2018年01月03日

3492話 視願


 平沼は無事年を越したのだが、昨日から今日になった程度で、大した変化はない。しかしいつもの朝ではなく、新年の朝なので、少しは受け止め方が違うようだ。そういえば寝る前も今年はこれで終わるという思いが少しはあった。今日が終わり、明日になる規模よりも一年の規模の方が大きいが、実感するほどの値が平沼にはない。仕事納めもなければ忘年会もなく、元旦の朝の食事も昨日の残り物。ご飯だけは炊いたが、普段と変わりはない。
 雑煮でも作ればそれらしくなるのだが、年末に買た餅を食べてしまった。
 初詣に行く気もなく、また誘われることもなく、いつものように食後の散歩に出ただけ。その近くにも神社はあるのだが、寄らない。その神社、たまに用事のついでに寄ることはあるが、通りから見ているだけ。朝の散歩はそのコースには入っていないので、お参りもなし。また、神社に行くことはあってもお参りはしない。手も合わせなければ賽銭も投げず。
 信仰心とか、信心には興味がないわけではなく、結構神秘的なことは好きで、験を担ぐことも多いし、迷信だと分かっていても、一応はそれを立てるタイプ。ではなぜ初詣をしないのか。初でなくても、仕舞いでも詣でない。もっと別のところにそのタイプのものがあると思っている。たとえば誰も信仰しないような、ただの木とかだ。当然神木でも何でもなく、ただ古いだけとか、目立たないところにあるとか。枝振りがいいとか。何処か自然界の驚異のようなものが出ているような木を選ぶ。それで木に願をかけるわけでもなく、手や身体を当ててエネルギーを吸収するわけでもない。あれは木の精が入ってくるのではなく、逆に木に抜かれる。だから悪いものを木に吸い取ってもらうにはちょうどいい。アースのようなものだ。神木に悪いガスを捨てるようなもので、犬の小便と変わらない。神木を汚しているのだ。
 では、お気に入りの木に対して、平沼はどう接するかというと、視願をする。これは遠隔ものだ。直接触れたりしない。視願というのは一種の念波だろう。目で物を言うようなものだが、言葉はない。目で少し木に挨拶をする程度。願をかけてもそれは言葉だろう。神様なら知っているかもしれないが、日本の神様は英語では駄目だ。
 木には耳がない。だから木に気をかける。視願は一瞬だ。
 これだけでいい。だからもし平沼が神社でお参りをするとすれば、遠くからでもそれが可能。しかし、それをしないのは、神社には神様などいないからだ。もし神と呼ばれる何かがいたとしても、それは何かではなく立派な名前があるのだが、神秘性が薄い。自然発生的な精霊の方がまだしもリアリティーがある。
 要するに作られた神々ではなく、手垢の付いていないタイプを平沼は好んだ。人が弄れないものがいい。これもまた自然崇拝のようなタイプに入るのだが、そちらの方がまだしも清い。
 山の精、草の精、水の精、谷の精。そういったものと接する方を好んだ。人格のある神というのは生臭いのだろう。作られた神は作った人の臭みが出る。
 空ゆく雲。風。そういったものに視願を当てている方が効くような気がする。当然元旦の初日の出もいいのだが、その時間平沼は寝ている。起きてまで見ようとは思わないので、その程度の扱いだ。
 これは信心ではい。信じていないためだ。少し距離のある関係でいる方を好む。だから樹木にちょと目配せする程度がいい。
 それでその朝も、いつもの散歩コースを歩いただけだが、最近気になっている廃屋の庭木があり、その枝振りが気に入った。神詣でしないで、そっとその木に視願を送ったが、願い事の中身はない。願い事全般という欲ばったものではなく、木に対して、気にかけている。その存在を認識しているという程度でいい。
 また更地が野原のようになり、あまり見かけない地味な野草が咲いていた。これはいけると思い、視願した。
 
   了

posted by 川崎ゆきお at 11:46| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする