2020年06月11日

3778話 第三分室と鳴門金時疑惑


 繁華街の外れの雑居ビル五階にある第三分室。そこに一人だけで勤めている田中は仕事がないので暇なため、毎日のように市場調査、つまり散歩に出ている。
 そんなある日、珍しく本室から電話があった。運良くオフィスにいたので、散歩はバレなくて済んだが、別に外室禁止ではなく、休憩時間もあるし昼休みもある。ただそれが長いだけ。
 本室からの用事は、第一分室、第二分室までで第三分室まで回ってくることはないのだが、たまにある。前任者など、一度もなかったらしい。それで退屈しきって退社したが、年齢的には退職年齢。かなりの退職金をもらったようだ。
 それで、命じられたのは買い物。そして買ったあと、すぐに第二分室に届けること。それだけだ。
 たまに来た本業が子供の使いの八百屋での買い物。そんなことでいいのかと思いながら、しばらくそのことは忘れていた。
 そのあと世間を騒がせるような疑惑事件が起こった。汚職のようなものだろう。よくあることなので、田中は気にも留めなかったが、テレビで始終やっているので、見る気はなくても見てしまう。それに他のメディアでもやっている。旬の事件。田中も一応会社員、だから社会人としての常識として、知っておくのも悪くはない。
 問題は賄賂だろう。金を渡して、有利に話を持っていく。それで、証拠が出たらしいが、それが安っぽいファイル。書類を挟む薄いシートだ。その中にメモが入っていた。それが証拠らしい。
 それで、関係者が国会に呼び出されている。これをどう説明するのかと。
 疑惑に対する釈明のようなことをしている大きな男がテレビに映っている。田中は見たことがある。それにあの安っぽいファイルも。中身までは見ていないが、本室に届けたことまでは覚えている。その人、音羽といったようだ。
 そして、音羽の後ろにいる人が、さっとレジ袋を音羽に渡した。
 そしてそれを開け、中からサツマイモを取り出し、一本、二本と示した。
 鳴門金時三本。というのがメモの中身。鳴門金時とはサツマイモの銘柄、四国産だろう。
 田中は仰天した。先日自分が買ったものだ。
 鳴門金時三本で三億円。
 音羽は八百屋のレシートを示し、消費税込みで一本百円。そして合計三百円と説明した。
 そして、補足として、八百屋の大将は買った客に景気のいいかけ声のように、「へい大根一万両」などというものだ。それが一億円だったとしても、誰もそんな金は払わない。百円だ。しかし、一億円のところを百円で買えるので、いい気分になれる。そういうことだと国会で説明した。
 また、八百屋の大将のことを軍の大将とは誰も思わない。しかし、大将と呼ばれても、誰も誤解などしない。それと同じことだと。
 田中は仰天したというより、自分がこの前、赤ら顔の親父がやっている八百屋で買ったサツマイモがテレビに映っているので「おお」と思ったのだ。
 
   了





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2020年06月10日

3777話 茶碗の大小


 日々の変化はちょとしたことで起こる。当然ちょっとではない大きな変化だと、それどころではないが。
 ちょっとした変化はちょっとしたことが原因。その原因は不都合とか、不満とかから来ることが多い。あまりよくない、快適ではない。または苦しい。いずれも日々やってきていることなので、それほど苦しいわけではない。苦悶し続けるのなら、これは日常話ではないだろう。だからもう少し改善すればいい感じになる程度。それで快楽を得られるほどのことではない。何せ日々なので、そんなに毎日快楽に浸れるようなことなどないはず。それに疲れ果てるだろう。
 だから、ここではちょっとした改善。よくなるといってもしれている。ただ、今までよりもよくなる程度。日々のことなので、それで十分だろう。毎日のことなのだが、それが積み重なると大きい。
 たとえばいつも使っている茶碗。昔ほどにはたくさん食べない。だからこんな大きなご飯茶碗は必要ではない。しかし、別に不自由はない。だが、ご飯の量と合っていない。それを小さい目の茶碗に代えるような話。何でもないことだ。大きな決断は必要ではないし、人生も変わらない。運も変わらない。
 これは改善というにはあまりにも些細、細かい、小さい。しかし代えてみると、すっきりする。身の丈に合った暮らしということではなく、胃の大きさに合った茶碗。胃の大きさは変わらない場合、食欲に合った茶碗。これで、何となく纏まりというか整合性に近いものが得ることができる。その満足感が来る。来ても人生は変わらない。
 変化は不都合とか、何か調子がよくないとか、そういったマイナス面から来ることが多い。積極的に新規なものを得に行こうとするよりも。
 ただ、差し迫っていないので、別にしなくてもいいことだ。
 当然そういったバージョンアップなり、調整をしており、常に更新状態にある場合でも、以前のものの方がよかったりすることもあり、戻ることもある。やはり大きな茶碗の方がよかったとか。
 日々変化する。しかし変化を促している意思がある。自然にそうなったということよりも。
 
   了
 



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2020年06月09日

3776話 暑苦しい話


「暑くなりましたねえ」
「もう夏バテです」
「梅雨前の今頃が一番暑いようです」
「そうなんですか」
「まだ春物を着ていたりしますからね。それと暑さに慣れていない」
「ああ、なるほど。しかしバテては何ともなりませんよ」
「でも、出てこられた」
「日課ですから」
「まあ、バテているときは家でゆっくりしている方がいいですよ」
「退屈します。ゴロゴロしているだけじゃ」
「でも夏バテなんでしょ」
「少し怠いだけです。足が少しきついです」
「足が」
「足が怠いというか重いし、痛い」
「大丈夫ですか」
「僅かな距離なら完歩できますが、後半、怠くなってきて、足が上がらない」
「それはいけない」
「いえ、少し間を置けば、戻ります。坂で足が出ないときがあるでしょ。あれと同じで、少し間を置けば、歩けます」
「それはいい」
「それよりも食欲が落ちましてね。朝食は半分ほどしか食べられない。これじゃカロリー不足で、さらにきつくなる」
「それはいけませんねえ」
「昼は適当な店で、適当に食べているのですが、蕎麦が多いです。しかし、朝食が残っている。だから、店屋に寄らないで、朝食の残りを食べればいい。しかし、食欲がない。さて、こういうときはですねえ、お茶漬けです」
「はい」
「あれは胃を荒らすといわれていますが、荒れる以前に胃にもっと入れないといけない。お茶漬けさらさらで、さらさら流し込めます。漬物を細かく切って入れれば、それで塩気が付く。それにお茶そのものにも味と香りがありますからね。茶漬けだけでもいい」
「あああ、はい」
「沢庵は歯が弱ってから噛み切る勇気がありません。あまり負担をかけたくない」
「はい」
「梅茶漬けもあります。これはですねえ、単に梅干しを一つ入れりゃいい。お粥さんに梅干しを入れるようなものです。梅干しは何故か安心感があります。先祖代々、みんな食べてきたためでしょう。食中りでも梅干しをなめりゃ、治ったとか」
「あのう」
「何か」
「夏バテは」
「してます」
「しかし、元気ですよ」
「口だけはね」
「はい」
「茄子の漬物。これは醤油吸いと言いましてね。たっぷり醤油の染みこんだ茄子の漬物がいいのです。茄子の腹の白い部分、あれはスポンジですよ。お茶漬けに茄子の漬物。これはいいです」
「キュウリは」
「あれは歯触りでしょ。ざくざくと食べる。しかし、歯が厳しいので、駄目です。私は茄子党です」
「なるほど」
「しかし、カロリー計算すると、朝食を半分半分で朝と昼に食べる。そして夕食です。つまり、いつもは三食なのに、二食になる。これは問題でしょ。暑い盛り、カロリーも使うでしょ。もっと食べないと」
「ええ」
「それで、考えたのは、いや自然にそうなるのですが、夜にお腹がすく。やはり二食では、そのまま寝るわけにはいかない。それと気温も夜なので、下がりだし、食欲も戻ってくる。それで、夜食となるわけです。特配です」
「はい」
「夜食、これは食べてもいいのです。寝る前、数時間は何も食べない方がいいとされていますが、すいているとそもそも寝られない。腹がすいて寝られないのです。これじゃ睡眠不足になる。それに朝食を二等分したので、貸しがある。一食分足りないわけです。だから堂々と夜食を主張してもかまわない。その権利がある」
「そう怒らないで」
「責任者は誰だ」
「あなたでしょ」
「そうでした。それで、この夜食が実に美味しい」「何を食べられるわけですか」
「鍋焼きうどんです」
「また、暑苦しいものを」
「これを食べると、どっと汗が出て、汗が引き始めると、寒いほど」
「ああ、はいはい。お元気そうでなりよりです」
「いやあ、夏バテで」
「その話、結構疲れました」
「そうですか」
「私がバテました」
 
   了





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2020年06月08日

3775話 準長老は妖怪


「世の中の変化より、私の変化の方が大きいようだ」
 妖怪変化が語っているわけではないが、それに近い人だ。それほどの年寄りではないので、長老ではないが、若くして老いていたので、下手な長老よりも風格がある。風格という外側ではなく、風貌だろう。これも外側に出るが、格を越えた威圧感がある。つまりより動物的な。それで、業界の妖怪だともいわれているが、ほんの数人。一般にはそんな呼び名さえ知らない。
 世間一般にも色々とあり、世間の捉え方も広かったり、多かったりする。
「また変化されましたか」
「自然にな」
「今度は何に化けられたのですか」
「内面だよ」
「じゃ、外に現れないと」
「そうじゃな」
「世の中の変化よりも激しいようですねえ」
「そうかもしれんが、どこまでが世の中、世間なのか、これは曖昧じゃ。大昔から何の変化も起こっておらんようなこともある。まあ人の生業など、ほとんど同じじゃろう。世は変われども、人の情は変わらぬもの」
「やはり、内面ですね」
「世間といっても広い」
「はい」
「世界情勢、国際情勢。これは広い。ここまで世間を広げて日常生活を営んでおるじゃろうか。せいぜい立ち回り先程度が世間だろう。一人の人間がそこまで広く関わることなどできんはず。世間のほんの一部と接しておるだけ」
「そうですねえ。もの凄い国際人で、世界を飛び回り、海外をよく知っている人でも、町内のこと、意外と何も知らない。それこそ世間知らずです」
「それ以前に家族が何を考え、何をやっているのかさえ知らなかったりしそうじゃがな」
「はい」
「世間の移り変わりよりも、自身の移り変わりの方が大事。そして、こちらの方が遙かに変化する」
「そういうものでしょうか」
「世間はコロコロと変われんだろう。しかし、個人はコロコロ変えられる。昨日の自分と今日の自分ががらりと変わっていたりする。何かの影響でな」
「それは世間の、世の中の影響を受けてですか」
「いいや、どんな世の中でも、同じこと。もっと内奥は世間とは遠い。世間の光も届かなんだりする」
 この業界の準長老。どういった変化があったのか、外からでは分からない。
 つまり、何を考えているのか、分からない人。だから薄気味悪い人なので一部の人から妖怪と呼ばれている。
 
   了




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2020年06月07日

3774話 松ヶ崎


 思わず口に出している言葉がある。思っていないのだから、突然出てくるようなもの。口に出すが声には出さない。頭の中で軽くその言葉を撫ぜるだけ、喉には引っかからない。
 語呂、調子だろう。リズムのようなもの、短い歌だ。歌にもなっていないので、かけ声や合いの手のようなものだろうか。あらどうした、あ、よいしょ、こらしょ、などと似ている。座るとき、よいしょとか、よっこらしょと言うようなもの。
 ただ、その言葉が「まつがざき」
 松ヶ崎。
 これは地名だ。そして吉田はその町を知っている。遠い場所にあるので、滅多に行く用事はない。旅行というほどには遠くはなく、日帰りで軽く往復できる。
 どうして松ヶ崎という言葉が頭に浮かび上がるのか、浮かぶ前に口にしている。
 松ヶ崎と吉田の関係はない。そういう町があることを知っているだけで、通っただけ。だから松ヶ崎には今まで用事はなかった。だから印象が薄いはずなのだが、覚えている。これは語呂の問題だろう。何故か松ヶ崎と言ってみたくなる。しかし行く気はないし、一生ないだろう。また松ヶ崎に行く用事も考えられない。ただ、再び松ヶ崎を通ることはあるだろう。
 ここは山が迫っている町で、山には松が多い。その山の向こう側へ抜ける用事など、ほぼない。都市部の外れ、山を抜けた先はどんどん田舎くさくなる。山はそれほど高くはなく、丘に近い。
 それだけのことで、吉田にとり、松ヶ崎の意味はほとんどない。そこが注目ポイントでもないし、この先何らかのことが起こる場所でもない。
 松ヶ崎のような町などいくらでもあるだろう。
 だが、たまに頭の中に流れてくる松ヶ崎。中身よりも、この語呂、響きだけが快い。または気に入った調べなのか。
 松ヶ崎。そう思いながら、味わうと、結構ドラマチック、劇的な響きがする。松ヶ崎攻防戦とか、松ヶ崎の戦いとか。松ヶ崎であったことは語ってはならないとか、それなら松ヶ崎へ行くべきだとか、松ヶ崎の隠居を訪ねるべきでしょう。等々、色々と出てくる。
 松ヶ崎。気になる響きのある地名で実在しているが、吉田の中では中身はカラだ。
 暇なとき、行きたい場所がないとき、冗談で、この松ヶ崎を訪ねてもいいと、吉田は思った。しかし、思うだけで、実行しないだろう。
 
   了
 



posted by 川崎ゆきお at 13:13| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月06日

3773話 第三分室初仕事


 私鉄沿線の寂れた繁華街。飲食店が軒を連ねているが、すぐに終わる。見るからに黒光りの高級車がその端まで行き、少し曲がったところで止まっている。
 運転手が車の後部から折りたたみ自転車を取り出し、組み立てる。
「ご用意できました」
「うむ」と座席の紳士が頷く。やや太っているが背は高い。ただ骨格は弱そうだ。しかし腹は出ていない。
 紳士は自転車に乗ると、高級車は立ち去った。
 紳士は繁華街の端にある雑居ビルに入っていった。五階建てで、その玄関口は不動産屋と喫茶店の間にある。喫茶店は廃業している。
 
 ノック音で田中はさっとドアを開けた。来訪は本室から連絡が来ている。
 ここは本室を助ける第三分室。そこに詰めているのが田中で、まだ新任。
「音羽です」
「はい、お待ちしていました」
 オフィスには接客用のテーブルはない。中央部に大きな机があり、まるで食卓。六人、詰めれば八人は腰掛けられるだろう。
 音羽はその大きなテーブルに着いた。
「お茶でも入れます」
「うむ」
 田中の前任者が和茶マニアで、何種類ものお茶のパックを集めていた。退職したのだが、それを持ち帰らなかった。だからそれほど拘りのあるマニアではなかったのだろう。百均のお茶も混ざっているので、いいものではない。
 ガチャンと音がしたので、紳士の音羽は驚いたようだ。ガスコンロを付ける音だった。
 湯が沸くまで、少しだけ間があるので、田中はテーブルに戻った。
「これだがね」
「はい」
 音羽は鞄を開けようとしたが、ファスナーが引っかかるのか、スーと開かない。
「これだがね」といいながら、グーと引こうとしたが、引っかかっているのか、噛んでいるのか、それ以上力むとつまみを引きちぎる恐れがあるので、そこで力を緩めた。
 田中は「私が」といいながら、その鞄のファスナーを見る。
「ビラビラが噛んでます」
「そうか、それで防水性がいいのだが、たまに引っかかる」
 田中は、真っ直ぐ引くのではなく、斜めに引くと少し口を開いたので、そこに串カツ用の長い串を入れ、斜めに弓のように反らせながらまさぐり、ビラビラを外した。しかし、客の鞄なので、それ以上開けない。
 音羽は鞄を受け取り、自分でスルッと開けようとしたとき、悲鳴が聞こえた。
 薬缶の笛が鳴ったのだ。
「お茶を入れてきます」
「うむ」
 田中がカーテンの奥から急須と茶碗を盆に乗せ、戻ってくると、既にテーブルの上にファイルが置いてあった。よく見かける透明の紙挟みのようなものだ。
 茶碗にお茶を入れようとしたとき、音羽はファイルを少し移動させた。
「どうぞ」
「うむ」
 音羽はファイルに手をかけながら、茶碗を掴もうとしたが、こぼした。熱かったのだろう。
「失礼」
「いえいえ」
「沸騰させた湯じゃ駄目なんだ。お茶はもう少し低い温度でないとね。八十度でもまだ熱い。七十度ぐらいが好ましいよ」
「はい慣れないもので」
 音羽は指を立て、爪で茶碗を掴むようにして口まで運んだ。
「いいねえ、香りもあるし、渋い。だが少し苦い、妙味だね」
 古いのだ。
「ああ、さて、これだが」
 音羽はファイルを田中に差し出した。
「はい、確かに受け取りました」
「じゃ、私は失礼するよ。よろしく頼むと音羽が言っていたことを伝えてくれ」
「はい、了解しました」
 音羽が立ち上がったので、田中は下まで見送ろうとしたが、いや、目立つからいいと、音羽は手で制した。
 雑居ビルの横に折りたたみ自転車が止めてある。安っぽいものだ。音羽がそれに乗ろうとしたとき、田中が走ってきた。
 どうしたんだ、というような顔で音羽は周囲を見渡しながら田中を見た。
 田中の手に音羽の鞄があった。
「ああ、有り難う。うっかりしていた」
「じゃ」
「うむ」
 音羽は少し先にある高級車から降りた場所へ戻った。
 しばらくすると、高級車がやってきて、運転手が自転車を畳み、トランクに入れた。
 第三分室。田中の初仕事は、これだった。
 
   了




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2020年06月05日

3772話 第三分室の男

第三分室の男
 カチンカチンと音がする。小さな音。隣の部屋から聞こえてくるのだろうか。雑居ビルの五階。壁が薄いのかもしれない。音は意外なところから来る場合もある。カチンカチンと小さな音で、耳障りにはならないが、その音ばかりを聞いていると、徐々に大きくなる。
 カチンカチンは一定のリズムがあり、時を刻む時計のよう。だから人が鳴らしているのではないのかもしれない。もしそうだとすると凄い集中力を長時間必要だ。
 オフィスが静かなので、そんな音を拾うのだろう。ちなみに両隣は無人。田中は何か音楽でも流そうとしたが、会社なので、そんなものはない。持ち込んでも分からないのだが、スマホがあれば必要ないだろう。
 本室には一度も行ったことはない。面接は喫茶店だった。しかも風通しのいいファスト系。入社式もなく、いきなり歓楽街の端にある雑居ビルへの出社。それが第三分室。前任者と交代し、一人勤務。しかし、その仕事のほとんどは待機。
 仕事がやりたくてたまらないような人間ではないので、田中にとり、これは楽。できればこのまま一生待機だけの仕事を望んだりする。
 だが、牢に入っているようで、退屈する。それで、前任者が言っていた市場調査に出ることにした。これは結局は暇潰しの散歩らしい。
 待機だが、外出を禁じられているわけではない。ずっと詰めている必要はない。という規約あるわけではないが、休憩時間は外に出るだろうし、当然昼を食べに行く。
 本室からの連絡はスマホにも来るので、何処にいてもいいようなものだが、最初は分室の据え置き電話に来るらしい。いなければスマホになる。
 本室の手助け、助っ人要員として第一分室第二分室がある。そして田中が配属されている第三分室。
 何を助けるのかは分からないが、ほとんど本室だけで間に合うらしい。
 そして手助けとか、遊軍とかの説明を前任者から聞いたが、その前任者の老人は一度も駆り出されなかったらしい。だから、どんな仕事なのかは知らないとか。
 それで、その前任者、毎日市場調査に出ていたらしい。つまり長時間散歩だ。
 ということは長い間、前任者は勤務したが一度も呼び出しはなかったというのだから、市場調査が仕事になる。だから散歩で時間を稼ぐ。そのため、散歩能力が必要。如何に飽きないで、街中をウロウロできるか。そしてこれは散歩好きでないと務まらない仕事。
 この市場調査、待機中の仕事だが、命じられているわけではない。しかし日報を送らないといけないので、何か書かないと駄目。しかし、オフィス内でじっとしているだけでは何も書くことがない。だから市場調査レポートを日報に書くのが好ましい。前任者もそれをやっていた。そして前任者は日本茶のマニアで、それについても日報で書いていたらしい。ほんの数行だが、白紙よりもいい。
 そうなると、田中の日報は散歩日記になる。これは立派な市場調査で、見聞録。街の様子などを少し書けばいい。
 そして、今日も出社後、すぐに田中は市場調査に出た。
 こんな勤務でいいのだろうかと思いながら。
 
   了
 




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2020年06月04日

3771話 熱中が過ぎた後


 一つのことに熱中していて、それに飽き出すのはいつ頃だろうか。しばらくすると最初の熱は下がり出す。つまり熱中度は下がる。それが高かった最初の頃に比べ。
 これは熱中とか感動とか、驚きとか、興奮とか、凄さというのに慣れてくるためだろう。
 そういうときはより熱中度の高いものを探すことで、まだ引っ張れるのかもしれない。
 そして半ば飽きてきても、まだ半ば、完全に飽きていない。ここでやめないのは余地があるためだが、それよりも、それに代わる熱中できるようなものが他にない場合、やめると熱中するものがなくなる。そちらの方が淋しい。
 当然熱中するものが見付かる前に熱中していたものがある。それはきっと末期だったのだろう。だからバトンタッチした。
 というようなことを田中は恩師に話した。恩師とはもう現役で教えてもらっていない先生で、恩師も教える義務はなくなっている。中学時代の数学の先生に卒業してからも教えてもらえないだろう。
 その先生宅を訪ねることはできるが、もう数学から離れた会話になる。ただ、後は個人個人の問題で、数学についてもっと聞きたいとか、教えてもらいたいとか程度ならお金を払わなくても、教えてくれるだろう。
 その恩師に、その熱中について聞いてみた。数学の話ではない。
「熱を保つ。しかも高温を維持したまま。それじゃ身体を壊すでしょ。だから、熱は下がるようになっているのです」
「でも熱中できる方がいいのですが」
「どの程度の」
「感動とか、驚きとか、発見とか」
「うーむ。感動の維持は難しい。これは慣れる。驚きも、ずっと驚くほど馬鹿じゃないはず。発見も、ほぼ分かってしまうと、新たな発見など少ない」
「そうなんですが、何とかならないものでしょうか」
「そうですねえ。熱を下げた熱中に至るべきでしょう」
「それじゃ、熱中になりません」
「温度です。温度の問題。ある程度温度があれば、まだ熱中。つまり熱の中。その範囲内ということです」
「はあ」
「高熱より、平熱よりは少し熱のある微熱。これならいいと思いますよ。続けやすい」
「ぬるま湯のような」
「そうです。長く浸かってられます」
 流石恩師だけのことはあり、学生時代一番世話になった人で、田中との相性もよく、今も関係を保っているのだろう。この恩師、そういう教え子は田中だけのようだ。いつまでも懐いているのは。
 また、恩師はこうもいった。熱中とは熱中できる何かがあると。それはそれまでのことから来ていると。
 田中は、もう一つ、凄い言葉だとは思えなかったので、その意味を聞いた。
 すると、見出す力らしい。見出すには、見出すだけの何かがそれ以前になければ出てこないと。
 余計に分かりにくくなったので、後で考えることにした。
 そして、最後に感想を述べてくれた。
 ぬるま湯へ行きなさいと。
 田中はそれがどういうものなのかを考えた。
 この二つの指導から、ぬるま湯に何かを見出しなさいということだろうと、田中は結論を見出した。
 
   了





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2020年06月03日

3770話 一つだけぽつりと


 そのものだけがぽつりとあっても、あまり価値がないのかもしれない。値打ちが分からないというわけではないが、それ以上のものではない。
 ところが同じようなものが並んでいたり、下位のものや上位のものがあり、ランクづけされていると、少し様子が変わってくる。付加価値というか、価値を決めるものが備わってくるからだ。一つだけぽつりだと、それが分からない。類似するものを探しても遠すぎたりする。既に違うものに属していたり。
 他と比べて凄いとかの評判も大いに価値に貢献する。凄くないといわれているものよりも凄いといわれているものへ行く。その凄さの中身に同意できる場合は、迷う必要はない。ただ、意味が分からないままの凄さもある。しかし、評判のいいものはいいものだということで、これも価値に貢献する。そのものの価値は人が決めるのだが、その人が自分ではない場合もある。
 類似するものがあり、並んでいる場合、そのもの以上の値打ちが生じる。
 逆にそのものだけがぽつりとあった場合、そのままの値打ちで、これが一番素朴だろう。値打ちを付け加えるものがないので。
 そのぽつりと一つだけの存在と、多くのものがある中で評判の高いものとの違いは、ほとんどなかった場合でも、高評価という飾りが効いて、値打ちは数倍の差になっていたりする。しかし、ぽつりと一つだけなので、比べるものがないはずなので、この例はあり得ないが。
 客観的なことよりも主観的なことを聞きたいと思うことがある。これはデータではなく実際の気持ちだ。そのため、それは人それぞれ。しかし、それぞれなのだが同じような感想が多いと、共通する主観になる。いずれそれは客観に近いものになる。ただ、主観なので、別の思いを持つ人も当然いる。それが圧倒的に少ないと、例外のような扱いになる。主観なので、好き嫌いが入るためだろう。
 一つだけポツンとあるものは、そういう影響は受けないが、何か淋しい。やはり飾り言葉が欲しいところ。評判になっていないだけでも価値は低いと見なされることもある。
 誰かが見出した価値に便乗する。自分が見出したわけではないが、その機会がなければ見出す機会もない。そして人が見出した価値、分けてもらった価値、教えてもらった価値だが、それに共鳴したり、自分もその価値を見出せた場合、教えてくれた人以上の価値を見出せることもある。
 逆に価値なしと評価されたものに、もの凄い価値を見出すかもしれない。これは穴狙いだろう。まだ誰もそのものの価値を見出していない。
 自分が思っているようなことを、他の人も思っていると、何故かほっとする。
 そのものが、そのものだけでぽつりと一つあるというのは結構孤独だ。
 
   了





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2020年06月02日

3769話 空飛ぶ照る照る坊主


 夏のような暑い日が続く五月末。ある日、降り出した雨で気温が下がった。まだ梅雨には早いが、三日ほど降り止まない。五月雨、小雨、微雨。まとめて降れば一時間ほどで終わりそうなものだが、そうはいかない。別に小出しで降っているわけでもないので。
 田に水が入り出しているのは、この雨が誘い水になったためだろう。
 生田はそんな雨の降る日に影を見た。二階の窓から下を見ると道路の一部が見える。広い道ではない。しかし、その道脇に水田がある。その端が僅かに見える。
 夜、暗いのだが、住宅地は意外と明るい。外灯が多いためだろう。そのため、路面がよく見える。たまに車が通る前、ライトが濡れた路面を照らし、何とも言えないいい絵になる。光のマジックのように。テールランプの赤も効いている。ブレーキをかけたのだろう。その先に信号のない交差点がある。
 問題は影だ。生田が影を見るようになったのは、その路面が最初。
 何かが動いた。窓からの視野が狭いため、誰かが歩いていたのかもしれない。
 次の日も雨で、蒸し暑いので、カーテンを開け、風を通していた。田んぼが近いのだが蚊は最近いない。
 すると、また影が動いている。見ようによっては人型。
 翌朝は晴れていた。このまま梅雨に入るのではないかと思ったのだが、まだ早い。
 玄関のドアは半分磨りガラス。そこに影。
 その影はさっと消えた。最初に見たとき、動いていなかったように思われた。誰かが通ったとしても、影は映らない。玄関ドアから表の通りまで少し距離がある。すると、玄関前まで誰かが来ていたのだろうか。
 次に見たのは家の廊下。居間からトイレへ立つとき、影が走った。それほど早くはないが、歩くよりも速いだろう。すっと立ち去った。
 生田はこれには驚いた。家の中には生田しかいない。ペットもいない。
 その後も、その影を幾度も見た。
 そのうち影の形が徐々に分かりだした。人型だが首と胴体のくびれがある程度。だから照る照る坊主なのだ。
「照る照る坊主が出ましたか」
「はい博士。これは何でしょう」
「雨が降らないように出たのでしょ」
「そういうことではなく、そんなものがどうして出るのですか」
「それを何度も見られたと」
「はい。それで、こういった話に強い人に相談したくて」
「こういったとは、どういった」
「だから、おかしな話に」
「まあ、見たのだから仕方がありませんなあ」
「照る照る坊主という妖怪じゃありませんか」
 妖怪博士は辞典を頭の中で繰った。別に妖怪辞典を丸暗記しているわけではない。
「きっといたずら者が、その照る照る坊主の中に入り込んで、悪さをしておるのでしょう」
「照る照る坊主って、小さいですよ」
「それが飛んでおるのじゃろ。あれは足も手もないので、飛ぶしかなかろう。しかし首から下は全部マントかもしれんがな」
「しかし、室内にまで入り込んでいます」
「隙間から入り込んだのじゃ。開いてる窓もあったはず」
「風通しで、少し隙間を」
「じゃ、そこから入り込んだのであろう」
「博士、それよりも、照る照る坊主は飛ぶものですか。それに勝手に動きだす照る照る坊主なんていませんよ」
「そうじゃなあ」
 妖怪博士はやる気がないようで、眠そうな顔をしている。カンカン照りが続いていたのに、今度は雨が続き、気温がガクッと下がり、また昨日あたりから暑くなりだしたので、体調が悪いようだ。
 要領を得ないので、生田は帰ろうとした。
「魔除けの御札はいいのかな」
「結構です」
 客が帰ったので、妖怪博士は昼寝の続きをした。
 妖怪博士がやる気を失ったのは、作り話丸出しのためだろう。
 
   了





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2020年06月01日

3768話 第三分室


 レトロビルと言うほど古くはない。一種の雑居ビルだろう。入口に喫茶店があり、不動産屋がある。その間が玄関口で、数段の階段を上るとドアがある。坂田はそこを抜け、エラベーターで五階まで昇った。そこが一番高い。
 エレベータを降りると廊下が左右に続き、ドアが不規則な間隔である。
 ここはもう店舗ではなく、事務所のようなものだろうか。奥から二番目のドアを見ると、第三分室と、しっかりと書かれている。間違いない。ここだ。坂田の配属先。勤務先。つまり、ここが仕事場になる。
 ドアを開けると、年寄りが出てきた。細くて小さな人。髪の毛は耳の上と後頭部を残すのみだが、いやに髪の毛が黒く、つやつやしている。競馬ポマードでも塗っているのだろうか。
「坂田さんですね。私はもう退職しますので、あとはよろしくお願いします」
「はい」
「ここが第三分室なのですか?」
「そうです。聞かれたとは思いますが、分室は第一第二とあります。まあ、この第三分室は暇です。第三まで用が回ることは先ずありません」
「どんな用なのですか」
「当然仕事ですが、スタンスとしては遊軍です。だから第一第二と遊軍があります。まあ、本室の手伝いです。助っ人です。しかし第三まで回ってくることは先ずないので、詰めているだけでいいのです」
「はい」
「お茶でも入れましょうか」
「はい」
 老社員は奥のカーテンを開き、ガスに火を付けた。水道とガスが来ているのだ。一応トイレもある。風呂はないが。
 デスクがあり、それが大きい。六人ぐらいは座れるだろう。
 それが部屋の真ん中にある。
「緑茶でいいですね」
「はい」
 老社員はパック入りのお茶の葉を何種類か揃えているようで、いずれも安っぽいものだが最初から小袋に入っているので、楽なようだ。その中から緑茶を取り出し、湯が沸くより前に、そのパックを急須に入れた。
 キューンと甲高い音が鳴り、湯気が立った。茶瓶の口に笛が付いているのだろう。
 それをさっと急須に注ぎ、形の違う二つの湯飲み茶碗をお盆に乗せ、テーブルまでゆっくりと運んできた。
「自販機のお茶でもいいのですがね。この入れ立ての香りは、やはり無理です。お茶はね、鼻で飲むんです」
「あ、はい」
「えーと、引き継ぎですが、別にありません。鍵を渡すだけ。それと火の用心、出るとき、チェックしてください。窓のロックも」
「はい」
「それとこのファックス、もう使っていないので、捨ててもいいでしょ。これは本室に連絡してください。取りに来るでしょう。勝手に捨てられませんからね」
「はい」
「それぐらいです」
「どういう務めになるのでしょうか」
「待機です」
「待つわけですね」
「そうです」
「ずっとですか」
「そこはあなた、適当です。その間、市場調査に出ればいいのです」
「え、聞いていません。どんな」
「まあ、散歩のことです」
「ああ、はい」
 お茶を飲み終えると、老社員はロッカーから私物を出してきて、鞄や紙袋に詰め込んだ。
「あなたこれ、やります」
 CDかDVDのようなのを見せてくれた。
「ゲームですか」
「ここのパソコン遅いので、動きはギリギリですが、何とかまだ動きます」
「インストールしていないのですか」
「していますが、DVDを突き刺さないと起動しない仕掛けなんです」
「ああ、いいです。軽い目のウェブベースのオンライゲームをやりますので」
「あれは課金を使わないと、まともに進めませんよ。そのてん、このゲーム味わい深いよ。造りが丁寧だ。世界観がある。それに何度やっても飽きない」
「はいはい」
「じゃ、これで、引き上げます。これがキーです。これがスペア。じゃ」
「はい」
 これが坂田の出勤第一日目だった。
 第三分室。第二分室でも手が足りない仕事。滅多に来ないが、たまにこの第三分室にも声がかかる日があるとか。
 
   了 



posted by 川崎ゆきお at 11:23| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月31日

3767話 間を置く


 上手く行かないときは少し間を置けと武田は言われた。
 信号のない横断歩道。簡単には停まってくれないのは、停まりたくても後続車が気になるため。またそこで止まっても対向車線も停まってくれなければ人は渡れないだろう。しかし、待てばいずれ嘘のように車が来なくなり、簡単に渡れる。
 タイミングの問題で、時期の問題。難しいことでも少し待てば簡単にいくことがある。
「まだ待っておるのですか」
「はい、上手く行かないときは待てと言われたので」
「もう一年になる」
「はい、でも言われた通り、上手く行きそうになるまで待っています」
「少し」
「はい」
「少し待ちなさいと言っただけです。少し」
「少しでしたか」
「ずっとじゃないか、君は」
「はあ、でも少し待った程度では、なかなか頃合いがなく、上手く行きそうな気がしませんでしたから」
「じゃ、一年も待てば十分だろう」
「そうですね。忘れていました」
「待っていることを忘れたのかね」
「たまに思い出しますよ」
「間を開けすぎだ。そろそろやりなさい」
「はい」
 さて、そのそろそろだが、どのぐらいがそろそろだろう。今日明日にでもだと思える。
「始めましたか?」
「まだです」
「また、そういうことをやっておる。そろそろは過ぎた。すぐにやりなさい。即」
「はい、すぐにやります」
「よし」
「でも、すぐって、今ですか」
「そうだ。今すぐだ」
「何をするんでしたか」
「とぼけないで」
「あ、はい、色々とやっていないことがありまして、間を置いたのが沢山あります。どれでしたでしょうか」
「私が頼んだ件だ」
「えーと、それはもう一年前ですよ」
「そうだ」
「遅すぎます。今頃言われても」
「君が遅いんじゃないか」
「そうですねえ。じゃ今すぐやります」
「そうしてくれたまえ、いや、もういい」
「どうしてですか」
「やはりもう遅すぎて、間の抜けたことになる」
「そうですよ。今やっても間抜けですよ」
「抜かしたのは、君じゃないか」
「ああ、そうでした」
 
   了




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2020年05月30日

3766話 保身の人


「さて、どうしたものか」と二人が相談している。いつも休憩に入るファストフード店。
 職場のリーダを追い出した。やっとそれに成功したあとなのだが、職場に平和が訪れたのは僅かな時期。すぐに次の禍がやってきた。この二人がその標的となったが、似たような人は多数おり、二人だけが特に、と言うことはない。
 独善的なリーダーに仕切られ、苦しい思いをしたのだが、それを仲間達が追い出した。団結したのだ。これで癖のある職場から、普通の職場になり、普通のルールが普通に通じるようになった。それまでは独裁ということではないが、特殊な論理、それは倫理観ではなく、癖だろう。それに全体が巻き込まれた感じで、縛られていた。
 ファストフード店で休憩中の二人は、そのとき動かなかった。そういう人は他にもいると先ほど述べた。
「自分のことしか考えない人」と言われたらしい。
 また。「保身しか考えていない」とも。
 リーダーを追い出した何人かの中の一人が、リーダー格になったのだが、それほど強い人ではない。仲間との協力がなければ、追い出せなかった。
 意志の共有。仲間同志での共有。ここがポイントで、針で、その針が二人に刺さった。つまり、全体を考えないで、仲間のことを考えないで、自分さえよければいいというところを刺された感じだ。
「その通りじゃないか。それのどこが悪い」
「そうだそうだ。それで普通じゃないか」
「保守的とも言われた」
「防御だよ。普通だろ」
「しかし、攻めなければ、今の職場の平穏はなかったとも」
「今、もう平穏じゃないよ。つるし上げられそうだ」
「敵がいるんだ」
「どこに」
「ここに」
「私達が敵なのか」
「そうなんだ。敵を作らないと、あのリーダーは団結できない。それほどの器もない。前のリーダーはきつかったが、仲間など頼らず、やりたいことをやっていた。追い出されたが、あの人の方がリーダーとして優れていたよ。私は嫌いだったがね」
「保身を図るため、あのリーダーにべんちゃらを言っていたとも言われた」
「あたりまえじゃないか、嫌われると怖いからね」
「しかし、どうする。このままじゃ居心地が悪い。私達は何もしていないのにね。何か悪いことでもしたか。迷惑をかけたか」
「だから、保身が気に入らないんでしょ」
「それに追い出すとき、あまり協力しなかったしね。黙認程度で」
 この二人、かなりのベテランで、前のリーダーよりも年嵩だし、今のリーダーなど子供のような年齢だ。今まで後輩の後輩で、そんな後輩がいたかな、程度の存在だった。
「挨拶しなかったのがいけなかったのかなあ」
「あんな後輩にわざわざ挨拶など」
「でも、リーダーになったんだから、立てよう。盛り立てよう」
「面倒臭いなあ」
「それこそ保身のためだよ」
「別に保身がメインじゃない。それに、すぐに尻尾を振ると、それこそ保身だけの人だと思われるだろ」
「そうそう」
「じゃ、どうする。このままじゃ、つるし上げられるぜ」
「何もしていないのになあ」
「一寸喉を撫でてやれば、ゴロゴロいうさ」
「そうだね。褒めちぎるに限る」
「だから、その態度がやはりバレバレだから、その手は使えない」
「リーダーを変えたらどう」
「変わったばかりじゃないか」
「落とす方法はいくらでもある」
「怖い人だなあ」
 この二人の密議は実行段階になったが、その前に、そのリーダー、自滅した。
 そのリーダーが仲間と思っていた人との意思疎通が悪かったのか、前のリーダーを追い出してから、態度が変わったようだ。
 それで、例の二人、何かするところだったが、その必要がなくなった。
 新しくリーダーになったのは、この二人のベテランのさらに先輩の覇気のない隠居のような人だった。
 
   了

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2020年05月29日

3765話 日常の内と外


 日常内と日常外がある。日常外は非日常でもあるが、常識があり、非常識があるような図ではない。日常外は日常内と隣接しており、日常から少しだけ外れている程度。だから決して非日常ではない。日常とは常日頃からやっていることや、立ち回り先だろう。ただ、日常は人により範囲が違うので、その個人によって異なる。
 毎日行っている喫茶店、しかし定休日があり、週に一度だけ別の店へ行く。週一なら日常内に入るだろう。準常連に近い。よく見かける客だし、よく見かける店の人。二週間程度ならまだその範囲内。月に一度だと、徐々に外れてくる。半年一年だと、もう圏外だろうが、まだ顔ぐらいは覚えているだろう。
 吉田は毎日行っていた場所がある。そこが行けなくなり、別の場所へ行くようになった。そちらの方が遠いし、方角も別。そのため、通る道も変わってしまった。そこは臨時、代用だ。
 しかし二三日で慣れだし、一週間もすると、その沿道にも慣れてきた。やはり毎日そこを通っていると覚えてしまうのだろう。二週間ほどすると、もう日常内に組み込まれた。その場所までの道中やその場所での変化を毎日見るようになったためだろう。その後、日常のこと、いつものこととして取り込まれた。
 ところが行けなくなっていた場所へ行けるようになった。
 吉田は以前の日常に戻れることになり、それで遠くまで行く必要もないし、何年も通った場所なので、馴染みが違う。それで元に戻れた。
 しかし、いつもの場所は近いが狭い。その沿道も短く、変化に乏しい。だから風景など見ていないほど。
 それに比べると、その代用で行っていた場所の方がいい感じなのだ。
 そうは思うものの、遠いところまでわざわざ出掛ける必要はなく、折角戻れたのだから、代用の場所へは行かなくなった。
 二週間ほどなので、まだ日常内。これが一ヶ月後なら圏外になってしまう。今なら、まだ日常範囲内のまま行ける。
 それで吉田は行き慣れたいつもの場所ではなく、代用の場所へ、また行くことにした。もう代用の必要はないのだが、こちらの方がいつもの場所よりもいいためだ。
 そして、久しぶりに出掛けたのだが、二週間の間隔は感じられなかった。やはり圏内のためだろう。
 代用のつもりが、今ではいつもの場所となり、完全に日常のものとなった。つまり代用から常用へ昇格。
 選択外だった場所だが、臨時で行った場所が意外と良かったということだろう。その場所だけではなく、そこへ行くまでの風景も。
 そうなると、いつもの場所が闇の中に入ってしまう。逆にそこが日常外になる。再び行くときは少し躊躇するだろう。
 
   了



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2020年05月28日

3764話 とどのつまり


 疋田はある年齢に達したとき、若い頃から思っていた状態ではないことに気付いた。もっと早く気付いてもおかしくない。どれだけのんびりしていたのだろう。そして年齢を考えると、未だに底辺にいる。もっと進んでいるはずなのに、予定していたところに達していない。それもかなり緩い目の最低限のところだが、それはまだまだ先で、これは一生かかっても無理なのかもしれないような高みに見える。
 しかし、その間、疋田は懸命に生きてきた。努力もした。怠けていたわけではない。だからそれなりの達成感はそれなりに得ていたのだが、何せ低い。
「今頃気付いたのかい」
「そうなんだ。年を考えると、焦る」
「まあ、夢というほどのものじゃないから可能だろ」
「不可能事じゃない。そこはリアルに計算していた。これは少し頑張ればできると、一点集中でね。しかし、手強かった」
「もっと早い目に気付くべきだったよ。僕も今言おうか今言おうかと何度も考えたのだが、言い出せなかった。君は明るい未来を見ていた。目が輝いていた。それに頑張っていた。だから、水を差すような真似はできなかった。本当は誰かが言ってやるべきなんだが、誰も言えなかったねえ。邪魔するようで」
「だから気付くのが遅かったんだ。今だから」
「そのうち気付くだろうと見守っていたんだよ。しかし、遅かったねえ」
「どうしよう」
「先にまだ進むんだろ」
「いや、計算すると、このペースじゃ無理だ。それに壁があって、そこで止まっている」
「あったよねえ、壁。壁があって先へ行けないって、言ってたねえ。でもそれって、やり始めた頃じゃないの」
「そうなんだ」
「じゃ、最初の壁の前で今も留まっているのかい」
「とどのつまり、そうだ」
「じゃ、長年やってるけど、最初の壁から進んでいなかったんだ。もっと行っていると思ったけど。長い年月なんだから」
「その壁を何度も削った」
「何ミリ」
「数ミリ」
「壁は何ミリ」
「1メートルほど」
「じゃ、一ミリ削ったことを前進と言っていたのかい。成果が出たと。上手くいっていると」
「うん、そうだ」
「何か考えがあると思い、僕らは見ていたんだ。それが作戦だと。それに君は元気そうだったし、上手く行ってると言っていたし」
「2ミリ削り、3ミリ目に突入程度だった」
「おかしいとは思っていたんだ。あまり進んでいないので。それで何度もどうなっているのか、聞こうとしたんだけど」
「ありがとう」
「しかし、その年になったけど、やっと気付いたんだね」
「そうだね。自分で気付いたんだ」
「まあ、無理だったんだ。最初から。それに最初の壁にぶつかったとき、普通ならやめるんだけど」
「一度決めたことはやり抜くのがいいと」
「そうだね。いい言葉だね」
「思い描いていた人生ではなくなりつつある」
「また人生設計し直せばいいさ。僕らも若い頃に思っていたことなど、誰もやっていないよ。残っているのは君だけだった」
「あ、そう。僕がトップだったんだ」
「違うけど、まあ、そうだね」
「悪くなかったんだ」
「悪いけどね。まあ、それでもいいけど」
「ああ」
「それで、どうする」
「壁の方が腐りかけていて、あと一ミリ削れば倒れるかもしれない」
「そんなわけない。まだ、その壁にしがみつく気なのかい。気付いたんじゃないのかい」
「しかし、もうこの年だ。他にやることがない」
「じゃ、続けると」
「ああ」
「どこまでのんびりしてるだ」
「おお」
「元気だけはあるんだね。目の輝きだけは怖いほどある」
「おお」
 
   了




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2020年05月27日

3763話 寛げない喫茶店を探す


 北岡は部屋の中でできる仕事をしているのだが、そこではしない。ノートパソコンを持ち出して、外でやる。主に喫茶店だ。今ではよく見かける姿だが、仕事場がないわけではない。部屋にはデスクトップパソコンがあるし、モニターも大きい。こちらの方がスピードも早く、効率もいいのだが、やる気がしない。
 それは自室というのは寛げるため。また寛げるようにしないと、自室の意味がない。内と外の関係があり、家は寛げる場所。これは他人の視線が来ない場所で、家の中ではどんな姿勢でもかまわない。
 これがどうも北岡の仕事とは相性が悪いようで、寛いでしまうと、もうやる気がしない。自室なので好き放題ができるのだが、一番好きなことは寛ぐこと。
 家を仕事場に使えないわけではないが、それなら自宅の意味が変わってしまう。仕事場で寝起きし、仕事をする。仕事にはいいが、仕事場で寝たくないし、そこでご飯を食べたくない。
 それで、複数の喫茶店を梯子するのだが、寛ぎやすくない店というのがある。これは結局は人だ。たとえば店の者が常に視野内にいること。これが気になる。たとえばカメラを取り出し、モニターをメモ代わりに写す場合でも、店の者は当然それを見ている。客を監視しているわけではないが、視野に入っていると、動くものを見てしまうのだろう。それと変化とかも。
 実はこういう店ほど仕事が捗る。逆に落ち着いた店で、店の者も奥に引っ込んだままでテーブルとテーブルの間隔は広く、しかも敷居で軽く目隠しされている。確かに寛げる。プライベート面がいい。しかし、仕事は捗らない。寛いでしまうため。だから、自室と同じことになる。
 それと、遠くにある店ほど捗る。また滅多に行かない店でも捗る。
 これは何か。
 つまりは、何かをしていないと、間が持たない。それで仕事に集中できる。寛げる隙間がない。
 たまにしか行かない喫茶店は、慣れていないので、これも寛げない。それと仕事場ががらりと変わるようなもので、新鮮。それで仕事もさっとやってしまえる。
 しかし、寛げない喫茶店は仕事は捗るが、あまり行きたくない。店の者や客などから好奇心半分で見られている。行きつけの店ならそれはない。互いに慣れているためだろう。得体も大凡分かっている。どんな客かを店の者も把握している。
 好ましい喫茶店、親しみがあり、日常の中にすっかり溶け込んでいる店は逆に仕事が捗らない。そういう矛盾がある。それなら自室でやっているのと変わらない。
 
   了
 



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2020年05月26日

3762話 限界越え


「本当は限界がないのですがね。私にとってはこれで限界です」
「あ、そう」
「しかし、その限界越えを今回挑もうと思っています」
「ほう」
「それでも本当の限界はないので、レベルとか程度の問題でして、まあ、私にとっては最長不倒距離、自己新記録、その程度の問題です」
「じゃ、大したことはないと」
「その私が世界一だとすれば、私の自己新記録は世界新記録になりますが、残念ながらそのレベルではありません」
「クラスで一番とか」
「それでも学年で一位じゃないと。さらに市内で一位でないと。それでも県内で一位じゃなかった場合、全国一も、世界一も有り得ません」
「じゃ、あなたのレベルは、それほど高くないと」
「そうです。しかし、私にとっては、この限界越えだけでもう十分凄いことになるのです」
「どの程度の限界ですか」
「一つだけ、上の段階です。上にはもっともっとあるのですがね」
「じゃ、大したことはないと」
「そうなんですが、私達のレベルでは、この限界越えはもの凄いことなんです」
「そうなんですか」
「この限界越えをした次はジャンルが違うようになりますから。扱われ方が違ってきます」
「いい扱いになるのですか」
「いえ、ごくありふれたタイプになってしまうのです」
「どういう構造なのか、見当が付きませんが」
「つまり、よくあるジャンルになるのです。だから、限界越えをしたその次の段階では平凡なものになってしまいます」
「指しているところが分かるようで、分かりにくいのですがねえ」
「これは価値観の問題でして、値打ちがあるかどうかなのです。今の私は平凡ですが、限界越えをすれば、非凡になります。しかし、さらに次の段階になると、また平凡に戻ります」
「不思議な構造ですねえ」
「そうなんです。ギリギリのところです。そのギリギリを超えると、平凡になります。値打ちがあるのはギリギリだということ。ここなんです」
「何処だか分かりませんが、レベルでは価値は計れないと」
「そうです。ある一線を越えますと、別扱いになり、まあ、カテゴリーが変わるようなものです」
「際どいところに立っているのですね」
「いえいえ、そこまで際どいところまで、なかなか行けません。今回、私の限界越えは、その手前でして、まさに一線を越えそうになる手前の手前程度です」
「何か微妙な話ですねえ」
「先ほども言いましたように、ある一線を越えますとジャンルが代わり、扱われ方も変わります。そして、その一線超えはありふれたものになります。そして限界はもう突破していますので、それ以上の限界はありません。だから逆につまらないのです」
「そういう構造体とかシステムがあるのですね」
「そうです。価値があるのは、一線越えの手前なのですよ」
「何でしょうねえ」
「そして、実は一線越えは誰にでもできるようなことです。だからありふれてしまいます」
「一線越えの手前か」
「そうです。そのギリギリの際。つまり際どさに価値があるのです」
「よく分からない状況ですが、何かに当てはめてみましょう」
「あなたと越えたい天城越え」
「え」
「でも越える手前がいいのです」
「それがヒントですね」
「そうです」
 
   了




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2020年05月25日

3761話 石の卵


 身体が怠い。気力がない。精力がない。こういうときは養命酒の出番だが、酒田はそういうものは飲まない。よくあることで、身体が悪いのではない。低気圧なのだ。
 どちらにしても元気に欠ける。そのため、こういうときは楽しいことをすると損。それほど楽しめないため。それは元気なときにとって置く方がいい。そのほうがより楽しめる。
 晴れていたのだが、雲が多く、やがて白い雲が濁りだし、灰色になり、空全体を覆うようになってくる。こういうときは何ともならないので、静かにしているしかないのだが、気怠いので、自然と静まる。発想も貧弱になるが、意外と冷静な面がある。テンションが低いためか、安定したローの視線になるためだろう。
 頭の中に雲が湧いたようになり、考える範囲が狭くなる。これはこれでは安定している。布団の中にいるようなもので、もう現世のことなどいいから、常世の国を彷徨うような夢の中に入り込みたい。ただ、昼間から寝るわけにはいかないので、酒田は起きている。
 そんな眠たい感じのときに限って元気な声が聞こえてくる。友人の浦田だ。こんな日に来なくてもいいのに、よりによってそういう日に限って来る。まさか酒田の調子の悪い時を選んで来ているわけでもなさそうだが、この浦田は常に元気なのではない。会っているときは常に元気なのだが、元気なときにしか来ない。だから元気のない浦田を見たことがない。誰とも会わないで、じっとしているためだろう。
「やあ、元気かい」
 その高い声を聞いただけで、疲れがどっと出そうだ。先ず神経からくる。酒田の顔が歪む。顔の筋肉が疲れる。
「いや、低気圧でね」
「血圧じゃなく、低気圧」
「君は何ともないのかい」
「低気圧って、雨でしょ。まだ降ってないけど」
「降る前の方がきつい」
「ふーん」
「低気圧の影響を君は受けないのかい」
「知らない」
「じゃ、受けないんだ」
「そうだね」
 浦田は用事で来ることは希で、雑談して帰るだけ。迷惑だとも言えない。友達の少ない酒田にとり、浦田は貴重な存在。
 浦田も気軽に会えるのは酒田だけらしい。
「君は元気のないときはどうしてるの」
 浦田は、じっとしていると答える。酒田と同じだ。働いていないので、じっとしていてもかまわないのだろう。いくらでもじっとしてられる。
「しんどそうな君を見たことはないけど」
 浦田は、しんどいときは人と会わないらしい。そこが酒田と違う。酒田は一応会う。だから浦田が来たら来たでそれなりに付き合う。ということは、酒田の方が軽症なのだ。
「しかし低調なときもいいものだ」
「今がそうかい」
「そうだね」
「元気になるような話を持ってきたんだが」
「またかい」
「ああ」
 これは訪問したときの手土産のようなもの。
 浦田はポケットから卵石を取り出した。
「凄いだろ。君にやるよ」
 ニワトリの卵とそっくりの大きさ。しかし重い。つるつるに磨いた石だ。
「これは懐石料理と同じで、懐石でもある。懐に入れていると、元気になる。僕は元気なので、いらないので、君にあげる」
「ああ」
「元気の出る魔法石だよ」
「ほう」
「温めると、石の卵から石鳥がふ化するらしいけど、石の鳥かどうかは分からないらしい。ただ温める人によって違うとか」
「ほう」
「僕も温めたけど、何も起こらない。中の鳥との相性が悪いんだろうなあ。だから、君にあげる」
「ありがとう」
 そのあと、浦田は石の卵に関する色々な伝説を聞かせてくれた。有名なのは孫悟空だろう。石ではなく、岩だが。
 しかし、その石の卵。酒田は実家で見たことがある。もうニワトリなど飼っていなかったが、ダミーの卵を納屋で発見したことがある。これをニワトリのそばに置くと、卵をよく産むらしい。
 
   了

 

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2020年05月24日

3760話 妖怪博士と妄想家


 妄想家というのはものの言い方で、空想家でもいい。だが、空想家より妄想家の方が重症だろう。
 これはそれで一家を成しているわけではないが、性格などと関係する屋号のようなものだろう。あの人は何々だ。と決め付けるとき、使われたりする。
 妖怪博士は妄想家で知られる人を訪問した。妖怪とは関係しないが、何らかの参考になると考えたからだ。これは本職の妖怪研究に関係するはず。
 だが、自発的ではなく、担当編集者からの依頼。これは断る理由はない。妖怪がいるというのも一つの妄想。そして妄想家なら、さらにきついことを思っているかもしれない。
 要するに軽くインタビューのようなものをすればいいが、編集者は来ない。そのため、レコーダーが送られてきた。使い方を試すため、録音をしたが、自分の声がこんなふうに聞こえるのかと思うと、妖怪博士は驚いた。いつも聞いている妖怪博士の声ではない。自分で出している声を自分で聞くのだから、また違うのだろう。
 さて、妄想家、それにふさわしい町に住んでいるわけではなく、平凡な住宅地。郊外の何処にでもあるような町。
 訪問されるのが嫌なのか、駅前の喫茶店で会うことになった。
 妖怪博士は先に来たのだが、それらしい客はいない。広い店だが、客は少ない。
 しばらくすると、普通の人が入って来た。ちらっと見たが妄想家らしさがない。それで、違うと思い、目を戻すと、すぐにその人は妖怪博士に近付いて来た。一目で分かる風貌のためだろうか。
「妖怪博士ですね」
「そうです」
 妄想家は普通の人だ。中年の真っ最中という感じで、若者でもなければ年寄りでもない。
「妄想家の高槻さんですね」
「そうです。高槻です」
「似たような人で、茨木さんもおられますなあ」
「茨木さんは隣町です。近いです。懇意にさせていただいております」
 編集者が茨木氏ではなく、高槻氏にしたのは、茨木氏はマスコミ嫌いのため。
 編集者がそこを何とかといってまで粘らないのは、どうでもいいためだろう。妄想家などいくらでもいる。単に妄想癖が強いだけの人なので。
 高槻氏は簡単に応じてくれた。
「リアルを見ると、それで終わってしまいます。それ以上のものはもうない。これがリアルの限界です。ところが、リアルとまだ接していないときは、想像の世界。こちらの方はいくらでも伸び代がありまして、際限がない。ところがリアルに辿り着くと、限界が見える。見えない方がいいというのが妄想の良さなのです」
 早速始まった。
 妖怪博士は、聞き入るばかりで、語っていることは決して妄想ではない。普通なのだ。
「従って妖怪もリアルな妖怪、つまり本物を見てしまうと、それまでなのです。これだけのものだったのかと思うでしょう。特に妖怪はでっち上げたものが多く、それこそが妄想の産物。空想の産物。だから本物など当然あり得ない」
 この人の方が妖怪博士ではないかと、妖怪博士は感心しながら聞いている。
「僕は妄想家と言われていますが、実は幻想文学の研究者なのです。だから文学者です。そして自分では創作しません」
「普段は何をされているのですか」
「普通の会社員です」
「普通の暮らしをしている方が妄想が湧きやすいのかもしれませんなあ。妄想はどんなときにでもできます。時間がなくて妄想する時間がないということもなさそうだし、どんなに忙しい最中でも妄想はできます。また体力を使い果たし、息せき切っているときでも妄想は可能でしょうなあ」
「仰る通りです博士。幻想や妄想ばかりの中で暮らしていると、逆にあまり効果はありません」
「妄想家は幻覚を見ることもあるのですかな」
「僕の場合ありません。純粋な想像です」
 正統派だ。
「妖怪について、どう思われますかな」
「先にも話しましたように、いないことが分かっています。リアルがない。だから、妄想の宝庫でしょう。しかし、いる可能性がないと、裏付けのようなものがないので、少し弱いです。いるかもしれない、現実に存在しているかもしれないというレベル。これが妖怪の場合、欠けています。やはり辿り着けないが実在しているものの方が妄想の拡がりが違います」
「どういうことですかな」
「妖怪の多くは冗談ですから」
「ああ、なるほど」
「たとえば幽霊は実在するかもしれません。その違いです」
「はい」
「僕の説自体が、実は妄想なのです
「はいはい」
「世の中はそういった妄想で成り立っているようなものかもしれません。だから妄想を研究することは、そのあたりのカラクリを知ることにもなります」
「一種の幻想論ですかな」
「妄想はもう少しきついです。そこまで考えるか、思うか、想像できるかというほどとんでもないところまで行きます」
「まさに妄想ですな」
「そうです。もう根拠がない」
「はい」
「それで、根拠そのものを妄想で作る」
「ほう」
「しかし、それが普通の世の中の仕組みだとは思いませんか」
「もうそうですか」
「これはいいすぎなので、それこそが妄想なのです」
「妄想だらけですなあ」
「おかしいでしょ」
「楽しんでおる場合ではないが、その通りかもしれません」
 妖怪博士は興味深く、その他、色々な妄想論を聞くことができた。
 妄想だけで、リアルの希薄な世界。まるで異界で遊ぶ思いだった。
 そして、駅まで妄想家に送ってもらい、妖怪博士は余韻を楽しみながら、車内でうたた寝した。
 しかし電源ボタンは入れたが、録画ボタンを押すのを忘れていた。まだ妖怪博士はそれに気付いていない。
 このリアルが、怖い。
 
   了




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2020年05月23日

3759話 再開


 再会もいいが、再開もいい。再会は人だろう。再び会うということだが、期間にもよる。昨日会った人と、今日また会うというのは、再会としては短すぎるが、もう二度と会うことはないはずの人と、偶然出会ったとすれば、これは再会だ。常に会っている人なら、再会とはいわない。
 再開は人も関係するが、場所や、建物。店屋でもいい。またイベントでもいい。中断していたイベントや行事やプロジェクトなど。これは止まっていたものが動き出す。
 閉じていたもの、閉ざしていたものが再び開く。それが日常の一部なら、その日常が消えていたことになる。日常の全てではなく、一部だが。
 その場所へ行っても、閉じているので何ともならない。だからそこへ行くことはなくなる。
 閉鎖されていた場合、解除だろう。これも日常の一部になっていた場合、閉まっているのだから、行くことはないが、それに代わるような所に行ったりする。それは日常生活上、必要なためだろう。だが、省略してもいいようなものも多い。
 代用。それもいいが、いつもとは少し違う。逆に代用の方がよかったりすることもあるが、やはり慣れていないと、それこそ馴染めなかったりする。
 再会には喜びが付きもの。再開でも同じ。だが再会で嫌な目にあうことが結構ある。人相手のためだろう。再開の場合、人とは関係しないこともあるので、安定している。再開前と再開後の様子にさほど変化はないためだ。
 これは赤ちゃんが喜ぶ遊び「いないいないばー」に似ている。一度隠れる。そして出てくる。赤ちゃんはそれで安心する。いつものものを取り戻したためだ。世界が消える。世界が戻る。
 具体的な再会や再開ではなく、再び巡り会うために動いているという節もある。それが「あのころに」であったり「あのとき、ちらっと垣間見た夢のような」とかでもいい。
 一度体験していないと、再会も再開もない。最初の体験が疑似体験の場合もあるが。
 どちらにしても何かを取り戻す。これは結構ネタとしては大きく、人生規模。国家規模にもなったりしそうだ。
 また、失うまで、それほど大切に思っていなかった事柄もあり、代理や代用を探しているうちに、どんどん失ったもの閉じたものの価値が出てくることもある。
 
   了




posted by 川崎ゆきお at 12:35| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする