2020年08月04日

3832話 夢中の人


 一つのことに夢中になり、そればかり本田はやっている。日常的な用事や仕事は当然しているが、そこには目はない。
 その夢中になれるものが少し弱まってきた。いやかなりだろう。先が見えてきたのだ。そうなるとあまり先がないことが分かる。これは少し淋しくなるのだが、それでもまだやることは残っている。
 夢中になれる期間というのは短い。そのピークがあり、非常に盛り上がるのだが、大体それで得体が知れ、全体が分かり、どういうものだったのかが分かる。分からないから楽しかったのだが、そうではなくなりつつある。
 そんなとき、いつものように買い物に出掛けたのだが、通る道は決まっている。だから風景も見ていない。ただ、風景に夢中になっていた頃は、風景ばかり見ていたが。
 今は頭の中は夢中。夢の中。そのことばかり考えたり思ったりしている。その夢中の中に飛び込んできたものがある。背中だ。前を行く自転車に近付きすぎたのだろう。
 本田のスピードが早いのではなく、前が遅すぎるのだ。ミニサイクルをゆっくりと漕いでいる。歩行者が追い越すほど。
 自転車は小さいが乗っている人の背中は広い。座高だけが非常に高い人もいるが、その骨格や服装、帽子や、ちらっと見える後ろからの顔。これは後ろからだと見えないのだが、相手も左右を見たりするため、そのとき、分かる。少しだが。
 夢が前にいる。
 これは旧友だ。まだ生きていたのだ。
 本田は声を掛けようと思ったが、何故か重苦しい。気が進まない。それにペースを乱したくない。話しかければそれなりの感情が湧き出るだろう。相手もそうだ。
 その相手とは夢友達。若い頃、同じ夢を懐いていた同志。もう今は、そんな夢など互いに忘れているし、夢は次々に変わり、相手も、別の夢を梯子しているだろう。
 それで本田はスピードをうんと緩め、相手との距離を取った。その道の先は繁華街。今は一本道だが、その先で複数に分かれ、行く場所も違ってくるだろう。だが、本田の行く場所と同じかもしれない。それを恐れてスピードを緩めた。
 ついでに止まってみた。これが一番距離差が付く。そして手持ち無沙汰なので、鞄からカメラを取り出し、望遠で相手の後ろ姿を写す。かなり望遠が効くので、大きく写せるが、左側に電柱がある。そちらにピントを持って行かれた。多点測距AFのため、主要被写体をカメラが勝手に決めて、合わすためだろう。しかし、電柱と相手の距離は同じ。ちょうど電柱の横を通過中。だから電柱にピントが来ても、両方合うので、問題はない。
 それで、パチリと一枚写す。
 ファインダーから目を離し、前方を見ると、かなり距離が開いた。これなら、同じ場所に行っても大丈夫だろう。
 そして、本田は買い物を済ませる。その相手とはかち合わなかった。違う場所に行ったのかもしれない。
 戻ってから先ほどの写真を見る。
 ピントはやはり電柱に来ていた。そして相手はピントが外れているのではなく、ピントが合うも合わないもない状態。そんなものは写っていなかった。
 
   了



posted by 川崎ゆきお at 12:44| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする