2017年11月11日

3439話 雨男


 春は花見、秋は紅葉を楽しめる寺がある。少し山に入った谷にあるのだが、近くには村があり、農家がすぐ横に見えている。鉄道は走っていないが、バスはあり、最寄りのバス停からは少し離れているが、それほど長い距離ではなく、寺の屋根が見えている。都市近郊の離れなので遠い場所ではないため行楽客が結構いる。寺の中ではなく、その周辺にサクラもモミジもカエデもあり、寺がなくてもここは名所なのだが、サクラは確実に植えたものだが、モミジは自然に根付いたものもあるようで、まとまっていない。つまり点在している。
 しかしモミジよりもサクラが多いため、サクラの葉もしっかりと赤くなるので、そちらの方が目立つ。ただ、色が違う。濃い赤はやはりモミジで、赤いだけではなく透明感がある。葉が薄いのだろう。
 紅葉シーズンは山が早い。
 その日はあいにくの雨で人出が少ない。寺だけを見に来るような人は希なので、花見と紅葉のシーズンでないと、行楽客もいないに等しい。それに雨が降っているため、これは致命的。そのため、山門前にある茶店もガラガラ。店屋はそこだけで、シーズン外は閉まっている。雨は朝から降っており、これでは最初から行く気にはならないだろう。しかし、シーズン以外の日に比べると、人がいる方なので、茶店は開いている。客が来ないので、開けていても仕方がないので閉めているというのでは、いかにも露骨だ。
 しかし、値段はかなり高い。こんな高いおでんの盛り合わせが世の中に存在するのかというほど。これは祭りの日の露店よりも高い。
 この茶店を長くやり続け、もう年寄りになった主人は、座っているだけで、殆ど動いていない。バイトに任せているのだ。本来なら店に出なくてもいいのだが、人を見たいのだろう。
 そして雨の日にも周囲が一番よく見える場所に座り、行楽客を見ているのだが、ある一人の男をずっと見詰めている。鋭い目ではなく、ただ、ぼんやりと。
 その男、毎年雨の日に来る。長いコートで長髪。外人のように背が高い。そして傘を一本持っているだけ。
 男が来るのは花見と紅葉の二度。しかも雨の日に限られる。人が少ないので、目に付いたのか、主人は覚えてしまった。年に二回しか見かけないのだが、何年も続くと記憶に残るのだろう。そしてずっと長髪で、ずっと同じ色のレインコート。
 茶店は仁王門を背にしている。だから寺の境内ではなく、その入り口付近にある。ここも紅葉が鮮やかで、寺に入る必要がないほど。茶店近くにモミジもあるが、これは植えたものだろう。当然このあたりはお寺の土地。
 男は紅葉の濃い場所ではなく、少し奥にいる。ここはそれほど紅葉する木はないが、それでも色づいている。そして離れた場所だが、大きい目の桜の木がある。その下で傘を差しながらじっと立っているのだ。春はサクラの花見、秋はサクラの紅葉を毎年ここで見ている人。
 茶店の主人はそれを見るともなしに見ている。雨なので人出が止まり、茶店周辺も無人になることがある。しかし、あの男は動かないで立ったまま長い時間じっとしている。これは誰が見たとしても目立つだろう。
 主人はじっと男を観察し続けているわけではない。たまにバイトが何かを聞きに来るし、また立ち上がってその用事をすることもある。一寸した食堂なので、何処に何があるのかを、新入りのバイトに説明しないといけなかったりする。そして用が終わると、また外がよく見える場所に座り、あの男を見るのだが、そのときはもういない。同じ場所でそうそう紅葉を楽しむわけにはいかないのだろう。飽きるはず。
 しかし、何年も主人は男を見ているが、来るところや去るところを見たことがない。
 そして主人は、そのことを誰にも言わない。言うほどのことではないためだが、それ以外に言いたくないような気持ちもある。そちらの方が大きい。
 主人はその男を雨男と呼んでいるが、実体があるのかどうかは分からない。
 
   了

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2017年11月10日

3438話 何もないところからが本番


 何もない。これはまったく何もないのではなく、意味のあるものがないのだろう。テーブルの上に何も置いてなくても、顕微鏡で見れば何かあるだろう。傷があったり、シミがあったり。また禿げていたりする。しかしそんなものを見ていても仕方がないし、それを使って何かをするということもない。見る人にとり、それは有為なものではないためだろう。逆にいえば無為なものならあるということになる。
 物事においても使えそうなものと、使えそうではないものがある。またはギリギリで使えるが、あまりよくないもの。そういうものがあったとしても、あるにはあるが、あり方のレベルが違う。
 意味にはレベルがある。それを決めているのは本人や社会。本人の中にも社会があり、本人は使いたいのだが、それでは社会が許さなかったりするので、一般社会でも使えそうなもの以外は捨てることが多い。社会が緩めば、使えることもあるので、使えないものでも大事に仕舞っていたりする。
「まったくの白紙状態で、使えそうなものがもうないのです」
「でも、まだ何か残っているでしょ」
「あるにはあるのですがね。今一つ気に入らないので、使う気がしません」
「そこからが勝負ですよ」
「そうなんですか」
「使えそうなものがなくなってからが勝負なのです」
「勝負する気はありませんが」
「その勝負ではなく、そこからが実は本番なのです」
「じゃ、これまでは」
「使えそうなものの在庫があったからでしょ。それは次々に入ってくるかもしれませんが、使う方が多いと、在庫がなくなりかけます。なくはないのですが、あまりいいものは残っていないでしょ」
「それも尽きました」
「だから、そこからが勝負。そこからが本番なのです」
「在庫がないのに、どうしてこれからが本番なのですか」
「単純にいえば別のもの、今まで関心の薄かったものなどを、もう一度再考することですね」
「それもやりましたが、気が乗りません」
「別の意識に切り替える」
「それもやりました」
「じゃ、適当にやるしかないですよ」
「打つ手なしですね」
「だからそこからが本番なのです。同じことをいいますが、しつこいですが、ここからが真価を発揮することになりますから」
「何もないような状態ですよ」
「在庫の数に頼らないことですよ」
「在庫がなければ、何もできません」
「苦しいでしょうが、そこはもう自分勝手にやればいいのです」
「分かりました。もうやけくそです」
「しかし」
「はい」
「それで打開できますが、別の世界に入ります」
「はあ」
「殆どの人からは、相手にされず、そこで終わります」
「じゃ、無理にやっても、結果はよくないと」
「本人だけはいい感じでしょ」
「いい感じになれますか」
「楽しいと思いますよ」
「それはいい」
「本人だけです。本人だけ」
「はいはい。くどいですねえ」
「本人だけ」
 
   了

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2017年11月09日

3437話 目玉が落ちた


「最近如何お過ごしですか」
「色々あるが、言うほどのことではない」
「それはなにより」
「取るに足りぬことの中に何かが芽吹いているかもしれないし、その前兆かもしれないがね。良いことでならいいんだが、悪いことの方を思うねえ」
「悪い兆しがありましたか」
「まだ、それははっきりせんから、何とも言えぬが」
「たとえば」
「目が落ちた」
「付いてますけど」
「片目だ」
「え、両目付いてますが」
「眼鏡のレンズだ」
「ああ」
「だから、言うほどのことではないだろ」
「そうですねえ」
「たまに玉が外れることがある」
「浮いたのでしょうねえ。フレームから」
「いや、それならたまにある。今回はフレームが切れた」
「切れるものですか」
「金属製で柔軟性がある。銅かもしれんなあ、緑色になっている箇所もある」
「緑青ですね」
「落ちたのですぐに填めようとしたとき気付いた」
「はい」
「枠が緩んでいるというより、切れたのでは何ともならん」
「それはどういう眼鏡ですか。今は裸眼ですが」
「普通のものは裸眼で見えるが、近いと難しい」
「じゃ、老眼鏡」
「そうだね。たまに出してかけているだろ」
「はい、思い出しました。あの眼鏡ですね」
「あれは外出用でね。それじゃなく、部屋にいるときにかけるやつだ。少し度が緩い。度が強いと本はそれでいいが、本棚がぼやける。これは裸眼で見たほうが早い。度が緩いと活字もそこそこ見えるし、本箱もよく見える。そのタイプの老眼鏡の片目が落ちたんだ」
「買えば済むことですね」
「ところが度が分からなくなった。フレームの裏などに書かれてあるんだがね。消えているのか、もうない」
「でも外出用の眼鏡もあるので、問題はないでしょ」
「いや、テレビが見えない。度が強すぎて。それに度の強いのをかけていると、厳しい。外出時、小さな文字を読むとき用だからね。ずっとかけているタイプじゃない」
「でも、眼鏡屋で試してみれば、分かりますよ」
「新聞などが置いてあるねえ。しかしあれじゃないんだ。そこでピタリと合うタイプは持っておる。至近距離じゃなく、近距離まで見えるタイプがいい」
「でもどうせ買うことになるのでしょ」
「落ちたとき、テープで留めた」
「はあ」
「それで、当分は持つ。だからもの凄いことが起こったわけじゃない」
「そうです。目玉が落ちるのに比べれば」
「しかし、フレームが切れたのはこれが始めてじゃ。ここが怪しい」
「それが何かの前兆」
「うむ」
「しかし、それだけでは」
「そうなんだ。だから言うほどのことじゃない」
「そうですねえ」
「しかし、そういう一寸したことの中に、何かの前兆があるんだよ」
「はい」
「ただ、それは起こったあとでないと分からないがね」
「下駄の鼻緒が切れたとかですね」
「古い話を知っておるねえ」
「時代劇でよく出てきます」
「まだその手を使っている時代劇があるのかね」
「いえ、昔の時代劇に」
「興味があるのかね」
「はい、その時代劇を見ていると時代が分かります」
「ほう」
「鳥瞰で村が出てきます。丘の上から見下ろしているのですが、電柱がありません。山に高圧線もありません。車も走っていません。道路標識もありません。オープンセットじゃありません。そんな場所がまだ残っていた時代なんでしょうねえ。その映画そのものが時代劇なんですよ」
「君のほうが面白い話をするねえ」
「いえいえ」
「私が見た時代劇では電柱が写っているし、遠くの方で車も走っていたよ」
「そんな映画はないでしょ。いくら何でも時代劇なのですから」
「テレビの時代劇だ」
「ああなるほど」
「しかしまあ、こういうたわいのない話ができるのは、悪い状態じゃないからだよ」
「平穏無事です」
「だから、一寸したことの中に、悪い前兆を見たりするのかもしれん」
「はい」
 
   了

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2017年11月08日

3436話 達人の芸


 苦手な仕事をやっているためか、倉橋はやる気が起こらないので、捗らない。しかし苦手ではない得意な仕事なら捗るのかというとそうでもない。ということは仕事の内容ではなく、仕事として成立している行為が苦手なのかもしれない。その苦手の上に苦手が重なると、これはもう何ともし難いが、そこは仕事なのでいやいやながらでもやるしかない。これは本人の意志ではどうにもならない。
 ただ、意志を働かせることはできる。働くのは嫌だが、意志を働かせることはできるが、それらの仕事を辞めるしかない。そうなると収入がなくなるため、これはできない手だ。他の職に就くことで、苦手な仕事から解放されるので、何ともならない話ではない。奴隷ではなく、自分の意志で何とでもなる。そこは自由だが、その自由を働かせると余計に不自由な暮らしになりかねない。
 嫌いな仕事でも慣れれば何とかなるものではない。嫌いなことはどこまでいっても嫌いだ。そのため、それを緩和するため、できるだけ機械的に動いている。気持ちを込めたりできるような内容ではなく、苦手なものに気持ちを込めるということは水に油だ。気持ちが溶け込まない。
 それで半分投げやりで、適当にやっているのだが、熱が入らないので捗らず、また上手くこなせない。それでも最低のラインは維持しないと、仕事から外される。
 だからいやいやでもやらないといけないので、そこで編み出したのが機械的にこなすことだ。まるでロボットのように。ロボットには感情はない。だから好きも嫌いもない。これに目を付けた倉橋は、その後、何とかそれでこなせるようになった。当然仕事へのやりがいとかは全くない。
 だが、ロボットではない状態の方がいいのかというと、それも考えものだ。喜怒哀楽も厄介なもの。また好きなことをやっていることがいいことなのかも問題だろう。また心を込めると良い事ばかりがあるとは限らない。熱心にやればやったでその副作用が来るだろう。
 倉橋の先輩は、その道の達人で、ベテラン中のベテラン。彼の仕事を見ていると、静かにやっている印象がある。同僚は湖鏡流と呼んでいる。静かなため波風が立たないので鏡のように見えることから来ている。そして清々しい風、清風が吹いているが、これは静かすぎて波立たない。
 もしかして、その先輩の湖鏡流とは、倉橋が仕事の嫌さから逃れるため、ロボットの振りをしているのと同じではないかと思い、聞いてみた。
 すると「そうだ」と答えてくれた。
「嫌で嫌で仕方がないんだよね。何十年もこれをやってるけど、嫌なことに慣れることはないのだよ」
 倉橋は普通の仕事もやるが、先輩は嫌な仕事ばかりを任されている。難しいためだろう。だからベテランにやらせている。
 そして先輩は今も仕事は嫌だが、やり始めるとロボットモードになり、淡々とこなしている。
 倉橋はそれを聞いたとき、達人といっても大した芸当をやるわけではないのだと思い、安心した。
 
   了

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2017年11月07日

3435話 酒見が原


 酒見が原を右手に見つつの山道は見晴らしがよく、明るい。陽気な場所。酒見が原は山の取っ付きにあるのだがなだらかで樹木がない。草原だ。これが街が近ければ何か建つのだが、山中のため、自動車道さえ近くを走っていない。
 元々は坂見が原と言っており、景観がいいので遠出し、ここで酒盛りをする人がいた。そういう風流人がひと組でもあれば、それに続くのか、冬場は別として、季候の良いときは人が集まることが多い。花見のようなものだが、外でご飯を食べるだけでもよい。今のピクニックのようなもの。
 酒見が原は確かに坂だが、草地が終わるあたりから山らしくなり、あとは普通の山へと繋がっている。なぜここだけが草地で樹木が育たないのかは分からない。もっと昔を知る人は、そこは砂地だったようだ。火山と関係しているのかもしれない。
 その酒見が原を右手に見ながらの道はハイキング道で、日用の道ではない。酒見が原とは別の山塊を抜ける道で、旧街道でさえない。そのまま進めばより深い山にへと続いている。普通の人が通るとすればハイキング以外に用はない。
 坂見が原から酒見が原になったのだが、今はそんなところで酒盛りなどする人はいない。そのため草原に入り込む人もいない。ハイキング道から見える草原として、見晴らしがよく、ここだけは妙に明るい。だから人気があるのだが、それはハイカーの間だけ。その写真もその手の本や雑誌やネットなどに載っているが、観光地ではないので、それを見に行く人もいない。
 また酒見が原の緩やかな坂の上にある山は人気がなく、ハイキングコースにも乗っていない。それ以前に原っぱなので道がない。
 こういった他の場所とは違うところには伝説が生まれる。場所が先で、話はあとだ。その場所だからこそ似合うような話ができる。
 しかし、坂見が原を酒見が原と捩ったため、それが通称になり、地図には記されていないが、ハイキング地図にはしっかりと酒見が原と書かれている。ただそれだけの芸当で、それ以上の話は生まれなかったようだ。
 花見は分かるが、酒見の意味が分かりにくい。花を肴に酒を飲むというのは分かる。しかし酒を見ながら酒を飲むというのは当たり前の話だ。そのまますぎる。実際には草原を肴とした宴になるはずなので、酒だけを飲んでいるわけではない。場所のアテがある。
 謂われや伝説、昔話ができそうでできないまま終わった場所だ。
 坂見が原を酒見が原と捩った人なら、何かそれらしい物語を作れたかもしれないが洒落は上手いがストーリー力はなかったようだ。
 
   了

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2017年11月06日

3434話 幽霊椅子


 いつも表に出ていた老人を最近見かけない。妻坂は日に二往復、都合四回そこを通る。日により三度見かけたこともある。
 狭い十字路に椅子があり、そこに座っていることが多い。行き交う人はほぼ町内の人。妻坂はその町内から少し離れた別の町内なので、ただの通行人のため、その老人がどんな人なのかは知らない。ただ、門番のようにそこに座り、こちらを見ているので、目を合わすこともあるが、できれば避けていた。交差点なので、左右の確認を大袈裟にする振りをして視線を避けるのだ。老人から挨拶代わりの会釈などはない。妻坂は見ていないのでよく分からないが、じっと通り過ぎるまで見ているはず。動くものがあれば、見て当然で、妻坂が同じ立場なら、やはり見るだろう。風景の中に飛び込んだゲストのようなもので、じっと座っておれば色々な人が行き交うため、退屈しないかもしれない。そのうち通行人の顔などは全部覚えてしまうだろう。そして時間帯も。
 だが、行くとき、その前を通るときはいるが、戻るときはもういないことが多い。ずっと座っているわけではないようだ。
 歩いている姿も見かける。それでどの家の人なのかはすぐに分かったのだが、十字路まで数秒の距離。しかし、それなりの服装をしており、そのまま電車に乗って良い場所にでも行けそうだ。これは四季を通じてそうなので、最初は町内の人だとは思わなかった。ゴミを出しに行くときのようなラフな服装ではないためだろう。
 歩いている姿もたまに見かける。夏場は黒い蝙蝠傘を差していた。ここが一寸違うかな、と思う程度。またその傘を日傘にし、その椅子に座っていることもあるが、暑いのか、長くはいないようだ。
 視線を合わせ、一度挨拶でもすると、その後もずっとそれをしないといけないので、妻坂はいつもその老人を無視していた。
 しかし、老人はコンタクトしたいのか、手首が少しだけ動く。これは微妙な動きで、これで腕が少し上がれば、手による挨拶になるが、そうなりかけて、ならない。これは相撲の立ち合いと同じで、妻坂が、相手のあたりを受け止める気があるかないかを探っているようで、もしその気配がなさそうなら挨拶のための手ではなく、単に動かしただけの手にいつでも変えられるように逃げ道を作っていたのだ。
 その老人を見かけなくなってから一年になる。その前に十字路の椅子が消えた。その角は一応公道で、花壇の端にある。誰かが置いた椅子だが、多いときは二つあった。消えた理由は分からない。
 その椅子が消える前に老人が消えていた。
 老人が消えた理由は当然分からない。寝たきりではなく、暇さえあれば外に出ていたのだから、まだまだ達者なのだが、歩き方は遅かった。
 踏切が上がる寸前のように手が上がりかけたのが唯一の接触だった。
 もし老人が亡くなっていた場合、幽霊として登場するとすれば先ず椅子が出るだろう。老人の幽霊ではなく、その前座として椅子が。
 
   了

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2017年11月05日

3433話 私の束子


 黒田はタワシを忘れる。ワタシではない、タワシだ。もうこれで何度目だろう。ワタシのことは常に考えているが、タワシのことなど普段は考えない。日常の中で占めるタワシの領域などたかがしれている。殆どないかもしれないが、黒田は毎日タワシを使っているので、タワシには触れているが、タワシを意識しながらタワシを使っているわけではない。ここはタワシで洗うべきだとか、ここはスポンジだとかの違い程度。
 しかし、タワシの柄が取れた。柄付きのタワシで、石けんに毛の生えたようなのではなく、ドーナツ型。そこに木製の持ち手が付いている。
 長く使っているためか、力を入れすぎたのだろう。これを買ったのは冬場だった。水が冷たいので、タワシを直接掴むよりも、柄の付いている方が楽だと思ったことと、結構狭いところに突っ込めるので、重宝していた。その柄が取れたので、ただの毛の生えたドーナツだ。しかし、接続部に突飛が出ており、ぐっと押すと何とか繋がった。しかし横に擦ると取れる。ここは細かい話だ。それで、この同じタワシを買わないといけないと思うものの、すぐに忘れてしまう。
 それに何とかくっついているので、使えないことはない。買わなくてもまだいけるので緊急性がない。
 しかし、そのタワシ、同じところばかりで擦っているので、尖った感じがなくなってきた。それに汚れもひどい。皿は洗うがタワシを洗うことは希。タワシを洗うにはタワシがいる。だからもう一つタワシがいるが、タワシをタワシで擦っても、あまり意味はないだろう。それよりも指で直接洗った方がよい。問題はもう色が変わり、汚らしいタワシになっていることだ。フライパンなどを洗うとき、このタワシを多用していた。スポンジでは浸みすぎて、汚れが付く。タワシは尖った植物の棘のようなもの。だから間に挟まることはあるが、汚れが付着しにくい。
 その日は百均で食器を買ったのだが、いいところまで来ていたのだ。一寸思い出せば、数歩の距離でタワシがある。買ったのは長い箸で、炒め物をしていると、短いと熱いためだ。それと距離を置いた方が油が飛んだとき、ダメージは少ない。
 長い箸を買うつもりで、百均へ来た。なぜタワシではないのか。なぜタワシのことを思い出さないのか、それが不思議。やはりそれはタワシのためだろう。
 これはタワシという言葉がいけない。響きが。たかがタワシなのだ。
 タワシとかタニシとかは、何か間の抜けた印象がある。タニシのような目とか。
 その後も黒田は黒く汚れたそのタワシを使い続け、力むと柄が取れる度に買わないといけないと思うものの、外出時、そのことを思い出すことはない。あるとすればタワシが並んでいる前を通ったときだろう。このとき気付くはず。思い出すはず。しかしその機会は滅多にない。
 
   了

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2017年11月04日

3432話 町に引き籠もる人


 疋田は引き籠もりではないが、町に籠もっている。自転車で三十分以内で行ける範囲だ。これは結構広い。日常的な用事で出ているだけではなく、少し寄り道をし、散歩をしたり買い物に出たり、秋になれば街路樹で紅葉を楽しむ。モミジではなく、殆どが桜の紅葉だが。モミジもたまに見る。人の家の庭木の中にある。それをじっと見ているわけにはいかないので、通りしなにチラリと見る程度。これで紅葉狩りに行かなくてもいい。松茸もたまに見る。八百屋の店先を通ったときに。もっとも山へ松茸狩りに行くことなど先ずないし、またそんな場所もないだろう。あったとしても入ってはいけない松茸山だ。しかし入り込んでもすぐには松茸など見付からない。
 八百屋のキノコ類だけではなく、生えているキノコも街中にはある。だからそれも見ているので、里山へ行く必要はない。
 しかし、この町内から外へ出る機会が減っているためか、電車に乗っての外出は滅多にない。それが気になるので、たまには出掛けようと思うのだが、用事がない。用事の殆どは町内でやってしまえるためだ。昔なら都会に出ないと置いていないような品も、郊外に進出しているし、それ以前にネットで買ってしまえる。こちらの方が都会に出て買うよりも早かったりする。
 そのため出掛けたいと思うのは、最近出掛けないため、このあたりで出掛けておいた方がいいと思うのが動機のようなもので、それが用事。
 しかし、そんな動機で以前は出掛けていたのだろうかと考えると、それはない。用事が買い物だったり、映画やイベントだったり、人と会ったりするのが目的だった。今はそういうことはなくなっている。見たい映画もないし、イベントもない。見たいとは思うが、出掛けてまで行くほどのものではない。
 町内に引き籠もるようになったのは定年退職後。趣味はなく、遊び好きでもない。
 たまに用事で大きな都会へ出掛けることもあるが、もう別の役者が舞台に上がっているようで、人が入れ替わり、その人達向けの街に変わっている。そこを行き来している人もやがて卒業し、これもまた入れ替わる。
 昔あったようなものはもうなくなっているが、残っているものもある。それらを懐かしがる遺跡巡りでもいいのだが、わざわざ出掛けてみるようなものではない。
 疋田は数年前、町に出る機会が減ったことを気にし、出掛けてみたことがある。しかしあまりいい思いはしなかった。これは目的もなく出かけたため。今と同じ動機だ。たまには出掛けた方がいいという動機。
 疋田の日常行動範囲の中にお隣の町へと行くバス停や都会へと繋がっている電車の駅が複数ある。その気になれば、さっと乗って行けるのだが、町内の引力が強いためか、飛び出せない。これも用事があれば用事の引力の方が強くなるのですっと出られるのだが。
「用事を作ればいい」
 というのが結論だが、これも出掛けないといけないと思うほどのものが見当たらない。
 疋田の友人は古代史や寺社について興味があるらしく、暇さえあればそういう場所へ出掛けている。いいネタを持っていると、疋田は羨ましく思う。見学会とかがあり、仲間と一緒に回ることもあるらしい。
 疋田もそれに見倣うことにしたのだが、ネタがないので、とってつけたことが自分でも丸見えで、これも真からの動機ではないので、無理だった。
 ただ、彷徨うというのは悪くはないと思っている。フワフワと漂うように出掛け、気の向くまま、風任せで漂流する。
 しかし、それは結構アブない人になる。
 そういうことで、今日も疋田は見慣れた町内をウロウロしている。
 
   了

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2017年11月03日

3431話 心の目で見る


 心眼。これは難しい問題だと竹田は考えた。「心の目で見よ」などとよく言われている。また「心を込めて」とかもある。この心とは何だろう。心に目があるのなら、顔に付いている二つの目は何だろう。
 心眼で見る。これは一眼なのか、二眼なのかの問題ではなさそうだが、心眼について考える場合、どの目を使っているかだ。これは普通の目だろう。いつもの目で物事を見ている、あの目だ。その目は心眼ではないので、心眼について考えるということはどうなのだろう。
「心の目で見よ」という意味を普通の目で見ていることになる。だから視覚的なことだけを差すのではないことは分かるが、目を開けていないと、何も見えなかったりする。やはり五感で観察している。この「見る」というのは視覚がメインだが、それだけではない。
 しかし、心眼ではなく、いつもの目で物事を見ている目で心眼とは何かと考える場合でも、何となくこういうことだろうとは分かる。何も心眼については心眼で見なければ、心眼が分からないわけではない。そして本当に心眼で見てしまった場合は分かるとか分からないとかではなく、ダイレクトに来るのだろう。「よし分かった」ではなく、分かったことさえ意識しないような。
「竹田君、また怪しいことをやっていますねえ」
「あ、はい、心眼について一寸」
「心の目ねえ」
「はい」
「魚の目なら左の足の裏にあるんだがねえ」
「先生、今日はどうかしましたか」
「何がかね」
「柔らかいので」
「そうか」
「いつもなら、そんな研究はやめなさいと言われるところなのに」
「いや、心眼は別ですよ。そんなものないからです。ないものは研究できないでしょ」
「でも、心眼と言われているものが差しているものがあるでしょ」
「ない」
「ああ解答が早いようですが」
「心は否定しませんがね。目はだめです」
「ですから、その目ではなく、心の目ですから」
「じゃ、感じるということでしょ」
「そうです」
「それがそもそも心眼から離れた証拠です。もし心眼で物事を見た場合、感じもしないでしょ」
「感じないのですか。じゃ、心眼で見たことさえ分からない」
「そうです」
「それは何ですか。研究はできないとおっしゃりながら、先生はかなり研究されたようですが」
「じゃ、結論を先に言おう」
「はい」
「戻りなさい」
「え」
「産まれたばかりの頃は無理ですが、幼い子供が実は心眼で見ているのです」
「方角が分かりました。真っ白な気持ちで」
「だから、無理でしょ。研究したとしても、活かせません。それを活かそうとするのは大人ですからね。そして心眼を開いた場合、幼い子供状態になったのと同じですよ。大人から見れば幼稚なことをやっているとしか見られませんからね」
「はあ、それはパラドックスだ」
「心眼とは情報じゃないのです。まあ、それでも赤ちゃんでも特定の気候や、特定の文化の中で産まれるわけですし、両親から引き継いだものも持っているわけですから、白紙というわけじゃありません。だから、元々心眼で見よ、などは無理な話なのです。一番それに近いのが赤ちゃんですがね。しかもまだ言葉を知らない。だから何語でも喋れるようになるのですが」
「今の話で、目からうろこが落ちました」
「昨日も落としていたよ」
「はい」
「一体君は、何枚目のうろこがあるんだ。それでよく見えるねえ」
「ポロポロ落ちますが、うろこは一枚です。すぐにまたうろこができます」
「あ、そう」
「まあ、そのうろこを磨くことでしょ。そのうろこが保護になっているのです。もし心の目で全てが見えてしまうと、これは周囲が困り、君はもう生活ができなくなります」
「大事ですねえ。目のうろこ」
「だから私も足の裏の魚の目はそのままにしています。取れるときはころりと落ちるのです」
「じゃ、心眼で歩くようなものですね」
「痛みがなくなりますが、元に戻っただけですから、特にいうほどのことじゃありません」
「じゃ、心眼を開く必要はないのですね」
「君は開くつもりだったのかね。学者は研究するだけでいい」
「あ、はい」
「だから、この研究はやめなさいと言ったのです」
「はい、分かりました」
 
   了

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2017年11月02日

3430話 落ち穂


「落ち穂ってご存じですか」
「落ち葉ですか」
「いえ、ぼ です。田んぼの ボ」
「はあ」
「オチバではなくオチボ」
「何ですか。その落ち穂って」
「田んぼが終わった、つまり稲刈りが終わった後、落ちてしまった稲の穂です」
「そんなことを話題にする人はいるのでしょうか」
「いるでしょ、広い世の中なら」
「でも、落ち葉拾いは聞きますが、落ち穂拾いは聞きません」
「人ではなく、雀や鳩、鴉なども、稲刈り後の落ち穂拾いをやっています」
「はあ」
「だから里の鳥にとっては話題になっているでしょうねえ。あっちの田んぼは落ち穂が多いとか、あそこの田んぼは落ち穂の山があるとか」
「籾殻じゃないのですか」
「籾殻の中にも、実が残っているのがあるはずです。突いてみないと分からないので、これは確実性がありませんがね。そこから探し出す鳥もいますよ。まあ、殻だけでもいいんじゃないですか。一番いいのは実の入ったものですが。最近は機械ですが、刈ると同時に脱穀。そのとき鳥が集まってくる。機械の後ろから付いてくるようにね。刈るとき、機械でも落ちるんですよ。だからそれを拾う。雀などは人間との間に一定の距離を置くものですが、この日は実入りが多いので、かなり近くに来ますよ。まあ、雀に餌を毎日のようにやっていると、徐々に距離が近付きますがね。近くまで来ます。雀は実は飼えるのですよ。しかし、雛からじゃないと無理ですが、それを言い出すと、殆どの鳥は雛からなら懐くものです」
「最初に触れた動くものを親だと思うわけですね」
「そう言われていますがね」
「違うのですか」
「それは雛じゃないから私には分かりません。鳥など飼ってことはありませんからね」
「しかし、落ち穂など話題にしている人など少ないでしょ。なぜ、今、落ち穂なのですか」
「今がその季節のためです」
「まったく使う機会のない言葉です」
「農家なら使うでしょ。落ち穂は」
「でも、落ち葉か何かを拾っている名画はありますねえ」
「山じゃなく、農地で拾うのがいいのです。落ち葉拾いもありますが、落ち葉など拾っても仕方がありませんからね。実入りにならない。まあ、葉っぱの需要があるかもしれません。餅などを葉で包みますからね。桜餅とか柏餅とか料理の飾りとかね。しかし拾うというより、あれは地面に落ちた瞬間はいいのですが、すぐに汚れますから、まだ枝に付いているのをむしるのでしょうかねえ」
「はあ、あまり興味はありませんが」
「昔は落ち穂をそのままにしていたらしいですよ。鳥じゃなく、人が拾いに来るのです。きっと貧しい人でしょ。その人達のために落ち穂はそのままにしていたとか」
「お話しが日常から離れすぎて」
「そうですなあ。私も落ち穂のようなものです。だから親しみがある。落ち武者のようなものです」
「はい」
「この季節は落葉の季節。落ちる季節です。落ちるというのは哀愁があります。都落ちとかもね」
「で、このお話の落ちは」
「いや、最初から落ちていたので、これ以上落とせません」
「あ、そう」
 
   了

posted by 川崎ゆきお at 10:25| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする