2016年10月09日

3045話 退屈の虫


 気怠い日々を送っている竹中だが、これは平和でよいと思っている。そういう気怠さに覆われた暮らしは穏やかさの中にあり、決して悪くはない。難事で覆われた世界にいるよりましだろう。だからこの気怠さは有り難いのだが、刺激がない。人は危機感の中にいるときの方が溌剌としている。眠そうな頭ではこなせないため、実力を発揮する。
 しかし、この平穏無事さは退屈という副作用が伴う。ここで刺激を求め、余計なことをすると、とんでもないことになる。
 ただ、そのとんでもないことの入り口辺りを覗いて見たいと思う。当事者ではなく野次馬ならいいだろうとか、見ているだけなら問題はなかろうとか、それなりに安全な刺激を。
 昔から退屈の病があり、一般性はないが、退屈男と呼ばれている。早乙女主水の助ではないが、旗本退屈男だ。退屈の虫が出て、何等かの事件に首を突っ込む。有り余る精気を、そこで発揮する。それほど江戸時代の旗本は、戦で本陣の殿様を守るような本来の仕事などなかったのだろう。当然、江戸城大奥には退屈女もいただろう。
 大勢の人が刺激を求めて同じことをする。同じ所へ行く。これは安全だ。数が多いため。ただ少数というより、殆どそんなことはしないだろうという事に走ると、これは難しいというより、暇人を越えている。悪趣味などがその例だ。
 刺激を求める。それは破局と裏表、一歩間違えば奈落に落ちる。ああ痛かったなあとオロナイン軟膏を塗れば済むような話ではなくなる。
 また、肝試しがある。夜中一人で墓場などへ行くのだが、最近は怖そうな墓地はあまりなく、その程度では怖がらないようだ。
 肝試しとは、肝を試すこと。そのままだが、自分はどの程度の肝なのかを試すのだ。肝が小さいのか大きいのかを。肝は内蔵のことだが、内臓が強い人の意味ではない。これはケツの穴が小さい奴と言われる肛門と同じで、実測ではない。
 自分はどの程度の者なのかを試す。これはチャレンジャーで、非常に前向きだ。しかし下手に試すと器の大きさ、度胸のなさなどが分かってしまい、ガッカリする危険度もある。しかし、それは貴重なデーターで、いいサンプルを得ることにもなる。人は本来恐がりにできている。それで普通だ。
 そういうのとは違い、退屈の虫は必要に迫られないのに、そこをこじ開け、首を突っ込む。わざわざ危険なことをするので、酔狂者とも言われる。変わった人なのだ。
 火事場見学へ行く野次馬達は酔狂ではない。数が多いし危険度はさほどない。そのため、刺激もいうほどない。
 この退屈の虫は病気のようなものなので、たまにガス抜きが必要だ。その方法は各自それぞれ持っているようだ。
 気怠い日々が続くと刺激を求めて、何かをやろうとする。その元気があるうちは大丈夫、ということだろう。
 
   了

 
posted by 川崎ゆきお at 10:12| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする