2020年06月06日

3773話 第三分室初仕事


 私鉄沿線の寂れた繁華街。飲食店が軒を連ねているが、すぐに終わる。見るからに黒光りの高級車がその端まで行き、少し曲がったところで止まっている。
 運転手が車の後部から折りたたみ自転車を取り出し、組み立てる。
「ご用意できました」
「うむ」と座席の紳士が頷く。やや太っているが背は高い。ただ骨格は弱そうだ。しかし腹は出ていない。
 紳士は自転車に乗ると、高級車は立ち去った。
 紳士は繁華街の端にある雑居ビルに入っていった。五階建てで、その玄関口は不動産屋と喫茶店の間にある。喫茶店は廃業している。
 
 ノック音で田中はさっとドアを開けた。来訪は本室から連絡が来ている。
 ここは本室を助ける第三分室。そこに詰めているのが田中で、まだ新任。
「音羽です」
「はい、お待ちしていました」
 オフィスには接客用のテーブルはない。中央部に大きな机があり、まるで食卓。六人、詰めれば八人は腰掛けられるだろう。
 音羽はその大きなテーブルに着いた。
「お茶でも入れます」
「うむ」
 田中の前任者が和茶マニアで、何種類ものお茶のパックを集めていた。退職したのだが、それを持ち帰らなかった。だからそれほど拘りのあるマニアではなかったのだろう。百均のお茶も混ざっているので、いいものではない。
 ガチャンと音がしたので、紳士の音羽は驚いたようだ。ガスコンロを付ける音だった。
 湯が沸くまで、少しだけ間があるので、田中はテーブルに戻った。
「これだがね」
「はい」
 音羽は鞄を開けようとしたが、ファスナーが引っかかるのか、スーと開かない。
「これだがね」といいながら、グーと引こうとしたが、引っかかっているのか、噛んでいるのか、それ以上力むとつまみを引きちぎる恐れがあるので、そこで力を緩めた。
 田中は「私が」といいながら、その鞄のファスナーを見る。
「ビラビラが噛んでます」
「そうか、それで防水性がいいのだが、たまに引っかかる」
 田中は、真っ直ぐ引くのではなく、斜めに引くと少し口を開いたので、そこに串カツ用の長い串を入れ、斜めに弓のように反らせながらまさぐり、ビラビラを外した。しかし、客の鞄なので、それ以上開けない。
 音羽は鞄を受け取り、自分でスルッと開けようとしたとき、悲鳴が聞こえた。
 薬缶の笛が鳴ったのだ。
「お茶を入れてきます」
「うむ」
 田中がカーテンの奥から急須と茶碗を盆に乗せ、戻ってくると、既にテーブルの上にファイルが置いてあった。よく見かける透明の紙挟みのようなものだ。
 茶碗にお茶を入れようとしたとき、音羽はファイルを少し移動させた。
「どうぞ」
「うむ」
 音羽はファイルに手をかけながら、茶碗を掴もうとしたが、こぼした。熱かったのだろう。
「失礼」
「いえいえ」
「沸騰させた湯じゃ駄目なんだ。お茶はもう少し低い温度でないとね。八十度でもまだ熱い。七十度ぐらいが好ましいよ」
「はい慣れないもので」
 音羽は指を立て、爪で茶碗を掴むようにして口まで運んだ。
「いいねえ、香りもあるし、渋い。だが少し苦い、妙味だね」
 古いのだ。
「ああ、さて、これだが」
 音羽はファイルを田中に差し出した。
「はい、確かに受け取りました」
「じゃ、私は失礼するよ。よろしく頼むと音羽が言っていたことを伝えてくれ」
「はい、了解しました」
 音羽が立ち上がったので、田中は下まで見送ろうとしたが、いや、目立つからいいと、音羽は手で制した。
 雑居ビルの横に折りたたみ自転車が止めてある。安っぽいものだ。音羽がそれに乗ろうとしたとき、田中が走ってきた。
 どうしたんだ、というような顔で音羽は周囲を見渡しながら田中を見た。
 田中の手に音羽の鞄があった。
「ああ、有り難う。うっかりしていた」
「じゃ」
「うむ」
 音羽は少し先にある高級車から降りた場所へ戻った。
 しばらくすると、高級車がやってきて、運転手が自転車を畳み、トランクに入れた。
 第三分室。田中の初仕事は、これだった。
 
   了




posted by 川崎ゆきお at 13:34| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする