2020年10月05日

3893話 古池


「古池へは行きましたか」
「いいえ」
「この枝道の先に森がありまして、その中央部にあります」
「そうですか」
「折角ここまで来られたのなら、見て損はありません。それに、ここは民宿しかない辺鄙なところ。観光地というよりも、湯治場でした。ただ、温泉は湧きませんがね。それでも行者さんなどが団体で来ますよ。ここを宿坊にして、山へ行かれるのです。だからあなたが泊まっている民宿も、そうですよ」
「そういえば阿弥陀坊となっていました」
「名前負けです。偉すぎる。もう少し気楽な名前にすれば良かったんですがね。まあ、宿坊代わりに使う人は希で、シーズンがありますしね。それに来られる人は普通の人が多いのです。商店街の人とかね」
「じゃ、さっきの古池へ寄ってみます」
「見るものが少ないですからねえ。何もないところなので、渓谷ぐらい。結構深いですよ。だからハイカーの人も泊まりに来ます。日曜行者さんとかち合いますがね」
「はい、有り難うございました。早速行って見ます。で、その古池、蛙が飛び込むような池ですか」
「さあ、何もない古池です。水溜めだった場所です」
「じゃ、人工の」
「いえ、掘ったものじゃありません。最初からありました。あとで手を加えましたがね。今は使われていません。池に戻ったのです」
 吉田はその古池の前に立つ。池というより、沢のくぼみにできた沼だろう。木は水際まできているし、沼から生えている木もあるが、流石に枯れている。
 斜面の繁みに囲まれて、ポッカリ空いたような空間。それほど大きくはないが、小学校のプールぐらいはある。
 吉田は沼に映る木とか空とかを見ていると、気持ちが良くなってきた。誰かがやっている芸ではない。誰かが書いた絵でもない。
 紅葉が始まっているのか、ぱらりと黄色や赤い葉が水面に落ちる。既に落ちている先客の葉と混ざる。その配置は自然のもの。誰もレイアウトなどしていない。しかし、見事に葉や色の組み合わせができている。
 吉田が少しだけ目を上げ、向こう岸を見る。白いものが動いたためだ。白い鳥かもしれない。
 しかし、それはすぐに人だと分かった。そんな大きな白い鳥はいないので。
 その白い人は、淵まで降りてきて、そこで座っている。よく見ると白装束。行者だろう。一人で来ているのだろうか。団体が多いと聞いていたが。
 白い行者も気付いたのか、吉田を見る。そしてこちらへ向かってきた。しかも淵沿いではなく、水面を直線コースで。
 流石に行者、とは思わない。そんなことができるわけがない。水面渡り。
 そして、近付いて来るにしたがい、早くなる。しかも怖い形相をして。
 吉田は、ワッと言って逃げ出した。
 阿弥陀坊に戻って、主人に聞くと、よく出るらしいとのこと。
 だから地元の人は寄り付かない。
 
   了




posted by 川崎ゆきお at 12:28| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする