2018年10月03日

3765話 臭い下げ


 雨の降る肌寒い秋の頃、上田はいつものように郊外にある商業施設へコーヒーを飲みに行った。流石に雨なのか、客は少ない。常連客が多いのだが、ガタンと減る。そのため来ている客は精鋭部隊。ただし、クルマで来ている人は別だろうが、それでも雨の日は控えたりする。
 四人掛けのテーブルが塞がれている。客が少ないのだが、それらの客が真っ先に座っているのだ。その他のテーブルの方が多いのだが、二人掛けにセットされている。複数で来ればくっつければいいのだが、上田はいつも一人なので、そうはいかない。満席に近いときでも四人掛けが空いていることがある。これは運がいいのだろう。さっきまで座っている人がいたのかもしれない。
 それで上田は隅っこのテーブルに着くが、そこが寒い。隅と言うより端。天井を見ると真正面に送風口。冷房は切っているが送風がきつい。これで寒い。
 端だが中央部、だからまともに天井から風が吹き下ろしてくるのだろう。
 上田が座って、しばらくすると端の隅。つまり角っこに座っている老人が立った。何をするのかと思うと、席を変えるよう。やはり寒いのだろう。その角はましな方だと思うのだが。他に考えられない。テーブルも椅子も動かせるが、もう一つの隅、こちらは壁が硝子窓で、外が見える。そしてその両端までソファー。ということは、この老人、寒いのではなく、クッションを求めての移動だったようだ。しかし、常連客ではない。もしそうなら、最初からクッションのいいソファーへ行くだろう。
 これで上田は納得した。
 しかし、またしばらくして、老人が立ち上がった。折角良い場所に座り直したのに、もう出るのかと思った。
 ところがテーブルには飲み物や本などがそのまま置かれている。持ち出したのは鞄だけ。ということはトイレに立ったのだろう。店内にはトイレはない。出て少し歩いた先にある。
 そして、しばらく経過したが、老人は戻ってこない。飲み物を乗せたトレイは出るときセルフなので、自分で運ばなければいけない。それを知らないまま出た可能性がある。トイレではなく。
 そして持ち物として残っているのは本。文庫本だが、読みかけだと捨てもいいわけがない。ではやはりトイレか。
 しかし、そのまま出てしまったのかもしれない。本を忘れて。
 探偵は全員を集めた。これから犯人を言い当てると宣言して。
 上田も本を読んでおり、いいところなので、そこに集中し、老人のことなど忘れていた。
 あなたが見たというのは、この人ではなく、実は高島さんだったのです。
 こういうのを読んでいると、時を忘れる。
 動機がやっと分かりました。二十年前まで遡りますねえ、あのとき村を追われた子供は、あなたでしょ。
 これで犯人が確定したので、一息つき、あの老人のテーブルを見た。
 そのままだ。やはり帰ったのか。しかしトイレだとすると戻って来れないようなことがあった可能性がある。
 今頃トイレで、まだ。
 上田は半ば気になるものの半ばどうでもいいことだとは思いながら、喫茶店を出て、そのトイレへ行った。
 狭い通路をじぐざぐに進むと、手洗いと鏡が見える。そこに立つと全体が見える。左側は小、右側は大。大の扉は三つ。全部閉じている。使用中だ。
 そして物音。真ん中のドアが開き、あの老人が姿を現した。凄い偶然だ。
 便秘だったのかもしれない。
 便所に持ち込む臭い下げだ。
 
   了


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2018年10月02日

3764話 秋の空


 秋、雨が続いていたのだが、久しぶりの秋晴れ。しかし久しいと言うより、これまで一度も秋らしい晴れ方をした日はなかったように思う。晴れていても夏の暑さが残っており、秋らしい爽やかさがなかった。だからやっと秋が来た感じだろうか。
 下田は暇なので、自転車でウロウロするのが趣味だが、最近出不精になり、以前ほどには遠出しなくなった。それが年々減っていったのだが、もう自転車で行けるような近場は全て行き倒したので珍しくもないのだろう。だからといって電車に乗って見知らぬ町へワープする気にはならない。これも仕事の関係でほとんどの町は行き倒していたためだろう。
 その日、晴れたのだが、翌日から雨のようだ。秋台風が来ているらしく、晴れ間は今日一日。絶好の行楽日和。秋を満喫するにはこの日しかない。今年初めての秋らしい日和。
 下田は出掛けたくなったのは、このチャンスを逃すと、次はいつになるか分からないため。台風が去ったあと、また雨でも続けば行けない。グズグズしていると、秋が終わってしまう。
 つまりサイクリングに出るわけだが、走ることが目的ではなく、自転車の上から風景を見るのが目的。そのため距離を稼ぐ走り方ではない。ただ、一気に走り抜ければ、結構遠くまで行けるので、急いで走れば見知らぬ町内に入り込むことも可能。これは風景も新鮮だろう。生まれて始めて見る町であり、景色なのだから。
 しかし、季候が良いためか、気持ちが緩んできた。これはいい感じで、非常にリラックスしている自分がいることを下田は感じた。こういうときは骨休め。何もしないでだらだらしている方が合っている。
 同時に緩んだ気持ちからは冒険心は起こらない。そのため、出掛ける気がどんどん失せてきた。これは天気がいいためだ。
 天気がいいので出掛けたいのだが、天気がいいから寛いでしまう。早い目の小春日和を体験するようなもので、猫のようにウトウトし始めた。
 気候の良さが、もう何もしたくないというコース取りになるという妙な具合になっている。
 これは何だろうと下田は考えた。しかし考えるのも邪魔臭くなり、昼食後に出掛けようとしていたのだが、出掛けたことは出掛けたものの、これは昼食後にいつも行っている喫茶店。これなら昨日と同じで、外出は外出だが、単なる日常移動だろう。普段の通り道を移動しているだけ。途中で水の補給も必要ではないし、着るものも適当でいい。
 しかし、いい天気の日にぐだぐだし、何もしないでいることが、結構気持ちがいい。
 そして、出掛けないという方向に決まったとき、何故かほっとした。
 
   了


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2018年10月01日

3763話 雨上がる


「雨上がると言えば」
「痔が治る」
「ほう、それは雨降って地固まると言うことですな」
「そうです」
「しかし、雨上がるで、そこまで二段階飛びますか」
「そうですねえ」
「じゃ、普通はどうですか」
「雨上がるなら、これは嫌なこととか悪いことがやっと去ったという感じです」
「雨が悪いことととして見た場合ですね」
「そうです」
「雨上がり、さて、晴れているかどうかは分からない。まだ曇っているでしょ。もし青空が出ているのなら、これは俄雨。今まで晴れていたのに、急に降り、そして雨上がる」
「はい」
「雨上がりにも色々あります。しかし、降っているより、降っていない方が好ましい。これは全てではありませんよ。雨が必要な事柄もあるのですからね。雨で中止になればいいようなこともあります」
「はい」
「しかし、雨上がるで痔治るとはいったいなんでしょう。その突き方が妙です」
「痔、固まるです」
「それで治るわけですか。しかし、硬くて痛いんじゃありはしませぬか」
「爛れていたのが、乾いてとか」
「あなた痔ですか」
「いいえ」
「じゃ、思い当たらないでしょ」
「そうですねえ」
「要するに地と痔をくっつけたかっただけ」
「はいそうです。でも雨上がるですぐに思い付いたのが痔固まるでした」
「ただの駄洒落でしょ」
「そうです」
「歌詠みの場合、本当は駄洒落なのですが、そこになるほどと言い当てるが如く妙味や、その掛け方に風情や趣き、また有為な意味合いが含まれておるものです」
「でも洒落を楽しんでいるのでしょ」
「洒落と駄洒落の違いはそこにある。上等な和菓子と駄菓子の違いのようにね」
「雨上がる、痔固まるじゃ駄目ですか」
「まあ、君がそう連想したのだったら仕方がない。それが君のお人柄ということでね」
「人柄とは関係ないと思いますよ」
「そういう駄洒落は我慢しなさい。言えば命を落とすことにもなりかねません」
「表現のために命を賭して」
「だから、駄洒落ではその価値はないでしょ」
「しかし」
「はい」
「雨降って痔固まる……私は好きです」
「有り難うございました」
「他では言わないように」
「はい」
 
   了


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2018年09月30日

3762話 馬子にも衣装


「僕は着るものに凝っていましてねえ。まあ、凝り固まるほどのものでではないのですが、不本意な服装はしません。たとえばジャージとかで外には出ません」
「じゃ、紳士服を着て」
「それは広すぎる分け方です。婦人物ではないという意味での紳士物でしょ」
「じゃ、どのような服装がよろしいのですか」
「見れば分かるでしょ」
「きっちりとした身なりですねえ」
「もう年ですから、昔ほどではありませんが」
「どう見ても貧乏人には見えない」
「それが狙いです」
「散髪もよく行かれているようです」
「薄くなりましたが、まだ大丈夫」
「その靴は」
「これはカジュアルものですが、アウトドアもいけます。ただしスポーツシューズのように線は入っていません。当然シティーでも似合う」
「はい、お見事です」
「しかしですねえ」
「何か」
「僕と似たような年寄りを見ました」
「あなたのような服装の人なら、いくらでもいるでしょ」
「そうですね。ちょっと身ぎれいで身なりのいい外出着」
「そうですね。あまり若々しいヤング向けじゃないところがいいですねえ。年にふさわしく、落ち着いていて上品」
「ところがです。私と似たような人を見たとき、ぞっとしました」
「あなたと同じ服装」
「そうです」
「じゃ、何故ぞっと」
「私もそう見られているのかと思うと」
「ほう」
「その人は僕よりも年が上のようです」
「はい」
「何か哀れを誘ったのです」
「哀れ」
「はい、可哀想なほど」
「どうしてですか、しっかりとした身なりの人でしょ」
「かえってそれがいけないのでしょうねえ」
「はあ。でも年代にふさわしい服装なのでしょ」
「僕のよりも高そうですし」
「じゃ、羨ましく思うのでは」
「そうではないのです。一分の隙もありません。靴下の色もいい。洗濯で乾いた物をとりあえず履くというのじゃない。ズボンや上着、帽子との関係を考えておられる」
「いくつになってもオシャレで、いいじゃないですか」
「それが、哀れを感じたのです」
「私はその年代ではないので、よく分かりませんが、かっこいいお爺さんでしょ」
「それが悲しいのですよ」
「では、どのような服装がいいのですか」
「もっといい加減な服装の方がいいです。バーゲンで適当に買ったものとか、寒いので、適当なものを引っかけているとか」
「じゃ、その辺でよく見かける服装でしょ」
「そちらにします」
「よく分かりませんが」
「その老人の後ろ姿を見たとき、哀れを感じたのです」
「その感覚、よく分かりません」
「あまり服装に拘らない方がいい。今の僕のようにね。何か虚しいものを感じましたよ」
「もっと分かりやすいたとえはありませんか」
「猿に服を着せたように見えました」
 
   了


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2018年09月29日

3761話 気楽人


 予定通りとか、思惑通りとか、期待していた通りとかになると、気持ちがいい。見込んだ先がその通りになるためもあるが、小さなことでもそれはある。むしろこちらの方が上手くいくのだが、得られるものは少ない。しかし、気持ちの上で満足が得られる。
 一歩先を行っていると余裕がある。一歩遅れた状態では焦る。この一歩先、半歩でもいい。少しだけリードしている状態は気持ちがいい。それだけではなく、余裕があるので安定している。まあ、貯金のあるなしとは関係はないが、ゆとりというのは大事。
 その日、少しだけ早く起きたとき、ほんの数分だが、いつもよりも先を行っているように思えた。この場合一体何をしたのかというと、大したことはしていない。少しだけ早く目が覚めただけ。目は誰でも覚める。覚めなくなれば、大変だ。そのあとすぐに起きられるかどうかが問題。いつもより早いとまだ寝ていてもかまわない。どちらを選ぶのか。
 この場合も、それ以上寝てられないときは起きるしかない。それで時間的ゆとりができ、一歩リードしたように感じるかというとそうではない。もう少し寝ていたかったのにと、不満が残る。そして寝不足なのが気になる。
 これは自分で仕掛けたことではないためだ。早く起きたことに対する解釈の違い、受け止め方の違いだろうか。
「余裕ですか」
「そうです。どうすれば持てるのでしょう」
「さあ」
「あなたはいつも余裕綽々で、羨ましい限りです。自信たっぷりだし」
「それはね」
「何か秘訣があるのですね。教えて下さい」
「無理をしないだけ」
「え、それだけですか」
「単純でしょ。無理をしていないので、余裕、余力がある。それだけです」
「つまり基準を下げろと」
「そうですねえ」
「しかし、僕はこれ以上下げられません。精一杯やっても間に合わないのですから」
「じゃ、この会社を辞めて、もっと楽なところへ行くことですよ。私はそうしました」
「しかし、給料が下がりますし」
「さあ、それはどちらを取るかは君次第」
「余裕のある暮らしをしたいため、ここで頑張っているのです」
「余裕は頑張らなくても得られますよ」
「はあ」
「何か不満なようですが」
「はい」
「きっと君が思っているほどの力はないのでしょうねえ。君にとっては高い目に基準を置いた。それが間違いなのかもしれません」
「はい、ギリギリです」
「私はこんなところにいる人間じゃないのですが、ここにいる方が楽。それだけです」
「その境地が分かりません」
「簡単ですよ。楽に生きたいだけのことです」
「そんな気楽な気持ちになれればいいのですが」
「そうですねえ、気楽は頑張っても手に入るものじゃありません」
「はあ」
「そぐわないようですね」
「はい」
「それは仕方がありません。誰にでもできることじゃないのですから。それに君のように将来を夢見て頑張っている人には水を差すような話ですからね」
「はい、差されました」
 
   了
 


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2018年09月28日

3760話 何か


 昨日と様子が違う。柴田が朝、目覚めたときの第一印象がそれ。これが一番に来るのかと思いながら、何が違うのかと考えてみた。朝からよく頭が回り、回転するものだ。きっと目覚めがよかったのだろう。いつもなら目覚めたときはまだもう少し眠っていたいというのが第一印象。しかし、印象でも何でもない。生理的なことだ。
 夏が終わり秋になり、空気が入れ替わったのではないかと思ったのだが、それほど変わらない。相変わらずの蒸し暑さが残っている。涼しさはあるものの、空気の違いは感じない。
 すると体調。調子が良いのかもしれない。しかし、それと印象とは違う。内部ではなく、外部の印象。だが、特に目立ったものはない。風が強いとかの自然現象でもない。そこではないことは何となく分かる。
 昨日と同じような朝の陽射し。天気も似ているので、起きたときの部屋の光線具合も同じで、これが目ですぐに分かる違い。しかしそれではない。
「誰かいるのか」
 これが柴田が下した解答。実際にはカマに近い。何者かにカマを掛けたのだ。
 反応はない。
 カマは外れたようだ。
 何かが違う。違和感だけがそこにある。
「僕として、目が覚めたのだろうか」
 この想像は度を超している。柴田として目を覚ましたのではなく、別の人物として目を覚ました可能性がある。しかし、それはあり得ないので、もう一人の柴田とチェンジしたのだろうか。
 多重人格。
 しかし、それは思い当たらない。人柄が変わりキャラが変われば見えるもの感じるものも違うはず。解答としては上手くいく。
 原因があるはずだと、昨日のことを思い出す。何か変わったことをしなかったかと。たとえばカーテンを変えたり、壁紙を貼っただけで随分と雰囲気が変わる。しかし、それも思い当たらない。もしそうならすぐに分かるはず。だから愚答。
 そうなると柴田に分からない変化があったのではないか。具体的なものなら目で見える。だから五感を超えたものの変化。
 ただ分かるのは何かが変わったことだけで、何がどう変わったのかの具体的なものまで絞り込めない。それ以上は感覚だけでは無理なようだ。
 そして、いつものように朝の支度をし、仕事先へ向かった。別段変化はないが、いつもの道だが、やはり気にし出すと、いつもとは違うように見えてくるので不思議。
 そして昼を過ぎたあたりで、そういうことは気にならなくなり、帰宅する頃にはすっかり忘れていた。
 そして寝る前、今日の一日について、ちょっと思い出したのだが、今朝の目覚めのあの一件は抜け落ちていた。
 
   了



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2018年09月27日

3759話 逃水


 ピンチはチャンスだというが、ほとんどの人はピンチだけで終わり、それがチャンスに昇華することはない。しかし確率的にはある。
 ピンチをチャンスと考え、どのようにそれを活かすのかとなると、ほとんどの人はピンチにならないような安全策を考える方向へ向かう。それでもいいのだが新たな何かとというものはそこからは生まれにくい。誰も思い付かなかったようなこととか、場合によっては今後のスタンダードになるような新しいことだ。
 ピンチに遭い、悪いことに遭遇し、結果も悪くなっただけで、チャンスどころの騒ぎではなく、積まなくてもいいような経験を加えてしまう。こういうのは嫌なことなので、忘れるしかないので、記憶の彼方へ行き、これが活きることはない。ただ生理的に、それが残るかもしれないが。忌まわしい嫌なパターンとして。だから、近付かない。
 この場合、何も良いことはないのだが、それをチャンスと思っているわけではないが、その方面のことは嫌がり、回避し、避けるようになる。これは世間を狭くするのではないかと思えるが、世間は広い。一人の人間が関わるようなことはしれている。
 さて、回避する、逃げることで行動範囲が減ったり狭まったりするわけではない。逃げ道は寄り道で、そんなことがなければ遭遇しなかったものと出合えたりする。また別の方法や、別の方向へのアクセスチャンス。これはチャンスと思っているわけではなく、仕方なくやっていることかもしれない。
 それが今まで気付かなかったこと、本来ならやるようなことではなかったとしても、いいものがそこにある可能性がある。
 同じ失敗を繰り返す粘り強さ、その根性は凄いと思うが、ターゲットを変えることも大事。しかし、狙いを変えるという意気込みではなく、そうしないと何ともならないからやる程度。切実としたものがある。
「今回はどうですか」
「前のは失敗しました。もう二度とやる気はありません」
「これで何回目ですか」
「はい、生き方を変えます」
「だから、それも何回目ですか」
「さあ、数えたことはありませんが、今度の生き方は今までになかったこと。生き方っていろいろとあるものですねえ。いくら変えてもまだまだありますよ」
「それはいいのですが、ちょっと具合が悪くなると、すぐにやめて、別のことをするのはどうかと思いますよ。少しは粘ってみては如何です」
「粘れるのなら、そうしますがね」
「あなたは逃げているばかりです」
「いやいや、逃げながらいいものを見付けることもあるのですよ」
「あなた、それ、ただの性癖でしょ」
「それが全てです」
 
   了


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2018年09月26日

3758話 マルコ


 マルコと呼ばれているが、女性ではない。冒険家。マルコポーロから来ているあだ名。姓は丸山。だからマルコと近いので、そう呼ばれるようになったのだが、そう呼ぶ人は少ない。ニックネームで呼び合う関係の人が少ないのだが、たった一人、マルコポーロと呼ぶ知り合いがいた。いろいろな人からそう呼ばれていたわけではない。
 その後は丸山よりもマルコと呼ばれる方が多くなり、今では丸山という本名を知らない人もいる。
 マルコは冒険家なのだが、遠洋を旅するわけでも深山幽谷に分け入るわけではない。逆に旅は苦手で出不精。
 だからここで冒険家と呼ばれるのは、先陣を切るためだろう。先陣、真っ先に突っ込む人。得体の知れないものに対しても、それをやる。そのため危険が多くリスクも高い。その意味での冒険。
 また、それを人柱、サンプルという人もいる。踏み込むのが危険な第一歩というのがある。悪くいえば捨て石。薄い氷で割れておじゃんになるかもしれない。マルコはそれを踏む人。要するに身軽なのだ。体重が軽いので割れにくいというわけではない。気持ちが麩のように軽い。
「どうですかマルコさん。最近の冒険は」
「いや、もう年ですよ。もう怪我はしたくないので、最近は控え目です」
「もう怪我と、儲けが、を引っかけていませんか」
「分かりましたか」
「マルコさんは先駆者です」
「儲けるのは二番手、三番手でしょ」
「しかし、真っ先に駆けるのは気持ちがよかったでしょ。誰もまだ踏んでいない真っ白な雪、新雪とか」
「そうですなあ。あとのことよりも、その真っ先が楽しかった。それで充分だったのかもしれません」
「真っ先なので、掴めるもの、得られるものも沢山あったでしょ」
「いや、未踏地へ到着した瞬間、次の未踏地へ行きたくなるもので」
「今なら、大金持ちですよ」
「そうですなあ。そのために突っ込んだのですがね」
「今度はどんな冒険へ」
「いろいろとありますが徐々に魅力あるものが減っています。魅力は見出すもの。だからその見出す力が弱まっているようです」
「雀百まで踊り忘れずと言いますよ」
「そうですなあ」
「まだまだ踊って下さい」
「はいはい」
 
   了

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2018年09月25日

3757話 呪文


「徳山の彦左衛門さんですか」
「そうです、わしが彦左衛門ですが、何か御用ですか」
「何代目かに当たるわけですね」
「そうです。本名は徳山一郎です」
「ご長男なので、彦左衛門を継いだわけですね」
「はい、間違いありませんが、彦左衛門は戸籍上にはありません。屋号のようなもの」
「それで、なかなか見付からなかったのですが、お会いできて嬉しいです」
「そうですか」
「数えたことはないのですが、何代目でしょうか」
「十四代目です」
「それは凄い歴史ですねえ」
「いえいえ、ただ、たどれるのは十五代目まででして」
「初代彦左衛門さんのお父さんまでですか」
「そうです」
「それで、今は彦左衛門さんをやっておられますか」
「やっておりません」
「しかし継いでおられる」
「はい」
「見せてもらうわけにはいきませんか」
「いやいや、名ばかりで」
「でも引き継がれたことがあるのでしょ」
「あるにはありますが、そんなもの役に立つのかどうかは分かりませんよ」
「是非、お願いします」
 彦左衛門は何やら呪文を唱えた。
「ほう、聞いたことがありませんが、祝詞に近い節回しですねえ」
「はい。でもこれは縄を張ったり、火を焚きながらでないと効果はないのですよ。縄も、護摩木も、もう用意していませんので」
「呪文の文句は分かりますか」
「分かりません」
「日本の古い言葉でないようですし、漢読みでもない」
「西方から伝わったと聞きます」
「インドのまだ西」
「そのように聞いておりますが、もっと西」
「中東まで」
「もっと西だと」
「ほう」
「どういうときに使うのでしょうか」
「なんでも効きます」
「初代からそうですかな」
「いえ、効能が増えていき、四代前まではなんでも効くになってしまったとか。しかし、そのあたりからもうこんな呪いの時代じゃありませんから」
「所謂祈祷なのでしょ」
「それとは違うようです」
「ほう」
「その呪文、録音してよろしいですか。お礼は払います」
「いいですよ。もう役に立たないおまじないのようなものですし、屋号は背負っていますが、もう商売にはなりません。廃業状態ですので。しかし徳山の彦左衛門の名だけは残したいと思っております」
「はい、分かりました」
 妖怪博士は、たまにこうして呪文や呪器などを手に入れる。
 これをたまに人に売ることがある。薬のようなものだが、副作用はない。護符もそうだ。こういうもので、悪いものが祓われたり、近付かなかったりするのだが、その効能は効く人には効くようだ。
 しかし、今回仕入れた呪文。特殊なものに効くように思われた。日本のモノではなく、西洋のモノに。
 これは使う機会が少ないなと思いながらも、いざというとき、役立つかもしれない。たとえば十字架に対し、免疫ができてしまった悪魔や吸血鬼などに。
 
   了
 

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2018年09月24日

3756話 悪魔の赤ちゃん


 古くさいビルがある。レトロビルというには新しい。雨の中、そのビルに入っていく怪人がいる。服装がなそんな感じに見えるためだ。長いマントを被り、深編み笠のような帽子を被っている。いずれもあつらえたものではなく、探せば似たような物が売られている。
「雨の中、わざわざお越し頂いて恐縮です。こちらから窺うべきなのですが、忙しくて」
「いえいえ」
「そのマントはカッパですか」
「はい、股旅物に出てくるようなやつですよ」
「縞の合羽に三度笠というやつですね」
「まあ、そんな感じです。これで傘いらず」
「そういえばキノコも笠を広げますなあ。あれも笠なのでしょうか」
「笠の裏側に大事なものがあるのでしょ」
「ありますねえ、ギザギザしたヒダのようなものが」
「ところで、お話しとは」
「はい、本題に入りましょう」
「どんな怪しげなことが起こりました」
「このビルに悪魔の赤ちゃんがいるらしいのです」
「ここはオフィスビルでしょ」
「元々は高級アパートだったのです。だから部屋と部屋の仕切りがもの凄く分厚い。オフィスビルでは必要のない倍ほどの。それに外から見ると分かるのですが六階建てなんですが高さは七階を越えています」
「それほど天井が高くは見えませんが」
「上と下との隙間が広いのかもしれません」
「六階なのに、実は七階があるとか」
「そこに悪魔の赤ちゃんがいます」
「どうして分かったのですか」
「泣き声です」
「悪魔の赤ちゃんなら泣かないと思いますが」
「いや、その泣き方が悪魔っぽい」
「すぐに聞けますか」
「ずっと泣いているわけじゃないし、壁が分厚いので、壁に耳をあてないと聞こえません」
「じゃ、耳をあてて聞いた人がいる」
「僕です」
「どの階ですか」
「六階の壁に耳をあてると聞こえてきました」
「ビルの見取り図は」
「ありません。しかし、七階はありません」
「はい」
「面倒な話ですねえ」
「だから、調べて欲しいと」
「ペットでも買っているのでしょ」
「五階から上はまだアパートですが、ほとんどが個人オフィスです。だから本当に住んでいる人はいません」
「住んでもかまわないのでしょ」
「もちろん」
「じゃ、ペットでしょ」
「流石に妖怪博士、乗ってきませんなあ」
「猿とか」
「分かりました。調べる必要はないということですね」
 依頼者は妖怪博士を欺すため、いろいろと仕掛けを作っていた。悪魔の赤ちゃんがいる隠し部屋の見取り図を仕込んだり、テープに録音したものをタイマーで鳴らすとか。その他、ワイヤー類とか、偽装のドアとか、映写機まで用意していた。
 しかし、妖怪博士はすんなりと、雨の中、立ち去った。
 折角準備をしていたのに、手間暇掛けたのに無駄に終わったようだ。
 
   了


posted by 川崎ゆきお at 11:31| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする