2018年06月17日

3658話 一人弁当


 岸和田は自分より劣っている者を見て馬鹿にするよりも同情する。これは気持ちが分かるため。結局人はどこか劣っている箇所がある。それが目立たない箇所だったり、メイン箇所でなければ、問題はない。劣っている箇所がない人などいない。
 岸和田が一番同情するのは小学校の遠足などで一人で弁当を食べている人だ。人というより子供だが、将来が楽しみだろう。まだ若い、それ以前にまだ世に出る前の子供時代から苦労している。
 これは一緒に食べてくれるグループや相手が一人もいないため。だが、そうではないかもしれない。母親が作ってくれた弁当が寂しい物なので、それを見せたくないとか。
 そういうのを見ると岸和田は嬉しいものを見たような気になる。決してうれしがるようなものではないのだが。
 しかし、一人で弁当を食べる子は、そんな感じではなく、若い頃、といってまだ子供だが、孤独を愛しているのかもしれない。この時代から孤高の人。何が孤高なのかは分からないが、雰囲気だけは先取りしている。
 一緒に食べてくれる相手がいたとしても、無視し、離れたところで食べている。山なら岩の上だ。誰とも食べてくれなかった子は岩の裏。一人で食べているのが見つかると恥ずかしいため。
 しかし、その岩陰にもう一人の子が入ってきた。同類だ。ここで生まれた連帯感は大きい。特に親しくしたくもない相手であっても、選択肢はないのだ。これにより遠足で一人で弁当を食べたという事実から解放される。決して詭弁ではない。
 弁当解散というのがある。食べるために散ること。一人弁当タイプの子は安全地帯のない場所をさまようようなもの。どこへ向かえばいいのかも分からない。めぼしいグループや相手はいない。そういうときはそこで弁当を広げるのではなく、その辺を探る。とどまると一番目立つ中原で弁当をひろげるようなもの。そしてそこには先生がいたりする。
 先生が一緒に食べようか、などと誘うと、これは論外。もっとも厳しい刑になる。地獄にもそんな刑はないほどきつい。
 まずは人が少ないところへ向かうか、隣のクラスのいる場所へ紛れ込む。中には入れないので、その近くの曖昧な箇所。そこは国境の辺境。
 人目のつかない場所へ行くには、弁当の前に、その辺りを見学している振りをして、岩陰がなければ茂みの中に身を隠す。すると、先に逃げ込んだ子がいたりするが、このときも、目と目が合えば互いの事情は痛いほど分かっているだけに、何も言わない。
 こういう子たちは社会に出ればもっと苦労するだろう。しかし、子供時代から磨いた回避の方法を身につけている。それは解決策にはならないし、通じないことも多いが。
 しかし、学校では教えてくれないものを自習する。そしてそういう経験が大人になったとき、ものすごい社交上手になり、一番日の当たる場所にいる人気者なる、ということは残念ながら岸和田は思っていない。
 一人の世界。これは共有された世界より、当然広い。
 
   了



posted by 川崎ゆきお at 12:00| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする