2018年05月10日

3620話 傘


 雨が降っているのは分かっていたが、小雨なので立花は傘を差を差さないで外に出た。しかし本降りになると厄介なので、傘は手にしている。
 雨が降っている。傘はある。しかし差さない。これは妙ではないか。何か間が抜けているように思えたが、留めている紐を解くのが面倒。金具が錆びており、片手でパカッと開かない。両手がいる。手提げ鞄を手首に通せば両手は使えるが、それも面倒。さらにその傘はバネでパッと開くはずなのだが、傘の芯が少し曲がっており、途中までしか開かない。
 しかし雨は降っている。小雨だが衣服に斑点が付きだした。そのうちそれが拡がっていきそうだ。
 傘は持っている。だから差せばいいのだ。
 だが立花は雨とか傘とかのことではなく、別のことで頭が一杯で、多少濡れても何の影響もない。それよりも、今、頭の中にある問題が深刻で、それで頭が一杯になっているのだ。
 そのうち小雨から本降りになりだした。流石にそれではびしょ濡れになるので、立花は傘を差した。先ほどのあのややこしい順番を踏んで。
 しかし通り雨だったようで、すぐにやんだ。もう雨は降っていない。ところが立花は傘を畳まない。窄めるとき、二段式になり、節がある。その節を通過するとき、少し力がいる。このとき、暇なときなら曲がった心棒を真っ直ぐに戻そうと頑張るのだが、前回それで失敗し、余計複雑なカーブや節ができた。そういう素材の傘なのだ。風に強い傘なので柔軟性がある。
 さらに傘を紐で巻くのだが、例の金具のことを思うと、うんざりする。また降るかもしれないので紐を使わなくてもかまわないのだが、そういったことではなく、まだ頭の中を一杯にしているものの領域が広く、雨や傘に対する取り分がない。だから雨がやんでいるのに、傘を差したまま歩いている。
 やがて駅に近付き、改札まですーと入ろうとしたが、流石に傘を差したままプラットホームに出るわけにはいかない。天井があるので、雨の影響もない。ここで仕方なく、傘を萎めようとしたが、上手くスライドしないので、力んだ。すると滑ったのか、痛い思いをした。そして紐を締めるとき、例の錆びた金具同士を合わせて、パチンと鳴るのだが、そのパチンの音が出ない。改札前、後ろに人が来ている。
 ええいと声を出しながら、立花は改札を抜けた。
 電車はすぐに来て、さっと客が乗り、さーと走り去った。
 そして無人となったホームに、半開きの傘だけがポツンと横たわっていた。
 
   了



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2018年05月09日

3619話 ある小者


 火縄銃、当時は種子島と呼ばれていたが、その威力で今までの鎧では役に立たなくなった。
 松下嘉平という人は、種子島をはじき返す鎧があると聞き、欲しくなった。それはあくまでも噂で、何処で売っているのかは分からない。領内では聞かないので、他国。堺あたりへ行けばあるかもしれないと思い、小者に銭を持たせ、買いに行かせた。
 小者は流れ者だったが、真面目に仕えていた。嘉平は良い人で、しかも真面目な人。まあ、普通の武将だろう。地位は低くはない。
 使い走りの小者は、それこそお使いに出たことになるのだが、松下家にいても何ともならないと思い、そのまま逃げた。銭を腹に飲んだまま。
 その銭で針を買い、針の行商で諸国をウロウロした。一箇所にいるより鼠のようにちょろちょろしている方が合っていたのだろう。
 それから月日が流れた。
 天下を取った秀吉は大坂城で諸国の大名とよく合っていた。
 派手好きな秀吉は演出も凄い。金ぴかの大広間に客を迎え入れるのだが、少しも威張らない。そして大袈裟すぎるほど歓迎した。
 しかし、最近は自信が付いたのか、横柄になり、天下人しての貫禄が出てきた。既に武家の中では最高位。頭を下げる相手は天子様しかいない。
 その日も大名家から挨拶を受けるため、大広前へ向かっていたのだが、相手は少領の田舎大名。
 秀吉は別の用事で出ていたので、大広間への通路が同じ廊下になった。奥から入れば、こんなところで顔を合わせなくても済むのだが、気を遣うような大名ではないので、一緒に向かってもいい。そこは気さくな人なので。
 これでは大広間上段に姿を現す見せ場がなくなるが、それにも飽きたのだろう。
 まだ若い当主らしい。一度顔を見たことがあるが、戦わずに取った。従属を願い出たためだ。その一行が廊下を通り過ぎるのを見ていたのだが、家来が三人ほど付いてきている。
 秀吉の小姓が異変に気付いた。秀吉の様子がおかしい。そして急に隠れてしまった。
 二人の小姓は慌てて追いかけたが、もの凄く早い。
 田舎大名の家来の中に老人がいた。秀吉はそれを見たようだ。
 その老人、松下嘉平だった。
 
   了


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2018年05月08日

3618話 冒険王


 大型連休の頃、坂上はやる気を失った。遊びほうけていたわけではなく、ゴロゴロしていただけだが、これがいけない。元気に遊びにでも出ていればまた元気に仕事に戻れるのだが、ただのゴロゴロでは怠けているだけ。休みなので体を休めないといけないほど坂上は疲れていない。睡眠時間は人より長いし、健康そのもの。
 五月病。これが坂上が毎年越えなければいけない峠の関所。越すに越せない田原坂のように曲がった坂道が続いている。
「どうなの」
 同僚の大黒が遊びに来た。積極的だ。遊びに来るのだから。
 少なくても電車に乗らないと坂上の部屋までは来られない。部屋の近くの自販機とコンビニにしか行かない坂上とは違う。
「また五月病か」
「もう新入社員じゃないけどね」
「じゃ、何だ」
「この季節、眠くて、だるくて、何もしたくない。それだけ」
「しかし君の大型連休は倍ある。超大型連休だ。連休を過ぎても出て来ない。今年もそれかい」
「可能性はある」
「心配して来たんじゃなく、君が来ないと僕が倍忙しくなる。だから頼むよ」
「ところで大黒君」
「何だい」
「遊びに出たかい」
「だから、今日、来たじゃないか」
「それが遊びなの。行楽なの」
「観光じゃないけど、暇なので遊びに来たんだ」
「しかし、何もないよ」
「いいんだ。出掛けただけで」
「あ、そう」
「やはりねえ」
「何」
「やはり、これということがないとねえ」
「これと」
「これというのは、まあ、凄い話とか、そういうことでもないとアクティブになれない」
「要するに冒険に出たいんだ」
「冒険も探検も、一人遊びのようなものでね。一人でそんな雰囲気に浸っているだけで、ただぶらぶら歩いているだけのことさ」
「冒険ねえ」
「冒険王になりたい」
「何をする人?」
「冒険する人さ」
「ふーん」
「宝探しでもいい。これは楽しんだだけで終わるのではなく、お宝を持ち帰られる」
「余計に疲れてきた」
「まあ、いいじゃないか。元気そうだから、あさってから会社だ。出て来られそうだね」
「まあね」
「じゃ、安心して帰るよ」
「早いなあ」
「見に来ただけ。それだけ」
「分かった」
 翌々日、坂上はいやいやながら出社した。しかし、大黒は来ていなかった。
 先輩が連絡しても大黒のケータイは繋がらない。無断欠勤。
「君なら友人なのだから知ってるだろ。大黒君はどうした」
「冒険へと旅立ったのでしょ」
 先輩はまったく表情を変えないで横を向いた。
 
   了


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2018年05月07日

3617話 謗法寺の秘仏


 謗法寺の秘仏というのは伝説の仏像。見た人は誰もいない。それよりも謗法寺という寺は燃えて今はない。さらにそれよりも謗法とは仏法を誹ること。だからそんな寺が存在するわけがない。
 その秘仏は長野の善光寺の秘仏よりも古いとされている。そのため、この国で作られたものではない。
 謗法寺は記録にあるだけ。当時本当に謗法寺と言っていたのかは分からない。その近くに今は神社がある。おそらく謗法寺跡にできた神社だろうと言われている。この神社が謗法寺と言い出したのかもしれないが、この神社も今はないが、その近くに鳥居だけがあるような神社が山の取っかかりにある。その山が霊山のためだ。山の神様を祭っているのではなく、その山が神。
 最近になってその霊山神社ゆかりの旧家から謗法寺や秘仏に関する聞き書きが発見された。
 謗法寺は燃えたのだが、これは燃やされたのだろう。事前にそれが分かっていたらしく、本尊を隠した。これが秘仏と言われるもので、寺に隠したのではなく、山に隠した。その場所が記されていた。
 場所は霊山の頂にある祠。昔は里の人は山頂に登る用事などないし、山々で暮らす民も、この霊山はポツンとあるので、尾根伝いの山の道からも外れている。名山ではなく、高くもないので、頂上まで木が茂っている。里から見ると、この山は非常に目立つ。山脈ではなく、ポツンと聳えているためだ。それで山の神様が住むとされた。
 頂上付近にある祠といっても斜面の崖をくり抜いたもので、人が入れるような広さはない。岩に空けた穴のようなもので、そこに秘仏を隠したとある。飛鳥時代の話なので、そんなものは埋もれてしまっているだろう。
 この秘仏は仏様のお姿らしいが、神として祭られている。神像だ。神様には実は姿がない。人なのかさえ分からないし、形がない。そこが仏との違いだ。それで、海を渡って来た異形のお顔や服装が珍しく、見たことのない人種なので、これを神像としたようだ。これが謗法寺の御本尊だとされるのだが眉唾物。それに先にも触れたように謗法寺の本当の名は分からない。何処かで山岳信仰と引っ付いてしまったのだろう。
 さて、山の神様ゆかりの鳥居で最近行われる山開きの行事や、山の神様の行事のとき、この秘仏の話をやっている。何処かは分からないが、山頂近くの斜面に祭られていると。それが神像ではなく、仏像なのが妙だが、その説明のために謗法寺の話が出てくる。
 山の神様が聞いたら、怒りそうな話だ。
 
   了


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2018年05月06日

3616話 旅の小娘


 どう見ても百姓娘の一人旅。下崎信三郎は前を行くこの小娘が気になった。この時代、娘の一人旅は珍しくない。
 しかし、一人旅では困るだろうと思い、信三郎は追い越すとき、チラリと顔を見た。美人ではないが、可愛い顔付きで、しかもかなり若い。
 娘道中には付きものの同伴者。それに信三郎はかって出た。娘は慣れているのか、次の宿場までお願いした。
 本街道からの枝道の小さな街道。これは距離が短いが、その宿場町の先に大社がある。そのため神詣での人がこの街道を使う。旅籠もそこそこあるのだが、これも大社用。大社の先は山に入り、もう村はまばら。その先へ行く人は希だろう。
 しかしその宿場町、荒れており、乱暴者がのさばっている。最初は旅の無宿者が何人かいたのだが、いつの間にか増えて、一団となった。ちょっとした組織だが、他所者の集まり。
 宿場町に差し掛かった二人は、その程度では驚かない。相手にしなければいいのだ。何処の宿場にもそういった連中がいる。
 信三郎は武家姿。相方は粗末な百姓娘。この組み合わせが気に入らないのか、乱暴者が行く手を遮った。ちょっと冷やかそうと思った程度。
 しかし、信三郎は娘を守る気満々で、立ち向かってしまう。そっと横へ避ければよかったのだ。いくら無法者でも、旅人を宿場で襲うほどあくどくはない。それに旅籠の主人達が、それでは許さないだろう。だから本気ではなかった。
 信三郎は抜刀した。敵意丸出しのため、乱暴者達も受けて立つ気になる。彼らは脇差しを抜いた。その中に浪人者もおり、そちらは長刀。
 宿場の人達は、この侍が片付けてくれることを期待した。遠巻きで応援するつもりだ。
 四人ほどが一斉に切りかかったので、信三郎は堪らない。後退し、そのまま尻餅をついた。しかし、娘を守るため、這いながら娘の前に出て盾になった。
 四人は、また一斉に刀を振り回した。一人が軽く、刃先を振った。本気で切るつもりはないのだが、これは刃傷沙汰になる。
 信三郎は剣術の心得はあるが、四人がかりでは無理。太刀を団扇のように扇いでいるだけ。
「代わりましょうか」娘がそういうと同時に、信三郎の刀を取り上げ、無法者の中へ突っ込んだ。
 あとは一瞬の出来事で、無法者達はそれぞれ手傷を負ったのか、退散した。
 この娘、百姓姿だがさる藩の密使。ただの小娘ではなかった。
「最初に言ってよ」と信三郎はほっとしたとき、そうつぶやいた。
 
   了


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2018年05月05日

3615話 語るに落ちる


「語りたいことが若い頃は一杯あったのだがね」
「青年の主張ですね」
「感情が沸き立っていたんだろうねえ。しかし、今は語りたいことを探さないといけなくなった。そして語るようなこともないのに語っていることがある」
「ますます語らないといけないことが増えるのじゃありませんか。世の中色々見て見識も広くなり、多くの体験をされたのですから」
「最近は口が淋しい」
「お腹が減っているとか」
「いや、語るほど淋しくなる。言ったところで大した意味はない」
「しかし先生は昔から社会に対し、警笛を鳴らしていたじゃありませんか」
「父ちゃんのポーが聞こえるだ」
「はあ」
「あれはやはり元気だったからだろうねえ。そういうことを言ってみたかったんだよ」
「そうなんですか」
「社会に物申すなんて簡単だよ。実際に行動する方が遙かに難しい。そして一つの行動に出ると、他の行動には出られなくなる。体は一つだからね」
「大丈夫ですか。これ全て記事になりますが」
「そうだったね。録音していたんだ」
「はい。だからいつもの調子でお願いします」
「もう元気もないのに、芝居はしんどいよ」
「いっそのこと、そのことを記事にした方が面白いかもしれません。これは衝撃ですよ」
「え、皆さん、もう知っているでしょ」
「読者は分かりません」
「いや、気付いているはずだよ」
「そうですねえ」
「私の場合、役でね」
「厄」
「ああ、その厄でもあるので、疫病神のような役だよ。そういう役割を受け持つことが多い。だから語りたくて語っているんじゃないけど、語っているうちに本気になってきて、その気にはなるがね。実際には演じているんだよ。演説ってそんなものだろ」
「先生は怖い人で、近付きがたい人で、反骨の人で、他の人が言わないことでもしっかりと言う人です」
「だから、そういう役どころなんだよ。本当はそうじゃない」
「何か今日はおかしいですねえ」
「そうだね、もう年なので、本当のことをちょっと言いたかったんだろうね」
「それは墓場まで持っていくようなことじゃないのでしょうか」
「いや、そんな大層な問題じゃない。犬がケンケン吠えているようなものさ」
「今回は調子が悪いようですので、日を改めます」
「そうしてくれるか、今日はいくら喋っても記事にはならんだろ」
「はい」
 
   了



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2018年05月04日

3614話 国境越え


「間道ですかな」
「そうです領外へ出たいのです」
「間道をお探しとは関所が通れない事情が」
「色々と込み入ったわけがありまして、説明しますと……」
「いえ、結構です」
「教えていただけませんか」
「少しお待ちを」
 土地の爺は役人を連れて戻ってきた。旅人はすぐに捕獲された。通報すれば報酬がもらえるため、関所近くの村には、この手の爺が見張っているのだ。
「間道を探しているのですが」
 また一人の旅人が関所近くの村を訪れた。今度は歯抜け婆が相手した。
「間道はありますが。見張りがおります」
「そうですか」
「しかし、あの山を越すか回り込めば領外へ抜けられます」
「じゃ、適当に山を回り込めばいいのですね」
「間道は幾筋も出ていますが、見張りがいます。だから道になっていないところを通るのがよろしいかと」
「ケモノミチですね。それを教えてくれませんか」
「だから、道はありませんので教えようがありません」
「知っている方はおられませんか」
「猟師の庄助が詳しいです。もう年なので、狩りには出ておりませんが、あの山を何度も超えたと聞きます」
「じゃ、庄助さんを紹介してもらえますか」
 歯抜け婆のスースーした声は聞き取りにくかったが役に立ったので、礼金を払い、庄助老にも案内料を先払いし、山へと分け入った。
 ところが、この庄助というのは追い剥ぎの親玉で、山際のところで身ぐるみ剥がされ、金目の物を全て奪われた。
 次に脱出を試みた男は関所から遠く離れた村へ入り込み、そこから山を越えることにした。しかし、そこも有名な国抜けの通路で、一番奥まったところにあるのだが、それだけに目立つのだ。一番目立たない場所が、一番目だった。
 次の脱出者は国境の麓にある村で猟師見習いとして入り込み。一年後に無事山を越えた。何事も時間と手間暇が掛かるという話だが、急いでいるときはそうはいかないだろう。
 
   了



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2018年05月03日

3613話 本物志向


「本物とは何でしょう」
「本格的なものでしょうねえ」
「言い方が違うだけですねえ」
「対象の違いもあります」
「本物とは何でしょう」
「本当のものでしょうか」
「本当。それも言い方が違うだけで」
「まあ、格が違うということでしょ」
「格が高いと、あるところから、本物のレベルに達するのですか。それともやっていることが、そもそも違うのですか」
「まあ、上等なものです」
「格が高いから、上等」
「そうです。それと正統派でしょうねえ」
「異端では駄目だと」
「異端も正統派になることもありますよ。よく聞くでしょ、最初は邪道扱いだったのだが、いつの間にかそれが王道になり、主流になったとか」
「じゃ、本物とは何でしょう」
「本当のもの、正解のようなものです」
「しかし、世の中色々とありますよね。様々なやり方とかが」
「それがものになれば、本物でしょう」
「ものになるということは、使えるということですね」
「そうです」
「私は本格的なものに対してプレッシャーがありましてねえ。それを避けて、別の方法を探したり、風変わりなものや、変態、変種へと走りましたが、どれ一つものになりませんでした。それで最近本格的なものに戻ることにしたのですが」
「好きなようにしなさい」
「それで本物志向に目覚めたのですが、やはり本物はいいですねえ。本格的といいますか、定番中の定番は。やはり安定感があります」
「本物ですからね」
「本物の中にも偽物があるのでしょうねえ」
「あるでしょうねえ。数が多いと。しかし弱い目の本物で、間違ってはいません。本物の中でも格差がある程度」
「でも明らかに偽物がいるんじゃないのですか」
「偽物とは本物に似せたタイプですから、やはりこれも本物なのです。偽損ねているだけで」
「しかし本物や本格的というのは苦しいですなあ」
「だから離脱する人が多いのです。我慢が足りないのでしょ。それと力がなければ本物にはなれません。だから力がなくてもやっていけるものに走ったりするものです。これは悪いことじゃありませんがね」
「私は色々と寄り道をしましたが、これからは本物を目指します」
「それで、ここへ戻って来たのですか」
「そうです。また一からやり直します」
「しかしあなた、もうお年で先はありませんよ」
「いえ、本物の片鱗に触れるだけでも満足です」
「しかしあなたは邪道がお似合いだ。そちらの方が力があります。実は本物も崩れるのです。だから何が本物かなんて、時代によるのです。だからあなたは邪道を進みなさい」
「え、そうなんですか」
「正道も邪道もありません」
「あ、はい」
 
   了




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2018年05月02日

3612話 一本杉


「暖かくなると外に出やすくなると思っていたのですが、まだ寒いまだ寒いと思っているうちに今日などもう暑いほど」
「でも、ここまで出て来たじゃありませんか」
「あなたが呼び出すからでしょ」
「この木は家から遠いでしょ。道中、それなりにありますよ」
「そうです。私なりに遠出です。しかも体調が悪い上に暑い。季候はいいのですが、これじゃ暑すぎてもう夏バテですよ」
「この木は起点です。ここが出発点です。これからですよ歩くのは」
「いや、もうここから戻りの体力もないほど」
「これから森に入りますから、それほど暑くはありません。木陰が続いていますので」
「この木がある場所は知っていますが、何でしょうねえ。森から一本だけ飛び出して、町を見下ろしている」
「かなり昔から立っているようですよ。一本杉と土地の人は呼んでいるようです」
「かなりの樹齢だ」
「伐られずに残っているのは聖木のためでしょ」
「神木のようなものですな」
「神聖じゃなく、人です」
「人が宿っている木ですか」
「この辺りで昔小競り合いがありましてね、ここから里を襲ったのです。裏山から攻められたようなものです。奇襲です。ところが内通者がいましてね。里に知らせたのですよ。それで奇襲部隊のさらに背後に回り込んで奇襲部隊を奇襲したのです。殆どが矢でやられました」
「それと一本杉とはどんな関係ですかな」
「奇襲部隊の一人が里に知らせたわけですから、裏切り者でも、里からすると恩人。それで里で暮らすようになりましたが、どうも寝覚めが悪い。仲間は全滅ですからね。それで供養しました。それらは残っていませんが、杉の苗木を植えました。それが大きくなったのです」
「聖木とは、そのことですか」
「杉の木に奇襲部隊の魂が眠っているということです。だから、伐られないまま、残ったのです」
「昔を辿れば、色々とあるのですねえ」
「さあ、行きましょうか」
「はい、休憩したので、体力が戻りました」
「この先に奇襲部隊が所属していた山里があるのです。まあ山賊の砦のようなものでしょ。キャンプ場になってしまいましたが、それもなくなりました」
「はい。しかしそんな話よりも、木陰でも今日は暑いですなあ」
 
   了



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2018年05月01日

3611話 一人舞台


「毎日ここに来ているのですが、何か楽しいことはありませんか、いや、苦しいことでもよろしい、何かを習うというのは苦しいことでもありますが、やることがある。このやることがないのですよ。あなたのことは毎日見ていますが、いつも忙しそうにノートパソコンのキーを叩いておられる。そんなに熱中できることですか? 見れば私よりも若そうだが、既に退職した人でしょ」
 長いセリフだ。独白に近い。ナレーションかもしれない。
「何か楽しいことはありませんかな。一応この喫茶店に通うことが一日の仕事のようなものです。遠くはありません。自転車ですぐです。しかし来てもやることがない。新聞が置いてあるので、それを読みますがね。何の役にも立たない。社会のことが分かったりしても、もうあまり役立ちませんよ。昔はスポーツ新聞と経済新聞は必ず読んでいましたよ。野球と競馬、競艇に、競輪。これは職場で話題になりますからね。立ち回り先でもそうです。しかし、今はそんなもの知っていたからといって誰とも共有できません。だから、目を通すだけです」
 この人は一人芝居というか、誰もいないのに、そんなことを語っている。当然周囲に誰もいないときに限られる。客が入って来ると、セリフをやめる。
「家にいるときは本を読みます。ケチなので図書館で借ります。しかも何冊も。全部読めないので、そのまま返すこともあります。それをすると同じ本を何度も借りることになります。残念なのは一度読んだ本をまた借りてしまうことですね。読まないで返した本だと錯覚してね」
 ネタはいくらでも続くようだが、これは時間による。客が来ない間の時間、それが長いと、いつものネタの繰り返しではなく、その次のネタへと移る。これは非常に長い歌詞のようなもの。一番から五十番まであるような。しかし、毎回枕は同じ。それだけに語り方も洗練されいる。歌い込んだ曲のように。
「それであなたはパソコンで何をしておられるのですかな。ネットを見られているのですかな? 私も昔は職場でパソコンをやってましたよ。しかしウィルスに感染しましてねえ。それを元に戻すのに二ヶ月かかりました。同じことをもう一度やれと言われても、無理です。パソコンは怖いですよ」
 このあとスマートフォンに届いたメールを開け、入会費の請求を受けたとか、よくある話が続く。あとになるほどネタが弱くなり、本人も乗りが悪くなるようだ。
 
   了



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