2018年10月08日

3770話 いく学


 ざわめいていた聴衆が潮が引くようにしずまった。引くときは音がしなかったりする。
 そして拍手で講演者を迎えた。日本の幾何学の権威。しかし国内よりも海外で有名な人。その人の講演が始まるのだ。
 男は背筋が曲がった大柄な老人。相撲取りでいえばアンコ型。
「わてがいくじろうだす」
 同時通訳AIの文字がワンクッション遅れて流れたが、意味不明。しかし、ここはAIではなく、通訳も来ており、それよりさらに遅れてイヤホンから聞こえる仕掛け。長く日本に滞在し、その文化にも詳しいベテランが、わてを私と訳し、あとは博士の名。
「わてがいく学と合うたのは藤吉先生宅に奉公したときからだす。わてはそのときからいく学が好きになりましたんやわ」
 プロ用日本語同時通訳ソフトで方言対応だが、手強いようだ。
「いく学は」
 AIの通訳も「幾何学」とは訳せない。
「いく学はなあ、ええもんでっせ」
 この博士、幾何学の権威。だからいく学と言うわけがないが、あえてそう言うのが博士のユニークなところか、本当に間違っているのに気付かないだけかもしれない。
「わいがなあ、算数が好きになったのはそろばんからや」
 ワテがワイに変化したが、どちらも私を指す言葉。
「数の数え方はいく学ではこう数えるねん、ひーフーみーよー今何時や、へい八つ時や、ここのつ、とー」
 落語の時うどんではないか。これで勘定をごまかす話。
 観客は目を見開き、必死で何を言っているのか聞き取ろうとした。
 AIも同時通訳者も誤訳を繰り返した。
 この博士のいく学、いや幾何学は言葉による幾何学で、言葉が関数になり変数になり、複雑な図形や、模様が浮かび上がる。それらは聞く側の誤解によって生じる万華鏡なのだ。
「ほな今日はこのへんで勘弁しといたるわ」
 これはうまく訳せたようだ。
 西田幾次郎。日本を代表しない幾何学者だが、世界が認める至宝らしい。
 
   了


posted by 川崎ゆきお at 11:02| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする