2018年08月11日

3712話 並木坂


 並木坂というありふれた名の坂だが、意外となかったりする。ありそうでない。名はありふれているのだが、そう呼ぶ人がいなかったりする。
 この並木坂の並木はイチョウで盆栽のように刈られている。これが広々とした寺社などの敷地内にあれば、大木になっていただろう。枝葉が拡がっても邪魔するものがない。ところが町の道路ではそうはいかない。電線にかかったりするため、切り取られる。幹だけは太くなるのだが、電柱が並んでいる程度のボリュームしかなかったりする。
 この並木坂、勾配もきつく、しかも道幅も狭い。坂の下は下町で、上は高級住宅地になる。しかし、怪しげな屋敷が多い。アイデアがありすぎる建築家が設計したのか、気味の悪い形や、奇抜な造りの家も多い。元々ここには家は建っていなかった。雑木林が山懐まで続き、畑がポツンポツンとある程度で、殺風景な場所。寺も神社もない。場所的にはあってもよさそうなものだが。
 並木ができたのは戦後のことで、それまでは未舗装の坂道。当然坂の名はなかった。その坂を上り下りする人も希で、畑はあるものの、結構荒れていた。町から近い山に掛かる丘陵地だが、人家はまばら。いずれも百姓家だが、これは原住民のような地元の人。畑と山仕事で暮らしていたのだろう。江戸時代は小さな藩の領地で、ここは狩り場だったようだ。だから領主の遊び場。庭のようなもの。
 並木坂は町から最短距離で行ける道。殆ど上には用はないので、町から出ている道はそれだけ。
 並木坂と呼ばれるようになったのは、別荘などが建ち始めた頃から。今は車道が何本も町から丘へと出ているので、この狭い並木道の用は終えたようなもの。ただ、別荘時代、その入り口である坂が殺風景なので、イチョウを植えたのだろう。それが今も残っている。
 季節になると、このイチョウが真っ黄色になり、下町からの眺めが綺麗だ。
 その並木坂のイチョウ。丸坊主に近い状態なのだが、幹は立派。
 それだけの話だ。
 
   了
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2018年08月10日

3711話 タニシ目の男


「どうも吉田君の様子がおかしいのだが、どうかしたのかね」
「別に変わったところはありませんが」
「目が泳いでいるんだがね」
「目が」
「そうだ、何か理由でもあるのなら、教えてほしい。得体が知れないんだ」
「そんなこと心配する必要はないですよ。仕事に支障はありません。素直だし、真面目だし」
「じゃ、あの目は何だ」
「そんな目、してましたか」
「監視しているわけじゃないがね、たまに吉田君を見ると、目が泳いでいる」
「ああ、それはですね」
「何だ」
「一カ所ばかり見ているので、たまに目玉を動かしているのでしょ。癖ですよ」
「そうなのか」
「僕もたまにしますよ。ずっとモニターの同じ箇所ばかり見つめていると、目が固まってしまいそうになりますから」
「じゃ、ただの目玉運動か」
「そうです。それが泳いでいるように見えただけじゃないですか」
「ああ、なるほどねえ。しかし、あの吉田君、分かりにくい男だねえ」
「単純明快な男ですよ」
「しかし、たまに私の方をチラリチラリと見ているよ」
「そうなんですか」
「だから、目を泳がせているときも、瞬間だが私を見ている」
「上司だからでしょ」
「何かいつも監視されているようでね」
「偉いさんの顔色をうかがっているだけでしょ」
「顔色など見る必要などないはず、吉田君とは仕事はしていませんから」
「そうですが」
「やはり、私はここにいるのが間違っているんだ。部長室に戻るよ」
「その方が部長らしくていいです。こんな大部屋のようなところでは」
「いや、ここにいる方が部下たちに馴染んでもらえるし、顔を出している方がいいと思ったんだ」
「そうですか」
「仕切りがない方がいいと思ったんだが、これじゃ仕切り直しだ」
「はい」
「しかし、あの吉田君の目」
「まだ吉田君ですか」
「あれが効いた」
「タニシのような小さな目ですよ」
「あの目を見たくない」
「じゃ、お認めになりますね」
「え、何を認めるのかね」
「うちの秘密兵器ですよ」
「あのタニシがかね。いつも目を泳がして不審な奴が」
「あれが効くんです。いざというとき。彼を前に出して、乗り込んだとき、効くんです」
「何が効くんだね。何が」
「相手にしてみれば、得体の知れないものが正面にいるからです」
「いやな使い方だね」
「普段は使いません。ここ一番という難しい取引のときは、彼を投入します」
「取り柄が何かあるものだね」
「はい、それで大手柄を立ててくれるときもあります」
「あ、そう」
 
   了

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2018年08月09日

3710話 古川橋の怪


 境内が広いのか、近道として近くの住民が通り抜けることが多い。門はあるのだが、夜中でも開いている。住職夫婦と老僧がいる。寺男と言われている下男もいるのだが、これは通い。賄いも通いの町の女房。それでは物騒なので、侍を雇っている。所謂寺侍。もっと昔なら僧兵が警備をすればいいのだが、弁慶が活躍していたような時代ではない。
「古川橋に妖怪が出ると聞いておるのじゃが、行って見てきてくれんかな」
「それはよろしいのですが、留守にしますと、寺が」
「盗人がたまに入り込む程度。取られても大したものはない」
「しかし、御本尊が」
「あれは簡単には外れん。それにそんな真似をするやつなどおらんしな」
「はい、でも誰か手伝いを呼んでは」
「この夜中じゃ、それは悪い」
「はい、では行って参ります」
 寺侍西沢久内は大小を差し、城下外れの古川橋へ向かった。城郭の構造から言えば、ここは裏手にあたり、山と接しているが、街道が走っている。もし敵が攻めてくれば、真っ先にこの古川橋を外す段取りになっているが、それはうんと昔の話。攻めてくるような敵などもういない。
 檀家の中にうるさい年寄りがおり、古川橋の妖怪も、この年寄りが言いだしたこと。そのようなものが出るわけがないとは思うものの、調べもしないとなると大旦那だけに、あとがうるさい。
 住職はその父親の老僧にも相談したが、古川橋に妖怪が出るなど聞いたことがないらしく、出るとすれば、もっと上流の鼓が滝近くの川の淵らしい。そちらは蛇のような妖怪が出たという噂が立った程度だが。
 その古川橋に到着した西沢久内。その橋の袂で待っていると、向こう岸から早速人影。こんなに早く遭遇するとは思えないが、暗いのでよく分からない。月明かりで何となく見えるのだが、提灯を使わないのが怪しい。そういう西沢も提灯なしだ。妖怪に気付かれないよう折りたたんで懐の中にしまってある。
 西沢は肝の据わった武士で、その上、腕も立つ。
 近付いて来る人影とは橋の真ん中あたりで睨み合いになる。
 それで分かったのだが、相手も侍らしいが、身なりは良くない。月代も剃っていない。
「妖怪ではあるまいなあ」
「そこもとこそ」
「違う」
「わしも違う」
 二人とも、様子を見に来たようだ。
 西沢久内は住職から頼まれたことを告げると、相手も川上にある山寺から来たという。二人とも寺侍らしい。
 事情を聞くと、似たような流れ。
 そこへもう一つの人影、こちらは顔見知りの岡っ引き。三人とも顔は知っている。この岡っ引きも頼まれてきたらしい。二足のわらじ、やくざの親分だが人懐っこい親父だ。
 そこへ今度は馬に乗り、槍を突き立てた町道場の師範代が来た。城下一の荒武者と評判。
 いずれも強者揃い。
 さらに今度は城方から松明をかざした藩士が数騎やってきた。化け物退治に来るのだから血気盛んな若侍ばかり。
 藩士達も同じような流れで来たらしい。
 これだけの数が揃えば、妖怪など簡単に退治できるだろう。
「おのおの方、妖怪は噂に過ぎませぬ。どうもいないようです」全員沈黙しているので、西沢久内が口を切った。
「そのようですねえ」と、岡っ引きが藩士達に同意を求める。
「そうだなあ」と藩士達も頷く。
 山寺から降りてきた寺侍も、そうだそうだと同意。
「こんなところで、猛者が集まっておるのも何なので、引き上げましょう」西沢久内はまとめに入った。誰も異存はない。
 そして全員引き上げた。
 静かになった古川橋。月が雲間に隠れた瞬間、すっと橋の袂に何かが姿を現した。
 この妖怪、月が隠れると出るようだ。
 
   了
 
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2018年08月08日

3709話 闇手組


 天知村の百姓家に闇の使者が来た。戸数は少ないが辺鄙な村ではない。どの百姓家も豊かで、この地方では珍しい。
「お仕事が入りました」
 正三は「そうかと」と頷き、用件を聞いた。
 闇の使者とは闇手組と呼ばれる組織で、この村の大半は闇手組に属していた。
「しばらく留守にする」
 と、正三は家人に言い残し、村から出て行った。
 闇の使者は他の村にも回るといい、途中で別れた。
 正三は都近くまでやってきた。そこに公家の別荘がある。その警備なのだ。
 正三が来たので、同じ村の彦造と交代した。天知村の者はまだ二人ほどいる。あとの二人は別の村。都合五人が常駐することになる。
 別荘は広く、木々に囲まれ、そこは別天地。それを塀で囲んでいるのだが、正門近くは長屋門。ただの塀ではなく、馬小屋や詰め所などがある。長屋のようなもので、闇手組はそこを兵舎といている。持ち主は公家。天知村はその荘園。
 正三達は所謂私兵で、百姓なのだが、ここでは武装している。まあ、門番のようなものだが、実際にはその必要はない。別荘には普段、誰もいないのだ。
 ただ、公家連中が隠れ宿として、たまに利用している。それでも、わざわざ遠い場所に散っている荘園から護衛兵を呼ぶような話ではない。
 それに闇手組と言われるのだから、これは闇の仕事があるのだろう。
 この別荘、多いときでは五十人ほどの闇手組が詰めていたことがある。都で異変が起こったときだ。
 当然、平時でも荒仕事がある。何かと闇の手が欲しい。また必要としていた。
 しかし、ここ数年は五人ほど。それに領主の公家に勢いがなくなり、活躍の場が減ったのだろう。
 この兵役のようなものは数ヶ月で交代する。正三も戻ることになるのだが、そのとき、結構なご褒美がもらえる。それと闇の仕事中、ちょろまかしたものもある。
 その闇の仕事、正三がその間やったのは夜中に物を運んだ程度。
 さほど豊かな土地ではない天知村だが、裕福な家が多い。
 
   了

 
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2018年08月07日

3708話 騎馬鉄砲隊


 隣国が攻めてくるらしい。それで対策を練るため、会議となる。
「勝つ見込みはあるのか」
「勝算はあります」
「如何ほどじゃ。相手の方が兵力があると聞いておる。そして国も大きい。勝算があるのなら戦ってもいい。どの程度かもっと詳しゅう話してみよ」
「勝てる可能性があるとか」
「どの程度の可能性なのかを問うておる」
「四分とか」
「四分とな。では敵は六分ではないか」
「互角には戦えましょう。それには相手に攻めさせることです。こちらから攻めますと、四分では無理です」
「四分で勝つと申したのは誰じゃ」
「植岡蕩尽斎殿です」
「変人の居候ではないか」
「はい」
「そのような流浪の浪人ものなど、信用できるか」
「はい」
 といったものの、この重臣、四分で勝つという話が気になり、城下外れの神社に滞在している植岡蕩尽斎を訪ねた。
 重臣は神社横の神主宅離れへ植岡蕩尽斎を訪ねた。陰陽師のような姿で、これはこの時代の軍師に多い。結局は加持祈祷を用い、太鼓や笛で応援する程度。しかし出陣の日取りなども、一応神仏に聞く役目もある。これはいかようにも融通が利くので、ただの縁起物。験の良さを示せばいい。
 当然、この領内にもお抱えの軍師がいる。だから植岡蕩尽斉の席はない。
 では重臣はなぜお抱えの軍師に聞かないのか、当然だが作戦を考える策士ではないためだ。それに軍師は名家が継ぐことになっており、今の軍師は領主の親戚で神社の神主でもある。
 その神社の離れに植岡蕩尽斉が滞在していた。
「四分の勝算とは如何なることでしょう。同じことを十度繰り返したとき、四度は勝ち、六度は負けることですかな。しかし勝負は一度であろう」
「万が一というのがございます。万に一度。これは実質的には無理だという意味です」
「そんなことを聞いておるのではない、何を根拠にそんなことを言われる」
「四分では何度やっても勝てません。十回やっても全部負けるでしょう。相手は六分ですから。五分五なら分かりません。だから五分より上なら勝てます。何度戦っても勝てます。その根拠は互いの状況から分かります。誰が見てもそうなるはず。しかし状況は戦ってみなければ分からぬ面もありまして、それを兵法と呼びます。兵の動かし方いかんにより、状況が変わります」
「ほう」
「お知りになりたいですかな」
「是非聞きたい。勝てる相手ではないが、負ける相手ではない」
「それには計略が必要です」
「まともに戦えば勝てぬからじゃな」
「ところで」
「何じゃ」
「わざわざ私を訪ねてこられたのは、勝とうとしているためでしょ」
「少し欲が出た」
「敵は勝てると思い攻めてきます。当家は負ける思い、守りに徹します。守り抜ける自信があるので、降参しません」
「その通り」
「敵はそれでは満足しません。今回は城を落とせる自信があるので、攻めてきたのでしょう」
「守り抜けぬと」
「落ちない城を落としに来ないでしょう」
「それもそうじゃが」
「そのため、勝たなければ負けましょう。そして軍門に降るしかありません」
「それでどんな策がある」
「敵国を視察しました」
「ほう」
「当然、この国の兵力も」
「比べてどうじゃった」
「兵数は劣るものの、馬が多いですなあ。それと鉄砲や弓が」
「それはわしが整えたもの」
「いい備えですが、守るとき、馬は必要ではありません」
「見抜いたか」
「鉄砲騎馬でしょ」
「ううむ」
「本城に敵を引き付け、遠方から素早く騎馬で背後から挟む策でしょう」
「そこまで分かっておるのか」
「少し視察すれば、誰にでも分かること。敵もそれぐらい見抜いておりましょう」
「確かに」
「策とは、その使い方にあります」
「どうすれば勝てる」
「策を見せないようにすることです」
「しかし、バレておるのではないか」
「騎馬を隠すことです」
「ほう」
「敵は当家の騎馬鉄砲を恐れております。そのため、まずは騎馬部隊を攻撃するでしょう。これされ全滅させれば六分の勝算が八分以上になりましょう」
「騎馬を隠すとな」
「何故騎馬なのかをお忘れですか」
「ん」
「戦闘にはそれほど役立ちません。ただ、移動が早い。鉄砲など一度放てば、二の弾は弓に劣り、しばらく攻撃できません。だからあくまでも脅かすための奇襲。これを活かすのです。敵が動揺し、陣を崩せば勝算あり」
 この領内の騎馬部隊は身分の低い足軽が多く乗っている。いずれも鉄砲打ちだ。普段は猟師で家来ではない。馬だけで高速移動する機動部隊。そして最大の火力を備えている。
「わしも、それをやりたかったのじゃ。実際に戦えば勝てるのじゃ。おぬしは、それを知っておる。流石軍師」
「騎馬の投入さえ上手く行けば、勝てましょう」
「いい御仁と出会えた」
「軍師でなくても、分かること」
 重臣は植岡蕩尽斉に砂金を与えた。
 離れを出たとき、神主でもあるお抱えの軍師が顔を出した。
「もうお帰りですかな」
「いい客人がおりますなあ」
「なあに、居候です。厄介者ですよ」
 その重臣、城に戻ってから殿様や家臣にその作戦を実行するようにすすめたわけではない。何もしなかった。
 その代わり、間者を敵国に送り込んだ。
 鉄砲騎馬の恐ろしさを吹き込むことと、罠が方々に仕掛けられているという噂を流した。
 その効果が出たのか、敵は攻めてこなかった。
 しかし、騎馬鉄砲。鉄砲部隊を馬に乗せればいいというわけではない。馬はその轟音に驚くし、当時の種子島は重いし反動も大きいので、馬の上から打つというのはかなり練習が必要だった。当然馬も。
 確かに植岡蕩尽斉は騎馬鉄砲隊を見たが、馬に乗っているだけの姿でしかない。
 この騎馬鉄砲隊、絵に描いた餅のようなもの。そしてこの部隊、結局一度も出陣したことはない。しかし、神社に絵馬として、今も残っている。鉄砲足軽の乗った馬の絵馬。これは珍しい。
 
   了

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2018年08月06日

3707話 スリッパ虫


 古田は暑いので気がおかしくなったのか、トイレのスリッパが動いている。巨大なゾウリムシのように。そんな大きな虫などあり得ない。
 トイレのドアを開け、スリッパを履こうと、足を突っ込むとき、動き出した。しかもゆっくりと。左側のスリッパで、右側は動いていない。
 スリッパはやや揺れながら動いている。スリッパそのものがスーと移動しているのではなく、足で歩いているように。
 下にゴキブリでもいて、団体で担いでいるわけではないが、足らしいものが見える。しかもムカデのように多い。数え切れないほどの足。
 暑くて、気がおかしくなったわけではなく、そんなことを思ってしまったのだろう。実際にそんなスリッパほどの大きさの虫が歩いていれば仰天し、暑さどころではなくなるかもしれない。
 そして両方のスリッパを履く。当然スリッパはスリッパ。虫ではない。
 しかし古田は何故一方のスリッパだけが虫に見えたのかを考えてみた。靴やスリッパを古田は左足から履く、そのため最初に目がいくのは左側だが、このスリッパに左右はない。脱ぎ方によって左右が決まるようなものだが、脱いだとき、揃えないでトイレから出る。
 片方はバケモノだったが、もう一方は見ていない。しかし、こちらも足が生えていたはず。しかし、動いていなかった。足はあるがじっとしていたのかもしれない。または、出たのは一匹だけか。
 トイレのドアを開け、履こうとしたとき動き出したのは、逃げようとしたのかもしれない。これはゴキブリのようなもので、人が来たので逃げたのだろうか。当然逃げない虫もいる。逃げたとすれば、もう一方のスリッパも逃げたはず。じっとしていたのだから、これはやはりただのスリッパと見るべきだろう。
 古田は気になったので、もう一度トイレへ行った。確認するためだ。
 今度は足音を立てないで忍び足でドアまで近付き、そして一気に開けた。
 先ほど、どんな状態で脱いだのかは忘れたが、スリッパは動いていない。これから逃げるところだろうか。最初見たときは歩みが遅かった。あれほどの足がありながら遅い。足の数よりも、歩幅が狭いので、そんなものかもしれない。そしてスリッパをじっと見ていたが、動く出す気配はない。
 そこで、そっと左足をスリッパに近付けた。これで逃げるかもしれないと思ったのだが、動かない。まあ、動けば大変なことになるが。
 試しに両方のスリッパを履いてみた。そしてそのまま立っていた。すると、じわっと動き出したので古田はバランスを崩した。ローラースケートだ。それよりも古田の体重でスリッパ虫の足がボキボキ折れたかもしれない。それでも歩き出すのだから凄い力だ。
 慌ててスリッパを脱ぐのではなく、スリッパから古田は降りた。そして手で掴んで裏側を見た。すると数え切れないほどの突飛。一本一本は人間の足に似ている。こんなもの、虫ではない。妖怪ではないか。
 古田はそこまで想像したのだが、我ながら気味悪くなり、もうスリッパ虫のことから離れようとした。
 暑いので、まともなことを考えるより、こういった妄想に走りやすいのだろう。
 
   了


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2018年08月05日

3706話 妖楽


「毎年この頃になると出るのですがね」
 妖怪博士宅に客が来ている。その部屋にはエアコンがなく、暑いはずなのだが、この客、平気なようだ。
 妖怪博士は慣れているのだが、それでも暑い。団扇で扇ぎ続けると腕がだるくなる。
 扇風機はあるのだが、もらい物の玩具のようなもので、小さい。客に向けるようなものではない。
「夏場は窓を開けています。当然でしょ。簾はしていません、網戸も。余計なものをすると風が入りにくいからです」
「それで、出るというのは」
「蚊ではありません」
「そうですなあ。蚊が出ただけで、わざわざそんなことを言いに来ないでしょうから」
「来ません。そんなことでは」
「はい。続けて下さい」
「あまりにも暑くて寝苦しいので、窓から首を出しました。その方が風が来るのですが、その夜はそよの風さえない」
「何が出たのですかな」
「今、言います」
「はい」
「これはよく出るのです。毎年じゃありませんが」
「何でしょう」
「窓に顔を出すと、下がよく見えます。ここはアパートの二階でしてね。すぐ下に小径があります。その向こうは田圃です」
「それじゃ蚊がドンドン入ってくるでしょ」
「最近、蚊は減りました」
「そうなのですか。それで、何が出たと」
「今、言っているところです」
「え、もう出ましたか」
「まだです」
「はい、続けて下さい」
 妖怪博士は暑いので、根気をなくしているようで、根よく丁寧に相手の話を聞く耳ではなくなっていた。
「久しぶりに昨夜出ました。いつもは笛の音が聞こえてくるのですがね。これは横笛です」
「はい、音に関する何かですな」
「音はただの鳴り物です」
「鳴り物入りで出るわけですな」
「本人が吹いています」
「横笛を吹く人が出るわけですか。この夜中。まあ、音大生とかが練習しているのかもしれませんよ。また、横笛吹きかもしれませんしね」
「音色はぎこちなく、素人耳でも、上手いとは言えません。途切れたりしますし、流れに節がありすぎて、ゴツゴツしたリズムです」
「じゃ、練習中でしょ」
「その吹いている人が、人ではないのです」
「ほう、やっと出ましたか」
「初めて見るわけではありません。だから知っていました。ああ、出たなと」
「人でないとすると」
「まさに妖怪です」
「ほう」
「最初見たときは猿かと思いました。笛吹く猿も探せばいるでしょうが、表の小径で吹くわけがありません」
「猿に似ていると」
「大きい目の猿よりも、少し大きいですが、ゴリラほどには大きくありませんし、見た感じ、人が座っている姿勢に近いのです。それに顔が猿ではありません」
「他の特徴は」
「これははっきりと分かる特徴です。最初見たときはショックでした」
「どんな特徴ですかな」
「顔があります」
「のっぺらぼうとか」
「それじゃ笛を吹く口もありません」
「はい」
「目が」
「目がどうかしましたか」
「一つ目」
「ほう」
「しかも大きいのです」
「要するに一つ目小僧が笛を吹くと」
「私はほらを吹いているわけではありません」
「はい」
「以前にもありました。それで階段を降りて、見に行きました。すると、気付かれたのか、もう遠くの方へ行ってました」
「暗いのによく分かりますねえ」
「外灯がところどころ点いてますから」
「はい」
「あれは何だったのかと思いましてね」
「それで、来られたわけですね。そして今回始めて見たわけではなく、何度かご覧になっていたと」
「もう出ないと思っていたので、すっかり忘れていたのです」
「笛の音は分かりますか」
「曲ですか」
「そうです」
「聞いたことのない調べです」
「和風ですか、洋風ですか」
「和風だと思います」
「少しは節が分かるでしょ」
「ギクシャクした調べで、聞き覚えのない曲です。どちらかというと、調子外れの伴奏のような」
「伴奏」
「はい、後ろで単調に囃しているような」
「それに合わせて踊れそうでしたか」
「ギクシャクしているので、踊ると滑稽な舞になりそうです」
「相当古い音曲のようですなあ」
「何でしょうか、あのバケモノは」
「動物でしょ」
「確かに人には似ていますが、猿に近かったので」
「猿楽のようなものかもしれませんなあ」
「しかし、音色はぎこちないですが、淋しげな」
「そうですか」
「それと何故一つ目なのです」
「化けたのでしょうなあ」
「はあ」
「それで、そのあとどうされましたかな」
「ああ、またあれが出たのかと思い、下に降りて、見に行くようなことはしませんでした。行っても逃げていませんからね。そういうことが三度ほどありました。今回は窓から覗いていることを知られないように、そっと首を引っ込め、そのまま横になりました」
「はい」
「すると、結構長く吹いていましたねえ。そのうち眠ってしまいました」
「じゃ、子守歌ですなあ」
「はあ」
「何事もなく、よかったではありませんか。笛を吹くだけの妖怪でしょ。そっとしておけばいいのです。危害は加えないと思いますよ」
「しかし、何でしょう。あの妖怪の正体は」
「だから正体が妖怪なのです」
「はあ」
「まあ、お大事に」
「私自身に問題があって、聞こえたり、見えたりするのではありませんか」
「何とも言えません」
「その妖怪の名を教えて下さい。あなた妖怪博士でしょ。妖怪に詳しいはずです」
 妖怪博士は上手い名が思い浮かばない。
「何と言う名の妖怪ですか」
「妖楽」
 これはひねりがないので、失敗したと気付いたが、相手はそれで満足したようだ。
 音だけの妖怪と言うより、怪異がある。その音に映像がついたようなものだろう。音は波長、色も波長。
 音はいつまでも籠もって残るのかもしれない。
 それは一度聞いた曲が、妙に頭の中で、繰り返し繰り返し無限ループに入ったように勝手に聞こえてくるように、妖楽も出るのだろう。
 
   了


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2018年08月04日

3705話 アクシデント


 七月の暑い頃まで仕事をしていた立花だが、八月になると解放される。仕事が一段落するためだ。八月は遊んで暮らせる。そのため夏休み。しかし、暑いのは七月で、このとき本当は休みたかったのだがそうはいかない。
 七月の末、あと一息で仕事が終わるところまで来ている。暑い中、よくやったと思うものの、それほど詰めてやっていなかった。本当は六月中に終わる仕事なのだが、梅雨時で、しかも晴れると真夏並みに暑い。それで遅れてしまったのだが、これは最初からやる気がなかったため。
 期限は過ぎたのだが、まだ間に合うようなので、ひと月ずらしてもらった。急ぎの用ではないことで助かった。
 それがやっと完成する。あと少し。今日中に上がり、晴れて明日からは休める。だからもう一段落したのと同じ。
 ところが朝、起きてみると体調が良くない。それほど暑い日ではないのだが、それまで暑い日が続いていたので、それが溜まっていたのだろう。夏バテだ。あと僅かで完成するというのに、いやな予感がした。しかし寝込むほどでもない。仕事はできる。最後の際まで来ている。あと一歩なのに。
 これは道で尿意や便意を催し、我慢しながら家に向かっているのだが、家の前で耐えられなくなるのと似ている。その道中我慢できたのに、トイレの前、あと二歩か三歩が我慢できない。もっと多くの歩数を耐えられたのに。これは安心感のためだろ。もう大丈夫と。それで緩むのかもしれない。
 立花は悪い予感がした。夏バテ程度では仕事に支障はない。しかし、どうも調子がいつものようには出ない。慣れた仕事なので、簡単に片付くし、難しい問題はない。それにやる気がないときでもできるので、軽く流せばすむ。それにあと一歩なのだから、一気にやれば数分で済んでしまうかもしれない。
 終われば明日から夏休み。好きなだけ休めるのだから、ここはさっとやってしまおうと考えた。
 悪い予感。それは夏バテではなく、別のことが起こり、仕事どころではなくなること。それが何であるのかは分からない。しかし大災害がこのあと起きたとすれば、遅れた理由を考える必要はない。だから、そんな大規模なものではない。
 何だろう。何が起こるのだろう。
 立花は昨日と同じように仕事を始めた。
 できるではないか。何も起こらないではないか。少し体調が悪い程度。これなら、もうすぐ完成するはず。
 そのはずが、はずではなくなるようなこと。それは思い付かない。現に仕事は捗り、あと一歩どころか半歩まで来ている。あと一押し。
 そのとき。
 最後の最後の箇所に近付いた。あと数秒。それで完成。そのとき。
 何も起こらない。
 とんでもないようなアクシデントというものは、そんなことなど思いもしていないときに起こるのだろう。
 
   了
 
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2018年08月03日

3704話 夏風邪


 夏風邪を引いたのか、妖怪博士は寝ていた。しかし、暑くて寝てられない。起きてもしんどいだけなので、もう一度寝ようと、枕に頭をあてる。目は閉じていない。するとこういうときにだけ見るものがある。
 天井の節穴。夜、寝付けないとき、目を開けていることもあるが、天井は暗い。昼間だと節穴が見える。木の節の穴だが、そんな穴が空いているわけではない。そこがぽろっとコルクの栓のように取れれば、穴が空くかもしれないが、天井板など触る機会はない。そんなものを落ちてくれば、目からうろこではなく、天井から目玉だ。
 だから節穴というより、木目を見ているのだろう。古い家なのでベニヤや合板ではなく、板そのものを張り付けてある。天然物なので二つとない模様。誰かが画いたわけではなく、木として生えていた頃の影響が出ているのだろう。その木が何かは分からないが、軽い木だろう。
 節穴のような丸いものが見え、その周辺に模様が流れている。もう一つ、目のようなものがあり、そこからも流れがある。それがぶつかったりしている。
 よく見ると、いろいろな線が走っている。年輪だろうか。
 それをじっと見ていると、天井が動き出す。それなら地震だが、天井はそのままで、木目などが動き出す。丸い目がスーと移動している。最初見た位置とは違うところにある。線もそうだ。今まで隠れていた筋が浮かび上がり、それが波紋のように拡がる。
 いずれも妖怪博士の目が少しだけ動いたのだろう。自分では分からないが、凝視していると、ものが動き出し、今まで見えなかったものが浮かび上がることもある。これは目のピントが少しずれるのだろう。何処にもピントが合っていないときは、頭の中の映像が来る。
 じっと見ていると騒がしいので、妖怪博士は目を閉じた。
 そして再び開けたとき、もうそれらの動きは消えているのだが、しばらくじっと見詰めていると、また動き出す。
 こういうのも妖怪の正体の一つかもしれない。物が動いたり、埃の塊や、汚れが、生き物のように見えたする。じっと凝視しているとジリジリと単純なアニメのように動き出す。そんな虫は存在しないので、妖怪の一種になる。
「お留守ですか、先生」
 その声で折角の妖怪ショーが終わってしまった。
「います」
 訪問者はいつもの担当編集者だろう。玄関が開いているとき、最近は勝手に奥まで入ってくる。
「暗いところで何をしているのですか」
「電気をつけると暑いのでな。それにカーテンを閉めていても、充分明るい」
「昼夜逆転ですか」
 編集者は蒲団を見て言う。
「いや、夏風邪を引いてしまったようでな。それで伏せっていたんじゃ」
「それはいけませんねえ」
「まあいい、しかしどうしたのだね、この真夏に」
 この編集者は夏場はここには来ない。エアコンがないためだ。
「稼ぎ時なので、寝ている場合じゃないですよ」
 夏場は妖怪のイベントが多い。
「今年はもう出ない」
「それは困ります」
「夏風邪だし」
「それなら仕方がないですが、治ればお願いしますよ。イベントはお盆頃が多いのです。それまでに治しておいて下さい」
「それより、どうしたのかね。わざわざ暑い家に来るとは」
「別に理由はありませんよ。近くまで来たもので、少し顔を出しに寄っただけです。すぐに退散します」
 編集者は既に汗を滲ませている。ここは暑いのだ。
「部屋の中でも熱中症になりますから、気をつけて下さい」
「ああ、分かった」
「それと、これはお土産です」
 編集者は小さな紙箱を鞄から取り出した。
「何かね」
「景品でもらった扇風機です」
「玩具か」
「結構涼しいですよ。USB差し込み式です」
「ない」
「そうだと思い、アダブターを持ってきました」
「そうか。しかし扇風機はいらん」
「いえいえ、僕が使うのです」
「なるほど」
「今日はこれで帰ります。元気がなさそうなので」
「ああ」
 編集者が帰ったあと、その扇風機を付けてみた。小さいのだが、結構風が来る。
「文明の利器だな」
 妖怪博士はまた蒲団に戻り、今度はそのUSB接続の扇風機を回しながら寝た。小さくても首振りやタイマーまでついていた。
 そのおかげで眠ることができたのだが、起きると、風を受け続けたのか、体がだるい。
 曲者じゃな、この扇風機は。
 しかし、よく眠れたのか、その後夏風邪はましになったようだ。
 
   了


posted by 川崎ゆきお at 10:52| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月02日

3703話 希望と恐怖


「希望していることはあるのですが、恐怖を感じます」
「恐怖とは怖いということですか」
「怖いだけならいくらでもありますし、それは何事にも付きまとうでしょう。その度合いではなく、恐怖です」
「ほう」
「恐れおののく感じです。怖いより上です」
「希望を抱いたとき、それが出るのですね」
「そうです。いい希望です。悪い希望ではありません。非常にいい感じになる事柄です」
「しかし、その希望の中身がやはり問題なのではありませんか」
「ノーマルです。よくある希望です」
「第一希望の学校とか、会社とかのような」
「そうです」
「それなのに、どうして恐怖が付きまとうのです。怖がるようなことじゃないでしょ」
「怖いを通り越して、恐怖です」
「では希望を抱くと恐怖も来るわけですね。抱き合わせで」
「そうです」
「うむ」
「だから、希望を抱けません。怖いですから」
「どんな怖さですか」
「存在が根元からぐらつくような。そして底知れぬ深淵がポカリと開いていて」
「なるほど、精神的な怖さなのですね」
「そうです。具体的な神経に来るような怖さではありません」
「それで怖いので希望を持たないと」
「はい」
「それは一種のプレッシャーでしょうか」
「武者震いのようなものかもしれません」
「武者震いは元気そうで、景気が良さそうですねえ」
「やってはいけないことではないかと思うのです」
「希望をですか」
「そうです」
「でも希望はあるでしょ」
「いくらでもあるのですが、希望へ向かうことはいけないことではないかと」
「ほう、また消極的な」
「そうですか」
「だから、あたな自身の気持ちの問題でしょ。何かそこに引っかかる問題があるのでしょうねえ。普通に抱く希望でも無理なのでしょ」
「はい」
「昼ご飯、何を食べようかと希望しますか」
「します」
「できると」
「はい」
「じゃ、希望を抱けるじゃないですか。それを実行しましたか」
「しました」
「怖くなかったですかな」
「ありませんでした」
「ほう」
「しかし、その程度のものは問題じゃないのです。もっと将来的な事柄です」
「夢や希望というやつですね」
「そうです。また密かに抱いている野望です」
「要するに本質に関わる望みのようなものが駄目なのですな」
「そうです」
「それで、どんな怖さなのです」
「先ほども言いましたが、底知れぬ不安感が襲い、自分が自分でいられないような、それが壊れていくような」
「それだけですか」
「原因の分からない恐怖に襲われます。絶対にやってはいけないタブーのようなものをやっているような」
「かなり大袈裟ですが、事実ですか」
「はい」
「怖いので躊躇し、希望を抱かなくなったわけですね」
「そうです」
「しかし……」
「はい、治るでしょうか」
「そうじゃなく、あなたの略歴を見ておりますと、やりたい放題で、好きなことをやっておられる。次から次へと」
「はあ」
「それらは希望とは違うものなのですか」
「さあ」
「決して希望を抱けないような人じゃなく、希望の塊のような人ですよ」
「どれも怖かったです」
「しかし、やってこられた」
「はい」
「充分すぎるほどやってこられたわけでしょ。もう希望などないほどに」
「そうかもしれません」
「そして今頃、希望を抱くと恐怖を覚えると言いだしていますね。これは何でしょう」
「あ、さあ」
「今もそうですか」
「はい」
「怖い物見たさ、というやつでしょ」
「それだけですか」
「そうです。だから怖いことがしたいのでしょ」
「そうなのですか」
「確かに希望を抱くことは、その事柄によっては怖いこともあります。それを楽しんでいませんか」
「いません」
「人にはそういう希望があるのです」
「え」
「怖い目に遭う」
 
   了




posted by 川崎ゆきお at 10:27| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする