2018年07月22日

3692話 懐かしい人


「誰か来ていなかったかい」
 老夫婦だけが住む古く大きな家。掃除だけでも大変で、何枚もある雨戸の開け閉めも大変。面倒なので閉めたままにしたり、開けたままにしていると、近所の人が心配して見に来る
「誰も来ていませんでしたよ」
「そうか、さっきそこに誰かが座っているように見えたんだが、客じゃなかったのかい」
「いいえ、お客さんなんて滅多に来ませんよ。それに来るんなら言いますよ」
「急に訪ねて来る客もあるだろ」
「さあ、滅多にありませんよ。それにここまで通しませんよ」
「そうだな」
 所謂仏間だが、普段は間の抜けたような薄暗い八畳ほどの部屋、家具は一切ない。昔はここで法事などをやったもので、そのときは襖を全部開ける。すると都合三間が一間の大広間になる。そんなことがあったのは、この老人の子供の頃まで。
「いやですよ、仏間に人が来てたなんて、お盆にはまだ早いですよ」
「じゃ、勘違いか」
「どんな人でした」
「着物を着た人で、仏壇の前に座っていた」
「どんな人でした」
「さあ、まだ若い」
「着物姿の娘さんですか。そんな客なんて、いませんよ」
「そうだな」
「誰だか分かりませんか」
「見たことがあるんだが、思い出せない」
「悪いものが出たんじゃないですか」
「思い当たることでもあるのか」
「ありませんよ」
「そうか」
「お医者さんにみてもらったら」
「そうだな。そんなものが見え出すとまずい」
「ああ、そうだ。いい先生がいますよ」
 翌日、その先生が来た。
「たまにあるのですよ」
「やはり心の病ですか」
「さあ、それは分かりませんが、そういうものは昔から出ています」
「若い女性の客ですか」
「そうです」
「少し安心しましたが、誰なのです」
「思い出して下さい」
「知らない人ですが、妙に懐かしいような」
「そうでしょ」
「誰なのですか」
「あなたのお母さんでしょ」
「え」
「若い頃の」
「ああ」
 老人は引き戸を開け、古いアルバムを探し出した。
「こいつだ」
 それは娘時代の母親の写真だった。
「何故そんなことが先生、分かるのですか。もしかして、あなたがあの妖怪博士では」
「いえ、私はそんなものではありません」
 
   了


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2018年07月21日

3691話 土用


「今日は」
「はい」
「暑いですなあ」
「どなたでしょうか」
「土用です」
 戸を開けると、ドジョウのような小男が立っている。
「はあ」
「このへんを回っています」
「土用といえば、ウナギを食べる日でしょ」
「いや、土用というのは夏だけに限ったことじゃありませんがね」
「ウナギの蒲焼きのセールスですか」
「いや、私が土用です」
「あなたが土用」
「そうです」
「暑苦しそうですねえ」
「私が来ますと涼しくなります」
「そうなんですか」
「土用が去ればもう夏は終わり」
「いやいや、暑い真っ盛りですよ」
「峠です。あとは下り、涼しくなっていきますよ」
「それはいいのですが、目的は何ですか」
「さあ」
「さぁって、目的もなしに、来たわけですか」
「そうです。それでこの町内を今、回っているところです。挨拶代わりに」
「何かサービスでも」
「サビスしましょうか」
「どんな」
「やめておきましょう。それをすると訪問販売になりますから」
「その方が分かりやすいのですが」
「そうですか。じゃ、麦茶とはったい粉をサビスします」
 土用は背中に大きな風呂敷包みを背負っており、それを下ろした。
「結局、麦茶にはったい粉売りですか」
「売り切らないと親方に叱られますが、まあ、無理にとは言いません」
「麦茶はいいですが、はったい粉は喉が渇きますよ」
「だから麦茶も一緒に売っているのです」
「これがサービスですか」
「値段、少しサビスします」
「分かりました。その方が分かりやすいです」
「おおきに」
「買いますが、はったい粉はどうやって食べるのです」
「砂糖を入れて混ぜてそのまま頂けます。香ばしいですよ。または湯を加えて団子にします」
「はい、有り難う。そうしてみます」
「これで親方に叱られないで済みます」
「ところで」
「はい、何か」
「あなた土用でしょ」
「そうです」
「土用が物売りをやっているのですか」
「土用を知らせに回るのが土用の務めです。それだけでは何なので、ついでに麦茶とはったい粉を売っているだけです。実は冬も土用があるのですよ。そのときはきな粉をまぶした温かい団子を売ります。
「つまり土用とはそういう物売りの総称だったのですか」
「さあ、それは確かなことは分かりません。私らが勝手に言っていることで、気にしないで下さい。
「ところで、土用って何ですか」
「知りません」
「あ、そう」
「お邪魔しました。暑い中、お付き合いいただいて有り難うございました」
 上田は暑くて目が覚めた。昼寝に失敗したようだ。
 
   了



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2018年07月20日

3691話 ナスコン


「ここはナスコンで行くか」
 デザイン室で加賀が呟いた。当然聞こえるように。
「ナスコンですか」
 何かの略だと思い、三村は意味を探った。合コンのようなもの、コミュニケーション系ではないかと真っ先に理解した。
「早速そうしてくれ、ナスコンだ」
 しかし、いきなりそんなことを始められない。用意するにしても、何のための集まりなのかも分からない。メンバーも必要だろう。
「それで決定だ」
 これ以上聞いても誤解した状態で進んでしまうと思い、三村は聞くことにしたのだが、カンの悪い男だと思われたくない。それにこの上司はものを聞くといやな顔をする。しかし、間違った方向で事を進めるよりはいい。
「ナスコンって何ですか」
「色だ」
「あ」
「メインカラーが決まらなかったんだが、ナスコンで行こう。今決めた」
 ナスコンとは茄子紺と書き、紺色。紺色とは赤みの掛かった青。または青味の掛かった赤。だから紫色のこと。その彩度がナスビに近いものを茄子紺と呼んでいる。若いデザイナーの三村には分かるはずがない。色目など色見本のカードやチャートを繰って指定するだけ。しかし、茄子のあの色を再現させるには、絵の具そのものに問題がある。
 それで三村は、丁度今の季節茄子がなっていることを思い出し、写真で写し、その色をスポイドでコピーした。本物の茄子の色なので、ベースとしては悪くない。
「この茄子、ちょっと黒いんじゃないかい」
「本物の茄子の色です」
「光線状態が悪いねえ。それで黒っぽい。まあいい。あとは私が茄子のあの色艶になるよう調整する。ご苦労だった。もういいよ」
「はい」
 茄子紺と言われていた頃の茄子の品種と今のとでは違うのだろうか。
「ところで主任、コンパなんですが」
「コンパ」
「はい」
「それがどうした。そんなことをやるのかね」
「はい。ナスコンを」
「茄子のコンパかい」
「そうです」
「それでナスコンです」
「そんなことしなくても、集まるのは茄子ばかりじゃないか。最初からナスコンだよ」
 そういう視線で見ると、この二人も茄子だった。
 
   了

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2018年07月19日

3690話 ベンチ


「もうこのへんでいいだろう」
 古田は木陰があり、ベンチがある公園を見付けたので、そこで終わることにした。つまり、それ以上先へ進まないと、ここを目的にすると。
 炎天下、散歩などしている人間はいない。一番暑い時間だ。古田はこの時間、いつもなら昼寝をしている。しかし何を思ったのか、散歩に出た。しかも家からもうかなり遠くまで来ている。徒歩距離で行ける近所なのだが、いつもは車で、細い路地などに入り込んだことはない。
 そこを抜けたところから坂になり、緑が多くなる。これはいい感じなったと木陰の下を歩いていたのだが、調子に乗りすぎ、歩きすぎたようだ。行きすぎなのだ。目的地がないので、行きすぎというのはないが、歩きすぎというのはある。離れすぎ。
 海水浴でも戻れることを考えて沖へ向かう。しかし徒歩の場合、進めなくなればそこで止まればいい。その止まる場所が見付かった。先ほど見た公園の木陰とベンチ。ここならさあ座ってくださいと待っているようなもの。他の何処に腰掛けるよりも安定した場所。人が座るためにあるベンチ。
 幹から少しだけ離れているのは根があるため。何の木かは分からないが、電柱のように立っているのではなく、根元に根の枝が露出している。だから少しだけ離したところにベンチがある。それでも充分日影を作っている。
 しばらく座っていると、意識が遠のいてきた。熱中症でやられたわけではなく、思考停止。物事を考えるとき、それをリードしている船頭のようなのがいる。それがいない。
 そんなとき、頭の中は空っぽになるが、今自分が何処で何をしているのかは分かる。意識は確かにあるのだが、それをあまり動かさないようだ。船頭が一服している。
 これはやはり疲れたのだろう。こんなに遠くまで歩くことなど想定していないので、水筒もない。途中自販機があったのを思い出したが、もう遅い。
 さいわい公園なので、水飲み場がある。小さな噴水のようなものだ。手で受けなくてもそのまま飲める。
 それを一口飲みに行く。そこは日影ではない。木陰から出た瞬間、カリッとする光線を頭部に受ける。帽子を被っていないことにそのとき気付く。いつも車なので、日除けの帽子など用はないし、陽射しのあるところをウロウロするような用事など日常的になかった。
 水を飲んでいるとき「私は水飲み老人か」と、妙な独り言を言ってしまう。
 そして、ベンチに戻ろうとしたのだが、目が変になったようで、ベンチがない。
 それがあった木はある。似たような木が数本あるので、見間違えたのかと思い、それぞれの根元を見るが、ベンチなどない。
 ベンチから立ち、そのまま直進した。だから振り返ればあるはず。それがない。
 しかし、暑くて頭がぼんやりしているためか、それ以上深く追わなかった。
 だが、もう少し休憩したいので、公園内を見渡し、ベンチを探すが、やはりない。どのベンチでもいい。すると隅っこの荒れた場所に壊れたベンチがある。
 しかし木陰ではない。
 まあ、いいかと思い、古田は帰ることにした。
 帰り道は下り坂になっているのか楽だが市街地に出て、また暑苦しくなる。行くとき見かけた自販機でスポーツ飲料を飲むとぼんやりとしていた頭はしっかりし始めた。まるで点滴を受けたように。
 そして、本当に大事なことなど忘れていた。もう頭にない。帰ってからの仕事などのことで、頭が満たされためだろう。
 大事なこと。それはどう考えてもおかしなことなのに思い出そうとしない。
 消えたベンチのことだ。頭の中からも消えてしまったのだろうか。
 
   了
 


posted by 川崎ゆきお at 10:29| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月18日

3689話 劇画時代


 ドンドンとドアを叩く音。所謂ノック音。しかし、ドアにガタがあるのか、ドアそのものが緩んでいるのかドンドンではなく、ドアドアと響きが鈍い。中のベニヤが張りをなくし、高い音が出せなくなっているのだろう。
「はい」
 宮崎は股火鉢ではないが、扇風機を跨いでいるところだった。
「わし」
 声で高岡だと分かった。
「開いてます」
「ああ」
 汗びっしょりの高岡が入ってきた。顔は真っ青、怖いものを見たのでも体調が悪いのでもなく、冬でもそんな顔色。これで誤解されるようだが、宮崎はもう慣れたのでその話題はない。高岡は首にタオルを巻き、麦わら帽。紐を解き、さっと脱ぎ、畳の上に置く。
「暑いのに」
「ああ、急に思い付いてね」
「あ、そう」
 宮崎は冷蔵庫から一リットル入りのコカコーラを取り出し、湯飲み茶碗に注ぐ。
「あ、ありがとう」
「これを」
 と、宮崎は団扇を差し出す。
 そして扇風機は宮崎を向いているので、それを二人とも風が来るように首振りにした。すると急にギィーギィーと音がうるさい。
「暑かったでしょ。駅からここまで田んぼばかりだから日影なかったはず」
「それより、理論誌を出そうと思うんだ」
「え」
「理論武装だよ」
「あ、そう」
「それで、その理論を考えながら、ここまで来たので、暑さなんて関係ないよ」
「何か良いのができましたか」
「いや、まだ構想の段階だよ」
「理論誌というのはどうやって出すの」
「最初は肉筆回覧誌でいい。君も書いてくれ」
「絵は書くけど、文章は」
「駄目だよそれじゃ」
 二人とも漫画同人会のメンバーだ。
「理論誌を出して革命を起こす」
「え」
「いや、同人会の話だ。このままでは駄目だ。筋が通っていない。何のための同人活動かが明快ではないし、何のために漫画を書くのか曖昧だ。そういうのを話し合ったことがないんだね。だから、理論誌が必要なんだ」
「はあ」
「まあいい」
「いいんですか」
「ちょっとそれをここに来るとき思い付いただけ」
「ところで、漫画は書きましたか」
「いや」
「書いてないっ?」
「まあ」
「カットでもいいから提出しないと」
「カットなら書けるけど、わしが書きたいのは劇画だ」
「さいとうたかをのような」
「違う、辰巳ヨシヒロがいい。そちらこそ正統派なんだ」
「はいはい。そういうことを理論誌で書くわけですね」
「そうだ。まずは足元から固めないとね」
「はい」
「その前に、少し横になってもいいかな。暑さにやられたようだ。一眠りすれば治る」
「暑いですよ、この部屋。昼間寝るのは危険です」
「扇風機があるじゃないか。それで充分」
「分かりました。たまに冷蔵庫を開けますから」
「ああ、そうしてくれ」
 高岡は何度も寝返りをうちながら寝ていたが、やはり暑くて寝入れないようだ。
「無理だな」
「そうでしょ」
「じゃ、帰る」
「大丈夫ですか」
「ああ、横になっただけでも、ましになった」
「夕方涼しくなってから」
「いや、戻ってすぐに理論誌を準備をするから」
「あ、はい」
 宮崎は駅まで送るため炎天下の田んぼ道を二人で歩いた。
「辰巳ヨシヒロもいいが、松本正彦もいいよ」
「はあ」
「これからは松本正彦の時代だ」
「はあ」
 バッタが一匹飛び上がったが着地に失敗したのか、よろけて、羽根をばたつかせた。
 
   了


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2018年07月17日

3688話 夏の扉


「暑いときはどうされてます」
「うんと暑苦しいことをやったりとか」
「余計に暑いですねえ」
「寒中水泳のようなものですよ」
「やりましたか」
「いや」
「じゃ、夏は何でしょう」
「体も焼けるので、やけくそになる」
「やけくそ」
「栓も緩むのでしょうなあ」
「それで何をされるわけですか」
「新しいことをしたい」
「暑い時期にですか」
「毎日同じことじゃ暑苦しい」
「それで、新しいことをですか」
「理由はそれだけ。新しいことをしたくてやるんじゃない。いつも同じだと暑苦しいためだ」
「新たな試みとか」
「そうだね。ガラッと趣の異なることとかね。まあ、自分にとっては新鮮なことなら何でもいいんだよ。また、しなくてもいいことだ。冬は閉鎖的、夏は開放的。だから開くんだろうねえ、何かの扉が」
「そうですねえ。冬場閉めていた窓も暑いので開けますからね」
「開いているから行ってみる。それだけだ」
「で、何が開いていました」
「今までとは別の方針や、違う方向、またはまだやっていないこと、等々だよ」
「いろいろとあるものですねえ」
「必要だからじゃない。暑いからだ」
「はい」
「それで新しいことを始める。最初は刺激があっていい。これで暑苦しさは少しは忘れる。熱中して体が熱い」
「やはり暑苦しそうですねえ」
「そのときは分からない。汗が出てきて、やっと分かるが、暑さなど忘れている」
「はい、それで新しいことは上手く行きましたか」
「これはただの刺激でいい。別に新しいことをやる必要もないからね」
「じゃ、上手く行かないわけですね。新しいことは」
「そうだね。冬場だとそれが分かっているから挑まない。それだけのこと。夏場は栓が緩むので、やってしまえるだけ。結果はやる前から分かっているようなもの。しかし、目的はそれではない」
「暑いので、やっただけということですか」
「まあ、無駄なことをして大汗をかいて、余計に暑くなったがね。しかし、それでものになった夏もある」
「そうなんですか。いける場合もあるのですね。その新しいことで」
「今、私がやっている仕事。これはそういう夏の日にやったことがスタートだった。しかし、長く今の仕事をやりすぎたようだね。もう新しいことではなくなってから久しい」
「はあ」
「あれは何十年も前の夏の日だった。あの頃も暑くて何ともならんので、暑さしのぎでやり始めたことだった。それが当たった。そして今日に至る」
「はい」
「きっかけなど単純で、生理的なものだけかもしれないねえ」
「あ、はい」
 
   了

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2018年07月16日

3687話 パンを買いに行く


 富田は夕食後、なかば散歩のつもりでパンを買いに行く。近所にはもうパン屋はない。小さな店があったのだが、閉まっている。そのシャッターは開くことはなく、そのままは空き屋になったまま。
 夕食後なので夕食が足りなかったわけではない。翌日の昼に食べるパンだ。パンでなくてもかまわないのだが、昼は仕事中に食べたい。仕事をしながら。パンならそれができる。巻き寿司でもいいのだが、それでは高くつく。
 近所のパン屋、これは駄菓子屋のようなものだが、コンビニも近い距離にあるので、もうそのパン屋がなくなっても問題はない。それでコンビニへパンを買いに行くかというとそうではなく、少し離れたところにある百均。散歩がてらなので、少し距離がある方がいい。自転車なので、あっという間に着いてしまうのだが、夕食後、部屋で過ごすより、外の空気を吸いたい。それに季節はもう夏。食べると汗が出る。
 そして夜道を百均まで行くのだが、その途中、何故パンなのかと考えてしまった。決して深く考察するような問題ではない。しかし、パンでなくてもざる蕎麦でもいい。しかもそれを何故夕食後に買いに行くのか。朝、買ってもいいし、昼前に買ってもいい。それが不思議と前日の夜に買いに行く。
 さらにいつ頃から昼はパンにすると決めたのだろう。ずっとそうではなく、普通のご飯とおかずや、暑いときはお茶漬けなどもあったし、うどんや蕎麦もあったり、冬などお好み焼きを焼いたりした。当然焼きそばも。
 仕事をしながらでも食べられるのでパン、という理屈も合わない。それほど忙しくはないので、食事に専念しても問題はない。
 百均でパンを一つ買う。そのついでに日用品も買う。また文房具、飲み物も買うことがあるし、自転車の前籠カバーを買うこともある。だからパン一つだけ買うことは希。
 店屋というのは、見せ屋で、品物を見せるところ。だから見世物と同じ。そういうのを気楽に見に行く場合、コンビニやスーパーよりもいい。それでついつい余計なのを買ってしまうのだが、これは見学代のようなもの。握りやすそうな太さのボールペンを買って試したり、シャープペンまで付いているコンパスを買ったりと、意外と飽きない。だからおもちゃ屋のようなもの。
「これか」
 と、富田は気付いた。パンが目的ではないのだ。しかし、目的にできる。昼ご飯なのだから、それは遊びで買うようなものではない。真面目な買い物だ。
「付随物、おまけか」
 つまり、パンだけを買うのは楽しくない。それだけのことかもしれない。
 当然カップラーメンなども売っているのだが、やはりパンがいい。湯を沸かしたりが邪魔臭い。
「いつ頃からだろう」
 そう思うのは、結構最近のことのため。一年前はそんなことはしていなかった。昼は特に決まったものはなく、適当。しかし数ヶ月前からパンしか食べなくなっている。
 夜に百均へ行ったのがきっかけかもしれない。そこにパンがある。ついでにパンをそのとき買ったのだろう。そのパンはコンビニでもあるようなパンで、メーカー品。中にはまだ生きていたのかと思うようなメーカーのも混ざっている。
 夏場はいい。秋もいい。しかし冬の寒い頃、夜にパンを買いに行くかどうかは分からない。
 成り行きでそうなってしまった日常パターンというのがある。それだけのことだが、それでも細々とした事情が含まれている。
 夜にパンを買いに行く。それを説明するには日常些事の退屈な話になる。
 
   了



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2018年07月15日

3686話 山姥


 長く山歩きをしている老人から妖怪博士は不思議な話を聞いた。それは一つや二つではない。
「何かいるのは分かるのです」
「何がですか」
「何かです」
「ああなるほど、何かですか」
「そいつは姿を顕わさん」
「しかし、見ないのに分かるのですかな。何かいると」
「はい、笹が妙な揺れ方をしたり、鳥が飛び立ったり」
「しかし、実体はない」
「あるのしょうが、正体を顕わさん」
「そんなとき、どうするのですかな」
「動かないで、じっとしております。そのうち消えますので」
「単純に考えますと、ケモノが近くまで来ていたのでしょ」
「おそらく」
「じゃ、笹でも食べに来たのでしょ」
「そうなんですがね」
「しかし、それとは違うと思うのでしょ」
「そうなんです。あれはケモノじゃない」
「山で異様なものをごらんになったことは?」
「ありません」
「あ、そう」
「しかし気配は確実にあります」
「また、笹ですか」
「いや、何も動いておりませんが、いることが分かります」
「何でしょう、それは」
「さあ」
「感じたわけでしょ」
「はい、いると感じました」
「それが、目や耳や鼻ではなく?」
「そうです。背筋が急にゾクッと」
「風邪でしたか」
「違います」
「じゃ、皮膚で感じられたと」
「いえ、もっと深い骨の髄で」
「ほう」
「これは進んではいけないなと思い。しばらく身構えています」
「はい」
「どうしてもその怖さが治まらないときは、そちらへ行くのはやめます」
「どういうものがいるとお考えですか」
「さあ、見えていませんから」
「じゃ、どんな感じのものか、想像してみましたか」
「はい」
「やはりケモノですか」
「いえ、岩のような硬いものです」
「じゃ、前にあるのは岩」
「いやいや、岩なら見えます。そうじゃなく、大きくて硬い塊です」
「形は」
「そこまで分かりません」
「それらは全て錯覚だとは思いませんか」
「はい、思いますとも」
「やはり」
「しかし、錯覚にしてリアルすぎるのですよ」
「ほう」
「また」
「また?」
「はい、また、何か飛んでいることも。これも見えません」
「鳥のように飛んでいるのですな」
「そうです」
「葉が舞っていたとか」
「それなら分かります」
「じゃ、何が飛んでいたのですかな」
「何かが」
「ううむ」
「すみません、具体性がなくて」
「いいですよ。そんなもの、具体性があれば、バケモノだらけになって大変でしょ」
「そうですねえ」
「感じるところがある。しかし、具体性がない」
「そうです」
「それに目鼻を付ける気はないでしょ」
「ああ、強引に付けられなくもないです。しかし、それを指しているわけじゃありません」
「じゃ、あなたが知っているものではどれに当てはまりますか」
「山姥の妖術」
「はい、結構です。そういう言い方しかできないでしょうから」
「すみません」
「あなたにもし想像力、創造力がもっとあれば、形を与えてしまうでしょうねえ」
「そうなんです。何分絵も下手だし。イメージも貧弱で」
「いえいえ、だからこそいいのです。妖怪を生み出さなくて済みますから」
「やはり妖怪でしょうか」
「妖怪にしようとすれば妖怪になります」
「でも、こっちの世界にいるものとは別の何かを感じます」
「それで、そういったものと遭遇したときは、どうすればいいとお思いです」
「私の経験からいいますと、じっとしていることです。下手に逃げると転びますし」
「じっとですか」
「はい、私は魔除けを持っておりますので、それを握りしめて印を結び、呪文を唱えます」
「意外と原始的なことが効くのですね」
「そうです」
「きゃつらは、そもそも原始的なものかもしれませんからねえ」
「はい」
 
   了


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2018年07月14日

3685話 搦め手から


「これでお願いします」
「飾り櫛ですね」
「いいですか」
「そのお召し物も」
「え」
「それでは目立ちます。そちらに幕がありますので、お着替えを。野良着を用意しましたので、それに着替えてください。お召し物はそのまま置いていってください」
「はい、よろしくお願いします」
「もう少し集まれば、道案内します」
「はい」
 落城寸前。落ち行く人が城の裏から出てくる。逃げ出すためだ。城の裏側は山。ここからは攻めにくいので、兵は少ない。しかし囲んでいる兵はいる。それを指揮しているのは、攻め手の武将だが、年寄り。実際に守っているのは足軽。駆り出された百姓。
 城主は籠城策をとるが、兵は逃げ出している。重臣達も搦め手から同じような手で逃げている。囲んでいるのだが、金銭を渡すと通れる。
 攻め手と城側とは恨み怨まれる関係ではない。大人しく従えば領地はそのまま。それを拒む理由はない。
 攻め手も相手が憎いわけではない。そのため、一族皆殺しなどは考えていない。
 搦め手を任された武将は、自ら進んで申し出た。実入りが良いのだ。足軽達も搦め手が美味しいことは知っていた。村への土産になる。しかし人数が決まっているし、その武将の配下でないと無理。そのため、こっそり紛れ込んでいる。だから一番手薄な城の裏側の兵が多いが、目立たないように山中に潜んでいる。仕事は多い。協力費をもらうだけではなく、安全な場所や、さらには特定の場所まで護衛する。そのため、前もって山道に詳しい土地の者を連れてきている。
 落ち行く人の敵は敵兵だけではない。今回はその敵兵が味方になってくれている。怖いのは落ち武者狩り。何処の誰だか分からない。
 この城が落ちれば、領主一族は亡びる。自ら決めたことなのだが、頼みの援軍が来ない。これで目論見が外れのだが、城主は最後まで諦めない。しかし家来はとっくに諦め、大半は逃げた。戦いたくないというよりも、兵糧がない。それが一番の理由。援軍が遅すぎる。
 城主一族は投降を拒み続けたので、もう命乞いはできない。
「今からでも遅くはございません」
 重臣の一人が、自分も命が惜しいので、城主に降参を勧めた。
 しかし攻め手の大将にはその決定権はない。投降するには遅すぎた。既に城主一族の皆殺しが決まっていた。
 城主は覚悟したが、一族が根絶やしになるのを何とかしたい。そこで息子達は無理だが、姫なら見逃してくれるかもしれない。側室の子だが、血は繋がっている。
 城主は密かに姫を落とした。幼子を小者に預けた。これは武士ではない。しかし、その小者、年をとりすぎていたので、その息子に任せた。下男以下の身分だ。岩のような大男で、荒くれ者。
 先ほど搦め手から密かに逃げていった落人の中に、この大岩男に背負われた姫も混ざっていた。
 この幼き姫がいずれお家再興を果たすのだが、話が長すぎるので、ここまでとする。
 
   了



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2018年07月13日

3684話 流罪


「岩田さんはどうしているかな」
「岩田さん?」
「知らないのかい」
「はい」
「うちの幹部だ」
「聞いたことがありませんが」
「事情があってね、遠ざけていた」
「そうですか」
「様子を見てきてくれないかな、戻したいので」
「以前、何かあったのですね」
「もう。ほとぼりが冷めたはず。いつまでも遠ざけるわけにはいかん。重要な働きをした人だからね。恩人でもある」
「はい、分かりました」
 部下は居場所を聞き、迎えに行くことにした。しかし、聞いたことのない町で、結構遠い。
 新幹線で降りたまではよかったが、周囲は何もない。在来線の駅まで行くと、やっと町らしくなるが、古びたところだ。そこから支線に乗る。
 この終点の駅は城下町だったらしく、瓦屋根が多い。旅館と書かれた看板。大きな薬局もあるが、チェーン店ではないようだ。
 バス乗り場があり、そこからさらに山の中へ入っていく。城下町だったところなので、それほど辺鄙な場所ではなく、昔はここがこの地方の中心部だったに違いない。
 バスで終点まで行き、そこで降りると、ここはもう何十年か前の風景。建物はあまり変わっていないのかもしれない。もう町ではなく村。この辺りでは一番大きな村のようだが、市町村単位での村ではなく、農家が集まったただの集落。一応バスでここまでは辿り着けるが、岩田善三郎という人はさらにその奥に住んでおり、バスはない。
 山にかかり出すと、道路も狭くなり、対向車があれば困るだろう。
 やがて舗装された道路が林道になり、轍の隙間に草が生えている。
 その林道は山裾を縫うように続いているのだが、これは林業用だろう。
 ここからは地図を見ないと、場所が分からない。手書きの地図だ。
 林道から細い山道に入る。山を越える道のようで、越える手前を回り込んだところに窪みがあり、集落がある。少しだけ平らな場所で、藁葺き屋根が見える。結構大きな農家。そういうのが数軒あるが、既に屋根はむしり取られたようになり、傾いているものや、ぺしゃんとなっているのもある。
 部下はそれを見ながら、その集落へ降りていくと、野良仕事をしている人がいる。
「岩田さんのお宅はどちらでしょうか」
「ああ、私が岩田だ」
「初めまして、盛岡と申します」
「岩国の使いか」
「はい、そろそろ戻ってきて欲しいと」
「義理堅い奴だなあ、捨てれば良いものを」
「あ、はい」
「帰らないと伝えてくれ」
「あ、はい」
「ここでずっと暮らしていると、気に入ってしまった」
「でも会長が」
 そこへ若い娘が現れた。
「昼飯か」
「はい」
「客だ。酒の用意を頼む」
「はい」
 盛岡がまだ壊れていない農家に入ると、若い娘がもう一人いる。
「あのう、これはどういうことで」
「ああ、里から手伝いに来てくれるんだ」
「そ、そうなのですか」
 盛岡はちょっとだけ違和感を感じた。
 これはどうなっているのかと聞きたかったが、言い出すきっかけがない。
「岩国には元気で暮らしているから心配するなと伝えてくれ」
「あ、はい」
 若い娘が盛岡に酒をついだ。
「帰りは送らせる」
「え」
「だから、帰りは車で送らせる」
「でも道が」
「遠回りになるが、林道まで四駆なら入れる道があるんだ」
「じゃ、車で、ここまで来れるのですね」
「かなり遠回りだけどね」
「はい」
 部下の盛岡はその日には帰らず。三日ほど泊まったようだ。
 
   了


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