2019年02月18日

3902話 湯豆腐を目指す人


 どんよりと曇った冬の空。寒々としており、こういう日は湯豆腐でも食べてその温かさを保ちながら寝入りたいもの。と作田はこの時期になると、いつも思うのだが、そんなことをしたことはない。
 寒いとき、カロリーが必要。湯豆腐だけでは頼りない。楽しみにしている夕食のおかずが豆腐だけでは味気ない。豆腐そのものには味はないが、いい豆腐は豆臭さがあるのだろう。
 木綿か絹こしか、どちらを選ぶかだが、湯豆腐は潰れやすいので、塗り箸では挟んだとき、切れてしまう。湯の中では挟めるが、上に上げると割れる。だから割り箸の方がいいが、それでも柔らかな絹こしでは無理。もう口の中に入れる準備をしているのに、ポロリと崩れ落ち、泳いでいるその片割れを挟むと、それもまたハサミのように切ってしまう。それを繰り返しているうちに挟めそうな塊がなくなってくる。これが味噌汁なら、そのまま汁ごと飲んでしまえばいいが、湯豆腐の湯はただの湯。味はない。ただ出汁昆布が敷いてあったりするので、純粋に昆布出汁だけを味わう絶好の機会なのだが、口の中で待っているのは豆腐の塊。
 それで湯豆腐にするのなら木綿と決めているのだが、なかなか実行できない。食べる限り、一丁そのまま湯船に入れたい。出汁は醤油だけでいい。湯豆腐を入れたとき、湯が入るので、すぐに薄まるが、最初の濃いときの醤油がきゅっとくるときが最高。
 醤油の発明がものを食べやすくしたと聞いたことがある。塩でもいいのだが、醤油のツンと来る感じが生臭を押さえ込める。
 そういう能書きだけはあるのだが、作田は実際には湯豆腐だけをおかずにしてご飯を食べたことは一度か二度。これはおかずが何もないとき、豆腐だけがあった場合。しかし不本意ながらの夕食。望んで食べた経験はない。
 しかし、寒々としたこの時期、湯豆腐が頭に浮かぶ。湯船に入っている豆腐。その豆腐は自分だ。
 一丁百円もしない豆腐だが、観光地で食べると千円する。ただ湯船は檜で立派。豆腐も極上。流石に二丁百円の百均ものとは違うだろう。
 作田は何かの付き合いで、その高い湯豆腐を一度だけ食べたことがある。豆腐よりも添え物の方が高いのではないかと思えるほど。
 江戸時代の豆腐は今ほどには安くなかったらしいので、これはいいものだったようだ。特に歯が悪いか、歯茎だけの年寄りは豆腐は有り難かっただろう。
 作田は実行に移す機会はないが、湯豆腐のイメージだけは頭の中にある。これは憩え、和めるイメージとして。
 作田は社内ではそれほど高くない豆腐のような存在かもしれない。しかし、食材の中では安い豆腐でも、湯豆腐屋では高い。これだけ化ける食材があるのだろうか。
 作田もそういう豆腐でいきたい。ただの豆腐では安っぽい。しかし湯豆腐になると違ってくる。冷や奴では安い。卵豆腐でも安い。やはり湯豆腐だ。
 作田を豆腐だとしよう。それに値打ちを付けるには湯豆腐仕様にすること。
 それにはどうすればいいのかと、湯のことを考えた。
 
   了



posted by 川崎ゆきお at 12:31| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする