2019年10月16日

3542話 三途の渡し


 豊志野の町外れに渡し場があったとされている。もう場所は特定しにくい。木佐美川はこのあたりでも大きな膨らみを持ち、橋は長い間できなかった。もう少し下流に橋が架かったのだが、それでもその橋まで行くのが面倒な人は渡し船を使っていた。
 渡し船以外にも渡り方はある。それほど深い川ではなく、水が少ない日なら歩いて渡れた。そういった飛び石のようなものや、杭などが打ち込まれていたためだろう。
 また、川漁師の舟はどの岸にも着けることができた。また荷船などの川船は終通っていたのだが、これは渡るための船ではない。
 いずれも昔の話で、今は鉄橋もあるし、幹線道路には必ず橋ができた。その間隔は広いのだが、不便を感じることはない。以前ならこちら側と向こう岸とは住む人も違い、また、行き来するような用事もなかった。
 高橋、これは橋の名ではなく、人の名。彼がその渡し場を探していると、葦原からいきなり人が現れ、教えてくれた。
 廃れてしまった渡し場、もう船着き場もない。簡単な板が出っ張っていた程度なのだが、そのとき打ち込んだ何本かの丸太が一本残っている。杭としてはもの凄く太いが、それも蔓草に覆われ、よく見えない。
「ここはねえ、客人、三途の川の渡し場とも言われていたんだよ」
 高橋は案内され、その跡を見るが、面影はその杭程度。町から見ると結構上流にあり、川幅は狭まるが、浅瀬が少ない。だから船底を突きにくいので、ここにできたのだろう。
「三途の川ですか。ここは木佐美川でしょ」
「川の名は色々ある。この町では木佐美川だが、下流や上流では呼び名が違う。わしらは三途の川と言っておる」
「じゃ、向こう岸へは渡れないのですね」
「彼岸と此岸」
「はい」
「此岸とはこちら側の岸、しかし彼岸は今見えておる向こう岸を指すのではない」
「あの世でしょ」
「いや、悟りの世界、涅槃をも差す」
「でも三途の川なのだから、あの世でしょ」
「まあな」
「ところでオジサンは土地のボランティアですか」
「違う。死神御用達の川船頭」
「はあ」
「死神も一緒に渡ることもあるが、ここいらの死神は、この渡し場まで、あとはわしら川船頭が引き受ける」
「そういうシステムだったのですね」
「そうじゃ、だからウロウロしておると、危ないぞ」
「オジサンが乗せてくれるのですか」
「わしは人さらいじゃないが、ウロウロしておると、わしも間違って、乗せてしまうかもしれん」
「舟は」
「呼べば来る」
「縄のようなのを引っ張るとか」
「それは向こう岸の舟を呼ぶとき。ここは一方通行じゃ。それは普通の渡し船。わしら三途の渡し人は縄ではなく紐を引く」
「見せてください」
 船頭は腰から印籠のようなのを取り出し、下に垂れている組紐を引っ張った。
「来るぞ」
「え」
 高橋は走り逃げた。船頭は葦原の奥へと逃げた。
 向こう岸には多くの人達がこちらを見ていた。羽織袴、大小腰に差した侍もいる。小さな子供もいる。その周囲だけ季節外れの菊が咲き乱れていた。
 
   了
 



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2019年10月15日

3541話 慣れきる


「まあ慣れるほどやることだね」
「なかなか慣れません。それに馴染めないです」
「慣れることは熟れること、成れること。慣れた状態になれば成功したようなものですよ」
「成功ですか。ただの慣れでしょ」
「慣れるだけでも実は大変。月日がかかります。ある程度の期間がね。貴重な時間をそこで使うわけですから、その時間消費分の成果が慣れるということですよ」
「分かるような気がしますが、一発でできないのですね」
「そうです。だから貴重なのです」
「慣れ損なって終わってしまった場合はどうなります。時間の浪費ですか」
「そうですね。無駄なことをして過ごしただけになります」
「だけ、ですか。それが何かあとで意味が出てきたり、その過程があったからこそいいことと遭遇したりとかはないのですか」
「ありません。無駄を認めたくないだけです。無駄は無駄です。しかし、退屈してる場合、それで時間が稼げたので、無駄ではないのですがね」
「退屈などしていません」
「慣れるとはそもそも続けないと何ともなりません。続けてこそ慣れてくるのです。これはいい意味でも悪い意味でも」
「はい」
「苦しいことでも慣れてくるとそうでもなくなってきます。決して楽しいことに変わるわけじゃありませんが、以前ほど苦しくはありません。慣れてきたからです」
「どんどん苦しくなることもあるでしょ」
「そんなときは、もう辞めるでしょ」
「ああ、なるほど」
「面倒なことでも慣れで解決することが多いのです。特別な知恵もテクニックも必要じゃありません。ただただ続けているだけ」
「それで成功するのでしょうか」
「いや、慣れただけで、十分成功ですよ」
「はあ」
「ほとんどのことは慣れで解決します」
「そうなんですか」
「こなれた人がいますね。これは慣れた人ですよ」
「慣れると熟するということですか」
「簡単でしょ、方法が。シンプルだ。種も仕掛けもない。特殊な能力もいらない。慣れさえすればいいのです」
「はあ」
「新入学、初めて見る同期生。こんな顔が世の中にあることは分かっていますが、見たことのない人達でしょ。特に変わった顔でなくても、初顔です。どういう声を発するのか、どういう人なのかも、まったく分からない。ところが学校などではすぐに慣れてきます。一年後にはすっかり顔馴染み、そして馴れ馴れしくできるようにもなっているはず。いつもの顔ぶれがいつも通りそこにいる。そうでしょ。そしてこのメンバーでないと落ち着かない。他のメンバーは考えられないほど馴染んでしまいます。良い状態のクラスだとね」
「確かにそうですが」
「入学当時、教室内でそれらの顔を見たときの印象と随分違うでしょ。一年後はもう見飽きたような人達になっているはずです」
「それが」
「そう、それが慣れるということですよ。慣れるだけで、もう十分」
「特に何もしていませんねえ」
「そうじゃないでしょ。細々とやっているでしょ。色々と距離を測りながら、接しているでしょ」
「はい」
「他のことでもそうです。慣れることが一番大事。どんな状況、環境下でも、慣れは強い味方になるでしょう」
「でも師匠の話、毎回毎回聞いていますが、似たような話ばかりで、すっかり慣れたのですが、飽きました」
「慣れると飽きる。そこです」
「何か解決策は」
「それはまだ慣れきっていないからです。慣れたと思うのはまだ早い。飽きるにもまだ早い」
「慣れた頃が危ないといいますねえ」
「だからまだ慣れ切れていないのですよ」
「それは何処まで続くのですか」
「さあ」
「頼りないですね師匠」
「師匠としての私もまだ慣れ切れていないのじゃよ」
 
   了



posted by 川崎ゆきお at 12:42| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月14日

3540話 風魔


 台風が近付くと岩田翁は頭が痛くなる。低気圧のためだろう。それに妙に気温が上がり、生温かくなる。そろそろ暖が欲しいと思っているときに、暑さが戻ったような感じで、この急激な温度差のためか、身体も重くなる。中が付いてこないのだろう。
 岩田翁は風魔のことを思い出した。それは台風の直撃を受けたときだ。空気の玉のようなのが飛んできてフワフワ漂っていた。どこから入り込んだのか、野球のボールぐらいの大きさ。そんな隙間はないはず。もしやと思いトイレに行くと、その窓がボールが通る程度開いていた。便所の戸は閉まっている。だから岩田翁が入って出たとき一緒に付いてきたのだろう。岩田翁の部屋は奥まったところにあるが、戸はほとんど開けている。だから家の中を飛び回っていたのだろう。
 それが風魔。
 岩田翁はそっとその風魔を両手の平でひよこのように軽く捕まえた。そしてフワフワした玉の奥に目鼻らしきものを見た。怖い顔をしている。
「誰だ」と岩田翁が聞くと「風魔」だとこたえた。そう聞こえたのかもしれない。
 風魔は南方の悪魔で、台風の目の中に閉じ込められ、ここまで来たらしい。台風から目がなくなり、ただの低気圧に変わったとき、飛び出たのだろう。時間的にも岩田翁の真上を通過した直後だ。このとき、既に低気圧に変わっていた。
 風魔は幻のような存在で、手応えがない。岩田翁はぐっと両手で握ってもスカスカ。物理的なものではないのなら、台風の目に閉じ込められることもないはずだが。
 しかし、風には弱いらしい。影響を受ける。特に空気の渦に弱い。風の悪魔なのだが、風に弱いのだ。
 戻りたいかと問うと、頷いたように見える。しかし、便がない。南方へ向かう便が。
 しかし、何度か、そういうことがあったらしく、帰る方法を知っているらしい。それは海流。かなり遠回りになるが太平洋を半周以上するコースがあるらしい。
 それは遠いだろ。台風なら一週間でここまで来られるはず。海流では遅いし、何処へ流されるか分からんだろうだろと聞くと、コースは分かっているらしい。
 この風魔、自力で動ける距離はしれているらしく、遠距離移動はできない。だから風に流されるとかでないと無理。
 それでは南方へ向かう飛行機か船に入り込めばいいと岩田翁が進めると、閉じ込められるのは嫌だという。
 物理的な存在ではないはずなのだが、壁抜けはできないようだ。何処かこの世の影響を受けているのだろう。だから岩田翁にも見えるのだ。ただ、かなり薄い。よく見ないと、玉の奥にある目鼻は見えない。
 結局、この風魔、一番効率がよく、そして自然な方法で南に帰ることに決めたようだ。
 それは渡り鳥にくっつくこと。
 その季節になるまで、岩田翁の家にいた。
 風魔、南の島での本当の名前は直訳すると魔球とか。知らなくてもいい知識だ。
 
   了

 
posted by 川崎ゆきお at 12:33| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月13日

3539話 ライブの前に


 宮内の町でライブをするのなら、しんさんに声をかければいいと聞いた。しんさんは有名人なので、聞けば何処にいるかすぐに分かるとも。
 しんさんは古いミュージシャンで、この世界では草分けに近いが、ヒット曲がなく、もう忘れられた存在だが、この業界では誰もが知っている。知らなければモグリ。だが、最近はモグリのミュージシャンが多く出てきたため、しんさんといってもピンとこない。ましてや地方にある聞いたこともないような宮内の町。
 柴田は全国ツアーで地方を回っているのだが、何度かに分けている。その中に、宮内が含まれているのだが、これは自分で決めた。宮内にライブハウスがあるので、庄内と駿河の間の町なので、ついでなので、そこも入れた。ただ、柴田は無名ではないものの、かなりの若手。
 それで宮内でやるのならしんさんと会ったほうがいいという話。やくざの縄張りではあるまい。
 しかし、やる前にしんさんに声をかけておくことを何度も念押しされた。
 そのしんさんの歌、レコードにもなっていない。ネットで調べてが、まったく引っかからない。そして今はもう歌っていないのだから、普通の人だろう。宮内が故郷なのかもしれない。
 噂では顔を繋いでおかないと、客が入らないらしい。ただ、ファンが多い人は別で、入りきれないだろう。しんさんに声をかけさえすれば、結構人を集めてくれるらしい。そのほとんどはしんさんと縁のある人達だが。やはり地元の強味かもしれない。そこに根を張っているのだから。
 柴田は二人でも三人でもいいと思っている。それほど有名ではないので、それは仕方がない。だから、無理にしんさんに頼んで、客を増やしてもらわなくてもいいような気がするが、宮内まで来てしんさんと会わなかったとなると、問題だという。どんな問題が起こるのだろう。
 しんさんは有名ではないが、その友人達は大御所になっている。凄い名前がずらりと並んでいる。顔が広いのだ。だからしんさんに挨拶しておくのはいいことだという話。後々何を言われるか分からないので。
 それで柴田は宮内の町に入ったとき、すぐにしんさんを探した。
 誰でも知っていると、久保田がいっていたので、通行人に聞いてみた。すると、すぐに分かった。
 教えられた家は、結構古くて立派な屋敷だった。ここが実家なのだろう。
 インターフォンを押すと若い子が出てきた。この家の子供だろうか。高校生だろう。
「しんさんいますか」
「ああ、ちょっと待って」
 そして出てきたのはお婆さんだった。
「しんさんですか」
「そうですが」
「間違いました」
 しかし確認しなくても、姿を見れば分かるだろう。どう見ても婆さんだ。
「あんた、探しているの、のぶさんじゃないかい」
「ああ、そうかもしれません」
 その信さんは四軒向こうにある酒屋にいるらしい。
 酒屋は既に廃業している。配達する人がいないためだろか。しかし自販機は並んでいるが。
 シャッターを叩くと、すぐに人が出てくる気配。
「はい」
「のぶさん、お願いします」
「ああ、おのぶさんだね」
「しんさんともいいませんか」
「おのぶさんです」
「おがつきますか」
「はい」
 ここではもう確認の必要はないだろう。しんさんはもうかなり年を取っているが男だ。
 おのぶさんというのは、この家の出戻りらしい。もう会う必要もないのだが、店舗跡に、フワッと姿を現した。
「何か」
「いえ、しんさんを探しているのですが」
「しんさん」
「男です」
「知らない」
 出戻りは小姑の顔を見る。
 小姑も知らないらしい。
 誰でも知っている有名人ではなかったようだ。
 久保田が大袈裟にいっただけなのだろう。
 そのあとも、しんさんを訪ね歩いたが、一人、やっとしんさんを教えてくれたが、子供だった。
 どうもしんさんというのは通り名で、愛称のようなものだろう。本名が「真」ということも考えられるが、真一とか、信太郎とか、その年代なら、そんな名かもしれない。しかし上の名字が分からないので、何ともならない。
 ライブハウスで聞けば一発だが、久保田によると、その前にしんさんと会えということ。これで、ライブハウス内での扱われ方が全く違うからと。
 しかし、業界内だけで通じる愛称では何ともならなかった。
 結局しんさんは見付からないままライブとなる。
 別に何の影響もなかった。
 後でライブハウスの人に聞くと、しんさんはその日聞きに来ていたらしいが、客の中に知り合いがいないので、途中で帰ったとか。
 宮内でしんさんに挨拶しなかったが、その後しんさんの祟りはない。
 
   了




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2019年10月12日

3538話 特殊な能力


 妙な子だと言われ、村の悪童に取り囲まれ、あわやとなったとき、カラスが飛んできた。見ると周囲の木々にカラスの群れ、明らかに襲ってくる勢い。
 また少し山に入った所で、熊と遭遇したのだが、怯えているのは熊で、飛んで逃げ去った。
 この少年、ある日村に来ていた高僧のもとに連れていかれた。変わった僧侶で、位は高いが、妙なことに興味を持ち、特にこの少年のような不思議な能力を見聞するのが好きなようだ。これは本道ではない。そのためか、今の位が限界のようで、人徳に少し難ありとされている。それでもかなりの高僧だ。
 高僧は少年の相を見て、将来世に頭角を現すであろうと予言した。ただの百姓の子供。時代は既に江戸時代中頃。大きく世が変わる動乱期ではない。
 村の悪童達はカラスに襲われそうになってから、もう近付かなくなった。ただ、一人だけ、どうしても懲らしめたいと思い、その少年と対決したことがある。今度はカラスは来なかったが、少年から出ている殺気に驚き、逃げ出した。別に目の色が変わったとかではなく、このまま取っ組み合いになれば殺されると直感したためだ。
 少年の家は土地持ちの農家で、所謂本百姓。小作人こそいないが、これで食べていける田畑を持っていた。長男である少年は、真面目に野良仕事を手伝った。もう悪童達もいい年になり、その少年に絡んでくることはなかった。ある年代になると、もう大人扱いになるためだ。
 つまり、この少年、普通の百姓の子として、その後もこの村で過ごし、やがて、家を継いだ。
 子供も生まれ、やがて孫もできた。
 彼は自分に特殊な能力があることを知っていたが、それを使うようなことはなかった。
 ただ、孫と遊んでいるとき、すっと鳥を呼び寄せたりする程度。
 潜在能力、それがいくらあっても使わないままのことがあるのだろう。
 小さい頃、お寺に来ていた偉い坊さんの予言も当たらなかったようだ。僧侶にその能力が無かったのだろう。
 彼はその後も世に頭角を現すことなく、一生を終えた。
 
   了



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2019年10月11日

3537話 すっきりさせる


「色々思うところがありまして」
「辞めるのかね」
「はい」
「何を思った」
「いえ、事情がありまして」
「それを思ったのか」
「はい」
「どんな事情かね」
「諸事情」
「だから、どんな事情なのかね」
「それは言えません」
「理由はそれだけかね」
「はい、一身上の事情でして」
「君だけの一方的な事情だね」
「そうです。僕だけの問題です」
「まあ、いいがね。去る者は追わずだ」
「ここがどうこうしたとかのことではありません」
「どうこうとは何かね」
「いえ、仕事関係ではなく、家庭の事情です」
「だから一身上の事情なんだね」
「そうです」
「分かった。手続きをしておこう」
「はい、有り難うございました」
「嬉しそうだね」
「いえいえ。苦しいです。折角慣れてきたところなのに、すぐに辞めてしまうのは心苦しいのですが」
「苦しくなさそうだけど」
「じゃ、これで」
「最後に」
「はい」
「一つ聞きたい」
「あ、はい」
「何か言いたいことがあるだろ」
「いえいえ滅相な、何もありません」
「そうか、じゃいい」
「失礼します」
「もう二度と会うこともあるまい」
「はい」
「すっきりしただろ」
「いえいえ」
「私はすっきりした」
 
   了




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2019年10月10日

3536話 片隅の人


 神田という人がその業界にいるが、存在感が薄い。それは若い頃からそうで、そういう人がいるということは当然認識されているが、ほとんど相手にされていない。目立たないのだ。影が薄いのだろう。それで神田ではなく、影田と呼ばれている。
 注目されるだけのものがなく、また大人しい性格で、口数も少なく、いつも隅っこにいる。つまり辺境の人だが、中原での人の入れ替わりが激しい中で、神田の存在も何の保証もないのだが、不思議と無事でいる。都ではなく田舎なので、影響が少ないのかもしれない。
 そして中心部での争いなどにはまったく関わらない。辺境に神田がいることは知られているが、役に立たないので、無視されていたのだろう。また、数に入れなくてもかまわない存在。
 その神田ももういい年になっていた。その間体制が何度も変わり、消えていった人も多い。神田は相変わらず業界の片隅でひっそりといる。いてもいなくてもいいような存在なのだが、それなりに業績を積んでいる。キャリアだけは長くなり、若手にとっては大先輩に当たる存在。だが、そんな人がいることさえ影の薄さからなかなか気付いてくれる人もいない。
 ある時期、大変動が起こり、体制派と反体制派の凄まじい闘争になり、共倒れした。
 さて、そこで出てくる。
 人がいないのだ。
 そういえば神田という大先輩が一人いたなあ、ということで、思い出してもらえた。
 神田はこの業界のトップとなった。
 人がいないのだ。
 神田には元々人を引っ張るような力はなく、リーダーの条件をほとんど持っていない。
 しかし、下の者の意見をよく聞く人なので、その温和な性格でか、結構丸く収まった。
 よく考えると、この業界、リーダーなどいらなかったのだ。
 
   了




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2019年10月09日

3535話 思い出の中の人


 過去は戻ってこない。と思うのは、思い当たることがあってからのことだろう。
 以前行ったことのある土地、町でも山でも場所でも建物でもいい。同じことがまたできるのなら、そうは思わないだろう。消えてなくなったものならもう二度と行けない。その場所までは行けても、目的とするものがなかったりするため。
 また人もそうだ。何年何十年も経つと、もう関係が消えたりし、その人が生きていても、もう二度と会えないとか、会ってはいけないとか、そういったことがある。状況が違っているためだ。
 当然以前行った旅行先。これはそっくりそのまま戻れるかもしれない。多少は変わっているにしても。しかし、そこへ行く気がもうなかったり、また旅行などしなくなっていたりすると、思い出の地へは行けない。物理的には行けるが、問題は本人が昔のままではないということ。これが一番大きい。その時代、その年の頃は再現できない。
 そういうのは何かの拍子で思い出すことはあっても、以前ほどには鮮明には覚えていない。旅行から帰って来たあたりでは一部始終覚えている。車窓から見える山並みとか、離れた席に座っている人の話し声とか。会話のセリフ全ては無理だが。
 それが一年、数年になると、かなり間引かれてしまい、もっと年を重ねると、そういう所へ行った覚えはある程度にな。行ったことは覚えている程度。
 昨日のことを思い出そうとしても、結構忘れているのに、遙か彼方の過去のことになると、ほとんど記憶から消えているだろう。ただ、事実関係程度は何となく覚えている。
「思い出の中によく出てくる人なのですがね」
「はい、誰にでもいますよ。印象深い人が」
「ところが記憶にないのです」
「記憶にあるから思い出すのでしょ」
「はい、色々なところに出てきます」
「じゃ、記憶にあるじゃないですか」
「ところが、誰だか分からない」
「まあ、忘れることもありますよ」
「覚えていないのに忘れることもないでしょ」
「え、どういう意味ですか」
「思い出の中だけに出てくる人なのです」
「ほう」
「そんな人はいません。私の過去の中には」
「何と」
「当然名前も曖昧で、顔も曖昧です。しかし、よく知っている人なのですが、誰にも該当しないのです」
「それは夢の中での話ですか」
「違います。普通に昔のことを思い出したとき、色々な人が出てきますが、その中に混ざっているのです」
「何か、故障でしょ」
「そうなんですか」
「そうですよ」
「故障とは、また……」
「思い出というのは作られるものかもしれませんからね。その都度ね。だから、その再現装置が故障したのでしょ」
「いやいや、もっと神秘的で不思議な話ですよ。これは」
「何か影響ありますか」
「ありません。ただの回想ですから」
「じゃ、それでいいじゃありませんか」
「あ、はい」
 
   了




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2019年10月08日

3534話 菓子箱


「秋の初めの頃は体調が悪くてねえ」
「夏の終わりがけにも言ってましたよ」
「いや、夏の終わりと秋の初めじゃ違う。タイプがね。だから体調の悪さも違う」
「そういえば夏頃は何も言ってませんでしたね」
「安定してたからね、天気が。だから体調も安定していた」
「冬もそうですか」
「そうだ」
「じゃ、秋の終わり頃は」
「悪い」
「冬の始まり頃は」
「悪い」
「秋の終わりと冬の始まりは同じじゃないのですか」
「これも違うのだよ」
「じゃ当然冬の終わり頃とか春の始まり頃とかも悪いのですね」
「そうだね」
「それは治るのですか」
「季節が深まればね」
「はい」
「それだけの話だ」
「そうですね」
「しかし、影響がある。体調が悪いときは静かにしている。だから生活は落ち着いている。だから悪い時期じゃない。体調は悪いがね」
「じゃ、体調が悪い方がいいと」
「それはいけない。特に秋の初めのだるさは何とも言えん。夏の終わりにはそれがないが、秋の初めは怠い。それと風邪の症状と似たものがある」
「はい。それは辛いでしょ」
「そこまで厳しくはない」
「はい」
「ところで今日は何かね」
「少し頼み事がありまして」
「さっきまで聞いていただろ」
「まだ話していませんが」
「いやいや、体調が悪いと言ってるんだ。頼まれごとなどできる状態じゃない」
「でも、簡単なことなので」
「うーむ。面倒なことはこの時期したくない。静かにしていたい」
「尻に火が点いています。助けてください」
「自分で消せ」
「何とかお願いします。ある人物を紹介して欲しいのです」
「消防の人か」
「違います」
「さっさと言え、回りくどい」
「西田さんを紹介してください」
「西田か」
「はい」
「必要なのか」
「西田さんなら助けてくれます」
「分かった」
「助かります」
「安い御用だが、あの人も体調を崩しておるはず」
「そうなんですか。どんな容体で」
「私と同じだ。秋の初め頃は体調を崩しておられるはず」
「じゃ、見舞いがてら、伺います」
「しかし、わしよりひどいぞ」
「そうなんですか」
「まあ迷惑な話だ」
「すみません」
「それに」
「はい」
「今日は頼み事をするのに、手ぶらかね。横の風呂敷包みは何だい」
「はいはい、これをどうぞ」
「何だ、菓子か。しかも包装もしていない」
「粗末なものなので」
「菓子箱だけは立派じゃなあ」
「はい」
「それに重いのう。水菓子か」
「いえいえ」
「甘い物か」
「え」
「だから甘い菓子か」
「それは、忘れました」
「しかし、重いのう」
「饅頭だと思います」
「あんこの重さか」
「はい、つまっていると」
「しかし、どんな菓子か分からんとさっき言っていたが」
「いえ、おそらく、そうだと」
「分かった。じゃ、西田へは電話しておく。それでいいな」
「はい、有り難うございました」
 
   了




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2019年10月07日

3533話 何でもないもの


 何でもないもの、これが一番扱いにくかったりする。特徴がないためだ。特に何かが飛び出しておらず、これといった引っかけどころがない。簡単で、たわいのないもので、ありふれている。これを意識的に扱うとき、掴み所がないのだ。
「世の中にはそういう面もありますねえ」
「ほとんどそうだったりしますよ」
「そうなんですが」
「ごくありふれたものなので、何処にでもあり、何処にでも転がっており、見飽きるほどありふれています。だから、逆に難しいのですよ」
「ほう。平凡すぎてですか」
「そうです」
「じゃ、平凡に扱えばいい。だから一番簡単で扱いやすいはずですよ」
「だから難しいのです」
「うむ、その理屈が分かりませんが」
「平坦すぎてメリハリがない」
「それが特徴でしょ」
「特徴と言えるものが少しでもあればそこを弄れますがね。それがない」
「ほう」
「だから、特徴が有り、非凡なもののほうが扱いやすい。ポイントがはっきりしていますからね。そこを弄ればいいのですよ」
「のっぺらぼうでは弄りようがないと」
「だから、ここからはかなりの技巧が必要なんです。一番扱いが難しいのでね」
「その場合、どうされるのですか」
「のっぺらぼうに目鼻を付けます」
「なるほど」
「扱う人によって顔が変わります。特徴がないのですからね、僅かな起伏を膨らませることになります」
「妙なことをされているのですね」
「平凡なもの、ありふれたものから価値を見出す。これをうまくできるようになれば、宝の山ですよ。ゴロゴロ素材が転がっていますからね」
「そんなうまい話があるのですか」
「いや、これは心がけの問題でしてね。元々何でもないものなので、何もないわけです。だから勝手に何かあるようなつもりでやるわけです」
「はあ」
「最初から難しそうなものは意外と簡単なのですよ」
「違いは何でしょう」
「違わないところを違えることです」
「もう分かりません」
「まあ、何でもないものを扱うのは超上級者でしかできません。なぜならどう扱っていいのか見当が付かないからですよ」
「難しいお話、有り難うございました」
「理解できましたか」
「できませんでした」
「簡単な話過ぎたようです」
 
   了






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