2019年07月01日

3435話 厳つい表情


 きびしく、いかつい。どちらもきびしい、いかついと同じ漢字だが、若干の違いはある。または怖い顔。いかめしい顔などもある。気難しそうな顔も。これは何が難しいのかは分からない。本人の生き方が難しいのだろう。難問ではなく、解き方が下手なのだ。
 厳しい顔は偉い人に多いタイプだが、偉くなくてもそんな顔で歩いている人がいる。一体何が偉いのだろう。身体がえらいのかもしれない。しんどいので苦しそうな顔になる。
 眉間に皺を寄せ、口を船のようにへの字にし、目は上目遣いで、ぐっと睨む感じ。
 岸和田はそういうタイプの人間だが、偉くも何ともない。生きていくのが偉いだけで、偉人ではない。
「その顔、やめた方がいいよ」
「肉面だ、交換できない」
「いや、その作ったような顔をやめろといっている」
「ああ、自然にそうなるんだ」
「何か、怒っているの」
「いや」
「じゃ、何」
「身構えているのかな」
「だから、そんな人を睨み付けるような怖い顔で歩いていると、より怖い人から因縁を付けられるよ」
「たまにある」
「それに恥ずかしいだろ」
「え」
「幸せではなさそうな顔、弱さを晒しているようなものなんだ。上手くいっていないことをお知らせするようなもの。レベルの低さを見せるようなもの」
「あ、そう。でも言い過ぎじゃないかなあ」
「上手くいっていない。心配事がある。嫌なことがある。ということをお知らせしているようなものじゃないか。ああ、この人、弱い人なんだと、思われるよ」
「じゃ、にこやかに」
「そうそう。それで、隙を与えない」
「でも、なめられそうだし」
「格闘技でもやるのなら別だけで、それは試合だから、そんな顔になるだけ。格闘家も普段は目尻が下がり、穏やかな顔だったりするかも」
「じゃ、どうすればいい」
「普通の顔でいればいい。顔の筋肉を使いすぎだよ。眉間の皺、それでできたんじゃないの。鼻から口に掛けての線もそうだ。深いシワができてる。顔に癖が付いたんだ」
「じゃ、どうすればいい」
「まあ、顔に力を入れないこと。力まないことだよ」
「分かった」
「深刻な顔に見えてしまう。それに君はいつも不機嫌そうだし」
「そんなに機嫌は悪くないけど」
「機嫌の悪そうな人、いつも虫の居所が悪そうな人に見られる。これは気付かって欲しいと特別扱いを願っているようなもの。フェヤーじゃない」
「威嚇になっていいじゃないか」
「いや、違う。私は弱いと言っているようなものだ」
「そうなのか」
「強い人間は辛くても顔に出さない」
「分かった。しかし、もうそんな顔にできてしまったから、力まなくても、そんな顔なんだ」
「いや、まだ今なら大丈夫。楽しそうでにこやかな顔をする必要はないから、普通の顔でいることだよ」
「これが普通の顔なんだけどなあ」
「力んでない」
「ない」
「深刻な顔をしすぎたんだなあ」
「うん」
 
   了




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2019年06月30日

3434話 朝会


「雨ですなあ」
「梅雨入りしましたから」
「集まりが悪い」
「雨ですからねえ、面倒なのでしょ」
「雨には負けますな」
「でも、あなたは出てこられた」
「朝会ですからね。日常業務です」
「業務ですか」
「まあ、日課です」
「しかし、自由参加なので、来ても来なくてもいいわけですから、今朝のような雨の日は来ない人が多いです」
「そうですなあ。でもあなたは来ている」
「あなたもですよ」
「じゃ二人だけ」
「私は会長ですからね。一応来ます。そうでないと、誰もいなければ困るでしょ」
「おかげで助かります。こんなところで、一人でいても手持ち無沙汰です」
「そうでしょ」
「しかしそれほど大切な集まりじゃないのでしょうねえ。雨だと来ない人が多いのは」
「そうです」
「梅雨時はぐんと減りますよ。今日はまあ、底ですねえ。雨でも来る人はあなたのようにいますが、他にもいます。当然です。雨なら中止というわけじゃないのですから」
「この程度の降りで来ないなんて、けしからんですなあ」
「まあ、無理に来てもらわなくてもいいのですよ」
「そうですな」
「まあ、たまに顔を出す程度でいいのです。私は毎朝来ますがね。これは日課です。そのついでに色々な人をお誘いして、来てもらっているのです」
「梅雨が明けて真夏になると、暑くて、また来る人が減るでしょ」
「いや梅雨時ほどじゃありません。ただ、雨でも来ていた人でも暑いと来なくなる場合もありますがね」
「ところで、ここは何の会でした。本来の意味を忘れていました」
「ただのお茶会ですよ」
「私はあなたに誘われませんでしたが」
「木下さんのお友達でしょ。木下さんに誘われた来られるようになったのでしょ」
「そうでした。木下君と一緒に来たのが最初でした」
「その木下さん、最近姿がありません。どうなされているのですか。電話をしても、そのうち顔を出すっていうばかりで、一向に来られません。あなた知ってます?」
「いや、木下君とは最近疎遠でして。連絡もしていませんし」
「あ、そう。じゃ、もう木下さんは来ないのかな」
「そうだと思いますよ」
「どんどんメンバーが減りましてな。それで人を誘ってきて下さいと言ったのですよ。木下さんにもね。ずっと以前の話ですが」
「それで来たのが私ですな」
「そうです」
「しかし、本来、この集まりは何なのです」
「先ほども言いましたように朝会、お茶会です」
「はあ」
「毎日来られているあなたなら分かるでしょ。ただの雑談です。特に何か目的があるわけじゃありません」
「これは、あなたが始められたのですか」
「そうです。多いときは十人ほどいましたよ。毎朝ここに来ていました。それが減っていきましたねえ」
「まさか、私のようなのがいるからでは。どちらかというと部外者でしょ」
「いえ、誰でもいいのですよ。私が知らなかった人でも」
「二人だけになる日もたまにありますねえ」
「最近多いですよ」
「それに雨だし」
「明日も二人のようです」
「じゃ、私は頑張って来ます」
「それは助かります」
 しかし翌朝は、その会長が来なくなった。
 
   了



posted by 川崎ゆきお at 11:21| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月29日

3433話 合田台風


 低気圧が台風に発達し、それが近付いて来るのか、晴天が一気に陰り出す。空梅雨で連日晴れが続いていたのだが、この台風が雨を持ってくるだろう。梅雨の雨か台風の雨かは分からないが。
 吉村はその影響で頭が痛い。低気圧のときはいつもそうだ。その親玉が近付いて来るのだから、いつもよりも重い。
 それで体調も悪くなり、何もできなくなる。実際にはできるのだが、身体が重く気も重い。気も優しく力持ちではない。
 台風が日常をかき回す。降らなかった雨も降り出す。
 吉村は合田のことを思い出した。彼は台風なのだ。最近発生していないが、そろそろ湧き出す頃。今年まだ発生していないので、第一号。というより、第一波だろうか。
 合田が現れると日常が狂う。平常が狂う。乱される。しかし、どこかそれを待っている面もある。かき回して欲しいのだ。
 日常は膠着しやすい。飽きてくる。平穏ならそれでいいのだが、退屈だ。変化を望む。
 合田が現れると危険。危機感。これが緊張を生む。そして、合田が暴れるだけ暴れるが、やがて去って行く。暴れ疲れたのか、暴れ飽きたのか、自然に消滅する。だからじっと身を縮めて通り過ぎるのを待てばいいのだが、これはチャンスなのだ。
 その台風のどさくさで、火事場泥棒のような真似をするのもいるが、未整理だったことを一気に整理したり、人を入れ替えたりと、普段できないことができたりする。ずっと懸案だったことで、なかなか実行に移す雰囲気ではないとき、合田台風のどさくさでやってしまえる。
 それにしては気も重く頭も痛い。こんなとき、逆噴射でもするように、より重く、より痛いことをした方がよかったりする。どうせ重く、痛いのだから。
 それで合田が来るのを待っているわけではないが、リアルな台風と同時に来るわけではないので、いつ現れるのかは分からない。
 
   了



posted by 川崎ゆきお at 10:32| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月28日

3432話 不思議な屋敷


 鬱蒼と茂る昼なを暗い場所に家がある。少し周囲の民家よりも敷地が広い。奥まった場所にあり、車で玄関先までは入れない。敷地までは私道で、近所の人がたまに散歩で入り込む程度。奥まった谷底のようなところなので、行く用事がない。
 その家も古いが、周囲の家も古い。同じ時代に建ったものだろう。ただ、敷地が広いことから、それなりの人物が住んでいる。
 家族はいないらしく、一人で暮らしているようで、近所の人はたまに見かけるが若い頃からずっとここにいるようで、今はかなりな年になっている。最初から老人ではない。近所の同年配の人は、それをよく知っているが、町内会にも入っていないので、回覧板のやり取りも、町内会の一斉清掃にも参加していない。
 最初からそういう家で、得体の知れない人だが、長くそこに棲み着いているので、そんなものだと思われている。
 たまに身なりのいい人が訪れたり、寿司屋や中華屋の出前も見かける。ピザのバイクは門まで来ている。
 当然郵便や宅配もここに来る。ただ私道の距離がそれなりにあり、車が入れるほど広くはない。無理をすれば入れないこともないが。
 屋敷の主は若い頃から老人になるまで、そこにいるようだが、働きに出ている姿は見かけない。外出はするが、近所で、すぐに戻ってくることが多い。
 生活していく上で色々と買い物があるのだろう。
 この屋敷ができた頃からいるのだが、その頃は十代後半だった。家族が何処にいるのかは分からない。親兄弟がいるはずだが、ずっと一人暮らし。ということは二十歳前に独立して、ここに家を建て、暮らしているのだろう。
 二十歳前で家など建たないし、土地も広いため、そんな金もないはず。
 庭木は最初から多く、今は何十年も経つので、太く背も高い。一寸した森だ。ただ、目立たないのは低い場所にあるため。
 地震や台風など、災害に何度か遭っているが、周囲の家々と同じように、屋根瓦が新しくなったり、倒れていた塀などは新しいものになっている。
 狭い公道から出ている枝道が、その屋敷の私道で、ここも木が生え茂っている。雑草なども五月蠅く生えているが、人が通れないほどではない。舗装はされていないが、ぬかるまないよう、石が敷かれている。草で見えなくなることもあるが、それなりに人が出入りしているため、生きた道だ。
 たまに散歩人が入り込み、屋敷の門にぶつかり、戻ってくる人もいる。近所の人も、門の近くまで散歩する。門の手前に祠があり、これは昔からこの地にあるためだろう。祠は屋敷の人が建て替えている。
 祭られているのは、延命地蔵のようだが、いつ誰が置いたものかは分からない。この地方を襲った災害か、人災かは分からないが、そのときにできたものだと言われている。
 それから数十年後、これは最近の話になるが、人が変わった。いつもの人が亡くなったのだろう。年齢的にもそんなものだ。そして二十歳前の人が住むようになった。
 そして前の人と同じような暮らしぶりだ。
 
   了



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2019年06月27日

3431話 リビングのソファー


 蒸し暑さで何ともならないので村田は横になった。まだ夕方、夕食前。何か買ってきて食べたいところだが、とりあえず横になりたい。暑いのだが、冷房をつけると寒くなる。まだ真夏ではないため、窓を開けているだけで十分。
 村田が仕事部屋として使っている居間にはソファーがある。いわゆるリビングルーム。一番広い部屋。ソファーは引っ越したときからある。前の人が置いていったのだろうか。古いものではなく、新品に近い。どこも傷んでいない。
 エアコンも置いていったのか、最初から付いていたのかは分からない。実は又貸しで、本当の持ち主は別にいる。親戚だ。その人が買った中古マンション。そのときからソファーはあったようだ。
 何故が気に入らないのか、すぐに引っ越してしまった。投資物件ではない。住むつもりで買ったのだろう。
 そのソファーで村田は寝転んだ。肘当てが枕にもなり足置きにもなる。身長分はないが、足を曲げたり、丸まったりすると、ベッドのように普通に眠れる。
 それで仮眠することが多い。疲れると、そこに座りテレビを見たり、楽な姿勢で音楽を聴いたり本を読んでいる。
 村田にとり、このソファーは憩いそのもの。
 一人暮らしでは広いマンション。いつまで使わせてもらえるのかはまだ分からないが、親戚は売る気はないようだ。村田も一生ここで暮らすわけではないので、家賃がいらないので助かる。
 そして怪談。
 これは夜中、寝室からトイレへ立ったとき、廊下に出る。廊下の向こう側はソファーのあるリビングと、その横に六畳の和室がある。親戚はそこを寝室にしていたようだ。村田が寝室にしているのは子供部屋だろうか。それが二つある。一つは使っていない。物置だ。
 さて、怪談。
 もうお分かりのようにあのソファーだ。
 トイレは子供部屋と居間との間にある。トイレのあるところが、ちょうど中央部で、キッチンや洗面所や風呂場などへ、その廊下で振り分けられている。
 だから夜中は子供部屋からトイレや洗面所へは行くが廊下の向こう側のリビングへは行かない。そこは仕事場のようなものなので。
 ある夜、村田はトイレの向こうにある居間の奥の窓際のカーテンが揺れているのを見る。廊下とリビングの間に扉はない。だから玄関口からその廊下が真っ直ぐに伸び、リビングの端まで見えるということになる。
 問題はカーテンではない。これは窓を開けていたため、揺れているのだ。
 昼間は暑苦しいのだが、夜になると、この時期ひんやりとする。それで、トイレに立ったついでに閉めにいった。そして振り返ると、ソファー。
 しかしソファーよりも先に人影を先に見る。ソファーを見ているのか人影を見ているのか、それは両方。
 ソファーでお婆さんが正座している。
 それを見たのは一瞬。錯覚にしても、形がはっきりとしており、あるべきものではないものがある。しかも物体ではなく、人間。
 最初見たときお婆さんだとは分からなかった。仏像のように見えたのだ。そしてぐっと目をこらすと、それがお婆さんであることが分かった。目は合わなかった。窓からの星明かりで、部屋は真っ暗ではない。カーテンは夏向けのレース、閉めていても暗幕にはならない。
 村田がソファーに近付き、もう少しはっきりと見ようとしたとき、消えた。
 きっと前の持ち主か、家族だろう。
 親戚がすぐに引っ越したのは、これかもしれない。
 それならソファーを捨てれば、もう老婆は出なくなるだろう。
 村田がそれを見たのは一度だけ。やはり何かと見間違えたのか、または全くの錯覚なのかもしれない。その後、変わったところはないし、ためしに夜中にソファーを見に行ったことはあるが、二度と出なかった。
 そのうち親戚の身内が結婚するらしく、それでこのマンションから村田は出た。
 その後、変わった話は聞かない。
 
   了


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2019年06月26日

3430話 右肩下がり


「平田君、ちょっと」
「はい」
「これなんだがね」
「売上げグラフですね」
「右肩下がり」
「はい」
「知っているだろ」
「はい、チェックしていますので」
「どう思う」
「こんなものかと」
「最初の頃と変わらん」
「最初は淋しかったですよね」
「それが少し上がりだし、それから右肩上がり。これは何処まで行くのかと楽しみにしていた」
「はい、いっときは期待しましたよ。倍々ですからねえ」
「今はバイバイだ」
「さよならですね」
「そうだ。これじゃ大損だよ。まだ突っ込んだ分さえ回収していない」
「そんなものですよ」
「これじゃ投資した意味がない」
「ある程度いけると思っていましたが、駄目でしたねえ」
「所詮流行り物か」
「旬が過ぎましたからね。今ではもう珍しくも何ともないし、あたりまえになったので、新鮮さがなくなり、冷静になったのでしょうねえ」
「これは誰が責任を取る」
「皆さん同意しましたよ」
「そうだ。私も同意した」
「誰も反対していません。だから追求する人もいないんじゃないですか」
「最善を尽くしたかね」
「これ以上尽くしようがありません」
「他に策は」
「無駄あがきです。余計に損をしますよ」
「じゃ、これはもう辞めるか」
「それは惜しいかと。それに今は経費はほとんどかかっていません」
「何かの拍子で盛り上がらんかね」
「その可能性はまったくありません」
「じゃ、続けるか」
「そうです。赤字というほどではありません。僅かですが黒字です。しかし突っ込んだ経費はまだ回収できませんが」
「そうだね。右肩下がりでも、黒字なら続ける方がいい」
「しかし初期の目的からすれば、完全に失敗ですが」
「じゃ、どうすればいい」
「このままでいいんじゃないですか」
「ずっとこの右肩下がりを見続けるわけか」
「底を突いても赤字にはなりません」
「それはいいねえ」
「そこだけは凄くいいです」
「底堅いというやつだ」
「うまい」
 
   了



posted by 川崎ゆきお at 10:39| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月25日

3429話 空の段ボール箱


 暖かいが暑いになり、暑苦しくなり出すと、黒崎はバテる。夏はバテていていいのだというのが黒崎の方針。ただ、方針と言うほどのことではなく、心づもりだろう。しかし、実際に夏休み状態に入ってしまうので、これは仕事に影響する。ただ、毎年夏場は休んでいるので、やはり方針となっており、決まり事の一つ。方向性の一つ。
 ただ夏休みなど取らなくても、年中休みのようなもので、下手をすると夏よりもその他の月の方が長く休んでいることもある。
 だが夏は仕事が入って来ても、しない。ここが普通の月とは違う。
「そのようにおっしゃらず、ここは引き受けてもらえませんか。失礼ですが、あなたの年収ほど稼げますので」
「私の年収を知っておるのかね」
「知るもなにも、ないんじゃありませんか」
「ほう。じゃ、私の年収分の儲けということは、一円にもならない仕事なのでは」
「いえいえ、あなたの地位にふさわしい年収分をお支払いします」
「夏から大晦日までかかるんじゃないのかね」
「いえ、一ヶ月もかからないと思います。あなたほどのベテランなら半月でできるでしょう」
「いい話なのだがね」
「そうでしょ。死ぬほど暑いわけじゃないですし」
「暑いときはねえ、何もしていなくてもバテるんだ。そんなとき仕事をすれば、ダウンする」
「それは大袈裟では」
「まあ、多少はね。しかし、この時期、何もしたくないんだよ」
 実は他の時期でも何もしていない。
「熱中すれば、暑さも涼しく思えるものですよ」
「暑さも忘れるか」
「そうですそうです」
「うむ、考えておこう」
「即答でお願いできませんか。急ぎなので。もし駄目なら他の人に渡すことになりますが」
 これが効いたようだ。
「分かった」
 翌日素早く宅配便で段ボール箱が届いた。資料だ。
 ざっと依頼書を読むが、簡単な仕事だ。
 しかし、相変わらず暑い。
 これはサギではないかと心配したが、黒田は一円も支払っていない。また契約書もない。
 その段ボールの蓋を開けたまま、ごろりと横になった。黒田は昼寝が好きで、それを楽しみにしているのだが、夏場は別。暑くて寝てられないが、静かにじっとしていると、体温も下がるのか、ウトウト程度はできる。しかし熟睡はできない。まあ、昼寝で熟睡した場合、体調が悪いのだろう。
 そして、目が覚めた。
 横に段ボール箱がある。それで、仕事を思い出したのだが、中に手を突っ込むと、何もない。段ボールだけの段ボール箱。箱だけがある。
 資料を見たとき、戻していなかったのかと思い、そこら中探すが、別の場所へ持って行った記憶はない。段ボールを開けたその場所で資料を見ている。
 手品か。
 段ボール箱は宅配で来たのだから、何か貼ってあるはず。しかし、そういう貼り紙はない。
 ああ、これは夢でも見ていたのだと思い、年収分の仕事も、全て夢だったと気付いた。
 しかし、何故、空の段ボールが、こんなところにあるのだろう。
 
   了
 



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2019年06月24日

3428話 去年の風


 まだ電気ストーブを出しているのだが、脇に置いている。もう付けることはない。
 そしてそろそろ扇風機が欲しいところなので、押し入れにしまっている扇風機を取り出し、そこに電気ストーブを入れた。交代だ。
 当然暑くなり、そのままでは汗ばむほどになっているので風が欲しい。窓からの風は来ない。それに南に面しているので、風そのものが熱い。だから扇風機が必要。
 当然のことを当然のように実行する。何の間違いもない。世間の何処で話しても通じる。
 そして扇風機のスイッチを押すと、すぐに風が吹いてきた。いい感じだ。その風が部屋の空気をかき回しているのと並行するように少しずつ何かが変わっていく。まずは壁側の本棚がメラメラと動いた。本の一部が動いたのだ。本というより背表紙。また隙間ができていたりする。部厚めの背表紙が別の場所に移動している。これはアプリケーションソフトのバッケージだ。電話帳ほどの分厚さはあるが、ただの空き箱。
 テーブルの上のものも変わっている。去年割って捨てた水飲み用のガラスコップ。それがある。
 風。
 去年の風が吹いたのだ。
「という夢を見たのですが、これは何でしょう」
「本当にそんな夢を見られたのですか」
「はい」
「よくできているというか、発想が夢らしくない。確かに夢は普段思い付かないような奇妙な話や展開になりますが。それにしても、その去年の風の夢。できすぎています」
「分かりましたか」
「創作でしょ。作ったのでしょ」
「実はそうなんです」
「じゃ、何故夢だと」
「とりとめもないウダ話なので、聞いてもらえないと思いまして」
「いや、聞きますよ。どんな話でも」
「そうですか、じゃ、作るんじゃなかった」
「それで、昨日見られた本当の夢はどんな内容でした」
「忘れました」
「あ、そう」
「だから、作ったのです」
「あ、そう」
 
   了


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2019年06月23日

3427話 白根崎


 何の関わりもない地名がある。奥崎はつい口癖のように白根崎と言っている。何かのついでに思い出すのではなく、それだけが独立して、ぽんと飛び出る。当然声には出していないが、奥崎にとり、白根崎は馴染んだ地名になったようだ。
 奥崎のように崎の付く人名かもしれないし、また別のものかもしれないが、地名だとはっきりと分かる。地名であることは分かっているので、これは間違いない。どうしてそれが分かったのかは分からない。ここが合点のいかないところだ。ただの思い込みだろう。
 白根崎の向こうに、とか、独り言をいうことがある。白根崎が出て来る本とか、物語とかを読んだ記憶はない。それなら、すぐに分かるだろう。ただ「白根崎」は奥崎が当てた漢字で、「しらねざき」という音から来ている。しかもこれは外から入ってきた音ではなく、奥崎が発した音。おそらく「白根崎」と書くのだろうと思う程度で、文字から得たものではないことは確か。
 そうすると、もう記憶などしてないほど小さい頃に耳から入って来た言葉程度しか思い付かない。または一度何処かで聞いたのだが、それを忘れているか。
 白根崎は地名からすると川や海と関係するかもしれない。岬の代わりに崎を当てることがある。先、先っぽもようなところ。
 地名からして、そういう場所を指しているのかもしれないが、これは当てにならない。何故なら白根崎は奥崎が漢字にしただけのことなので。
 だが、イメージとして、かすかに分かっているのは山だ。沢ではなく、川でもなく、海岸沿いでもなく、山の頂、山の端、山の先っちょ。しかも辺鄙なところにあり、淋しい場所。
 白根崎には伝説が多く残っており、神秘的なところ。
 白川郷。白老。おしらさま。島根。そういった音の響き、語呂で合成されたフィクションかもしれない。奥崎がいつの間にか作ってしまったイメージで、最初から想像上の地名なのだ。
 奥崎は白根崎と呼んでいるが、実は崎は後付けで、最初は白根だったような気もする。しらねだ。
「ざき」を付けたのは重心の問題だろう。その方が存在感が増す。
 白根崎の向こう側。
 白根崎へは近付いてはいけない。
 白根崎はこの先にある。
 白根崎で見たことは話してはならない。
 等々がぽんと頭から出て来るのだが、その先はない。ないもなにも最初からないのだから、当然だろう。
 この白根崎の記憶は、元がないのだが、何処かで、これが発生源だったのかと思うものと遭遇するかもしれない。
 
   了



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2019年06月22日

3426話 非熱心


 青葉繁る候、勢いのある頃なのだが、武田は簡潔に、簡単に済ませたいと淡泊なことを思う。深い思いではなく簡単な思い。単純な思いだ。思い方、考え方が簡単なので、すぐに思い付くようなこと。いや、思うまでもなかったりする。
 簡単に済ませる。これは暑くなってきたので、そちらへ向かうのだろうか。本来の目的に対しての挑み方ではなく、その日の気分や体調で左右される。それが年々シンプルな方面へと向かっている。凝ったことをするのが暑苦しくなったのだ。さらに夏場は余計にそれが来る。
 面倒なことはしたくない。これがメインになり出すと、もうあまり目的に拘らなくなるのだろうか。目的も、それに合わせて変わったりする。すると、最初考えていた目的は大したことではなかったことになる。簡単に変えられるものなので。
 気分もよく、気候も勢いがよいとき、逆に何もしないでいると、非常に効果的だ。
 それで相変わらず、その日も簡単に済まそうと思っていたのだが、既にその状態になっていた。これは習慣化するのだろう。すると、それが普通になる。
 簡単に済ませるとはあまり気を入れないで、力まないで、熱くならないで、さっとやってしまうこと。この場合過程を楽しむとか、充実感に浸りながら進むとかではなく、そういうものから解放されて、淡々とやること。しかし、ある意味これは極意で、なかなか辿り着けない道かもしれない。
 腕の立つ職人ほど手を抜くのが上手いという。懸命に仕事をしているような振りが上手い。しかし本当は見ているほど力を込めていないし、疲れないようにしている。熱心にやっているように見せるのが巧みなのだ。
 仕事をしていても休んでいるようなもの、というわけにはいかないが、休ませ方が上手いのだろう。長年培った技というのは、この手の休め方にあるのかもしれない。そして手が動けば勝手にできていく。細かいことを考えたりコントロールしなくても、それらは手が覚えているのだろう。
 武田が簡単にしたいとか、楽をしたいとかの怠け心は、実は達人へ向かう道かもしれないと、とんでもないことを考えた。本当は一番難しい道なのだ。
 しかし、その入口は懸命にやることでも、集中して汗を流すことでもなく、手を抜くことから始まる。
 それで武田は今日も非熱心な姿勢で、仕事を始めた。
 
   了




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