2017年09月24日

3392話 生乾きの昔話


 昔あったことで、当時は見過ごしていたが、今見ると、ものすごいものだったと、再発見、再認識することがある。この昔とは、その人にとっての昔で、その人が思っている昔だ。年寄りほど昔の量は多くなるが、若い人でも、結構多い。それは年寄りはもう記憶から消えてしまっていることでも、若い人ならまだ覚えていたりするためだ。だから絶対量は同じとは言わないが、これは思い出す機会と関係する。つまり、昔のことを思う回数だ。そのため、暇そうな年寄りほど回数が多いのかもしれない。その回数分、古い話に触れる機会も多い。
 昔のことに思い出すのは、何かのきっかけが必要で、日課のように思い起こしている人は少ないだろう。何かを見たとか、何かに触れたとか、そういう話を聞く機会があったとか、それらが引き金になる。それとは別に、ふっと思い出すようなこともある。これはただの匂いだったり、何かの瞬間、ポロリと出てきたりで、思い出そうとして思いだ出すのではなく、自然に思い出してしまうのだろう。
 さて、見過ごした、見逃した昔の話のことだが、これは体験したものだけではない。映画でもいいし、テレビでもいいし、歌でも芝居でも、イベントでも観光地でも何でもいいし、また物でもいい。
 ただ、人に関しての話は少し感傷が入るだろう。これは思い出すと痛いとかだ。楽しかったことで、痛かったことなどなかっても、二十年前、三十年前の人となると、その間、年をとっており、もう昔の面影など少ししか残っておらず、もう物が違っていたりする。当然、二度と戻れない場所となるので、それが痛いのかもしれない。
 引退したのかどうか、また現役なのかどうかさえ分からないような歌手が、懐メロ番組に出ているのを見たときなどもそうだろう。全盛時代を知っている場合は、これは何ともいえない気持ちになるだろう。それを見ている側も、それなりに年をとっていることを考えないで。
 ところが全盛時代を知らず、また当時は見向きもしなかったのだが、今、見ると、再認識することもある。認識するだけではなく、高く評価する。こんなすごい人がいたのに気付かなかったと。知っているのに、分からなかったのだ。
 この鑑賞はただの鑑賞の問題なので、それだけの話だが、実際に関係した人物などでは、もっと重くなる。そして鑑賞の話ではなくなる。
 過去の一瞬の輝き。これも戻れないし、また繰り返せないとなると、思い出の名シーンへと殿堂入りする。
 さて昔、見過ごし、見逃し、または評価しなかったものを掘り起こすサベージ作戦のような趣味も悪くはない。ましてや、知らなかったものの中で、ものすごくいいものがあると、感動がある。リアルタイムでも感動できたのにと残念な気もする。
 歴史となるには、かなり経ってからでないと評価できないのは、近いと生乾きのためだろう。しかし古すぎると、記憶にはないだけに、乾きすぎている。
 この生乾きの状態が、結構感傷を誘う。まだ、終わっていないためだ。
 
   了


posted by 川崎ゆきお at 10:47| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする