2017年12月02日

3460話 老忍と老臣


 塀を乗り越えようとした人影が「うっ」と声を漏らした。
「何かありましたか」
 聞き取れないほど小さな声で、四つん這いで踏み台になっていた黒装束が聞く。
「筋を違えた」
「この筋ではなく、別の筋」
「いや、この筋の屋敷じゃが、わしの筋が」
「大丈夫ですか、師匠」
「運動不足だろうよ」
「運動不足の忍者ですか」
「もう少し高くせよ。これでは痛い」
「はい」下忍は四つん這いを上げた。
「よしよし、これなら足が上げやすい」
「大丈夫でございますか」
「問題は越えたときじゃ」
「大した高さではありません」
「膝に負担がかかる。ものすごいショックがな」
 昔は二階の屋根から飛び降りても平気だった師匠、今は寄る年波で骨が細く、そして脆くなっているのだろう。筋肉も筋も細い。
「曲者ー」
 どうやら気付かれたらしい。深夜に声を出して喋りすぎたようだ。
 師匠の老忍はまだ塀の屋根瓦に足をかけていなかったので、これ幸いと、四つん這い程度の台から地面へ降りた。
「逃げるぞ」
 庭に灯りが見える。追っ手の提灯だ」
「あの塀の向こうだ」
 塀の木戸が開き、追っ手の侍が数人飛び出してきた。
 下忍は一目散に逃げる。流石にこのスピードに追っ手は追いつけない。
 下忍は老忍を逃がすための囮。
 侍達があとを追ったあと、身を潜めていた老忍が動き出し、開いたままの木戸へ近付いた。
 そして屋敷内に入ろうとすると、提灯が動く。
 その提灯は低い。小さな老人が持っているようで、非常に長い戦国時代の馬上剣を脇に差している。長いので地面に擦れるためだろう。
 この老人、屋敷の主で、藩の老臣。曲者を追っていくところなのだが、まだ木戸さえ出ていない。庭を少し進んだところ。
「赤目の半蔵ではないか」
「そういうあなたは柴田様」
「忍び込もうといしたのはおぬしか」
「左様で」
「以前、世話になった」
「いえいえ」
「何を調べに来たのかな」
「練習です」
「そうか」
「わしも久しぶりに刀が振るえると思い飛び出したのじゃが、仲間はもう先へ行ってしもうたようじゃ。これから追いかけても無理だろう」
「あの下忍は足が速いので、追っても無理です」
「そうか」
「では、練習が終わりましたので、このへんで」
「そうか」
「老忍は背を向け、木戸から出ようとしたとき、妙な音がした。
 振り返ると、老臣が長剣を抜こうとしていたのだが、引っかかるようで、抜けないらしい。背後から斬りつけるつもりだったにだ。
 老臣よりも少し体の大きい老忍はそのまま体をぶつけると、いとも簡単に老臣は蚊のように飛ばされ、尻餅をついた。
 老忍は母屋に踏み込み、老臣の手文庫から密書を盗み出そうとしたが、暗くて部屋が分からない。それにそんな大事なものを、簡単な場所に置いているわけがない。
 そのうち追っ手が戻ってきたので、老忍はもう一つの木戸から逃げた。
 先ほど尻餅をついた老臣は正座したまま庭にいた。腰をやられたらしく、そのときは正座状態でじっとして治すようだ。
「行くのか」
「密書の在処など、教えてはもらえんじゃろうなあ」
「ああ、当然な」
 老忍は木戸から出ていった。
 久しぶりに運動をしたためか、足が笑っている。先ほど痛めた筋がまた痛み出した。それと神経痛が出たのか、足が引きつる。
 庭で座ったままの老臣は、そのまま部屋に運び込まれたが、そこから姿勢を変えるのが大変らしく、そのままの姿勢で朝まで過ごした。
 この老臣と老忍、戦国の世が終わる頃まで何度も一緒に仕事をした仲らしい。
 久しぶりに出合ったこの二人。互いに老いたことを実感したようだ。
 
   了

posted by 川崎ゆきお at 10:37| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする