2020年10月16日

3904話 近出


 秋晴れの清々しい晴天だが田沢は部屋でじっとしている。病気ではない。元気だ。ただ、一日中じっとしているわけにはいかない。一人暮らしなので食べるものを買いに出る必要がある。意外とそれで日に何度も外に出ているのだが、これは計算に入っていない。つまり、日常移動範囲というのはじっとしているのに近い。部屋の中を移動するようなもの。冷蔵庫へ行くのと同じようにスーパーへ行くだけ。その往復は確かに外だが、そのように思えないのは、馴染みの道のためだろう。
 これは晴れていても雨でも関係がない。家の中での移動で傘を差す必要はないが。
 要するにいい天気なので、出掛けようとする気がない。その必要がないため。しかし年々その機会が減っており、出掛ける回数も減り、その距離も短くなった。これはお出掛けをした場合だ。遠出を楽しむとかの。
 それで田沢は最近、「近出」を楽しむようになった。しかし、遠出もそれほど楽しく思えなかったりすることが多いように、近出も同じ。だが、近いので引き返しやすいし、交通費もいらない。
 日常最低限のことでしか外出しなくなった田沢だが、この近出に関しては、勢いがいい。
 その近出とは日常移動の道筋から少し離れること。つまり寄り道。その距離は大したことはない。だが、それは無駄なことで、意味がない。寄り道しないといけないような事情はなく、遠回りになるだけ。
 遠回りになったので、遠くまで来た、遠出した、とは当然思わない。近すぎるため。
 しばらく行くとすぐにいつもの日常移動の道に吸収されたりする。
 線で移動していたのを面で移動するようなもの。ローラー作戦だが、それで近場だが遠くへ来たような錯覚をたまに覚える。こんな場所があったのかと思うような驚き。アメリカ大陸を発見したわけではないが。
 この驚きは、実用性がない。何かに役立つわけではない。田沢が知らなかっただけ。
 そして知ったからといって何かが起こるわけではないが、一寸した刺激になる。旅行や行楽の目的もそれだろう。普段見ないものを見る。それがいいのだ。
 日常移動場所に駅がある。もうかなり乗っていない。電車で出掛けるような用事がない。買い物のほとんどは近場で済む。そこで売っていないものはネットで買う。
 踏切待ちで、通過する車両を見ていると、たまには乗ってみたくなる。それで用を適当に拵えて、乗ったこともある。しかし、外から見ていた感じと、実際に車両の中での感じは違っていた。まるで、部屋でじっとしているようなもので、これは逆だろう。
 
   了
 


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2020年10月15日

3903話 カレーを食べる上司


 得体の知れない上司。三村はその人と組むことになったのだが、何を考えているのか分からないようなツルンとした顔。頭もツルッとしているが横はある。そこは毛が長い。顔は下膨れで、丸い。目が大きく、瞼はまん丸でボリュームがある。
 エレベーターに一緒に乗ったとき、後から乗り込んできた大勢に押されたとき、上司は左の胸を手でかばった。どこか悪いのかもしれないが、そういうことは聞いていない。
 三村にとり、相性がいいのか悪いのか、見当が付かない。顔がツルッとしているので、取り付きにくいのだろう。頭もツルッとなので、取り付いても滑るのかもしれないが、そんなはずはない。ただのイメージ。
 上司は温和な人なのだが、何を考えているのかが分かりにくい。本当に穏やかなのか、腹に何か持っているのかが探りにくい。しかし、体型も丸っこく、人当たりもいいので、特に問題はない。しかし、得体の知れぬ、何かを秘めているような雰囲気が常に付きまとっていた。
 それで、三村は用心し、心を開かなかった。そんなものは別に開かなくてもいいし、心の扉は何重もあったりして、きりがないだろう。ただ、親しみの湧かない人だ。
 これは長く付き合わないと分からないのかもしれない。
 しかし、それが分かるときが来た。
 昼休み、食事を誘われた。滅多にない。実は仕事の打ち合わせで、昼休みだが、食べながらやることになる。だから本当に食事だけを誘われたわけではない。それに上司と一緒の食事では、寛げない。できれば誘われない方がいいと思っていた。それに得体の知れない上司なので、緊張する。
 食事といっても喫茶店。上司はいつも喫茶店で昼を食べているらしい。
 三村はランチものではなく、サンドイッチを注文。食欲がないためだ。
 上司はカレーを注文した。これもあとで分かるのだが、カレーばかり食べているらしい。しかも決まって喫茶店で食べる。カレー専門店や食堂ではなく。
 上司が注文したのは普通のカレーだが、チキンかビーフだろう。小さい肉が入っている程度。
 テーブルの上にそれが出ると、上司の右手は左の胸へいった。
 心臓でも悪いのだろうか。
 内ポケットに手をやり、何やら白いものを取り出した。ハンカチだろうか。しかし、丸い。
 その丸いものをテーブルの角でぽんと叩き、カレーにさっと投入した。卵だ。殻は右のポケットから取り出したビニール袋に丸めて入れ、さっと仕舞った。
 生卵入りカレー。
 この上司、これが好きなようだ。
 左の内ポケットに卵を忍ばせていたのだ。よく割れないものだと感心する。
 そして上司がその生卵入りカレーを食べているのを見て、ニワトリを連想した。ツルッとした丸い顔。そして卵形の目。
 これを見て、三村はやっとこの上司に馴染めた。
 
  了
   



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2020年10月14日

3902話 立ち止まる


 ある日、立ち止まってしまうことがある。道端で立ち止まることはあるが、希だ。立ち止まらないといけないものはそれほど多くはない。信号待ちでは立ったままとどまるが、そういうことではなく、注意を引くようなことでの話。
 昨日まで咲いていなかった花があったとしても、立ち止まってまでは見ない。その花に用事があるのなら別。同じ花を育てているとか、花を生けたいので、花泥棒できるかどうかを確認するとか。
 多くは移動しながら見る程度。足まで止めないだろう。
 吉田が立ち止まったのはその方面ではなく、何となく立ち止まった。路上ではない。昨日までやっていた事柄などだ。
 それが済んだ。
 何か物足りないと感じたのは、そのためだろう。やるべき目的のようなものが一段落付いたので、先へ引っ張ってくれる引力のようなものを失った。それで進めなくなり、止まってしまったわけではないが、燃やすべきものがないのは淋しい。
 一段落付いたのはいいことだが、二段三段とまだ待っている。しかし、それは先で、当面の標的はない。
 張っていた気が緩み、気張らなくてもよくなったが、気が抜けたようになる。
 これはいけないと思い、吉田は用事を探した。標的だ。これはいくらでもあるが、スタートを切っていない。やる気はあるが、放置。またはやる気が最初からない標的もある。美味しい標的を終えたばかりなので、楽しみが消えたようなもの。
 それよりも、ふぬけのようになった状態を逸したい。
 やることをこしらえるとは、このことだろう。腹に一物持つ方がいい。そうでないと腑抜けだ。
 吉田は、そういう精神面に強い寺の息子を訪ねた。同級生だ。中学時代から年寄りのようなことばかり言っていた。全て受け売りだが、その語りが坊主臭くて、それが面白かった。今も寺にいるはず。
「人生山あり谷あり」
「そういう話ではなく、もっと具体的に」
「尾籠、いや、微妙な話なので、そこに仏の話を持ち込むのは難しいのよ」
「立ち止まってしまった」
「人生山あり谷あり」
「それは仏の言葉か」
「さあ」
「それより、この気持ちを何とかしたい」
「何が起こったのか知らんないけど、分かりにくい話だね」
「急に、ふと立ち止まったんだ」
「解脱したんだ」
「そんなわけない。やることが途絶えたので、間が空いた。この間、怖いねえ。何かクニャッとして」
「あ、そう」
「いやいや、頷くだけじゃなく、こんなにいい問いかけはないだろう。ここぞとばかり、語ってくれよ」
「思い付かない」
 吉田の表情に活気が戻ってきた。
「じゃ、帰るよ」
「達者でな」
「君こそ、寺を継がないの? お父さん、かなりの年だろ」
「隠居すると駄目になるといって」
「ああ、やはりやることが必要なんだ。気を張ることが必要なんだ」
「さあ、それはよく分からないけど」
「じゃ、またな」
「ああ、いつでも来いよ。暇だから」
「ああ」
 吉田の不安は何となく去ったようだ。
 
   了




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2020年10月13日

3901話 上手


 目が覚めると、かなり遅い時間だった。約束の時間に間にあうかあわないかのギリギリ。下村は目覚まし時計を使っていない。滅多に朝から人と会う用事がないためだ。それに仕事に行っていないので、朝は好きなだけ寝てられる。これがしたいので自宅勤務になった。自宅警備員ではない。
 雨が降っている。昨夜からまだ降り続いている。寝ている間、一度も目が覚めなかったので、その間、降っていたかどうかは不明だが、夜中、外に出ないので、関係しない。
 雨の日は睡眠時間が延びる。それで目が覚めたとき、遅かった。まだ寝たりないが、起きないと間にあわない。
 秋の雨、秋の朝。これは何故か眠い日がある。眠くないのは夏ぐらいだろう。暑いので起きている方が楽。
 しかし、眠い。
 これは美味しい眠り。ここでもう一眠りするのは、あたい千金。それほど値打ちがある。他の何よりも。
 どちらへ行くか。
 ものを知らないとき、それを聞くはその場の恥。聞かないでそのままだと一生の恥。
 下村は後者だ。先々よりも、その場を優先する。
 それとは関係はないが、ここで起きなければ先々困ることがある。人と会う約束なので、その用件に入れないし、また会わないとなると、これは約束破り。しかし遅れる程度はいいだろう。まだチャンスはある。だが、ここで起きないでグズグズしていると、遅刻の寛容範囲内から出てしまう。
 さて、どうする。
 迷ったときは動かない。動けないのではなく、動かない。
 下村は目だけ開けてじっとしていた。当然、そのままでは瞼のシャッターが徐々に徐々に降りていく。
 やがて下村は寝入った。
 だが、うたた寝程度。結構長く寝ていたので、もう寝たりているのだろう。それ以上眠れないが布団の中でグズグズしていたい。秋とはいえ雨で肌寒い。蒲団の温もりがいい感じで下村をサポートする。ずっとそのままでいよと包んでくれる。
 次に目が覚めたとき、遅刻の寛容範囲内から出かかった。今、起きれば、まだ遅い目の遅刻で済む。
 ギリギリだろう。ここまで引っ張ったが、もう限界と、下村は起きる。
 起きると意外としゃんとしていた。睡眠が効いているためだ。
 それで、さっと用意し、約束の場所まで急いだ。遅刻の寛容範囲内だが、少しでも早い方が、その罪は軽くなる。
 そして待ち合わせ場所に着いたのだが、先方の姿がない。
 電話すると。ムニャムニャ声。
 先方は下村よりも上手のようで、まだ夢の中だったようだ。
 
   了


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2020年10月12日

3900話 雨枕


「雨ですなあ」
「また、その話になりますか」
「いや、雨が降っていたので、今も降り続いていますがね」
「見れば分かります」
「でもこの雨、台風がもたらしたものだと思われます」
「はい、そう思っていればいいでしょ」
「秋の雨。一雨ごとに寒くなる」
「春先も、春の雨は一雨ごとに暖かくなると言ってませんでしたか」
「言ってません」
「じゃ、春、雨が降っているとき、なんて言ってました」
「春雨と」
「そうでしたか」
「鍋に春雨を入れたのですが、あれは溶けますなあ。早く引き上げないと」
「その話でしたか」
「そうです。だから春に降るので、春雨だと言っただけです」
「秋は秋雨ですね」
「ほら、あなたも雨の話に乗りだした」
「乗っていません。これで終わりです」
「しかし、雨の日は人が少ない。ここも普段の四分の一ほどでしょ。だから雨が降っているということはかなり影響力が高いのですよ。何でもない話じゃない。長雨など続くと、客足が減ったまま。店屋なんて売上げに影響しかねません。それに野菜が高くなったりする。降りすぎても駄目だし、晴れすぎても駄目。それで高い野菜を買わないで、別のものを買う。または高いのですが、我慢して、高いのを買う。すると、予算が狂うので、そのあとは百均とかへ行って、安いのを買う」
「長雨ではなく、長話ですね」
「その百均へ行くとき、思わぬことに出くわす。高い野菜を買ったばかりに、そういうことが起こる。野菜が高いのは長雨。だから、ここでも影響が出る。思わぬこと、椿事に遭遇。人生そのものが変わるかもしれません」
「それを言い出せば、何でもそうでしょ」
「雨が降っていないので、そのまま出掛ける。しかし、途中で降り出した。戻って傘を取りに帰るか、そのまま出掛けるかの選択がある。その道筋での時間帯が変わってきます。傘を取りに帰らないで、濡れながら行った場合と、取りに帰った場合とでは違いがある。道での遭遇。数分の差が人生を決める。そのきっかけは雨でしょ」
「他にも色々ありますよ。煙草が切れたので、寄り道して、煙草屋経由で行く場合と、ストレートに行く場合と。だから雨だけが引き金にはならない」
「まあ、そうですがね」
「さて、肝心の用件ですが」
「もう本題に入りますか。私は枕が好きでしてねえ。枕だけで終わった方がいいのでは」
「いや、それじゃ雨の中、わざわざ合うようなこともないでしょ」
「そうですねえ。で、本題に入りましょうか」
「そうしましょう」
 
   了





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2020年10月11日

3899話 午後


「今日は天気も悪いし、体調も良くないので、さっさと終えて、さっさと帰ろう」
「よく、そういうことを言われますねえ」
「そうかな」
「何度か聞きました」
「特に今日は調子が悪い。やる気も起きん。家に帰って寝ていた方がいい。帰ると遅い目だが昼寝の時間」
「じゃ、これを食べて、早退しますか」
「いや、これを食べてから喫茶店へ行く。そういうコースになっている」
「分かってます。付き合います。しかし、喫茶店で何か食べて、ついでにコーヒーを飲んだ方が安くあがりますよ」
「定食ものだろ。変わり映えしない。それに食事と喫茶は別」
「はい」
「じゃ、行きますか」
「そうだね。油っこいのを食べたので、口がネチャネチャする。コーヒーでそれが消せる」
「この店にもコーヒー、ありますよ」
「ダメダメ、水かお茶でいい。それにここじゃゆっくりできない。昼時で、表で客が並んでいる」
「はい、出ましょう」
 二人は会社の戻り道にあるいつもの喫茶店へ入る。
高い店のためか、すいている。
 二人は、そこでゆったりと過ごした。
「どうだね、君の方の調子は」
「体調ですか」
「いや、仕事の調子」
「まずまずです」
「それはいい。まずまずなんだから。私は仕事の方も調子が悪い。身体の調子も今日はいけないので、社に戻っても役にたたん」
「そろそろ時間ですので」
「ああ、昼休みが過ぎるね」
「はい」
 表に出て、二人は別れた。
 若い方の社員は社に戻りかけたが、ふと足を止めた。自分も本当は休みたいところ。どこも悪くはないが、ふとそんな気になった。
 足が謀反を起こし、脇道へ逸れた。方角が九十度違う。そこを少し歩いただけでも、戻るのが遅れる。近道ではないし、また、そちらへ行く用事もない。
 先輩は社に戻らず、そのまま帰ってしまった。しかし後輩に、それを伝えている。急に気分が悪くなったので、そのまま帰ると。それを報告しないと先輩は無断早退になる。
 だから、やはり、社に一度戻ることにした。
 責任感が足の謀反を押さえ込んだ。
 少し昼休みが長くなったが、寛容範囲内。よくあること。それに昼休みから戻ってきたあと、あまり仕事をしない。腹が膨らんでいるためだ。たまに胸焼けがして、仕事どころではないときもある。
 社は貸しオフィスの一フロアを借りているがドアを開けると、深閑としていた。
 まだ、みんな戻っていないのだろうか。
 しばらく待ったが、誰も戻ってこない。
 階を間違えたわけではない。自分の机があるし、引き出しを開けると、私物が入っていたりするので、疑いようがない。
 全員、あの先輩のように早退したのだろうか。
 
   了



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2020年10月10日

3898話 聖域


 岸の森を西に曲がったところに、聖域がある。立ち入り禁止だ。しかし、それは昔のことで、今はそうではないが、分かりにくいところにあるので、立ち入る人はほとんどいない。聖域時代は神社が管理していたようだ。その一帯は国有林だが、一部神社の土地がある。聖域はその中。
 何人も立ち入ってはいけない場所で、神主でさえ入れない。そのため、原生林に近い状態で放置されている。だが自然界にはそれなりの秩序がある。高い木が密生するようこともない。地面もそうだ。
 そこが聖域であることは、もう神社でもほとんど忘れている。用事がないので。それに飛び地のようなところにある。それに使われていない道は通りにくい。
 国有林側には林道がある。これも使われていないので、草に覆われ、ひどい場所では倒れた木が踏切のように塞いでいる。だから車は通れない。
 その辺りに入り込むハイカーなどはいない。高い山はないし、そんなコースもない。神社は人がいるところに建つ。村の神社なので、村人が建てたもの。神社は町の端にある。山を背にし、場所としては、ここだろう。寺より先に、いい場所を取っている。
 郊外の外れだが、町ができている。そこの人が散歩で、その聖域近くをうろつくことがある。一寸した里山だが、長閑さはない。里山はやはり家が見え隠れし、人工物が半々程度あるほうが落ち着く。聖域近くはただの山の中。自然率百パーセントに近い。
 そこが聖域であることを発見したのは町の散歩人。しかし神社や、旧村時代の人達なら知っている。だが、話題に上ることは先ずない。
 町の散歩人はSNSをやっていて、そこに写真などを載せた。
 立ち入り禁止を示す石柱が写っている。だが、文字はもうよく見えないので、そう読めるとなっている。
 そして神主の証言もある。確かに聖域だと。これでお墨付きをもらったので、ネットに上げた。出鱈目だとは思われたくなかっのだろう。我が町の近くにも聖域があると。
 聖域へは神社の裏からも行ける。以前は聖域前に祭壇のようなものがあったらしい。聖域内ではなく、その入口。そこに注連縄が張られていた。古い写真が残っているが、もう注連縄も古くなっている。それを最後に、交換しなくなったのだろう。最後に写した写真のようだ。
 聖域は一寸窪んだところにあり、湿気ている。雨が降ると小さな水溜まりできる。水捌けが悪いのだろう。近くに谷川らしきものはない。
 何故聖域となったのかは不明らしい。いつ頃からそうなったのかもはっきりしない。しかし、かなり昔からそうだったようだ。
 神主は興味はないらしいが、母親がそれなりに知っていた。しかし、それは秘密らしい。
 神主は誰にも言わないから、聞きたいとねだった。
 会話不足の母親は、口が軽くなっていた。
 神主はそれを聞いて、うーんと唸った。
 この聖域、勝手に作ったもので、聖域が必要なので作ったらしい。人が入れない場所として。それだけでよかった。
 その聖域に何かあるわけではなく、人が踏み込んでいない空間があるだけ。人跡未踏地を近くに作っただけ。
 町の散歩者が、さらに神主に聖域のことを聞きに来たが、もう教えなかった。
 
   了



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2020年10月09日

3897話 満ち足りた世界


「問題は満たされたあとなんです。やることがなくなる」
「僕は何も満たされていないので、やることだらけだ」
「そちらの方が、実はよろしい」
「いえ、あなたのように満ち足りた暮らしぶりがしたいものです。きっと懸命に頑張られたからでしょうから当然かもしれません。僕はそれほど努力はしなかったので、当然の報い」
「いい報酬ですよ」
「そうですか」
「私はやることがなくなったので、暇で仕方がない。あなたが羨ましい」
「それはないと思いますが」
「満ち満ちて途方に暮れる」
「そんな暮れ方をしてみたいものです」
「いいものじゃありません。淋しいだけで」
「はい」
「ところで、今日は、何か御用でも」
「いえ、近くまで来たので、寄りました」
「あ、そう。暇だからね。ずっと在宅だ」
「数年前までは忙しそうでしたので、遠慮していました」
「そうだね。友人と会って無駄話もできない状態だった」
「また、何か始められては」
「まあ、ぼちぼちとね。だが、満たされても、大したことはない。問題はそのあとだ」
「僕には一生関係のない話です。考えなくてもいいような」
「そうだね。ところで、君は今、どうしているの」
「仕事を探しています」
「あ、そう。用件はそれだね」
「すみません」
「謝ることはないよ。紹介するよ」
「お願いします」
「自転車の整理員だが、足りないんだ」
「はあ」
「確実な仕事だ。条件もいい。君ならまだ若いので、先方も歓迎するだろう」
「そんな話、何処で聞いたのですか」
「この前まで、私がやっていたのでね。それで辞めたので、一人足りない」
「はあ」
「何か?」
「正社員で、何かありませんか」
「無理だな」
「やはり」
「私は明日から倉庫へ行く」
「倉庫?」
「荷さばきだ」
「それは大変でしょ」
「運動不足でね。ちょうどいい」
「余裕ですね」
「満たされていると、やることがないので、まあ、適当だよ」
「じゃ、自転車整理、よろしくお願いします」
「やってくれるか、先方も喜ぶ」
「はい、来た甲斐がありました」
「そう言われると嬉しいよ」
「はい」
 
   了


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2020年10月08日

3896話 浮かぶ幽霊


 何かあるものよりも、何もないものの方が乗りやすいかもしれない。それは意識の乗せ方だ。何もないと、何かあるのではないかと探したりする。何かあるものはその何かが分かっているので、適当に見る。分かりきったものなら、もう見ない。
 ところが、何もなさそうなものでも、何かありそうな気がする。実際にはまったく何もないことなどはない。何かが確実にある。ただ、あまり意味のないもの、気にするようなことではないため、何もないと言っているだけ。または目的とするものがない場合、何もないとくる。別の人が見れば有意義なもの、有為なものがあるのかもしれない。
「見識を広めるには何もないものを見ることじゃ」
「それじゃ、拡がりませんよ」
「いたずらに広げても深みがない」
「しかし、何もないものをじっと見るなんて、苦痛です」
「そのうち、見えてくる」
「何がです」
「意味のあるものが」
「本当ですか」
「私は嘘は申しません」
「それが嘘だと思うのですが」
「ものをよく見るとは、見識を変えること」
「見方ですか」
「見る方法を変えることで、何でもないものが変化する」
「でも、より狭くなりませんか。より細かいところまで見よということでしょ。うんと目を近付けて毛穴まで見るような」
「そうではない。何もないものに何かが生じる」
「本当ですか」
「そのものに生じるのではなく、見る側に生じる。別の切り口に変えたので、見えてくるのじゃ」
「何が」
「だから、何もないと思っていた認識とは違うものが生じるのだ」
「面倒そうですねえ」
「まあ、試してみなさい。そして何かあるものではなく、何もないようなものを今後注意深く見なさい」
 弟子はそれを実行した。
 すると、何でもない通り道で幽霊が浮かび上がった。
 何もない通り道。何もないはずなのだが、もの凄い何かと遭遇したのだ。早速師匠に報告する。
「幽霊を見たとな」
「はい、何もないはずの道を見ていましたら、とんでもないものを見ました。師匠の仰る通りです」
 師匠が想定したのはそういうことではない。
「本当に幽霊を見たのか」
「はい、見ました」
「誰の」
「さあ」
「その幽霊、どうした」
「すぐに消えました」
「歩いておったか」
「いいえ。地面から少し高いところに浮かんでいました」
 師匠はぞっとした。
 
   了




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2020年10月07日

3895話 気遣い


 気を遣う人と、遣わない人がいる。気を遣われている人は楽だ。気を遣われていない人は、まずまずだろう。下手な気遣いなど、面倒に思うし、それで普通なので、特に問題はない。
 気を遣われている人は得をしている。気を遣っている人のサポートやフォローを無料で受けているようなもの。ボランティされ続けているので。
 ただ、そんな気遣いを要求しているわけではないが、見るからに気を遣って欲しいと言っているな雰囲気の人もいる。
 それほど重要なことではなく、ただの友人知人や先輩後輩同僚、その他諸々の普通の関係でも気を遣わないといけない人は面倒。できれば同席したくない。損をしているとは思わないが、余計な気遣いがいる。だから余計なのだ。
 お気遣いなく、と言ってくれる人もいる。これをまともに受けると、気遣いされることが面倒なためだろうか。フォローされたりするのが面倒と感じることもある。特別扱いされる側が逆に気疲れする。
 ずっと気遣いしてくれている人が、いざというとき、消えたりする。または動かない。そして普段は気遣いの欠片もない人が、いざというとき、動いてくれたりする。
 しかし本当に尊敬している人や、その存在に憧れている人に対しては、普通に気遣いする。まあ、礼儀だろう。その相手は決して弱い人ではなく、逆に強い人。だから気遣いなど必要ではないが、気を遣ってしまう。プレッシャーもかかっているのだろう。
 また、上には気遣いするが、下にはしない人もいる。
 また、気遣い返しというのもある。こちらが気遣いしたのだから、相手も気遣いしてくれる場合もある。
 場合というのは色々で、一概には言えない。
 当然素直な気遣いもある。
「君は気を遣いすぎなんだ。そこまでやると嘘臭くなることが分からないのかね」
「はい」
「はいじゃない。気遣いするとどういうことになるのかの気遣いが君には欠けている」
「はい」
「はいじゃない。はいじゃ」
「はい」
「私に気遣いしてくれるのは嬉しいが度が過ぎると逆になる。分かるかね」
「はい」
「はいじゃない」
「はい」
「君は結局は気遣いベタ。あからさますぎるんだ。それじゃイヤミになる」
「おそ松くんの」
「違う」
「はい」
「はいじゃない」
「はい」
「私は君が分からない」
「はい」
「だから、ついつい君に気遣いするようになってしまった。それが目的なのか」
「違います」
「気遣いもやり過ぎると毒になる。分かるね」
「はい」
「はいじゃない、はいじゃ」
「はいはい」
 
   了
 
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2020年10月06日

3894話 蜘蛛の糸


 上を見てもきりがないが、横を見てもきりがない。下を見るとすいている。数人しかいないだろう。
 上田は、それら下の人間の上にいる。それだけでもましだが、誇れるものではない。下がひどすぎる。最初からやる気がないのは、それだけの器量が最初からないことを知っているので、無駄なことはしないのだろう。
 だが、上田は違う。上を目指している。しかし上を窺う横の人がもの凄い数で並んでいる。これでは上へ行けるのはほんの僅か、ほとんどはそのままだろう。しかし、横にも序列がある。横並びなのだが、僅かながらの差はある。しかし、頭一つ飛び出さないと、上には行けない。行けないから横並びから脱せないで、そこにいる。
 そして上はすいている。それなら、大勢が上に行っても大丈夫なほど。しかし、それが上の世界で、多いと上が上でなくなる。
 下は完全に諦めているが、上田達の横並び連中はまだやる気はあるが、あまりやる気を出し続けて長い人は、疲れてもう動かなくなっている。上へ行く気がなくなったのだろう。そのチャンスはあるが、あるだけ。
 ある日、上田の鼻先に蜘蛛の糸が降りてきた。上へ登るチャンス。これは偶然だろう。つまり上へ行くには偶然しかもうない。その偶然が天からの蜘蛛の糸。上へ行ける糸。
 当然上田はその糸を掴み、這い上がろうとしたが、これも当然のように横の連中も、その糸を掴んだ。先頭は上田。しかし下に数え切れないほどぶら下がっている。これでは糸が切れるだろう。
 案の定、中程で糸が切れ、多くの人が落ちた。切れたのは下、上田の下にあと数人まだぶら去っている。これも切れるだろう。
 上田が恐れたのは上田の手元の糸が切れること。そうなれば上田も落ちる。
 だから足元で糸を切れればいい。
 上田は重さで切れる前に、足元の糸を切ろうとしたが、足だけでは切れない。足をハサミのように挟んだり、足の指で挟んだりしたが、そんな柔らかいものでは切れない。
 そのうち、すぐ下にいた奴が上田の足を掴んだ。
 これはいけないと、上田は蹴り下ろす。すると、下に落ちた。
 いい感じになったので、上田は身体をゆらした。すると、下はバタバタと落ちていった。簡単なことなのだ。
 そして上が見えてきた。あと一息。
 そのとき、何かが起こる。これは当然だろう。
 だが、それは上田の内面から来た。
 今まで蜘蛛の糸を頼りに登ってきたが、こんな細い糸で、よじ登れるはずがない。手を切るだろう。それなりの太いロープでも難しい。腕の力がどれだけいるのかを考えると、登るどころか、ぶら下がっているだけでも数分も持たないだろう。それよりも蜘蛛の糸がこんなに強いはずがない。
 それが頭によぎった瞬間、事は終わった。
 蜘蛛の糸では登れない。
 
   了




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2020年10月05日

3893話 古池


「古池へは行きましたか」
「いいえ」
「この枝道の先に森がありまして、その中央部にあります」
「そうですか」
「折角ここまで来られたのなら、見て損はありません。それに、ここは民宿しかない辺鄙なところ。観光地というよりも、湯治場でした。ただ、温泉は湧きませんがね。それでも行者さんなどが団体で来ますよ。ここを宿坊にして、山へ行かれるのです。だからあなたが泊まっている民宿も、そうですよ」
「そういえば阿弥陀坊となっていました」
「名前負けです。偉すぎる。もう少し気楽な名前にすれば良かったんですがね。まあ、宿坊代わりに使う人は希で、シーズンがありますしね。それに来られる人は普通の人が多いのです。商店街の人とかね」
「じゃ、さっきの古池へ寄ってみます」
「見るものが少ないですからねえ。何もないところなので、渓谷ぐらい。結構深いですよ。だからハイカーの人も泊まりに来ます。日曜行者さんとかち合いますがね」
「はい、有り難うございました。早速行って見ます。で、その古池、蛙が飛び込むような池ですか」
「さあ、何もない古池です。水溜めだった場所です」
「じゃ、人工の」
「いえ、掘ったものじゃありません。最初からありました。あとで手を加えましたがね。今は使われていません。池に戻ったのです」
 吉田はその古池の前に立つ。池というより、沢のくぼみにできた沼だろう。木は水際まできているし、沼から生えている木もあるが、流石に枯れている。
 斜面の繁みに囲まれて、ポッカリ空いたような空間。それほど大きくはないが、小学校のプールぐらいはある。
 吉田は沼に映る木とか空とかを見ていると、気持ちが良くなってきた。誰かがやっている芸ではない。誰かが書いた絵でもない。
 紅葉が始まっているのか、ぱらりと黄色や赤い葉が水面に落ちる。既に落ちている先客の葉と混ざる。その配置は自然のもの。誰もレイアウトなどしていない。しかし、見事に葉や色の組み合わせができている。
 吉田が少しだけ目を上げ、向こう岸を見る。白いものが動いたためだ。白い鳥かもしれない。
 しかし、それはすぐに人だと分かった。そんな大きな白い鳥はいないので。
 その白い人は、淵まで降りてきて、そこで座っている。よく見ると白装束。行者だろう。一人で来ているのだろうか。団体が多いと聞いていたが。
 白い行者も気付いたのか、吉田を見る。そしてこちらへ向かってきた。しかも淵沿いではなく、水面を直線コースで。
 流石に行者、とは思わない。そんなことができるわけがない。水面渡り。
 そして、近付いて来るにしたがい、早くなる。しかも怖い形相をして。
 吉田は、ワッと言って逃げ出した。
 阿弥陀坊に戻って、主人に聞くと、よく出るらしいとのこと。
 だから地元の人は寄り付かない。
 
   了




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2020年10月04日

3892話 エスカレート


 里見はエスカレーターで、いつもの階で降りたが、様子が違う。よく行っている場所なので、何階かは覚えているので、繰り返し繰り返し折れては上へと向かう。その繰返し回数も覚えているし、どんなテナントが上がればあるのか、また横からも見えるので、確認は容易。
 それに何度か踊り場を通過したので、その回数だけでも分かる。四階なので、何度かそれを繰り返すだけ。たまに四階のはずなのに三階だったことがある。逆に行きすぎて五階まで上がったことはない。
 五階に用はないが大型家具店が入っているのは知っている。
 そういった慣れた場所で四階は始終行くので、階数など数えないで、四階で降りた。四階だという認識は三階を通過したとき、三階にあるテナントをちらっと見たため。これほど確実なことはない。もし見なかったとしても、四階だと何となく分かるだろう。
 ところがその四階、様子が違う。改装工事でもしているのだろうか。仕切り板が目立つ。まさか消えてなくなったのか。これはよくある。
 仕切り板は化粧板で、同じ模様の繰り返し。これは花だろう。もし移転したり、閉店してしまったのなら貼り紙程度はあるはず。しかし、そんなものはない。花型の幾何模様の繰り返しで、紙など貼っていない。これは工事中だろう。しかし、里見は昨日も来ている。閉鎖したり、何かあるのなら、分かるはず。
 階を間違えて五階にまで上がったのかと最初思った。家具屋だが、この五階、よく店が変わる。家具屋の前は有料遊技場。子供牧場だ。五階そのままの広さがあるので、結構広い。家具屋も広い方がいいだろう。物が大きいので。
 しかし、階を確認すると、確かに四階だ。これは書いたものだが、固定されている。何とでもなるが、その文字を信じるしかない。窓がないので外は見えない。見えても四階と五階の差など分からないだろう。いつも見ているのなら、見晴らしが少しだけいい程度だが、ないのだから、そのいつももない。
 里見は戻ろうとしたが、下へのエスカレータは少し回り込まないと行けない。どうしても四階内を通らないと。
 しかし、化粧フェンスで塞がれている。幸いエレベーターはエスカレーターで上がったところにある。数歩で、その前まで行ける。
 エレベーターが口を開けているはず。あとはフェンスで塞がれているが、一応降りられる。
 エレベーターの三角ボタンを押すと、すぐに開いた。このビルのエレベーターはなかなか来ないので、エスカレーターしか使っていなかったが、こんなに早いのはおかしい。いつもと違う。
 そして一階を押し、閉めるボタンを押した。
 当然だが、ドアが開き一階に出たのだが、これもまた当然のことのように見たことのない風景が拡がっていた。
 
   了
 


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2020年10月03日

3891話 元気にならない人


 季節の変わり目のためか、上田は身体が怠い。寒くなってきたためだろう。そうかと思うと、また夏のように暑くなる。これで体調が狂う。折角涼しさに慣れてきたのに、また戻される。
 暑い寒いが行ったり来たりし、それに振り回されて、体が付いていかない。
 それでこの一週間ほど、上田は元気がない。気持ちは元気だが、身体が元気でないと、これもまた付いてこない。当然身体が元気なときは、気持ちも元気。気持ちだけ元気ということはない。身体が先で、気持ちはあとだ。気持ちというのは気の持ち方だが、具体的なものが先に来ないと、持ちようがない。
 夏バテが今頃出たのだろうか。遅い。
 コスモスが咲き、彼岸花が咲くと、もう秋の駅を通過中。今頃夏バテなどない。しかし、夏場の疲れが今頃出るのかもしれないが、疲れるようなことはしていない。
 夏場は暑さが先で、これで覆い尽くすので、体調の悪さなどは、全部暑さのせいにし、それほど気にならない。
 しかし、寝込むほどのことではなく、一寸気怠いだけ。日常生活に支障はないが、元気がないと損をしているように思われる。同じことをするにしても、元気なときにやる方が気持ちがいい。
 風邪を引いたとき、いつまでも風邪が抜けないで、しんどいときがある。それに似ている。引き込んだものは抜けばいい。風邪程度なら、そのうち抜けるだろう。
「元気がないようですねえ」
「ああ、ここしばらくは」
「そのまま大人しくしてもらえれば助かるのですがね」
「そうですか」
「君が元気なときはろくなことがない」
「そうなんですか」
「まあ、しばらくは静かにしてもらった方が助かる」
「また、元気になりますよ」
「困るんだがねえ」
「いえいえ」
 上田の回復を望んでいない人もいる。
 しかし、元気さの抜けた上田は丁度いいのか、いい感じだ。
 そして上田は低いテンションのままの方が評判がいい。誰もが好意を持ってくれる。上田は良くなったと。
 今まで相手にしてくれなかった人も、上田の様子を見て、安心したのか、交流が始まった。
 ということは元気になってはいけないのだろう。
 その後、上田は身体も回復し、気持ちも元気になったが、そのことを隠した。
 元気のない振りをしている方が得なので。
 
   了
  



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2020年10月02日

3890話 妖怪の自首


 彼岸花が咲く頃、妖怪の目撃談が多い。この花は縁起の悪い花とされている。
 妖怪博士宅への訪問者が増えるのも、この季節。そのほとんどは妖怪を見たとか、出たとかの話。妖怪博士に正体を教えてもらおうと詰めかける。そこまで多くはないが、普段よりも多い。普段は藪医者のようにすいているが、ここ数日は客が多い。
 妖怪博士にとり、かき入れ時。妖怪封じの御札が舞うように売れる。
 その中の一人を紹介しよう。これは少し例外で、珍しい客のため。
「出ましたかな」
「既に出ています」
「ほう」
「僕が妖怪なのです。探さなくても、僕自身がそうなので」
 一見して妖怪っぽくない青年だ。そのへんにいくらでもいそうな人で、三人ほど、そういう人が来た場合、違いが分からないかもしれない。それほど印象に残らない人が自分は妖怪だと名乗っている。
「自首して出ました」
「何か、悪いことをしましたかな」
「いいえ」
「じゃ、自首じゃない」
「妖怪を捕獲してきました」
「また、ややこしい」
「はい」
「で、何処が妖怪なのですかな」
「たまに妖怪が出るのです」
「何処に」
「ここに」
「今も出ておるのですかな」
「今も出ているはずです。漏れているはず」
「漏れる」
「はい、妖怪が漏れてきて、僕は妖怪になってしまうのです。いや、もう既に妖怪になっているはずです。だから名乗り出たのです」
「最初の頃はたまに漏れるだけでしたか」
「はい、何か変だなあと思うと、妖怪になっていました。すぐに戻りましたが」
「今は戻らないと」
「はい、だから、妖怪を抜いてもらいたいと」
「人間であるあなたと妖怪であるあなたとの違いはどのあたりですか」
「ああ、今は妖怪ですが、あまり変わりません。人間だった頃と」
「じゃ、戻ったんじゃないのですか」
「そうなんでしょうか」
「それで、妖怪になったあなたは、何をされていました。きっと妖怪らしいことをされていたのでしょ」
「いいえ」
「違うと」
「何故か妖怪になったような気分になるのです」
「気分」
「はい」
「じゃ、気のせいでしょ」
「そうなんですか」
「あなたは今、どう見ても人間ですよ」
「じゃ、妖怪は引っ込んだのでしょうか。また漏れ出すと思います」
「漏れても大した変化はないのでしょ」
「はい」
「じゃ、解決しました」
 しかし、青年はまた漏れるかもしれないといい、何とか処置をして欲しいと頼んだ。
 当然妖怪博士は妖怪封じの御札を渡したが、自分の身体に貼ることになる。それでは何なので、封じ袋に御札を入れ、それを肌身離さず持っているように伝えた。
 青年は納得して出ていった。
 この話も、特に語るようなことではない。
 
   了
 



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2020年10月01日

3889話 夜鬼


 いつも暇な妖怪博士だが、最近訪問客が多い。日に何人も来ることがある。藪医者よりも流行っているかもしれない。当然待合室などはないので、表で待ってもらう。
 そのほとんどは妖怪を見たとか、出たとかが用件。そんなもの放っておけばいいのだが、妖怪博士は妖怪研究家なので、参考になると思い、断りはしない。
 季節の変わり目に妖怪は出やすいようだが、ここ数日は出過ぎだ。たまにそういう年もあるが、潮のように引いていき、すぐまた暇になる。
 その中の一例を紹介しよう。
「夜中に出るのです」
「どのような妖怪ですかな」
 ここで既に妖怪と決め付けている。他の現象かもしれないのに。
「蟹です」
「それはただの蟹じゃないのですかな。家の中に出るので、妙なだけで」
「いえ、大きいです。座布団ほどあります」
「そんな大きな蟹は高いでしょ」
「姿は蟹に似ていますが、甲羅のところに大きな顔があります。甲羅一杯に顔。大顔です」
「横に歩きますか」
「前後左右、全方向に動きます」
「爪は」
「ありません」
「蜘蛛に近いですなあ」
「甲羅があります」
「甲羅が顔。平家蟹のようなものですな」
「それが最近頻繁に出るのです。音で分かります。ゴソゴソ動いてます。そして私の部屋に入ってきます。まだ寒くないので、襖とかは全部開けていますから」
「なるほど」
「これは何でしょう」
「夜鬼でしょ」
「鬼ですか。でも形は蟹ですが」
「夜に現れる雑多な妖怪のことをまとめて夜鬼と呼んでいます」
「退治する方法はないのですか」
「被害に遭いましたか」
「布団の中に入り込んだようで、コタツを入れた覚えはないのに、何か足元に塊がある。掛け布団をめくってみると、そいつも寝ていたらしく、じっとしている。怖々足で突いてみると、ワッと言って逃げ出しました」
「ワッとですかな」
「そうです。ワッとです。泣きづらでした」
「じゃ、あなたを襲う気はない。まあ、猫が入り込んだと思えばよろしい」
「でも、出ないようにする方法はありませんか」
「夜鬼が沸いて出る場所があるはず。そこを押さえれば、出ないでしょう。思い当たるところが家の中にありませんか。庭でもよろしい」
「使っていない井戸の蓋が壊れて、空きっぱなしになってます」
「じゃ、何かで蓋をすれば、もう出てこないでしょ」
「ああ、なるほど、流石妖怪博士」
「はいはい」
 というような妖怪談が多い。
 わざわざ語る必要もないだろう。
 
   了



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2020年09月30日

3888話 万次郎坂


 万次郎坂を登り切ると枝道がある。峰に向かう山道で、滅多に人は入り込まない。山の頂に用はないためだ。しかし峰伝いに歩いている人がいる。何処の誰だか分からないが、集団で移動していることもある。
 万次郎坂はその集団の中の一人の名前で、ここで果てている。特に何かをした人ではないが、里人との交流があった。万次郎小屋というのが峠にある。いつも移動する仲間と外れて、そこに定住した。そして商いをやっていたのだ。
 その峠坂のことを万次郎坂と呼ぶようになった。万次郎は愛想のいい人で、商い向け。人柄も優しいが、身体は大きい。
 その万次郎、何かを成した人物ではない。ただの山店の主人。歴史に何も残さなかったのだが、坂の名で残っている。ただし小屋のあった峠は別の名。これは古くからある名なので、流石にそこまでは変えられない。ただ峠坂には名がなかったので、万次郎坂と名を付けた。これは里人が付け、その後もずっと使われている。
 今でも地図に載っている。ただしハイキング地図だが。
 ハイカー達はこの万次郎坂が好きなようだ。真っ直ぐに伸びた坂道で、下界がよく見える。この坂を登り切れば山向こうに出られる。だから、この坂に辿り着けば、もう越えたのと同じ。
 坂はそれほど険しいものではない。里からも近い。
 万次郎以前も峠に市が立ったことがある。
 山のこちらとあちらとではお国柄が違う。その両者がこの峠で取引をしていた。それはうんと昔の話で、万次郎が小屋を建てた頃は、終わっていた。
 山を移動する集団に属していた万次郎は、かなり離れたところの物を売っていた。これが珍しかったのだろう。
 万次郎は里で鼻つまみ者の娘と結婚し、子供も成した。その娘、男っぽかったので縁がなかったのだろう。
 しかし、万次郎が亡くなると、母子はすぐ下の里で暮らすようになる。母親の里でもあるためだ。
 父は偉業をなしたわけではない。しかし、その頃から万次郎坂と呼ばれるようになっていたのだから、一寸したものだ。
 山店は消えたが、山を移動する集団が、たまに万次郎の子供達の家を訪ねたりした。いずれも万次郎の縁者だろう。
 そのうち峠の店ほど派手ではないが、里で萬屋を開いた。
 珍しい品々は城下から来るのではなく、万次郎坂を下ってやってきた。
 今も残る万次郎商会というのは、その末裔が明治の開港時に起業したもの。貿易商だ。万次郎の名はここにも残っている。
 
   了





posted by 川崎ゆきお at 12:35| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月29日

3888話 惰性


 何をどうしようと、大した変化がないことが分かってきた。ただただ淡々と過ぎていくだけ。いくら創意工夫をこらしても大きな展開にはならず、凄いことが起こることもなかった。
 それに気付いた下原は、懸命にやることを辞めた。どうせ何をどうやっても同じことなのだから、単に続けておればそれでいい。これで楽になったのだが、やっていることはまさに惰性。
「惰性の原理ですか」
「そうです」
「確かに物理的作用はありますが、あまりいいものではありませんよ。しかし省エネです。惰力で走るとか、惰力で飛ぶとかはね」
「そういう科学的なことじゃなく、事柄の問題で」
「惰性がどうかしましたか」
「惰性の原理のようなものがあるのではないかと思いまして」
「事柄における惰性。それはあまりいいことじゃないようですよ。惰性で物事を行うというのは、サボっているようなところがあります。あまり積極的ではなくね」
「積極的に働きかけたのですが、結果は同じなのです。惰性でやっているのと、結果が変わらなかったりします」
「しかし、惰力を見くびってはいけません」
「悪いことになると」
「いや、惰力のパワーは結構強いのです。これは継続の力だけではありません。それに惰力なので、力はいらない」
「はい」
「惰力から生じるものは、積極的に働きかけたものよりしぶといものがあります」
「しぶとい?」
「太いのです」
「図太いとか」
「そうですねえ」
「じゃ、惰性でやっていてもいいのですね。でも結果を出したのですが」
「惰力の力を信じなさい」
「信じるとか、そういった世界になるのですね」
「まあ、そうです。オカルトです」
「惰性はオカルトですか」
「惰性とは習慣のようなものです。今まで通りのことを今まで通りする。これは文化に近いです。儀式のようなもの。他に取って代わるものがなければ、それを使います」
「生活習慣病というのは強いですねえ」
「大病ですよ。しかも一生ものになりかねないほど強い」
「惰性を信じてみます」
「そうしなさい。しかし、惰性なので、信じるも何もないのですがね」
「はい、余計なことをしないで、これまで通り綿々粛々と続けます」
「まあ、特にいわなければ、誰だってその惰性でやっているわけです」
「そうなんですか」
「だから、惰性の強さの違いが出るだけ」
「分かりました。同じことをもっとしつこくくどくやってみることにします」
「惰力で乗りこなせるようになると楽ですよ」
「はい」
 
   了





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2020年09月28日

3887話 葉法師


「葉法師」
「はい」
「何だそれは」
「一寸法師がお椀の舟に乗っているようなものです」
「では木の葉に法師が乗っておるのか」
「桜の葉がいいようです」
「どうしてだ」
「桜餅もありますので」
「うむ」
「葉法師が出るのは桜の葉が紅葉する頃。そして落ちるとき、法師が乗ります。法師の乗った葉は落ちないで水平にそのまま飛びます。葉の舟というより、飛行機でしょ。動力がないので、グライダー」
「どの程度飛ぶ」
「紙飛行機よりも飛びます。法師が舵を取りますから」
「魔法の絨毯のようだな」
「あれも飛びますね。それよりもかなり小さい。だからお椀と一寸法師の比率に近いです、葉法師は」
「それが現れるのを、君は待っているのか」
「紅葉の季節には飛びません。その前に枯れて散る桜の葉があります。早い目に落ちるのです。他の葉はまだ緑のまま」
「それが現れる時期が、今だと」
「そうです」
「この桜の木か」
「葉法師が乗りそうなので」
「ほう」
「あの葉をご覧下さい。一つだけ黄色いでしょ。あそこにそろそろ乗る頃です」
「柿の葉では駄目か」
「重いです」
「柿の葉寿司は好きだがなあ」
「はい」
「それで、乗るのをずっと待っておるのか」
「そうです。しかし明日かもしれませんし、明後日かもしれません。まだ早いかもしれないのです。しかし、後れを取ってはいけませんから」
「そんなことをして、どうなる」
「はあ」
「だから、葉法師が飛ぶのを見て、なんとする」
「見るだけです」
「もしそんなものがいるのなら、捕獲すればいいじゃないか」
「一寸法師のように針の剣を持っています。手強いです」
「そうか。それを見たか」
「はい、針ではありませんが、爪楊枝のようなのを二本持っていました」
「二刀流か」
「これは櫂です。葉舟、ボートのようなものなので、それで漕いだり、操縦したりするのでしょう」
「見たのか」
「いいえ」
「ではどうして分かる」
「想像です」
「では葉法師は」
「それも想像です」
「あ、そう」
 
   了



posted by 川崎ゆきお at 12:49| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月27日

3886話 頭の中に宿るもの


 ある日それが頭の中に宿り、ずっと棲み着く。これはあることだ。しかし頭の中にそんな家や部屋があるわけではない。しかし空いている部屋があるのかもしれないし、部屋はいくらでも作れるのかもしれない。
 頭の中に入り込んだ寄生虫ではない。虫は具体的だ。そうではなく思いのようなものだろう。今まで思っていなかったことが増えた。そういうことだ。
 ただ、そういう思いもいつかは消えており、部屋は空。そこにまた何かが入り込む。棲み着いて、またしばらくは滞在する。
 住み着いたものを放置していると、そのうち変化を起こし、禍となるかもしれない。だから手当が必要。これは具体的な行動に出ることだ。頭の中に住み着いたものには具体性がない。ただの思いなのだから。
 住み着いたものと直接関係のある行動を具体的に取るのもいいが、それができない場合、間接的にやっつけるしかない。これは何か悪いものを退治するような感じだが。
 当然、それは非常にいい思いの場合でも、それが禍の種になったりする。
 思いというのはそのうち忘れたりする。別の思いにとって変わられたりする。より強い目の思いの方に気が行くためだろう。または思うことに飽き、もう力がなくなっていることもある。
 当然、ある時期を過ぎればいつの間にか時と共に流れ去ることもある。季節が変わると枯れる花のように。この場合、何もしなくてもいい。
 頭の中に何かが宿るのは、それだけの理由がある。それまでの状態や状況で宿らせてしまうのだ。虫が湧く場合、湧くだけの理由がある。虫が好きなものがあるのだろう。または虫にとって都合のいいものが。
 また現状を打開するため、何かが宿ったりする。これが突破口になるかもしれない。逆に現状維持を望んでいるのに、それを壊すようなものが入り込んでいることもある。
 ただ、本当に現状維持を望んでいるわけではなく、不満もあるはず。その不満が何かを宿らせる。これは悪いものだろうが、使いようだ。
 人は頭の中ではまったく正反対のことを同時に思っているもの。本当はどちらへも転べるのだが、それは頭の中だけの話。実際はそんなことはしないし、またできなかったりする。
 頭の中に宿ったもの。これは妄想かもしれない。亡き女への想いと書く。凄い言葉だ。では女性の場合はどうなるのか。しかし、これは本当の女のことではない。女性の中に眠る男性。男性の中に眠る女性。眠っていない人もいるが。
 想いというのも、木の目の心だ。木は年輪を重ねる。確かに年輪ごとに記憶があるだろう。木の目は手相のようなもの。人相もそうだ。その心とは、となる。
 人は単に思っているのではなく、具体的なものが背後にある。それが妄想でも空想でも、何らかの塊があるはず。
 頭の中に宿るもの。人はこれと一生付き合うことになる。
 
   了

 


posted by 川崎ゆきお at 12:42| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする