2020年11月03日

3922話 忘れがたき思い


「寒くなってきましたなあ」
「秋も深まり冬へと至る」
「至りますか」
「至ります」
「そういう話、去年もやってましたねえ」
「忘れました」
「あ、そう」
「風がきついので寒い」
「忘れないようようなこと、ありますか」
「よく忘れます」
「いえ、そうじゃなく、晩秋の日の忘れることのないような思い出とか」
「少し待って下さい」
「忘れましたか」
「あるにはあるが、忘れるようなことがないような思い出ではないようです」
「思い出したのを、言って下さい」
「そんなの聞きたいですか」
「はい」
「一人で淋しく紅葉狩りへ行き、高い湯豆腐を食べた。私は忘れない。あの高さを」
「もういいです」
「食い物の恨みは百年残る」
「そうですか」
「家で作れば百円かからん」
「観光地でしょ」
「そうだ」
「飲み屋の湯豆腐なんて安いですよ」
「それじゃ風情がない」
「じゃ、いい場所で、いい雰囲気の店で食べたのですね」
「まあ、そうだが」
「ああいうのは接待とがいいですよ。個人的に自腹を切って食べるようなものじゃありません。切腹じゃないですけど」
「冷えてきたので、温かい湯豆腐が食べたくなったんだ。それで湯豆腐と書かれた看板が表に出ていたので、その通りを進んだ。細い道だ。奥に家がある。そこまで入り込んだので、引き返すのも何だし、まだそのときはそんなに高い湯豆腐だと思っていなかった。簡単な板に貼り付けた湯豆腐と書かれた文字だけの看板。後で考えると、貼り紙だ。ただ、暗くなってからでも見えるようにLEDランプが仕込まれていた。あれは電池式なので、交換が大変だろう」
「もういいです」
「君はあるか? 忘れがたきこと、この晩秋」
「秋刀魚を全部食べる人がいましてねえ」
「骨もかね。猫だろ」
「人です」
「しかし骨は残すだろ」
「確かに残しましたが、本当に骨だけ」
「じゃ、全部食べたわけじゃない」
「普通、そこまで食べませんよ。綺麗に」
「たまに、そういう人もいるんだ」
「その、たまの人だったようです」
「何処で」
「飲み屋です」
「あ、そう」
「しかし、晩春の忘れがたき思い出を聞きたかったのですがね。もう少し、それらしい」
「私は忘れないと、遠い目をして話すような内容かね」
「そうです。できれば湯豆腐やサンマじゃなく、少しもの悲しいような」
「あっても君には話さないよ」
「そうですねえ。私も同感です。魚にされたくない」
「そういうことだ」
 
   了





posted by 川崎ゆきお at 13:25| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする