潰せない城。真っ先にその大手坂を駆け上がる兵などいない。やはり怖い。
その裏山の中腹に物見櫓があり、兵も詰めている。しかし、敵が攻めてこない限り、物見も必要ではない。
だが、この城、平時でも物見櫓に兵を入れている。正面からなら堅固だが、背後からなら、逆に上から攻められる。当然、そんな道はないが。
ただ、何者かが城の裏側から忍び込み、悪さをするかもしれない。それで物見櫓に人を入れているのだ。ここなら両方見張れる。
「今まであったか」
「ない」
この城、戦いに巻き込まれ、城近くまで敵兵が来たことは一度もない。いくさには出るが、これも加わっているだけで、戦闘らしき戦闘などしたことがない。
「泥棒を見張るというが、そんなこともあったか」
「ないようじゃ」
物見櫓の下に長屋があり、ここで寝泊まりできるし、まかないもできる。兵糧の備えもある。井戸は無理なので、少し下れば、水が湧き出ている場所があるので、そこから汲んでくる。
物見櫓には旗があり、赤い布地。何かあればそれを振って下の城に知らせる。だがその赤い旗、一度も振られたことがない。
旗振りは交代制で、最小限それだけの人数が必要だが、盗賊対策として、番所の役目もあるので、多いときでは数十人ほどいる。
盗賊ではないが、猟師や山仕事で入り込んだ領民がたまに物見櫓に寄る。焼き餅とか、果実とか、一寸した食べ物を売りに来るのだ。
そのため、この中腹へ繋がる道がいつの間にかできており、里との繋がりもできている。そうでないと、兵糧攻めに遭ったとき、その補給路として必要なので。
山賊の侵入口になる可能性もあるが、今まで一度も出てこない。
城を襲う山賊などいないだろう。せいぜい盗人が入り込む程度。
ここの城主は、このあたりの豪族だが、大名家の家臣になっている。
そのため籠城したとしても五百。領地のわりには多い。
ただ、この山城、背後は山々で、この大名家の領土内では奥まったところにある。だから攻められる頃には、もう勝敗はついているだろう。そのときは降参すればいい。またはその前に寝返るとか。
だから、この物見櫓、いらないのだが、それができたのは豪族時代。内部の敵に備えてのことだったらしい。
了
2024年05月12日
5214 禅一妨
禅一坊、いかにも禅宗の坊主のような僧がいるが、寺にはいない。出てしまった。しかし俗世に下ったのではない。禅寺も世間の内。俗世の中にある。
禅一坊は寺で付けてもらった名前ではなく、普通の人たちがそう呼ぶようになった。これはかなり際立った名で、名前負けしそうなほど。
そこは市井の人たちが皮肉を込めてか、気安い坊さんなので、そう呼ぶようになったのかもしれない。
禅一筋のお坊さんだと禅徹坊でもいいのだが、この禅一坊丸は顔でふっくらとしており、やや肥満。愛嬌がある。
禅寺から追い出されたわけでもなく破門になったわけでもない。托鉢に出たまま帰ってこなかった。そのまま旅立ってしまった。雲水だ。
その禅寺は修行の寺なので所持品はほとんどない。常に持ち運べるほど。しかし傘だけは忘れてきた。それと換えのわらじも。それと金銭も。
これは托鉢で何とかなるが、小銭がないと渡し船にも乗れない。
大きな家の門の前で、米をもらっているとき、ついつい長話になり、門内に通された。さらに座敷にも。
そこは長者屋敷で、物持ち。よく旅人を泊めたりする。
旅の雲水を泊めることは今までなかったが、話が面白いので、もっと聞きたいので泊まってくだされとなる。
それよりも禅一坊の人柄が穏やかで人なつっこく、偉そうなところがない。常にニコニコしている。接していて楽しい。こういう禅僧もいるのかと思うほど。
その長者屋敷に剣術使いが宿泊していた。客人同士なので、主も加わり三人で四方山話を始めた。この長者、そういう集いが好きなのだ。
「身体が先か頭が先か、どちらでしょうねえ」剣術使いが禅一坊に聞く。
「身を任せ、身体の動きに任せるがよろしいかと言われておりますが、そうではないでしょ」
「その通りですよ」剣術使いは思い当たるところがあるのか、膝を叩いた。
「身を任せた動きだととんでもないことになること多々あり」
「それは体験談ですな」
「名のある剣士によると、完全に身を任せておらぬから、そうなるのだと。そこは禅僧ならどうお考えでしょうか」
「無理じゃ」
「無念無想で斬り合うのがですか。身体が勝手に動くのではないのですか」
「じっと座っておっても無念無想などにはなれません。ましてや試合中など」
「私にはその極意が分かりませんから、まだまだなんでしょうねえ」
「両方使えばよろしいかと」
「とっさの場合は身体が先」
「そうそう」
「少し間が開いたときは考えながら次の手を」
「そうそう。だから試合中、ずっと身体に任せるなどあり得ない」
「じゃ、これまで通りでよろしいのですね」
「試合中、有利に展開していると欲が出る。ここでもう一押しすれば勝てると」
「ありますあります」
「その欲、身体からも発している場合は危険でしょう」
「はあ」
「そこは頭で止めなされ」
「たまに狂ったように、そういう状態に身体が勝手に動き出し、突っ込んでいきます」
「それは狂剣士。その寸前で止めることができるはずです。ここは頭で止められるのです」
「なるほど。それはやはり禅流でしょうか」
「違います。拙僧が勝手に頭でしゃべっていること」
「いい話を聞きました。長者様、いいお客をお泊めだ」
主の長者、一言も発しないと思っていたら無念無想で居眠っていた。
了