2019年02月23日

3907話 他人の目

他人の目
 相変わらずのマイペースで振る舞っているより、少し嫌だとか、苦手なことをやったときの方が評価が高かったりする。自己評価と人の評価とは違う。
 人といっても個々人、一人一人の評価だが、その数が多いと、高い評価になる。世間全体から見れば大したことはないが。
 それでも世間の同調者がこれまでより多いと、いつものマイペースは何だったのかと思うだろう。自己評価の高い、お気に入りのことをしているときよりも、いいものが返ってくるのだから。
 当然それを一度味わうと、柳の下を狙うのだが、相変わらずマイペースで他人の評価など気にしないで我が世界を滑りまくっている人もいる。
 綺麗な滑走ならいいが、転んだりするにもかかわらず、自己評価だけを頼りにしている。
 この自己評価も、世間の評価の影響を受けて、変わるものだが、自分だけを信じて生きている人もいるのだろう。そんな根拠が何処にあるのかは分からないが、これは自分教とか自己教とかの宗教に近い。教祖と信者が同じ。
 ただ、人には自分の中に他人がいるもので、自分という領内でも謀反はあるし、革命もある。
 人が持っているポリシーは、生活習慣病のようなもので、いつの間にかそんな考え方や暮らしをしていたようなことが多い。
 自分の中の他人とあまり交流しない人は、リアルでの他人とも交流しないのだろう。しかし、最低限のことは人なので、やらないと社会生活が無理になる。
 逆にリアルな人との交流は少ないが、自分の中での他人とは多く付き合っていたりする。果たしてそれが他人と言えるかどうかは分からない。全部自分ではないかといわれれば、そうかもしれない。
 人は他人からどう見られているかを気にする。どう見られようと関係がない人もいるが、見られていることは知っている。または意識するあまり、無理に目を閉じ、耳を塞ぐ。
 ただ、他人がどう見ているのかは、その他人になってみないと分からない。世の中に多くある言い方で、別の意味で見ていることもある。または「ある意味」で見ている。
 本人が分かるのは、ただの反応。感じ程度。扱われ方や、相手の姿勢、態度で、何とか把握するのだろう。当然直接言われることもあるが、言う側にも問題がある。言う必要があったり、言わないと、言う側の都合が悪くなるとかが含まれる。
 このあたり、そんな正確なモノではなく、雰囲気でおおよそのことは分かる。これは肌で分かる。より動物的なセンサーを使うのだろう。その方が精度が高かったりする。
 さて、自分はそれほど気に入っていないのだが、それを評価されたときの話だが、どういう意味で評価されたのかは差し置いても、何か世界が拡がったような気がする。自分は気に入っていないのだが、受けると、受け入れらたことになり、他人が受け入れるのだから、自分も受け入れようと思うかもしれない。それで気に入らないものが気に入ったものの仲間入りする。
 人の評価を気にする。人目を気にする。これは悪いことであるはずがない。あたりまえの話だ。
 高い評価を受け続け、天狗になる。これは大天狗に大いになった方がいい。そんな時期などほんの僅かなのだから。
 
   了
 


posted by 川崎ゆきお at 11:54| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする