2020年06月09日

3776話 暑苦しい話


「暑くなりましたねえ」
「もう夏バテです」
「梅雨前の今頃が一番暑いようです」
「そうなんですか」
「まだ春物を着ていたりしますからね。それと暑さに慣れていない」
「ああ、なるほど。しかしバテては何ともなりませんよ」
「でも、出てこられた」
「日課ですから」
「まあ、バテているときは家でゆっくりしている方がいいですよ」
「退屈します。ゴロゴロしているだけじゃ」
「でも夏バテなんでしょ」
「少し怠いだけです。足が少しきついです」
「足が」
「足が怠いというか重いし、痛い」
「大丈夫ですか」
「僅かな距離なら完歩できますが、後半、怠くなってきて、足が上がらない」
「それはいけない」
「いえ、少し間を置けば、戻ります。坂で足が出ないときがあるでしょ。あれと同じで、少し間を置けば、歩けます」
「それはいい」
「それよりも食欲が落ちましてね。朝食は半分ほどしか食べられない。これじゃカロリー不足で、さらにきつくなる」
「それはいけませんねえ」
「昼は適当な店で、適当に食べているのですが、蕎麦が多いです。しかし、朝食が残っている。だから、店屋に寄らないで、朝食の残りを食べればいい。しかし、食欲がない。さて、こういうときはですねえ、お茶漬けです」
「はい」
「あれは胃を荒らすといわれていますが、荒れる以前に胃にもっと入れないといけない。お茶漬けさらさらで、さらさら流し込めます。漬物を細かく切って入れれば、それで塩気が付く。それにお茶そのものにも味と香りがありますからね。茶漬けだけでもいい」
「あああ、はい」
「沢庵は歯が弱ってから噛み切る勇気がありません。あまり負担をかけたくない」
「はい」
「梅茶漬けもあります。これはですねえ、単に梅干しを一つ入れりゃいい。お粥さんに梅干しを入れるようなものです。梅干しは何故か安心感があります。先祖代々、みんな食べてきたためでしょう。食中りでも梅干しをなめりゃ、治ったとか」
「あのう」
「何か」
「夏バテは」
「してます」
「しかし、元気ですよ」
「口だけはね」
「はい」
「茄子の漬物。これは醤油吸いと言いましてね。たっぷり醤油の染みこんだ茄子の漬物がいいのです。茄子の腹の白い部分、あれはスポンジですよ。お茶漬けに茄子の漬物。これはいいです」
「キュウリは」
「あれは歯触りでしょ。ざくざくと食べる。しかし、歯が厳しいので、駄目です。私は茄子党です」
「なるほど」
「しかし、カロリー計算すると、朝食を半分半分で朝と昼に食べる。そして夕食です。つまり、いつもは三食なのに、二食になる。これは問題でしょ。暑い盛り、カロリーも使うでしょ。もっと食べないと」
「ええ」
「それで、考えたのは、いや自然にそうなるのですが、夜にお腹がすく。やはり二食では、そのまま寝るわけにはいかない。それと気温も夜なので、下がりだし、食欲も戻ってくる。それで、夜食となるわけです。特配です」
「はい」
「夜食、これは食べてもいいのです。寝る前、数時間は何も食べない方がいいとされていますが、すいているとそもそも寝られない。腹がすいて寝られないのです。これじゃ睡眠不足になる。それに朝食を二等分したので、貸しがある。一食分足りないわけです。だから堂々と夜食を主張してもかまわない。その権利がある」
「そう怒らないで」
「責任者は誰だ」
「あなたでしょ」
「そうでした。それで、この夜食が実に美味しい」「何を食べられるわけですか」
「鍋焼きうどんです」
「また、暑苦しいものを」
「これを食べると、どっと汗が出て、汗が引き始めると、寒いほど」
「ああ、はいはい。お元気そうでなりよりです」
「いやあ、夏バテで」
「その話、結構疲れました」
「そうですか」
「私がバテました」
 
   了





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2020年06月08日

3775話 準長老は妖怪


「世の中の変化より、私の変化の方が大きいようだ」
 妖怪変化が語っているわけではないが、それに近い人だ。それほどの年寄りではないので、長老ではないが、若くして老いていたので、下手な長老よりも風格がある。風格という外側ではなく、風貌だろう。これも外側に出るが、格を越えた威圧感がある。つまりより動物的な。それで、業界の妖怪だともいわれているが、ほんの数人。一般にはそんな呼び名さえ知らない。
 世間一般にも色々とあり、世間の捉え方も広かったり、多かったりする。
「また変化されましたか」
「自然にな」
「今度は何に化けられたのですか」
「内面だよ」
「じゃ、外に現れないと」
「そうじゃな」
「世の中の変化よりも激しいようですねえ」
「そうかもしれんが、どこまでが世の中、世間なのか、これは曖昧じゃ。大昔から何の変化も起こっておらんようなこともある。まあ人の生業など、ほとんど同じじゃろう。世は変われども、人の情は変わらぬもの」
「やはり、内面ですね」
「世間といっても広い」
「はい」
「世界情勢、国際情勢。これは広い。ここまで世間を広げて日常生活を営んでおるじゃろうか。せいぜい立ち回り先程度が世間だろう。一人の人間がそこまで広く関わることなどできんはず。世間のほんの一部と接しておるだけ」
「そうですねえ。もの凄い国際人で、世界を飛び回り、海外をよく知っている人でも、町内のこと、意外と何も知らない。それこそ世間知らずです」
「それ以前に家族が何を考え、何をやっているのかさえ知らなかったりしそうじゃがな」
「はい」
「世間の移り変わりよりも、自身の移り変わりの方が大事。そして、こちらの方が遙かに変化する」
「そういうものでしょうか」
「世間はコロコロと変われんだろう。しかし、個人はコロコロ変えられる。昨日の自分と今日の自分ががらりと変わっていたりする。何かの影響でな」
「それは世間の、世の中の影響を受けてですか」
「いいや、どんな世の中でも、同じこと。もっと内奥は世間とは遠い。世間の光も届かなんだりする」
 この業界の準長老。どういった変化があったのか、外からでは分からない。
 つまり、何を考えているのか、分からない人。だから薄気味悪い人なので一部の人から妖怪と呼ばれている。
 
   了




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2020年06月07日

3774話 松ヶ崎


 思わず口に出している言葉がある。思っていないのだから、突然出てくるようなもの。口に出すが声には出さない。頭の中で軽くその言葉を撫ぜるだけ、喉には引っかからない。
 語呂、調子だろう。リズムのようなもの、短い歌だ。歌にもなっていないので、かけ声や合いの手のようなものだろうか。あらどうした、あ、よいしょ、こらしょ、などと似ている。座るとき、よいしょとか、よっこらしょと言うようなもの。
 ただ、その言葉が「まつがざき」
 松ヶ崎。
 これは地名だ。そして吉田はその町を知っている。遠い場所にあるので、滅多に行く用事はない。旅行というほどには遠くはなく、日帰りで軽く往復できる。
 どうして松ヶ崎という言葉が頭に浮かび上がるのか、浮かぶ前に口にしている。
 松ヶ崎と吉田の関係はない。そういう町があることを知っているだけで、通っただけ。だから松ヶ崎には今まで用事はなかった。だから印象が薄いはずなのだが、覚えている。これは語呂の問題だろう。何故か松ヶ崎と言ってみたくなる。しかし行く気はないし、一生ないだろう。また松ヶ崎に行く用事も考えられない。ただ、再び松ヶ崎を通ることはあるだろう。
 ここは山が迫っている町で、山には松が多い。その山の向こう側へ抜ける用事など、ほぼない。都市部の外れ、山を抜けた先はどんどん田舎くさくなる。山はそれほど高くはなく、丘に近い。
 それだけのことで、吉田にとり、松ヶ崎の意味はほとんどない。そこが注目ポイントでもないし、この先何らかのことが起こる場所でもない。
 松ヶ崎のような町などいくらでもあるだろう。
 だが、たまに頭の中に流れてくる松ヶ崎。中身よりも、この語呂、響きだけが快い。または気に入った調べなのか。
 松ヶ崎。そう思いながら、味わうと、結構ドラマチック、劇的な響きがする。松ヶ崎攻防戦とか、松ヶ崎の戦いとか。松ヶ崎であったことは語ってはならないとか、それなら松ヶ崎へ行くべきだとか、松ヶ崎の隠居を訪ねるべきでしょう。等々、色々と出てくる。
 松ヶ崎。気になる響きのある地名で実在しているが、吉田の中では中身はカラだ。
 暇なとき、行きたい場所がないとき、冗談で、この松ヶ崎を訪ねてもいいと、吉田は思った。しかし、思うだけで、実行しないだろう。
 
   了
 



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2020年06月06日

3773話 第三分室初仕事


 私鉄沿線の寂れた繁華街。飲食店が軒を連ねているが、すぐに終わる。見るからに黒光りの高級車がその端まで行き、少し曲がったところで止まっている。
 運転手が車の後部から折りたたみ自転車を取り出し、組み立てる。
「ご用意できました」
「うむ」と座席の紳士が頷く。やや太っているが背は高い。ただ骨格は弱そうだ。しかし腹は出ていない。
 紳士は自転車に乗ると、高級車は立ち去った。
 紳士は繁華街の端にある雑居ビルに入っていった。五階建てで、その玄関口は不動産屋と喫茶店の間にある。喫茶店は廃業している。
 
 ノック音で田中はさっとドアを開けた。来訪は本室から連絡が来ている。
 ここは本室を助ける第三分室。そこに詰めているのが田中で、まだ新任。
「音羽です」
「はい、お待ちしていました」
 オフィスには接客用のテーブルはない。中央部に大きな机があり、まるで食卓。六人、詰めれば八人は腰掛けられるだろう。
 音羽はその大きなテーブルに着いた。
「お茶でも入れます」
「うむ」
 田中の前任者が和茶マニアで、何種類ものお茶のパックを集めていた。退職したのだが、それを持ち帰らなかった。だからそれほど拘りのあるマニアではなかったのだろう。百均のお茶も混ざっているので、いいものではない。
 ガチャンと音がしたので、紳士の音羽は驚いたようだ。ガスコンロを付ける音だった。
 湯が沸くまで、少しだけ間があるので、田中はテーブルに戻った。
「これだがね」
「はい」
 音羽は鞄を開けようとしたが、ファスナーが引っかかるのか、スーと開かない。
「これだがね」といいながら、グーと引こうとしたが、引っかかっているのか、噛んでいるのか、それ以上力むとつまみを引きちぎる恐れがあるので、そこで力を緩めた。
 田中は「私が」といいながら、その鞄のファスナーを見る。
「ビラビラが噛んでます」
「そうか、それで防水性がいいのだが、たまに引っかかる」
 田中は、真っ直ぐ引くのではなく、斜めに引くと少し口を開いたので、そこに串カツ用の長い串を入れ、斜めに弓のように反らせながらまさぐり、ビラビラを外した。しかし、客の鞄なので、それ以上開けない。
 音羽は鞄を受け取り、自分でスルッと開けようとしたとき、悲鳴が聞こえた。
 薬缶の笛が鳴ったのだ。
「お茶を入れてきます」
「うむ」
 田中がカーテンの奥から急須と茶碗を盆に乗せ、戻ってくると、既にテーブルの上にファイルが置いてあった。よく見かける透明の紙挟みのようなものだ。
 茶碗にお茶を入れようとしたとき、音羽はファイルを少し移動させた。
「どうぞ」
「うむ」
 音羽はファイルに手をかけながら、茶碗を掴もうとしたが、こぼした。熱かったのだろう。
「失礼」
「いえいえ」
「沸騰させた湯じゃ駄目なんだ。お茶はもう少し低い温度でないとね。八十度でもまだ熱い。七十度ぐらいが好ましいよ」
「はい慣れないもので」
 音羽は指を立て、爪で茶碗を掴むようにして口まで運んだ。
「いいねえ、香りもあるし、渋い。だが少し苦い、妙味だね」
 古いのだ。
「ああ、さて、これだが」
 音羽はファイルを田中に差し出した。
「はい、確かに受け取りました」
「じゃ、私は失礼するよ。よろしく頼むと音羽が言っていたことを伝えてくれ」
「はい、了解しました」
 音羽が立ち上がったので、田中は下まで見送ろうとしたが、いや、目立つからいいと、音羽は手で制した。
 雑居ビルの横に折りたたみ自転車が止めてある。安っぽいものだ。音羽がそれに乗ろうとしたとき、田中が走ってきた。
 どうしたんだ、というような顔で音羽は周囲を見渡しながら田中を見た。
 田中の手に音羽の鞄があった。
「ああ、有り難う。うっかりしていた」
「じゃ」
「うむ」
 音羽は少し先にある高級車から降りた場所へ戻った。
 しばらくすると、高級車がやってきて、運転手が自転車を畳み、トランクに入れた。
 第三分室。田中の初仕事は、これだった。
 
   了




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2020年06月05日

3772話 第三分室の男

第三分室の男
 カチンカチンと音がする。小さな音。隣の部屋から聞こえてくるのだろうか。雑居ビルの五階。壁が薄いのかもしれない。音は意外なところから来る場合もある。カチンカチンと小さな音で、耳障りにはならないが、その音ばかりを聞いていると、徐々に大きくなる。
 カチンカチンは一定のリズムがあり、時を刻む時計のよう。だから人が鳴らしているのではないのかもしれない。もしそうだとすると凄い集中力を長時間必要だ。
 オフィスが静かなので、そんな音を拾うのだろう。ちなみに両隣は無人。田中は何か音楽でも流そうとしたが、会社なので、そんなものはない。持ち込んでも分からないのだが、スマホがあれば必要ないだろう。
 本室には一度も行ったことはない。面接は喫茶店だった。しかも風通しのいいファスト系。入社式もなく、いきなり歓楽街の端にある雑居ビルへの出社。それが第三分室。前任者と交代し、一人勤務。しかし、その仕事のほとんどは待機。
 仕事がやりたくてたまらないような人間ではないので、田中にとり、これは楽。できればこのまま一生待機だけの仕事を望んだりする。
 だが、牢に入っているようで、退屈する。それで、前任者が言っていた市場調査に出ることにした。これは結局は暇潰しの散歩らしい。
 待機だが、外出を禁じられているわけではない。ずっと詰めている必要はない。という規約あるわけではないが、休憩時間は外に出るだろうし、当然昼を食べに行く。
 本室からの連絡はスマホにも来るので、何処にいてもいいようなものだが、最初は分室の据え置き電話に来るらしい。いなければスマホになる。
 本室の手助け、助っ人要員として第一分室第二分室がある。そして田中が配属されている第三分室。
 何を助けるのかは分からないが、ほとんど本室だけで間に合うらしい。
 そして手助けとか、遊軍とかの説明を前任者から聞いたが、その前任者の老人は一度も駆り出されなかったらしい。だから、どんな仕事なのかは知らないとか。
 それで、その前任者、毎日市場調査に出ていたらしい。つまり長時間散歩だ。
 ということは長い間、前任者は勤務したが一度も呼び出しはなかったというのだから、市場調査が仕事になる。だから散歩で時間を稼ぐ。そのため、散歩能力が必要。如何に飽きないで、街中をウロウロできるか。そしてこれは散歩好きでないと務まらない仕事。
 この市場調査、待機中の仕事だが、命じられているわけではない。しかし日報を送らないといけないので、何か書かないと駄目。しかし、オフィス内でじっとしているだけでは何も書くことがない。だから市場調査レポートを日報に書くのが好ましい。前任者もそれをやっていた。そして前任者は日本茶のマニアで、それについても日報で書いていたらしい。ほんの数行だが、白紙よりもいい。
 そうなると、田中の日報は散歩日記になる。これは立派な市場調査で、見聞録。街の様子などを少し書けばいい。
 そして、今日も出社後、すぐに田中は市場調査に出た。
 こんな勤務でいいのだろうかと思いながら。
 
   了
 




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2020年06月04日

3771話 熱中が過ぎた後


 一つのことに熱中していて、それに飽き出すのはいつ頃だろうか。しばらくすると最初の熱は下がり出す。つまり熱中度は下がる。それが高かった最初の頃に比べ。
 これは熱中とか感動とか、驚きとか、興奮とか、凄さというのに慣れてくるためだろう。
 そういうときはより熱中度の高いものを探すことで、まだ引っ張れるのかもしれない。
 そして半ば飽きてきても、まだ半ば、完全に飽きていない。ここでやめないのは余地があるためだが、それよりも、それに代わる熱中できるようなものが他にない場合、やめると熱中するものがなくなる。そちらの方が淋しい。
 当然熱中するものが見付かる前に熱中していたものがある。それはきっと末期だったのだろう。だからバトンタッチした。
 というようなことを田中は恩師に話した。恩師とはもう現役で教えてもらっていない先生で、恩師も教える義務はなくなっている。中学時代の数学の先生に卒業してからも教えてもらえないだろう。
 その先生宅を訪ねることはできるが、もう数学から離れた会話になる。ただ、後は個人個人の問題で、数学についてもっと聞きたいとか、教えてもらいたいとか程度ならお金を払わなくても、教えてくれるだろう。
 その恩師に、その熱中について聞いてみた。数学の話ではない。
「熱を保つ。しかも高温を維持したまま。それじゃ身体を壊すでしょ。だから、熱は下がるようになっているのです」
「でも熱中できる方がいいのですが」
「どの程度の」
「感動とか、驚きとか、発見とか」
「うーむ。感動の維持は難しい。これは慣れる。驚きも、ずっと驚くほど馬鹿じゃないはず。発見も、ほぼ分かってしまうと、新たな発見など少ない」
「そうなんですが、何とかならないものでしょうか」
「そうですねえ。熱を下げた熱中に至るべきでしょう」
「それじゃ、熱中になりません」
「温度です。温度の問題。ある程度温度があれば、まだ熱中。つまり熱の中。その範囲内ということです」
「はあ」
「高熱より、平熱よりは少し熱のある微熱。これならいいと思いますよ。続けやすい」
「ぬるま湯のような」
「そうです。長く浸かってられます」
 流石恩師だけのことはあり、学生時代一番世話になった人で、田中との相性もよく、今も関係を保っているのだろう。この恩師、そういう教え子は田中だけのようだ。いつまでも懐いているのは。
 また、恩師はこうもいった。熱中とは熱中できる何かがあると。それはそれまでのことから来ていると。
 田中は、もう一つ、凄い言葉だとは思えなかったので、その意味を聞いた。
 すると、見出す力らしい。見出すには、見出すだけの何かがそれ以前になければ出てこないと。
 余計に分かりにくくなったので、後で考えることにした。
 そして、最後に感想を述べてくれた。
 ぬるま湯へ行きなさいと。
 田中はそれがどういうものなのかを考えた。
 この二つの指導から、ぬるま湯に何かを見出しなさいということだろうと、田中は結論を見出した。
 
   了





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2020年06月03日

3770話 一つだけぽつりと


 そのものだけがぽつりとあっても、あまり価値がないのかもしれない。値打ちが分からないというわけではないが、それ以上のものではない。
 ところが同じようなものが並んでいたり、下位のものや上位のものがあり、ランクづけされていると、少し様子が変わってくる。付加価値というか、価値を決めるものが備わってくるからだ。一つだけぽつりだと、それが分からない。類似するものを探しても遠すぎたりする。既に違うものに属していたり。
 他と比べて凄いとかの評判も大いに価値に貢献する。凄くないといわれているものよりも凄いといわれているものへ行く。その凄さの中身に同意できる場合は、迷う必要はない。ただ、意味が分からないままの凄さもある。しかし、評判のいいものはいいものだということで、これも価値に貢献する。そのものの価値は人が決めるのだが、その人が自分ではない場合もある。
 類似するものがあり、並んでいる場合、そのもの以上の値打ちが生じる。
 逆にそのものだけがぽつりとあった場合、そのままの値打ちで、これが一番素朴だろう。値打ちを付け加えるものがないので。
 そのぽつりと一つだけの存在と、多くのものがある中で評判の高いものとの違いは、ほとんどなかった場合でも、高評価という飾りが効いて、値打ちは数倍の差になっていたりする。しかし、ぽつりと一つだけなので、比べるものがないはずなので、この例はあり得ないが。
 客観的なことよりも主観的なことを聞きたいと思うことがある。これはデータではなく実際の気持ちだ。そのため、それは人それぞれ。しかし、それぞれなのだが同じような感想が多いと、共通する主観になる。いずれそれは客観に近いものになる。ただ、主観なので、別の思いを持つ人も当然いる。それが圧倒的に少ないと、例外のような扱いになる。主観なので、好き嫌いが入るためだろう。
 一つだけポツンとあるものは、そういう影響は受けないが、何か淋しい。やはり飾り言葉が欲しいところ。評判になっていないだけでも価値は低いと見なされることもある。
 誰かが見出した価値に便乗する。自分が見出したわけではないが、その機会がなければ見出す機会もない。そして人が見出した価値、分けてもらった価値、教えてもらった価値だが、それに共鳴したり、自分もその価値を見出せた場合、教えてくれた人以上の価値を見出せることもある。
 逆に価値なしと評価されたものに、もの凄い価値を見出すかもしれない。これは穴狙いだろう。まだ誰もそのものの価値を見出していない。
 自分が思っているようなことを、他の人も思っていると、何故かほっとする。
 そのものが、そのものだけでぽつりと一つあるというのは結構孤独だ。
 
   了





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2020年06月02日

3769話 空飛ぶ照る照る坊主


 夏のような暑い日が続く五月末。ある日、降り出した雨で気温が下がった。まだ梅雨には早いが、三日ほど降り止まない。五月雨、小雨、微雨。まとめて降れば一時間ほどで終わりそうなものだが、そうはいかない。別に小出しで降っているわけでもないので。
 田に水が入り出しているのは、この雨が誘い水になったためだろう。
 生田はそんな雨の降る日に影を見た。二階の窓から下を見ると道路の一部が見える。広い道ではない。しかし、その道脇に水田がある。その端が僅かに見える。
 夜、暗いのだが、住宅地は意外と明るい。外灯が多いためだろう。そのため、路面がよく見える。たまに車が通る前、ライトが濡れた路面を照らし、何とも言えないいい絵になる。光のマジックのように。テールランプの赤も効いている。ブレーキをかけたのだろう。その先に信号のない交差点がある。
 問題は影だ。生田が影を見るようになったのは、その路面が最初。
 何かが動いた。窓からの視野が狭いため、誰かが歩いていたのかもしれない。
 次の日も雨で、蒸し暑いので、カーテンを開け、風を通していた。田んぼが近いのだが蚊は最近いない。
 すると、また影が動いている。見ようによっては人型。
 翌朝は晴れていた。このまま梅雨に入るのではないかと思ったのだが、まだ早い。
 玄関のドアは半分磨りガラス。そこに影。
 その影はさっと消えた。最初に見たとき、動いていなかったように思われた。誰かが通ったとしても、影は映らない。玄関ドアから表の通りまで少し距離がある。すると、玄関前まで誰かが来ていたのだろうか。
 次に見たのは家の廊下。居間からトイレへ立つとき、影が走った。それほど早くはないが、歩くよりも速いだろう。すっと立ち去った。
 生田はこれには驚いた。家の中には生田しかいない。ペットもいない。
 その後も、その影を幾度も見た。
 そのうち影の形が徐々に分かりだした。人型だが首と胴体のくびれがある程度。だから照る照る坊主なのだ。
「照る照る坊主が出ましたか」
「はい博士。これは何でしょう」
「雨が降らないように出たのでしょ」
「そういうことではなく、そんなものがどうして出るのですか」
「それを何度も見られたと」
「はい。それで、こういった話に強い人に相談したくて」
「こういったとは、どういった」
「だから、おかしな話に」
「まあ、見たのだから仕方がありませんなあ」
「照る照る坊主という妖怪じゃありませんか」
 妖怪博士は辞典を頭の中で繰った。別に妖怪辞典を丸暗記しているわけではない。
「きっといたずら者が、その照る照る坊主の中に入り込んで、悪さをしておるのでしょう」
「照る照る坊主って、小さいですよ」
「それが飛んでおるのじゃろ。あれは足も手もないので、飛ぶしかなかろう。しかし首から下は全部マントかもしれんがな」
「しかし、室内にまで入り込んでいます」
「隙間から入り込んだのじゃ。開いてる窓もあったはず」
「風通しで、少し隙間を」
「じゃ、そこから入り込んだのであろう」
「博士、それよりも、照る照る坊主は飛ぶものですか。それに勝手に動きだす照る照る坊主なんていませんよ」
「そうじゃなあ」
 妖怪博士はやる気がないようで、眠そうな顔をしている。カンカン照りが続いていたのに、今度は雨が続き、気温がガクッと下がり、また昨日あたりから暑くなりだしたので、体調が悪いようだ。
 要領を得ないので、生田は帰ろうとした。
「魔除けの御札はいいのかな」
「結構です」
 客が帰ったので、妖怪博士は昼寝の続きをした。
 妖怪博士がやる気を失ったのは、作り話丸出しのためだろう。
 
   了





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2020年06月01日

3768話 第三分室


 レトロビルと言うほど古くはない。一種の雑居ビルだろう。入口に喫茶店があり、不動産屋がある。その間が玄関口で、数段の階段を上るとドアがある。坂田はそこを抜け、エラベーターで五階まで昇った。そこが一番高い。
 エレベータを降りると廊下が左右に続き、ドアが不規則な間隔である。
 ここはもう店舗ではなく、事務所のようなものだろうか。奥から二番目のドアを見ると、第三分室と、しっかりと書かれている。間違いない。ここだ。坂田の配属先。勤務先。つまり、ここが仕事場になる。
 ドアを開けると、年寄りが出てきた。細くて小さな人。髪の毛は耳の上と後頭部を残すのみだが、いやに髪の毛が黒く、つやつやしている。競馬ポマードでも塗っているのだろうか。
「坂田さんですね。私はもう退職しますので、あとはよろしくお願いします」
「はい」
「ここが第三分室なのですか?」
「そうです。聞かれたとは思いますが、分室は第一第二とあります。まあ、この第三分室は暇です。第三まで用が回ることは先ずありません」
「どんな用なのですか」
「当然仕事ですが、スタンスとしては遊軍です。だから第一第二と遊軍があります。まあ、本室の手伝いです。助っ人です。しかし第三まで回ってくることは先ずないので、詰めているだけでいいのです」
「はい」
「お茶でも入れましょうか」
「はい」
 老社員は奥のカーテンを開き、ガスに火を付けた。水道とガスが来ているのだ。一応トイレもある。風呂はないが。
 デスクがあり、それが大きい。六人ぐらいは座れるだろう。
 それが部屋の真ん中にある。
「緑茶でいいですね」
「はい」
 老社員はパック入りのお茶の葉を何種類か揃えているようで、いずれも安っぽいものだが最初から小袋に入っているので、楽なようだ。その中から緑茶を取り出し、湯が沸くより前に、そのパックを急須に入れた。
 キューンと甲高い音が鳴り、湯気が立った。茶瓶の口に笛が付いているのだろう。
 それをさっと急須に注ぎ、形の違う二つの湯飲み茶碗をお盆に乗せ、テーブルまでゆっくりと運んできた。
「自販機のお茶でもいいのですがね。この入れ立ての香りは、やはり無理です。お茶はね、鼻で飲むんです」
「あ、はい」
「えーと、引き継ぎですが、別にありません。鍵を渡すだけ。それと火の用心、出るとき、チェックしてください。窓のロックも」
「はい」
「それとこのファックス、もう使っていないので、捨ててもいいでしょ。これは本室に連絡してください。取りに来るでしょう。勝手に捨てられませんからね」
「はい」
「それぐらいです」
「どういう務めになるのでしょうか」
「待機です」
「待つわけですね」
「そうです」
「ずっとですか」
「そこはあなた、適当です。その間、市場調査に出ればいいのです」
「え、聞いていません。どんな」
「まあ、散歩のことです」
「ああ、はい」
 お茶を飲み終えると、老社員はロッカーから私物を出してきて、鞄や紙袋に詰め込んだ。
「あなたこれ、やります」
 CDかDVDのようなのを見せてくれた。
「ゲームですか」
「ここのパソコン遅いので、動きはギリギリですが、何とかまだ動きます」
「インストールしていないのですか」
「していますが、DVDを突き刺さないと起動しない仕掛けなんです」
「ああ、いいです。軽い目のウェブベースのオンライゲームをやりますので」
「あれは課金を使わないと、まともに進めませんよ。そのてん、このゲーム味わい深いよ。造りが丁寧だ。世界観がある。それに何度やっても飽きない」
「はいはい」
「じゃ、これで、引き上げます。これがキーです。これがスペア。じゃ」
「はい」
 これが坂田の出勤第一日目だった。
 第三分室。第二分室でも手が足りない仕事。滅多に来ないが、たまにこの第三分室にも声がかかる日があるとか。
 
   了 



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2020年05月31日

3767話 間を置く


 上手く行かないときは少し間を置けと武田は言われた。
 信号のない横断歩道。簡単には停まってくれないのは、停まりたくても後続車が気になるため。またそこで止まっても対向車線も停まってくれなければ人は渡れないだろう。しかし、待てばいずれ嘘のように車が来なくなり、簡単に渡れる。
 タイミングの問題で、時期の問題。難しいことでも少し待てば簡単にいくことがある。
「まだ待っておるのですか」
「はい、上手く行かないときは待てと言われたので」
「もう一年になる」
「はい、でも言われた通り、上手く行きそうになるまで待っています」
「少し」
「はい」
「少し待ちなさいと言っただけです。少し」
「少しでしたか」
「ずっとじゃないか、君は」
「はあ、でも少し待った程度では、なかなか頃合いがなく、上手く行きそうな気がしませんでしたから」
「じゃ、一年も待てば十分だろう」
「そうですね。忘れていました」
「待っていることを忘れたのかね」
「たまに思い出しますよ」
「間を開けすぎだ。そろそろやりなさい」
「はい」
 さて、そのそろそろだが、どのぐらいがそろそろだろう。今日明日にでもだと思える。
「始めましたか?」
「まだです」
「また、そういうことをやっておる。そろそろは過ぎた。すぐにやりなさい。即」
「はい、すぐにやります」
「よし」
「でも、すぐって、今ですか」
「そうだ。今すぐだ」
「何をするんでしたか」
「とぼけないで」
「あ、はい、色々とやっていないことがありまして、間を置いたのが沢山あります。どれでしたでしょうか」
「私が頼んだ件だ」
「えーと、それはもう一年前ですよ」
「そうだ」
「遅すぎます。今頃言われても」
「君が遅いんじゃないか」
「そうですねえ。じゃ今すぐやります」
「そうしてくれたまえ、いや、もういい」
「どうしてですか」
「やはりもう遅すぎて、間の抜けたことになる」
「そうですよ。今やっても間抜けですよ」
「抜かしたのは、君じゃないか」
「ああ、そうでした」
 
   了




posted by 川崎ゆきお at 13:53| 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする