2017年11月01日

3429話 ねじ式


 人は時により、何かにねじ込んでいくことがある。
 白木は昼食後、散歩に出ることを日課にしているが、今日は台風で出掛けるかどうか、迷っている。こんなものは考える必要はない。台風の風と雨ではのんびり散歩などしている場合ではないだろう。非常事態ではないが、散歩は似合わない。
 しかし白木の散歩とは喫茶店へ行くことで、そこまでの道を散歩コースとしていた。だから目的地があり、そのメインは喫茶店でコーヒーを飲むことだ。ただ、コーヒーが好きなわけではない。喫茶店という場が好きなのだろう。それと仕事の殆どは喫茶店でやっている。だから単なる散歩ではなく、出勤なのだ。そのため、その道中は通勤ということになる。
 台風なのに呑気に散歩などしている場合というより、これは大事なお勤めなのだ。
 部屋ではくつろぎ、仕事もするが、雑用のようなもの。部屋のパソコンよりも、ノートパソコンを使うことの方が多い。
 一昔前話題になったノマド。ただ住宅地の中の喫茶店を回るので、あまり都会的ではないし、いつも決まった店なので、放浪しているわけではない。固定したノマドだ。
 しかし、この風ではいつもの店へは行けない。それなりに遠い。そこは昼食後に行く店で、これは固定している。昼はこの店でないと落ち着かない。そういう癖が付いている。ところが風雨は並ではなく、傘を立てるだけでも一杯一杯。これでは流石に行けない。
 そういう日のために、すぐ近くにある喫茶店を取ってある。これは普段行かない。値段が高いのが理由だ。日に何軒も入るので、高い店は無理。
 しかし、台風の日は別。そのために近いのに行かないで取っておいた。
 白木はどの程度の風雨なら自転車に乗れるかを知っている。風の音が高音だと、これはもう外には出られない。
 余程きつければ引き返すつもりで、近所の店へ向かったのだが、意外と風が強い。向かい風で傘を盾のように構えるので余計にペダルが重い。それといきなり風向きが変わり、傘の内側に風が入り込む。これは危険な状態で、それを片手で支えるのだが、指が痛い。強く握りすぎると引きちぎられるような感覚になる。そして前方が見えない。
 たまに確認のため、傘のお辞儀をやめるが、目の前に車がいたりする。通過するまで待っていてくれたようだ。台風も怖いが車も怖い。それに自転車は自動車から見ると貧乏臭く見える。野ざらしに近い状態と、応接室から外を見ている状態の違いがある。
 店は近いといっても向かい風なのでなかなか到着しない。風を避けるため、住宅地の狭い道に入り込むと、家々の谷間に入るのか、風よけになる。少し遠回りになるが、走りやすい。
 その狭い道がさらに狭くなってきた。近所なので、この辺りはよく知っている場所。しかし日常的に毎日のように通っている場所ではない。近くても馴染みのない町内、用がない場所は、いくら近くてもそんなものだろう。
 やがて風が弱まり、雨も小雨になる。そんなわけがない。台風は近付いている。これなら通過したときの状態。台風は夜に通過するはず。いくらスピードが上がったとしても早すぎる。それにスピードの変化も予測しての予報なので、間違いは少ない。
 それは分かっているのだが、風雨が弱まり、穏やかになっていくのはいいことだ。これはおかしいとは思いながら、既に人がすれ違えないほどの細い路地、いや隙間のようなところを自転車で走っていた。もしかして、この狭さで風の影響を受けないのかと、それも考えたが、雨はやみかけているのは事実。それに台風のあの風の音がしなくなっている。
 やがて、自転車のハンドル幅では通れないほど狭くなり、その先を見ると、体を横にしないと通れない。
 こんな町が近くにあるはずはない。
 白木は訳の分からないまま、自転車を置き、その狭いところへ体をねじ込んでいった。
 
   了

posted by 川崎ゆきお at 10:48| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月31日

3428話 深更


 夜も更けてきた。もう深夜だろう。植村は時計でしかそれが分からない。日が暮れ、暗くなってからはずっと暗いまま。外からの明かりがお隣の窓明かりに変わる程度。それも消えているのだが、カーテンをしているためか、それも見えない。夏なら分かりやすいのだが。
 この時刻、シンコウという妖怪が出るらしい。シンコウ、信仰ではなく、深更から来ているのだろう。夜更けのこと、深夜のことだ。
 夜は来る。だから毎晩来ているのだが、その夜ではなく、別の夜が来るようだ。そうでないと、わざわざそんな妖怪など気にすることはない。
 植村は妖怪辞典で調べたが、シンコウという妖怪などいない。ではなぜそんな妖怪名を知っているのか。それは妙な夜が来ているのに気付き、妖怪博士に相談したところ、それはシンコウの仕業だと言われた。近所に住む妙な人だが、妖怪研究家と聞いている。もうこれだけでおかしな人で、まともではない。まともな仕事ではないのだが、妙なときには頼りになる。世の中は普通とはまた違うものが結構あるためだ。寺社があるのもそれに近い。
 それで、シンコウとは何かと聞くと、別の夜の訪れだと説明してくれた。しかしそれ以上のことは知らないらしい。ただ、そんな現象があり、どんなものなのかは個人差がありすぎて、一概には言えないとか。分かっているのは、空気が変わり、いつもの夜ではないこと。そして、それが来るのは夜更かしをしたときらしい。これは未知の時間帯ではないものの、もう寝ている時間。しかし、途中で起きてトイレに立つこともあるので、ずっと寝ているわけではない。だから真夜中の時間帯は、それなりに経験している。だから、これはシンコウではない。夜に目を覚ますと毎回シンコウに出くわすことになる。
 シンコウは夜更かしになった時間帯に普通の夜から妙な夜への切り替えがあり、これがシンコウ。だから進行型のようだ。
 夜中、目が覚めたときはいきなりだが、シンコウは徐々にしか来ないらしい。夜の深まり、夜の底へとじわりじわりと入っていく状態だろうか。この過程を経ないとシンコウにはならないとか。これは妖怪博士からの説明ではなく、植村の体験から来ている。個人差があるというのは、そのことなのか、それが共通する入り方なのかは分からない。シンコウを体験した人など知らないためだ。
 シンコウが来ると目が冴え、別の次元に入る。本来なら眠くなり、目など冴えないし、もう寝支度以外のことはしたくなくなり、フェードアウトしていくものだが、この妖怪が来ると、これなら何かが始まるような空気が流れる。出発進行だ。だが、流れているが風はないし、気温も同じ。
 空気というのは、時のようなものでもあるのか、空間のようなものなのかは分からないが、先ず時間の概念が飛ぶのか、時計を気にしなくなる。短針がもう寝ないといけない角度になっていても、気にしないでそのまま起きている。
 風邪などを引き、風邪薬を飲んでぐっすり寝ようとしているとき、逆にその薬が裏目に出て、目が冴えに冴えることがある。それに近い。
 シンコウが来たときは、目が冴えるというよりも、焦点が定まらない。もう目の前のものなど見ていない。だから明快に見えるとか、頭がしっかりと働くとかの冴え方ではない。何か新雪を踏むような気持ちになるのだ。これがシンコウの世界。
 そして今夜、シンコウは来ない。夜は来るし夜更けは来るし深夜も来るが、あのシンコウは来ない。
 これは妖怪博士から御札を買って貼ったためだろう。この御札でシンコウが入り込むのを防げるかどうかは分からないと言われた。保証できないが、どうしますかと聞かれ、気休めのため、買った。
 だから、妖怪シンコウは気のせいだったのかもしれない。
 
   了

posted by 川崎ゆきお at 10:37| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月30日

3427話 豚まんと商談

豚まんと商談
「豚まんはあると」
 平沼は昼前に出掛け、戻る手前だ。まだ用事は残っている。商談中だ。
「豚まんは三つ入り。しかし小さい。パン屋の豚まんは小さい。これは一つじゃなく、二つ食べないと腹が減るだろう」
 というようなことを思いながら商談を続けている。
「レンジで温めるとカラカラになる。水を入れても似たようなもの。それに生地が硬くなることもある。やはり蒸し器で蒸すのがいいだろう」
「では、次回はこの続きを」
「あ、そう。これぐらいでいいの」
「はい、今日はここまでで、続きは後日」
「ああ、分かりました」
 先方が伝票を掴み、立ち上がったので、平沼も立つ。
「豚まんがある。昼はこれを食べればいい」
 当然、これは声を出して言っていない。
「じゃ、またお電話します」
「一つ残る」
「え、何か」
 思わず、声にしてしまったようだ。
「いや、何でもない」
「疑問な点がまだありますか」
「一つ残るんだがね」
「やはり、あるんですね」
「一つじゃ物足りない」
「え、疑問点が他にもまだもありますか」
 流石に豚まんの話はできないので、適当に誤魔化した。
「今日の昼は二つあるからいい。しかし明日の昼は一つだ。これをどうするか」これは声を出して言っていない。
「確かに一つ不備な点はあります。よく気付かれましたねえ」
「いやいや」
「そして、それは後々、問題を起こす可能性もありますが、それは何とかなる問題でして、足したり、または別のものをあてがうことで解決しますので、敢えて説明はしませんでした。不備を隠していたわけではありません。重大なことですが、解決する問題ですので」
 ここで話が合った。
「そうだね。足せばいいんだ。または別のものを用意するとか」
「そうです」
「納得できました」
「有り難うございます。まさかそこまで見ておられるとは思いませんでした。流石です」
「いやいや」
 さて、肝心の商談だが、これは適当に聞き流し、殆ど聞いていなかったのだ。どうせ何を言い出すかはもう分かっていたので。
「やはり一つで満足を得られる大きさのものにすべきだった」
 これも声には出していない。
 
   了

posted by 川崎ゆきお at 11:25| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月29日

3426話 至る


 これは将来伸びるだろうと思い、懸命にそれをやっていて、数年後、実はそれほどではなかったことがある。これは予定が狂う。そのために積み重ねた数々のことが無駄になるためだ。世の中には無駄なことなどないとはいわれているが、そのために使ったお金は帰らない。またその間の時間も戻らない。
 無理をして、そのとき買ったものが、もう役に立たないとなると何ともし難い。当然、その間、別のこともできたのだが、それを選ばなかったので、失敗すれば、その間、何もしていなかったのと同じになる。これは戻らないし、帰らない。
 時田にはそういうことが多い。そのため、継続的にずっとやっていることがないため、その道のベテランにもなれず、名刺の肩書きも淋しいもので、作らなくてもいいほど。
 しかし年を重ね、経験を積んでいるだけに、色々なことに通じている。これは遺産、財産のようになっているのだが、それは価値として測りにくい。
「何とかならんものかねえ」
 時田と似たようなタイプの平岡にぼやくのだが、これはもう解答は最初から分かっている。
「人生経験が豊富なので、それを活かして、何かをすれば」
「それはもう何度もしたよ。しかし、名刺がねえ。肩書きがねえ。大したものじゃないから、権威がない」
「そんなのいらないでしょ」
「そうなんだが、あなた何者って思われることが多いのだよ。そして、今まで何をしてきた人、と聞かれる。そんなとき、困る」
「どう答えています」
「一番メジャーなときのことを話す程度だけど、これもそれほど有名じゃない。説明しないといけないほどね」
「分かります」
「君はどうしてるの」
「もう年ですから、それなりのことをして、何とか暮らしていますよ。もう野心はありません」
「あ、そう。私より若いのにねえ」
「先輩はお元気だ。まだまだやれそうですよ」
「いや、私ももう老人だよ。今までの経験を活かすにしても、その期間はもう僅かだ。しかし、今まで何も成しえなかったからねえ。一つぐらいは何かをやった人として、終えたい。もう冒険はいいから」
「そこへ至りましたか」
「至りましたとも」
「僕など至らない人間なので、何処にも至りませんよ」
「それでね。何をしようかと考えている最中だが、何かないかね」
「あるわけないでしょ」
「昔は色々とアイデアを出したじゃないか」
「ああ、それは若気の至りです」
「至っていたか」
「はい」
「至れることがあるんだ」
「悪いことではいくらでも至れますよ。その逆が難しいのです」
「そうだね」
「至らない。それもまた、いい感じだよ」
「それで、今回は何を始めるわけですか」
「そうだね。そこへ至らなくても、そこへ向かう程度のことはしたい」
「はい、御達者で」
「うむ」
 
   了

posted by 川崎ゆきお at 10:46| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月27日

3425話 帽子の警告

帽子の警告
 室田は玄関の廊下に細く小さなテーブルのような棚を置いている。友人の引っ越しのときに貰ったものだ。丁度それぐらいの高さのテーブルが欲しかった。棚は二段で横板はない。一寸した仮置き場だ。
 タネも仕掛けもないマジックのテーブルのようなものだが、いつの間にか帽子置きになっていた。戻ったとき、すぐにそこに帽子を置く。そして出るときはその帽子を取りながら靴を履く。
 帽子置きにするつもりはなかったのだが、帽子を置くともう面積はそれで占めてしまうので、他の物が置けなくなる。だから非常に贅沢な帽子掛けのようなもの。掛けるのではなく、置くので帽子置きだろうか。
 その日、台風が接近していたのだが、室戸は出掛けることにした。風は弱く、雨は小雨。まだ遠いのだろう。その前に来た台風は近くを通過したのだが、それさえ分からないほど穏やかなものだった。それが頭の何処かにある。この程度なら大丈夫と。
 そして、いつものように出掛けようと、鞄を肩に引っかけ、帽子置きの前に来たのだが、帽子がない。戻ったとき、確かに被っていた。ここに置いたはずなので、あるはず。しかし探さなくても視野に入っている。下に落ちていた。
「ん」
 と、室田は験を担いだ。帽子が落ちた。地面ではないが板張りの廊下。風で帽子が飛んだというイメージではなく、転倒した絵が浮かんだ。
 帽子が消えることはある。これは帽子置き場ではなく、被ったまま部屋まで入り、その辺りにポイと置いた場合だ。置き場所が違うだけだが、しばらくは消えたようになり、見付からなかったりする。しかし、何処かで脱いだことは確かなので、分かりやすいところに置かれていたりする。しかし棚から帽子が落ちたことは今までない。
 一人暮らしなので、帽子を隠すような人間も動物もいない。
 玄関戸からの隙間風にしては、まだそんなに強い吹きではない。残るのはしっかりと置かなかったためだろう。それなら目の前で落ちるところが見える。だが、落ちかけのまましばらくは落ちないでそのままだった可能性もある。
 どちらにしても出掛けようとしているとき、帽子が落ちた。これはゲンクソが悪い。そう感じるのは台風が来ていることを知っているため。もしものことがある。
「この帽子のようになるぞ」と警告されたように感じたが、風雨はそれほどでもないので、帽子は飛ばないだろう。帽子だけが飛べば問題はないが、本体も一緒に飛ぶと大変だ。そのイメージが真っ先に来ていた。
「これはただの験担ぎだ」と室戸は、そう判断した。判断などする必要もないのだが、天気が天気だけに、出掛けない方がいいのかなと、少しは迷った。
 結局、室戸は玄関を開け、自転車に乗り、出掛けた。小雨だが、濡れるので傘を差し、路地道を進む。風がややあるが、これなら大丈夫だろう。
 しかし、大通りに出た瞬間、ものすごい突風を受け、バランスを崩した。風の通り道になっていたのだろう。
 バランスを取りながら帽子を押さえた。片手は傘を持っているので、傘を持つ手でハンドルを押さえる芸当だ。まだ、そんな余裕がある。
 強い風を受けたのは一瞬で、そのあとは問題はなかったが、用事を済ませ、戻るとき、風雨が強まっていた。予想外に早く来ていたのだろう。小枝がしなり、悲鳴のような声を発している。枝が路面に落ちているのを見て、これは傘など差せる状態ではないと覚悟し、濡れながら走った。やはり、帽子が知らせてくれたことは正しかったのだ。しかし、それが正しいとすれば、何処かで帽子が落ちるはず。帽子だけではなく、本体も。
 転倒する。これは歩いていれば問題はないが、自転車がいけない。バランスを崩し、思わぬ角度でいきないバタンと横倒しになれば、ダメージはかなりある。
「乗るのを諦めよう」
 室戸は傘は差せないし、自転車にも乗れないので、自転車にすがりつくように戻った。
 そして大きな通りから路地に入る間際、押さえるのが間に合わず、帽子が飛んだ。路上に転がり、口を向けた帽子を拾いながら、室戸は呟いた。
「中身が入っていなくて良かった」と。
 
   了

posted by 川崎ゆきお at 11:38| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月26日

3424話 暗々亭


 嵐の夜、水木はずぶ濡れで山道をバイクで走っていた。そういう趣味があるわけではない。また競技でもない。部屋を出るときは降っていなかった。たまの休みも狭い部屋でゴロゴロしていることが多いので、広い場所へ行きたかったのだろう。それで行きすぎてしまった。山中に入ると市街地のように縦横に道路が走っているわけではないので、たとえ広い場所でも通れる道は限られており、しかも方角も、その道を選んだことで決まってしまう。途中で変えたいときも、枝道や交差する道と出合わなければ無理。それまでは好むと好まざるとに関わりなく、ずっと先まで走ることになる。さいわい、この辺りには滅多に来たことがないため、どの道を走っても結構新鮮で、満足していた。
 しかし、山に入りすぎたようで、枝道や脇道がない。あることはあるが、地肌の見えた山道。徒歩ならいいが、バイクだと途中で引き返すことになりかねない。
 気が付けば大きな山を越えていたようで、空気が違ってきた。分水嶺を超えたのかもしれない。そこから雨が降り出したのだが、まだ小雨。合羽の用意をしていなかったのが残念でならない。いつもバイクのシートの下に入れていたのだが、雨の日に着たまま、入れ直していなかった。
 戻るにしても、後ろを見ると大きな山塊。そこを越えて来たのだが、戻っても雨宿りができそうな場所はなかった。最後に見た町は遙か彼方。それなら先へ進んだ方がいいと思い、そのまま走ったのだが、来たときと同じように、人家は見えない。分水嶺は一番辺鄙なところにあるのだろう。端と端。果てと果ての間の山。
 暗くなり始め、雨はますます強くなってきた。こんなときは、市街地まで降りて、ビジネスホテルにでも泊まる方がいい。もう簡単に戻れる距離ではなくなっている。それにずぶ濡れで走るのはきつすぎた。
 今は雨宿りをしたいのだが、木の下などに入り込めばましだが、こんなところで一息つきたくない。
 そして長く続いていた下り坂が平らになったとき、橙色の明かりが見える。人家だ。山小屋にしては道路沿いにありすぎる。こんな自動車道路は最近できたはずなので、その建物も最近のものだろう。しかし、こんなところに建てても客など来ないはず。一応道路沿いにあるのだからドライブインだろう。
 近くまで行くと看板に暗々荘と書かれている。僅かだが照明をあてている。暗々なので、暗いままにしておけばいいのだが、それでは夜は読めない。
 看板の下に窓のある大きなドア。明かりは点いているので、営業中だろう。暖簾があれば、出ていればすぐに分かるのだが、山荘と暖簾とは相性が悪いのだろう。水木の感覚では銭湯の暖簾が頭にあるのだが、建物は銭湯ほどに大きい。温泉でも湧いているのだろうか。それで山荘。宿屋かもしれない。これはさいわいだ。
 しかし、その手は桑名の焼きハマグリ。こんなところに望み通りのものが建っているわけがない。それに嵐の夜の山荘とはできすぎている。
 今、水木が欲しいと思っている施設がそこにある。雨宿りしたい。体を温めたい。それが温泉。そして何かボリュームのあるものが食べたい。それはここで可能かどうかは分からないが、もう少し近付いて見るとぼたん鍋という文字が窓から見える。猪の鍋物だ。これだ。填まりに填まっている。
 だからその手は喰わないと水田は思ったのだ。これは何かの間違い。おそらく幻覚だろう。秋の雨は冷たい。ここに入ればくつろげるだろうが、そのままいってしまうだろう。翌朝の新聞には山道で遭難。しかも幹線道路沿いの道端で倒れていたとなる。
 くわばらくわばらと思いながら、その誘惑に乗らず。深夜までかかって市街地に出て、ビジネスホテルを見付け、難なきを得た。しかし、ひどい風邪で、二日ほど連泊した。
 帰るとき、町の案内板を見ると、暗々亭が載っている。温泉旅館だった。
 実在していたのだ。
 
   了
 
posted by 川崎ゆきお at 10:31| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月25日

3423話 台風の目


 台風が近付いているのか、そこそこ強い雨が降り続いている。金本は行きつけの商業施設へと入る。建物ではなく、その手前にある駐輪場へ。その手前にバイク置き場があるのだが、殆ど止まっていない。雨ならそんなものだろう。そして車の駐車場用の道路を渡る。これは当然施設内なので、ただの通路。信号などはない。そのため誘導員が立っている。ただこれは土日祭日に限られる。その日は日曜日。しかし、平日よりも渡る人は少ない。
 そして自転車駐輪場へ入ると、がら空き。雨で人が来ないのは分かっている。だから止めやすい。建物近くに一寸した屋根というか出っ張りがあり、その下なら濡れない。ここは特等席だ。いつもは止められない場所。雨の日でもその下だけは自転車が詰まっている。しかし、台風で強い目の雨だと、そこもスカスカ。
 そして建物内に入ると、表とは違い人が多い。バーゲンはしていないはず。それは毎日ここに来ている金本だから分かること。しかし、この施設、雨の日のバーゲンというのがある。それも知っているが、それほど人は来ない。
 ではこの客の多さは何だろう。日曜日は確かに客が多い。だから見慣れた日曜日の風景だが、雨という変数が入っている。駐輪場を見れば分かることだ。客は少ないはず。
 そしていつもの喫茶店に入ると満席近い。子供がふざけて走り回っているのだが、そそのかしているのはお爺さんのようだ。一番動きが激しいのは孫と遊んでいるお爺さん。はしゃぎすぎて転倒した。
 何だろう、この騒ぎはと思いながら、金本は隅の席に座る。満席近いので、そこしか座る場所がない。かなり広い喫茶店で、雨の日はがら空きで客がまったくいないこともある。雨よりも日曜日が勝っているのだろうか。しかし、日曜日でもこれほど客が多い日は滅多にない。
 何処かで何かの変化があったのかもしれない。そういえば今日は選挙の投票日だ。ここへ来るとき学校の前に車が止まっていた。葬式でもあったかのように。
 そこからだけの推測では、車で投票に来たまま商業施設まで来たのではないか。投票所は歩いてでも行ける距離にあるはず。しかし雨なので車で来る人が多い。僅かな距離だ。せっかく車を出したのだから、そのまま出掛けたのだろう。しかし台風が近いので遠くへは行けない。雨の日でも過ごせる近場といえば商業施設になる。投票を終えた人が全員そんな行動をとるわけではないが、その流れもあるのだろう。
 雨の日の商業施設は確かに客は少ないが、土日などは逆に多くなるのかもしれない。
 また最近晴れた日がない。出掛けたくても、雨ばかり。遊びに行けない。そして今日もまた雨。その出掛けたがっている人が溜まりに溜まり、雨でも何とかなる商業施設へと偶然押し掛けたのか。
 結局は買い物や外食に来たようなものだが、それなりに華やかな場所で、雨でもハレの場に近い。だから出掛けた気に少しはなる。
 金本は勝手な推測をし、それで謎が解けたと独り合点した。自分なりに納得したのだ。そして端の席なので、通路がよく見える。そこをまたお爺さんが走っている。先ほどの人ではない。そして後ろから孫が追いかけている。
 さらにもう一人、真っ白な頭のお爺さんが全力疾走で駆けていく。
「やはり何か起こっているのだ」
 雨が続いているので散歩に出られず、イライラが溜まりに溜まり、ここで暴れているのだろうか。しかし、それはない。そんなはずはない。
 金本は喫茶店を出て、施設のメイン広場へ行くと異変があるのが分かった。大勢の年寄りが走っているのだ。ここでランニングをしているわけではない。その走り方が早すぎる。これではすぐに息が切れるだろう。その証拠に、あちらこちらで、ペタンと俯せに倒れている人が何人かいる。
 メイン広場は円形で、その円が駒のように回っている。床が回転しているのではなく、人がぐるぐる回っているのだ。
 金本は、その気はないのだが、足が動き出し、その円形の中に吸い込まれるように入っていった。冷静で客観的な判断はここまでで、何かに感染したのではと感じたのが最後だった。その後は覚えていない。
 
   了

posted by 川崎ゆきお at 10:27| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月24日

3422話 甘くないアンパン


 三島は毎日通っている場所からの戻り道、何か忘れているような気になった。それが何かが分からないが、何かを忘れている。もの凄く大事なことではなさそうなのは、決して忘れてはいけないようなことではないためだろう。
 こういうのは一生思い出せないこともあるが、今回はすぐに来た。パンを買い忘れていた。これは帰ってからの昼ご飯。ほぼ毎日、立ち寄り先で買っているのだが、その日は忘れたのだ。雨が降っていたためかもしれないが、そんな日はいくらでもある。忘れたことを思い出せたのだから、忘れた原因まで追うことはないと思い、ほっとするが、引き返さないといけない。そのパン屋は安いことと、毎日なので慣れている。どのパンが何処にあるのかも分かっている。メーカーもののパンではないので、他の店では売っていない。同じタイプのパンもあるが、いつものパンがいい。
 そして引き返す気があるのかないのか曖昧なまま自転車を漕ぐ。こういうことはたまにある。仕方なく近くのコンビニで買うことになる。今日もそのパターンに持ち込むしかないと思い、先へと進んだ。それにもの凄く大事な用件ではない。しかし買わないと昼飯がない。買い置きがない。お茶漬けにしてもいいのだが、ご飯の残りがない。小麦粉でもあればそれを練って焼けばパンのようなものなので、それでもいい。卵はあったので、残り物の野菜を細かく切って入れればお好み焼きのようになる。しかし小麦粉の買い置きがない。滅多に使わないので、古くなり、捨てた。
 だから、パンにしなくてもいいのだが、できればパンを食べたい。パンならすぐに口にできる。
 それで思い出したのが、その通りの先にある手作りのパン屋。この手作りという言葉を聞いただけで高そうなので、避けていた。それに入ったことがない。
 しかし、タイミングがよかった。思い出したとき、その先にパン屋があるのだから。コンビニは回り道をしないといけない場所。余計なところを走らないといけない。手作りパン屋ならそのまますっと自転車で横付けできる。店も狭いので、ドアを開ければすぐにパンが並んでいるはず。買いやすい。
 それで、自転車を止めようとすると、店の前に三台止まっている。四台は無理。狭い道なので、敷地内でないとはみ出せば車が通りにくくなる。しかし、そのすぐ横に銀行があり、何台か並んでいる。駅前に近いのだ。それだけに、駐輪禁止で、人が出ており、止めにくい場所になっている。そのパン屋の敷地内なら文句はなかったのだが。
 それで、地方銀行の前に止め、パン屋に入ろうとすると、老婆が出てきた。自転車ではない。近所の人だろう。
 そしてドアを開けると入れ替わりに、もう一人出てきた。この人はどうやら自転車で寄ったのだろう。だが、あと二台止まっている。客のものでなければ店の人のものだろう。家と店が同じ場所にあるのだろうか。
 さて、パンだが焼きたてで、艶がいい。その殆どは菓子パン。クリームパンとかアンパンとか。これはおやつだ。値段は少しだけ高いが、少しだけ小さい。しかし一つ一つしっかりとした形をしており、長年手作りパンをやっているためか、磨き上げた造形物に近いのだろう。普通の家の玄関ほどの広さしかないが、隣の部屋で焼いているのか、初老のお父さんが片付けをしている。今日の分はもう終わったのだろう。レジにいるのは奥さんだろうか。個人のパン屋というのはこういうものを見てしまう。
 昼に食べるパンは一つでいい。しかしどれも小さいので、二つ買う。いつもより贅沢なことになってしまったが、たまにはいいだろうと三島は三つ目に手を出す。クルミの入ったパンだ。クルミは見えないが、表面がクルミ色に焼けている。こうなると陶芸だ。さらに一寸砂糖が見えている白っぽいのも買う。形が筏のようで、それが気に入った。買いすぎだ。
 トレイに乗せて、レジに置くと奥さんが一つ一つ袋に入れ、レジ袋に詰め込んでくれた。
 店を出て、もう一度自転車を見ると、二台止まったまま。やはり店の人の自転車でパン屋夫婦自転車だ。
 三島は銀行に止めていた自転車の荷かごにパンを入れる。そしてもう一度パン屋を見ると、お婆さんが入って行くのが見える。
 この近くにお菓子屋や饅頭屋はない。スーパーもない。駅の売店もない。
 つまり甘いものを売っているのは、ここだけなのだ。それで流行っているのかもしれない。
 そういう感想を得て、三島は自転車を出した。
 そして戻ってから食べてみると、パンそのものよりもクリームパンのクリームに驚いた。甘くないのだ。ここまで練り上げ、磨き上げた完成品がそこにあった。当然アンパンもそれほど甘くない。まったく甘くないわけではないが、歯や胸に来るような甘さがない。
 こういう芸当はメーカーもののパン屋ではできないだろう。
 三島は大きなヒントを得たような気になったが、使うネタがなかった。
 
   了


posted by 川崎ゆきお at 11:35| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月23日

3421話 宵の口


「宵の口へ行かれましたか」
「え」
「宵の口へ入られましたか」
「暗くなってから、何か」
「時間じゃなく、口です」
「入り口」
「そうです。暗くなってから開く入り口があるのです」
「え、何かのたとえですか。隠語ですか」
「宵へ行く入り口です。それが開きます」
「夜でしょ。宵って」
「そうです」
「じゃ、もうそんな入り口がなくても夜は来ますよ」
「夜ではなく、場所です。宵という世界があるのです」
「ど、何処に」
「何処に現れるのかは分かりません」
「じゃ、そんなところへは行けないでしょ。いきなりそんな入り口が出現するのですか」
「門や、ドアのようなものじゃありません。しいていえば長い」
「長い入り口ですか」
「そうではなく、宵の口は普通の場所からいきなり切り替わるのではなく、歩いているうちに徐々に入っていくのです。しかし、そこはまだ宵の口で、門から母屋の玄関までが長いのです。だから最初は宵の口に入ったことさえ分かりませんが、徐々に違ってきます。周囲の風景が」
「はあ」
「たとえばいつもの道なのですが、もう暗くなっているので、昼間ほどはよく見えません。建物などは変化していませんが、奥へ行くほど徐々に変化していきます。宵の世界はそのように徐々に立ち現れてくるのです」
「宵とは夜でしょ」
「そうです。夜の中に夜があるのです」
「はあ」
「ですから、宵の口はただの夜です。よく見慣れたね。しかし、先へ行くほどもう一つの夜、宵へと入って行きます。宵の口はその過程なのです」
「夜の中に夜があるのですか。それじゃ、見分けが付かないじゃありませんか」
「もう風景が違ってきています。この国のものなのか、あるいはこの国の古い時代のものなのか、はたまたこの国にではなく異国のものかさえも分かりません」
「あ、そう」
「夜の中の夜。これは真の夜ではなく、別の夜なのです。異国かもしれませんが、そんな国など存在しないでしょう」
「あなたはその宵の口から宵の世界へ入られたのですか」
「いえ、宵の口までです。少し行ったところで出てしまいました。徐々にややこしい風景になりつつあったのですが、元の通り道に戻っていきました。私が後ろ側へ戻ったのじゃありませんよ。風景が戻っていきました」
「何を見られたのです。どんな風景に変わっていったのです」
「少しだけ違うのです。大きな変化じゃありません。しかし奥へ行くほど建物の形が妙になっていき、その先を見ると、あるはずの外灯がもうないのです。それでも月明かりで、町並みはそれとなく見えています。もういつもの通りとは別物で、そんな場所など存在しないことがはっきりと分かりました。道に迷ったんじゃありませんよ。一本道で、いつも通っている道ですからね。牛乳屋の看板文字が、まったく読めない妙な文字に変わっていました」
「はあ」
「時間的な意味での宵の口に注意しないといけませんよ。この時間、もう一つの宵の口がありますからね。私はそこへ入り込んだようです。さいわい長い宵の口を進んだけで、本当の夜の世界までは辿り着けなかったので、戻れたのでしょうねえ。何せあなた、夜の中にある夜ですよ。これは入り込めば出られなくなるはず」
「夜中に怪談をすると、怖くなるようなものですか」
「そんなところですかな」
「一つ聞きたいのですが、先へ先へと進むと風景が違ってきて、さらに進むと戻ってきたわけでしょ。一歩も後退しなかったわけですから、ある距離を歩かれたのです。戻ったとき、何処にいました。宵の口が出たときの場所なのか、歩いた分、進んだ場所なのか」
「ところが何処から宵の口が始まったのか分からないのです」
「でもいつもの宵に戻ったときの場所は覚えておられるでしょ」
「忘れました。それに暗いので覚えていません」
「その後、どうされました」
「いつもの道なので、いつものように歩いて家へ」
「興味深いのは夜の中の夜ですねえ」
「そうです」
「その感覚は何処から来たのです」
「分かりませんが、夜の中にもう一つ夜があるように感じたのです」
「はい、有り難うございました」
「参考になりましたか」
「その宵の口が現れるのを楽しみにしています」
「夜の中の夜ですから、これは夜の世界ではなく、黄泉の世界かもしれませんから、お気を付けて」
「はい」
 
   了


posted by 川崎ゆきお at 10:50| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月22日

3420話 無血の城


 丹下左膳は有名だが、それほど名が知られていない戦国武将がいる。丹下義秀。何をした人なのかはその子孫しか興味がないだろう。しかし、この人が歴史を変えるのだが、それを言い出すと、戦国時代の誰もが歴史を変える動きをしていた。もしその人がいなければ、というのは言い出すときりがない。丹下義秀もその部類だ。
 丹下家は小さな領主だが、早くからこの地方の有力大名を寄親にし、家来になっている。この大名家の家来の構成はそんなもので、寄せ集めなのだが、その大名家が傾き、跡目争いに巻き込まれる。誰を今度寄親にするかだが、丹下家は早くからその大名家の嫡男に味方した。そちらの数の方が少なかったのだが、領地と近いのが一番の理由だ。
 そのとき味方をした筆頭が丹下家だった。そして、その嫡男があとを継ぎ、所謂戦国大名として一国を統一した。全国ではない。都道府県レベルだ。このあたりから、この大名は勢力を拡大していく。多くの家臣を抱えるようになるが、丹下は古参になる。古参は他にもいる。その中では丹下の影は薄い。それほど活躍をしていないし、手柄も少ないからだ。
 しかし殿様はその丹下をよく使った。一番野心がなく、一番信頼できるためだ。
 非常に長い説明になったが、ある攻城戦での話が、丹下らしさが出ている。
 それは何でもないような小城攻略を丹下は命じられた。誰がやっても落ちそうな城だが、丹下軍だけではなく、与力として大軍が与えられた。
 ところが城はなかなか落ちない。どうでもいいような城で、ここを落とさなければ先へは進めないほど重要な場所ではない。
 この攻城戦に参加した他の武将は、ここで休憩していたのだ。丹下に人望があるとすれば、無理攻めしないこと。つまり猛将ではないため、怪我人が少ない。無理な攻撃をしないのだ。それが殿様からの命でも、丹下は上手く誤魔化している。困った奴だと殿様は思うが、自分よりも年上で、さらに跡目争いのとき、真っ先に味方に付いてくれた恩もある。他の武将には厳しいが、丹下には優しい。まるで親父のように見えるのだろう。しかし、その力を知っているので、重要な局面では使わない。だからこの戦国大名の主力軍ではなく、予備軍のような、フォロー、中継ぎ用の軍になっている。しかも寄せ集めの。そんなとき、重鎮の丹下がいると、ぐっと落ち着くのだ。
 だから、競って丹下軍と一緒に行動したがる武将が多かった。今回はその典型で、たまには休みたいのだ。
 丘の上にある小城。力攻めしないのなら、兵糧攻となるが、丹下はそれもしない。だから城も囲まず、その近くで陣を張り、気長に待っている。そのうち降参するだろうと。
 城主も、丹下が攻め手なので安心したようで、籠城戦の厳しさがない。城へはいくらでも兵糧を運び込める間道があり、そこが塞がれていないので、腹も空かない。
「困ったお人じゃ」
 殿様は苦笑いする。しかし、かなり長い。早く落とすように催促を何度もしているのだが、丹下は動かない。
 問題は開城条件だ。よくて城主のみ切腹。その一族や家臣団はそのままというもの。これはけじめで、仕方がないこと。
 この条件があるので、城主は切腹するのが嫌で頑張っている。
「そろそろだな」
 丹下も流石に長引きすぎたので、このあたりで、けりをつけることにする。
 それで自ら城に乗り込んだ。こういう勇気があるのだろう。
 そしてその交渉は簡単なものだった。
「寝返りなさっては如何ですかな」
 蒲団の上で寝返りをうつのではなく、この城主が仕えている大名家を裏切れと言うことだ。しかも自発的に。
 これで城主は城を枕にではなく、城を土産に乗り換えられる。一族や家臣は無事という条件よりも、いいが、裏切り者になる。
「やはり、命は大事ですぞ」
 丹下は人質として嫡男を連れて、戻ってきた。
 後は殿様がそれを許すかどうかだ。滅ぼしてしまえば領地は増える。しかし許したとなると、武将に与える領地が減る。
 丹下は土地は召し上げるが、家臣は丹下家が面倒を見るということで、殿様を説得した。これで殿様の負担がない。禄は丹下が与えるのだから。
 滅多に物申すことなどない丹下のたっての願いなので、殿様は許した。
「それより、長く休んだものだ」
「あ、はい」
 丹下家はその後も戦国動乱のドタバタに巻き込まれ、主君を変えたりしながらも、明治になるまでは幕府の直轄地の代官として、細々と続き、その後も、この家系はしっかりと残っている。
 これといったことは何もしていない家系だが、一つだけ頑張ったのが、この無血攻城戦だった。その城主の子孫は今でも、丹下義秀の名を忘れないでいる。
 
  了

posted by 川崎ゆきお at 11:29| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする