2018年10月31日

3792話 壇空と護菩天


 壇空という山伏か祈祷師か修験者か行者か何かよく分からない術者がいる。一見したところ修験者、背中に箱のようなものを背負っている。この箱だけでも重いだろうが、意外と軽い。桐のためだろう。漆塗りで、濡れても何とかなる。ペンキを塗っているようなもの。
 元は僧侶。小さな寺の息子だが、親子揃って人徳がない。そのためか、檀家が減り続け、いなくなった。それで寺を捨て、山野に入った。昔は里で都合が悪くなると、山に逃げ込んだりしたらしい。
 檀家がいないので名を壇空と改め、山伏世界に入った。修験者がウロウロしている山があり、そのあたりに紛れ込めば何とかなった。
 それで修行すること十年。しかし、術は使えない。まあ、修行すれば呪術などが使える超能力者になれるわけではないが。
 仲間内に天狗のような顔をした年寄りがいる。ピノキオのように鼻が長い。その年寄りも嘘をつきたおして長くなったのかもしれない。これは謙虚さを忘れて天狗になるのとは違い、嘘をつきすぎたため。
 本人は護菩天と名乗っている。おでんなどに入っているゴボ天ではない。壇空はこの護菩天と知り合い、いろいろ術を教わる。いずれもインチキ臭いもので、ただのまやかし。
 ある日、この師匠と壇空は里に下り、居酒屋で酒を飲んでいた。
 里のものが、この二人の風貌を見て、駆けつけた。助けて欲しいと。
 居酒屋のある場所は里では目抜き通り、一番人が多い場所。だからこれは目立つ場所に敢えているわけだ。ここは護菩天の悪知恵。早速引っかかってきた。
 悪いものが家の中にいるようで、それを退治してくれとの依頼。家鳴りが激しく、物が動いたりする。亡者が棲み着いているらしい。
 里の僧侶に頼んだが、念仏では効かないので、祈祷ができる人に頼めと言われたらしい。
 しかも、今ここに二人もいる。
 護菩天はあらかじめ怪異を仕込んでから追い祓うのを常習としていたが、今回はタネも仕掛けもない。
 どうするか、と護菩天は壇空に聞いた。つまりやめた方がいいわけだが、壇空はやる気があるらしい。まだそんなことは初めてなので、やってみたいのだろう。その手順はしっかりと弟子に教えているのだが、そんなものが効くわけがない。
「やりましょう。師匠」
 依頼者の前で、そう言ってしまったのだから、もう引けない。
 護菩天はそのときから言い逃れや、逃げ方を考え出した。
 その家は里でも大きな家の別宅。少し淋しいところに建っているので、妾でも囲っていたのだろう。今ではお化け屋敷。
 護菩天も壇空も霊は見えないし、霊も感じないタイプ。つまり霊感者でも霊能者でもない。元々修験とは自分のためにやることなので、祈祷などはおまけのようなもの。
 そして別宅の門を区切り、玄関戸を開いたとき、護菩天が叫び声を上げた。つられて壇空も大声を上げてしまう。壇空は師匠の声に驚いての大声。
「こりゃいかん。ウジャウジャ。ウジャウジャおりまする。わしら二人では何ともならん」
 これが護菩天が考えた逃げ口上。これはマニュアル化されており、逃げ方の一つ。
「私が確かめて参ります」
「余計なことを」と師匠は小声でたしなめるが、壇空は師匠から習った術を使いたくて仕方がない。
 そして屋敷内を練り歩き、瓢箪に入っている水。これは聖水のようなものだが、それを口に含み、アイロン掛けでもするかのように霧のように吹いた。この霧吹きはかなり練習したので、上手いものだ。
 そして、金剛杖の先に縄を取り付ける。縄には紙が何枚も垂れ下がっている。チリハライのようなもので、憑き物祓いの道具。
 さらに杖には鈴が仕込まれており、祓うときに鳴る。口から霧を吹きながら、屋敷内を駆け回った。
 体力の続く限り、動き回り、汗だくになり、その場で倒れた。
「大丈夫か弟子よ」
「少し張り切りすぎたようでございます」
「無理はするな」
「はい」
「さあ、もう終わった。帰ろう帰ろう」
 二人は宿屋に戻った。
 二日ほどして、依頼者が宿屋まで訪ねてきた。
「これはお礼でございます」
 依頼者が来たとき、逃げようとしていたのだが、意外な言葉。
「毎日家鳴りがし、怪しいことが起こるのに、あれから二日ほどピタリとやみました。これはほんのお礼です」
「そうですか」壇空は喜んだ。
「そんなはずはなかろう」と師匠の護菩天は呟いた。
 宿代も危なかったのだが、これで助かった。
 壇空の熱演に驚き、鎮まったのかもしれない。
「世の中には不思議なことがあるものじゃ」と、護菩天は渋い声で締め括った。
 
   了
 
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2018年10月30日

3791話 知恵


「知識と知恵とは違うものですね」
「そうですなあ」
「知識ではなく、知恵が必要だと言われたのですが、どうすれば知恵が身につきますか」
「知恵というのは知識のように蓄えたものじゃない。その場ですっと出すことだよ」
「出す」
「そう
「何を」
「だから知恵をだよ」
「はいはい」
「しかし知識が多いと知恵も出しやすいかもしれんが、これもまあ良し悪しじゃな」
「引き出しが多いほどアイデアもよく出るのではないでしょうか」
「引き出しの中には知識がいろいろ詰まっておる。知識と知識を掛け合わせても知識のまま。知恵とはまた違う」
「じゃ、知識がなくても知恵は出ますか」
「出る」
「何処から」
「自然とな」
「自然に湧き出る泉のようにですか」
「さあなあ」
「はっきりしませんねえ」
「知識は過去のこと。既にあったこと。またこれから起ころうとしていることを予測できるかもしれん。天気予報のようにな。既にあることに関しては詳しい。しかし、未知に関しては、どうかな」
「はい」
「今、分かって、頷いたのかね」
「いえ、ただの相槌です」
「知恵は働かすもの」
「知恵を働かすとか言いますねえ」
「知識を働かすとは言わんじゃろ」
「でも知識を使うとは言いますよ」
「今までにあった道具のようなものを使うという意味じゃ」
「では知識がなくても知恵は出るのですね」
「知識のない人などおらんだろ」
「あ、そうですねえ」
「より多くのことを知っておる物知りと比べれば少ないだろうが、知識に引っ張られたりしにくい」
「微妙ですねえ」
「予測できすぎるのじゃろう」
「では知恵は勝手に湧き出るものですか」
「さあなあ」
「頼りないですねえ」
「そうか」
「教養というのはどのポジションになりますか。知識よりは上だと思いますが」
「知識と変わらん。教養を身に付けるとか言うだろ。しかし、知恵は身につかん。そんな知恵を身に付けておると知恵の邪魔。知恵は発動するもの。その違いで教養の上じゃが、比べてはいけない。知識も教養も既成のものとしてある。記憶としてな。しかし知恵にはそれがない。あると知識や教養に縛られる」
「悪知恵を働かすと言うでしょ」
「悪い奴ほど知恵がある」
「はあ」
「私も師匠のような知恵者になりたいのですが、何をどう修行すれば、そうなれるのですか」
「わしは知恵者じゃない。愚者じゃ」
「ああ、愚者では困ります。賢者になりたいと思います」
「まあ、そんなことで知恵を使う必要もなかろう」
「分かりました。知恵とは悪知恵のことなのですね」
「だから悪者になることはなかろう。君は悪者になりたいかね」
「なりたくありません」
「じゃ、知恵がどうのと思わないことだな」
「私の少ない知識からでも分かりますが、悪知恵が働くやつは天性のものです」
「だから、知恵には手を出すでない」
「はい、分かりました」
 
   了



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2018年10月29日

3790話 長い語りに入る


「そして、放置したまま何年も経っているのだが、たまに行くことがある。家賃も光熱費も自動落としなので、そこにいなくてもいい。そこを出たときと同じままの部屋。ある日、突然人だけが消えたような。作り置きの煮物の鍋は、流石に捨てたがね。生ゴミは出して出たので、匂うものはない」
「その話、まだ続きますか。あとどれぐらいで終わります」
「これは導入部でね。あと五時間、見ておいて下さい」
「じゃ、分けて話して頂けますか。他の人は聞いているだけなので」
「じゃ、私の持ち時間はどれぐらいかな」
「決まっていませんが、まあ、空気で分かるでしょ。数分かと思います」
「数分、じゃ、十分以内」
「まあ、そんなところでしょ」
 もう一人の客が「続きを聞きたい」と言いだした。他の客もそうだ。
 高梨は続きを話すことにしたが、長丁場になる。やはり何処かで切らないといけないだろう。
「その部屋は今もありますか」一人が質問する。
 ああそうか、問答形式でやればいいのかと、高梨は、それに従った。
「今もありますよ。鍵は持ち歩いていませんが、自転車で行ける距離にあります。前を通ることもよくありますよ」
「アパートですね」
「文化住宅です」
「使っていないのなら、借りるのをやめた方がいいのではないでしょうか」
「ついつい解約が面倒だし、荷物もあるし、それに片付けないと引っ越せませんし、まあ、使うつもりで、まだ借りているのです」
「もったいないですねえ」
「いや、安いですしね。それにたまに中に入ることがあります。これは特別な日です。ちょっと原点に戻りたいときなどにね。あの部屋に戻ればあの頃に戻りますから。読みかけていた雑誌とかも、そのままあります。冷蔵庫は空ですよ。でも電気は切っていません。ガスも」
「その部屋には特別な話があるのですか」
「だから五時間はかかります」
「何か怪異とか事件とかですか」
「そんなものはありません」
「じゃ、五時間もかかる話とは何ですか」
「初心の頃の話をやるため。五時間以上掛かります。いや、これは話が尽きないほどです。まだ若くて貧乏だった頃のいろいろな話。その証拠の品なども、まだ部屋の中にあります」
「まさか、死体を」
「だから、事件性はまったくありません。若かりし頃の思い出の玉手箱装置のようなものですよ。家具、箪笥。椅子。テーブル。作業机。それをどこで拾ったり買ったり、どんな感じで使っていたか。それらは全て青春の思い出に繋がります。だからそこんところを話し出すと長くなるということです」
「はい、分かりました」
「では、続けます。友人の友人が引っ越しましてね。結婚するとかで、そのときベッドがありました。まだ新しい。それを捨てるのはもったいない。それで私のところにやってきたのです。このベッドはですねえ」
「ああ、もう時間ですが」
「そうですか。質疑応答式でいけそうな」
「もう。皆さん帰る時間なので」
「あ、そう。じゃ、続きはまた後日」
 その後日の集い。もう誰も来なかった。語り部の高梨も行かなかったので、誰も集まっていなかったということを知る人は誰もいないのだが。
 
   了



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2018年10月28日

3789話 陽の当たる場所


 陽射しで液晶が見えにくい。島田はバックライトを最大にまで上げる。これでノートパソコンの文字が見えるようになったが、まだ真っ白。何も書いていないためだ。
 その喫茶店では、こういうのはたまにある。しかし南側の隅に限られている。このテーブルだけ直射日光が来る。硝子窓。上から下までガラス。日除けやカーテンはない。
 こういうのは年に何度もあるのだが、その日の島田は陽射しを意識した。夏が過ぎてからかなり経つが、暑いと感じることは希。それが徐々に減っていく季節。寒いと感じる方が多い。しかし、まだ冬ではないので小春日和とまではいかない。暑いのだ。まるで温室のよう。半袖で充分なほど。
 島田は陽の当たる場所から離れて久しい。復帰する気はあるが、どうもこの陽射しが眠い。本物の陽射しのためだろう。逆に頭がぼんやりとしてきて、このまま白昼夢でも見ているほうが似合う。
 しかし、雲が多いのか、しばらくすると陽射しが消え、フラットになる。スポットライトを浴びるのは僅かな時間。しかし、陽の当たるところをずっと歩いている人はいる。何処かでかげることは確かだが、島田の場合、それが平均寿命のように、平均的な年齢で、それが終わり、幕を下ろした。
 それからが長いので、全盛期の頃は遠い昔の話で、それが同一人物とは思えないほど乖離していた。つまり現実の過去だとは思えないほど離れすぎたのだろう。その繋がりが切れたように。
 それで以前のことなど忘れたように、また陽の当たるところに出ようとしている。これは植物が太陽に枝葉を向けるのと同じかもしれない。
 陽の当たる場所。それは舞台の板の上。そこに立つ方が、陽の当たらない奈落へ向かうよりも楽なのだ。窮屈なところを通って下りないといけない。
 というようなことを陽射しを受けながら、一瞬思ったのだが、陽が隠れると、そんなことを思っていたことそのことが白昼夢に近い。
 そして、いつものようにノートパソコンの白紙画面に向かい、昨日見たテレビドラマの感想を書いた。既に業界の人ではなく、ただの視聴者として。
 そのとき、また陽射しが戻り、直射日光が先ほどより強烈で、また何も見えなくなった。
  
   了



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2018年10月27日

3788話 妖怪は見えない


「幽霊が見える人は聞きますが、妖怪が見える人はあまり聞きませんねえ。どうしてでしょう。博士」
「君は小学生か」
「いえ、プロです」
 妖怪博士付きの編集者が疑問を打ち明けた。そういうものは打ち明けるとかの問題ではない。ずっと内に秘めた事柄のような重要事ではないためだろう。しかし、たまには小学生のような質問をしたくなる。だが、そういった低次元の謎ほど、本当はよく分からない謎で、基本的なことほど解明していなかったりする。
「ダイヤルが違うからじゃ」
「つまり幽霊放送と、妖怪放送があるわけですね」
「たとえ話に真実はない。ニュアンスだけ聞き取ればいい」
「それ以上の奥はありませんか」
「それは君の質問かね」
「いえ、小学生から受けた質問です」
 この出版社、ネット上で掲示板を持っている。SNSといわれる以前の、古そうなデザインのサイトだ。
「幽霊には元があるが妖怪には元がない。幽霊は人間じゃが、妖怪は動物が多い。まあ、植物や物が化けたものもあるし、場所そのものが化けておる場合もあるがな」
「はい、入りましたね」
「何処に」
「妖怪博士モードに」
「余計なことを」
「幽霊は原型とあまり変わらん姿をしておる。人型で出た場合じゃがな。だから分かりやすい。ところが妖怪は元があるにしても化けすぎて原型が分からぬ。それに姿がユニークすぎる。そういうのは人が認識する原型のようなものがないので、見えんのじゃよ」
「認識する原型って、何ですか」
「まあ、パターン認識のようなもの。その雛形のようなものを使うんだろうね。妖怪は見えんが、妖怪画はある。書くには見えんと書けん。実物は無理なので頭の中でイメージ化する。そのときパターン認識のようなもので、動物を組み合わせたようなものを捏造するわけじゃ。聞こえが悪ければ、合成。合体じゃな。これは妖怪に限らず。神獣などがそうじゃな。あれは広い意味での妖怪に近い。この世に存在しない動物なのでな」
「博士、それ、難しいので小学生には」
「私も分かっておって話してるんじゃない。論理的な説明といっても、別の論理の雛形を当てはめておるだけ。それに分かりやすい説明は、考える力を奪う」
「余計に分かりにくい説明です」
「幽霊は個人。しかし妖怪は誰じゃ。汎用性が高い。傘化けとかを見なさい。閉じた番傘から一本足が出ておる。そして生腕が。あれで歩くとなると、歩けんじゃろ。飛ぶしかない。ケンケンじゃ。そして誰だか特定できん。豆腐小僧を見なさい。小僧はいくらでもおる。どこそこの誰という子供じゃない」
「子泣き爺もそうですね」
「何処の爺さんなのか分からん。名前もない」
「はい。それで霊能者でも見えないわけですか」
「さあ、私の知り合いに幽霊博士がおる。彼に聞いた方が早いが、幽霊は念を送ってくる。人だからな。だから、周波数が同じ。よって人間的な怖さがある。動植物の心はよく分からんが、人間の心理なら読める。まあ、犬猫にも心はあるし、ある程度読める。だから犬猫の幽霊は見える。しかし、それが妖怪となると、元は動物でも、一般化しすぎる。犬や猫の幽霊は人と同じで、何処の犬猫か分かる。名前もあるじゃろう。犬猫一般ではなく。特定できぬ犬猫一般は汎用性がある。妖怪もそうじゃ。そのため個人の念とか、個人の思いとはまた違う。汎用性を上げると自然一般になる。そうなると精霊」
「余計に難しくなりました」
「まあ、君が分かりやすい言葉でその掲示板とやらで説明しなさい」
「分かりました」
「博士は幽霊は見えなかったですね」
「ああ、幽霊は見えん。それが何か」
「じゃ、妖怪はどうですか。妖怪博士でしょ」
「見えんが形を得ることはできる」
「じゃ、妖怪の出る場所へ行けば、妖怪が見えるわけですね」
「さあなあ、見えたといえば見えた。見えなかったといえば見えなかった。その程度じゃ」
「はい、お大事に」
「何を大事にするんじゃ」
「いえいえ」
 
   了



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2018年10月26日

3787話 慣れ疲れ


 思っているものよりも、思わぬものとの遭遇の方がインパクトが強い。これは悪いことなら災難だが、いいことなら新鮮。
 思ってもいなかったことなどそれほど多くはない。それなりに知っていたりする。既知だが詳しくは知らないし、また興味はあっても近付かなかったりする。
 情報としては知っているがタイミングが合わないのか、相性が悪いのか、無視していたようなもの。だから思っているものの外にいる。内に入り込まないのは、何らかの事情があるのだろう。これは自分には合わないとか、少し世界が違うとか。
 しかし、あることを思っているときや、考えているとき、ふっと入り込むことがある。思っていることとは違うこと。だから思っていないことが。
 思っていないことなので、思い浮かべることはないはず。しかし意識に上らないだけで、その存在は知っていたりする。無意識ではなく、意識内に並んでいるが、そこは暗くなっている。敢えて意識しないだけ。
 だが、今思っていることが上手く行かないとか、何となく息詰まったり、飽きたり、不満が多いとき、その思っても見なかったものが現れる。思いの中に入れていないもの、枠外。自分の外にあるもの。そこから探すしかなくなった場合、思っても見なかった展開になるかもしれない。しかし、本当は思っていたことなのだ。知っているくせに、ということだろうか。
「要するに今度出る新製品の話ですな」
「そうです」
「馴染みのないメーカーだし、あまりよくは思っていない企業です」
「それはあなただけのことでしょ」
「そうなんですが、今回の新製品、これはその垣根を越えてもいいんじゃないと思うようになりました。ちょっと新鮮です」
「そうでしょ。世界を広げるいい機会です。馴染みがなくてもね」
「そこなんです。馴染み疲れました。それで新鮮に見えました」
「まあ、そこでも馴染めば、同じように馴染み疲れしますよ」
「こういうのを目先を変えるというのでしょうねえ」
「そうですねえ。目先が変わるだけの話で、実際には同じようなものですよ。慣れてくるとね」
「やはり馴染み疲れですか」
「そうです」
「思っても見なかった展開に走りたいだけかもしれません」
「そうです。しかし、たまにはそうやって動いた方がいいのです。自分の内側に取り込んだ世界ばかりじゃなくね」
「はい、有り難うございました。参考にします」
「参考」
「はい」
「じゃ、あまり役に立たないアドバイスということですな」
「いえいえ」
 
   了



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2018年10月25日

3786話 軽海樹海


「軽海峰はこの先ですか。真っ直ぐでいいですか」
 山道の分かれ道。どちらが本道なのかは幅で分かるのだが、武田はそこで休憩している人に聞いてみた。これは挨拶のようなものだろう。
「そうです。真っ直ぐです。右はジャングルですから、入らない方がいいですよ」
「ジャングル」
「密林です」
「樹海のような」
「それほど広くはない斜面や沢ですがね、迷いますから行かない方がいい」
 武田は気付かなかったのだが、軽海峰の海とは樹海のことかもしれない。軽いというのはライト。ちょっとした樹海。おそらく軽海峰の麓一帯を指すのだろう。
「行くなと言われると行きたくなります」
「止めはしませんがね」
「はい」
 武田は樹海という言葉が気に入った。しかしそのような濃い繁みは見えない。それにこの辺りの山の木は植林が多い。里から離れているが、ほとんどが植えられたもの。だから樹海がこんなところにあるとは思えない。森が海のように拡がっていないと樹海ではない。
 杉や檜が、この辺りには多い。樹海となると、自然林。そのためいろいろな樹木が生い茂っているはず。それなら遠くからでも分かるはず。まだ紅葉の季節には早いが、いろいろな樹木が生えているのなら、いろいろな色目になり、それで分かるというもの。
 先ほどのハイカーは休憩を終えたのか、本道の軽海峰の方へ向かった。
 武田も少し休憩するため、先ほどの人が座っていた岩に尻を置いた。多くの人が座ったのか、角に丸みがある。
 そして枝道の先をじっと見ているのだが、途中から下り坂になるようだ。沢へと続くのだろう。ここからはその沢は見えない。だから樹海も見えない。
 飴をなめながら一服していると、下からハイカーが来た。武田と同じような年代。しかし年下かもしれない。
「軽海峰はこっちですね」
「そうです。真っ直ぐです。この枝道は駄目ですよ。ジャングルに出ます」
「ジャングル」
「樹海です」
「あ、そう」
「入ると迷って出てこられないらしいです」
「ほほう」
「止めはしませんがね」
「はい、有り難うございます」
「行くなと言われると行きたくなるでしょ」
「はいはい」
 武田は腰を上げ、本道の軽海峰へ向かって歩きだした。
 軽海峰の頂上に立つと、見晴らしがいい。麓を見てもそんな樹海などない。
 麓から軽海峰中腹まで樹海が拡がっているらしいが、そんなものはない。
 ないのにある。それを軽海樹海と呼ばれるようになったが、あそこの枝道から入っても、当然それらしきものはないはず。
 だが、樹海が拡がり、出てこれなくなったという人が何人かいる。
 都市伝説ではないが、山岳伝説は昔から普通にあるようだ。
 
   了


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2018年10月24日

3785話 決められない人


「最近どうですか、どの方向へ行くか、決まりましたか。そうでないと進めないでしょ」
「まあ、すぐに決めなくても」
「結構長いですよ。立ち止まってから」
「いや、いろいろと考えている」
「考えすぎじゃないですか」
「決定するとね。それになってしまう。それが惜しい」
「はあ」
「四分六だ」
「じゃ、決まっているじゃないですか」
「気持ちの半分はそっちへ傾いているのだがね、半分に満たないが、四分は同意していない」
「しかし、それで体勢は決したのと同じでしょ」
「競い合えばそうなる。しかし競う合うようなことじゃない。どちらも私の中にある。その四分の反対が怖いわけじゃない。四分でも三分でも一分でもいい」
「四分六なのですから、迷う必要はありませんよ」
「しかし六分の方を実行すると、私はそういう人に見られてしまう。それが嫌なのだよ。それに六分の方を進めば、四分の分は無視する。まるで敵のようにね。そうしないと矛盾するから」
「一体何を恐れているのですか」
「六分を選んだ場合、私は四分を敵に回してしまう。しかし、私の中にも四分の要素がある。ここが苦しい。否定しているわけじゃないからね。四分もあるんだから」
「そんなことを考えていたのですか。それで動けないと」
「いや、決定したくない。結論の出ない問題なのでね」
「いつ頃決定しますか」
「これは決着が付かない」
「え」
「私はこんなことに合っていないから、君に譲るよ。決定権を」
「じゃ、先輩はどうされるのですか」
「降りる」
「優柔不断だとは聞いていましたが、凄いですねえ」
「何でもかんでも決めてしまってはいけないんだ」
「しかし、決めないと動けませんから」
「そうだね。私にはできない。だから、君がやりなさい。おそらく私の選択と同じでしょ」
「はい」
「じゃ、先輩はこれからどうするのです」
「さて、どうするか」
「それも決められないのでしょ」
「ああ、そうだね。やめてから考えよう」
 しかし、この先輩、やめてからもすぐにリーダーとして担ぎ上げられた。
 何も決められないリーダーだが、リーダーが決めない方が都合がよかったりするためだろう。
 
   了


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2018年10月23日

3785話 

里帰り
 引っ越して間もない佐々木は、その町をあまり知らない。しかし毎日のように散歩に出ているので、長く住んでいる人よりも詳しいかもしれない。近所の人も外から来た人で、地元の人ではない。そしてあまり見かけないので、近所をうろつく用事などないのだろう。たまに歩いている人もいるが、これも決まったコース。健康目的の年寄りが多いが、これも外から来た人。古老ではない。
 昔からの人がいる一帯がある。そこは古い家がまだ残っていたり、道も昔風で狭い。そして樹木も多いので、散歩にはもってこい。新建材ではなく、本物の木目のある板塀や、塗り壁。剥がれているところから藁が見え、竹組みが見えたりする。
 ある日、いつもの辻を回ったとき、あるべきものがない。ないのだから目立たない。消えたので目に入らないので、目立つも何もない。しかし、毎日通っていると印象が違うことで分かる。何かが抜けている。そして妙な空間がある。
 そこは祠のある場所。小さな祠。大きい目の箱のようなもの。それがなくなっており、土台だけが残っている。妙な印象は、そのためだ。
 これはすぐに分かった。祠のあった場所は少しだけ盛り土され、周囲は樹木、神社の隅にある祠ではなく、神社はもう少し離れている。だから誰かの庭かもしれない。
 取り壊し。それなら祠だけがなくなっているのはおかしい。周囲の樹木も抜いてしまうだろう。
 だから見た感じ、祠だけ、上物だけが消えたようなもの。
 まあ、どうなってしまったのかは佐々木には関係がないので、ちらっとそれを見ただけで通り過ぎた。次は神社へ向かう。これが散歩コースだ。
 すると前方に幟が見え、それが動いている。人が持っているのだ。数人だが揃いの緑色の派手な法被。さらに近付くと、祠だ。最初はお神輿かと思ったのはごちゃごちゃと飾られているため。しかしよく見ると本体はあの祠だ。それを担いでいる。
 ずっと住んでいる人なら驚かないだろうが、佐々木はそれを見るのは初めて。去年の今頃もやっていたのかもしれないが、散歩に出ない日もある。
 ということは祠と思っていたのは、お神輿だったのか。つまり、あそこはお神輿の置き場所。いや、そんなことはない。それなら屋根のある倉庫か何かに入れているだろう。箱のままでも棺桶のように運べそうだが、担いだり押したり引っ張ったりするには神輿を乗せる構造物がいるだろう。
 さらに近付くと、やはりあの祠だ。この祠、屋根は銅板を張り合わせたものなので、動かしても瓦のように落ちることがない。
 その祠、中は鏡しか入っていなかった。高山神社と書かれていたのを覚えている。何の神様かは分からない。
 それよりも、土台から抜いて、担いでいるのだ。担げるように、長い車輪のない大八車のようなものをその場で取り付けたのかもしれない。そして飾りも。これで山車らしくなる。
 そしてそのややこしいお神輿は神社へ向かっている。
 後で村史を調べると、高山神社は村の神社へ年に一度里帰りするとか。その行事なのだ。
 最初は村の神社に祭られていたのだが、仲が悪いらしく、同居できないので別居したとか。しかし繋がりの深い神同士なので、年に一度は義理で顔を出すとか。
 だからお神輿に見えていたが、そうではなく、祠を運んでいたのだ。
 
   了



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2018年10月22日

3784話 何もない日々


 日頃退屈なほど何もないような暮らしぶりの竹中だが、ここ最近出掛ける用事が増えた。それが重なったりする。すると何もないような真っ白なスケジュール表に書き込めるようになるのだが、何もない日が三十日続いていたのが、一つ加わることで、十日前後の連続性になる。何もないことが連続しているのだが、真っ白な連続では出来事が起こらないわけなので、果たして連続した出来事だと言えないかもしれない。出来事がないため。
 買い物などで少し遠くへ出掛けるとか、ちょっと長い目の散歩のため、遠出するとかは竹中はそれほど問題ではないようで、それらはフリー時間。フリーな日々の中にある。
 だから竹中にとってややこしいのは人と会う用事。不特定多数の第三者からの視点ではなく、知っている人からの視線が面倒。店員も客を読むが、その視線はあまり気にならない。それ以上の関係ではないため。集金に来た人もそうだ。
 ここ最近竹中は人と会うことが増えた。怖い相手ではないし、ややこしい人は知っている人でも合わないようにしている。
 それでそんな機会が多くなり、スケジュール帳が本当にいるほどになった。これはどうした風の吹き回しか、巡り合わせかは分からない。ただの偶然だろう。そのため、何もない日々の連続性が短くなった。それでも一週間や十日ほどは何もない日々となっているが、ゆっくり過ごせるのはあと数日かと思うと、それらの日々が貴重になる。
 しかし、出掛けていろいろなことをやっているとき、それはそれなりに楽しい。ここがよく分からない。楽しいのなら、そういう機会が多い方が好ましいはず。ところがそうでもないようで、何もない日々の連続性の中での退屈さ加減がいいようだ。これはいいも悪いもなく、大したことは起こらないのだから。
 この何も起こらないというのがいいのだろう。
 そして出掛けた翌日はほっとする。いつものフリーな時間の過ごし方ができるため。これは自由時間だが、それほど自由なことはしていない。何をしてもかまわないのだが、いつもの過ごし方を繰り返すだけ。自由はあるが使わない。それもまた自由だ。
 何もない退屈な日々がもの凄く長く続くと、発酵してくるものがある。
 同じことの繰り返しの中に違いが生まれる。こういう何もしていない状態が長く続かないとこれは見えてこない。
 悟りの境地とは、静かになることかもしれない。それには何もしないことがその近道。
 しかしそれではやはり退屈だろう。
 
 
 
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