2020年05月20日

3756話 傷だらけの天使


「一寸傷があります」
「それはいけない」
「心の傷です」
「オロナイン軟膏を塗っても治らないか」
「はい」
「メンソレータムは」
「ヒリヒリして、余計に痛いです」
「塗ったのか」
「心の傷なので、塗る場所がないので、塗っていません」
「胸に塗ればいい」
「そうなんですか」
「心の傷。胸が痛いのだろ。すっきりするぞ」
「いえ、それでは根本的な治療になりません」
「治したいのか」
「はい、心の傷が影響し、それが足枷になります」
「あ、そう」
「でも、いいのです。これは私にかせられた鎖、一生引き摺っていくしかありません。それが定めです」
「それで、何をするとき、その心の傷が影響する」
「さあ、よく分かりませんが」
「あ、そう」
「でも、いいです」
「じゃ、言わなければいいのに」
「私の様子が普通じゃないでしょ」
「そうだったか」
「その理由を、少し説明しただけです」
「気付かなかったが」
「そうなんですか」
「一般的だし、常識的だし、特に問題はないが」
「そうですか」
「ああ」
「でも無理に普通にしているので、それが痛いのです」
「心が」
「そうです」
「心の古傷に障るのだな」
「そうです」
「苦しいか」
「少しだけ」
「少し痛いだけか」
「そうです」
「じゃ、普通じゃないか」
「そうなんですか」
「まあいい。その話、よく覚えておこう」
「はい」
「しかし、どんな古傷かな」
「それを言い出すと、もの凄く苦しくなり、言えません」
「内容は、語らないと」
「はい」
「分かった」
「有り難うとございます」
「君を見ているとねえ」
「はい」
「心が痛む」
「はい」
「僕の古傷がうずく」
「すみません」
「まあいい」
「有り難うございます」
「オロナインで治るから、まあいい」
「はい」
 
   了


posted by 川崎ゆきお at 10:47| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月19日

3755話 茶番劇


 強く物申していた重臣達が一人、また一人と消えた。その反対派との衝突のためだろう。当然対立する重臣達は交互に消えていった。残ったのは穏健派。その中でも物言わぬ重臣達。どっちつかずの人達だが、重臣としての地位は高くない。牛耳っていた人達とは違い、静かにしていた。
 しかし、その中にもできた人物がいる。敵がいないのは意見らしい意見を言わないためだろう。それに末席におり、高い地位ではない。
 それで上席で牛耳っていた重臣達が共倒れし、数が減ったので、穏健派が上がってきた。色々な評議があり、それに加わることになったため、決め事をしないといけない立場になる。重臣会議の中では末席だったが、上が消えたので、中程の席になる。上席にいるのは隠居のような人で、これは飾り物。ただ重臣というより重石のような存在。
「いよいよ上がってきましたなあ」
 その重石の竹中老が、穏健派筆頭の佐伯と雑談している。
「わしは見込みのある男だと以前から思っておった。そろそろかぶり物を取ってもいい時期じゃよ。ずっと猫を被っていたのじゃろ。五月蠅い連中はほぼ去った。今なら穏健派の天下じゃ。さて、どうする」
「いえいえ」
 しかし、この穏健派、何を考えているのかよく分からない。実際には過激だったりするのだが、普段からあまりものを言わないため、分からない。大概のことは決まったことに従い、反対しない。だが、胸の中では反対しているのだろう。何かを胸に秘めているのかもしれない。竹中老が佐伯はどうなのかと、聞いているのだ。もし何らかのことがあるのなら、協力してもいいと。
 だが、この竹中老が一番の曲者で、不動の地位にいる。彼こそが意見を言わない人で、意見のない人。だが、通らない意見は言わないだけかもしれない。それは穏健派筆頭の佐伯にも言えること。下手なところで争っても仕方がない。
 上席にはまだ五月蠅い重臣が残っているが、二流だ。これは竹中老が押さえてくれるだろう。協力するというのはそのこと。
 佐伯は穏健派筆頭だが、長老格の人もいる。佐伯を前面に出してきただけ。この人達もそれなりの実力者なのだが、口が重い。そして、そういう評定には加わりたくないタイプ。それに引退も近い。
「さて、どうなさる」
「いえいえ」
「あなたは天下を取ったようなもの。もう人物はいません」
「いえいえ」
「そう隠さず」
「いえいえ」
「あなたはいつもそのような受けごたえなので、得をしておられた。しかし、これからはそうはいきませんぞ」
「いえいえ」
「何が嫌なのじゃ」
「いやいや」
「だから、そのいやいやの中身を知りたい」
「申し上げられるようなものではありません」
「申してみい。わしは人畜無害。ただの漬物石。何の力もない」
「では」
「おお、申すか」
 佐伯は評定など必要ではない。あってもいいが形式だけにすべきだと述べた。
 竹中老はにやっとした。
 ことを決めるのは、こんな会議ではないことをよく知っていたためだろう。
 その後、佐伯が場を仕切るようになったが、全て茶番劇。
 それもよかろうと、竹中老は、佐伯を応援した。
 
   了
 



posted by 川崎ゆきお at 14:28| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月18日

3754話 ある変化


 吉村は最近方向性が変わった。しかし自覚はあまりない。自然とそういう流れになっているのだが、それを流れだとも思っていない。
「変化があったようですが、何かあったのですか」
 同僚だが後輩の高田が問う。高田に影響することではなく、個人的なことだ。しかし、先輩の吉村の感じがこれまでとは違ってきているので、ついつい聞いてみた。聞いても聞かなくてもいいようなことだが、気になるのだろう。また親しい関係なので、立ち入ったことでも尋ねられるのだろう。
「別に何もないよ」
「でも変わられた」
「え、いつ頃から」
「僕も気付かなかったのですが、この数ヶ月です」
「あ、そう」
「その間、何かありませんでしたか」
「いや、別に」
「そうですか。不思議ですねえ。何か方針でも変えられたのではないかと思い、聞いたのですが」
「変えていないよ」
「しかし、変わっています」
「どんな風に」
「雰囲気が」
「どのように」
「まあ、態度です」
「態度」
「姿勢のような」
「気付かないけど」
「そうなんですか」
「思い違い、勘違いじゃないのかい。以前と同じだと思うけど」
「かなり違います」
「多少は、自覚はあるけど」
「ほら、やはりそうでしょ」
 先輩の吉村は考えた。変わったのは後輩の高田ではないかと。どうでもいいようなことなのに、重ねて聞いてくる。追求するかのように。そういうことはこの後輩にはなかった。きっと慣れてきたためだろう。馴れ馴れしくなったのだ。
「先輩の調子に合わすようにしたいのですが、方針のようなのがあるのなら、それに従います」
 この後輩の態度そのもの、後輩の調子そのものが今までとは違っている。
「じゃ、私はどんな調子なのかな」
「はい、以前より穏やか、そして丁寧になりました」
「じゃ、年だろ」
「そうなんですか」
「だから、決め事をしてやっているわけじゃないから」
「じゃ、自然な変化」
「言われないと、気付かないけどね」
「分かりました。納得できました」
 何だろう、この後輩は。何か悪い本でも読んだのかと思い、吉村先輩は聞き流すことにした。
 そういえば吉村は若い頃のようにビジネス書や啓発ものなどは読まなくなった。この後輩の高田は読みあさっているのではないかと想像した。
 しかし、それはいっときのことで、どんなにいいことが書かれている本でも、すぐに忘れてしまうものだ。
 
   了




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2020年05月17日

3753話 秘境喫茶


「あれは初夏の頃でした」
「はい」
「すっかり暑くなってましてねえ。春物じゃ暑いほど。それを脱いで、自転車で走っていました。少し遠いのですが、最近見付けた喫茶店がありまして、静かでいい。理想的だ」
「そこへ向かわれたのですね」
「まだ五月です。末ですがね。だから五月晴れ。これが夏のような陽射し。まだ冬物の帽子なので、これが痒くて痒くて。しかし帽子なしじゃ、直に来ますから」
「遠いところにある喫茶店へ向かわれたのですね。でも自転車なので、それほど遠くはない」
「ええ、自転車なら、まずまずの距離です。駅を三つほど超えたところです。電車で行く場合、駅まで歩かないといけないが遠回りになるので距離が長い。しかも暑い最中。駅まで歩く時間で、その喫茶店まで行けそうな感じですが、まあ、それは大袈裟で、半分ほどの距離まで行けます。そして駅から電車に乗ったとしても、すぐには来ない」
「はい」
「そしてやっと入って来た電車に乗り、二駅で終点。私鉄の支線なので短い。それと駅と駅の間隔も近い。見えているほどです」
「はい」
「それで本線に乗り換えるのですが、階段がきつい。エスカレータもありますが、ここは運動のため、階段です。そしてホームで少し待つ。流石本線なので、電車はすぐに来るのですが、特急や急行では駄目。降りる駅は各停しか止まりませんからね。それで普通が来るまで待つ。待ち時間は支線の駅と変わりませんよ。自転車なら、もう着いています」
「はい」
「それで乗ったはいいが、次の駅なので、ゆっくり座ってられない」
「はい」
「だから、自転車で行くわけです。少し説明が長かったですが」
「いえいえ」
「その喫茶店は駅前にあるのですが、それは入口でして、看板は出ていますが、そこにはないのです」「はい」
「自転車が一台しか通れないような路地というか隙間です。店と店との間」
「はい」
「そこを進むと、右に回り込む通路があるのです。その先は十字路。しかし、狭いですよ。自転車だと曲がりきれないので、少し持ち上げて方角を変えるのです」
「そこは何処なのですか」
「色々な建物の裏側でしょ」
「はい」
「それで曲がったところに喫茶店があります。いいでしょ。隠れ家です」
「それを見付けられたのですね」
「ええ、偶然見付けたのです。この駅前を探索していたとき、その路地に紛れ込んだのです。まるで迷路。ダンジョンです」
「じゃ、喫茶店への入口は複数あるわけですね。十字路があるほどなので、別の場所からも繋がっている」
「そうです。以前は駅に出ようとして、迷い込んだのです。そのとき偶然見付けたのです。今は駅側から入るようにしています。そちらの方が近いのです。だから看板を出しているのでしょう」
「店内はどうですか」
「古いですが、普通です。特に変わった店ではなく、普通の人が普通に入れるような何の特徴もない店。私はそれを風通しのいい店、ニュートラルな店と呼んでいまして、一番好ましいパターンです」
「隠れたる名喫茶ですね」
「建物が増えて、隠れてしまっただけです。でもその路地内にある店は、この喫茶店だけ。周囲にも店屋はありますが、裏側なのでね」
「分かりました。取材に行きます」
「あまり行かない方がいいですよ。今のまま隠れたままがいいし」
「いえ、名店巡りですので」
「じゃ、私はこれで」
「あなたが喫茶店に詳しいと聞いたので」
「それほどでもありません」
「いい店を教えていただいて、有り難うございました」
「いえいえ」
 このルポライター、仕事をするのが嫌で、しかも出不精。それで取材に行ったのは三ヶ月後。
 言われた通り、その駅で降り、看板を探したが、そんなものはなく、その入口らしい細い路地というか隙間は見付かったが、袋小路で、その先は壁だった。
 
   了



posted by 川崎ゆきお at 12:00| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月16日

3752話 天気予報


「曇ってきましたねえ」
「陰りましたな」
「いい天気だったのにね」
「そうですね。晴れは長く続かない」
「いや、長く続いていましたよ。雨や曇っている日の方が少ないほど」
「そうでしたか」
「むしろ曇り日や雨の日は長く続かないのでは」
「そんなものですかねえ」
「この時期だけですが」
「よく見ているねえ」
「はい、ニュースより先に天気予報を真っ先に見ます。こちらの影響の方が大きいですからね」
「天気が好きなのですか」
「いや、これは自然界の出来事ですから、好きも嫌いもありません。むしろ悪い部類でしょう。色々と災害も起こりますし、そのレベルじゃなくても、湿気ていると、息が詰まりそうです。当然低気圧が来ていると厳しいですねえ。誰にも文句は言えませんが、天地異変は統治者が悪いということになっていたようです」
「因果関係はないでしょ」
「原因が欲しいわけです。そして、文句が言える相手が」
「ほう」
「今は流石にそんな非科学的なことはやりませんがね」
「天災なら仕方ない」
「そうでしょ。しかし、それを人災に持って行く癖が残っているのです。悪い奴がいないと治まらないんでしょうねえ。結局はオカルトです」
「ほう」
「まあ、晴れていたのが曇ってきた程度では人のせいにはしませんがね」
「これは雨になるかもしれないねえ」
「天気予報では持ちます。まだ曇ったままで。降りはしません」
「しかし、どんどん暗くなってきましたよ」
「本当だ」
「これは降りますよ」
「それはいけない。傘がない」
「降らないうちに、戻りましょう」
「そうしましょう」
「で」
「え」
「これは誰の責任ですか」
「雨が降る程度では、別に悪い目に遭うわけじゃないでしょ」
「予報官が悪いとは言えませんか」
「言えません」
「でも、当たらなかったじゃないですか。もうパラッと来そうですよ」
「外れてもいいのです」
「どうしてですか」
「当たるも八卦当たらぬも八卦が天気予報の原則。当たらなくても当然と言うことですよ」
「じゃ、オカルトですねえ」
「科学も極限まで行けばオカルトです。世の中の底に流れ、ずっと安定を保っているのは、このオカルトですよ」
「そうでしたか。知らなかった」
「パラパラ来そうです。急ぎましょう」
「はいはい」
 
   了



posted by 川崎ゆきお at 12:37| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月15日

3751話 消える村


 比婆の山上に山寺がある。まさに山門。ある宗派の総本山のようだが、山奥ではない。山上まで車で行けるがバスの便は少ない。お寺関係の人が来る程度で観光の寺ではない。山上からは下界を見下ろせる。少し遠いが高層ビルが見える。下が下界なら上は上界だが、天上界ではない。見晴らしがいいのだが、展望台はない。しかし、清水の舞台のような広縁があり、そこからの眺めは特別。ただ一般の人はそこには立てない。観光寺ではないため。
 ただ、寺の門はいつも開いている。入ってもいいのだが、人の家にお邪魔するようなもの。当然受付や、おみくじなどを売っている場所もない。
 寺の北は大都会だが、南はガクッと風景が変わり、田舎びている。この落差が凄い。山の裏側は山また山で里らしきものはない。昔からそのあたりに村はない。田畑が作れないためだ。それらの山地が途切れたあたりに町はあるが、山頂からは見えない。
 山上までの道路は頂上近くで終わっており、裏側へ出る車道はない。便がよくても、山また山では用がないためだろう。山の向こう側へ行くには回り込んだ方が早い。そこにはしっかりとした大きな幹線道路がある。
 ある土曜日、何の気まぐれか、田宮は下界のバスターミナルからバスに乗った。行き先を見ていなかったようだ。その必要は実はなく、見ないようにした。その方が無作為な選択となり、無作為で目的地が決まる。休みの日など、そういうことをたまにやる。
 田宮が乗ったバスは偶然だ。バスターミナルに停まっているバスにさっと乗る。一台もバスがなければ、入って来たバスに乗る。そういう決まりだ。
 それで山上に出た。寺があることなど知らなかったが、下からその一角は見えているはずだが、遠いので分からない。
 バスを降りたとき、青々とした頭の青年がいた。
「見学ですか」
「ああはい」
「入れますよ。一緒に行きましょう」
「ああ、はい」
 寺の青坊主に偶然誘われたのだが、田宮は寺を見に来たのではない。しかし、偶然乗ったバスの終点で降りるルールがあり、あとは自由行動。そのまま戻ってもいいし、そのへんを見て回ってもいい。
 青坊主のあとを付いて山門を潜る。質素なもので、仁王さんなどいない。どちらかというと武家屋敷の門に近い。
 境内は狭いが、建物は多い。山上の寺、高野山や比叡山を連想すればいい。
「見るもの、ないですし、建物内には入れませんから、展望台がいいと思います。案内します」
 清水寺の舞台のような所だが、縁側は広くはない。太くて長い柱で踏ん張る必要がないのは突き出ていないためだろう。
 展望台は湯豆腐屋のような感じで、テーブル席がある。まあ、休憩所だろう。
 寺の事務員だろうか、法被、これは制服だろう。それを着たお婆さんが隅のテーブルで煙草を吸っている。
「まあ、見るものといえば、この眺め程度です。ゆっくりしていって下さい」
 青坊主は去った。親切な青年だ。
 田村は比婆山の頂上付近から下界を見ろしていたのだが、何となく居心地が悪い。誰だお前はと、後ろから声をかけられそうだ。そして下界といってもビル群。毎日見ているような風景だ。遠いところに横に拡がった市街が見える。人の気配を感じないのは遠すぎるためだろう。
 ここが観光寺なら、気楽に眺められる。人も多いし。
 事務員の婆さんも姿を消したので休憩所は無人。独り占め。これが居心地の悪さの原因かもしれない。下界を見たければ、寺の外から見ればいい。
 寺といっても五重塔などはなく、何処が本堂か、講堂か、庫裏かが分かりにくい。峰の上なので、横並びに建っているのだろうか。敷地の問題だろう。
 田宮は、もう十分休憩をし、展望も楽しんだので、山門へと向かった。
 そのとき、左側を見ると、人がいる。南側ではなく、北側の展望を楽しんでいる人がいる。
 よく見ると、坊さんだ。そこには一寸した屋根のある東屋。しかし少し長い目だ。屋根だけで囲いはない。
 表展望台と裏展望台があるのだろう。裏側は比婆山の裏側で、その先はずっと山なので、山並みしか見ることができないが、そちらの方が田宮には珍しい。
 しかし、坊さんがいるので近付きにくい。だが、坊さんの服装ではない。ジャンパーを羽織っている。頭も少し伸びており、胡麻塩。
 田宮の気配に気付いたのか、坊さんの頭が動いた。さっと見た感じでは脂ぎった中年男で、僧侶という感じはしない。
 焼香のときに使う壺のようなものを持っている。しかし線香の煙ではなく、煙草の煙。
 坊さんは田宮に会釈を送る。ここでは難しい意味はない。笑顔で頷いてくれただけ。
 田宮がまだ躊躇していると、今度は手招き。
 招かれざる客ではないと分かったので、田宮はその長細い東屋に腰掛けた。坊さんと少し間隔を空ける。そのスペースに灰皿がある。
「さっき池田君と一緒に来た人でしょ」
「はい」
「ここはねえ、裏展望台でしてね」
「そうなんですが」
「山また山ですが飽きない」
「はい」
「ここから見る下界もいいものです。高いところから低いところを見る。しかし高い地位にいるわけじゃない。位置にいるだけ」
 説法でも始まるのかと思い、田宮は愛想の悪い返事をし続けたが、そのうち、妙なことを言いだした。
 ずっと下の山々の切れ目とか、裾の近くを見ていると、村が出てくるとか。
「村ですか。見えませんが」
「それがねえ、見えてくるのですよ」
「何ですかそれは」
「誰も辿り着けない村。それがあるのです」
 来たな、と田宮は眉をしかめたが、判断を急いではいけない。何かの喩えかもしれない。
「今日はまだ見えない」
「お邪魔したようで」
「いやいや、見える日など希」
「はい」
「あの村へ行ってみたい」
「航空写真を見れば、分かりますよ」
「肉眼でしか見えない」
「そうなんですか」
「調べ抜いた」
「実際に行ってみましたか」
「見えたときにね。それで、大凡の位置を確認して、見に行ったのだが、結構遠いんだ。着いた頃には、消えていた」
「村が消える」
「そうなんだ」
「はあ」
「だから、辿り着けない村。辿り着けない下界もあるんだ。上じゃなくね」
「冗談なのでしょ」
「ああ、当然だよ。そんなこと本気で言うやつは狂っているだろ」
「そうですねえ」
「君も試してみるか」
「さっきから見てますが、村なんて」
「ずっと見続けるんだ。すると見えてくる。まあ、最初から見える人なんていないだろうが」
「冗談でしょ」
「勿論」
「そろそろ、バスの時間ですので」
「そうだね。それが行くと、明日の朝になるねえ」
「はい。お邪魔しました」
「気をつけてね」
「はい」
 田宮は急ぎ足で山門を抜けた。バスの時間まで、まだ余裕があった。あの脂ぎった坊さんの話に合わすのが面倒になったので立ち去ったのだ。
 
   了
 



posted by 川崎ゆきお at 12:48| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月14日

3750話 地蔵老人


「いつもお見かけしますが、何処へ行かれているのです」
 柴田は自転車散歩中、町内の塀沿いにいつも座っている老人に聞かれた。毎日のように見かける人だが、柴田の近所から少し先にある町内。その町内と柴田との縁はない。あるとすれば、この老人をよく見かける程度。決まって板塀の隙間にある椅子に座っている。地蔵でも祭っている祠のように。
 それで柴田は彼を見かけるたびに地蔵がいると呟いたりする。それだけの関係だが、縁と言えば縁。そしてこの地蔵老人は縁起物と同一。拝まないのは目を合わせてしまうためだ。
 しかし、その日は地蔵から声をかけてきた。
「一寸この先です」
「お仕事で」
「いえいえ」
「気になっておりましてねえ」
「お隣の岸本町に住んでいます」
「あ、そう。岸本の吉田さん、まだ元気かな」
「ああ、はいはい」
 当然吉田さんなど知らない。長く住んでいないので顔ぐらいは知っていても、名前までは分からない。それに岸本町も広い。隣近所の人なら分かるが。
「やはりお仕事で」
「いえいえ、散歩です」
「散歩」
「はい」
「散歩」
「自転車でウロウロしています」
「うろうろ」
「ああ、はい」
「何をウロウロと」
「いえ、コースがありまして、そこを回って戻ってくるのです」
「コ、コース」
「はい、そうですが」
「何処を回るのですかな」
「いえ、道順があるだけで」
「道が」
「そうです。だから目的地は道です」
「道」
「はい」
「それはまた何ですなあ。まあドライブのようなものですな」
「そうです。道を走るだけが目的で、特に目的地や用事はありません。道に用事があるだけ」
「道ねえ」
「はい」
「あ、時間を取らせてしまいました。どうぞ行ってください。いやね、気になっていたものでね。一体この人は毎日毎日ここを通って何処へ行くのかとね」
 柴田はペダルに力を入れた。普通のママチャリだ。
 そして、いつもの道順をグニャグニャ曲がりながら、先ほどの地蔵老人の前まで戻ってきた。
 地蔵はいない。
 昨日もそうだったので、ずっとそこに座っているのではないのだろう。
 その翌日も同じような時間にそこを通った。ところが、いつもいるのに、今日はいない。
 戻ってきたときも、確認したが、やはりいない。椅子だけがある。
 それから十日ほど、姿が見えない。たまに見かけない日もあるのだが十日もいないというのは今までにはないこと。
 それから五日後、地蔵老人が座っていた。
 柴田は会釈を送るが、返って来ない。完全に無視されており、目は藪睨み。
 しかし、戻ってきたとき、まだ座っており、もう一度会釈すると、「やあ」と、応えてくれた。
 思い出したのだろう。
 
   了



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2020年05月13日

3749話 毒人間


「たまには違うことをした方がいいですよ」
「そうですねえ」
「いつも同じことばかりやっているんじゃないですか」
「日常化していますし、慣れていますから」
「いい感じですか?」
「いや、不満が色々あります。できれば変えたいのですが、なかなか」
「なかなか、決心が付かないと」
「何処へ行っても同じだという感じがしますから」
「それは感じでしょ。事実じゃない」
「そうなんですが、何をしても変わり映えがしないと思います」
「思っているだけでしょ」
「まあ」
「実際には違うかもしれませんよ」
「そうですねえ」
「不満があるのでしょ」
「あります。日常化しているので」
「最初はどうでした」
「いい感じでした」
「でも今は不満?」
「はい」
「不満なのにそこから離れない」
「まあ」
「惰性ですねえ」
「そうなんですが、何とかしたいとは思っています」
「それはいいことだ。でも思っているだけじゃ事態は動かない」
「やはり動かないといけませんか」
「不満ならね。気に食わないことをやる必要はないでしょ」
「勇気が」
「うまくいっていることもあるのでしょ」
「あります。そこは動かしたくありません。また、動かす必要もない」
「じゃ、不満に思っていることも、それほど大した不満じゃない。いたたまれないような」
「多少、その面があります。いたたまれないようなことが起こっています」
「じゃ、それを捨てた方がいいでしょ」
「しかし」
「優柔不断なのですね」
「はい」
「しかし、不満やストレスは起爆剤になります」
「もうなっています」
「それはいいタイミング。じゃ、決行しましょう。それを捨てて」
「やってみますか」
「そうでしょ。それだけ乗り気なら、もう十分出来上がっているのですから、盛り上がっている内にやるべきです」
「他のことに変えても、やはりまた同じようなことになるかもしれませんし、それなら、今のまま我慢している方が」
「そういう考えもありますが、要するに動きたくないだけでしょ」
「あ、まあ」
「やりましょう」
「分かりました。目先を変えてみます。探してみます」
「そうしなさい。どれも同じだと言うことは合っていますが、似ているようでも多少違います」
「それは何でしょうねえ」
「あなたの力だけでは何ともならない状態になっている事柄でしょうねえ。だからそこで居座っても良い事はもう起こらない」
「他のことをして駄目だった場合、どうしましょう」
「さらに探すことですよ。最初から良い条件、最初から悪い条件というのがあるものです」
「詳しいですねえ」
「少し目先を変えれば簡単に解決する。そんなことを多く経験しています。惰性で同じところでずっといても何ともならない。所変われば品変わる。結局は人でしょ。人の問題でしょ」
「そうです」
「人と人とは単なる相性の問題。これが最初から悪いとずっと悪い。解決しない。相性がよければ、すんなりといく。それだけですよ」
「確かに私が不満に思っているのは、人でした」
「それはあなたに対して毒を発しているのでしょう。相性が悪いと、毒になる」
「はい、分かりました。そこから離れます」
「はい、そうしなさい」
「あなたはいい人ですねえ」
「私は実は毒の塊なのかもしれません。だから長く付き合わない方がいい」
「はい、有り難うございました」
「うむ」
 
   了

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2020年05月12日

3748話 季節の変わり目


 吉岡は体調が優れないので、静かにしていた。季節の変わり目のためだろう。冬から春になりかけているとき体調を崩した。ついこの間のこと。
 それが去ってすぐにまた春から初夏への変わり目に遭遇したのか、下り坂。四季の移り変わりごとに崩しているのだから忙しい。しかしこれはもう慣れたもの。ただただ静かにしておれば戻るが、たまに戻らないで、そのまま次の変わり目に来てしまうことがある。流石にそのときは重ならない。だから変わり目が来ても変化はない。悪いままだが、これも慣れてくると、その悪さに気付かなくなる。回復しているのだろう。気にならないし、体調の悪さが目立たなくなる。
 今回は春から初夏への切り替え。気温がぐっと変わった日から悪くなる。何となく元気がない。そんなときは静かにしているしかないが、日常のことは普通にこなしている。
 そういう元気のないときは元気のないことをするしかない。威勢のよい溌剌としたことはできない。しかし、これは逆療養で、改善することもあるが、元気がないので、元気なことなど最初からやる気がしない。
「元気のないときにできることを探している」
「元気じゃないか。そんな難解なものを探すなんて」
「簡単に見付かるはず。ゴロゴロしているはず」
「そうかなあ、案外難しいよ」
「簡単なことなら、元気がなくてもできると思うけど」
「一見そう見えるけど、簡単なことほど実は難しい」
「そんな凝った話じゃなく、気楽に寛げて疲れないようなことならあるだろ」
「あるなら、聞く必要はないと思うけど」
「うう」
「ほら、探してもないんだ」
「一杯あるんだが、やる気がしない」
「元気があるからやる気がしないんだ」
「話が逆転しているように思うけど」
「じゃ、どうすればいい」
「体調が悪いんなら何もしない方が」
「そこまで悪くはなく、何かできそうな」
「じゃ、元気なんじゃないか」
「そうかなあ」
「季節の変わり目で崩したって言ってたねえ」
「そうだけど」
「じゃ、もう回復したんじゃないの」
「そうかなあ」
「何かやりたがっているのがその証拠」
「いやいや、そうじゃなく、元気がないから、元気がないときでもやれることを探しているんだ」
「それが元気な証拠」
「話が見えない」
「しかし、そんなことを相談しに、ここまで来たんだから、元気じゃないか」
「そうかなあ」
「まあ、元気な姿を見て安心したよ」
「そうじゃないんだけどなあ」
 
   了


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2020年05月11日

3747話 尻の穴


 草加は尻の穴が小さいことで知られている。実際にそれを見た人はいないが、親なら知っているだろう。小さかったか大きかったかを。これは親に聞けば分かるが、そういう意味での小ささではない。気持ちが小さい……などと同じで、実際の肝、内臓が小さいわけではない。気が小さいという意味だが、これも気管が細いということでもないだろう。
 肝になると、見ることはできない。開けないと。しかし尻は見ようと思えば見える。外に接しているためだ。そうでないとウンコができないし、屁もこけない。
 草加は気が小さい。尻の穴の小さい男と呼ばれているのは、外からも見えるためだろう。くどいがそのものの話ではない。
 尻の穴が小さいと、神経が細いとはかなり違う。後者は繊細。これは褒め言葉になることもある。
 逆に尻の穴が大きいとはあまり言わない。褒め言葉かどうかは分からない。あの人は尻の穴が大きな人、となると、何か露骨であり、滑稽さが加わる。
 尻の穴が大きいとは言わず、太っ腹とか、胸や心が広いとかになるのだろうか。
 さて、草加の話だが、それなりにいい地位にいる。体格は立派で、押し出しもいい。貫禄がある。しかし尻の穴が小さいと言われている。それに関し、草加は別に何も思っていないようだ。そんな評価があっても、気にしないのなら、これは尻の穴が大きいのではないかとも言える。
 だが、何事につけ、か細いというか、考えが小さい。身体に似合っていないが、体型とは関係はない。
 草加は尻の穴が小さいことを自認している。そちらの方がリスクが少ないため。石橋を叩いて渡るタイプで、高い地位にいるのもその小ささのためかもしれない。無謀なことはしない。何でもかんでも引き受けない。人を大きく包まない。
 だから、大物ではなく小物。だからこそ今の地位にいる。安全弁の役目を果たしているためだろう。
 弁は小さい方が締めやすい。
 尻の穴の小ささを誇る、ということはない。また誇るべきことではない。
 気が小さく、一寸したことでも震える。だから震度計としては優秀。異変に対していち早く反応する。微震でも。
 尻の穴の小さな草加。初対面の人は、その噂を知っているだけに、ついつい想像してしまうようだ。
 
   了




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2020年05月10日

3746話 狂言


「その後、どうなりましたかな」
「その後と言いますと」
「例の事件」
「あれは椿事でしたね」
「そうだろ。で、その後どうなった」
「別に」
「あれほどの事件だ。その後があるだろ」
「平常通りのようです」
「何事もなかったかのようにか」
「そうです」
「そちらの方がおかしい」
「いえ、別段何もその後、ありません」
「あれだけの騒ぎだ。しかも世にも奇妙な」
「それだけでした」
「しかし、事件だろ」
「それほどでもありません。実際は大したことは起こっていないのです。周りが騒ぎすぎて、大きな事件のように扱っただけで、本当は小さな砂糖の粒、それが膨らんで綿菓子のように大きく膨らんだだけで、中はスカスカです」
「それで、その後はないのか」
「はい」
「おかしいのう。あれだけの騒ぎだ。無事ではおられまい」
「そうなんですが」
「誰かがもみ消したか」
「そんなことはありません」
「それで、あの事件はなかったことになったのか」
「おそらく」
「おかしいなあ」
「誰かが仕掛けたようです」
「しかし、仕掛け損じたのか」
「そうだと思います」
「不思議な事件だ」
「仕掛けたのは本人ではないかという噂もあります」
「狂言か」
「はい。それが何となく分かったので、それに乗らないように、皆さん引いたのでしょう」
「何のための狂言じゃ」
「それも分かりません」
「何も分からんのだなあ」
「謎など最初からなかったのです」
「珍しい事件だ」
「だから椿事です」
「もういい。それ以上聞いても有益なことは出てこないようだから」
「藪の中です。何も分からないままです」
「うむ」
「その後どうなったのか、後日談を聞きたかったのだが、逆に曖昧模糊とし、納得しかねる。聞かなかった方がよかったかもしれん」
「はい、何事もないまま収束しました」
「本当かな」
「狂言でしたから」
「狂言なら、その後、もっと騒ぎになるのでは」
「あくまでも狂言説で、事実かどうかは分かりません」
「納得できん」
「はい、中途半端な事件でした。事件そのものが本当はなかったのでしょう」
「あったかもしれんぞ」
「どちらにしても、もう噂する人もいません」
「ここでしておるではないか」
「そうですねえ」
「しっかりせん話じゃ」
「話すのも嫌になります」
「腑に落ちん」
「はい」
 
   了



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2020年05月09日

3745話 立夏


「暑いですなあ」
「立夏が近いですからね」
「夏が立つのですな」
「立秋はほっとしますが、立夏はこれから暑くなるぞというので、あまり有り難くありませんがね」
「何でもいいから立つのはいい」
「寝ていた夏が立つのでしょうなあ」
「春になったと思えば、もう立夏、早いですなあ」
「そうですねえ、この前、立春だったけど、寒くて春なんて気配はなかったですが、この立夏はそのままだ。本当に暑くなっている。立秋の頃はまだまだ夏ですよ。涼しくならない立秋。立冬はまずまずですなあ、額面通り。寒いと思えば立冬か、という感じです」
「正直なのは立夏と立冬ですか」
「暦通りです。気温もお揃い」
「じゃ、夏と冬の区切りは分かりやすい」
「春と秋は中間ですからなあ、年により違いますが、ずれ込むことがあります」
「よくご存じで」
「いやいや毎年そんな印象ですので」
「ところで、この暑いのに、お出掛けですか」
「日課ですからね。昼の散歩です」
「また、喫茶店ですか」
「ええ、そこまでの道が散歩コースとなっていますが、今朝はズレました」
「時間が」
「そうです。珍しく早起きしたので、昼食も早めに済ませて、早い目の昼の散歩です。ところが、この時間、喫茶店はランチタイムなんですよ。店の前に何台も自転車が止まっているし、それに中が少し見えるのですが、満席のようなので、スルーしました」
「毎日行かれているのでしょ」
「いつもはランチタイムが過ぎたあたりです。だからすいている。今日は家を早く立ちすぎた」
「それは残念ですね」
「それで、隣町の喫茶店まで行くところです。だから少し長い目の散歩になります」
「暑いのに、ご苦労なことですなあ」
「暑さに早い目に慣れるのも悪くありませんし、いい運動になります。しかし、もうバテ気味ですからねえ。できうる限り日陰を選びますがね。ところで、あなたは」
「私ですか、一寸用事で」
「大事な」
「まあ」
「あなたも暑いのに」
「いえいえ、まだ序の口ですよ。逆にこの暑さが珍しい。新鮮です」
「それはお元気で何より」
「じゃ、これで」
「あ、向こうから武田さんが来ましたよ。病んでおられたのに、元気になれれたのかな。お顔を見るの、久しぶりです」
「ああ、武田さん」
「じゃ、私はこれで」
「はい」
「山下さんじゃありませんか」
「武田さんですね。お久しぶりです」
「この暑いのに、何処へ」
「昼の喫茶店がランチタイムで満席で、隣町の店まで行く最中です」
「あ、そう。お元気そうで」
「武田さんもお元気なようですねえ。病んでいたのでは」
「いや、急に立ち上がれるようになりましてね」
「それはよかった」
「じゃ、これで」
「はいはい」
 というような一人芝居をしながら、隣町へと山下は向かった。そのあと、四人目のキャラを立てるのだが、何人も立つと、流石に飽きるようだ。
 
   了
 


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2020年05月08日

3744話 行けなかった喫茶店


 偶然が重なることがある。これはあくまでも偶然で、それぞれ理由があってのこと。ただ、それが一つか二つ重なる。
 その偶然のおかげで、今までできなかったことが開いたりする。偶然が導いたわけではない。普段でもその気になればできることだが、今一つきっかけがない。そのきっかけを作ってくれるのが偶然。偶然によって道が開かれるわけだが、大した道ではない。もの凄く良い展開になる扉が開いたわけではない。
 その一つは、最初の偶然から始まるのだが、何かすごいことを起こすときに来る偶然ではない。
 坂本は朝、喫茶店へ行く。それだけのことだ。
 ところがその喫茶店、最近全席喫煙になった。だから、別の店に変えたいのだが、一度馴染んでしまった店を変えたくない。それにその店は安い。ファスト系で店内も店員もさっぱりしている。淡泊だ。そして意外と静か。
 だから、そこから移動したいとは思うものの、そのままにしていた。
 全席禁煙の理由とかは、坂本とは関係しない。御時世だ。しかし、その後、定休日を作るようになった。これは全面禁煙前からで、人手不足のため。これも理由がしっかりしている。
 それで定休日は、少し高いがその近くにある個人喫茶へ行くことにしている。ここも同じ時期に禁煙になったが、仕方がない。値段が高い方が厳しかったりする。
 ここまでは偶然の偶の字もない。
 ただ、どうせ高い個人喫茶に行くのなら、煙草が吸える店に行きたい。それが実はその近くにあるのだが、なかなか行く決心が付かない。
 その前を様子見に通ることがある。最初はここも禁煙だと思っていたのだが、吸えると表示があったので、ここに都替えしてもいいと思っていた。だが、決心が付かない。また営業時間が遅いので、朝、早いときはまだ開いていない。ただ、休みの日がないのか、いつも開いている。この得点は高い。
 だが、ここまでは、まだまだ偶然はない。
 そのきっかけはいつものファスト系の喫茶店がその週だけ定休日を変えてきた。だからその日は個人喫茶に行く日だが、行かなくてすんだ。
 その二日後だ。定休日が遅れ来ていた。これは偶然だが、それなりに事情があり、普通の偶然というより、偶然という言葉使う必要はないほど。
 意外性など何もない。平常事だろう。これぐらいの変化は。
 そしてお決まりのコースで、個人喫茶へ行く。
 ところが店の前に自転車が一台もない。いつも一台か二台は止まっている。立て看板は出ているし、メニューのスタンド立て出ている。どう見ても営業している。だから、何も考えないで、いつも通り週に一度だけ来る店のドアを開けようとした。
 ところが、そこに手書きの貼り紙。それを読んでいるとき、中から店員がドアまでやってきた。店内には明かりがあり、営業しているとしか思えない。
 要するに、休みなのだ。だが、開いている。その説明をしに店員がドアを開けようとしていたが、貼り紙で分かったので、手で合図を送り、了解したと伝えた。貼り紙には臨時ながら開店時間を今日だけ遅くすると言うもの。だから休みではなく、今、開けようとしていたのだろう。だが、もう少し待ってくれと言うことを店員は伝えたかったようだ。
 いつもの店がいつもの定休日なら、この個人喫茶へ来る必要はない。曜日が違う。そんな曜日に来ることは初めてだが、それはいい。問題は、その日に限って開店時間を変える理由ができたことだろう。理由は分からない。いつもの店の偶然は偶発的なことではなく、予告されている。しかし、この個人喫茶の偶然は突発的だろう。
 ここだ。
 坂本はこれできっかけを得た。煙草を吸える個人喫茶。目星を付け、下調べもやっていた。その店。
 この偶然で、やっと背中を押された感じだ。もう選択肢はない。この店に入るしかない。ただ、喫茶店に入らなくても別に困らないのだが。
 しかし、朝、一日の始め、喫茶店で一服し、その日の予定などを繰るのが日課。それをやめると、一日が起動しない。いわば起動スイッチを入れにいくのだ。
 自転車は一台しか止められないことは知っている。細い路地にあるため。さらに隙間があり、そこにねじ込めないわけではない。これは非常用だ。だから自転車は何とかなる。そして煙草も吸えることも確認しているし、ドアから中を覗くと昼頃は客が多いが、その前後ならがら空きであることも調べている。
 そして、そういった偶然の巡り合わせというより、偶然に振り回された結果として、行けなかった店のドアを開けることができた。
 それだけの話だ。
 
   了

 
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2020年05月07日

3743話 迷路


「道がですねえ」
「どうかしましたか」
「迷路です」
「そんな場所があるのですか。迷いやすいとか」
「いや、普段から私は細い道しか通らないのですがね。ある日急いでいて、大きな道を通った」
「最初から大きな道を通ればいいんじゃありませんか」
「それじゃ趣がない。それに飽きる。裏通りの方が楽しめる。車も少ないので、車道を行ける。大きな道なら歩道を走ることになる。しかし実際にはそこを自転車で走っちゃいけない。歩道なのでね。そういうのが面倒なので、狭い道を行く。無人のときもある。車も人も自転車もバイクも通っていない。こういうのは裏道ならではのものでね」
「だからそういうところを走るので、迷うのですよ」
「まあ、そうなんだがね。抜けられる道とそうでない道がある。たまにそういう道を試してみる。昔からある道なら行き止まりは滅多にない。細いながらも続いている。ところがそこが以前田んぼだったところは、抜けが悪い。袋小路だ。そのため、戻らないといけない。同じところをぐるぐる回るようなもので、トラップだ。ここに入り込むとまずい」
「だから道は迷路だと」
「いや、知っているつもりの道でも、逆側、反対側だが、そちらから入ったときは迷う。いつもは前方しか見ていない。実は後方は見ていない。そのため、知っているのだが、知らないような風景になる。建物は同じだよ。配置も。しかし見え方が違う。これで勘違いし、いつも曲がるところで曲がらないで、先へ行きすぎたり、その手前で曲がってしまう。するとますます見覚えのない場所に来る」
「何か余計なことをしているような感じですねえ。大きな道なら分かりやすいでしょ」
「それで、先日急ぎの用があったので、迷路抜けの遊びはやめて、真っ直ぐ走った」
「はい」
「するとね、大きな道なので色々な道と交差するのだが、どの道も私は知っている。裏道から大きな道へ顔を出す場所だからね。枝道の断面を見る感じでね。いつもは繋がりが分からなかったんだが、それが見える」
「急ぎの用でしょ」
「急いでいても、それぐらい見ても問題はない。見えてしまうしね」
「はい」
「それで私はずっと迷路のようなところばかり自転車で走っていたことに気付くと同時に」
「同時に」
「私の生き方も、これだったんだと思ったね」
「はあ」
「裏道、抜け道、それら細い道を繋いだ人生なんだ」
「そんな大層な」
「だから迷路のような場所ばかり選んでいたのだ。好きなんだろうねえ。ストレートに行くよりも」
「それで、急ぎの用は果たされたのですか」
「だから、枝道が気になってねえ。覚えのある道だが確信はない。だから、確認しに、そこで曲がった」
「ああ」
「それで、入り込んだはいいが、出られなくなり、九十度ほど方角を間違えた。ズレたんだろうねえ。さっき走っていた大通りを見付けるまで、随分と時間がかかった。九十度ずれると無理だねえ。そのうち、かなり離れたとこを走っていることに気付いてね、普段でも滅多に来ないとこを走っていた」
「で、用事は」
「ああ、遅れすぎたので、電話し、次の日にしてもらうことにした」
「大変ですねえ」
「自ら招いたことだ。よくある。よくある」
「はい、お大事に」
「うむ」
 
   了




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2020年05月06日

3742話 喫茶店のヌシ


「おや田所さん、今日は道が違いますが」
「ああ、最近行きだした喫茶店、今日は行くのをやめましてね。それで今日は方角が違うわけです」
「そうですなあ、この道で田所さんと遭遇するのは珍しい。この先に喫茶店などありませんよ」
「少し遠いですがね、隣町にあります」
「ありましたか」
「あります。煙草は吸えませんがね」
「最近煙草が吸える喫茶店を見付けたといって喜んでいたじゃないのですか。それがどうして」
「普通の喫茶店ですからねえ、どうしても五月蠅いのです」
「五月蠅い?」
「やかましい」
「混んでいる?」
「それほどでもないのですが、ヌシがいるんですよ。それも複数」
「常連さんですな」
「行く度に別のヌシがいて、いずれもカウンター席にいます。店の中央部。どのテーブル席からも声が丸聞こえ。それが五月蠅くてねえ。聞く気はなくても耳に入る。本に集中できない」
「まあ、そういう場ですよ、喫茶店は。喋りに来るんですよ」
「ところがヌシが複数おり、それが牽制し合っている。先にカウンター席に座ったヌシと、そのあと来たテーブル席に来たヌシ」
「火花ですか」
「そこまで露骨じゃありませんが、カウンターのヌシにツッコミを入れる」
「攻撃的ですなあ」
「いや、カウンターのヌシが勘違いした発言をする。物知り顔でね。断定的に言う。しかし、知っている人ならそれは間違いだと分かる。だが、敢えて突っ込まない。恥をかかしますからね」
「それをもう一人のヌシが突っ込むわけですか」
「恐れながら申し上げますと姿勢は低いですが、間違いの指摘です。動かぬ証拠を出してきて、ほら、あなたさっき言ったの、違うでしょ、とね」
「じゃ、カウンターのヌシは赤恥ですか」
「それは上手く誤魔化しましたがね」
「間違いを認めなかったのですね」
「話を逸らしました」
「ほう」
「そういうのを見たくないし、聞きたくない。だから、あの喫茶店へはもう行かない」
「でも煙草が吸える喫茶店を見付けたといって喜んでいたじゃありませんか」
「吸えなくてもいいから、本が読みたい。私は喫茶店でしか本を読まないのでね」
「ヌシは他にもいるんでしょ」
「います。ヌシしかカウンター席に座れない。だから、座った人がヌシです」
「じゃ、ヌシが座っているときは、他の客は座れないのですね」
「テーブル席がありますから、満席になることはない。敢えてカウンター席に座らなくてもいい。しかし、ヌシがいないときは、普通の客が座っていますがね。その場合、二人連れでないと駄目なんです。一人で座ると、ヌシとみなされる」
「誰が」
「そういう雰囲気なんです」
「まあ、喫茶店にはヌシがいるでしょ」
「それはいいのですが、複数いるので、ややこしい」
「それって、本を読んでいるより、見応え、聞き応えがあるんじゃないですか」
「そうですなあ。一寸したドラマですなあ」
「でも、面倒なので、行くのをやめたわけですね」
「そうです。私は本に集中したい」
「でも、隣町の喫茶店は禁煙でしょ」
「ええ、最近禁煙になったようですが、何とかなるのです」
「ほう」
「表の歩道に看板とかを置いています。そこに椅子と空き缶が出ているのです」
「ああ、吸えるように」
「そうです。それに硝子張りでドアも硝子、内と外の関係が曖昧な店でしてね。吸いたくなれば、さっと移動すればいい。外からも内からも見えていますからね」
「なるほど、色々とあるのですねえ」
「お、長話になった」
「田所さんは話題豊富だ。あなた、喫茶店のヌシになれますよ」
「よしてください。私は喫茶店へは読書タイムとして使っているだけなのでね」
「ああ、そうでしたね」
「じゃ、行ってきます」
「はい、お気を付けて」
 
   了



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2020年05月05日

3741話 悪罵


「評判はどうじゃな」
「お館様ですね」
「そうじゃ」
「悪いです」
「どの程度」
「かなり」
「それは困ったのう」
「領主としてふさわしくないとか」
「そうか」
「たわけ者、馬鹿だとも」
「ほう」
「悪口で溢れております」
「賑やかだね」
「ぼろくそです」
「言っているのは誰じゃ」
「下の方です」
「直接か」
「とんでもない。陰口です」
「殿の前では」
「下っ端ですから、お目にかかる機会もないでしょう」
「他は」
「他とは」
「その他の噂じゃ」
「全て悪口です」
「そうか」
「どういたします」
「評判がいいようだね」
「だから、悪いのです」
「声を出しているのは一部じゃろ。それに惑わされてはいかん」
「でもここまで評判が悪いと」
「そちはどう思う」
「言える立場ではありません」
「そうだろうねえ」
「どうします」
「殿も大した人物だねえ」
「だから、大したことはないので、評判も悪いのです」
「そうか」
「御家老の出番です」
「同じだ」
「え」
「それに私はそんな悪評に耐えられるだけの器量はない。殿のようになあ」
「耐えているとは思われませんが」
「そちもそう思うか」
「真意は分かりません。かなり取り乱しているようにも見えますが、しぶといです。無神経なほど」
「いいねえ」
「悪いですよ。だから馬鹿殿だと呼ばれています」
「誰かが馬鹿にならないといけないんだ。ご苦労なことだ」
「同情ですか」
「まあな」
「それで、どうします」
「領主替えを進めるのか」
「はい、今ならご隠居してもらえるいい機会です。賛同者も多い」
「いや、静観する」
「どうしてですか」
「評判が悪すぎるのじゃ」
「そうでしょ」
「気になる」
「あたりまえですよ」
「いや、興味深い。いいところは一つもないわけでもないだろ」
「それは買いかぶりでは」
「そちもそう思っているのかね」
「いえ、言える立場じゃありませんから」
「名馬ではなく、罵られし、悪罵を買う」
「御家老、悪い趣味です」
「悪罵に耐えられる名馬、いや、悪罵、駄馬にならなければ耐えられん」
「では、造反には参加しないと」
「馬鹿呼ばわりする口汚い連中は信用せん。だからその仲間にはなりたくない」
「変わっておられますねえ」
「うむ」
 
   了



posted by 川崎ゆきお at 11:00| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月04日

3740話 銀鼠


 銀鼠を見たという情報が入った。小さな話だ。それがどうした、というような。
 しかし、その情報を受け取ったのは、怪異を扱う専門誌。だから送り手が期待していることは分かる。特に最近は妖怪に力を入れていた。
 銀色の鼠。これは特異な妖怪。スーパー妖怪、プレミア妖怪の疑いがある。もしそんなものがいるのなら。
 だが実際にはただの鼠なので、それだけのことだろう。
 しかし、情報提供者は子供ではなく、老人。匿名ではないし、住所も書かれている。そういうのはネットで扱っているのだが、手紙で来た。ただ、切手は多い目に貼ってある。きっと値段が分からないので、多い目に貼り付けたのだろう。何かの記念切手だが、売れば倍はするかもしれない。切手の絵柄は瑠璃懸巣。
「飲みますか、博士」
「いや、いい」
 編集者はペットボトルをリュックに差し戻した。春から初夏になったのかと思うほど暑い。妖怪博士は冬のコート。これでは暑いだろう。
 日向臭い場所。草の隙間にある道。地肌が見えているが車は通れる。この先に一軒だけ家がある。銀鼠の発見者だ。
 早速目撃者に話を聞く。元々農家だったようだが、村の一番奥にぽつりとある田畑。村から遠いので、ここに家を立てたのだろう。通う必要がない。
 今は山裾の一軒家に老人が住んでいるだけ。その農家、下からもよく見えるのだが、結構大きい。畑仕事ではなく、別の仕事をしていたのだろう。
「銀鼠ですかな」
「そうです。銀色の鼠です。これは貴種でしょ」
 老人は二階の部屋へ行き、箪笥階段を上り、三階の戸を上に開けた。この箪笥階段、左側は壁だが、右側は何もない。一応上から縄が垂れているが、頼りない。落ちても下は畳敷きだからいいが、日常的に上り下りするような場所ではない。三階と言っているが屋根部屋で物置。
 老人は小さな頃から、この箪笥階段で遊んでいたらしい。縄にぶら下がりターザンごっこもし、何度か落ちたらしい。箪笥には金具がない。滑り落ちたとき、引っかけないためだろう。
「箪笥の端にいました。わしを見て、驚いたかのように階段を上がりました。だから上にいるものと思われます。それで何度か見に登ったのですが、何せ物置になっておりまして、その中に逃げ込まれると、もう無理じゃわ」
「銀色でしたか」
「そうです。妖怪でしょ」
 編集者は一応カメラを持ってきている。写真がなければ何ともならないためだ。しかし銀鼠でなくても普通の鼠でも探し出して写真を写すなどは無理だろう。
「何か、思い当たることがありますかな」
 妖怪博士は、ここでもう興味をなくしたのだが、一応聞いてみた。
「何もありましぇん」
 編集者は妖怪博士に目で合図した。帰ろうと。
「銀鼠というのはいるのでしょうか」老人が博士に訊く。
「銀狐は実在します。茶色い毛の中に少しだけ白い毛が混ざっています。これは高いですよ。毛皮にすれば。しかし鼠の毛皮はねえ。それと銀狐は銀色の狐ではありません。少し白いのが混ざっている程度です。銀狼もいますが、これは人の頭の毛です。まあ、白髪ということでしょ」
「わしが見たのは銀色の鼠で、全身銀でした」
「銀鼠はありますが、鼠ではないのです」
「え」
「色のことでしてな。鼠色のこと。その鼠色に銀色を加えた色を銀鼠と呼んでいるらしいのです。正しくは銀鼠色のことです。ただの鼠色と区別するためです。色の話で、そんな鼠がいるのではありません」
 妖怪博士は、そのあたりを調べてから来たようだ。
「しかし、わしが見たのは銀色の鼠。だから、珍しいでしょ」
「そうじゃなあ」妖怪博士は何とも言えなくなった。
「銀色の鼠じゃった」
 老人が敢えて嘘を言う必要はないので、本当に銀鼠を見たのだろう。
 編集者は、早く帰ろうと、また目で合図をした。
「銀鼠を見られたのは、今回が初めてですかな」
「最近じゃわ」
 編集者は「目医者へ行け」と何度も口の中で言った。
「鼠の穴は黄泉へと繋がっていると聞きますが、その銀鼠は上ですなあ。天井裏の鼠は天へと繋がっておる。どちらも冥土だが、上なので、極楽浄土に繋がっておるのかもしれません。一度拝見してもよろしいですかな。そこから銀鼠が出てくるようなので」
「はいどうぞ」
 余計なことをと、編集者はつぶやいた。
 妖怪博士は靴下を脱ぎ、箪笥階段を上った。
 屋根部屋だが広い。高さも三角の尖っているところは結構ある。そして間取りがない。仕切っていないので、母屋分の広さの一間。かなり広い。柱が何本も出ているが、それよりも物置らしく、色々なものが積まれている。ほとんどは箱の中に入っているのだが、むき出しの仏像が先ず目を引いた。等身大より少しだけ小さい。蓮の花の上で座っている。
「誰ですかな」
「お釈迦様やな」
「じゃ、ここは極楽浄土ですなあ」
 しかし、壺とか、飾り物とか、鎧とかもあるし、刀剣などもむき出しで、埃を被っている。もう錆びているだろう。槍も何束もある。美術工芸品ではなく、実際に使った槍だろうか。
 一寸した秘宝館だ。
 天井はしっかりとした板張りで、板の間と変わらない。薄い天井板ではない。
 その上を妖怪博士が歩いていると、がしっときしんだ。
「そこは危ないです。落とし穴ですから」
 老人は慌てて駆けつけた。
 そして、その真上を見ると錆びた滑車がある。紐のようなものはないが、引っかける鈎はある。
 老人は落とし穴を開けた。すると、二階の納戸のようなところが見える。板の間だ。二階にある物置かもしれない。そして、その物置の床にも、同じような落とし穴の四角い板が填め込まれている。
「何ですかな、これは」
「上に上げるためです。わしが子供の頃は、これでエレベーターごっこして遊んだ」
 三階の秘宝館が怪しい。普通の農家で、しかも村はずれ、田畑の広さからはあまり豊かそうに見えない。そして、農業と関係のない品々がある。
 妖怪博士はそちらの方に興味が走ったが、ジャンルが違う。妖怪探しが仕事なので、考えないようにしたが、家の大きさ、豊かさから見て、畑仕事だけでこんな家が建つわけがない。三階にあるのは盗品ではないだろうか。しかし、昔のことだ。
「博士、帰りましょう」
「そうじゃな」
 一階に広い客間があり、そこで茶膳をいただいた。和菓子が皿に盛ってある。数が多い。それが鼠に見えたりする。
「これは、田舎饅頭ですな」
「わしの好物でして」
 妖怪博士は甘党なので、二つほど続けて食べた。
「それで如何なものでしょう、博士」
「ああ、銀鼠なあ」
「珍しいものやと思いますが」
「そうじゃなあ」
 編集者は甘いのが苦手らしく、お茶だけ飲んでいる。
「ところでご主人、この屋で鼠を今までどのぐらい見ましたかな」
「そりゃ鼠ぐらい、いくらでも見ましたよ」
「どんな色ですかな」
「黒っぽい灰色です」
「所謂鼠色」
「そうです」
「だから、銀鼠を見て驚いたのですな」
 編集者は妖怪博士の回答編が始まったと思い、にやっとした。ここが聞き所なので。
「二十日鼠でしょ」
「ハツカネズミですか」
「白い鼠です」
「見たことがありませんわ」
「だから、驚かれらのでしょ」
 編集者も意外だったようだ。ひねりがない。要するにマウスだ。実験用に使う、あれだろう。
「白い雪。白銀とも呼びますなあ。晴れた日に限られますが、光って見える。まさに銀色に。一面の銀世界というのも晴れた日に限られる。白と銀との違いは、発光しているように見える質感の波長の違いでしょうなあ。金色というのは作れません。金を使わないと。だから黄色で代用する。銀もまた同じ。これは絵の具の白を使うしかない」
 要するに生まれて始めて見たハツカネズミが偶然日が差し込んだ箪笥の横にいた。それで銀色に見えた。という錯覚。
「ああ、なるほど」と、老人は相槌を打った。納得してもらえたようだ。
 しかし、編集者は面白くない。マウスをなどいくらでも見ることができる。
 帰るとき、庭先で老人は何度も礼を言った。
「それよりもご主人、あの三階のことは世間に内緒にしておいた方がよろしいですぞ」
「はい、そののつもりです。先祖の悪口は聞きたくないので」
「そうしなされ」
 白銀よりも、もっと凄いお宝をこの老人は持っている。素人目で見ても、あの釈迦像は世に出すと危ないだろう。
 草いきれがする季節になっているのか、いい匂いがする。その道を下りながら「無駄足でしたねえ博士」と編集者は残念そう。
 妖怪博士は田舎饅頭を食べ過ぎて、胸が悪くなったのか、編集者のリュックのペットボトルのお茶をがぶ飲みした。
 
   了





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2020年05月03日

3739話 風景からのメッセージ


 探せばあるものだが、探しているときはない。それなら探せばあるものではないのだが、探す気がないが、常に探しているものがある。急に必要なものは探しても見付からないが、それほど急がないものなら、探せばあるものだ。
 また探さないとないものがある。このときは探せば見付かるかもしれない。探さなければ見付からないが、探せば見付かる。だから探せばあるものだ、となる。
 探さないでもあるものは、知っているもので、常にあるものだろう。探す必要がある場所なら、行けば見付かる。知っている場所に限られるが。知っておれば普段から探す必要はない。
 下田は常日頃から探しているものがある。だが、積極的ではない。急がないためだ。そしてそれほど必要なものではない。何かのついでに探すことはあるが、メインではない。だから探さないといけないものではなく、探す必要がないもの。しかし下田にとっては見付かれば気持ちがいい。
 本当に必要なものは探さなかったりする。探してまでやりたくないのだろう。これは嫌なことで、楽しいことではない。わざわざ嫌なことを探す癖はない。
 下田が常に探しているのは町のメッセージ。これは散歩中に見付ける。視界にそれが入ると、すぐに分かる。これはメッセージだと。こういうものは探す必要はないし、何の意味もない。しかし、散歩中、色々なメッセージが見える。看板などが一番いい例だろう。これは正真正銘のメッセージで、通行人に対して発している。積極的だ。そして作為的。
 そうではなく、壊れかけたブロック塀。少し欠けている程度だが、下田にとり、それはメッセージなのだ。何かを発している。傷んでいることは見れば分かる。こういうのは持ち主は見てもらいたいとは思っていないはず。塀なので、塀は見られてもいいが、塀の内側は見られたくない。だから塀で囲んでいる。当然塀がなければ踏み込まれるだろう。
 一部欠けていても塀の役目は果たしている。しかし、なかなか修理しない。下田はその前を毎日のように通るのだが、最初から欠けたまま。何年前かは覚えている。強い台風のあった年だろうか。何かが飛んできて、ブロック塀にぶつかったのだろう。
 さらに柿の木。これは最近見付けたものだが、秋の終わり頃はいやでも見ている。柿が成っているので。そして枝と実だけになった柿の木は、見飽きるほど見ている。
 そして柿の実もなくなり、ただの幹と枝だけになる。これも柿の木らしく、くねくねしているので、分かる。
 それで、視界から柿の木は消える。見るべきものがなくなるので。
 しかし、その後、妙な繁みを発見する。葉を一杯に付けた樹木。場所は柿の木のあった場所。しかし、見た感じ、柿の木に見えない。
 これは木が発するメッセージだが、木はそれを人に伝えようとしているわけではない。柿の実が柿色で目立つのは鳥に向けてのメッセージだろう。
 島田が受け取るメッセージとは、知っているものでも、知らないもののように見える事象があるということ。
 それらは一例で、下田は散歩中、色々なメッセージを待っている。探しているときには見付からないが、忘れた頃、出てきたりする。いずれにしても急ぐ用ではない。
 それらのメッセージを感知するのは下田の感覚。それをメッセージとして受け取るかどうかは、下田にかかっている。
 一つ一つのメッセージは、その事情などを探っていくと結構深い。自然からのメッセージなどは宇宙の始まりまで行くかもしれない。
 壊れかけのブロック塀。その持ち主がどんな感じでここで家を持ち、そしてなぜ囲いはブロック塀にしたのか。または最初から建っている家に引っ越したのか、または借家かもしれない。
 どんな家族が住んでいるのかまで行くと、物語の規模が大きくなる。一家の歴史を辿らないといけないが、そんなことをする必要はないだろう。
 受けたメッセージ、それは表面的なもの。奥までは分からない。だから合図を発している程度。信号を送っている程度。リアルな中身よりも、この表示だけで下田は十分だ。そして、それを見付ける。見付かっただけで終わる。
 そして今日も下田はそういうものを探しながら町をうろついている。
 
   了





posted by 川崎ゆきお at 11:57| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月02日

3738話 藁神様


 穏やかな日だが、柴田は心穏やかではない。しかし、穏やかな陽に当たれば、心も穏やかになるのではないかと、妙なことを考えた。その発想が分からないようで、分かる。単純すぎるが一割ほどは改善するかもしれない。これは多いか少ないかは判断しにくい。その基準となるものがないためだろう。しかし、何処かでそのデータを取っている人がいるかもしれないが、その必要性から考えると、いないかもしれない。
 柴田は藁にでもすがる思いで、陽にすがることにした。藁に比べれば太陽は巨大で、これが出なくなれば世界も亡びるだろう。藁がなくなるのとはわけが違う。
 しかし太陽の効能は方々に行き渡っている。陽を神として崇める民族もあるだろう。太陽神だ。
 つまり柴田は太陽神に頼ることした。藁神様よりましだろう。藁は貧乏臭い。逆に貧乏になるかもしれない。
 こういう発想ができる柴田はユニークだ。試そうとしたのだ。太陽に向かって飛んだ蜂のムサシような勇気はないが、柴田はそんな無茶をするほどのエネルギーはない。単に心穏やかではない程度なので。
 それで日当たりの良いところを探していると、田んぼがあった。昔はレンゲやタンポポがこの時期咲いているはずなのだが、別の草に取って代わられている。いずれも背は低い。地面すれすれだ。これもしばらくの間で、すぐに水田になるだろう。それまでの命だ。
 柴田はその田んぼの畦道に入り込む。田んぼの端ではなく、他の田んぼの間の道。これは道とは言えない。お隣の田んぼの境界程度の盛り土。
 しかし田んぼの中程まで入り込めるので、日当たりが良いだろう。
 柴田は田んぼの中にいる。柴田も田が付く。柴の田。謂れは聞いたことはない。柴田といえば柴田勝家。秀吉と争い負けている。その柴田が武家なので、柴田も武家の血筋かもしれないが、そういう地名の所から出た人かもしれない。
 柴田は田の中にいる。田中という人も多い。そんなことを考える余裕があるのだから、柴田の精神状態もそれほど悪くはないのだろう。
 畑の中程に達すると、そこにこんもりとしたものがある。稲刈り後、残っていた藁だろうか。肥えでも作るために野ざらしになっているのだろうか。それは分からないが。
「私にすがる気はないとか」
「誰だ」
「藁だ」
「貧乏がうつりそうなのでな」
「困っていないんだ」
「そうだな。藁にはまだすがる必要はない。今日は陽にすがることにした」
「すがるものがあるのだな。それじゃわしの出番はない。ずっとない。だから暇だ。わしにすがらんか、サビスするぞ。暇なので」
「何をしてくれるんだ」
「私を一本手に取り、それを大事にしてくれれば改善する」
「改善」
「よくなる」
「どの程度」
「さあ、自信はない。わしもすぐに折れるからな」
「頼りないなあ」
「藁だからな」
「遠慮する。藁では大変だろう」
「頼りないからな」
「まあ、余計なことをしないで、寝ておればいい」
「そうか、気が向けば来なさい」
 柴田は田んぼの真ん中で、日向ぼっこを続けたが、藁のことが気になる。
 それで場所を変え、田んぼの向こう端まで行こうと歩きだしたとき「達者でな」と藁がまた喋った。
 悪い奴ではない。良い藁だ。しかし藁では何ともならない。
「達者でな」の声がまた聞こえた。
 そして田んぼを出たとき、振り返ってみた。先ほどまであった藁の塊が消えている。
 柴田は、すぐに引き返したが、藁などそこにはない。
「しまった」と柴田は思った。やはりあれば藁神様だったのだ。
 そんな機会など滅多にない。折角手を差し伸べてくれたのだから藁に頼るべきだった。こんな偶然は一生ないだろう。
 しかし、藁では何ともならないか、と、諦めた。だが藁の好意は嬉しかった。
 心穏やかではなかった柴田だが、少し和んだ。
 
   了




posted by 川崎ゆきお at 13:02| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月01日

3737話 会長の体調


「何処がどうなのか分からんが調子が悪い」
「良い調子でやっていたのではありませんか」
「そうなんだが、違ってきた。原因が分からん」
「知っていたりして」
「思い当たることはあるが、それを言い出すときりがない」
「具合が悪いのですか」
「それほどでもないが、何か元気がない」
「今までありすぎたのではありませんか」
「そうかな。君はいつも調子が良いようだが」
「良くないですよ。悪い調子が慢性化しています。だからこれで普通なんです。でも悪い中にも良いときと、さらに悪いときがあります。まあ、波は穏やかです」
「いいねえ」
「よくありませんよ。ずっと調子が悪いので」
「しかし、見た限り、君は安定している。分けて欲しい」
「だから、悪い状態をお分けしても仕方がないでしょ」
「そうだな」
「ところで、どうしましょう。会長がその感じでは、延期しましょうか」
「それはできない。後れを取ってはまずい」
「でもかなり遅れていますよ。少し休んでも変化は目立ちません」
「そうか」
「延期してもしなくても、それほど変わりませんが」
「ほう、安定しているかね」
「悪い側で安定しています」
「それだな」
「何がですか」
「安定するには、悪くなった方がいい。調子が悪いときの方が安定するということじゃないか」
「いえ、それでは成果が出ません」
「張り切ってやっても大した成果は出ない」
「ご尤も」
「だから調子を下げても変わらんという意味だね」
「そうです。逆に会長が元気ですと、やりすぎになります。全部から回りですし」
「それを言うな、威勢がいい方がいいだろう」
「その威勢の効果がありません」
「じゃ、どうすればいい」
「運良く、会長は調子を崩された。そのままを維持されては如何ですか」
「元気になりたい」
「それを押さえて」
「うーん」
「私が思うのですが、これまで見た結果からして、力まない方が上手く行きます」
「そうなのか」
「それに会長も力みすぎて、体調を崩されたのでしょ」
「やはりそれが原因か」
「他の原因かもしれませんが、いい機会です。このまま静かにされていることをおすすめします」
「君は悪口を言っておるのか」
「悪口ではありませんし、苦言でもありません」
「分かった。一度試してみる」
「よろしくお願いします。ずっとそのままで」
「うむ」
 
   了




posted by 川崎ゆきお at 13:01| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする