2018年12月10日

3832話 出遅れ


「出遅れましたなあ」
「遅いです」
「まだ間に合うが、どうする。急ぐか」
「急ぐのは苦手です。慌ただしいのは」
「急げば間に合いそうなんじゃが」
「差が付きすぎました。これじゃ不利だと思われます」
「じゃ、どうするのじゃ」
「ゆっくり行きましょう。どうせ最後尾、多少前に出てもしれてます」
「そうじゃのう。急いでも急がなくても最後尾。その地位は不動か」
「まあ、のんびりと行きましょう」
「よし、そうしよう」
 向かう戦場はこちらが有利、押している。この主従の部隊は十数人ほど、この作戦に参加した豪族だ。勝つのは分かっている。だから参加したが、主の鎧がほころびていたので、それを直しているうちに出遅れた。家老と言うほどのものではないが、補佐するリーダ格が付いている。まだ若い。
「これでは手柄など望めそうもないのう」
「いえ、参陣したことで、もう十分でしょ」
「そうじゃな」
 敵陣は崩れかかっており、そこへ各部隊が押し掛けていた。
「おや、追いついたのでしょうか、兵がいます」
「手こずっておるのやもしれん」
「お館様、あれはお味方ではありません」
「え」
 敵味方を見分けるため、旗印を付けている。それがない。
「こちらに来ます」
「多いぞ。巻き返されたのかもしれぬ」
「どうします。もう見付かってますよ」
「様子を訊いて参れ」
「はあ」
「早く」
「ひ、一人でですか」
「多いと敵も警戒する。それと兵数を確かめてこい。こちらより多いのは分かっておるが、どの程度か」
「はい」
 補佐の若武者はすぐに戻ってきた。
「どうじゃった」
「敵軍の牧野庄左衛門様の部隊です」
「敵の主力ではないか」
「それで話あると」
「どのような」
「逃げたいので、手伝ってくれと」
「敗走兵か、逆方向だぞ」
「よく突破してきたものです」
「追うのは楽ですが、向かってくる敵は嫌ですからねえ。前を進んでいた部隊、避けたんじゃないですか」
「そりゃそうじゃ、死兵相手は怖い。それに主力なんじゃから強いしな」
「かなり減っておりますし、怪我人も多いようです」
「それで、逃がして欲しいと」
「はい」
「じゃ、逃がそう。というよりも戦っても勝ち目はない」
 補佐の若武者は、合図を送った。
 馬も失ったのか、主力部隊の大将奥野庄左衛門を先頭にやってきた。かなりの高齢だ。
「本国へ戻られますか」
「そうしたいが、攻め込まれておるはずなのでな。他国へ逃げたい」
「赤崎様の御領地がその山の向こうにあります。今回の戦いには参加しておられません。そちらでよろしいですかな」
「そうしてくれると有り難い」
「分かりました」
「名を聞いてよいか」
「はい、多々良郷の多々良宗義でございます」
 多々良宗義は若武者に命じ、里に戻って飯を運ばせた。
 赤崎領への山越えには流石に参加しなかったが、そこには兵などいないし、また敗走兵が敵の奥に入り込んでいるとは誰も思わないだろう。それで、無事、山を越えた。
 肝心の戦いだが、敵の本拠地まで詰め寄ったが、城は堅く、落とすまでには至らなかったが、数村は占領し、一応勝ち戦になった。
 出遅れた多々良宗典は当然手柄などない。逆に内通したことになるのだが、これはバレなかった。
 後年、このときの恩義を奥野庄左衛門は覚えていたらしく、主家は亡びたが、そのまま退避先の赤崎家に仕えたとき、誘ってくれた。
 赤崎家に仕えた方が将来の展望も拡がるのだが、多々良は土地を離れることはなかった。
 今も、この多々良の地に、多々良姓が多く残っているのはそのためだ。
 
   了


posted by 川崎ゆきお at 12:39| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月09日

3831話 仲間食い


「式田さんを入れるのですか」
「参加したいと言ってます」
「はい」
「多い方がいいでしょ」
「そうですが」
「小さくても多く集まれば大きな勢力になります。一人でも多い方が好ましい」
「はい」
「何か不満そうですが」
「聞いてませんか? 式田さんの噂を」
「いや」
「仲間喰いです」
「え、どういうことかね」
「仲間を喰らって大きくなったのです」
「まさか人肉を」
「似たようなものです」
「詳しく話しなさい。危険な人なら、入れない」
「はい。私達が今やっている連合。仲間を増やして大手と戦っていますが、式田さんは敵と内通しているのです。敵の攻略ではなく、仲間の攻略がメインなのです」
「敵の力を借りて、仲間を食べてしまうのか」
「敵は大手ではなく、仲間なのです」
「え、分かりにくいねえ」
「ですから、内側に式田さんという敵を抱えていることになります」
「じゃ、大手側の人間かね」
「違います。式田さんの敵は大手です。私達と共通の敵と戦っています」
「大手と戦っているはずなのに、どうして味方を取りに行くのかね」
「その方が大きくなるからです」
「それで仲間喰いか」
「うーむ」
「ターゲットは大手ではなく、仲間なのです」
「面倒なことをする人だねえ」
「大手には勝てません。それが分かっているのでしょ。だったら仲間の一つ一つを奪った方がいい」
「大手の力を借りてかね」
「それはありません。大手とやり合うより、私達のメンバーを奪った方が楽ですから」
「どうしてそんなことになる」
「知りませんよ。しかし、式田さんはこれまでそういうことを何度もやり、ある程度の規模になっています。三つか四つ食べたのでしょうねえ。だから結構大きな勢力です。大手には負けますがね。だから仲間にしたいのです。式田さんが加わることで、私達は大きくなります。大手攻略ができる可能性も高くなります」
「そうだろ」
「しかし、私達が集めた仲間の何処かを囓り出します」
「悪い奴だなあ」
「はい、だから、心配しているのです」
「それは困った」
「下手をすると、私達も喰われてしまいますよ。乗っ取られます」
「それで、式田さんは何をしたいのかね」
「大手をやっつけることです」
「それは嘘だろ」
「そうかもしれません」
「要するに式田さんはやり手、豪腕ということだろ。その噂は聞いている。凄い男だと。だから参加してもらいたい」
「喰われますよ。乗っ取られます」
「まあ、いいか」
「ええええ、どういうことです。何がいいかなんです」
「喰われてみようじゃないか」
「そ、そんな」
「仲間を纏めるのが面倒になってねえ。どうせ勝てない相手と戦うんだし」
「それはいけません」
「じゃ、式田さんを入れないようにするか?」
「その方が平和かと」
「戦う集団が平和では困るだろ」
「あ、そうですが」
「ここは一つ、喰われてみましょう」
「それは、いくらなんでも」
「どうせ喰われるのなら、喰わしてやる方がいい。喰われるにしても余裕がある」
「いやいや、そんなことより、式田さんを入れなければ問題は起こりません」
「だが、式田さんを入れると、大手に勝てるかもしれない。入れないとなると、私達だけでは、無理だ」
「いえ、抵抗するだけの力はあります」
「しかし勝てない」
「はあ」
「式田さんが我々を喰った後、今度は大手を食い出すだろう」
「どんな胃をしているのでしょうねえ」
「さあ」
 
   了


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2018年12月08日

3830話 神守


 喜地家は神守の家柄だが、都も近く古くから拓けた場所とはいえ、田舎くさい山沿いにある。周囲には農家が点在している程度。晩秋の山里は柿が実り、干し柿の産地でもある。
 都があった盆地のためか、その端にも寺院がある。流石にここは遠いので、観光地化されていない。
 喜地家が祭っている神というのには建物がない。そのため、神社はない。
 神守とは神を守る人々だが、喜地家のそれは墓守に近い。つまり神様の墓を守っているのだ。神仏は死なない。神は死んだというのは比喩ではあるが、実際には聞かない。当然神仏の墓など、あるかもしれないが一般的には流行っていない。
 喜地家が守り続けているのは堂。だから村人は堂守と呼んでいる。しかし、そんなお堂はなく、実はお洞。洞窟だ。
 寺社などができる以前は、自然にできた洞穴などがお堂の役目をしていたのではないかと思えるが、喜地家が守る神は、先祖ではない。その神様の系譜ではなく、あくまでも管理人のようなもの。お世話する側。下部だ。しかし、神の墓ではない。
 洞窟内には何もない。穴のある裏山は喜地家の持山。代々この山を守っているが、守りたいのは山ではなく、穴が空いている箇所だけでいい。洞窟は喜地家の裏庭からしか入り込めない。横からでも山側からでも入り込むことはできるが、村人はここには近付かない。それに興味もない。
 しかし長い年月のうちに、喜地家の裏山に洞窟があり、何かを祭っている程度のことは漏れ伝わるもの。
 しかし、屋敷内にお稲荷さんや地蔵さんを祭ってある程度の常識内に収まっている。
 その洞窟内には何もない。祭壇もないし、神具もない。ただの横穴で、奥は流石に暗いが、深くはない。
 喜地家に伝わる言い伝え、これは口伝で、書いたものはない。それによると、その神について触れられている。どうやら動物のようだ。
 その姿も伝わっているが、想像上の動物だろう。ただ、羽根がある。
 だから、鳥だろう。
 言い伝えでは、神守の仕事は待つこと。
 洞窟内に、ある人突然卵が出現するようで、卵を守り、ふ化を見守り、ヒナを育てること。
 歴代の神守喜地家の当主の中には、それは孔雀だという人もいれば、極楽鳥、鳳凰、鶏、等々と想像している。時代により、鳥の形が違うし、また鳥ではないと言い出す当主もいた。
 この言い伝え、この盆地に都ができる以前からある。喜地家はその家系ではないかと思われるが、古い家柄だが、単に古くから土着していた程度だろう。墓守程度の身分なので。
 今は、そういう言い伝えが残っている程度で、喜地家の当主は、神守の仕事をもう辞めている。洞窟はそのまま放置されており、古い時代に作られた入り口の蓋のようなものも、崩れかかっている。これは中が危ないので、補強し、鍵を掛けて、入れないようにしている。
 だから、もう神守はしていない。
 もし卵が降臨した場合、どうするのだろう。
 
   了


posted by 川崎ゆきお at 13:53| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月07日

3829話 その後


「その後ですか」
「終わった後のことです」
「まだ始めてもいませんが」
「始めると結果が出ますねえ」
「出ないこともありますが」
「結果が出たとしましょう。または結果はさておき始めたとしましょう」
「はい」
「その後です」
「当然、後のことを考えているから、やり出すのですが」
「それでいい結果が出たとしましょう」
「はい」
「その後です」
「その後も良い状態が続くのでは」
「それならいいのですが、そうではなく、期待していたものを得ても、しばらくするとあまり満足感はなかったりします。または思っていたような結果ではなかったとか」
「それは失敗したのでは」
「いや、完璧にやったので、それ以上の結果は出ません。それが何か腑に落ちない場合もあるのです」
「苦労して手に入れたものが、大したことなかったとかですね」
「そうです。それなら最初からやらなくてもよかったのではないかとね」
「それを言い出すと、きりがないですよ」
「確実に結果が予測できる場合でも、その後です」
「後先考えないでやる場合もありますが」
「それです。それがよろしいかと」
「え、そんな無計画な」
「小賢しい計画など立てるよりも、そちらの方がよろしいかと」
「先生」
「何ですか」
「それは指導者としてはふさわしくありませんよ」
「結果に拘る?」
「当然です」
「得た結果は、その後、どうなりました」
「思った通りの結果が出て、それで満足しましたよ」
「満足してからどうなりました」
「え」
「そのうち、それにも不満を抱くようになるでしょ。満足なら満足が不満になる」
「不満に終わる結果よりはいいでしょ」
「どちらも同じ」
「では、どうすればいいのです」
「元気なときは常に何かを求めているもの」
「そうです」
「求めているものを得てからが問題なのです。得られない場合は、もっと続けられます。得てしまうと、もう求めるものがなくなります。ここからです。本当の始まりは」
「そうやって、ひとつ山を越え続けるのが普通でしょ。終わればその後は次の目的へと向かう」
「確かにそうなのですがね。それで何を得られたかでしょう」
「いろいろと得ましたよ」
「次のものを得るために、得ているようなものでしょ。それがその後ということです。その後もまた得ようとして始めるわけです」
「それでいいじゃありませんか、先生」
「そのパターンを見ていると、少し考えてしまいませんか」
「多少はありますよ。得たばかりに苦労することも。それなら得なければよかったと後悔することも」
「だったら、最初からやらなければよかったとは思いませんか」
「それは得てみないと分からないので」
「得ても得なくても同じ」
「じゃ、どうするのですか」
「ダミーを得ることです」
「ダミー」
「偽物、まがい物を得ることです」
「そんな」
「嘘を得続けるのです」
「嘘とは」
「虚」
「それは、先生だからできる境地でしょ」
「そんな境地にはいません。私も、まだまだそのレベルじゃないのでね」
「しかしそんなこと、若い人に教えても」
「そうですなあ。それじゃ指導者らしくない」
「大丈夫ですか先生」
「虚無という深淵を覗いてしまうと、もう何もやる気がしなくなるもの」
「そうですよ。そんなもの覗かないで下さいよ。僕までおかしくなります」
「虚の虚を覗く。これならいけることを発見した」
「夢の夢こそ真というやつですか」
「人は何処までも嘘をつき続けることでしょうなあ」
「あっ」
「どうかしましたか」
「分かりました」
「何を」
「これまでの話、全部嘘でしょ」
「む」
 
   了

posted by 川崎ゆきお at 12:34| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月06日

3828話 心境の秘境


 人は今、どんな境地にいるのかは外形でも何となく分かるが、その内面がどうなっているのかは聞いてみないと見えてこないかもしれない。地形のようなものなら見えるのだが、同じ地でも、境地になると精神的な地図になる。境地が秘境と言うこともある。境遇がそうさせているのだろうか。
「最近、君が何を考えているのかが分からない。今までは見えていたのですがね」
「そうですか」
「何か心境の変化でもありましたか」
「さあ」
「そうでないと、いつもの雰囲気とは違うことが理解できない」
「いえ、普段通りです」
「しかし、態度が違う。いやに大人しくなった」
「前からですよ」
「以前はもっと鋭い目付きをしていた。今は穏やか」
「そんなことが分かりますか」
「目をあまり見開かないし、妙な顔もしない。素直だ」
「悪いことですか」
「いや、いいことだが、何かあったのかね」
「別に」
「秘しているんだろうねえ。言えないことでしょ」
「そんなことはありません」
「何か環境が変わったとか」
「プライベートは特に変わっていません」
「じゃ、どうして、そんな菩薩のような顔になった」
「さあ」
「心境の変化があったことは分かる」
「さあ、何処にいるんでしょうねえ」
「え」
「いや、何でもありません」
「心ここにあらずかな」
「いえいえ、そんなことはありません」
「それはもしかして仮面」
「肉面です」
「分かった」
「何でしょう」
「体調が悪いんだ」
「多少、それはあります」
「スンと何かが落ちたような顔だよ。しろっぽくてね。すっきりしたような。しかし、苦しくないかね」
「いえ、そこまで調子は悪くありません」
「君はよく眉間に皺を寄せる。だが、最近それがない」
「はあ」
「君の心境を知りたいところだ」
「どうしてですか」
「ほら、いつもなら、角のある聞き方をするのに、それが消えている。何か良いことでもあったのかね」
「別に」
「あやかりたいところだ。私は脂ぎっていてねえ。テカテカなんだ。君のように淡泊になりたい。どうやったらそうなるのか、教えて欲しいんだ」
「そういえば」
「変化の原因が分かったかね」
「はい」
「何だ」
「脂っこいものを最近控えていることでしょうか」
「もういいから仕事に戻りなさい」
「はい」
 
   了


posted by 川崎ゆきお at 11:09| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月05日

3827話 恐れられた男


 小さな勢力だが、周囲は迂闊に手を出せない。それは一人の人物がいるため。たった一人だ。
 神童と呼ばれ、少し大きくなった頃にはこの国のお家騒動を巧みにさばき、分裂の危機を防いだ。
 四書五経を諳んじ、学者として他国にも名が知られている。丸暗記ではなく、その解釈が巧みで、解説書も出している。さらに仏典にも詳しく、また神道にも明るい。
 この男がいるため、他国は迂闊に攻め込めない。何をされるか分からないためだ。そのため周囲の国々よりも小さいのだが、誰も手を出さなかった。
 しかし、周辺の諸勢力も、さらに大きな勢力の傘下になり、大軍で踏み潰すのは簡単になった。そんな知恵者が一人いようがいまいが、物理的に落とせる。
 それまではこの小国を攻めようとしても、他国が味方になったり、また仲裁に入り、兵を入れることができなかった。だが今や周辺は大国の傘下に入り連合しているため、援軍も来ないし、仲裁する国など近くにはない。
 それでも慎重なのは、あの男がいるためだ。
 大軍で攻め込んだとしても、あの男は何をするかは分からない。おそらくもの凄い被害を被るだろう。それが怖いので、従属を進めることにした。これは仲間になれというのではなく、家来になること。受け入れれば、戦わずに済む。
 さて、その男、既に三十に達していた。それでもまだ若い。
「従属なあ」
「はい、戦えば負けます」
「そうだなあ」
「いくら策を講じても、無理でしょ」
「そうだなあ」
「従いましょう。殿もそのつもりでいます」
「本心ではなかろう」
「そりゃ、そうですが」
「従属が気に入らぬはず」
「当然でございますよ。しかしあなた様でも何ともならないでしょ」
「そうだなあ」
「何か策でも」
「うーん」
 結局、連合軍が恐れていたことにはならなかった。この小国、あっさりと従属してしまった。
 どうやら神童と呼ばれたこの男。三十過ぎあたりで賞味期限が切れたのか、ただの凡人になっていたようだ。
 
   了
 

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2018年12月04日

3826話 バスを待つ


「慣れというのは恐ろしいものですなあ」
「何かありましたか」
「ずっと使い続けていたノートパソコンがありましてね。もう遅いし、重いしで、買い換えたのですよ」
「つまり使い慣れたものを手放して、新しいのに変えたが慣れないので使いにくいという話ですね。はい分かりました。それだけのことです」
「そう言ってしまうと身も蓋もない。話がそこで終わります」
「でも、それ以上の展開はないのでしょ」
「それがあるのです」
「まあ、それはどうでもいいことでしょ」
「そういわず、聞いてください。そうでないと会話になりませんから」
「会話ねえ。別にしなくてもいいでしょ」
「こんなところで、待ち続けていると、退屈です。お相手お願いします」
「しかし、来ませんねえ、バス」
「ここのバス、当てになりません。時刻通り来たためしがない。だから結構待ち時間ができます」
「あ、そう」
「慣れというのは恐ろしいものです」
「時刻通り来ないことに慣れてしまったわけですか」
「いや、パソコンの話です」
「ああ、そっちですか」
「キーボードが手に馴染まないのです。古いのは十インチでしてね。新しいのは十三インチ。キーボードの幅が広いのですよ。それで手に合わない」
「バスが来ましたよ」
「あれはトラックです。バスは緑色」
「あっそう」
「慣れというのは恐ろしいものです」
「またパソコンの話に戻りますか」
「それで古いパソコンに戻したのですが、死んでいるのです。故障などしない元気なノートパソコンなのですがね、急に動かなくなりました。コンセントは差していますよ。それにバッテリーも残っているはずです。しかし電源を入れてもウンともスンとも言わない」
「緑色が来ましたよ」
「似てますがねえ。違うのです。あれは観光バスでしょ。ちょっと大きい」
「よく見分けられますねえ」
「慣れというのは恐ろしいものですよ」
「またパソコンの話ですか」
「今のはバスの話です」
「あっそう」
「この前まで動いていたのに死んでいます」
「パソコンの話ですね」
「そうです。不思議じゃありませんか」
「偶然そのタイミングだったのでしょう」
「捨てられたと思い、悲しんで自害したのかもしれません」
「今度はバスでしょ。緑色です」
「違います形が少しね」
「どこがどのように違うのです」
「屋根のエアコンです。ここのバスにはそれはない」
「でも緑色が二台も続くなんて」
「列なっているのでしょうか。きっとニ号車です」
「じゃ、まだ続くかもしれませんねえ」
「それは何とも言えませんが」
「しかし遅れすぎですよ」
「事故でも起こしたのかも」
「それじゃいくら待っても当分来ない」
「その可能性もあります。こんなに待つのは私も初めてだ」
「駅まで遠いですか」
「歩けば四十五分ほど」
「タクシーの姿も見えないし、歩くしかなさそうですなあ」
「私は待ちます」
「いや、ここのバスはすでに死んでいる」
「そうかもしれません。こんなに遅れるはずがないので」
「じゃ、一緒に歩きましょう。話し相手なら、いくらでもしますよ」
「そりゃ有り難い」
「しかし」
「え」
「あれは、バスじゃないのですか。緑色だし、屋根にクーラーもない」
「おお、そうじゃ」
「よかったですね。歩かなくて」
「はいはい」
 
   了


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2018年12月03日

3825話 神通り


 鳴宮の宿は参拝者で賑わっているわけではない。それほど大きな神社ではないためだろう。それと信仰する人も少ない。土地の人程度。ましてや遠方からわざわざ来る人などいない。
 その宿に一人の逗留客がいる。小さな宿場で、しかも長く居続けるような用事もなさそうだ。大きな街道なのだが、ここで宿を取る人よりも、通過する人の方が多い。しかし宿場があるのは鳴宮神社があったため。
 逗留客は武家のように見えるが大小は差していない。道中差しという護身用の短刀よりは少し長い程度。しかし、それはよく見ると小刀。大刀とペアで差す小刀だ。だが肝心の大刀がない。武家のようにも見えるが道端の占い師のようにも見える。これは髪型だ。髷はなく、肩まで髪を垂らしている。
 そしていつも宿屋の二階から下を見ている。どうやら人を待っているようだ。相手が来ないので、一日、また一日と泊まり続けているのだろう。
 宿場に貸本屋があり、そこで借りた本を一日中読んでいる。難しい本ではない。人情本。
 かれこれ十日になるので、宿の主も心配になり、様子を聞きに来た。そうでないと不審すぎる。
「ここは神通り」
 その言葉で主人はすぐに察したが、まさかそんな伝説を信じている人などいるとは思わなかった。それは街道を挟んで神社が二つある。鳴宮本宮と鳴宮神社。どちらがメインなのかは分からないが、鳴宮神社の方が先で、鳴宮本宮はあとにできたらしい。
 神通りとは神様が通る道。
 二つの神社を行き来する。それがひと季節に一度なので、三ヶ月に一度。ちょうどそれが今月。しかし、日は分からない。それが分かっていても神様が通っていることなど分からないだろう。それにこれは伝説。
 鳴宮の夫婦の神様が引っ越した。それが鳴宮本宮。しかし、二人の間にできた姫は一緒に行かなかった。理由は分からないが、独立したかったのだろう。つまり親と暮らすのが嫌で。
 親はそれを認める代わりに季節ごと、挨拶に来いいう条件。
 それで、姫神が通るところを見ようとしているらしい。比売神とも書く。
 主人は酔狂な人がいるものだと、その逗留客の目を細目で見詰めた。「大丈夫か、この客」というように。
 それはあくまでも伝説で、そんな比売神が通っているところなど見た人は誰もいない。
 神社が二つに分かれたことは、神々の事情ではなく、後ろ盾の問題。有力者が争い。その結果二派に分かれただけ。今はその有力者などとっくにいない。昔の貴族だ。家系は残っていても、もう力はない。
 この逗留客、その貴族の末裔。
 二家の貴族が鳴宮を取り合ったのは、時の勢力関係から来ている。鳴宮を取った方が有利なため。
 今は鳴宮など誰も相手にしない。社領は減り、村の神社ほどの規模になっている。
 主神は異国から来た神様のようだ。二家が争ったのだが、その二家も渡来人で、大陸から技術を伝えるため、呼ばれた。楽器に関係しているらしい。
 しかし、今は村の神社として細々と続いている。もうすっかりこの国の何処にでもある神社にすぎないが、神通り伝説にいにしえの歴史が残されている。
 その怪しい客の話は江戸時代。今は、もうそんな伝説など、誰も知らない。
 
   了


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2018年12月02日

3824話 意味の変化


「どうも最近気が変わってなりません」
「気が変になるのですかな」
「いや、気が変わりやすく」
「気候の変わり目などによくあることです」
「よ、よくあるのですか」
「私の場合ですがね。だから特殊かもしれません」
「僕の場合、落ち着きがないのです。コロコロと考えが変わったりします」
「それもよくあることでしょ。頭の中のことを言わなければ普通でしょ」
「気が次々の変わるので、変になりそうです」
「そんなに変化しますか」
「します。まるで統一した自分というものがないような」
「変化というのは脱皮かもしれませんよ」
「それにしては皮が剥けすぎます。肉まで落ちそうで」
「でも人格が変わったりはしないでしょ」
「それはしません」
「だから変化するもの、変わるものは大したことじゃない。別にあなた自身が変わるわけじゃなく、代理戦争のようなもの」
「代理戦争ですか」
「変化しているものは身代わりのようなものです。あなたに代わって変化しているだけ」
「そうなんですか。でも意見とか好みがコロコロと変わりますが」
「そういうのはうわべです。皮一枚の」
「意見や主義主張もそうなのですか」
「本体から見ればね」
「本体とは私自身のことですね」
「そうです」
「世の中の変化よりも、私の変化の方が大きいのです」
「でも時代の先を行ったり、戻ったりで、それほど移動していないかもしれませんよ」
「それはあります。最先端なことを考えていたと思ったら急に先祖返りしたように、もの凄く古い時代のものに戻ったり」
「それらは全て意味でしょ」
「意味」
「受け止め方のことです」
「どういう意味ですか」
「意味という病でしょう」
「治りますか」
「意味の意味を考えれば治ります」
「意味の意味とは何ですか」
「意味という幻想でしょう」
「意味が幻想」
「意味には意味はないのです」
「余計混乱します。もっと固定したものはありませんか」
「意味を考えるあなたは固定しています。実はほとんど石器時代と変わっていない」
「じゃ、コロコロ、目まぐるしく変化してもいいのですね」
「ほとんど意味のないことなので、大丈夫ですよ」
「安心しました」
「はい、お大事に」
 
   了


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2018年12月01日

3823話 ある人名


 植田聖治朗。誰だろう。音ではなく増田は漢字で覚えている。いつ記憶したのだろう。その記憶がない。一度も声を出して呼んだことがないのか、会ったことがないのか。そのあたりもよく分からない。本の中に出てくる人かもしれない。または何かの名簿。視覚的な記憶。
 増田は同級生の名前を思い出していたとき、いろいろな名が浮かんだ。顔の記憶はあるが名がどうしても出てこない人もいた。そのとき適当な名をいろいろと変えながら繰り出す。「さ」で始まる名を適当に浮かべるとか。
 そのとき音ではなく視覚から出てきたのが植田聖治朗。あるようでないような、ないようであるような名だ。これは調べれば何百人も出て来るかもしれないが。
 同級生にそんな名の記憶はないが、校内で見たのかもしれない。名前が張り出されていたのを。しかしそれを言い出すといくらでも範囲が広がってしまう。何かちょっとしたことでさっと思い出せそうな気がする。そちらのほうが早かったりするが、そのヒントがいつ来るかだ。これは差し迫った間題ではない。これを思い出せないと大変なことになるような状態でもない。だから強引にサルベージする必要もないだろう。しかし増田はどのあたりの人か程度は知りたい。おそらくきっかけとなった同級生の中の一人ではなく、もっと別の方面だと思える。植田聖治朗と同級生がどうも結びつかない。違うことだけは分かる。
 植田聖治朗。この名のイメージから辿ったほうがいいかもしれない。
聖という字が気になる。それと名が古い。治郎は年寄りにありそうな名。だが、なぜ聖と親が名付けたのだろう。今の親ならありうるが、治朗が古すぎる。そんな古い時代に簡単に聖の漢字を当てるとは思えない。これは特別な漢字のためだ。
 すると、本名ではなく、俳優などが使う芸名だろうか。しかし聖治朗では今一つだろう。
 増田はそれでしばらくの間、植田聖治朗探しをしていたのだが、いくら考えても出てこない。こういうものはやはりふっと出る。何かの拍子で。思い出そうとしているときは出てこない。
 そしてそれは急に来た。絵に描いたような偶然がきっかけでポイと出たのではなく、いきなり来た。
 それが出かかる手前で増田は止めた。全部はまだ出ていない。その端っこ、手掛かりが見えただけ。しかし、もうそれだけで押し戻した。
 増田が思い出しかけた植田聖治朗とは自分のこと、つまり松田自身のことだった。これはペンネームなのだ。これは思い出したくない。
 同級生の名を思い出していたときに植田聖治朗が来たのも分かるような気がする。同じ時期に付けたペンネームなので。増田はそのとき何になろうとしていたのかは知っているが、誰にも話したことはない。若い頃というより少年から青年になるあたりの嬉し恥ずかしい記憶。何を企んでいたのかと、いま爪楊枝の先ほどでも思い出すと、赤面するし、またあーと声を出したくなる。
 植田聖治朗。中学生が付けるペンネームとしては地味すぎる。
 増田は出かかった植田聖治朗を奥に押し込み、ゴクンと飲み込んだ。
 もう二度と出て来るなというように。
 
   了


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2018年11月30日

3822話 ある人脈


「水谷道太郎に近付きたいと」
「はい」
「何者か、知っておりますか」
「偉い人でしょ」
「知る人ぞ知る存在です。彼のことを知っておられるだけでも大したものです」
「いえいえ、たまに名前を聞くので」
「何か用件でも」
「お近づきになりたいと思いまして」
「それは無理でしょ」
「近付けませんか」
「近付けます」
「じゃ、いけるじゃないですか」
「会うことは簡単かもしれませんが、それだけです」
「できれば仲良くなりたいのですが」
「それはできますがね」
「じゃ、簡単じゃないですか」
「しかし、水谷道太郎は一人でぽつりといるわけじゃありません。取り巻きのような人々がいます」
「子分ですか」
「いえ、ただの仲良しグループです」
「ああ、それは何処にでもあるでしょ。その仲間に僕も加わりたいのです」
「水谷道太郎との接点はありますか」
「接点? ああ、興味があります」
「接点が興味がある……だけ」
「まあ、そうですが」
「何か得たいわけですか」
「交流があるだけで、充分です」
「要するに人脈の中に加えたいと」
「そうです」
「確かに水島道太郎と親しいというだけで、ちょっとしたものですが、知る人ぞ知る存在なので、あまり効果はありませんよ。一般的な場ではね」
「それは分かっています」
「しかし、知っている人は知っている」
「はい、コアな人も加えたいと思いまして」
「それで、水島道太郎ですか」
「はい」
「しかし、取り巻きが村を形成しています。そこには入れません」
「仲良しグループでしょ」
「そうです。ここはもう固定しています。水谷道太郎にはそんな気はないのですが、余所者を入れたがりません」
「それはどの仲良しグループでも同じでしょ」
「片山晋呉、山岡三次郎、牧田貴子、タイガー山下、黒沢明人。こういう人と交流はありますか」
「まったくありません」
「その中にあなたが入れると思いますか」
「思いません」
「そうでしょ。だからあの村には入れないのです」
「仲良しグループには水谷道太郎よりもうんと有名な人もいますねえ。名前だけは聞いたことはありかと思いますが他の人は、知らない人が多いでしょ」
「このメンバーは固定しています。いずれも水谷道太郎を尊敬する人達ばかり、私利私欲はありません。だから仲良しグループで、それは自然に発生したものです。あなたがやろうとしているのは無理にそこに入り込んで、利を得たいからでしょ。ここが違います」
「ああ、じゃ、見当違いでした」
「それが分かればよろしい」
「もっとポツンといる人にお近づきになります」
「それがよろしい。何人か知っていますので、紹介しましょう」
「そちらは簡単なのですね」
「そうです。取り巻きも側近も、仲良しグループもいません。しかし」
「はい」
「あまり値打ちがないので、人脈自慢にはなりません。逆効果かと」
「そうですか。ところで、あなたの場合は?」
「私もその部類です。仲良しグループなどいませんよ」
「じゃ、僕と仲良く」
「それは遠慮します」
「あ、はい」
「水島道太郎はいい人物なのですがね。取り巻きが悪い。これが欠点でしょう」
「人脈が多いのも良し悪しですねえ」
「少なすぎる私など悪し悪しですが」
「あああ、はい」
 
   了


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2018年11月29日

3821話 よくよく


「欲をかいちゃいけませんが、欲がないとやることがなくなりなすよ。元気もなくなる。目標もなくなり、目的もしっかりしない。何をやるべきかも曖昧」
「じゃ、欲深くてもいいのですね」
「神々の深き欲望だよ」
「はあ?」
「しかし、欲をかきすぎるとよくない。それだけハイパワーになり、鋭利になり、強くなりますがね。これは切れすぎる刀のようなもの。逆に自分を切ってしまうこともあります。誤ってね」
「では、どういう欲ならいいのですか」
「そんなこと考えなくても、勝手に出てくるでしょ。欲は際限ない。無尽蔵」
「やる気をなくしたとき、欲も沸きませんが」
「それは欲に失敗したんでしょ。うまくいなかった。目的とする欲を途中でやめた、とかの場合でしょうねえ。すぐに次の欲に移りますよ」
「いい欲を持てとよく言われますし、ある意味欲は必要だとも言われていますが。さらにもっと欲を持てとか、意欲的になれとか言われますが」
「その人の欲が、あなたにそう言わせているのでしょう。その人に都合のいい欲、持って欲しい欲。期待という欲で、あなた自身の問題じゃなく、相手の問題かもしれませんよ」
「欲と欲のぶつかり合いですねえ」
「ぶつかりましたか」
「共通する欲ならいいのですが」
「それが共欲というものです」
「共欲」
「共有欲、団体欲でしょうかね。その中にも当然個人欲がある」
「僕の場合」
「何ですか」
「欲々しいときの方が元気なので、そのために欲が必要かなと思っているのです」
「何をおっしゃるウサギさんです。深い欲望というのは誰もが秘めているもの。秘めたる欲です。本人も気付いていないかもしれませんがね。目先の欲のように見えても、実は奥深いところから来ていたりします。自分の本当の欲が分からない。よくあることですよ」
「欲は抑えた方がいいのでは」
「それもまた欲なんです」
「欲がないというのも、また欲なんですね」
「しかし、その欲ではなく、別の欲を狙っているのでしょ。欲がないように見えても、その欲ではなく、別種の欲を向いているのでしょうなあ」
「別種の欲?」
「それが隠された欲かもしれません。その場の欲ではなく、もっと遠大なね。または間接的に得られるようなものとか」
「ああ、たまにあります。別のことを考えていたりします」
「欲合戦の外に出ると楽でしょ」
「でも競い合わなければ達成できません」
「だからそこでの欲を捨てて、別種の欲へ向かうわけです」
「それは試合放置のようなものでしょ」
「より欲深い欲へとチェンジするのです」
「もう、意味が分からなくなりました」
「意味を紡ぐのも、欲があるからです」
「欲というのは巧妙なのですね」
「よく、そう言われています」
「はい、欲のことはよくよく考えてから行動します」
「はい、よくよくとね」
 
   了

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2018年11月28日

3820話 微熱通り


 寒くなった頃、吉村は風邪でも引いたのか、朝から調子が悪い。微熱があるようだ。それで動きがスローになる。それまで忙しく動き回っていたつけが回ってきたのだろう。風邪は回覧板のように回ってくるわけではないが、抵抗力が落ちたようだ。
 吉村はこのところ忙しく、ゆっくりしている暇がない。こういうときはのんびりと過ごすのがいいのだが、仕事が多い。その中には急がなくてもいいのも含まれている。それらをやらなければ、結構ゆっくりできる。
 自分がゆっくりだと周囲はどうなるか。移動中の足を緩めると、見えてくる風景が細かくなる。急ぎ足の時は風景など見ていないが、それが見える。ゆっくりを心がけたため、余裕ができる。どちらにしても通路の様子など見なくてもいいことだが。
 中華屋の看板が目に入る。いつも見るとはなく見ているので、知っているが。看板文字だけを見ており、看板の形や色や材質まで目に入って来た。しかし吉村にとり、入る気のない店なので、ただの通りすがりの風景。
 いつもその前をスーと通りすぎるのだが、今日はゆっくり。そのため、目に入るものが違う。実際には同じものしか見えていないのだが、細部までよく見える。
 それを見たのは、何だったのかと、今は思うのだが、その看板を少し越えたところに隙間ができている。途切れているのだ。小さな店の間口程度だろうか。取り壊したにしては、工事をしているところなど見ていない。昨日はそんな隙間はなかった。いや、あったかもしれない。知らないで毎日通っていたのだろうか。
 細い通路が右側にある。左側は枝道はない。
「何だろう」という余裕が今の吉村にはある。今日はのんびり、ゆっくりと過ごすと決めたので、時間に追われることもないので、その通路に入り込んだ。
 中華屋がある通りは毎日通っているが、そこだけ。枝道や他の筋には入ったことがない。必要がないためだ。
 吉村が知らないだけで、ずっとその狭い通路はあったのかもしれない。
 その通路は建物の横を貫いているようで、いわば隙間のようなもの。
 雑居ビルの裏か店舗の横側が左右にある。さらに進むと十字路に出る。交差している道は少しだけ広い。その広い方の道は暗い。そして無人。左右にずっと伸びている。看板はあるが灯りは入っていない。市場跡だろう。
 吉村はそれだけ確認し、もと来た狭い通路を引き返した。流石に微熱があるので冒険する気にはなれない。
 通りに戻ると、左側に最初に見た中華屋の看板がある。いつもの通りだ。
 そして、少し遅れたが、その先にあるビルで用件を済ませる。
 そのとき、古い市場について、ちょっと聞いてみた。
 その答えは、聞かなかった方がよかったようだ。
 
   了


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2018年11月27日

3819話 謎の人物


「田代さんはお元気ですか」
「ああ、田代さんねえ、先日お会いしましたよ」
「あの人、どういう人なのです」
「何かありましたか」
「いえ、いろいろとお世話頂いたことがあのですが、よく分からない人ですねえ」
「そうなんですか」
「何処の組織にも所属していないようですし」
「以前は大手にいましたよ」
「そこから独立して?」
「そうです」
「今は何をされているのですか」
「さあ、遊んでいるんじゃないですかね」
「はあ」
「しかし、いろいろと面倒を見てもらいましたし、人を紹介してくれましたし、相談事にも乗ってくれました」
「でも一瞬でしょ」
「い、一瞬とは」
「ずっとじゃないでしょ」
「そうですなあ。最近は順調なので、田代さんにすがる必要はなくなりました」
「だから、一瞬です。ずっと一緒じゃ、喰われますよ」
「そうなんですか」
「ただ、美味しい場合ですがね」
「うちはまずいので、喰わないでしょ」
「まあ、こちらもそうですが、困ったときの田代さんです」
「田代さんの本職は何でしょう」
「さあ、コンサルでしょ」
「いや、コンサルなら、もっと請求するでしょ。礼金は払いますがね。それじゃ食べていけないでしょ」
「さあ、コンサルにも色々ありますが、それが職業になると、駄目なんじゃないですか。仕事になりますからね」
「じゃ、田代さんは仕事としてやっていないと」
「遊びでしょ」
「じゃ、どうやって食べているのです」
「それは謎ですが、身なりはいつもいいですよ。ただスーツ姿は見たことはありませんが」
「うちに来て欲しいと考えたことがあります」
「僕もそうです」
「しかし」
「そうなんです。しかし、なのですよね。雇いきれないです」
「そうですねえ。使えない」
「逆に僕らが使われてしまいます。それにその気は田代さんにはないでしょ。大手にいた頃、それで辞めたようなものですから」
「使われるのが嫌なのですね」
「さあ、それは分かりませんが」
「コンサル以外で、何かなされているのでは」
「それはありますねえ。多方面で顔がきくのはそのためでしょ」
「田代さんには部下はいますか」
「いません。見たことはありません。誰かと一緒に来られたこともありますが、部下ではありません」
「肩書きはどうなっていました。あ、名刺には何も書かれていませんでしたね」
「肩書きのない名刺。わざわざ肩書きを言わなくてもいいわけでしょ。名刺としては最高ランクです」
「または、ないのでは」
「よく分からない人ですねえ」
「そういう人がたまにいるものですよ」
「そうですねえ。その実態を知れば、なーんだと思うかもしれませんがね」
「そうです」
 
   了


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2018年11月26日

3818話 さあ、行くか


 フーと頭の中に入ってくるものは、かなり偶然性が高い。何かが原因になっているはずなのだが、そのきっかけとなるものが分からないことがある。
「さあ、行くか」
 と高峯は、そのタイプのものが頭に入ってきた。よぎったというか、侵入してきた。しかし、何処から来たものかは思い出せる。現実に体験した、「ああ、行くか」のシーン再現ではなく、これは時代劇のワンシーンだろう。旅の途中で「さあ、行くか」となる。そこまでは分かるのだが、何故それが急に来たのかが分からない。
 これはいつの間にか鳴り出した音楽にも似ている。どちらにしても何処かにきっかけとなるものがあるのだろう。自由連想ではなく、自動連想に近い。勝手に連想している。連想する気などないのに勝手にやっている。
 これは下手な洒落を言うときとは違う。確かに「私」と聞いたとき、高峯は「和菓子」とくっつけたがる。「私」と「タワシ」もそうだ。しかし、それはきっかけがある。連想するパターンができているためだろう。
 しかし「さあ、行くか」にはそれがない。別にそれは何でもいい。別に行かなくてもいい。「さてこのあたりでいいだろう」などもそうだ。
 それらはセリフもので、フィクション。高峯の体験したことではないが、疑似体験でも、それは体験。そしてドラマの中のキャラと高峯とは全く違う。一方は存在しない。だが、それを見ているとき、高峯はそれなりに感情移入している。同化とまではいかないが、まるで自分のことのように思いながらドラマを見ていたのかもしれない。ただ、悪役のセリフなども、同じように浮かび出る。
「引けーい、引けーい」などだ。これは悪人が劣勢となり、引き上げるシーン。よく見るシーンであり、よく聞くセリフ。
 そういうことが頭をよぎることは珍しいことではないのだが、きっかけなしに頭に入り込んでくる。本当はちょっとしたスイッチがあるのだが、それに気付かない。因果関係が無いとしかいいようがないほど思い付くきっかけがない場合、それは偶然と受け止めるしかない。
 スイッチは外に向かっての感覚からではなく、内から来ていることもある。
 これが内なる声、内側からのメッセージだとすれば「さあ、行くか」はどのような価値があるのだろう。何もない。だから偶然出た目。だから出鱈目なのだ。つまりアトランダム。
 原因がある場合や思い当たる場合は偶然ではない。これははっきりと意識できる。
 そうではない「さあ、行くか」などに高峯は神秘的なものを感じる。きっかけが分からないためだ。
 内部からの飛沫のようなもの。そしてほとんどが価値はない。有為ではなく、無為。意味がない。
 ただの雑念として片付けるにしては、雑念の方が上等だ。雑念にはきっかけがある。しかし「さあ、行くか」にはそれがない状態で頭の中にふっとくる。
 天啓でも何でもない。インスピレーションでもない。もっと稚拙な構造だ。
 しかし、この意味のないものに意味を加えたりできる。きっかけがないのだから、それをきっかけにすればいいのかもしれない。アトランダムな偶然性というのは、意外といけるかもしれない。
 そして高峯は今度それが来た場合、何とかそれを使おうと考えている。
 
   了


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2018年11月25日

3817話 割り橋


 支店と言っているが出店のようなものではなく、支社だろう。規模は大きく、またここがこの組織の発祥の地。本社は元々、ここにあった。
 そこに新しい支店長がやってきた。早速全員を集め、挨拶が行われた。これはしなくてもいいのだが、この宝田の流儀だろう。
「何事においても慎重に、成功よりもミスをおこさないこと。ミスの少なさが成功をもたらす。そのため、私は割り箸を叩いて渡る、を信条としております」
 ざわめきは起こらない。しかし、一瞬フリーズした。
 慎重なら、もっと言葉にも慎重になるべきだろう。
 宝田もそれに気付いたようだが、何事もなかったかのように、挨拶を続けた。
 しかし、その後、宝田支店長のことを割り箸というようになった。
 宝田もそれに気付いたが既に遅い。石橋と割り箸を間違えた。だが、言ってしまったことなので、何ともならない。
 当然誰が聞いても、言い間違いだ。
 しかし宝田は言い間違いではないということを何とか証明しようと模索した。そんな模索より、仕事の模索をすればいいのだが、割り箸が憎い。この割り箸を叩いて渡るというのは本当のことだったと示したい。そうでないと、慎重なはずの宝田のイメージが崩れる。
 ある日、主だった幹部を支店長邸へ招いた。就任パーティーのようなもの。
 支店長邸は大きな庭のある邸宅。元々は社長の家だった。そこに今、支店長は住んでいる。この支店だけの特徴だ。
 就任から数ヶ月経っている。そのパーティーとしては遅いのだが、他にネタがなかったのだろう。
 集まってきた幹部達は屋敷の広さを羨ましがった。この支店長だけの特権だ。
 今も割り箸さんというあだ名は消えていないし、何度もその話題で、笑っている。
 庭に出たとき、妙なものが池に掛かっている。橋なのだが、近付いてみると、割り箸の大きなもの。こんなもの一般にはないが、割れ目もしっかりと付いており、横にのぼり旗がある。鯉のぼりかと思ってみていると、それは違う。「お手元」と書かれている。割り箸鞘だ。
 そこに宝田が登場し、割り箸を叩いて渡りだした。
 これで失言、言い間違いではなかったことを示したことになる。
 この割り箸橋を作ってもらうのに、数ヶ月かかったようだ。手間の掛かることをするものだ。
 
   了



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2018年11月24日

3816話 第一印象


 第一印象で決めるか、論理的に詰めて決めるのかで、高田は迷っていた。そのものの選択で迷っていたのではなく、選択の仕方で迷っていた。これは選択基準を何処に置くかの話。人それぞれ流儀があるが、そんな大層なものではなく、流派をなすほどのものではない。
 高田は第一印象で選ぶ方だが、それだけでは危ないので、論理的なフォローもする。そのとき、第一印象でよかったものが、意外と駄目だということが分かったりする。第一印象、見かけだけの判断の危険さを、そこで分かるのだが、これはまだ選択前。実際に選んだ後のことではない。つまり、まだ現実化していない。だから空想の世界だろう。
 しかし、調べ上げたことはほぼ現実を示している。データ的にそれを示しているため。だが高田にとっての現実はまだ。
 そして調べていくうちにデータ的にいいのがある。第一印象では見えなかったのだが、ここでは見えている。これは大きな候補となる。むしろ、これしかないというほどのデータを示している。
 では、第一印象とは何だったのか。それは高田の知る範囲でのデータだろう。情報だ。しかし知っているつもりでも、よく調べると、印象とは違いがあり、それで第一印象の良さが消え。ターゲットから外される。
 しかし、第一印象はデータだけのことだろうか。調べれば調べるほどデータは増え、候補も増える。しかし、それだけのことだろうか。データ化されていないものが当然印象としてあるし、またより高田の好みと合致しているはず。第一印象がいいのはその中身よりも相性がいいのだろう。
 印象だけでものを言う。これは勘だけで言っているようなもの。感性という柔らかいところでものを言っている。
 また論理的な詰めといっても、その論理は高田の論理で、これは癖があり、客観性が危ない。論理は組み立てなければいけない。その方法に癖や好みなどが出る。好きなパターンと嫌いなパターンがあるように、論理にも情緒的なものが入り込んでいる。なぜなら感性を使わないと論理も組み立てられないため。要するに気持ちがそこで動いている。そこがAIとの違い。人間臭いノイズ臭いものが蠢いているのだ。これは生ものの生命が高田の中にも入っているため。それがなければ、肉体がないことになり、高田も存在しないが。
 また人には運不運があり、偶然の巡り合わせとか、妙な因果、因果のない因果もある。当然流れというのもあり、その流れは経験ともなり、過去からの押し出しもある。
 あれを踏んだからこれが踏めるとか、あれを踏まなかったので、踏めないものができたりとか。
 第一印象というのはそういうものから来ているように思われる。その場の気持ちや感性だけではなく色々なものが綜合的に背景にあり、そこから押し出されのが第一印象かもしれない。
 高田は最初に思い付いたもの、最初に感じたもの、それをそのまま実行すれば間違っていたとしても問題はないように思う。思ったのだから仕方がない。論理的説明を問う必要はない。だからただの勘違いで済むので、シンプル。
 それで第一印象の勘のようなもの、雰囲気的なもので決めればよいものを、ついつい情報やデータに当たってしまう。すると、第一印象が崩れる。これは自爆のようなもので、自分で壊しているようなもの。
 印象とか、感じ。また、気持ち。そういったものは意外と奥深くて綜合的なところから来ている。
 そして高田の得た結論は第一印象に従うこと、最初の印象で決めるということだが、この決め方そのものも印象だったりする。
 
   了

 
 
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2018年11月23日

3815話 キリギリスの蟻


 蟻とキリギリスの話で、夏場遊んでいたキリギリスが困る初冬。例に従い蟻にすがる。そういう法則でもあるのだろう。
 夏場、猛暑の中でも働いていた田中の家はアパートで、しかもこの辺りでは一番安い。キリギリスの吉川は少し離れた町に住んでいるが、そちらの方が安い。だから田中よりもいいところに住んでいることになるが、それは最下位争い。低いレベルでの比較だ。
「田中君、いるかな」
「来たな吉川君。この季節になると来ると思ったよ」
「蟻様、いつものようにお願いしたいんだが」
「それがねえ」
 この蟻様、いつもと有様が違う。
「どうしたの田中君。夏場暑い中でも懸命に仕事をしていたじゃないか」
「全部無駄だった」
「どうして」
「倒産したようで、支払ってもらうのは難しそうなんだ。それで無理かもしれない」
「それは災難だったねえ」
「経費も掛かったし、その間、そればかりしていたから逆に赤字になった。大損さ」
「働いていたのにねえ」
「君の方がましだよ」
「そうかなあ」
「遊んで暮らしていたようだけど、お金、かけてないでしょ」
「まあ、そうだけど」
「それにたまに収入もあったというじゃないか」
「臨時収入だよ。ウロウロしていると、そんなこともある。でもそんなのじゃ食べていけない」
「でも君は季候の良いときは遊んでいるけど、寒くなると冬籠もりするらしいねえ」
「まあねえ」
「そのとき蓄えがないから、よくここに来た」
「そうそう」
「しかし、今年は無理だ」
「そうか」
「君は遊んでいるようでも、冬場に仕事をしているらしいねえ」
「え」
「そうじゃないと、春から秋まで遊べないでしょ」
「うん遊んでいるというより、何もしていないだけ」
「だから、お金がかからなくていいんだ」
「しかし、冬場の収入は春になってからなので、冬が越せない」
「僕は今月が越せない」
「さようなら」
「もう帰るの」
「話の流れが違うから」
「そうかい」
「いつも借りているので、恩返しがしたいんだけど」
「それが本筋」
「やはり、さようなら」
「待て待て、知ってるぞ」
「ん」
「吉川君」
「何だよ田中君」
「君は本当は金を持っている」
「それはない」
「いや、ある」
「絶対にそれはない。これだけは保証できる」
「そうだね。あるのなら、あんなところに住んでいないからねえ」
「そうだよ。黄金虫じゃなく、キリギリスだから」
「まあ、君に無心するのはお門違いだった。自分で何とかする」
「助かった」
「しかしねえ、吉川君」
「ん、何かな」
「懸命に働いたのに、無駄に終わるんだったら、君の方がましかなって思った」
「いやいや田中君、君の勤勉さはそのうち生きるさ」
「勤勉は美徳というけど、現実は違っていたりするよ」
 よく働く蟻の田中だが、今回は違っていた。その蟻の田中はキリギリスになり、大きな蟻様の家に行くことになるのだが、他のキリギリスとは一緒にしてもらいたくなかったようだ。
 
   了




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2018年11月22日

3814話 透視術


 今回の妖怪談はちょっと本物と遭遇したようなので、危険な話となる。
 妖怪博士は透視術、千里眼という非常に良い視力の少女の調査を頼まれた。少女は普通の家の子供で、親がそのことに気付いた。まだ見せていないものが見えたりする。たとえばプレゼントの箱。まだ中身を知らないのに、当ててみせた。まあ、それは絞り込めば分かるかもしれない。おそらく親が子供が喜びそうなものや、子供が欲しがっているものを知っていたため、範囲が狭い。
 しかし母親が家の何処かに仕舞い込んだ場所が分からなくなる。それを少女が言い当てた。それは隠していた財布だ。当然中身はそのまま。
 そういうことが重なるので、気味悪くなると同時に、これは誰にもできない特技を娘が持っているのではないかと多少は期待もした。しかし、その真実は分からない。そこで近所の有名な大学に通う女学生に心理学の教授を紹介してもらった。研究材料として、悪くはないと思ったのだが、専門外ということで断られたが、その方面は、この人だろうということで、そのこの人が調査に来た。それが妖怪博士。
 妖怪博士はトランプではなく、子供向けのいろはかるたを使い、透視の実験をした。まずは、ここからだろう。
 少女はトランプは持っているが、かるたは持っていない。慣れていないもので当てさす方がよかれと思ったのだろう。
 透視のいろははいろはかるたから、ということもある。ただの語呂だ。
 妖怪博士はかるたの絵が書いてある札だけを並べ、その中から少女に一枚選ばせた。それを妖怪博士が受け取る。少女は選んだだけで、絵は分からない。
「当ててごらんなさい」
「はい、先生」
「どんな絵ですかな」
「坂が見えます」
 少女は坂道を上る子供の絵を見事に当てた。坂道坂道辛いなー。さで始まる言葉だ。
 これは手強いと妖怪博士は喜んだ。妖怪博士はタネは仕掛けられるが、少女にはそれができない。
 次ぎに妖怪博士は財布を取り出し、いくら入っているかと聞いた。
 少女は二千三百二十一円と答えた。
 妖怪博士は少し恥ずかしかった。万札がない。
 しかし小銭までは覚えていない。二千円ほどはあると思っていた程度。
 これは来ていると、妖怪博士は本腰を入れた。
「物理的に、そのものが透けて見えるのですかな」
「さあ」
「じゃ、どうしてそれを言い当てられたのです」
「何となく」
 この場合、レントゲンのように透視するタイプと、誰かに教えてもらうタイプがある。大学の心理学者が嫌ったのは、このタイプではないかと見たのだろう。つまり守護霊とか背後霊とか、先祖とか、そういったものが見に行き、少女に教える。これは霊は透明人間のようなものだとすれば、勝手に覗けるが、財布の場合、開けないと中は見えないだろう。当然財布が動いた様子は全くない。
 次は実験者の心を読み読心術タイプがある。実験者が心に浮かべたものを読み取る。かるたの場合は妖怪博士は絵を確認したが、財布の場合は二千円台だろうという程度で、小銭までは心に浮かんでいない。
「もう一度聞きますが、どうして当てられたのですかな」
「何となく」
 妖怪博士は呪文が書かれた御札を封筒の中に入れ、中に何が書いてあるかを当てさせた。
「ごにょごにょ」
 少女は読めないようだが、妖怪博士もこの呪文は読めない。だから当たっている。
 そうなると、本物の千里眼ということになるが、そこまで目は良くないだろう。視力にも限度というのものがある。
 だから、誰かから教えてもらっているのだ。
「心とか頭とかに浮かぶのですかな」
「うん、何となく」
 これはイメージ化以前だろう。感じというやつだ。だから霊感と呼んでいる。
「困りましたなあ」
 つまり、こういう子は世に出してはまずいのだ。そこのところを両親に説明しないといけない。今はその力があっても一時的なことだろう。来年はそんな力など抜けているかもしれない。だから公表すべきではない。
 霊能力少女よりも両親の扱いの方が怖かったりする。
「どうでした、先生」
「サトリですなあ」
「悟り」
「はい、妖怪です」
「え」
「少女に取り憑いているようです。そのサトリは読心術や千里眼が得意で、嬢ちゃんの力ではなく、そのサトリの力なのです」
「どうすればよろしいのでしょうか」
「お子様のことなので、私がどうこう申すわけにはいきませんが、この能力を活かすか、普通の嬢ちゃんに戻すか、決めて頂けませんかな」
「でも誰にもない力なのでしょ」
「ですから、それは妖怪サトリの力でして、こいつは妖怪です。もし公表し、いろいろな場に連れ出されたとき、サトリはそういうのを嫌いますからね。抜けるでしょう。すると、読心術も千里眼も消えます。とたんにインチキだったことになり、嬢ちゃんは一生の傷を負います」
「私も気味悪いし、やりにくいと思っています」
「嬢ちゃんが悪いのではなく、サトリが悪いのです」
「分かりました。その妖怪を祓って頂けますか」
「何とかやってみましょう」
 サトリ祓いの呪文も儀式もない。そんなもの最初から存在しない。
 そのため、妖怪博士は少女に特殊な力のカラクリをコンコンと言い聞かせた。これが呪文のようなもの。
 そして下手な絵だがサトリのグロテスクな姿を書いて見せた。こんなものと縁を切るには、相手にしないこと。それでサトリは面白くないので、抜けると教えた。
 要するに自分で抜けということ、自分で追い払えということだ。
 その後、少女は、もう千里眼ができなくなったのだが、妖怪博士の説教が効いたのか、そういう時期だったのかは分からない。
 世の中には、こういう本物がいる。サトリなどではなく、その少女にその力があるのだ。しかし、それは誰も幸せにはしてくれない。
 ある日、娘がもう完全に治ったので、お礼がしたいと、少女を囲んでの食事会に誘われた。
 妖怪博士が一番気にしていた礼金がまだなのだ。
 当然、そのとき、しっかりと礼金の封筒を受け取った。
 横に座っていた少女が妖怪博士の耳元で「三万円」と小声で囁いた。
 
   了

posted by 川崎ゆきお at 12:24| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月21日

3813話 よく分からない本


「難しそうな本を読んでおられますが」
「ああ、この本ですか」
「ちょっとタイトルを盗み見しました」
「興味をお持ちですか」
「装丁が似ていましたので。まあそれだけでも何の本だかは分かりましたが」
「じゃ、あなたもお読みになった本」
「そうです。もう読み終えましたがね」
「難しい本ですねえ」
「はい、よく分からないという本です」
「確かによく分かりません」
「分からないということが書かれた本ですから」
「はあ」
「もの凄く時間の無駄をしました。何故分からないのかのその過程が書かれいるでしょ」
「そうですねえ。分かろうとして、いろいろと模索する姿です」
「それだけです」
「じゃ、模索書ですか」
「さあ、そんなジャンがあるのかどうかは分かりませんが、暇じゃなければ、そんな本は読みませんがね」
「そうですねえ。知らないことならネットで調べた方が早いですしね。いきなり解答や要約が書かれていますから」
「その解答を得るまでの話です。その御本は。しかし解答が出ないというのが解答のようです」
「じゃ、読む必要がないと」
「過程が興味深いですよ。あちらへ行ったり、こちらへ飛んだり。宝探しのようにね」
「本を買うのは久しぶりでして、ここ一番読み応えのある、歯応えのあるものに挑戦したわけですが、失敗でしたかねえ」
「買われたのですから、失敗とは思いたくないでしょうが、長い時間を掛けて読んだ結末が、よく分からないとなりますと、スカを引いたような気になります」
「いや、歯応えがあるだけでいいのです」
「犬が骨を囓っているようなものですかな」
「そうですねえ。何か咥えたり、口に含んだり、噛んだりなめたりねぶったり、それだけで充分ですよ」
「良い読者ですなあ」
「まさか」
「え、何か」
「あなた、この本の著者では」
「違います」
「そうですねえ。プロフィールを見ますとずっと海外で暮らしている人で、一度も日本に来たことのない日本人のようです」
「フランスでしたねえ」
「そうです」
「だから、著者は私じゃないですよ」
「そうですねえ」
「知らないことを本から得るのですが、この本を読んでも分からないままです。知ることはできないと書かれています。だから何を知るのでしょうねえ」
「私も、今読んでいる最中ですが、この本から何を得られるかどうかはその人次第ではないでしょうか」
「ほう、それは著者が喜びそうな話です」
「やはりあなた、著者じゃないのですか」
「違います」
「一度も日本に来たことがないと書かれていますが、それは以前の話でしょ」
「そうですねえ。その可能性もありますが、私じゃありませんよ。そんな偶然は有り得ません。偶然すぎてあり得ないのです。とってつけたような話じゃないですか」
「そうですねえ」
「私はこの本を読んだあと、何も得られませんでした。得ようとしても得られないということでしょう。必死で何かを得ようと努めました。これがいけないのかもしれません」
「じゃ、この本、結構いい本かもしれませんねえ」
「そうです。しかし暇じゃないと、読めませんがね」
「解説有り難うございます」
「いえいえ、読書の邪魔をしました。失礼します」
「はい」
 
   了

posted by 川崎ゆきお at 12:39| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする