2019年10月13日

3539話 ライブの前に


 宮内の町でライブをするのなら、しんさんに声をかければいいと聞いた。しんさんは有名人なので、聞けば何処にいるかすぐに分かるとも。
 しんさんは古いミュージシャンで、この世界では草分けに近いが、ヒット曲がなく、もう忘れられた存在だが、この業界では誰もが知っている。知らなければモグリ。だが、最近はモグリのミュージシャンが多く出てきたため、しんさんといってもピンとこない。ましてや地方にある聞いたこともないような宮内の町。
 柴田は全国ツアーで地方を回っているのだが、何度かに分けている。その中に、宮内が含まれているのだが、これは自分で決めた。宮内にライブハウスがあるので、庄内と駿河の間の町なので、ついでなので、そこも入れた。ただ、柴田は無名ではないものの、かなりの若手。
 それで宮内でやるのならしんさんと会ったほうがいいという話。やくざの縄張りではあるまい。
 しかし、やる前にしんさんに声をかけておくことを何度も念押しされた。
 そのしんさんの歌、レコードにもなっていない。ネットで調べてが、まったく引っかからない。そして今はもう歌っていないのだから、普通の人だろう。宮内が故郷なのかもしれない。
 噂では顔を繋いでおかないと、客が入らないらしい。ただ、ファンが多い人は別で、入りきれないだろう。しんさんに声をかけさえすれば、結構人を集めてくれるらしい。そのほとんどはしんさんと縁のある人達だが。やはり地元の強味かもしれない。そこに根を張っているのだから。
 柴田は二人でも三人でもいいと思っている。それほど有名ではないので、それは仕方がない。だから、無理にしんさんに頼んで、客を増やしてもらわなくてもいいような気がするが、宮内まで来てしんさんと会わなかったとなると、問題だという。どんな問題が起こるのだろう。
 しんさんは有名ではないが、その友人達は大御所になっている。凄い名前がずらりと並んでいる。顔が広いのだ。だからしんさんに挨拶しておくのはいいことだという話。後々何を言われるか分からないので。
 それで柴田は宮内の町に入ったとき、すぐにしんさんを探した。
 誰でも知っていると、久保田がいっていたので、通行人に聞いてみた。すると、すぐに分かった。
 教えられた家は、結構古くて立派な屋敷だった。ここが実家なのだろう。
 インターフォンを押すと若い子が出てきた。この家の子供だろうか。高校生だろう。
「しんさんいますか」
「ああ、ちょっと待って」
 そして出てきたのはお婆さんだった。
「しんさんですか」
「そうですが」
「間違いました」
 しかし確認しなくても、姿を見れば分かるだろう。どう見ても婆さんだ。
「あんた、探しているの、のぶさんじゃないかい」
「ああ、そうかもしれません」
 その信さんは四軒向こうにある酒屋にいるらしい。
 酒屋は既に廃業している。配達する人がいないためだろか。しかし自販機は並んでいるが。
 シャッターを叩くと、すぐに人が出てくる気配。
「はい」
「のぶさん、お願いします」
「ああ、おのぶさんだね」
「しんさんともいいませんか」
「おのぶさんです」
「おがつきますか」
「はい」
 ここではもう確認の必要はないだろう。しんさんはもうかなり年を取っているが男だ。
 おのぶさんというのは、この家の出戻りらしい。もう会う必要もないのだが、店舗跡に、フワッと姿を現した。
「何か」
「いえ、しんさんを探しているのですが」
「しんさん」
「男です」
「知らない」
 出戻りは小姑の顔を見る。
 小姑も知らないらしい。
 誰でも知っている有名人ではなかったようだ。
 久保田が大袈裟にいっただけなのだろう。
 そのあとも、しんさんを訪ね歩いたが、一人、やっとしんさんを教えてくれたが、子供だった。
 どうもしんさんというのは通り名で、愛称のようなものだろう。本名が「真」ということも考えられるが、真一とか、信太郎とか、その年代なら、そんな名かもしれない。しかし上の名字が分からないので、何ともならない。
 ライブハウスで聞けば一発だが、久保田によると、その前にしんさんと会えということ。これで、ライブハウス内での扱われ方が全く違うからと。
 しかし、業界内だけで通じる愛称では何ともならなかった。
 結局しんさんは見付からないままライブとなる。
 別に何の影響もなかった。
 後でライブハウスの人に聞くと、しんさんはその日聞きに来ていたらしいが、客の中に知り合いがいないので、途中で帰ったとか。
 宮内でしんさんに挨拶しなかったが、その後しんさんの祟りはない。
 
   了




posted by 川崎ゆきお at 11:49| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月12日

3538話 特殊な能力


 妙な子だと言われ、村の悪童に取り囲まれ、あわやとなったとき、カラスが飛んできた。見ると周囲の木々にカラスの群れ、明らかに襲ってくる勢い。
 また少し山に入った所で、熊と遭遇したのだが、怯えているのは熊で、飛んで逃げ去った。
 この少年、ある日村に来ていた高僧のもとに連れていかれた。変わった僧侶で、位は高いが、妙なことに興味を持ち、特にこの少年のような不思議な能力を見聞するのが好きなようだ。これは本道ではない。そのためか、今の位が限界のようで、人徳に少し難ありとされている。それでもかなりの高僧だ。
 高僧は少年の相を見て、将来世に頭角を現すであろうと予言した。ただの百姓の子供。時代は既に江戸時代中頃。大きく世が変わる動乱期ではない。
 村の悪童達はカラスに襲われそうになってから、もう近付かなくなった。ただ、一人だけ、どうしても懲らしめたいと思い、その少年と対決したことがある。今度はカラスは来なかったが、少年から出ている殺気に驚き、逃げ出した。別に目の色が変わったとかではなく、このまま取っ組み合いになれば殺されると直感したためだ。
 少年の家は土地持ちの農家で、所謂本百姓。小作人こそいないが、これで食べていける田畑を持っていた。長男である少年は、真面目に野良仕事を手伝った。もう悪童達もいい年になり、その少年に絡んでくることはなかった。ある年代になると、もう大人扱いになるためだ。
 つまり、この少年、普通の百姓の子として、その後もこの村で過ごし、やがて、家を継いだ。
 子供も生まれ、やがて孫もできた。
 彼は自分に特殊な能力があることを知っていたが、それを使うようなことはなかった。
 ただ、孫と遊んでいるとき、すっと鳥を呼び寄せたりする程度。
 潜在能力、それがいくらあっても使わないままのことがあるのだろう。
 小さい頃、お寺に来ていた偉い坊さんの予言も当たらなかったようだ。僧侶にその能力が無かったのだろう。
 彼はその後も世に頭角を現すことなく、一生を終えた。
 
   了



posted by 川崎ゆきお at 12:01| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月11日

3537話 すっきりさせる


「色々思うところがありまして」
「辞めるのかね」
「はい」
「何を思った」
「いえ、事情がありまして」
「それを思ったのか」
「はい」
「どんな事情かね」
「諸事情」
「だから、どんな事情なのかね」
「それは言えません」
「理由はそれだけかね」
「はい、一身上の事情でして」
「君だけの一方的な事情だね」
「そうです。僕だけの問題です」
「まあ、いいがね。去る者は追わずだ」
「ここがどうこうしたとかのことではありません」
「どうこうとは何かね」
「いえ、仕事関係ではなく、家庭の事情です」
「だから一身上の事情なんだね」
「そうです」
「分かった。手続きをしておこう」
「はい、有り難うございました」
「嬉しそうだね」
「いえいえ。苦しいです。折角慣れてきたところなのに、すぐに辞めてしまうのは心苦しいのですが」
「苦しくなさそうだけど」
「じゃ、これで」
「最後に」
「はい」
「一つ聞きたい」
「あ、はい」
「何か言いたいことがあるだろ」
「いえいえ滅相な、何もありません」
「そうか、じゃいい」
「失礼します」
「もう二度と会うこともあるまい」
「はい」
「すっきりしただろ」
「いえいえ」
「私はすっきりした」
 
   了




posted by 川崎ゆきお at 11:18| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月10日

3536話 片隅の人


 神田という人がその業界にいるが、存在感が薄い。それは若い頃からそうで、そういう人がいるということは当然認識されているが、ほとんど相手にされていない。目立たないのだ。影が薄いのだろう。それで神田ではなく、影田と呼ばれている。
 注目されるだけのものがなく、また大人しい性格で、口数も少なく、いつも隅っこにいる。つまり辺境の人だが、中原での人の入れ替わりが激しい中で、神田の存在も何の保証もないのだが、不思議と無事でいる。都ではなく田舎なので、影響が少ないのかもしれない。
 そして中心部での争いなどにはまったく関わらない。辺境に神田がいることは知られているが、役に立たないので、無視されていたのだろう。また、数に入れなくてもかまわない存在。
 その神田ももういい年になっていた。その間体制が何度も変わり、消えていった人も多い。神田は相変わらず業界の片隅でひっそりといる。いてもいなくてもいいような存在なのだが、それなりに業績を積んでいる。キャリアだけは長くなり、若手にとっては大先輩に当たる存在。だが、そんな人がいることさえ影の薄さからなかなか気付いてくれる人もいない。
 ある時期、大変動が起こり、体制派と反体制派の凄まじい闘争になり、共倒れした。
 さて、そこで出てくる。
 人がいないのだ。
 そういえば神田という大先輩が一人いたなあ、ということで、思い出してもらえた。
 神田はこの業界のトップとなった。
 人がいないのだ。
 神田には元々人を引っ張るような力はなく、リーダーの条件をほとんど持っていない。
 しかし、下の者の意見をよく聞く人なので、その温和な性格でか、結構丸く収まった。
 よく考えると、この業界、リーダーなどいらなかったのだ。
 
   了




posted by 川崎ゆきお at 11:48| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月09日

3535話 思い出の中の人


 過去は戻ってこない。と思うのは、思い当たることがあってからのことだろう。
 以前行ったことのある土地、町でも山でも場所でも建物でもいい。同じことがまたできるのなら、そうは思わないだろう。消えてなくなったものならもう二度と行けない。その場所までは行けても、目的とするものがなかったりするため。
 また人もそうだ。何年何十年も経つと、もう関係が消えたりし、その人が生きていても、もう二度と会えないとか、会ってはいけないとか、そういったことがある。状況が違っているためだ。
 当然以前行った旅行先。これはそっくりそのまま戻れるかもしれない。多少は変わっているにしても。しかし、そこへ行く気がもうなかったり、また旅行などしなくなっていたりすると、思い出の地へは行けない。物理的には行けるが、問題は本人が昔のままではないということ。これが一番大きい。その時代、その年の頃は再現できない。
 そういうのは何かの拍子で思い出すことはあっても、以前ほどには鮮明には覚えていない。旅行から帰って来たあたりでは一部始終覚えている。車窓から見える山並みとか、離れた席に座っている人の話し声とか。会話のセリフ全ては無理だが。
 それが一年、数年になると、かなり間引かれてしまい、もっと年を重ねると、そういう所へ行った覚えはある程度にな。行ったことは覚えている程度。
 昨日のことを思い出そうとしても、結構忘れているのに、遙か彼方の過去のことになると、ほとんど記憶から消えているだろう。ただ、事実関係程度は何となく覚えている。
「思い出の中によく出てくる人なのですがね」
「はい、誰にでもいますよ。印象深い人が」
「ところが記憶にないのです」
「記憶にあるから思い出すのでしょ」
「はい、色々なところに出てきます」
「じゃ、記憶にあるじゃないですか」
「ところが、誰だか分からない」
「まあ、忘れることもありますよ」
「覚えていないのに忘れることもないでしょ」
「え、どういう意味ですか」
「思い出の中だけに出てくる人なのです」
「ほう」
「そんな人はいません。私の過去の中には」
「何と」
「当然名前も曖昧で、顔も曖昧です。しかし、よく知っている人なのですが、誰にも該当しないのです」
「それは夢の中での話ですか」
「違います。普通に昔のことを思い出したとき、色々な人が出てきますが、その中に混ざっているのです」
「何か、故障でしょ」
「そうなんですか」
「そうですよ」
「故障とは、また……」
「思い出というのは作られるものかもしれませんからね。その都度ね。だから、その再現装置が故障したのでしょ」
「いやいや、もっと神秘的で不思議な話ですよ。これは」
「何か影響ありますか」
「ありません。ただの回想ですから」
「じゃ、それでいいじゃありませんか」
「あ、はい」
 
   了




posted by 川崎ゆきお at 11:57| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月08日

3534話 菓子箱


「秋の初めの頃は体調が悪くてねえ」
「夏の終わりがけにも言ってましたよ」
「いや、夏の終わりと秋の初めじゃ違う。タイプがね。だから体調の悪さも違う」
「そういえば夏頃は何も言ってませんでしたね」
「安定してたからね、天気が。だから体調も安定していた」
「冬もそうですか」
「そうだ」
「じゃ、秋の終わり頃は」
「悪い」
「冬の始まり頃は」
「悪い」
「秋の終わりと冬の始まりは同じじゃないのですか」
「これも違うのだよ」
「じゃ当然冬の終わり頃とか春の始まり頃とかも悪いのですね」
「そうだね」
「それは治るのですか」
「季節が深まればね」
「はい」
「それだけの話だ」
「そうですね」
「しかし、影響がある。体調が悪いときは静かにしている。だから生活は落ち着いている。だから悪い時期じゃない。体調は悪いがね」
「じゃ、体調が悪い方がいいと」
「それはいけない。特に秋の初めのだるさは何とも言えん。夏の終わりにはそれがないが、秋の初めは怠い。それと風邪の症状と似たものがある」
「はい。それは辛いでしょ」
「そこまで厳しくはない」
「はい」
「ところで今日は何かね」
「少し頼み事がありまして」
「さっきまで聞いていただろ」
「まだ話していませんが」
「いやいや、体調が悪いと言ってるんだ。頼まれごとなどできる状態じゃない」
「でも、簡単なことなので」
「うーむ。面倒なことはこの時期したくない。静かにしていたい」
「尻に火が点いています。助けてください」
「自分で消せ」
「何とかお願いします。ある人物を紹介して欲しいのです」
「消防の人か」
「違います」
「さっさと言え、回りくどい」
「西田さんを紹介してください」
「西田か」
「はい」
「必要なのか」
「西田さんなら助けてくれます」
「分かった」
「助かります」
「安い御用だが、あの人も体調を崩しておるはず」
「そうなんですか。どんな容体で」
「私と同じだ。秋の初め頃は体調を崩しておられるはず」
「じゃ、見舞いがてら、伺います」
「しかし、わしよりひどいぞ」
「そうなんですか」
「まあ迷惑な話だ」
「すみません」
「それに」
「はい」
「今日は頼み事をするのに、手ぶらかね。横の風呂敷包みは何だい」
「はいはい、これをどうぞ」
「何だ、菓子か。しかも包装もしていない」
「粗末なものなので」
「菓子箱だけは立派じゃなあ」
「はい」
「それに重いのう。水菓子か」
「いえいえ」
「甘い物か」
「え」
「だから甘い菓子か」
「それは、忘れました」
「しかし、重いのう」
「饅頭だと思います」
「あんこの重さか」
「はい、つまっていると」
「しかし、どんな菓子か分からんとさっき言っていたが」
「いえ、おそらく、そうだと」
「分かった。じゃ、西田へは電話しておく。それでいいな」
「はい、有り難うございました」
 
   了




posted by 川崎ゆきお at 11:37| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月07日

3533話 何でもないもの


 何でもないもの、これが一番扱いにくかったりする。特徴がないためだ。特に何かが飛び出しておらず、これといった引っかけどころがない。簡単で、たわいのないもので、ありふれている。これを意識的に扱うとき、掴み所がないのだ。
「世の中にはそういう面もありますねえ」
「ほとんどそうだったりしますよ」
「そうなんですが」
「ごくありふれたものなので、何処にでもあり、何処にでも転がっており、見飽きるほどありふれています。だから、逆に難しいのですよ」
「ほう。平凡すぎてですか」
「そうです」
「じゃ、平凡に扱えばいい。だから一番簡単で扱いやすいはずですよ」
「だから難しいのです」
「うむ、その理屈が分かりませんが」
「平坦すぎてメリハリがない」
「それが特徴でしょ」
「特徴と言えるものが少しでもあればそこを弄れますがね。それがない」
「ほう」
「だから、特徴が有り、非凡なもののほうが扱いやすい。ポイントがはっきりしていますからね。そこを弄ればいいのですよ」
「のっぺらぼうでは弄りようがないと」
「だから、ここからはかなりの技巧が必要なんです。一番扱いが難しいのでね」
「その場合、どうされるのですか」
「のっぺらぼうに目鼻を付けます」
「なるほど」
「扱う人によって顔が変わります。特徴がないのですからね、僅かな起伏を膨らませることになります」
「妙なことをされているのですね」
「平凡なもの、ありふれたものから価値を見出す。これをうまくできるようになれば、宝の山ですよ。ゴロゴロ素材が転がっていますからね」
「そんなうまい話があるのですか」
「いや、これは心がけの問題でしてね。元々何でもないものなので、何もないわけです。だから勝手に何かあるようなつもりでやるわけです」
「はあ」
「最初から難しそうなものは意外と簡単なのですよ」
「違いは何でしょう」
「違わないところを違えることです」
「もう分かりません」
「まあ、何でもないものを扱うのは超上級者でしかできません。なぜならどう扱っていいのか見当が付かないからですよ」
「難しいお話、有り難うございました」
「理解できましたか」
「できませんでした」
「簡単な話過ぎたようです」
 
   了






posted by 川崎ゆきお at 11:04| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月06日

3532話 不思議な話が残る村


 小倉村から先は辺境に入る。小倉村そのものも片田舎にあるのだが、それなりに平地がある。盆地だ。古くから開けていた場所なので、田舎だがそれなりの文化も育っている。ただ、中央から見れば草深い田舎。実際、草の丈は長いようだ。
 小倉村には様々な伝承があるが、その中でも怪異談が豊富。小倉村の先は何もない山々が続き、村落はない。ただ、僅かながらも平らな場所もあるのだが、敢えてそこには村を作らない。山の神の土地だと言われているためだが、奥山とはそんなものだ。そこから神が漏れてくるわけではないが、御山の入口あたりで色々な話が残っている。
 当然村内にも数え切れないほどの怖い話や、気味の悪い話、また妙な現象についての言い伝えもある。当然楽しい話、愉快な話もあるにはある。要するにそういった昔話の宝庫。だから怪異談の数も多い。決して怪異談だけが伝わっている村ではない。
 ここを調査した人は結構いる。ほとんどが口承で、口から口へ耳から耳へ、それをまた誰かに伝えるというもの。
 当然書き留めた人もいるが、数は少なく、口承のほうが圧倒的に多い。
 最近になって、一人の研究家が、そこを訪れた。既に調査され尽くし、聞き取りなどはもう既に終わっており、それを聞いたとしても、既に初めて聞く話ではない。
 本田というその学者は、いつ頃からの話が多いかを調べた。すると平安時代までは遡らないようで、鎌倉時代の中頃からの話が多い。当然この村の歴史は古いので、さらに昔の話も伝わっているはずだが、それはない。
 さて、細かい話は抜いて、本田が調べた結果を話そう。
 鎌倉時代に入るまで、このあたりは中央とは切れていた。その頃流れてきた人がいる。流浪の語り部らしく、琵琶法師のようなもの。ただ、楽器は使えない。だから一席設けて、そこで話して金銭を得ていた。勧進坊主のようなもの。
 怪異談のほとんどは、この男の創作らしい。本田が調べたのは、この男の消息だが、ほとんど分かっていない。
 この男の話を聞いた村人が、他の村人に伝えだした。不思議な話なので、人に喋りたくなったため。
 そこには山の神や鬼や、河童や狸や、馴染み深いものが登場してくる。
 先に話ありきで、フィクションが先なのだ。
 それを村人から村人へ、そして、その子から孫へと話しているうちに、フィクションであることを忘れたのだろう。
 その後、そういう異変がよく起こり、不思議な現象、山から天狗が下りてきたとか。川で河童を見たとかが続いた。
 河童が先にいるのではなく、河童の話が先にあるのだ。それから河童が出るようになった。
 本田は鎌倉の中頃に来たその漂泊者を調べたが、手掛かりは何もない。あるのは、そういう人が村に来て、不思議な話を聞かせてくれた程度のもので、これは書きもので残っている。しかし、その後まったく忘れ去られた。
 こいつが原作者なのだ。
 その後、本物の異変が起こり、妖怪変化がうじゃうじゃいる地方になった。
 これこそ不思議な話だ。
 
   了
 


posted by 川崎ゆきお at 12:03| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月05日

3531話 腹八分


「腹八分がいい」
「また、急に何を言い出すのですか」
「茶碗がある」
「はい」
「それに富士山じゃないが八合目あたりで止める」
「八割ということですか」
「まあ80パーセントということじゃ」
「茶碗の大きさにもよりますが」
「細かいことはいい。八分で止める。ましてや山盛りは駄目」
「てんこ盛りですね」
「それは亡くなったときに備えるご飯で、これは縁起が悪い。それに箸をご飯の上からグサリと刺すとなると最悪。墓じゃないか」
「箸墓ですねえ」
「まあ、そういう話じゃない。ほどほどにしておけということだろう」
「それが最近の好みなのですか」
「やや不足している程度がいい」
「でもその不足分、すぐに手に入るのでしょ」
「それを控える」
「満腹じゃ駄目ですか」
「満ち足りてしまうとね」
「満ちないほうがいいと」
「そうじゃな。まだ余裕を残しておる状態。しかし、やればできるのだが、しない。満腹ではそこで終わってしまう」
「もの凄くよく聞く話ですが」
「分かっていてもできない」
「腹八分目はどのような境地ですか」
「やればできるのだが、しない」
「駄目じゃないですか」
「そうだな。何か手を抜いているように聞こえるが、そこが際どいところでな」
「はい」
「寸止めの余韻」
「また、ややこしいことを言い出しましたねえ」
「ややこしくはない」
「村八分などはどうです」
「あれは村人としての付き合いは八分は駄目。しかし二分はできる。葬式とかには出られる」
「じゃ、腹八分とはまた違うわけですね」
「腹二分になるからな」
「そうですねえ」
「二分じゃ食べたことにならない」
「今回はどういうところから、思い付かれたのですか」
「わしの話は全部思い付きか」
「そうじゃなく、急に言われるので、何かあったのかと思いまして」
「控え目の良さのようなものを体験したのじゃ」
「師匠ほどの人が、今頃そんなことを」
「立派な師匠なら、こんなところで、ゴチャゴチャ垂れてはおらん」
「はい」
「控えるというのは少しだけ欲を抑えることでな。全部じゃない。少しだけ。これがいい」
「はい」
「腹八分なら空腹ではないはず。だから支障はない。我慢とかではないはず。少し物足りないかなと思う程度だが、美味しおかずがあればもっと食べたいと思うが、普段の飯はそんないいものではないはず。さっさと済ませたいときも多い。食べるのも疲れるのでな」
「それだけですか」
「いかんか」
「それだけでは物足りません」
「だから腹八分にしなさいと言っておる」
 
   了



posted by 川崎ゆきお at 10:58| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月04日

3530話 隅の埃


 何の事務所かは分からないが、個人事務所。だから小さい。建物も古い。場所もオフィス街から離れている。町名一つで安くなる。
「何かありますか」
 訪問者が聞く。
 仕切りが一つあり、そこに接客用のテーブルがある。
「何もありませんねえ」
「ありませんか」
「まあ、無理に探せばあるにはありますがね」
「ほう、どのような」
 訪問者は身体を乗り出す。
「部屋の角に埃が溜まりましてねえ。既に綿ぶく状態です」
 訪問者は事務所の角を見るが、どの角も物が置かれている。
「ここじゃありません」
「分かっています。冗談です」
「これが気になってましてねえ。さっと箒で掃けば済むこと。しかし、その行為には至らない。何故だと思います」
「さあ」
「少し綺麗になるだけです。まあ、普通になるだけで、綺麗さが新たに加わるわけじゃないですが、この隅は板の間でしてね。いい木を使っているので、磨けば光るかもしれません」
「何かあるとはそのことですか」
「いや、その程度のことじゃ何ともならないでしょ。ただの掃除ですよ」
「私に掃除を依頼したいと」
「何かないかといわれたのでね。その程度しかないということですよ。頼めますか」
「分かりました。引き受けましょう」
「わざわざあなたが出るほどの用事ではないでしょ」
「他に何もないので」
「そうですか。じゃ。お願いします」
「その部屋の角の埃だけでいいのですね」
「そうです。そこだけです。そこに溜まりやすいのです」
 訪問者は地図を書いてもらい、鍵を預かった。
 場所は郊外。住宅地。
 地図にある建物を見付け、玄関口に預かった鍵を差し込むと、カチッと開いた。
 そして、建物に入り、教えれた部屋に入る。二畳ほどの板の間。その隅は一箇所。
 確かに埃が溜まっていた。
 そのまんまの依頼だった。
 
   了




posted by 川崎ゆきお at 11:08| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする