2020年11月05日

3924話 紅葉狩り


 たまの休暇。久しぶりの休暇。下村は二日目に起きてきた。初日は一日寝ていた。休みは三日。明日まだ休める。今日は出掛けて疲れてもいい。明日また休めるのだから。
 しかし、まだ寝たりないのか、グズグズしていた。秋も深まり紅葉シーズン。出掛けるネタに困らない。というより、それしかネタがないのは淋しい限り。それに一人で行くことになる。だから別に行く必要もない。約束はないし、誘いたい人も誘ってくれる人もいない。というよりその趣味の人がいないのだろう。下村もその趣味はない。しかしネタになるので行くだけ。他に出掛けたいような事柄はない。だから、たやすく行ける紅葉狩りに行く。それだけのこと。
 しかし、瞼が重い。
 それで昨日ほどではないが、昼前まで寝てしまった。流石、そこまで寝ると、起きたくなり、起きた。
 さて、どうするか。
 それは決まっている。出掛けるのだ。紅葉狩りに。
 何処へ。
 何処でも紅葉しているだろう。しかし、町内の木の葉っぱを見ても華々しくない。やはり紅葉の名所へ行くべきだ。
 何処の。
 下村の住むエリアからの名所はいくつかある。選択は簡単。その中で一番有名なところに行くことにした。
 本当に行きたいのか。
 たまの休み。次はいつ休めるか分からない。三日間も休める。盆や正月ではなく、ただの秋の日に。
 それで昼を食べに出たのだが、そのまま出掛ければいいものを、食堂だけに入り、帰りに喫茶店で一服して、戻ってきた。
 紅葉狩りに行く場所は決めている。しかし、まだ用意をしていない。リュックを出してこないといけないし、カメラも埃だらけなので、掃除が必要。腹がすいたので、とりあえず食べに出ただけ。
 戻ってきて、カメラを拭き、電源を入れると無言。答えてくれない。バッテリー切れ。分かっていることだ。それですぐに充電する。
 次は靴。軽登山用のいい靴があったはず。ほとんど履いていないので、靴擦れするかもしれない。それで靴は諦め、いつもの履き慣れたビジネスシューズのまま行くことに決める。
 それで充電が終わる頃まで、うたた寝していた。昼ご飯が効いたのだろう。トンカツ定食だった。これがもたれたようだ。
 昼寝から目が覚めるとバッテリーは満タンになっていた。その間、寝ていたことになる。
 時計を見ると、昼過ぎどころか、三時のおやつの頃。窓から外を見ると、日がもう長く伸びている。この時間から出ると夕焼けを見ながらの紅葉狩りになる。悪くはないが、もう出る気が消え始めていた。その火に勢いを付けようにも、炎が見えなくなり、最後に煙が出て鎮火した。
 その日は諦めた。まだ明日がある。今度はしっかりと用意し、朝から出掛けようと決心。
 こんなことに決心がいるのかと、下村は口元を緩めた。
 翌日、休暇の最後の日、下村は朝から出発した。
 しかし、戻って来なかった。
 部屋には戻ったが、仕事先へは戻らなかった。
 
   了
 

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2020年11月04日

3923話 繁みの中の廃屋跡


 その昔、誰かがいたようだが、今はいない。
「誰なんでしょうねえ」
「分からない」
「いつ頃までいたのでしょうか」
「かなり前」
「といいますと」
「数十年前」
「数年ではなく」
「そう。だから十年ひと昔なのでそれよりもうんと昔」
「でも手が届く昔ですねえ。二十年とか三十年なら」
「年寄りなら、ついこの間のことだろう。私もそう感じるが、指折り数えると三十年前後は経つかなあ。私も年を取った。三十年前の頃を思い出すとな。それで、誰だか分からないが、去ってしまった人のことよりも、自身のことを考えてしまうよ」
「どのあたりですか」
「この近くだ。そこの、こんもりとした繁みの中。今は立ち入り禁止になり、縄が張ってある」
「松茸山かと思いましたよ」
「縄だけなので、緩い。いくらでも入り込める。しかし立ち入り禁止となっているので、敢えて入る人はいない。用事もないしね」
「犬の散歩も、ここまでは来ませんねえ」
「ハイカーも来ない。登るような山はないしね。ハイキングコースにもなっていない」
「その繁みの中、どうなっているのです」
「建物跡が残っている程度」
「そこの人ではないのですね」
「それなら何処の誰だか、大凡分かる。その建物がまだ残っており、空き家状態のとき、私は出合った。三十年前だ」
「どうして、そんなところへ」
「ここから繁みが見えるでしょ。三十年前は煙突が見えていた。屋根もね。だから、こんなところに家があったのかと思い、分け入ったのだよ」
「道ぐらいあるでしょ、家なので」
「裏側から行ったようなので、道はなかった」
「そこで出合ったのですね」
「あれは人かどうか分からん」
「動物ですか」
「まさか、そこまで見間違わない」
「男ですか女ですか」
「分からんが、男だろう。ただ髪の毛は女のように長い」
「年寄りですか」
「皺が多いので、年寄りかもしれんが、髪の毛は白くない」
「じゃ、年齢も性別も不明と」
「そうだな」
「それでどうされました」
「近付いて挨拶をした。空き家に棲み着いたホームレスだと思ってね」
「反応は」
「なかった」
「空き家の中に入られましたか」
「入ったが、別にホームレスの寝床らしきものはなかった」
「そして、何かハプニングは」
「何もない。その人物は私のことなど無視して立ち尽くしていた」
「それで」
「気味が悪いので、家の表側にある道を通って繁みから出た」
「何だったのでしょうねえ」
「君はどうしてここへ」
「里山散策です」
「じゃ、行きたくなったでしょ。あの繁みへ」
「立ち入り禁止でしょ」
「まあな」
「でも、興味はあります。建物跡はまだ残っているのでしょ」
「最後に入ったのは数年前。そのときは敷地跡だけが分かる程度」
「誰が住んでいたのしょう」
「別荘だったようだ」
「じゃその土地は」
「何処かの会社のものだろう。寮のようなものかもしれない。放置しているだけ」
「分かりました。行ってみます」
「しかし、あの人物が出るかもしれないので、気をつけてな」
「不審者ですね」
「数年前、見に行ったときは出かかった」
「何が」
「だから、その人物がだよ」
「でも、数年前にも目撃されたんじゃありませんか。三十年前じゃなく」
「いや、出なかったように思うし、出ていたのかもしれないとも思う」
「はあ」
「微妙じゃ」
「そうですねえ」
 この話そのものが微妙だ。
 
   了



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2020年11月03日

3922話 忘れがたき思い


「寒くなってきましたなあ」
「秋も深まり冬へと至る」
「至りますか」
「至ります」
「そういう話、去年もやってましたねえ」
「忘れました」
「あ、そう」
「風がきついので寒い」
「忘れないようようなこと、ありますか」
「よく忘れます」
「いえ、そうじゃなく、晩秋の日の忘れることのないような思い出とか」
「少し待って下さい」
「忘れましたか」
「あるにはあるが、忘れるようなことがないような思い出ではないようです」
「思い出したのを、言って下さい」
「そんなの聞きたいですか」
「はい」
「一人で淋しく紅葉狩りへ行き、高い湯豆腐を食べた。私は忘れない。あの高さを」
「もういいです」
「食い物の恨みは百年残る」
「そうですか」
「家で作れば百円かからん」
「観光地でしょ」
「そうだ」
「飲み屋の湯豆腐なんて安いですよ」
「それじゃ風情がない」
「じゃ、いい場所で、いい雰囲気の店で食べたのですね」
「まあ、そうだが」
「ああいうのは接待とがいいですよ。個人的に自腹を切って食べるようなものじゃありません。切腹じゃないですけど」
「冷えてきたので、温かい湯豆腐が食べたくなったんだ。それで湯豆腐と書かれた看板が表に出ていたので、その通りを進んだ。細い道だ。奥に家がある。そこまで入り込んだので、引き返すのも何だし、まだそのときはそんなに高い湯豆腐だと思っていなかった。簡単な板に貼り付けた湯豆腐と書かれた文字だけの看板。後で考えると、貼り紙だ。ただ、暗くなってからでも見えるようにLEDランプが仕込まれていた。あれは電池式なので、交換が大変だろう」
「もういいです」
「君はあるか? 忘れがたきこと、この晩秋」
「秋刀魚を全部食べる人がいましてねえ」
「骨もかね。猫だろ」
「人です」
「しかし骨は残すだろ」
「確かに残しましたが、本当に骨だけ」
「じゃ、全部食べたわけじゃない」
「普通、そこまで食べませんよ。綺麗に」
「たまに、そういう人もいるんだ」
「その、たまの人だったようです」
「何処で」
「飲み屋です」
「あ、そう」
「しかし、晩春の忘れがたき思い出を聞きたかったのですがね。もう少し、それらしい」
「私は忘れないと、遠い目をして話すような内容かね」
「そうです。できれば湯豆腐やサンマじゃなく、少しもの悲しいような」
「あっても君には話さないよ」
「そうですねえ。私も同感です。魚にされたくない」
「そういうことだ」
 
   了





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2020年11月02日

3921話 夜の訪問者


 寝る前は元気なときと変わらなかったのだが、夜中に目を覚め、トイレに立ち、戻ってきて蒲団に入ると眠れない。いつもなら、すぐに落ちるのだが、なかなか落ちない。それに病んでいるときのように苦しい。
 また来たか、と田宮は困った顔をする。このとき、決まって眉間に皺を寄せるのだが、顔の筋肉を使うので、少し周囲が引きつる。
 夜の訪問者がまた来ているようだ。
 困ったものだと田宮は思いながら、無視して精神統一を試みた。これは大きく息をするだけのこと。これだけでも効くこともあるが、やはりすぐには寝付けない。
 少しの間、相手になってやれば、訪問者は納得し、去って行くのだが、時間がかかる。
 それで去るまで、じっとしていた。
 相手にされないことを知った訪問者は諦めたようで、去って行った。だからかまう必要はないのだ。
 そして朝まで眠れたのだが、起きると喉が渇く。唇が乾燥している。秋が深まり湿気よりも乾燥の方が高くなったためだろう。
 風邪を引いたときに出る症状に似ているが、喉も鼻も問題はない。額に手をやるが、熱はない。
 そして一日を始めたのだが、体調が良くない。あの訪問者の置き土産だろうか。やはり相手になってやればよかったと田宮は後悔する。
 だが、相手になると、毎晩訪れるようになる。訪問者は琵琶法師のように、音曲入りで語り出す。それを聞いてやれば済むことだが、起きたまま夢を見ているようなことになる。寝ていないのだ。
 琵琶法師の語りの中味は起きるとほとんど忘れている。夢と同じで、目覚めた瞬間は覚えているのだが、すぐに溶けて消えてしまう。たまに長く溶けないままの夢もあるが、それは夢を思い出したことを覚えているためだろう。夢を覚えているのではない。思い出した夢のことを思い出しているのだ。
 田宮は午前中、調子が悪かったが、午後からは戻った。特によくもなく悪くもない体調だが、風邪の引き始めなら用心しないといけないと思い、静かにしていた。
 
   了




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2020年11月01日

3920話 心がけ帳


 作田は心がけ帳を作っている。そういう帳面や手帳やファイルを持っているわけではなく、これは心がけなのだから、一番アクセスの早い心の中に持っている。実際には頭の中に心がけ帳があるのだが、心が何処にあるのかというと、これはまた難しい。どうも脳みその中だけにあるとは限らない。
 物事を判断するとき、心がけ帳が参考になるが、ワンクッションある。心がけ帳を繰る必要がある。しかし、とっさの場合、心がけていない動きや判断をしてしまうもの。
 作田の心がけ帳にはいい心がけが一杯書き込まれている。一冊の本になるほど多い。
 そのため、心がけだらけ。それでは窮屈なのだが、心がけを怠ると、良くないことも起こる。そうならないための心がけなので、心がけ帳に従う方が無難。これは知恵だが、知恵も多すぎると、どの知恵を使えばいいのか、そのことを判断する知恵がまた必要になる。
「作田君」
「はい」
「君はわざとらしいんだ」
 確かに作田の心がけ帳は技だ。それが過ぎるのだろう。
「啓蒙書を読みすぎたんじゃないのか。何か作田君の最初の頃の素が消えている。今は仮面を何枚も被り代えているような感じでね。それがわざとらしいんだ」
「啓蒙書は一冊も読んでません。全て経験から得たことを活かした心がけです」
「別に仕事に支障はないんだが、気になってねえ。どんどん君が掴み所のない人間に見えてきてねえ」
「そうならないように心がけます」
「ほら、それが本心とは思えないんだよ」
「本心心がけます」
「まあ、いいけど、自分で自分を操る操り人形のようでぎこちないんだ。不自然なんだ。それでイラッとするんだ」
「苛立たせないように心がけます」
「作田君」
「はい」
「君はいったい何処にいるんだ」
「ここにいますが」
「それは分かっているんだけどね。まあいい」
 つまり作田は心がけだけで、かけているだけ。身についていない。身に付けておればいちいち心がけ帳を繰る必要はない。
 その後、作田は上司に言われたわけではないが、心がけ帳を捨てた。簡単に捨てられるほど大したことではなく、それほど役立たなかったのだろう。
 心がけすぎた作田より、心がけの悪かった作田の方が分かりやすいのか、周囲はほっとした。
 
   了




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2020年10月31日

3919話 巨木のある庭


 気候がいいのか、秋の寒さはなく、陽射しでぽかぽかと暖かい。高気圧に覆われ日本晴れ。
 吉村は天気の良さに引っ張られ、また押されて散策に出た。散策先を散策しないといけないのだが、とりあえず家を出た。家にいるのがもったいないような日和。部屋の中より外の方が暖かいので、これも理由だろう。
 引っ越してから僅かしか経たないので、近所がどうなっているのか、まだ把握していない。大凡のことは分かっている。丘陵を背にした住宅地。以前は全部田畑だったらしい。そのため古い家などはほとんどないが、村はずれに建つ農家だろうか、そういうのがポツンと残っている。数軒ある。これが村の本体ではなく、本体は町になっている。
 村時代は村はずれの田んぼ。何故、そんなところに数戸だけ建っていたのか分からない。
 吉村が引っ越して最初目にしたのは大木。それが旧農家の庭に生えていたのだが、三階建てぐらいしかない住宅地なので、その大木は目立つ。
 大木の周囲はこんもりとした繁みがある。いずれも旧農家の庭木だろう。しかし、神社ほどの規模がある。それで、土地の神様に挨拶するつもりで、行ったが、ただの民家。当然木の下まで近付けない。
 そのことを吉村は思い出し、その大木へと向かった。これで散策ネタを散策しないで済む。目的ができた。
 歩いて僅かな距離だが、遠くから見えていた大木も、近付くと住宅の屋根が遮り、よく見えなくなる。また、複数の業者が適当に分譲した新興住宅地なので、行き止まりが多い。それで、すっかり迷ってしまったのだが、家の隙間からちらっと大木の一部が見えるので、それを頼りに舵を取った。
 村の中心部から外れたところに、何故家を建てたのだろう。
 これが謎だったが、村はずれのため、田んぼが遠いので通うのが面倒なためだと、後で分かった。
 この謎が解ける前の話なので謎を含んだままの散策を楽しんだことになる。そうでないと、散策にならない。分かっているのなら、謎を探す必要はない。
 前回来たときと違い、大木のある屋敷の門が開いていた。まるで武家屋敷のような門だが、その門ではなく、勝手口の門。大きな門は行事でもない限り開けないのだろう。
 勝手口なので勝手に入ってもいいような気がしたが、やはり声をかけるべきだ。しかし用事がない。門が開いているお寺なら、入ってもよろしいと言っているようなものだが、ここは普通の人が住む民家。ただ敷地は農村時代の規模があり、このあたりの一戸建てなど太刀打ちできない広さ。
 吉村は、そっと中に入り込んだのだが、ここで声をかけられたときの返答は大木を見たいから、というのを用意した。これが用事だ。
 庭といっても広場に近いほど広い。ここで農作物を乾燥させたりするのだろうか。だから普通の家の庭とは違う。
 母屋の横っ腹を横切らないと大木のあるところへ行けない。
 母屋は古いものではないが、農家時代の形をしている。硝子戸が横腹に張り付いたように並んでいる。何枚あるのか、まるで旅館並み。硝子が反射して、中の様子は見えない。
 その横腹を半分ほど通過したあたりで、声がかかるのではないかと思ったが、見付からなかった。これでは空き巣だ。断りなしに人の家の敷地内に入り込んでいるのだから。
 そして木戸があり、それも開いている。その中は普通の庭。よくある家庭の庭。その奥に大木や、その家来のような樹木が生い茂っている。
 神社の神木並みの太さと高さがある。それが一般民家の庭にあるのだから、巨大すぎる庭木だ。
 それを見たので、田村は目的を果たしたため、さっさと出ていった。
 当然保存木として、指定されているようで、その立て札も確認している。
 
   了



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2020年10月30日

3918話 幽霊屋敷の月参り


 幽霊屋敷に住む富田氏へ妖怪博士は月に一度ほど訪問する。そういう依頼だ。お得意様。定期点検のようなものでもあり、供養のための月参りのようでもある。しかし、何かが出るわけではないし、供養するような対象もない。
 富田氏は温和な老紳士で、既にさる省庁を退職し、一人暮らしを続けている。そのために買ったのが幽霊屋敷。当然表立ってではなく、裏情報。
 それを知ったとき、富田氏は即買うことにした。これで退職後、退屈しないだろうと。
 温和な人にしては、変な趣味がある。しかし、その癖も温和なもので、大人しいものだ。
 ところが富田氏が幽霊屋敷を買ってから幽霊が出なくなった。前にいた人はそれで売ったのだが、その人に付いていた幽霊かもしれない。だが、さらにその前の人も幽霊らしきものを見ているし、家そのものが妙な雰囲気で、不気味なので売っている。さらにその前の人も。いずれも不動産屋だけが知っている話。
 富田氏はさる省庁にいたので、知り得たらしい。
「ところが出ないのですよ」
「それはなにより」
「毎月来てもらっているのに申し訳ない」
「いえいえ」
 富田氏が妖怪博士を知ったのも、さる省庁からだ。そういう人がいるらしいと聞いた。妖怪博士も有名になったものだが、いずれも公には出ない。密かなる存在で、ややこしい怪異があれば、その方面に強い人として、マークされていた。
 妖怪博士がお茶を飲み、クッキーをかじっている応接間は天井が高く、窓も細いが高い。中二階と三階がある洋館だが、和室もある。幽霊は中二階をねぐらにしているらしいのだが、天井が低いだけ。妖怪博士は一応そういうのを初期段階で一応調べたが、出そうな雰囲気はあるが、それらしき痕跡はない。まあ、幽霊が痕跡を残すものかどうかは分からないが。
 ただ、富田氏はそれを幽霊だとは思っていない。不動産屋は幽霊屋敷としているが、妖怪屋敷ではないかと思っている。
 ただ、その怪はまだ体験していない。
「モミジはまだ青いですが、徐々に色が落ちてきております。赤みが差す頃は晩秋」
 富田氏はそう言う話ばかりし、幽霊とか妖怪の話はしない。ネタがないのだろう。何も起こらないのだから。
「紅葉狩りに行かれるのですか」
「いや、この窓から見ることができますし、それに足腰も弱り、歩きたくないのです」
「そうですか。でも、そぞろ歩きもいいものですよ」
「そうですねえ。久しぶりに紅葉を見に行くのも好ましい。博士はどうですか」
「私も出不精で」
「それなのに、毎月出てきてもらって恐縮です。一つぐらい怖い体験があればいいのですが、あいにく、なし」
「その方がよろしいかと」
「そうですなあ。しかし、幽霊屋敷と言われていますが、嘘ですねえ。何も出ない」
「期待されておられるのですかな」
「いや、実際に妙なものや怪異があると困るのですが、いつ起こるか分からないところがいいのです」
「ああなるほど」
 お茶を飲み、クッキーを数枚かじり終えた頃、妖怪博士の月参りは終わる。
 お土産に海外からの土産物だという別のクッキーを頂戴した。当然、月参りのお布施も。
 実にいいお客さんだ。
 妖怪博士の今夜の夕食は豪華だった。
 
   了


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2020年10月29日

3917話 午後の航海


 午前中に用を済ませたので、午後からはやることがない。吉岡は最近そんな生活をしている。
 そのため、午後からは暇。昼を食べてから次に何かをするとすれば夕食を作ること。それまで間がある。今から用意するのもいいのだが、それほど重要なことではない。ご飯が切れていても、夕食の準備のときに炊けばいいだろう。
 しかし電気釜はカラだが洗わないとご飯粒がくっついている。それだけでも洗っておけばいいのだが、そこまでする必要はない。さらにもう炊いて、保温にしておけば、夕食前にご飯を炊く手間が省ける。
 おかずを買ったり、作ったりして、さあ、食べようとしたとき、吉岡はご飯がないのに気付くことがある。電気釜だとおよそ一時間ほどかかる。早炊きもあるが、それはしたくない。すると一時間おあずけになる。待たないといけない。レンジで温めたおかずや、煮物や焼き物や炒め物も冷めてしまう。冷蔵庫から出してきたものも、入れ直すことになる。吉岡はそれを考えると、今から炊いておいた方が無難。
 しかし昼を食べたあとなので、もう食欲は消えているので、ご飯には興味がない。終わったのだから。
 そして昼ご飯が終われば、用はないが、吉岡は少し外に出る。そのへんをウロウロするのが日課。そのときスーパーなどに寄ることもあるし、切手を買うこともある。細かい話だ。
 だから午後からは用はないが、買い物とかがある。しかし、おかずがあるときは、別に買わなくてもいいし、切手も午前中の用事のとき、買えばいい。
 吉岡の午後は自由時間。いいことだ。時間だけは十分ある。しかも毎日。午後は好きなことをして過ごしてもいい。
 やるべきことは午前中に済んでいる。だから安心して遊んでもいいのだが、毎日だとネタがなくなる。また、いつでも行けると思うと、行きたいところがあってもなかなか実行しない。それほど行きたくはないのだろう。ネタと言えばネタだが、大したネタではない。行かなくても困らない。
 それで最近は昼食後、散歩から戻ってきたあと昼寝をするようになった。夕方まで寝るわけではないが、ここで一度落ちると、起きたとき新鮮なため。まるで二度朝を迎えるような。
 さて、今日はどうするか、と吉岡は考えた。まさか本気で夕食のご飯を炊くわけではない。その手もあるという程度で、ここで昼寝をするか、散歩から戻ってから寝るかを考えた。
 食べたあとは眠い。だから寝やすい。しかし、散歩から戻ってきたときは疲れてはいるがもう眠くはない。それに遅い時間に昼寝をすると、夜更かしになる可能性が高い。寝るのなら今なのだ。
 しかし、最近は寝ないで、吉岡は散歩に出ている。こちらの方が日課になっており、昼食後、すぐに寝るのは例外となってしまった。それは何故だろうかと考えたが分からない。
 今日は食べたあと、横になりたくなった。そして、そのまま少しだけ寝る。決して長くは眠れない。うとうと程度の日もある。
 だから寝やすいので、食後すぐの昼寝が有利なはずなのだが、散歩に出る。これは何故か分からないが、秋も深まり、日も短くなったことに関係しているようだ。昼寝後の散歩はすぐに暗くなる。
 いずれにしても日常の些事。好きなようにすればいい。大した違いはないし、ほとんど影響はないだろう。
 吉岡はそんなことを思いながら、眠くなってきたので、横になった。散歩に出るはずなのだが、眠気の方が勝った。
 たまにはそういう例外の日もあるようだ。
 
   了

 

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2020年10月28日

3916話 古きへ


「古に戻りしもまた新に向かう」
「何ですかそれは」
「戻った新は果たして新か、それとも古か」
「さあ」
「新から古へ行った。そのとき新は私からみれは過去。そして古から再び新へ向かうのだが、これは以前にいた場所なので、過去だ。だから古。すると、古から古へと向かう」
「よく分かりません」
「新しさを捨て、古さに戻る。そして再び新しきことに、また戻る」
「それは過去へ戻るのではなく、今に戻るわけですから、過去じゃりませんよ」
「しかし、私の目から見れば一度通過した過去なのだ」
「じゃ、新しいのに過去なんですか」
「一度体験した新しさなのでな。それをしばらく捨てて、古いものに戻っていた」
「それは何か役に立つお話しですか」
「いや、立たない」
「はい」
「そんなことを思い付いただけ。一寸今を離れ、古いところにいたのでな。そして舞い戻った今は以前いた今なので、これは昔のことのように思えた」
「役に立たない話でしょ」
「立たないが、舞い戻った今が古く感じられる」
「じゃ、新しい場所は何処なのです」
「直前までいた古き場所だ」
「でもそこは最初から古いのでしょ」
「古いが、私の最前線。私にとってはそこが今だった」
「今は刻一刻変わりますので、少し古い今に戻っただけでしょ。その今の続きをやれば、真新しい今の先端に出られますよ」
「そうだな。しかし、それが今一つ思わしくないので、古きへ行っていた。こちらの方がいいのでな」
「じゃ、その古きにずっといればいいじゃありませんか」
「その古きは徐々に新しいとこへと向かっておる。それなら先回りして、今に戻った方が早い」
「ややこしいですねえ」
「それで考えた」
「今度は役に立つ話ですか」
「少しは立つ」
「続けて下さい」
「行ったり来たりすればいい」
「立ちません」
「駄目か」
「分かりにくい話なので、それを今度僕が人に伝えるとき、苦労します。それによく理解できていませんし」
「あ、そう。でもこれはただの気分の問題で、実際に新旧をウロウロしているわけではない。気の持ち方程度」
「それじゃ弱いです」
「あ、そう」
「もっとたくましく、斬新で、未来が開けるようなお話しでないと」
「その発想が疲れるので、私は古へと戻っていたんだがね」
「しかし、何処にいても、今は今でしょ」
「そうだね」
 
   了




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2020年10月27日

3915話 家の怪


「玄関を開けるとき、中で何かいるような気がするのです。物音が聞こえます。それで、開けると、物音が消えます。何かややこしいものがいるのでしょうか。古い家ですが、もう長く住んでいます。家の中にいるときは、そんな物音はしません。私がいないときに出てきて騒いだり、暴れたり、走り回ったりしているのでしょうか」
 妖怪博士は静かに聴いている。
「これは妖怪の仕業ではないかと思いまして、先生のご意見をお聞きしたいと」
「何かいるのでしょう」
「それは何でしょう」
「何かじゃな」
「それは妖怪の類いでしょうか」
「家の怪というのがありましてな、家そのものが妖怪のようなもので、その中に妖怪がいるわけじゃありません」
「家の怪」
「古いのでしょ」
「はい、かなり」
「古くなると物も化けます。物怪です」
「家も古くなると化けますか」
「幽霊屋敷とは違います。何かがいて、それが何かをしているわけじゃありません」
「じゃ」
「家そのものがやっているのです」
「やっている」
「物音を立てたり、あなたが体験したようなことが発生したりするようですよ」
「私がいるときは、そんな音や家鳴りもしませんが」
「さあ、詳しい仕組みは分かりませんが、留守中、何かいた気配がある程度でしょ」
「はい、私が入るとピタリと止まります」
「それは善良でいい」
「善良」
「たちがいい」
「そうなんですか」
「悪いことをしているという自覚があるので、静まるのでしょう。あなたに迷惑をかけないように、遠慮しているのです。だから善良です」
「じゃ、気にしなくてもいいのですね」
「妖精かもしれませんからな」
「妖精」
「これは無邪気なものです。しかし、人と接するのを嫌います」
「監視カメラを仕掛けて調べるというのはどうでしょう」
「おそらく写っていないと思いますよ」
「見えないものですか」
「妖精は見えません」
「家の中に妖精がいるのですか。じゃ、妖精の仕業ですね。家の仕業ではなく」
「いや、家から妖精が出てくるのです。妖精が家に入り込んだのではなく、家から妖精が滲み出るのです。その妖精も実は家の一部なのです」
「妖精なら悪くないです。妖怪なら気持ちが悪いですが。で、どんな姿の妖精でしょう」
「だから、妖精は見えませんので、形も分かりません」
「私はトンボのようなのを想像します」
「私はシロアリですが」
「それを聞いて、安心しました。悪いものじゃなく、善良なものだと聞いて」
「はい、お大事に」
 相談者は、出ていった。
 魔除けとか妖怪封じの御札とかは必要ではなかった。
 妖怪博士の夕食は、淋しいものになった。
 
   了



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2020年10月26日

3914話 芳田山縁起


 芳田山というのがある。平地にいきなりできた山。盛り土にしては広すぎるし、また高すぎる。近くの山からはかなり離れているので、その繋がりがないようだ。しかし、山から根でも出ているのだろう。いきなり小山がポツンとあるのはおかしいが、似たような山もある。かなり離れた場所だが、平地にいきなり山がある。かなり高いし広い。地名に島が付いている。もしここが海なら、確かに島だ。
 芳田山の麓に神社がある。鬼供養で有名で、山から鬼が下りてくるイベントがある。しかし低い山で、山らしいのは山頂程度。
 奥山からの鬼ではなく、すぐそこから降りてくる。山頂にワープポイントでもあるのかもしれない。当然、この山の上空に空飛ぶ円盤がかかることがあり、目撃例が多い。いずれも芳田山の真上に光るものが写っている。
 周辺は昔からあるような家が多い。建売住宅が山の斜面を這い上がるようなことはないが、麓の一部はそうなっているが、石の階段があり、いい感じだ。
 その住宅ができる前は神人の長屋や宿舎が軒を連ねていたらしい。敷地はそのままなので、その頃の階段や石垣などが残っている。神人とは神職と言うより、僧兵のようなもの。
 麓の芳田神社に神人がいたようだが、今は当然、そんな人達はいない。
 芳田山へは自由に上り下りできるので、近くの人が犬の散歩などで、よく来ている。しかし、山頂まで上る人は希、犬の散歩コースとしては遠すぎる。
 山頂は自然のままの放置状態なので、原生林に近いが、高い木は少ない。
 その木の幹の股に鳥の巣のようなものがある。近付くと、結構大きい。巨鳥の巣のようだが、人が巣ごもりしている。修行の一環だ。ここで籠もる。お籠もり堂のようなもの。
 近所の散歩人が山頂まで行かないのは、そのためだ。ややこしい人がいるため。
 市街地にある一寸した秘境。
 芳田山神社の由来では、芳田山は鬼山だったらしい。鬼の住む山。しかし、人里から近すぎる。そしてそこの鬼は弱かったらしく、何度も退治されている。鬼の虐殺だ。それで祟りがあると信じられ、鬼供養が始まった。芳田神社が建てられたのはそのときだ。
 吉田神社の紋章は瓦などにも使われている。桃だ。
 非常に分かりやすい。
 
   了


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2020年10月25日

3913話 谷底の町


 細い道から抜け出すとバス道がある。しかしそれほど広い道ではなく、市バスが信号待ちしている。その横腹が見える。石田は道を渡り、バスの後ろに付こうとした。バスの真後ろまで来たのだが、左側に自転車が通れるだけのスペースがある。それを考えてバスは信号待ちをしていたのだろうか。
 信号はまだ変わらないのか、バスは動かない。石田はバスをすり抜け、前に出たが赤のまま。いつもは信号を渡るのだが、左へと曲がった。待つのが嫌なため。別に目的はないので、真っ直ぐ行ってもいいし、そちらの方が慣れたコースなのでいいのだが、自転車を止めたくない。そのまま走り続けたいので、曲がった。そちらの道も広くはない。
 そこが分岐点だった。それは至る所にあるのだが、その日はそれで変化した。真っ直ぐ行くよりも早く戻れる。既によく走ったので、疲れていたこともある。それと秋が深まり、寒いはずだがよく晴れており、暑いほど。この暑さが疲れの原因かもしれない。
 左に入ったまま進むと路面には何もない。だからあのバスは誰も通過しないところで信号待ちしていたのだろう。
 真っ直ぐ進むとネットがある。野球のボールなどが外に出ないように。その学校の運動場が左側に見えてきた。以前、木造の市民病院があった敷地。かなり前に移転した。
 そこを通るのは久しぶりで、さらに進むと道は狭くなる。
 そしてさらに狭い道と交差している。坂道だ。下るようだ。住宅地の奥へと下っているが、車はすれ違えないだろう。だから一方通行のはず。
 家の敷地に合わせたような小道で、じぐざぐに下っている。ここを自転車で登るのは大変だろう。下り坂なので楽そうなので入り込んだようなもの。
 小道はさらに狭くなり、カーブどころか直角に曲がっている。それでも直進は直進。そして小道ではなく、路地に近くなる。しかし、左右に枝道はない。玄関口や門はあるが。
 あのとき、バスと一緒に信号を渡っていれば田畑の拡がる場所に出る。そこに果樹園もあり、柑橘類を遊びで植えていたりして、結構いい風景が続いていた。しかし、そのコースはよく行くので、パスしたのだが、住宅地の底に入り込むとは思わなかった。
 大きい目の屋敷といってもいいような家もあり、苔むした塀もあり、これはこれで風景としてはいい感じだ。
 下り坂はまだ続いている。表の大きな道、先ほどのバス道も、そちらへ行くとき、坂を下るのだが、少し長いような気がする。
 そこは普通の住宅地。人が住んでいる。数メートル先の窓の向こうに普通の人が普通に暮らしているはず。
 暑かったはずなのに、底冷えがしてきた。まるで渓谷へ降りたような。渓流はないが、その路地が川だろう。
 さらに坂が続くどころか急坂になっている。石田はブレーキレバーを握りっぱなしで、たまに足を着ける。ガクガクとした曲がり角が多いので、そのままでは曲がれない。
 こんなところに谷などない。一寸した丘を下り、平地に出るだけなのに、まだ下り坂。さらに勾配がきつくなり。もう自転車から降りないと、危なくなる。
 周囲は普通の家。人が住んでいるはず。
 そして道はさらに細くなり、ハンドル幅ギリギリ。
 そこを下りきると、一寸した空間があった。中庭のようだが、擂り鉢の底だ。
 降りてみると、道が二つほどある。いずれも坂道で細い。
 ここがどうやら坂の終わりのようで、底を突いた感じで、もうそれ以上の下りはない。
 石田は二つの道を覗き込んだ。同じような細さ。勾配も似ている。
 その一方から音がし、ガシャガシャと降りてきた自転車がある。
 石田と同じような年格好だが、もの凄く細いタイヤのスポーツ車に乗っている。
「ここは何処ですか」
 石田が聞きたいところだ。
「さあ」
 しかし、仲間ができたので、少し安堵した。
「そこの家の人に聞きましょう。脱出方法を」
「どういうことですか」石田が聞く。
「勾配がきつすぎて登れないのです」
 しかし周囲は家で囲まれている。普通の人が普通の暮らしを、ここでやっているはず。
 しかし、聞く相手がいない。
「駄目です。誰もいません」
「これだけ家があるじゃないですか」
「呼んでも出てきません」
 石田は一寸した刺激が欲しいので、自転車でウロウロしていたのだが、これは少し刺激が大きかったようだ。
 
   了
 

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2020年10月24日

3912話 分かっているだろうね


 ビジネスランチのトンカツの油が古いのか、胸焼けする。芯ばかりの真っ白な刻みキャベツを食べるが治らない。桜漬けもあったので、それも摘まむ。ここは酸っぱいものが欲しいところ。
 富田は水をがぶ飲みし、カウンター席を立った。狭いので、横の客に触れた。
 これを食べるだけのことでビジネス街に来たのだが、そこは繁華街と接しており、平日の昼間から遊んでいる人もいる。偶然休みの日なのかもしれない。
 富田が次ぎに行くのはガード下の二階にある喫茶店。隠れ家だ。分かりにくいところにあり、入りにくそうな店で、中が見えない。
 しかし富田はよく行っていた店なので、問題はない。
 昼を食べ、ここで休憩する。それが日課になっていた頃がある。その頃を再現させるため、わざわざそれだけが目的で出てきている。他にネタがなかったのだろう。
 店内は以前のままで、その後、改装していないためか、見覚えのある内装。馬車の車輪だろうか、それが相変わらず階段にあり、回す人が必ずいる。
 大きなツルッとした人形の置物があり、その子供が笑っている。ずっと笑っている。その笑い方は異国の人の口元。鳥のように見えたりする。
 コーヒーも以前と同じで水っぽい。薄いのだろう。氷がやけに多いアイスコーヒー。
 本来なら、ここで一服し、社に戻る。その時間に合わせて来ている。昼にしか入らなかった店のためだ。別の時間に来ると雰囲気が違うだろう。
「分かっているだろうね」
 という声が聞こえる。二つ向こうのテーブル。壁際の隅。そのコーナーに追い詰められたような青年が下を見て聞いている。
「はい、分かっています」
 青年が答える。
「それが分かっていればいい。念を押す必要もないことだが、そうなっているんだ。説明はしないが、そのようにしてくれ」
「分かりました」
「理解が早い」
「はい」
 何の話かは知らないが、色々事情や関係が頭に浮かぶ。富田も上司に似たようなことを言われたことがある。言い方だけで、中味は違うだろうが、似たようなパターン。
 富田が会社を辞めたのは「分かりません」と答えたから。その後、反応がおかしくなり、上司や同僚が間を置くようになる。それで孤立し、何となくいてはいけない空気を感じ、そこから出た。もう昔のこと。今も似たようなことをやっているのだろう。
 嫌なことを思いだしたと思いながらも、その思いなどとっくの昔に忘れている。もう思うようなこともない。
 油っこいビジネスランチを食べ、胸焼けし、喫茶店で休憩する。これをまたやりたかった。
 
   了


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2020年10月23日

3911話 小松崎大画伯の日常

小松崎大画伯の日常
 雨はやんだが曇っている。ひんやりとし、肌寒い。秋中頃の雨だが降っているときよりもやんでからの方が寒い。
 一雨ごとに寒くなり、やがて晩秋へと至るのだろうが、その先は冬が待っている。それを超えると春。その繰り返しを小松崎は何十年も繰り返しているが、意識していない時代の方が多い。
 肌寒いのでコートの下に毛糸のセーターでも着込んで出ればよかったのだが、まだ今からそんな服装ではと思い、着てこなかった。これが後々重大な結末をもたらせる、ということもないだろう。寒いといってもしれている。それに薄着ではない。この程度では風邪を引かないだろう。ただ、一寸肌寒いだけ。
 もし一枚、暖かいものを下に着ておれば、寒いとは感じなかったかもしれない。
 用事は駅前にあり、そこで人と会う。仕事だ。その仕事のことよりも、暑い寒いの問題が先に来てしまう。
 駅に着くと若い人が待っていた。スーツ姿。上にコートを羽織るにはまだ早い。チョッキも着けていない。白いカッターシャツの襟元が寒そうだ。しかし見渡すと、そういう人の方が多い。だから毛糸のセーターを下に着込んで厚手のコートを着るなど早すぎる。下に着込まなくてよかった、と、その若い人と出会って真っ先に思ったのはそのこと。仕事のことではない。
 駅前はドーナツ化現象で、色々な店があったのだが、シャッター通り。普通の喫茶店は既になくなってから久しいので、ドーナツ屋の二階に上がる。それが食べたいのではない。
 階段を上がるとき、足が重い。運動不足と足の重さの因果関係を調べたが、体調の方が影響力が大きい。これは小松崎の主観でそう感じている程度。
 仕事の話は、すぐに済む。初対面の若い人は大人しい人で、用件だけを小さな声で伝えていたが、よく聞き取れない箇所もある。ただ、おそらく大体こんなことを言っていたのだろうと考え、聞き返さなかった。
 若い人は早く出たいのか、さっと飲み物を飲みきり、さあというような眼をした。さあ出ましょうというような。
 小松崎は無駄話を少しだけしたかったのだが、付き合ってくれないようだ。若い人の方が小松崎よりも忙しいのだろう。
 そして駅前で別れた。
 小松崎はシャッター通りの商店街の奥へと向かった。衣料品店がまだ営業しているはずで、そこで毛糸のセーターを買うつもり。ただしアクリルではなく、本物の毛糸。ただ、アクリル五十パーセントぐらいなら寛容範囲で、買うかどうかの判断が難しい。ただ、そちらの方が安いだろう。
 しかし毛糸のセーターなどなく、ポリエステルのセーターばかりだった。
 
   了



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2020年10月22日

3910話 頭の散歩


 芝垣は高み、尖ったところ、最先端を狙っていたが、それにも飽きてきた。それで低いところまで降りた。見晴らしは高みに比べ、それほどないので低みとは言わないが、結構いい場所だ。最先端からは外れているが、それだけに落ち着く。既に終わっている場所もある。それ以上何ともならないままとどのつまりをやっている。これはこれで落ち着ける。そこからは高みへは出られない枝なので。
 最初の頃は既成のもの、古いものと思い、さっと通過するか、無視するか、スルーしていたのだが、上から降りてくると、満更悪くはない。何かいい感じだ。昔はそこが最先端で新しかったのだろう。今はその強度が落ち、よくあるものとして残っているだけ。
 それがその後、どうなったのかは歴史を見れば分かる。ただ、その歴史は今の時点での判断で、その後、変わるかもしれない。古臭いものが復活し、最先端になる可能性もある。
 古さではなく、もう使われなくなったものもある。流行らないためだろう。今と合わないので。だからそのものが悪いのではない。
 芝垣はそういうものに興味を持ちだした。これは趣向を変えたり、目先を変えるだけのことなのだが、その余裕ができたのは、高みから降りてきたため。その第一印象は最先端に比べ、楽。安らぎさえ覚える。
 最先端を目指さなければ、こんなに豊かな世界が拡がっている。しかし、今の時代でもまだ通用するが、使い古されたもので、飽きられたのだろう。しかし当時はもてはやされていたに違いない。
 芝垣は目新しさを求めていたのだが、目古さに目覚めた。それで眼まで古くなり、古目になったわけではない。だが、古目とは何だろう。
 古いもの、もう終わったものはいくらでも転がっている。それらを組み立て直せば、新しいものができるのではないかというような発想ではない。それなら先端を目指すことになる。芝垣は新しいものに飽きたので、降りてきたのだから。
 そして、色々なものを見るようになった。先端へ行くための参考にならないものは無視していたが、その目的がなくなったので、いくらでも寄り道ができる。
 昔はこんなことがあった、あったという話がいくらでもある。あるにはあるが昔話。お伽噺のように聞こえるほど古い話で、今とは繋がっているが、遠すぎて、先祖だとは思えない距離。
 そして、そういうことを考えていると、これは一種の散歩ではないか。足で歩かないが。
 芝垣はそれを頭の散歩と名付けた。
 
   了
  



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2020年10月21日

3909話 エリートコース


 優秀な部下が加わった。大城は喜んだのだが、一度も使わない。評判も良い。実績もある。しかし、それはまだ未知で、これからさらに伸びるのか、そのままなのかも未知。
 小学生の頃、一番背が高く体重もあり、がっしりしていた子が中学になると縮んでしまい、背も中程の普通の体型になる。それに似ている。あるところで止まり、その後、追い越される。
 だが、その白木、エースとされ、誰もが期待している。それが大城の部下に加わったので、喜んだ。他の部下よりも垢抜けしており、見るからにできそう。
 しかし大城は白木をなかなか使おうとしない。切り札として温存しているわけでもなさそうで、どちらかというと避けている。もったいない話だ。
 大城が思うのは、その期待感の大きさ。これに麻痺した。やられた。
 蓋を開けるのが怖い。それで、誰にでもできる単純なことしか頼まなかった。
 白木にとってはたやすい仕事ばかりなので、楽といえば楽。
「何故白木君を使わないのだ。強い戦力になると思い、君に預けたんだよ」
「怖いのです」
「何が」
「白木君が」
「何かあったの」
「いえ、何もありませんが」
「じゃあ、どうして怖いんだ」
「期待していたものと違うかもしれないからです。実はもの凄く期待しているのですが、それだけ期待しすぎているのです。だから、怖いのです。使うのが」
「ほう」
「期待通りならいいのですが、違っていた場合、がっかりしますからね。それを見たくないのです」
「白木君の略歴を見ただろう。よくできる人間だ。だから将来は幹部になる。それまでの間、各課で遊んでもらう。これをエリートコースという」
「私は乗れませんでしたが」
「わしもじゃ」
「要するに、すぐに去る人なんでしょ」
「まあな」
「じゃ、カンフル注射です。漢方薬のような人が欲しいのです」
「それで使わないのかね」
「使いたいです。しかし、結果が怖い」
「妙なことを言うねえ」
 大城はその後も白木を使わなかった。そして次の人事異動のとき、さっと消えた。当然だ。
 もう部下ではなくなった白木と大城は二人だけになる機会ができた。
「どうして私を使わなかったのですか。おかげで楽でしたが」
「今の部署では、どうですか」
「同じです。使ってくれません」
「やはり」
「どうしてでしょうか」
「使いにくいからです」
「それは分かっていました」
「折角各課で色々な経験を積むいい機会でしょうが、逆ですねえ」
「はい、その通りです」
「あなたは優秀すぎるのです。だから使えない」
「やはり」
 さらに人事異動があり、白木は変わり者の課長の部下になり、大事な仕事を任された。
 ところが、散々な結果しか出せなかった。
 蓋を開けるとスカだったようなもの。
 どの課でも、遊んでいたため、鈍ったのだろう。
 
   了
 

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2020年10月20日

3908話 快感


 快さはいい。一度その快さを覚えると、またそれを体験したくなる。当然その逆もある。猫は一度不快を感じたところには二度と踏み込まないらしいが、猫にもよるだろう。野良猫はプロなので、それを知っている。それだけうろつく範囲が広いため、経験も多い。そして見知らぬ場所へも行くはずなので、注意が必要。
 だが、飼い猫も、かなり遠征し、遠いところまで出歩いていたりする。
 快不快の原則のようなものがあるようだが、不快だからといって、踏みとどまるわけにはいかないのが人間社会。嫌なことでもやらないといけない。
 古河は快感に走るタイプだが、それで普通だろう。本来はそのようにできている。しかし、いくら快感を得ることが分かっていても、リスクがあることも知っている。だから、目の前に餌があっても飛びつくわけにはいかない。猫や犬でさえ慣れない食べ物に対しては警戒する。すぐにはかぶりつかない。匂いを嗅ぎ、いけそうなら、まずは舐める程度。
 古川の求めている快楽は可愛いもので、たわいもないことばかり。それはリスクが小さいためだろう。大きな快楽ではなく、ささやかな快楽。お金を使うこともあるが、小遣い銭程度のもので、それを超えると考え込む。それだけの価値が、それにあるのかと。
 それで、かなり考え、しかも何度も考え直した上、やっと買うことに決め、注文した。
 それが届いたとき、もう、どうでもいいかと思ってしまう。快感を得られるものなのだが、それは想像で、実際は違っているかもしれない。
 期待の方が大きいわけではない。しかし、期待外れもあるので、期待をしないようにしていた。
 届いたものをなかなか開けようとせず、一日おいた。開けた瞬間が怖い。開けただけではまだ分からないが、判定が下るようなもの。
 そしてその翌日、もう早く済ませたいので、開けてみた。快感も結構疲れるのだ。だから早く済ませたい。
 結果は期待内で期待外れでもなく、期待を超えたものでもなかった。
 だから、狙い通りのものを手にしたので、少し喜んだだけ。しかし、快感を得たという気がしない。それは予定されていた快感。快感を得て当然というもの。要するに意外性がない。あたりまえのことをあたりまえに得ただけ。
 そこで支払った値段分の快感を味わうのが筋だが、大したことはなかったのだ。金額のわりには。
 予定された快感。これは予定通りでないといけない。そして予定通り、早く通過したいと思ったりする。早く済ませたいと。
 これには大したリスクはない。小遣いが減った程度で、それだけで済む。他に影響は与えない。だから安全な快楽。
 だが、読み通りの快楽では、何か刺激がない。意外性がない。驚きがない。
 旅行やイベントに行くとき、出発したときから、終えたあとのことを考えているようなもの。目の前に快感がすぐにあるのだが、不思議と早く済ませたいと願う。これは快感がしんどいためだろう。快感も結構疲れる。それに快感だけなので、大した意味はない。余計なことといえば余計なこと。旅行に行かなくても支障はない。
 嫌なことを早く済ませたいと願うのは普通だが、楽しいことを早く済ませたいと思う心境はどこから来ているのだろう。
 快は快を呼ぶ。そして何が快感なのかも、また曖昧。
 快は求めているときの方が快感だ。
 
   了



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2020年10月19日

3907話 低調


 高峯は調子が良い。お調子者ではない。久しぶりに体調がいい。久しいのだから、普段は体調が悪いのだろう。それがたまに良いときがある。これは気候による。晴れて気持ちのいい日だと、結構調子が良くなる。しかし雨がしとしと降り続く日も調子が良いときがあるので、一概には言えない。
 いい感じの調子なので、色々と積極的な働きかけがしたくなる。意欲も湧く。
 しかし、調子の良いときほど注意が必要。別に燥いだり、騒いだりするわけではないが。
 前回、調子の良かったとき、色々とやって失敗した。続かないのだ。それは調子が良いときに合わせたもので、調子が落ちると、もうできない。そして高峯の普段は調子が悪い。だからほとんどの日は調子が悪いので、何もできなくなる。
 そして調子が戻ったときにまたやり始めるのだが、もう醒めている。
 やはり調子の良いときにやったことは、ただのオチョウシノリのようなものに近いようで、ろくなことはない。ただ、その調子を維持できていれば、何とかものになったはず。
 普段は調子が悪いのだから、それに合わせたものがいい。今回はその学習ができているので、体調が良く、勢いがあっても無理をしないように、じっとしていた。
 調子の良いときほどじっと静かにしている。これは逆ではないか。
 しかし、ベースが低調なので、それに合わす方がいい。そして年々年とともに勢いも落ちており。低調寄りが好みになってきている。
 それならば、うんと低調なこと、もっと低いことがいいのではないかと考えた。体調が悪いときでもさらに楽にできるもの。これなら長続きするだろう。
 元気なときほど弱々しいことを考える。これもいい。元気の罠にかからないためにも。
 弱々しいが、弱っているわけではない。眠っているわけではない。
 そういうことを考えていたのだが、翌日冷え込んだ。急に気温が下がった。これで高峯の元気も沈み、当然体調にも来て、もう元気さから外れた。
 そのため、より低調なことへのチェンジはできなかった。これは元気なときに余裕でやるもので、低調なときは、現状維持だけで一杯一杯のためだろう。先のことなど考えなくなる。
 また、低調なとき、やけくそで、とんでもないことをしてしまう。それをやることで、刺激を受け、空元気が生まれるため。これも何度かやったので、もうその罠にはかからない。
 寒さで身を縮め、視界も狭く、動きも鈍化。
 別に悪いことではない、と高峯は思った。
 
   了

 


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2020年10月18日

3906話 妙なこと


 秋の穏やかな日々が続いているが、北沢は平穏ではない。何か妙なことが起こっているのだが、それがよく分からない。具体性はないが、感じる。
 感じるためには先立つものがいる。それがない。もしかして内部から来ているのではないかと、調べてみたが、確かに不安材料はあるものの、誰でもあるようなこと。また過去の何かから来ているのではないかと、思い出したのだが、これも去ったことなので、忘れていたり、時効になっていたりする。
 もうその不安感の賞味期限は切れている。
 内部からではないとすれば、外部から。しかし全てが内部ではないかと思うこともあるが、それを言い出すとややこしくなる。
 何かが起こっているのは確かだが、それが出来事として起きているのかどうかが分かりにくい。ただ、いつもと違う何かが動いているような気がする。中身は分からない。反応だけがある。それは北沢の反応。何かあるように感じるだけ。ここがかなり頼りない。少しでも、髪の毛一本でもいいので具体的な掴み所がないと、方向性さえ分からない。
 五臓六腑の疲れが出ているのかもしれない。これが夢の原因だという説もあるほど。しかし身体に問題はないはず。調べればどこか悪い箇所があるはずだが、勝手に治っていることも多い。
 平穏ではない不安感のようなもの、宙に浮いたような状態で、足が地に着かない。フワッとしている。まさか死んだわけではあるまい。幽体になってしまったなら、鞄も持てないだろう。
 穏やかではない乱れ。何かがざわついている。そして、それが不快といよりも、不安。その不安で身構える。だから落ち着かない。
 一体何が起こっているのだろう。
 目に見えない何か、正体が何か分からない。これは困ったものだ。
 秋晴れで外は気持ちがいい。もう暑さはない。日陰に入ると涼しいほど。ひんやりする。
 北沢は部屋にいても気が塞ぐばかりだし、息が詰まりそうなので、外に出ていた。近所を一寸散歩する程度。これだけでも気晴らしになる。一瞬、それから解放されるのだが、また出てくる。だが、具体性はない。
 北沢の計器が壊れているのかもしれない。
 過敏に反応するにしても、少しは具体性が欲しい。そうでないと手掛かりがない。どうすればいいのか、手の打ちようがない。
 それから二ヶ月後。
 北沢の調子が戻った。
 何が原因で起こり、何が原因で治ったのかも分からない。
 
   了

   


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2020年10月17日

3905話 窮鼠猫を噛まず


「もうそのへんにしておいた方がいい」
「はあ」
「もうほどほどに」
「やり過ぎですか」
「そうだな。もう一押しすると、窮鼠猫を噛む」
「その力は竹中家にはないと」
「小勢力だと思い、侮るべきではない。今なら竹中もわびを入れてくるだろう。このあたりで許してくれとな」
「あと一押しすれば、竹中の一部が取れます」
「山畑程度を取っても仕方があるまい」
「領土が増えます」
「そこを取りに行くと、竹中は別人になる。だから、もうこのへんでほどほどにしておきなさい」
「竹中は僅かな勢力、一気に」
「既に竹中領の一部は取っておる。欲張るでない」
「何がいったい駄目なのです」
「まあな」
「竹中領そのものも奪えますよ」
「竹中の兵は強い。それに戦になると、何をしてくるか分からん。これまでは戦わずして勝ってきた。竹中が手向かってこなかったのでな。これが不気味なのだ」
「今度は戦いになると」
「一線を越えることになるからな」
「竹中の何を恐れておられるのですか。わが方の兵力が多いので、恐れて逃げているだけじゃありませんか」
「戦っても負けるからだ」
「まあ、その方がこちらは楽ですが」
「竹中の領主は曲者」
「しかし、あの兵力では何ともならないでしょ」
「窮鼠猫を噛むと言ったであろう」
「どのように」
「我が家が亡びる。逆にな」
「そんな」
「だから、このへんで辞めておくのじゃ」
「竹中の何を恐れておられるのか」
「まあ、聞け」
「先ほどから聞いております」
「今なら勝ちいくさ。いくさは勝ちすぎるとろくなことはない」
「そうなんですか」
「引き時じゃ」
「はあ」
 しかし、この武将。その手勢だけで、再び竹中領に攻め込んだ。
 そして、竹中領を全て征服した。
 窮鼠、猫を噛まなかった。
 竹中一族は戦わずして、逃げたようだ。
 
   了




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