2019年12月19日

3606話 出掛けた翌日


 遠方へ用事で出掛けた翌日、羽田はのんびりしている。疲れもあるが、日常に戻ったためだろうか。そして、気怠さというのがいい。既に用件は済んだので、山を越えた。その充実感もあるし、懸案をやり終えたので、それまでのプレッシャーも消えた。
 そして一日のんびりと過ごしている。これがいい。外出先での用件よりも、その翌日が目的なのだ。
 終わった後の安堵感があるためだろう。
 この翌日の一日が良いので、羽田は出掛けているようなもの。
 遠出だと疲れるのか、すぐに眠れるし、熟睡し、朝まで起きてこない。そして目が覚めたとき、今日はもう出掛けなくてもいいので、ほっとする。平穏な日々に戻ったと。
 それで、むりとに用事を拵えて、出掛けることも多い。あえて疲れるようなことをしに行くのだ。これは大事な用件ではないし、いつかは果たさないといけないような懸案でもない。行っても行かなくてもいいようなことで、また行くだけが目的の場合もある。そのため何処へ行くのかは定まっていない。とりあえず家を出て遠くへ行くこと。遠ければそれでいい。
 羽田は古美術の研究をしているのだが、普段は自宅に籠もっている。たまに展示会や、一般公開などがあり、それで出掛ける程度。
 また、鑑定も頼まれるが、プロではないので、大まかなことしか分からない。そして価値があるかないかは羽田の美意識で決まる。だから好みだ。美術的に優れていれば、偽物でもなんでもかまわない。だから値段だけを弾き出す鑑定はできない。
 羽田にとって大事なのはアート性。それを見て、あっと思うかどうかだ。
 その形や色彩、質感。手触りなどが決め手になる。
 古美術を専門にしているが、本来は画家なのだ。
 それで遠くまで出掛けるのだが本当の目的は、その翌日。これは古美術とはまったく関係しない私用でもいい。何でもいい。出掛けさえすれば翌日のいい感じを味わえる。実際には疲れているのだが、この疲労感がいい。
 身体も精神も鈍化したようになり、この鈍さがいい。
 羽田は体感を大事にする。能書きよりも、まずは体感で、そこからあらゆるものが引き出される。そのほとんどはパターン化しているのだが、その組み合わせに妙味がある。
 だから古美術の評論家としての才があったのだろう。独自の見え方をするので、話も膨らむ。
 だが、最近はそちらよりも、出掛けたあとの翌日の体感を最も好むようだ。
 休みたいから身体を動かす。それだけのことかもしれない。
 
   了
 



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2019年12月18日

3605話 伝統や正統


 正統の系譜というのがある。正統派と呼ばれたりするが、以前は異端扱いされていたのだが正統派に勝ったのだろうか。そして異端派が正統派になるのだが、それもまた、いつの間にか薄まってきて、別のものに取って代わられたりする。
 伝統というのもそうだが、正統も伝統も繋がっている。しかし、伝統あるものが必ずしも正統派ではない。その道のメインではないが、長く続いておれば、それが伝統となる。
 要するに、それらのものは長くあったり、いたり、また使われたりしているもので、より多くの人から馴染まれているものだろうか。当然それは一面だが、古くなりすぎた伝統は、当然使いにくくなる。または扱いにくくなる。それで、新種が現れる。これは改造型だろう。または他のものを取り入れたミックス型だったりする。それが上手く機能し、扱いやすく、不便がないとなると、長く続き、やがて正統派となる。何が正しいのかは分からないが、まずまずの線をいっているためだろう。他に候補がないとか、変わるものが一寸見当たりにくいとかで、まあ、妥当なところとして、正統派となる。だが、その中身は、それ以前からあった古い伝統なども引き継いでいるはず。それが少し今風に変化した程度だが、根はかなり前からあったもので、定番中の定番だったりする。
 ただ、正統や伝統が途切れたままのもある。後継者がいないようなものもあるし、またもうあまり使わなくなったとか、用がない世の中になったとかで、途切れてしまう。需要がないためだ。
 しかし少数の一部の人がそれにまだ関わっており、細々と昔の伝統を守っていたりする。守るために守るわけではないが、存続しているだけでも意味があり、なくなれば、他に影響を与えるような要石のようなタイプもある。必要なことがあるためだろう。
 伝統という限り、長く続いていないと駄目だし、また、機能を果たしていないと駄目。保存のためだけにあるようなものは、かなり弱いが、そのものになくても、別のところで活かされていたりする。
 結構新しいものでも、意外とそこに流れているのは古臭い伝統から来ていたりする。姿を変えて化けているので分からないのだ。
 そういうのが入っている場合、正統派の系譜を残しているということになるのだろうか。つまり、筋目だ。
 まあ、人が作ったものには、あるパターンがあり、型がある。その型はそれほど多くはないので、結局は同じような型を使うことになるのだろう。型は番が違うだけで、元は同じ型番だったりする。
 型は固定しているようだが、実際にはある傾向程度。このある傾向は大まかで、他の傾向と分けるため程度のものなので、しっかりとした決まり事ではなさそうだ。
 型があるとはある傾向がある程度で、その傾向だけでは窮屈になると、型破りが起こる。型を壊したり、破ったりするのだが、被害に遭った型も、それなりに残り、復活を企んでいるかもしれない。
 今あるものは以前にもあったことで、形を変えているので、分かりにくい。人がやるようなことなので、限りがある。まあ、人でなしのやることもあるので、それを入れると、型番も多くなるが使う人は希だろう。
 伝統ある正統派の系譜。これは安定感がありそうだ。何故なら、多くの人が昔からそれを選んでいたためだろう。それが形式的になりすぎたり、時流に合わなくなり、骨董品になっている場合もあるが、昔から続いているものは、それだけで価値がある。価値がなければ消えてなくなるだろう。やはりいいので残る。良いことでも悪いことでも。
 骨董趣味というのもある。これは今風なものの中にその系譜を読み取るとき、必要なのかもしれない。新しいものの中に骨董品を見出す。つまり、系譜を見ているのだ。
 ものや事柄には原型があり、それがしっかりとした形となり、長く用いられたりすると、伝統になり、また他の類似するものよりも優れていれば、正統派となる。いずれも人が作り、人が選びだしたものだが、時流が変わればものも変わってしまうが、決して消えてなくなるわけではない。
 当然昔の正統派が今では異端だったりすることも起こる。ある傾向が時流により、評価が変わるためだろう。
 目新しいもの、今の正統派、よく見ると、昔の古臭いものを結構取り込んでいたりする。伝統が途切れたものも、別のところでどっかりと座っていたりしそうだ。
 そのため、古い新しいはないのかもしれない。
 
   了
 



posted by 川崎ゆきお at 12:49| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月17日

3604話 人面猿


 中島は古い屋敷に一人で住んでいる。借家だが、借り手がなかなか見付からなかった。今までにも借り手など一人もいなかったのではないだろうか。持ち主は都心部のマンションに越したが、取り壊すのも嫌なので、貸家にした。その祖祖父時代、妾を囲っていた家らしい。
 その後、家族の誰かが住んでいたようだが、近所づきあいはなく、人の出入りも少なかったようだ。
 IT系の仕事をしている中島が、その物件を見付け、そこを仕事場兼住居とした。隣接する家との距離が遠いのは、どの家も敷地が広いためだろう。
 中島が越してからしばらくしたある夜。枕元に何かいる。夢でも見ているのかと思いながら、目を擦り、それを見ると、動物。犬か猫かもしれないが、野良犬などいないので、野良猫だろうか。何処からでも入り込めるので、それに違いない。
 次の夜も、またそれが出た。今度は手を伸ばし、触ろうとすると、すっと身をかわした。そのとき、猫ではないと分かった。猿だ。
 猿はそのまま姿を消した。
 それから数日後の夜。その猿が出た。中島はじっくりと猿を見詰めると、猿は身体をくねらせながら後ろに下がり、こちらを見た。
 人の顔をしていた。しかも女だ。
 
 ざくざくと小気味いい音が快く足の裏に伝わるのか、妖怪博士はわざと落ち葉の上を選んで踏んでいる。その先にあるのは椿屋敷。近所でそう呼ばれている屋敷は昔は万とあったに違いない。椿を生け垣にした家が目の前に迫ってきた。全て赤い。これは目立つだろう。しかし、ここの椿は陰気で暗く、どす黒い赤は、血痕に似ている。
 立派な木造の屋根付きの門があり、インターフォンがあるので、押した。
 出てきたのは、この屋敷を借りている中島。
 話はすぐに始まった。
「猿が枕元に来て正座しているだけでも大変ですなあ」
「そうなんです」
「それが女性の顔をしているとなると、もっと凄い」
「はい、これはもう妖怪変化ではないかと思いました」
「どんな顔ですかな」
「美人です」
「年は」
「妙齢です」
「その猿。メスですか」
「そうです。しかし動きは猿らしくありません。なよっとして、滑らかです」
「顔だけが人で、身体は猿ですかな」
「そうです」
「バケモノですなあ」
「だから、妖怪だと思いまして、博士に連絡しました」
「はいはい」
「どうなんでしょう」
「何が」
「ですから、その正体です」
「お嫌いですか」
「いえ、それほどでもありません」
「その女人猿に見覚えはありませんか」
「見たような気もしますが、特定の女性には該当者はいません」
「猿は人の顔に似ていますし、人も猿の顔に似ています」
「口が出ていませんし、鼻も、すっとしていますし、目も切れ長で、眉はきりっとした円弧を描いています。唇も人そのもので、薄いです」
「あなたはどう思われますかな」
「この屋敷に棲み着いている物怪だと思います」
「それが猿の姿で出たと」
「そうです」
「ここは誰が住んでいたのですかな」
「建ったときは、お妾さんだったとか」
「その人はどうなりました」
「さあ、そこまでは分かりません」
「そのオーナーに聞けば分かるでしょ」
「それとは関係がないと思います」
「そうなんですか」
「僕にまとわりついている何かだと」
「ほう」
「その顔を見たとき、何か懐かしいものを感じました」
「お嫌いですか」
「悪くないです」
「じゃ、どうしましょう」
「どうしたら良いと思いますか、博士」
「おまじないでもしましょうか」
「それで、出てこなくなりますか」
「さあ、一応、そういう護符があります」
「はい」
「貼りますか」
「ちょっと待って下さい」
「じゃ、よしましょう」
「はい」
「それじゃ、私はもう用なしですなあ」
「一つ聞きたかったことがあるのです」
「何ですか」
「このタイプの妖怪、いますか」
「人の数だけいるでしょ」
「人猿じゃありません」
「大人しいようですしね」
「そうです」
「じゃ、私はお暇しますよ」
「はい、今日はどうも有り難うございました。これはお車代です」
「はい、頂戴します」
 玄関から門までは飛び石が続き、左右には手入れされていない庭木が密林状態になっている。
 見るからに何が出てもおかしくないような屋敷だ。
 中島は門のところで、軽く頭を下げ、妖怪博士を見送った。
 赤い椿の生け垣脇の道は上から落ちてきた葉で相変わらずいい音が鳴った。
 中島の内に潜むアニマがアニマルになって出てきたのかもしれない。
 
   了
 



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2019年12月16日

3603話 大太刀の重蔵


 余市村と千寿村の間に山が立ちはだかっている。その山をのけてしまえば、二つの村が一つになる。どちらも小さな村なので、大きな村になるわけではない。このあたりの家は一箇所に集まっている。そのためまとまりがいい。
 その壁のような山を越えるのは大変で、斜面がきついためか、道が付いていない。
 そのため、その山ではなく、二つの村にまたがるもっと大きな山の中腹から行くことになる。そこはしっかりとした山道。
 遠回りになるが、坂が緩いので、そちらの方が楽。
 壁のように立ちはだかっている境界の山は、大きな山から付き出している。だから、その首根っこを超えるわけだ。そこに峠の小屋がある。それほどの高さはないが、互いの村へ出るときは下りになる。そして見晴らしがいい。立ちはだかっている山の根本で越えることになる。
 その峠の小屋は休憩所のようなもの。村と村とを行き来するだけではなく、まだ奥の山岳地へと続いているので、その登り口になるため、山仕事の人などが立ち寄る。屋根があるし、寝泊まりもできる。だから山小屋のようなものだが、村からそれほど離れておらず、少し登ったところだ。それに村の屋根が見ているほど近いので、山小屋というほどではない。
 この峠の小屋に番人がいる。小峰重蔵という浪人者だ。小峰は偽名だろう。
 そこへ身なりのいい藩士がやってきた。
 これはよくあることで、重蔵は慣れている。仕官の話ではない。人殺しだ。
 藩士にも使い手はいるが、こういう仕事は余所者にやらせる。手を汚したくない。
 話を聞くと乱心した藩士らしいが、本当は正気だろう。この乱心者を斬れということだが、切腹しないためだ。それに乱心者では切腹は無理なので、上意討ち。
 この乱心者も藩士なので、同僚、仲間だ。手をかけたくない。
 乱心者は余市村にいる。そこに逃げ込んだらしい。
 ここを西へ下れば余市村はすぐだ。
 結局は刺客の仕事。何度か頼まれたことがあるので、そういうときは峠の小屋にいる重蔵の役目になるのだろう。
 重蔵は長い目の太刀を重そうに持ち、村と村とを隔てている山の根っこの峠を下った。太刀同士だと、長い方が有利なのだが、重いので肩に担いで坂を下った。
 結局は派閥争いの犠牲者だろう。乱心者に仕立て上げらたようだ。二人の家老が争っている。殿様は関わっていない。養子のためだろう。
 その男は空き家に立て籠もっていた。重蔵は何度かそういう場を踏んだので、よくある話だ。
 廃屋に近い屋敷の雨戸を開け、重蔵は乗り込んだ。刺客が来ることを知っていたのか、乱心者は槍を手にした。
 重蔵はまずいと思った。いくら長刀でも槍相手では不利。しかし家屋内。振り回せないはず。だが、そんなことは槍使いなら心得ている。
 重蔵は説得した。このまま斬り合えば、二人共大怪我をすると。
 重蔵は蓄電を進めた。逃げろと。
 乱心者は家族がいるし、それに武士として、それはできない。養子の主君とはいえ、それに使える身なのだ。数少ない殿様派だった。
 幸い家族にまでは手は回っていない。謀反を起こしたわけではない。ただ、狂っただけ。それが見苦しいと言うことで、お手討ちのようなもの。責任を取って自害せよという程度。本人だけの問題のためだろう。いずれも敵対勢力が強引に殿様に出させた主命なのだ。
 いずれにしてもこの男さえ始末すれば、一見落着になる。
 重蔵は逃げることを進めた。そうなると、脱藩。これはこれでまずいのだが、藩も消えていなくなれば喜ぶはず。だから心配するなと説得する。
 重蔵は家族の住む城下の屋敷を聞き、逃げる手はずを付けてやった。
 男はこの藩を立て直すため立ち上がったらしいが、頼りにしていた派閥が動いてくれなかったようだ。
 そんないい加減な藩など見捨てよと重蔵は我が身のことを思いながら説き伏せた。世間は広い。ここだけが世の中ではないと。
 乱心者は折れた。最初から乱心などしていないのだから、話せば分かるのだ。
 そして村を出て、すぐ目の前にある二つの村を隔てている山に向かった。村人さえ、急斜面過ぎて、上までいくことは滅多にない。その上の方に重蔵のもう一つ隠れ家を持っていた。
 その険しい道なき斜面を上がっているとき、その男は槍を杖代わりにしている。
 槍の達人かと聞くと、この槍はあの屋敷にあったもので、自分のものではないし、槍の稽古はしたことがないとか。
 そういう重蔵も、長い目の太刀を持っているが、大した腕ではないと白状した。
 二つの村を分けているその山の頂からは、城下の盆地が見える。三層の木造の天守。狭苦しい城下だ。
 しばらくして、例の藩士が峠の小屋を訪れた。重蔵は取り逃がしたとだけ伝えた。
 前金として半分もらっていたのだが、それは返す必要ないだろうと、大太刀に触れながらすごんでみせた。
 
   了
 




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2019年12月15日

3602話 個人の祭り


 祭りのあとの寂しさというのがあるが、あとの祭りというのもある。次の祭りではなく、行ってみると、既に祭りが終わっていた。これは淋しいかもしれないが、祭りのあとの寂しさとは少し違う。一方は祭りを楽しんだが、片方は体験していない。
 だからあとの祭りの方は、残念だろう。
 祭りを満喫し、そして終えたあとの虚脱感のようなものと、もう終わってしまったのかという寂しさもあるが、満足後の余韻もある。
 どちらも次の祭りを期待するのだが、あとの祭りの方は次の祭りまでの期間が長い。一回欠席したようなものなので。
 そういう年に一度の村祭りのようなものでなくても、色々なイベントがあるし、祭り騒ぎがある。イチゴ祭りや紅葉祭りは、そういう神事ではないが、年に一度だろう。別にイチゴの神様や紅葉の神様がいて、お参りするわけではないが。そこへ行くことを参るともいう。参拝は拝むが、鑑賞で行く。参観料が取られそうだが。
 そういった定期的な団体による祭りだけではなく、個人の祭りもある。当然その前に家族の祭りとかも。親が子供のためにやる祭りだろう。雛祭りとか。
 そして、今では個人規模の祭りが結構ある。これは一人で勝手に作った祭りのようなもの。
 祭りは特別な日。一般的な祭りに興味がなく、またさほど楽しいと思えない人は、この個人的な祭りに走るのかもしれない。
 自分だけが知っている神様。自分だけが持っている神様がいるのかもしれない。これは仏でもいいのだが、仏の種類には限りがある。しかし神となると、いくらでもいる。誰も知らない自分だけの神など、人の数ほどいるだろう。
 個人にも聖なる領域がある。公的な聖なる場所などがもう飽きられたり、ありふれていて聖ならざる場所になっていたりするためだろうか。まあ、そういうのに便乗するのも悪くはない。初詣とかがそうだ。人が集まればそれで祭りなのだ。
 さて、祭りのあとの寂しさか、あとの祭りの残念さ、どちらがいいだろうか。当然祭りのあとの寂しさの方がいいだろう。あとの祭りの人は次の祭りへと向かう。祭りを終えた人は、しばらくはじっとしているだろう。ある程度満たされたので。
 あとの祭りの人は、取り戻そうと、祭りを探したりする。まだ、祭りをやっていないので、すぐにでも。
 満たされた人と、未だ満たされていない人との違い。
 祭りは聖なる行事というより、賑やかさだろう。だから祭り騒ぎという。要するに騒ぎたいだけなのかもしれない。またはハレの場をできるだけ多く作りたいとか。
 村人が大騒ぎし、楽しいそうにしているのを神様は歓迎するはず。神様はそれを見て楽しむのだ。
 しかし、そうそう祭り騒ぎばかりが続くと飽きてくるもの。たまにだからいい。
 祭ろわぬ人もいる。祭りは集まることでもあるとすれば、参加しない人。祭りに加わらない人。または加えてもらえない人もいるだろう。
 個人の祭りは何を祭っているのかは分からない。ここでも祭りのあとの寂しさや、あとの祭りの残念さがあるのだろう。だが、誰とも共有しなかったりする。
 しかし、一人だけで祭りをするというのは最初から矛盾しているように思われる。
 
   了



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2019年12月14日

3601話 最初の勢い


 出だしはいいのだが、途中で息切れし、早い目に終わってしまうことがある。当然見事なまでの尻切れ蜻蛉。トンボはどこからが尻なのか分かりにくい。胴体がずーんと端まで行っている。尻というのは端と言うことだろう。どん尻とか。端っこの切れたトンボを作田は見たことはないが、想像はできる。飛びにくいだろう。それに、生きていないかもしれない。
 それで作田は出だしを工夫した。スローなスタートだとどうだろうかと。昔の長距離特急列車の走り出しのように。最初は動いていることが分からないほどスロー。先が長いのだから、急ぐ必要はない。途中でいくらでも取り戻せる。短距離ならその暇もない。あっという間なので、スタート勝負。
 やり始めの勢いが強いほど長持ちしないのではないかと思い、作田はゆっくりとやることにした。しかし最初は気負っているし、興奮しているので、ゲートが開く前の馬のような状態になる。速く走りたくて仕方がない。散歩待ちの犬がやっと連れて行ってもらえたとき、もの凄い力で前へ前へ出ようとする。老犬は別だが。
 この最初の興奮、これを抑えること、我慢することを作田は考えた。やり始めの一番美味しいところかもしれない。そこをガツガツしないで、静かに静かに進めていく。これは何か大人になったような気になる。作田は十分大人なのだが、こういうときは子供のようになる。
 それよりも長期戦になるようなことは、急がない方がいい。最初の頃にエネルギーを使い切ってしまい、ダレたり、バテたりし、徐々にやる気が失せてくるためだ。ここでまだ元気なら続けられるはず。だから最初から飛ばさない。
 そう決心したのだが、気持ちも身体も勝手に動いてしまう。だから我慢なのだ。ここを押さえれば、長持ちする、と自分に言い聞かせた。
 これは良いことに限られるようで、嫌なことなら、できるだけ手を付けたくないので、後回しになる。それどころか放置しているので、スタートさえ切っていない。
 この場合も、ゆっくりと、少しずつやれば何とかなりそうだ。良いことでも悪いことでも最初はゆっくりとやる。急がない。それがコツではないかと作田は感じたのだが、これは意識していないとできない。意識は思い出さないと出てこないので、いつまでこのことを覚えているのかは不明。だがら、しばらくすると素に戻っていたりする。
 心がけ次第でなんとでもコンロールできるのだが、それをそのとき思い出して、そのようにできるかどうかは分からない。
 これは身体で覚え、頭でも、その癖が付いてしまわないと、なかなかそのコツも活かせないようだ。
 だが、急がないといけないときに、ゆっくりでは困る。下手に癖が付いてしまい、なんでもかんでもゆっくりでは不自然だろう。
 それと、その日、そのときの気分というのがある。これが一番行為に関与する。
 では、その気分は何処からやって来るのか。
 そこまで考えたとき、作田は面倒くさくなってきた。それならいつものようにやっている方が楽。途中で息が切れて尻切れ蜻蛉になっても、それはそれでよし。縁がなかったのだ。
 それと小細工や、心がけとかは、できるようでできない。これは性癖を変えないと何ともならないように思える。それを変えると、今度は自分が自分ではないようなところに持って行かれる。自分の感情ではなく、操られた感情。
 それで作田は、この件に関し、何もしないということに決めた。これは決めなくてもそうなるのだが。
 
   了




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2019年12月13日

3600話 小春日和を待つ男


 塩見は待ちに待った小春日和が来た。世の人は色々なものを待っているのだが、小春日和を待つなどは一寸したものだ。他にもっと待つべきものがあるだろう。ただ、何も待つものなどない人もいるが。
 待つというのは能動的。こちらからは仕掛けない。また、待つ以外には何ともならないこともある。小春日和などがその例だろう。努力しても励んでも願っても何ともならない。
 逆に何もしていなくても小春日和は得られる。無料だ。
 塩見は小春日和を心待ちにしていたのは、冬なので、当然寒いため。それが凌ぎやすくなることが最大の理由だが、ものすごいものが得られるわけではない。
 出不精な塩見にとり、季節が寒くなるに従い出る回数が減る。今ではほとんど外へ遊びに行こうという気がない。そんなとき、望まれるのが小春日和。だから待ちわびていたのだ。この日が来れば出やすいと。
 それで出て、何か大事な用事をするのかというとそうではなく、ただ単に町をうろつくだけ。散策のようなもので、これはしてもしなくてもどちらでもかまわない。これをしないと生活が成り立たないわけでもない。
 だから、趣味の問題だろう。これはこれで役立つ。趣味があることで楽しみが増える。趣味は潤滑油であり、これはあるほうがいいだろう。それなりに役立っている。それに街中をウロウロするのなら、交通費か食事代かお茶代程度で済む。だから、金のかかる趣味ではない。
 町をぶらつく。それは誰にでもできる。技術はいらない。歩けさえすればいい。または何らかの乗り物に乗ることができればいい。
 ところが折角の小春日和なのに、秋の夜長の続きの冬の夜なべをやっており、遅く起きてきてしまった。そのため、出遅れた。
 流石に起き抜けで散策に出るわけにはいかない。
 朝が遅い程度だが、塩見の朝は昼を過ぎているのだ。そこから朝の支度。出る頃になると日はそれほど残っていない。
 それと、寝不足ではないが、体調がよくない。病気ではないが、元気がない。
 それで折角の小春日和を逸してしまった。
 冬の初めの小春日和、気温的にはちょうど。これがもっと冬が深まれば、いくら晴れて気温が高くても、それほど暖かいわけではない。
 こういう日は二日ほど続くかもしれない。天気予報を見ると、明日いっぱいは晴れているようで、夜半から雨になるとか。これなら行ける。
 それで早寝し、早起きした。ところが、陽射しがない。天気予報が外れたようだ。
 それで今回は逸したが、次回の小春日和を待つことにする。
 そういう日は誰にでも訪れる。しかし折角の日を生かすも殺すも本人次第だろう。
 
   了




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2019年12月12日

3599話 御三家のいる村


 郊外の町ならいいが、そこからさらに奥に入りすぎたような町がある。ここまで来ると通勤圏内から外れるが土地は安い。週に一度街に出る程度なら何とかなりそうだ。当然毎朝出勤する普通の会社員には無理だが。
 芝垣は普通の会社員だが、自宅で仕事をしている。出勤するのは週に一度あるかないか。だからネットでやっている。最近そういう働き方が増えてきた。そのため、会社からかなり離れていても、何とかなる。
 それなりの広い土地と大きな家を芝垣は手に入れた。中古物件だが、まだ新しい。以前は農家だったようだが、それを建て替えてしばらくしてから引っ越してしまった。不動産屋から聞いた話なので、よく分からないが、確かに家は新しく、今風だ。古い農家だと修善などが大変そうだが、これなら何とかなる。
 引っ越し後、近所の人、これはほとんど地元の人だが先に来たので、挨拶が遅れた。
 近所の人は小さな人で、気さくそうな丸顔。そして「どの家に行きますか」と聞いてきた。
 この村には御三家があり、村人はその一つに入っている。御三家の上はない。本家があったのだが、途絶えた。御三家のひとつが本家を継げばいいのだが、揉めた。それで今でも御三家のままで、三つの家が並び立っている。昔なら本家に挨拶に行けばいいのだが、今は三軒もある。その中の一つを選ぶ必要があるらしい。
 御三家は隣り合っており、ここからここまではこのグループというような感じではなく、バラバラに散っている。
 小さな丸顔の人は、志村さんがいいと教えてくれた。これは勧誘なのだ。
 芝垣はそれに従えばいいものを、即答しなかった。その日なら、その丸顔が志村家まで連れて行ってくれたのに。
 しばらくして、背の高い老人が来て、同じようなことを言いだした。高岡さんのところへ行きましょうと。
 そしてそのあと北沢さんのところへ一緒に行きましょうと、来た。
 芝垣はこの御三家の実態を知りたいので、しばらく様子を見ることにしたのだ。しかし、そんなことはネットには載っていない。
 芝垣は選びようがないので、決めかねていたが、一応引っ越しの挨拶で、近所を回った。
 特に変化はない。
 先ず困ったのはゴミ出しだ。近くに収集所があるのだが、これが三家の土地にあるのだが、出しに行くと、ここではないと言われた。
 家から一番近いのはそこで、もう一つあるが、かなり離れている山の中だ。
 ゴミ収集は町営。芝垣は町民、市民なのだが、村民ではない。この場合、村人だろう。
 三家の何処かに挨拶に行くように、近所の小さな人が親切で言ってくれたのだが、すぐに従わなかったためだろうか。その後も二人も来ている。
 要するに、三家の何処かに挨拶に行けば、村人になれるということだ。そうでないと色々と不便が生じる。村を走っている道は町道だが、実際には村の人達の共同の道。私道に近い。
 そんなとき、また近所の小さな人が来て、どうですか、決まりましたか、と聞いてきた。
 芝垣は了解し、一緒に挨拶に行った。その志村屋敷を訪ねたのだが、当主は留守。野良に出ているらしい。
 それで、その畑へ行ったのだが、畦道にボロボロの自転車が止めてあり、ヨレヨレの老人が草むしりをしている。
 この年寄りが御三家の一人らしい。
 芝垣が挨拶すると、
「はいはい、よろしゅうな」
 これで、挨拶は終わった。
 これで、システムが通ったのか、ゴミが出せるようになった。
 今まで村人とすれ違っても無視されていたのだが、挨拶を受けるようになった。
 最初、誘いに来た親切な小さな人のいう通りにしていれば、別に何の問題もなかったのだ。
 
   了

 


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2019年12月11日

3598話 黙して語らず


 黙して語らぬことがある。それは都合の悪いことだろう。そういうことを色々と持っているのは杢下だけのことではないが。黙して語らないのだから、他人のことは分かりようはないが、それに関して知っていることもある。つまり、周知の事実。だが、本人が黙して語らずに徹しているので、そのことには触れない。禁句、タブーになっているが、それほど大袈裟なことでなくても、仲良くしたいのなら、相手の都合の悪いことをあえて言い立てないだろう。
 さて、杢下の場合もそういうのをいくつか持っているが、それらは後悔事のためか、思い出したくない。しかし忘れたわけではないので、ふっと思い出す。
 特に失敗したときなど、これは取り戻すため、色々とやるだろう。それで挽回したときは、その失敗はもう黙して語らずではなくなるかもしれないし、あえて苦労話として語るかもしれない。今がよければ後悔はないはず。
 だが、失敗したことが気になり、失敗をあえて話すことはないようにも思われる。失敗をよくする間抜けな人間に見られるためだけではなく、自分自身も許せないためだろう。失敗はあくまでも失敗で、挽回できても、やはり失敗は失敗。
 また、苦労したことを黙して語らずの場合もある。何故なら、苦労しないとできなかったのかと思われるためだ。これは苦労を売り物にしたくない人に多い。当然苦労をかっこ悪いと思う人もいる。
 杢下の場合、どうするのかというと、そっと夜中に埋めに行くようなもので、隠してしまう。さらに、そんなことなどなかったかのようにする。できれば忘れるようにする。
 そして、失敗を取り戻すため、次へと向かう。ここの切り替えが早い。失敗の気配が見えたとき、既に切り替えていたりする。それ以上粘らない。気配だけで、まだ失敗だと決まったわけではないし、たとえ失敗だったとしても、何とかなるのではないかと粘るようなことはしない。失敗にそれ以上付き合いたくないのだろう。
 そして、その失敗は黙して語らずのまま。
 だが成功談しかないのも嘘臭い。リアリティーがない。そのため、笑い話となるような失敗談は語る。深い失敗ではなく、後悔も軽かったものに限られるが。
 本当に語りたくない場合は、語る前から既に不快の沼になるだろう。
 なかったことにする、というのはゲームなどではできる。最後に保存したところに戻ればいい。しかし実人生は取り消せない。消し去ることもできない。殺せないのだ。だからその記憶も死なない。そういう場合は封印だろう。
 杢田は失敗を恐れているわけではない。むしろ失敗しそうなことをやっている。だから、失敗しても当然かもしれない。これは失敗してこそ分かることが多いためだろう。だが、意外と同じ失敗を何度も続けている。学習能力はあるのだが、失敗し続けたことでも、そうではない例がいくらでもあるためだ。同じ轍を踏み続けることも悪くない。何らかの偶然や運などで、成功することもあるためだ。確率は低いが、ないわけではない。
 杢田はそういう失敗を人知れず起こしている。だから黙して語らずの数が多い。
 黙さず語れることも多いが、それを語り出すと、自慢話になる。そして大したことなどやっていないので、自慢するほどのことではなかったりするので、やはり黙してしまう。当然自慢することがかっこ悪いと思う人もいる。
 杢下に限らず、人は内面でゴソゴソしている。そしてその内奥は本人にしか分からない。当然といえば当然だ。
 
   了

 

posted by 川崎ゆきお at 11:26| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月10日

3597話 仏師


 仏師の達人という人がいる。仏像を作る人だが、彼の場合、大きなものではない。一人でできる小仏で、丸太が仏になるというもの。その名人なのだが、キャリアがあれば誰もが名人というわけではない。達人の域というのがあり、ここは一般の仏師とは明らかに段差があり、誰が見ても、それは分かる。
 長江という人だが、それほどの年寄りではない。中年あたりからその域に達している。これは個人が買うことが多いのだが、寺からも頼まれることもある。民芸品の熊を彫ったものとそれほど変わらないが、熊ではなく、仏を彫るわけなので、意味が違う。
 ある日、インタビューを受けた。達人の特集らしい。その中の一人として、この仏師が選ばれた。
 取材者が驚いたのは、長江氏は気さくな人で、聞けば気楽に答えてくれた。冗談さえ交えて。
 取材者は他の達人にも会っているのだが、結構いかめしい人が多い。頑固そうだったり、人当たりが悪く、取材そのものにも応じてくれない。
 ところが、この長江氏はそうではない。普通にいる中年の人懐っこいオッサンなのだ。
「下絵とかはあるのですか」
「ああ、はい、もらうこともあります。こんなのを彫ってくれと」
「丸太にそれを写すわけですか」
「いやいや、丸太に下書きはできませんよ。まあ、大凡のアタリは分かりますからな。彫りながら出て来よります」
「形がですか」
「そうです」
「分かりました。立体ですからねえ。二次元の絵と三次元では違いますからね」
「そうでんがな」
「丸太の中に仏が入っているので、それを掘り起こすとか聞きましたが」
「私は、そんなこと言ってまへんが」
「いえ、別の仏師が」
「そうでっか」
「どういうところが肝ですか」
「ポイントでんなあ」
「そうです。コツとかツボのようなもの」
「そうでんなあ、それは手が勝手に彫り探りまんねやわ」
「自動筆記のように」
「そりゃ、お筆先ですなあ。そういうことやおまへん」
「では、彫っているところを拝見してよろしいですか」
「ああ、どうぞ」
 仏師長江氏はいくつかの彫りかけの中から一体を掴んで、それを彫りだした。非常に細いノミで、一本しか使わない。だから一刀彫りの達人。
「喋りながら彫ると、怪我しまんねん」
「あ、はい」
「これは薬局で頼まれたやつでしてな。摩耶さんの像です。まあ、マリアさんのようなものですわ」
「お釈迦様の母親ですね」
「そうでんねん。これ漢方薬置く場所に飾るらしい」
「そうなんですか」
 喋りながら彫っているのだが、その彫り方が分かりにくい。顔を彫っていたかと思うと、腹を一寸彫り、また顔に戻り、落ち着きがない。
「昼食べはりましたか」
「いえ、まだです」
「蕎麦、取りましょか。もう寒いけど、ええ蕎麦屋がありましてな。そこのざる蕎麦、何回食べても美味しい」
「いえ、結構です」
「そうでっか」
「わて、最近お粥さんが気に入ってましてな」
「腹を壊したときなど、食べる、粥ですか」
「粥いうても、いろんな具入れまっせ」
「じゃ、雑炊」
 鼻を整えていたかと思うと、今度は背中の肩胛骨あたりを彫っている。そこは衣なのだが、その位置だ。
「あのう、どうして、掘る場所を頻繁に変えるのですか」
「ああ、痒がってますから」
「粥が欲しいと」
「いや、痒い痒いいうてますから、そこ掻いてるようなものですがな」
「ああ、痒い」
「そうそう」
「話ながらだと、気が散るでしょ」
「そうでんなあ、手元危ななりますわ」
「じゃ、見学はこれぐらいにします」
「そうでっか」
 後ろにカメラマンがいる。無口な人で、話に加わってこない。
「最後に、彫っているところの写真を下さい」
「ああ、どうぞ」
 カメラマンがレンズを向けると、長江氏はにかっと笑った。
 取材者は名人らしさがないので、困った。
「怖い顔して頂けませんか」
「そうでっか」
 長江氏は閻魔のような顔で、ぎょろりとレンズを睨んだ。
「あのう、やり過ぎです」
「そうでっか」
 結局カメラマンが難しそうな顔になっているときに写したのが使われた。
 そして、その記事では、ツボ彫り名人の技と紹介された。きっと長江仏師にしか見えない彫り順のツボがあると思ったのだ。
 
   了





posted by 川崎ゆきお at 12:39| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする